maidoの”やたけた”(ブログ版)

ジジイの身辺雑記。今日も生きてまっせ!

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Today's maido (日記)を主に、新しい記事と併せて、OCNの旧maidoの”やたけた” 内の関連のある日付のToday's maidoや記事も此方へ再掲載しております。


☆☆☆ お薦め与太話 ☆☆☆
支離滅裂-迷想迷夢-地震対策の妄言 目次 をアップしました。(2015-01-18 )、OCNのHPにアップしたのは 2005/02/19 でした。

虚々実々-喜愛香港 目次 をアップしました。(2016-11-12)
虚々実々-心筋梗塞顛末記 目次 をアップしました。(2016-11-12)
支離滅裂-迷想迷夢-白姫伝説 目次 をアップしました。(2018-09-17)
支離滅裂-迷想迷夢-雨上がりの妄言2004-05-21 をアップしました。(2021-04-18)
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2007/01/27

2007-01-27 16:12:20 | Today's maido(日記)

今日は裏の伝統芸能館祭ですねん。
カミさんは12時から17時前まで喫茶コーナーの受け持ちやそうです。
となると、昼飯をどうするかやねぇ、そうや、安藤百福さんを偲んで百福亭(モモフクテイ)へラーメンを食べに行こう♪

自宅から池田まで片道ざっと8Km、往復で16Km、歩いて往き帰りしたら800Kcalは即始末できる。
それやったら少々高カロリーのラーメンでも「勝負したろやないか、掛かって来いや!」てなもんですやんか。
ついでというたら本末転倒かいな?安藤百福さんの弔問にも行かんとなぁ。

どのみち、夜明け前からラーメン博物館も百福亭も開いて無いやろうし、昼に照準を合わせて家を出ました。
まぁ何十年ぶりに石橋商店街を通りましたわ。
昔から通称「赤い橋」と呼ばれている箕面川橋も健在でした。

懐かしのタローパンは店を改装してえらいハイカラになってましたねぇ。
池田に野外活動の助っ人に来ている頃、よく此処のパンを差し入れしてもらってたんですよ。
焼け立てのパンのエエ匂いがしてたけれど、今買って半日もって歩くのも何やしパス。

駅の手前の石橋公園のトイレに寄り忘れたので、天神の市民文化会館横の公園へ寄り道。
171号西国街道を天神の歩道橋で横切って、後は適当に足任せ。
途中、池田の呉服(クレハ)と因縁深い、宇保(ウホ)町の猪名津彦神社にご挨拶によりました。

ラーメン博物館、玄関脇の社旗が半旗になってましたわ。
先ずは台灣の生んだ世紀の偉人を偲んで、記帳受付で謹んで記帳いたしました。
まぁしかし何です、儲け方といい散じ方といい、商売人の鑑ですなぁ。

以前写した写真が手ぶれしまくってたので、今日は再挑戦。
ストロボを使えば手ぶれは無いんですが、それではねぇ・・・。
チキンラーメン開発に使った器具などを写して来ましたが、さて結果はどうかいな?

よ~し、これでお参りはすんだ、百福亭へ一目散「もと味醤油、麺硬め」
ニンニクを一片ムギュと潰して入れまして、芥子高菜もドサッ、く~たまらんねぇ・・・。
食い気に走ってしもて、写真の写し方が非常に疎かですが、お目こぼしください。

お天気はエエし、お腹は膨れたし、少々の不都合は笑って許せるくらいの、実に穏やかな気分。
これで気は済んだ、そうそう池田といえば日本酒は「呉春」ですなぁ。
一本買うて帰るかな?と酒屋を覗いたら在ったねぇ、何8,000円?

一番安いランクの2,000円一寸のにするかなぁ、とも思ったんですが、今日のところはパスですわ。
一升瓶を買い込んでたら、トットと帰るんですが、荷物が軽いままなのでもう少し徘徊を続けることにしました。
そうや、此処まで来たからには呉服神社にも寄っておこう、とお参りして、境内で地図を広げてどうするか?。

「腹が減っては戦ができん。」とはよう言うたもんで、逆に「腹がいっぱいやと何でもできる気になる。」
地図を眺めて、酒粕のストックが無いのを思い出したんですわ。
酒粕と言えば伊丹の白雪、酒気がたっぷり残ってておからみたいに丸めてあるのが、300gr入り290円。

阪急伊丹駅からバスなり電車なりで帰る気ならば、距離的には折り返して自宅に帰るのとドッコイ、ドッコイ。
同じ道を帰るのは面白う無い、よし決めた!と呉服橋で猪名川を渡って川西市へ侵入ですわ。
橋を渡り終わった所にカラフルなマンホールがありましてね。

源氏発祥の多田が市域内にあるせいか、模様は竜胆(リンドウ)。
早速パチリ、ん?池田市のは写してなかったぞ・・・。
橋を戻って見回したら在るには在ったんですが、真中に市章が入った味も素っ気も無いのんしか見当たらんのです。
多分これは旧タイプで、探せばもう少しましなのが在るんでしょうが、まぁエエか。

再度橋を川西側に渡って国道176号を阪急川西能勢口駅近くの兵庫県道13号尼崎池田線の分岐までテクテク。
県道13号を南に折れて直ぐの栄根(サカネ)で、JR福知山線の下を潜る時丁度電車が走って来ました。
例の尼崎で脱線した電車と同じ形ですわ、あの電車も此処を通って行ったんやねぇ。

中山連山から流れてくる最明寺川を下加茂で渡って少し行くと、お~っ!イチヂク畑が有りました。
この間伊丹をウロウロしている時、昔は一面にイチヂク畑やった筈やのに、見当たらんかったんです。
イチヂク畑はこの辺りでは、もう無くなってしもたんやろか、と少々寂しゅうてね。

少し南の中国自動車道を潜った先。久代(クシロ)の付近にも広いイチヂク畑が幾つか残ってましたねぇ。
先日は久代(クシロ)の南の鋳物師(イモジ)辺りから西の鴻池の方へ行ったんで、目に付かんかったんですなぁ。
それにしても、古くから人が住んでいた所の地名は、読み方が難しいのが多いですなぁ。

今日は北村で国道171号(西国街道)を横切って北伊丹・北本町・宮ノ前を経て中央へ。
小西酒造でお目当ての酒粕を買って売店のおばちゃんに「酒粕てどのくらい保(モ)つのん?」と訊いたんです。
そら包装のポリ袋を一応は見た積もりやけど、賞味期限が書いてないように思えたんですわ。

「冷蔵庫に入れといたら何ヶ月でも大丈夫。冷凍したら何年でもいけますよ。」
へ~、そないに保つもんなんや!と改めて老眼鏡をかけて見ると「賞味期限07.5.15」と書いてあるがな・・・。
「御免、よう見たらココに書いて有ったわ。あんたを試したんちゃうよって、気ぃ悪せんといてや。」

「あぁ、それは冷蔵しての話しでしょ、この間一年以上の前のんを解凍してカス汁したけど美味しかったよ♪」
実にあっけらかんとアバウト、最近の賞味期限騒ぎは何処の世界のことかと思うねぇ。
さりとて、何時でも歩いて来られるんやし、結構嵩張るんで、広くも無い冷凍庫の場所を取るしなぁ。

「一年中値は一緒でも、寒の酒粕が美味しいねんで。」と一押しされて、呆気なく土俵を割りましてね。
ほぉ、そうかいな、ほんなら、とおばちゃんの雰囲気につられて、三袋も買ってしまいました。
酒蔵脇の小屋のおばちゃん、節度のある気さくさで味わいのある実に優秀な販売員でっせ。

しかしオカラとか酒粕てな絞り滓の食べ物が好き、というのは根っから貧乏性なんでしょうなぁ。
酒粕でディパックはズッシリ、一時間に一本しかないバスは出てしまって次は40分後、そこで帰りは電車ですわ。

阪急岡町に着いて、自宅裏でやってる伝統芸能館祭りへよったんです。
おやつ時で小腹も減ったし、カミさんが手伝っている喫茶コーナーでケーキセットでもと思いましてね。
丁度カミさんがいてたのはエエンですが、自治会、老人会等々のえらいさんが勢ぞろいでトグロを巻いてはりました。
ウッヘ~、これは長居は無用と、300円のケーキとコーヒーをそそくさと食べて、さっさと退散。

隣接の大石塚古墳と小石塚古墳の間にロウバイがあるんで、咲き加減を見に行ったら満開でした。
今年は早いのかいな?と思ったら、去年も1月29日にご近所のロウバイ巡りをしてましたわ。


陸奥宗光と大阪 (看板倒れです。)

2007-01-15 10:00:52 | 支離滅裂-妄言虚説

大層な外題をつけておりますが、とりとめも無いお話ですねん。
陸奥宗光については、既に数多くのサイトで詳しく取り上げられてるのは承知しております。
所縁の場所近くをしょっちゅうウロウロしてる宗光ファンのおっさんとしては、何とか我サイトにも登場してもらいとうてねぇ。

それもタイミング的には「なにわ百景-時滑り空間」に運上所跡をアップする前にしときたかったんです。
しかしながら、いくら半端記事でも「Today's maido」の1日分では収まり切らんやろうしね。
いっそ別立てでアップと思っても、新味のある記事を書くだけの知識も筆力も無いもんなぁ。

それに、私が子引孫引の継接(ツギハギ)で捏ね上げた、陸奥宗光一代記なんぞはお呼びや無いやろうしね。
どうしょうか、こうしょうか?と思いつつ延び延びになってたんです。
恥かしげも無く破茶目茶な文章を、せぇだい既にアップしてるのに、今更格好つけても始まらやんか、と気付きましてね。
思いつくままの無駄話で、どっちへ向いて行くやら判りませんが、そういう事情でございますすので一つお許しの程を。

さて、陸奥宗光は、その理詰めの論法の鋭さから「カミソリ」などと言われていたそうです。
確かに「蹇蹇録」を読むとその分析力の確かさ洞察眼の鋭さとには、ほとほと感心してしまいます。
日清戦争後の赤間関(下関)談判で、老獪な李鴻章を逃げ場無く追い詰めるあたりは、実に凄みがありますねぇ。

この時陸奥外務大臣、上司である総理大臣伊藤博文と二人で交渉に当たったのですが、どう見ても狂言回しは陸奥宗光。
その筋書きに沿って、見事に舞台で舞った伊藤博文はさすがですねぇ。
戦争と外交は同列に論じられないでしょうが、日露戦争での大山巌、兒玉源太郎も同じようなコンビといえるでしょうねぇ。

海援隊当時「武士を捨てて、ソロバンで生きてゆけるのは俺と陽之助(陸奥宗光)位のものか、」と竜馬がいったそうです。
尊王攘夷の風に乗って、悲憤慷慨している自分に酔っているような、単細胞の志士から見ればいかにも俗物に見えたでしょうねぇ。
しかし、思想や理念を吼え合っているだけでは、何時までも夢は夢のまんまで現実にならないものです。
夢を現実の物とするには、足元を固め、利害得失を測り、汚れ仕事をも敢えて実行出来る人間が必要なんですなぁ。

大言壮語することなく、後の日本の基礎を固める大きな仕事をした陸奥宗光が私は大好きなんですよ。
その仕事に対する姿勢は、村田蔵六(大村益次郎1824-1869)とも通じるところがあるように感じますねぇ。
村田蔵六は刺客により暗殺され、陸奥宗光は結核による病死と形は違えど、共に40代で亡くなってるんです。
両人とも、自分が果たすべき役割をまっとうする為に、他人の反感や自身の健康に頓着せず命を縮めた気がしますねぇ。

ま、八方美人では火急非常の仕事はこなせず、程度の悪い輩から恨みを買うことにビビッて居るようでは事が成せません。
特に辣腕であればあるほど、立場・主義を異にする連中からすれば、ある意味危険な猛獣のような存在です。
実務家というのは度量の広い保護者(猛獣使い)が居てこそ、存分に腕を振るえ命をまっとう出来るんですねぇ。
さもないと「敵國破 謀臣亡」、「狡兎死 走狗烹」と犬鍋にされてしまった人は多いでっせ・・・。

共産中国も周恩来という凄腕の謀臣が居ればこそ、建国できたと私は思っています。
毛沢東の思想(少々変形しましたが)を実現させ、尚且つ暴走を食い止めたのは彼の力が大きいと思うんです。
周恩来の凄みと強(シタタ)かさは二役を一人でやり通したという所なんですが、この話はいずれ別の機会に。

戦国期の武士は、勝つ為生き残る為には道徳や倫理はかなぐり捨てて、利に走り裏切りも辞せずという面があります。
いざとなれば、恃むは己の力と判断力のみ、彼我の状況を慎重に勘案した上で旗幟を明らかにしてますねぇ。
そうでなければ天下を窺うどころか、領地を守れなかったし、命が危なかったんですなぁ。

徳川にすれば、そういう野獣のような戦国型の武士が幅を利かせていたのでは物騒で仕方がない。
そこで己が取った天下を守るため創り出したのは、全く違う武士の概念と徳目。
自主性・独自性を極端に抑圧し、先例主義と硬直した大義・名分でがんじがらめにして、仕上げに諸法度で塗りこめてしもた。
この徳川武士の伝統を今に残しているのが、事なかれ主義の官僚役人、てな失礼な事をいうたらイカンねぇ。

徳川300年歴代の筋目の武士は凡そ戦士どころか、大多数が無駄飯食い寄生虫であった事は幕末の非常時にバレてしまいました。
武士から荒々しさ強(シタタ)かさを剥ぎ取った狙いは見事に当たって、300年の長期政権が実現したんですねぇ。
幕末に町の路地や畦道、草叢から這い出てきた町民農民出身の連中が多く活躍したのは、そのためかも知れません。

ところが止むを得ないとはいえ、町民農民出身の連中の多くが俄武士階級となったのが実に残念。
その為に明治維新は国民革命ではなく、武士階級のクーデーター的側面を持ってしまったんですねぇ。
結果、徳川幕府と維新政府が入れ替わっただけで、一般庶民は見物してただけといえば言い過ぎ?

だから、あの程度の戦ですんで良かったとも、天地返しが中途半端に終わったのが後に禍根を残したとも言えるでしょう。
禍根の一つは、無駄飯食いの寄生虫が巣食う構造の相当部分が今に引き継がれた事だと思いますなぁ。
天地返しが完全に行われていても、新たな無駄飯食いの寄生虫は発生すると言えば言えるんですがね。

粗っぽい言い方をすれば、実務は術(技術)であり、思想は道かいな?
術に凝り固まれば偏狭な職人馬鹿になりがち、道の精神諭に溺れると現実から遊離して神がかりになる。
術に軸足を置きつつ運用には思想を加味してあたる、といった平衡感覚を持っているのが実務の達人でしょうね。

何かの間違いで柄にもない権力・指揮権を無能な人間が握るととんでもない事になります。
自分の無能、無策を隠蔽し権威を守るために「精神諭」を持ち出し、それが無視されると凶暴になるんですなぁ。
こうなると「理」はとおらず、下手に道理を主張すれば無理から卑怯者・裏切り者扱いされかねん。

一般の会社でも無能な人間が似合わぬ地位に上ると、仕事が出来る部下は身が危くなるのが良く見られます。
手柄をちゃっかり横取りして失敗は押し付け、それを隠すためにマゴマゴすると詰め腹を切らされる。
立つ瀬が無いどころか、下手すりゃ身に覚えの無い事まで背負わされて放り出されてしまう。
おっと、何時の間にかえらい差し障りが出そうな話になってきたんで、少々方向を修正。

いかに武士道がどうこうと目玉を剥いて精神力を鍛えていても、ドングリほどの弾が当たると死んでしまうんですよ。
愛国心に燃えていようが、大和魂を極めていようが、B29を落とすのに竹槍で空を突いてたんではどもならんのです。
それを「精神力が足りんからや」と責めるのは無茶というもんですが、何やら道はそういう事を言いかねん。

名分や大義なんてなものは、生きていてこそ何ぼのもんですやんか。
精神力がものをいうのは、少なくとも同等の物質・技術を持った上での事ですよ。
「負けて悔い無し」なんてのは負け犬の遠吠え、負け惜しみの最たるもの。
冷徹に彼我の物量、技術力を比較検討し、勝てる方策を講じた上で勝負に出るのが実務家の真骨頂。

日清、日露までは辛うじて戦国武士的な戦のプロとしての、勝つ為の技が一部に伝承されてたようですね。
若しそういう常識が根付いておれば、決してその後の昭和軍国主義へ雪崩れ込んでいなかった筈です。
日本の不幸は、村田蔵六、陸奥宗光、兒玉源太郎というような実務家の系譜を失った事でしょうねぇ。
(ちと大きく出すぎたかな?)

失っただけでなく、実務派を理論(夢想)派と同じ形に祭り上げてしまったのは大きな間違いでしょう。
そのお陰で人格や思想面が強調され、問題解決の手法はそっち除けで伝承されずに終ってしまったんですねぇ。

坂本竜馬がもし維新後まで生きていれば、彼が目指した国際的実業の華を咲かせたに違い有りません。
しかし結局は、通商の真の重要性を理解できない馬鹿共に奸物の汚名を着せられ、命を落とした可能性が高いと思いますねぇ。
士農工商という四民身分制度がそういう馬鹿を育てたといえるでしょう。

商は戦を離れた士と違い、商(アキナ)いというせめぎ合いの中で戦いの倫理観を培っていたんですねぇ。
日常的に金が敵(カタキ)の切った張ったの修羅場にたっていると、志の無いものは生き残れない事が判ります。
利を追うだけでは単にさもしい守銭奴、一時的には力を得ても何れは奈落に転落する事は間違い無い。
商は将としての戦術戦略に通じる事に気付き、社会的に最下級に押し込めようとした、とは穿ち過ぎか?

おっとっと、又もや違う道に入り掛けましたわ、主役は陸奥宗光でしたなぁ。
陸奥宗光といえば、理詰めで功利的なHard negotiatorの面が強調され過ぎていると思うんですよ。
如何にも情に欠けた冷血漢のような印象をもたれているのは、ファンの一人としては真に心外。

さて、陸奥宗光(1847-1889)の話を再開すると、紀州藩の出で本名とされているのは伊達宗光。
思い切って端折りますが、海援隊当時の名乗は陸奥陽之助、維新後は陸奥宗光が多いようです。
最初の妻と死別した後、亮子夫人と大恋愛の末再婚、ラブレターを出しまくったんやそうです。

慶応4年5月1日に五代友厚(後の初代大阪税関長、初代大阪商工会議所会頭)と共に外国官判事に任官。
現大阪市西区富島に日本で初めて開設された、外務省と税関を一緒にしたような運上所の業務を、二人で担当したんですねぇ。
江戸時代の天下の台所大坂から近代日本の商都大阪への移り変わりに、陸奥宗光は大きな役割を果たしてるんですよ。

この陸奥宗光という人は、個人的にも大阪と非常に縁が深いんです。
一家の墓所も、第二次大戦後子孫が鎌倉に移すまでは夕陽ヶ丘に置かれていた程です。
これは、父親伊達宗廣が藤原家隆塚の近くに葬って欲しいと希望した事もあってなんでしょうがね。

最初の妻の墓標と愛娘を偲んで建立した清(サヤ)地蔵は今でも夕陽ヶ丘に有ります。
その愛娘清子が病床にある時期に、陸奥宗光は日清戦争終結の赤間関(下関)での交渉を行なっていたんですねぇ。
自分自身も病の為に何度か交渉の場に出る事が出来ず、文字通り命を削りながら国の大事にあたったといえます。

愛娘の死後わずか二年後に、赤間関談判中に悪化した病から癒えることなく、後を追うように亡くなっています。
そして大阪の町を見霽(ミハル)かす夕陽ヶ丘の清地蔵の傍に父、先妻、愛娘と並んで葬られたんです。
そういう事情を知った上で「蹇蹇録」を読むと、公の前には私を省みなかった心情が胸を打ちますねぇ。

それにしても、ほんまにまとまりの無いお話になりましたなぁ。
我ながら此処まで長々とアッチコッチへのたくった挙句、無理やりに締めくくってアップしょうかという度胸は見事!
村田蔵六さんの方はもっと難物でしょうねぇ、どうしたもんでしょうなぁ・・・。

2007/01/15