田中眞紀子(シンガー・ソング・ライター)

ピアノの弾き語りで活躍する田中眞紀子のブログサイト。ホームページはブックマークから。

学芸大学の朝日、再び その2

2010-05-20 03:03:05 | Weblog
第2部は、ここのところサポートをさせて頂いている、尊敬するミュージシャン達の曲を私が歌わせてもらう試み。

やっと自分の、いつもの音環境になった解放感で身体は楽だったが、その作者が大方会場に顔を揃えているという別の緊張感で、妙な心理状態(笑)。
終わった直後は、全曲小ミスがあったのが気に入らないので、もう一度やりたいぞっ!と思ったが、日が経ってみると、とりあえずの満足感の中にある。
準備段階ではとても楽しかったし、どうやらお客様も楽しんでくれたみたいだし、うん、やって良かったかなと思う。歌うことを純粋に楽しんだ。

実は、1月のvol.2でキャロル・キングを歌った後も、同じ感覚だったのだ。大好きな、きっと永遠に大好きな曲達であるにもかかわらず、ライブを終えてみると、次に歌う必然性が妙に失われてしまう。直後はキャロル・キング‘タペストリーライブ、やるぞ~!’と思っていたのだけど。
自分の歌にはない感覚だ。
カバーというのは結局、その曲をいかに自分に引き寄せるか、その曲を通していかに田中眞紀子を`表出´させるか、になってくる。
オリジナルより、むしろ自意識全開になるが、表出、つまりライブで一度歌う事でほぼ内的欲求は満たされてしまうのだ。
次に必要なのは、歌い続ける必然性。小ミスが気に入らない、くらいでは、必然にならない。
内的欲求なくして歌うには、作者達がこれだけ身近にいれば直接的に失礼になるだろう。

歌って、受け手の中で完成すると思う。
普通は受け手の内側に収まって、その中で生きたり死んだりするのであるが、カバーとして歌うっていうのは、‘自分はこの曲をこんな風に捕らえている’という‘受け手の中の完成形’を、受け手によって打ち出すわけだ。
チバ君の日記を拝見したら、私がこの曲をどういう風に受け止めていたかが、どんぴしゃりで本人に伝わっていて、彼の採点は70点であったが(笑)、私からすると‘伝える’という項目に関しては100点だな~♪
まさに私は‘潰れた友達’が死んじゃいそうなイメージで捕らえていたし、死んじゃいそうに捕らえるのが、要するに田中眞紀子だってことなんですな。
以前、vol.1でホーミーの菊池が私の「死んじまいたい」を歌った時、聞いてくれた人から、「眞紀子さんが歌うとホントに死んじゃいそうに聞こえるけど、菊池が歌うとノロケにしか聞こえない」と言われたりした。
ちなみに、死んじゃうばっかりだが、私は生きる気満々ですよ~!(笑)
そうして、当時菊池は新婚ほやほや!(笑)
つまりは、そういうことが滲み出るんでしょう。
それが歌う事の怖さでもあり、面白さでもある。
チバ君の言うように‘そっと歌う’となると、チバ大三のイメージを私という媒体を通して打ち出すということになり、‘カバーする’とは少々異なる行為になるかな、私にとっては。
必然性のある機会が生まれたらやってみたいけど、私としてはチバ氏から100点をもらうのを目指すより、私のピアノでチバ氏に満点以上の歌を‘歌わせる’(偉そ~~!笑)方が、やりがいがあるかな!
怠雅の曲は、核爆発が起こって世界が滅亡した後の歌、という曲の成り立ちを聞いてしまったので、私の受けたイメージと怠雅から言われたイメージを足した感じで作ったが、今度は世界が滅亡~だけで練り直しても面白いかも。もっとSF感を打ち出してさ(笑)。
ホーミーの曲は、vol.1で歌ったのが身に染み着いてしまって、私独自のイメージを広げられなかったのが残念だな。これもライブの怖さ。1回ライブを通すと身に沁み込んでしまうのだ。だからこそ歌詞なしで歌うべきだったかと。
伴ちゃんには、、、言わない方がいいかな?(笑)この歌を歌うと、幸せになれます。

歌の準備をしながら、あぁ覚えて歌うべきだなぁ、と痛感していた。もっと歌の中に潜りこめるのに、と。歌と私を対峙させられるのに…
だから、プレイヤーとしての私としても、シンガーの私としても納得はいかないが、例えば、ライブの流れの中でどうしてもこの曲が欲しいとか、歌うことを乞われるとか、圧倒的必然が生まれた時に、今度は後悔のないよう、これらの歌に向かおうと今は思っている。

一方で。
自分にとっての圧倒的必然で歌う歌って、果たして`歌´なんだろうか、とも思う。
歌ってもっとナチュラルなものではないかと。そこに曲があり、それを私の声で一瞬、この世界の時間・空間に浮かびあがらせ、浮かび上がった瞬間、実態は消えるもの。そして残るものは聴く人の中に記憶として置かれるもの。歌とは、そういうものなのではないかと。
必然があって放つのは、歌ではなく`私´なのではないかと。
放ちたいのは、私の尖った内面なのではないかと。
そういった意味では、田中眞紀子はまだもう少し、尖っていたいんだな。
その感覚が良い意味で薄れた頃、`歌´を歌う私が出来上がってくるんじゃないかと。
歌う事が大好きな私は、きっと消えないだろうからね。
その自然な移行を待とうかと思う。

とにかく、‘歌う’についてこれだけ、あーでもないこーでもないと考える事が出来たから、やっぱ有意義な試みだったようだ。


まだ続く。
まだ眠いの。。