青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

代書人バートルビー

2019-07-25 08:07:35 | 日記
メルヴィル著『代書人バートルビー』には、ボルヘスによる序文と、表題作が収録されている。

本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の19巻目にあたる。私にとっては19冊目の“バベルの図書館“の作品である。

メルヴィルの代表作と言えば、大海を舞台にエイハブ船長の復讐を描く『白鯨』である。
ボルヘスは、“『白鯨』と『代書人バートルビー』の〈共通点と相違点〉を綿密に調べ上げるには、この短い序文では尽せない注意点を必要とするであろう”と述べられているが、個人的には相違点にはそれほど関心が無い。
一方で、大海を股に掛けたエイハブと、狭い弁護士事務所の中の更に衝立の内側から殆ど出てくることの無かったバートルビーとの間にどんな共通点があるのか、それには大変興味がある。
ボルヘスは彼らの共通点を“両主人公の狂気の沙汰と、その狂気が両主人公を取り囲んでいるすべての者に感染していく信じがたい状況にある”と指摘している。それから、“エイハブと代書人の気違いじみた執念は死に至るまで一瞬たりとも動揺することがない。これら二人の主人公は、彼らがそれぞれ別個の影を投げる存在であるにもかかわらず、彼らがそれぞれ別個の具体的な個性の輪郭をえがいているのにもかかわらず、同一の人物なのだ”とも。

恐らく、両主人公はメルヴィルの不運で貧しく孤独だった人生の代弁者であり、この世界に対する皮肉の体現者なのだろう。
とは言え、海上での冒険という熱狂的な非日常空間に身を置くエイハブと、小さな弁護士事務所という何一つ心躍るものの無い日常空間に身を置くバートルビーとでは、本人自身の持つ訳の分からない感染力においては後者の方がはるかに上だ。
そして、ホーソーンが語ったというメルヴィルの印象は、バートルビーから受ける印象に酷似している。

“彼の荷物はうんと使い古したバッグ一つに限られ、中身もズボンが一着、色もののシャツ一枚、それに一本は歯みがき用、もう一本は髪の毛用の二本のブラシだけだったが、いつもきちんとしていた。”

私は、このメルヴィルの飾り気のない姿を思い浮かべると何だが胸が痛くなってしまう。そして、その痛みは本作を読んでいる間ずっと付きまとっていたのだった。


バートルビーを雇うことになった弁護士のわたしは、この道三十年のベテランである。
事務所には、既に筆耕のターキー(七面鳥)とニパーズ(やっとこ)、それから、雑用係の少年ジンジャー・ナット(しょうが入りビスケット)の三人がいた。言うまでもなく、これらの呼び名は本名ではない。それぞれの個性をあだ名としている。バートルビーが登場するまでかなりのページ数があるが、それらの殆どがこの三人のエピソードに費やされている。物語の本筋には特に必要のない描写であるが、彼等の個性は物語に活き活きとした彩を添え、バートルビーの不活発で灰色な印象と好対照をなしている。
彼等三人は、個性の強さゆえに、愛すべき人物でありながら欠点も多い。そのために、四人目の事務員としてバートルビーを雇う運びとなったのだ。
わたしの出した広告に応じて、訪ねてきたバートルビーの印象は以下のものであった。

“生気に欠けるほど身だしなみがよく、哀れになるほど上品で、癒しがたいほど孤影悄然”

この男の登場した瞬間、物語はそれまで纏っていた色と音を失う。
が、すべて読み終えた今になっても、私は彼を拒絶しきれないのだ。それは、弁護士のわたしも同じ様子だった。
何処の町にもありそうなありふれた事務所に、ひっそりと現れた奇妙な人物。同じ言葉を話しながら、何一つ意思の疎通の出来ない異星人のような男。気が付けばわたしの事務所に根を張り、何をどうやっても排除することの出来なかった雑草のようにしぶとい男。彼はいったい何者だったのか。

バートルビーの第一印象は悪くなかった。
わたしはこんなにも際立って平静な様子の人物を迎え入れたら、ターキーの気まぐれな気質やニパーズの激しやすい気質に好影響を与えるかもしれないとさえ思った。
始めのうちバートルビーは、非凡な量の筆耕をこなした。手を休めることはなく、食事の時でさえ外出せず、昼夜を分かたず仕事に励んだ。単調で、退屈で、眠くなるような仕事を機械的にこなし続けていた。

ところが、平穏な日常は、バートルビーが「せずにすめばありがたいのですが」と言い出したところから狂い始める。
バートルビーは、彼独自の判断で頼まれた仕事を拒否するようになったのだ。それは、雇い主のわたしや先輩事務員たち相手に留まらず、時折事務所を訪れる顧客や同業者に対しても同じだった。あの事務所には奇妙な筆耕がいるという風聞と、事務所内の険悪な空気に頭を抱えたわたしは、バートルビーの身になって考え、何とか事態の改善を試みようとするのだが、すべてが空振りに終わってしまう。
事務所の奥の衝立から一歩も外に出ず、口を開けば「せずにすめばありがたいのですが」一辺倒のバートルビー。彼はひっそりとした地味な人物から、得体の知れない怪物のような様相を帯びるようになっていた。

バートルビーは、いつも平静で、丁寧な言葉で話し、身だしなみも良い紳士である。仕事をこなす能力もある。これらの点においては、身だしなみに問題があったり、気分にムラがあったりする先輩事務員たちより優秀であると言って良い。
だからこそ、彼の「せずにすめばありがたいのですが」には、毎度当惑させられる。
わたしは狼狽え、気味悪く感じながらも、彼を切り捨てる気にはなれない。何とか折り合いをつけようとするが、その度に「せずにすめばありがたいのですが」でブロックされてしまう。ターキーやニパーズなどは、嫌悪感をむき出しにしてバートルビーを排除しようとする。
が、わたしはいつの間にか自分達も「ありがたい」を口癖にしていることに気が付いて、愕然とする。気が付けば、わたしたちの日常は完全にバートルビーに侵食されていたのだ。彼に対して何一つ親しみを感じないどころか、意思の疎通さえ図れていないというのに。

もはや一緒に働くことは不可能と判断したわたしは、出来るだけ良い条件でバートルビーを解雇しようとする。
ところが、これも「せずにすめばありがたいのですが」で、拒否されてしまうのだ。それどころか、バートルビーがいつの間にか生活道具を持ち込んで事務所に住み込んでいたことを知ったわたしは、深刻な無力感に駆られ、自分達の方が引っ越すことを心に決める。なんせ、バートルビーに事務所で生活するのをやめるように勧告しても、例によって「せずにすめばありがたいのですが」と打ち返してくるだけなので。

“徐々にわたしは、代書人に関してわたしにふりかかったこれらの災難が、すべて悠久の過去から予定されていた運命で、バートルビーはわたしごときただの人間風情には計り知れぬ全治の神の不思議な何かの思し召しから、実はわたしのところに割り当てられたのだと、いつしか確信するようになった。いいよ、バートルビー、屏風のなかにそのままでいてくれ、わたしは思った。もううるさいことは言わないよ”

かくて、わたしは、バートルビーを置き去りにして、新しい部屋を借りて事務所を再開するのだが――。


わたしはバートルビーに対して、何度も怒りを爆発させそうになるが、その度に尻すぼみに終わってしまう。怒りを抑える努力をするまでもなく、思考の迷路に嵌り込み、無力感に支配されてしまうのだ。この、人の皮を被った無限の虚無の体現者に、逃げる以外にどんな対処をすれば良かったのだろう?
バートルビーは、死の瞬間まで「せずにすめばありがたいのですが」を曲げなかった。
誰からの共感も救済も受け入れずに「すめばありがたい」と言わんばかりの彼は、いったいどんな人生を送って来たのか。物語の最後には、そのヒントになるようなことが記されているが、私はそれを読んで余計に混乱してしまったのだった。

“ああ、バートルビーよ。ああ、人間とは。”
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