母は心の中で生きてる

母が難病(原発性アミロイドーシス)と診断を受け、母の性格を考え告知せず、母の生との別れの後の家族の生活

3月22日(月)

2010年03月22日 22時51分04秒 | Weblog
万平町のお線香立てに行って来ました。
その前に、パパ側の墓地に、除草剤を撒きに行きました。
パパが土曜に行ってくれたのですが、夜勤明けで眠く、義母とはバトルしながら墓参りだったそうで、、、
(だから 私が午後行くって義母と約束してたのに、、、)

万平町で2時間くらい話しをしてましたが、
そこで 何と 曾おじいちゃんの話題。。。
曾おじいちゃんと言っても 私は見た事がありません
そりゃそうです、、、父自身も戦時中だったため、記憶は無く、成人してから一度逢っただけだそうです。
万平町の話しによると、NHKハイビジョン特集で取り上げて放送していたと言います。
いくら探してもその内容が分らないのですが、結構偉かった曾おじいちゃんですね。
検索したら《日中友好会会長》なんて書いてある!
ってか、その血筋、、どこで途切れたのかな
動画を探したけど、見つからず、、、。
何をしてくれたとか、そんなの個人的には無いけど、先祖が居なければ 当然今の私は存在しないから、
どんな事をしたのか、って文字だけでは無くて 動画で有れば 分りやすいよね。

とてもその時代では偉かったみたいだけど、、、、仕事的には凄く出来た人っぽいけど、決して家庭人では無く、、、
私にとって 祖母は 弥一郎の妻であり、万平町の叔父はまだ幼児、祖母は妊娠中(腹に父が居た)。
軍を率いて、食糧難だから、ミルクも無い、、、
祖母は《我が子にコップ一杯の牛乳で良いから貰えないか?》
と 言ったところ
祖父は《お前に渡す物は何も無い》と言ったそうだ。
確かに、物資だから 家族に別ける事は出来ないが、、、それも分らなくは無いが、ほんの少し、、いや言葉だけでも随分違ったのではないかな、、時代なのかなぁ~。
逢ってみたいとは思わない、だけど何をして、どんな時代背景だったのか、、、、きっと祖父も辛い決断を言放つしか方法が無かった、と言う確証が欲しいかな~。


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