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【書評】これからの「正義」の話をしよう / マイケル・サンデル

2010年12月18日 | 読書
もう半月ほど今年も残っているが、間違いなく、今年、2010年に読んだ本の中でNo.1といっていいのが、マイケル・サンデルの「これからの『正義』の話をしよう」だ。硬質で、さすがに疲れている時は全然頭に入らなかったりしたのだけど、間違いなく僕らの価値観に揺さぶりをかける。1人を殺せば5人が助かる状況があったとしたら、あなたはその1人を殺すべきか?――その問いに答えることは簡単ではない。


これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学 / マイケル・サンデル


この著書とあわせて、同様に「自由主義」について解説を行っている「自由主義の再検討 (岩波新書) / 藤原 保信」をあわせて読む。こちらは対社会主義との関係についても語られているが、新書ということもあってコンパクトにまとまっていて、「これからの『正義』の話をしよう」の補完としてちょうどいい。その上で、簡単にまとめておきたい。

【要約】

2004年夏、メキシコ湾で発生したハリケーン・チャーリーは22人の命を奪い、120億ドルの被害をもたらした。その直後、被災地であるオークランドのガソリンスタンドでは1袋2ドルの氷が10ドルで売られ、通常250ドルの家庭用発電機は2000ドルの値札がつけられた。当然、これは人の弱みにつけこんだ「便乗」値上げだとして批判が起こる。しかし一方で価格とは需要と供給によって決まるものであり、法外な価格も必要な商品の増産を促すインセンティブになるのだから自由市場への干渉は行うべきではないという意見もある。果してどうすることが正しいのだろうか。

こうした「正義」に関わる問題には3つの理念を中心に展開される。「幸福最大化」「自由の尊重」「美徳の促進」だ。

自由な市場を尊重する考え方は「幸福の最大化」と「自由の尊重」という2つの異なる理念から擁護される。


■最大幸福原理(功利主義)

イギリスの道徳哲学者であり法制度改革者のジェレミー・ベンサムは「自然権」を批判し、功利主義の原理を確立した。それは苦痛に対する快楽の割合、つまり「効用」を最大化するというもの。仮に法律や政策を決定するに当たり、政府は共同体全体の幸福を最大化するためにあらゆる手段を講ずるべきだとする。

そしてそのためには「個人の権利」は必ずしも優先されない。満足の総和だけが問われ、個人の選好というのは総和の一部でしかなく、品位や敬意といった基本的な規範のようなものが侵害されたとしてもそれが幸福の最大化であれば許されることとなる。

例えば、テロの容疑者を捕らえたとしよう。その日のうちに爆発する核爆弾の情報をその男が持っていると確信している。しかしその男は容疑を認めない。果してその男に拷問を実施し、その爆弾の場所を吐かせることは正しいのだろうか。

功利主義者であればこう考えるだろう。その容疑者に拷問を与えることはその男の幸福や効用を著しく低下させる。しかし爆発によって多くの人々の苦しみや死を防げるのならば(多くの効用を維持できるのであれば)その拷問は正当化される、と。

また功利主義では幸福を「計測」し「合計」し「計算」する。人の好みに対しての「評価」は行わず、あくまで「効用」という1つの尺度で計測する。そのため道徳の科学を提供することになる。しかし仮に「道徳的に」問題があっても人に効用を与えるというだけで是とすることは正しいのだろうか。古代ローマでは、コロセウムにおいてキリスト教徒をライオンに投げ与え、庶民の娯楽としていた。キリスト教徒の苦痛よりローマ人の多くの満足が勝っていたからといって正当化されるものなのだろうか。


■リバタリアニズム(自由至上主義)

功利主義とは別に「個人の自由」という立場から自由主義を擁護する意見がある。それがリバタリアニズムだ。リバタリアンたちは、経済効率の名の下にではなく、人間の自由の名において、制約のない市場を支持し政府の規制に反対する。彼らはどのような人間も自由への基本的な権利を有するとする。

彼らは、契約を履行させ、私有財産を保証し、平和を維持する「最小国家」のみが正当化されるとする。そのため近代国家が制定している以下の政策に対しても反対する。

1)パターナリズム(父親的温情主義)の拒否

ヘルメットの着用義務など自傷的行為を行う者を保護する法律に反対する

2)道徳的法律の拒否

同意の上での売春を禁じたり、ゲイやレズビアンが性的パートナーを選ぶ権利を取り上げたりする法律に反対する。

3)所得や富の再分配の拒否

富の再分配のための課税を含め、いかなるものであろうと他人を助けるためにある人々に要求する法律に反対する。

彼らリバタリアンの原点にあるのは「自己所有権」という概念である。私が私を所有しているのであれば、私の労働も所有しているのであり、その労働の成果についても権利がなければならない。マイケル・ジョーダンに高い年棒が支払われたのは、「彼」のプレーを見たいとして入場料を支払う人々が多くいたからである。それが高すぎるとして他のプレーヤーへの分配を求めたり、高い課税を求めたりすることは「個人の権利」の侵害にあたる。


自由市場の擁護論は大きく2つに分けられる。1つが「自由」を重視する立場でこれはリバタリアンによって支持される。もう1つが「福祉」を重視する立場で「功利主義」者によって支持される。リバタリアンたちは人々の「自発的な取引」は自由市場によって促進されるとし、功利主義者たちは自由市場は「全体」の幸福を促進するという。果たして自由市場は本当に公平なのだろうか。お金で買えないもの、買ってはいけないものはないのだろうか。

例えば「代理出産」の問題を考えてみよう。リバタリアンであれば両者が同意の下であれば「代理出産」という取引は尊重されるべきだと考えるだろう。功利主義者であれば、との取引の結果、依頼する側にも依頼される側にも幸福が増加するのであれば認めるべきだというだろう。しかしその一方で、代理出産契約は、子供や女性の生殖能力を商品のように扱うことによって貶めるものだという批判も存在する。

自由市場でわれわれが行う選択というのはどこまで自由なのか。市場では評価されなくても、お金では買えない美徳やより敬意と尊厳をもって見なされるべきものは存在しないのだろうか。

■イマヌエル・カント

イマヌエル・カントは義務と権利について全く異なる見方を提示している。カントは3つの理念(「幸福」「自由」「美徳」)のうち、功利主義者による「最大幸福」のアプローチと「美徳の奨励」というアプローチを認めていない。それらはどちらも人間の自由を尊重していないからだ。

しかしカントの言う「自由」とはリバタリアンたちの「自由」とは異なる。彼によれば、動物と同じように快楽を求め、苦痛を避けようとしてる人間は真の意味で「自由」ではない。それは生理的欲求の奴隷として働いているだけだ。

カントが考える自由とは、目的そのものを目的そのもののために自律的に選択すること、意思を自律的に決定している時のみだ。人間は、感覚がもたらす快楽や苦痛に支配される感性的な存在であると同時に合理的に推論できる理性的な存在でもある。理性が自身の意思を決めるならばその意志は自然や傾向性の命令にとらわれずに選択できるはずだ。

それは功利主義者のように、理性を特定の目的追及の{「手段」として捉えるものとは違う。あくまでア・プリオリに自らの行動を定める純粋実践理性であり、そうできることのみが「自由」なのだとする。この純粋実践理性の働きをカントは2つの定言命法で定式化している。

1つは「自分の格律を普遍化する」というもの(普遍的法則)。これは万人に当てはめても矛盾が生じないような原則にのみ従うというもの。そしてもう1つが「人格を究極目的として扱う」ことだ。人格はモノとは違い、相対的な価値だけでなく絶対的な価値をもつ。理性的な存在には尊厳があるのだ。

カントは「功利主義」を認めない。カントはカントの言うところの「個人の自由」こそを尊重しており、それは社会の「効用」の最大化とは何ら関係がない。「効用」は正義と権利の基盤にはならないからだ。また道徳的に行動するということは、定言命法に従って行動することであり、その時にこそカントのいう「自由」が成立する。カントにとっては、自律的に行動することこそが尊重されるのだ。

■ジョン・ロールズ

ジョン・ロールズは「無知のベール」という考え方で社会契約の原理を説明した。これは人々が「無知のベール」をかぶり階級や性別などから離れ、実質的に「平等」な状態になったとき、人々は二種類の正義の原則を導き出すというもの。その第1原理は、基本的自由を全ての人に平等に与えるというもの。この原理は社会的効用や全体の幸福より優先される。

第2原理は、社会的・経済的平等に関わるもの。所得や富の公正な分配をもとめつつ、社会でもっとも不遇な立場にある人々の利益になるような不平等は認めるとする(格差原理)。

ロールズは第1原理(基本的自由を平等に与える)は全体の幸福を最大化しようとする功利主義よりも優先されるとする。しかしそれはリバタリアンの議論と同一ではない。自由市場では富と所得の「公正な」分配を実現するが、それは才能を伸ばす機会が全ての人に平等に与えられていることが前提となる。しかし現実には、出自や環境の違いといった恣意的な要因や、あるいは生まれもった才能のように偶然性よって「機会の平等」など存在しない。

そのためにロールズは「格差原理」に基づく是正措置を認めるとする。そしてその背景にあるのは「平等主義」だ。

この「格差原理」の背景にあるのは、個人に分配された天賦の才を全体の資産として見なし、それらの才能が生み出した利益を分かち合うことに関する同意だ。


■アリストテレス

アリストテレスの観念を理解するためには2つの考え方を理解しなければならない。

1 正義は目的に関わる。正しさを定義するには問題となる社会的営みの「目的因(テロス)」を知らなければならない。
2 正義は名誉に関わる。ある営みの目的因について考えることは、少なくとも部分的には、その営みが賞賛し報いを与える美徳とは何かを考え、論じることである。

現在の正義論というのは、公正さや正しさに関する問いを「名誉」や「徳」、「道徳的真価」の議論から切り離そうとする。しかしアリストテレスは正義がそのように中立であるとは考えない。アリストテレスにとって正義とは、1人ひとりにふさわしいものを与えることを意味する。

これは目的論的な論法だといえる。つまり楽器の目的が優れた音楽を生み出すことにある以上、最も優れた奏者に最も優れた楽器を与えることが最も美しい音楽を奏でると考えるのだ。正しい分配を考えるためには、分配されるものの目的(テロス)を考える必要がある。

同様にアリストテレスが「分配の正義」や「政治」について考える時、それは「所得・富・機会の分配」を意味しない。彼は政治の目的を「善き市民を育成し、善き人格を養成すること」だと考えた。そのためには1人に一票というように政治的権利を「平等」に配分するのではなく、「共通善」について考えうる市民としてもっとも優れた人たちが政治的に最大の評価をうけ、最大の影響力は発揮するに値するとした。

アリストテレスの考える「共通善」とは、功利主義者がいうところの快楽主義的な意味での「最大多数の最大幸福」とは違う。アリストテレスにとっては、道徳哲学が先行しているのであり、「快楽」にも適正なものと克服されるべきものとがある。幸福とは心の状態(快/不快)ではなく、人間のあり方であり、「美徳に一致する魂の活動」なのだ。

またカントからロールズに至るまでのリベラル派の正義論では、目的論的構想とは相性が悪く、自由を「選択」の問題と考える。どのような社会的役割を担うかは本人の「自由」であって適性によって強制されるべきではないからだ。しかしアリストテレスの考えでは、正義とは「適正」の問題であり、社会制度の目的を探り、1人ひとり本性が活かせるような適正な役割を与えることである。ふさわしい役割を与えるということは、その人が値する地位や名誉、その人の本性に適した社会的役割を与えることでもある。


■コミュニタリズム

1980年代になると、リベラル派の主張にあるような自由に選択できる「負荷なき自己」という理想に対し、異議を唱える者があらわれた。それが「コミュニタリアン」だ。その1人、マッキンタイアは「我々は皆、特定の社会的アイデンティティの担い手として自分の置かれた状況に対処する」物語的存在だとして、コミュニティから独立した「個人」の存在を否定する。

独自の「人格」とは、ある家族、国家、民族の一員、歴史の担い手、共和国の国民としての自分ということであり、道徳性や正義について、それらを度外視してもいい偶発的な事柄ではない。我々にはコミュニティの、その歴史についての責務を背負った存在である、と。

カントとロールズにとっては「正しさ」は「善」に優先する。正義について考えることは、特定の目的・愛着・善の構想とは中立でなくてはならないからだ。アリストテレスのような特定の「善」を優先することは許されないと。

しかし道徳的行為の物語的な考えの方が説得力があるとすれば、アリストテレスの正義の考え方は再考する価値があるかもしれない。私の「善」について考えるには、私のアイデンティティの結びついたコミュニティの「善」について考える必要があるとすれば「中立性」を求めるのは間違いかもしれないからだ。

現代の政治的議論の大半は「福利」と「自由」を中心に回っている。つまり「経済的生産性の向上」と「人権の尊重」の問題だ。しかし「共通善」に基づく政治、効用だけではなく重要な社会的慣行の維持や不平等の是正、道徳に関与する政治というのも必要なのだ。それは公正な社会の実現をより確実にする基盤でもあるのだ。

【感想】

久しぶりにこうした正義論・倫理学の本を読んだのだけれど、この時代にこの本のもつ価値は高い。僕が卒論を書いた当時は、細川内閣による自民党一党支配が終焉をむかえた後であり、新保守主義の矛盾などもあきらかになった後であったとはいえ、それでも新保守政党は「自由主義」を前提にしていたと思う。

そういう意味では、伝統的保守主義が持つ「村社会」的正義論よりも政治的市民社会に必要なカント・ロールズ的自由主義への期待が大きかったのだろう。

しかしアメリカではオバマ政権が誕生し、日本でも民主党による政権交代が実現したように、既存の政治体制では様々な社会問題を克服できないことがあきらかになった。それは単純に「政権交代」というよりも、これまでの社会のもつ価値観や制度では対処できないほどの「矛盾」を社会が孕んでしまったということ以外の何物でもないのだろう。

正直、今の日本の様子を見れば、自立した個人による自由主義が適切な社会を導くとは思えない。そもそもの「共通善」あるいは社会に必要とする「倫理」「価値観」の醸成から必要なのではないかと思えてしまうのだ。それはコミュニタリアンの求めている「コミュニティ」としての倫理・道徳・背負わなければならない責任といったものと同じものを意味しているのだろう。

この本は、今だからこそ、読まねばならないものなのだ。そして何が正しいのかを考え続けていくしかないのだろう。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学 / マイケル・サンデル


自由主義の再検討 (岩波新書) / 藤原 保信

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2 コメント

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Unknown (lhflux)
2011-01-16 20:09:14
はじめまして lhfluxと申します。

私も本書を読んだのですが、カントの思想の欠点と、著者のサンデル氏が、カントよりもコミュニタリズムの方がよいという理由がよくわかりませんでした。

よかっら、そのあたりをわかりやすく教えていただけるとうれしいです。
Unknown (beer)
2011-01-18 00:41:00
サンデラは「共通善」を重視しているということが大前提としてあると思います。

これに対してカントが唱えたのは、理性によって自律的に行動すること(≒カントのいう「自由」)。理性による「自由」な選択の結果、そこに皆が同じ価値を見出すかもしれないですが、これはあくまで「結果」であって、大事なのは「個人の自由」です。

サンデラはここに「個人の自由」以上に「共通善」を説く政治の必要性を感じているのではないでしょうか。

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