やっぱり、わたくしがひとりでここに来るのは無茶だったでしょうか。
苗穂か、琴似か、メイドの誰かに一緒に来てもらうべきだったのかもしれません。
「揚げたての山賊焼、いかがですか!」
「伊那谷名物、ローメンの実演販売を実施中です!」
「すいません、ザザムシの瓶詰めちょうだい」
ここは萌留駅前にある、萌留市唯一のデパートです。
そこで「信州物産展」が開催されているとクラスメイトから聞きまして、来ているのですが……。
洋服売り場の落ち着いた雰囲気とは大違いな、催事場の雰囲気にたじろいでしまいます。人が多くて、エネルギッシュで……
ここはやはり、出直して来るべきでしょうか。苗穂と一緒に……
そう思って踵を返したとき、わたくしは見慣れた顔をエスカレータの降り口に見つけました。
人込みのなかでも分かる、背の高いシルエット。
「ゆうさま!」
わたくしは駆け寄って、思わず声をかけてしまいました。ひとつ年上の幼なじみの、ゆうさまに。
「雪! 珍しいところで会うな」
「ゆうさまこそ。今日はみさきさんたちは一緒じゃありませんの?」
「せたなにちょっと買物を頼まれただけなんだ。七味唐辛子と、辛味大根、あとワインだってさ」
「七味唐辛子、ですの?」
「長野の名物なんだってよ」
「ゆうさま、さすが博識ですわね」
「や、せたなに聞いた話だけどな。それより、雪こそ何でここへ? 祭は一緒じゃないのか?」
ゆうさまはいつものように優しい笑顔で、わたくしに訊ねてきます。
「今日はシュークリームを買いに来たんですの。祭ちゃんは、今日は道都まで試験を受けに行っていますのよ。疲れて帰って来ると思うので、ごほうびにシュークリームを買って、待っていてあげたら喜ぶと思ったのですが……」
わたしは催事場を振り返り、言葉を切りました。
萌留じゅうのご婦人方が集まったような賑わいはまだ続き、揚げ物とお菓子と漬け物と、その他諸々が混じった匂いが離れた場所まで漂ってきます。
「……そうか、雪には入りづらいよな。言ってくれれば俺が代わりに買ってくるぞ」
ゆうさまはそれですべてを察し、言ってくださいました。
「ありがとうございます。けど、ゆうさまにすべてをお願いしたら、わたくしが祭ちゃんに買ってあげることにはなりませんから……」
「じゃあ、一緒に行くか。僣越ながら、エスコートさせていただきますよ、雪お嬢様」
ゆうさまが、いたずらっぽく笑います。
「お願いします、ゆうさま。ふふっ、ゆうさまって、まるでヒーローみたいですね。わたくしのピンチに颯爽と駆けつけてくれて」
「馬鹿なこと言ってないで、行くぞ。催事場は戦場だ! くれぐれもはぐれるなよ! シュークリームを手にするまでは、帰れないと思え!」
ゆうさまはわたくしに照れた顔を読み取られないように、会場へと顔を向けて、言いました。
「イエッサーです、ゆうさま」
わたくしはそんなゆうさまに微笑んで頷くと、はぐれないようにゆうさまのシャツの裾を少しだけ掴んで、ごったがえす会場に向かったのでした。
「あー、疲れた疲れた」
「ありがとうございます、ゆうさま。おかげでシュークリーム、買えました」
買い物が終わり、わたくしとゆうさまは、人込みから逃げるようにデパートの屋上に向かいました。
夏はビヤガーデンになりますが、この時期はベンチと自動販売機があるだけの殺風景な屋上。手すりの上で、カモメが羽を休めています。
「七味も大根もワインも買えたしな。ついでにジャムも買ってしまった」
ゆうさまは、わたくしが開けるのに苦労していた、ペットボトルのお茶のキャップを代わりに開けてくださいます。
「ゆうさまの分もシュークリーム、余計に買ってきましたから。ここで、召し上がりませんか? ここのシュークリーム、玉子の味がしっかりしていてとても美味しいんですのよ」
わたくしはそう言って、お店で別に包んでもらった袋を、ゆうさまに差し出しました。
「悪いな。……ふぅん、軽井沢の店なのか。さすがお嬢様、シュークリームもわざわざ軽井沢のものを食べるんだな」
ゆうさまはシュークリームを見て、呟かれます。
「いえ、そんな訳ではないんですけど。このお店のシュークリームには、ちょっとした想い出があるんですの」
「想い出?」
ゆうさまは袋を開ける手を止めて、わたくしを見ました。わたくしはその視線を横顔に受けながら、続きを話します。
「幼いころ、夏休みに家族で軽井沢の別荘に行ったことがありますの」
「そういや何度か行ってたな、子供の頃。北海道から軽井沢に避暑に行くなんて、お嬢様方は不思議なことをするもんだと、子供心に思ってたもんだ」
「軽井沢は中央政財界の重鎮や文化人の方々、それに皇族も見えられる特別な避暑地ですから……」
「あー、なるほど。そこの『避暑地外交』に参加するのは、札幌家にとって必要なことってわけか」
さすがゆうさまは賢明でらっしゃいます。わたくしたちが信州に行った理由を、理解してくださいました。
「もっとも、小学校の高学年くらいからはお稽古ごととかも忙しくなって、軽井沢に行ったのは二、三度だけでしたけどね。あまり、子供にとって面白いところでもありませんでしたし」
「……だろうな」
萌留市内で一番高いデパートの屋上に、港からの潮風が流れてきます。それは、人込みに揉まれて火照った肌を心地よく冷ましてくれました。
「ですから、一度祭ちゃんと脱走したことがあるんです。表通りにあるシュークリーム屋さんまでの小さな脱走でしたけど、ふたりだけでお菓子を買いに行くのは初めてで、お父様にもお母様にも、苗穂にも琴似にも告げないで外出するのは初めてで……」
「雪と祭にとっては初めての『いけないこと』だったわけだ」
「はい。はじめての大冒険でした」
「そうして食べたシュークリームは、さぞかし旨かったんだろうな」
ゆうさまはそう言って、シュークリームの紙包みを開きました。
「はい。ですから、今でも想い出に残っていて、このお店が萌留に来ていると知って、思わず苗穂にも琴似にも告げないで出て来てしまいました」
「なるほど、想い出の味か」
ゆうさまは納得したようにそう言うと、大ぶりなシュークリームにかじりつきました。
「ん、さすが。旨いな。味が濃い」
ゆうさまは、納得したように頷きます。
「雪の分もあるんだろ? 食べなよ」
わたくしはゆうさまに促され、自分のシュークリームの包みを広げました。
紙包みの中で眠っていた、シュー皮の香ばしい薫りと、カスタードの甘い匂いが広がります。その懐かしい匂いに包まれながら、わたくしは少し戸惑います。
家でシュークリームを食べるときは、フォークとナイフを使うんですが、もちろんそんなものは、この屋上にはありません。
「……えーと」
わたくしは少し戸惑ったあとで、ゆうさまがこちらを見ていないのを確かめて、ゆうさまがしたのと同じように、シュークリームにかじりつきました。
「おいしいですわ」
外でシュークリームにかじりつくなんて、ひどく大胆ではしたないことをしているようで。そのシュークリームは、祭ちゃんと別荘を脱走したときと同じ、いけない味がしました。
「お、そっちのも旨そうだな」
いつの間にか、ゆうさまがわたくしの方を見ていて、笑顔を向けられます。ゆうさまがこっちを見ていないと思って食べたのに……。わたくしはちょっとどぎまぎしながら、
「こちらは胡麻シューですのよ。ゆうさまもひと口、如何ですか?」
ゆうさまに食べかけのシュークリームを差し出しました。
「お、おう」
今度はなぜか、ゆうさまがどぎまぎした顔をされて、
「…こういうことを素でやられるから怖いんだよな」
何か呟かれます。
でも、それは一瞬。
「ん、旨いな、こっちも。せたなたちにお土産に買って帰ろう」
ゆうさまは満面の笑みをわたくしに向けてくださって。
「ぜひ」
大好きなゆうさまを独り占めしてしまう、とても素敵なひととき。祭ちゃんがこのことを知ったら、きっと、すごくヤキモチを妬いちゃうでしょうね。
でも、そんな時間は長く続かなくて。
屋上から見下ろす萌留駅に、銀色の特急列車が弧を描くようにして入ってくるのが見えて、わたくしは本来の用事を思い出します。
「いけない。そろそろ、祭ちゃんが帰ってくる頃ですわ」
「そうか。雪が家で待ってないと、祭のやつ寂しがるんじゃないか?」
「絶対に、口ではそう言いませんけどね」
後ろ髪を引かれる気持ちで、わたくしは席を立ちます。
「想像できるよ。……なんて言ったらまた祭につっかかられるんだろうけど」
ゆうさまは苦笑いし、立ち上がって背伸びしました。
「送っていくか?」
「いえ、大丈夫です。タクシーで帰りますから」
「じゃ、下まで一緒に行くよ。シュークリーム、潰れないように気をつけろ」
「はい」
わたくしはゆうさまの言葉に頷き、シュークリームの箱を胸に抱きます。
「祭ちゃんの驚く顔を見るのが、今から楽しみですわ」
「その場にいられないのが、ちょっと残念だよ」
「ゆうさまもいらっしゃいますか?」
「遠慮しとく」
祭ちゃんのように、自分を律して、追い込んで、時には他人に誤解されても高みを目指すことはわたくしには出来なくて。
でも、そんな祭ちゃんが帰って来られる場所は、祭ちゃんがほんとうの祭ちゃんに戻る場所は、わたくしの傍しかないと思うから。
わたくしは祭ちゃんの喜ぶ顔を想像して、少し頬を緩めながら、タクシーに乗り込み、デパートでの小さな冒険を終えたのでした。
著者:びぜんや様