青い花

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菜根譚

2015-11-02 06:31:53 | 日記
洪自誠著・今井 宇三郎翻訳『菜根譚 (岩波文庫) 』

著者の洪自誠は明代末期、万暦年間(1572~1620)頃の人である。
明代は文化史的には出版の時代であった。木版印刷の技術は宋代に確立し、大量印刷は読者層を広げた。文献の形態は巻子本から冊子体へと変わった。巻物と異なり、冊子はどこからでも読むことが出来、全体の流れを無視した部分的な読書も可能になった。
そして明代には印刷・製本技術が一層の進歩を遂げ、書籍の流通が盛んになり、多様な階層の読者の要望に応えるような新たな本が次々と出版された。『菜根譚』もそうした時代に生まれた書物の一つだったのだ。
『菜根譚』原本には目次も章立ても無く、テーマによる分類もない。前集二百二十二条、後集百三十五条が改行だけで並べられている。一条一条の文章は明快簡潔な+-の対構造になっていて、すっと心に入ってくる。パラパラ捲って気が向いた条文に目を通すという冊子体ならではの読み方に向いているのだ。

「菜根」とは、宋の汪信民の〔人、常に菜根を咬み得ば、即ち百事做すべし(野菜の根は堅くて筋が多いけど、いつもそれを苦にせずよく咬んでいれば、何事も成し遂げられる)〕に由来している。
『菜根譚』は処世術の本であるが、立身出世の指南書ではない。ガツガツと今より上を求め続けるから、いつまでたっても心が満たされない。組織においても、家庭においても、ほどほどで満足するバランス感覚――禅宗で言うところの「足るを知る」ということを繰り返し伝えているのである。

〔衰颯的景象、就在盛満中、發生的機緘、即在零落内。故君子居安、宜操一心以慮患、処變、当堅百忍以圖成。(前周117)〕
(ものごとの衰えるきざしは、最も盛んで隆々たるときすぐにもう始まり、新しい芽生えのはたらきは、葉の落ち尽したとき早速に起きているのである。そこで君子たるものは、無事平安なときには、本心をかたく守り通して他日の患難に備えるべきであり、また異変に対処したときには、あらゆる忍耐をあくまでも成功することを図るべきである。)

物事が下り坂に向かう兆しは、最も盛んな時にもう始まっている。だから、今が絶好調だと思っている時こそ衰退への備えをしなければならない。しかし、いつがピークであるかを見極めることはなかなか難しい。ピークとは過ぎてから初めて「あの時だった」とわかるもので、渦中にある時は「まだまだ上に行ける」と思うのが普通だからだ。推察力とほどほどで満足する自制心が必要とされるのだろう。

〔進歩處、便思退歩、庶免触藩之禍。着手時、先圖放手、纔脱騎虎之危。(後集29)〕
(処世にあたっては、一歩踏み出すところで、そこで一歩退く算段をしておけば、雄羊が垣根に突っ込んで進退窮まる様な禍を免れるだろう。また、事業に当たっては、いざ着手するときに、まずその事業から手を引くときの工夫をしておけば、それでこそ騎虎の背に乗る様な危険を逃れられるであろう。)

一歩進むときには一歩退く算段をしておかねばならない。進むことしか考えていないようでは、行き詰まった時に手を引くことも出来ない様な逆境に陥ってしまう。始める前に幕引きまで計算しておくべきなのだ。

〔有浮雲富貴之風、而不必岩棲穴處。無膏肓泉石之癖、而常自酔酒耽詩。(後集17)〕
(富貴を浮雲のように頼みにならぬものとみなす高潔な気風を持ちながら、必ずしも深山幽谷に隠れ住まねばならぬとはしない。山水を愛好するのが不治の病というほどの癖は無いが、常に酒や詩に耽る風流心を解している。)

富や地位を雲のように頼みにならないものだとみなせと言いつも、世捨て人になってもいけないと諌めている。社会の中で人々と関わりを持ちながら幸せを得ることを目指しているのだ。

〔爵位不宜太盛。太盛即危。能事不宜畢。尽畢即衰。行諠不宜過高。過高則謗興而毀来。(前集137)〕
(爵位や官位は登りつめない方が良い。登りつめると妬みを買ってその身が危うくなる。優れた才能は出し尽くさないほうが良い。出し尽くすと長続きせず下り坂になる。品行は上品にし過ぎない方が良い。上品にし過ぎると仲間外れにされ、誹謗中傷を受ける。)

何事もやり過ぎは良くない。他人から足を引っ張られないようにするためには、栄誉を自慢したり、礼儀や道徳を振りかざして喧しく人を非難したりせず、謙虚にしているほうが良いのだろう。
『菜根譚』には、富貴や名誉に執着し過ぎると幸福になれないということが繰り返し説かれている。足るということを知らないと際限がなくなり、どこまで行っても満足感が得られないのだ。欲望に身を任せている限り、決して幸福にはなれない。
その一方で、道徳や仁義にあまり強くとらわれると、それが枷になって融通が利かなくなり、自滅してしまうとも言っている。

〔完名美節、不宜獨任。分些与人、可以遠害全身。辱行汚名、不宜全推。引些帰己、可以韜光養徳。(前集19)〕
(完全無欠な名誉や節義を独占してはならない。少しは人に分かち与えるようにすれば、危害を遠ざけ無難に身を全うすることが出来る。不名誉な評判や行為も、すべて人に押し付けてはならない。少しは自分にもひき被るようにすれば、自分の才能をひけらかすことなく、人徳を養うことが出来る。)

3000年来外敵からの脅威にされられ続けてきた中国人にとって「譲る」とは極めて特異な行動であるらしい。日本でも近年では、成果主義、実力主義、結果主義が蔓延り、謙譲の美徳が失われつつある。査定を気にするあまり、業績を独占し、失敗はうまく人のせいにするのが賢い生き方だと嘯く輩が増えているのだ。しかし、お陰様の精神を失い、人を押しのけ前に出る事にのみ躍起になっていると、周囲の不興を買い、組織内で軋轢が生じ、物事が停滞し、結局は自分も損をしてしまうだろう。

洪自誠については詳しいことは伝わっていないが、官職についていた人物であると推察される。洪自誠は儒学の徒でありながら、道教や仏教の書物にも親しんでいた。彼の示す人生観には儒教・仏教・道教の美点が見事に折衷されているのである。だからと言って出家して世捨て人になれとは言っていない。高い教養に加え、彼自身の社会経験から、現実世界に足をつけて生きていく方法を説いているのだ。書かれていることは社会で生きていく上では実践の難しいことばかりであるが、自分のことを言われていると意識して読みつづけていれば、必ず処世の役に立つだろう。

私にとって特に耳が痛かったのは下記の二文。家族だからといって、恩着せがましくしたり、遠慮なしに何でも言ったりしては、家庭内が殺伐としてしまう。自戒せねば…。

〔父慈子孝、兄友弟恭、縦做到極処、倶是合当如此、着不得一毫感激的念頭。如施者任徳、受者懐恩、便是路人、便成市道矣。(前集133)〕
(父は子に慈に子は父に考に、兄は弟に友愛の情を尽し弟は兄に恭敬の道を尽す。これらのことをたとえ理想的な程度にまで行えたとしても、それは肉親として当然なことなので、恩着せがましい心を持つには当たらない。もし施す方で施した恩恵を意識し、受けた方で受けた恩恵を意識したら、それは赤の他人で、利益を取引する中になってしまう。)

〔家人有過、不宜暴怒、不宜軽棄。此事難言、借他事隠諷之、今日不悟、侯来日再警之。如春風解凍、如和気消水。纔是家庭的型範。(前集96)〕
(身内の者に過失があった場合、無暗に怒っては良くないし、軽く打ち棄てておくのも良くない。あからさまに言い難いことであれば、他のことにかこつけて遠まわしにほのめかすようにすれば良い。今日気がつかないのなら、他日を待ってもう一度諭す。ちょうど春風が凍てついた地面を解かすように、また、暖気が氷を消すようにしてこそ、初めて家庭の規範と言えよう。)
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