池やん!まいど!おおきに!ごきげんどぅ!

仕事・今までの人生
このごろ悩みが多くて困ります。
周りの多くの人に救われているのを
実感する今日この頃。

這いつくばって仕事していると、味方が現れる。

2012年06月22日 | 好きな日常
今日は良く降った雨もあがりさわやかな風と陽射しある爽快な日である。

午後より、ひとたび雨が降れば水浸しになりなかなか排水されない畑の
改良を図るべく、畑の高低差を測量した。

どうしても水が畑から抜けなくていつも同じ作業ばかり格闘をしていたのでは
ダメだと思い相談してみると測量をしてみて作戦を練ってから行動を変えてたら?
と、アドバイスをいただいたので即実行に移してみた。

ここにも、私の這いつくばる姿に協力者が現れてくれた。

現地は圃場整備する前に谷の部分であった所を埋め立てて
田畑を造成したようで、私の畑の直近の山の斜面からは湧水が出ている。



先人が、湧水の有るところを補強するつもりで石を積んだのであろうかと
思われるが近寄ってみると相当な水量が湧き出ている。
この山の斜面を登り詰めた向こう側の谷には、
この圃場整備された地区の田畑を灌漑する為の池が有る。
この池も山向こうの谷を堰き止めて作られている。
どうもその池のそこから水脈を伝って湧き出ているようにも
感じるのであるが・・・・・・。



基準点を定めて高低差を調べる測量を開始することにした。





細かく畑内の色々な地点の高低の測量数値をいただいて排水の向上に向けての
対策の基礎とすることができそうである。



詳しく測量を行った結果、
昔、この畑の有る地域での圃場整備の手抜き工事が露見する結果になった。
ひどいものだ!(怒)

その時の業者は畑の整備事業を初めて行う業者であったと聞いた。
道沿いの場所故に通るたびに後ろめたさは感じないのであろうか?

推測が当たっているとは言えないが下記に記す今の排水性能の悪い畑に至った
理由は正論であり当たっているはずだ。

①先ず、一番最初に作られた配水管の位置がありえないほど深く低い位置に有る。
 耕作土の地表面から800ミリメートル下。
②先日のブログでも記したが明渠については勾配が確保されている。
③用水の入水側が低い。
本来田畑は緩やかな勾配用水の入水側から排水側に緩やかな勾配が
つけられているものである。←これは常識。

しかし、この畑は違う。

したがつて、次のような推測ができる。
この畑の位置的条件→この区画は9面の田の他の田で囲まれた位置である。
          即ち真ん中。
①圃場整備の行程として圃場整備の計画通りに畦を築いた。
②畦地を作った。
③新たに圃場に入れる土を作業性の面からここ(私の畑)に山積みにした。
④土を他の整備圃場に運び入れたのだが他の圃場を充当できる分の土が足らなくなった?
 或いは余ってしまったか?
⑤ここ(私の畑)一面に残った土を一面均等に広げた。
結果、計画し設計した耕作土面よりも高くなってしまった。
で、何食わぬ顔で工事は完了した。

手抜きとその時の監督者(施工側・施主側共に)が自分の圃場さえ大丈夫なら
良くて、他の圃場に関しては無責任であったと言えよう。
そして、今年の秋には、
原因解析がなされないまま経年による老朽化との名目で用水の整備工事が行われるようだ。
全く科学的根拠の無き行動に恐ろしささえ感じてしまう。

使われるのは税金である。

願わくば、しっかりした業者の選択と計画立案者である監督者を
厳重に監督しなければいけない。
監督者を監督する。馬鹿げているな。

関わらないでおく方が良策であろう。
しかし、自己利益誘導の匂いがはなはだしい。

どてらい男


昔、どてらい奴と言うテレビドラマがあった。
私の通う大阪市立明治小学校の校区は立売堀と言う鉄鋼機械関係の卸売商が
固まっている地域もその校区であった。
その中にこの物語のモデルとなった《山善》があったが今も有るのであろうか?
そのテレビドラマのDVDを探して、再度、見てみたいと思っているのであるが、
全く見当たる事が無い。けっこう長続きした商売根性モンの大阪舞台の立身出世の
ドラマであった。



最近になって実父の書棚から三冊の原作本を読んでみたことがある。
原則、自分に強く正直でないといけないと言う内容のものである。
色々とずる賢い商売人が出てくるので有るが、それはそれでそのずる賢さには
独特の商売道徳が存在し奥が深く引き込まれてしまう内容である。
駆け引きの大切さが良く分かる。
損を相手に納得させる手腕も一つの商の手法であり、
相手は得を感じているのであるが、実は損をしているという商売の事を
知る事が出来た内容の物語であった。

売り手側が買い手側に得したと言う気持ちにさせれば、例え本当は損をしていても
商売の道徳としては成り立つのである。

買い手は怒って買う人はいない。怒ってはいないのである。
怒りながら満足しているのだ。