吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2013年9月17日/〈宗像・町歩き〉005・宗像氏貞の墓

2013-09-17 08:52:30 | 宗像・町歩き

  

写真①:宗像社第80代大宮司・宗像氏貞の墓

    =宗像市上八で、2013年9月16日午前10時50分撮影

 〈宗像・町歩きスポット〉 5 

 :宗像氏貞の墓

 戦国時代末期、安土桃山時代の宗像社第80代大宮司だった宗像氏貞の墓は、福岡県宗像市上八(こうじょう)にあります=写真①=。

 氏貞は、宗像社第76・78代大宮司を歴任した黒川隆尚(宗像正氏)の実子で、母は山口を本拠とした戦国大名大内義隆の家臣・陶晴賢(すえ・はるたか)の姪。晴賢が天文20年(1551年)年、謀反を起こしたため、義隆は自害し、その側近だった黒川隆像(宗像氏男=第79代大宮司)も晴賢に付きました。同じころ宗像一族に家督争いが起き、氏貞は8歳だった天文21年(1552年)年、晴賢の支援で宗像大宮司職に就きます。

 国道495号線から西側の道に入り、宗像市の鐘崎漁港に向かう途中にある「マルヨシ醤油」の手前から右折した舗装道路をしばらく行くと、宗像市教育委員会の「市指定文化財 史跡 宗像氏貞の墓地及び石塔」の案内板が立っています=写真②=。解説の文字が消えかかっているのが残念です。

  

写真②:宗像市教育委員会の「史跡 宗像氏貞の墓地及び石塔」の案内板

 この案内板に「宗像氏最後の英傑」と記されている通り、氏貞は大宮司領の確保と拡大を図り、焼失していた「宗像大社辺津宮本殿」を天正6年(1578年)に再建したほか、山田・増福院をはじめ近隣の56社寺の造営・再建に尽くしました。天正14年(1586年)に「蔦ケ岳城」(赤間の城山)で42歳で病没、世継ぎを残さなかったため約6百年続いた宗像大宮司家が途絶えました。氏貞の墓のそばにある「第80代宗像大宮司 宗像氏貞について」と表示した顕彰碑=写真③=には「父、隆尚公ゆかりの承福寺下のこの地に葬られた」と記されています。

 

写真③:「第80代宗像大宮司 宗像氏貞について」と表示した顕彰碑

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