吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2011年8月22日/〈京都・町歩き〉001・寂光山常照寺

2011-08-22 10:59:55 | 京都・町歩き

 

 

写真①:「寂光山常照寺」の本堂

     =京都市北区鷹峰北鷹峰町で、2011年8月18日撮影

 

 きょう8月22日から、〈京都・町歩きスポット〉シリーズを掲載します。18日、洛北の「寂光山常照寺」=写真①=を初めて拝観し、天下の名妓とされた二代目吉野太夫の墓や、夫の豪商灰屋紹益と合わせて偲ぶ「比翼塚」にお参りしたのを機に、あちこち散策した京都市の名所・旧跡を紹介します。

 

〈京都・町歩きスポット〉 1

 

:寂光山常照寺

 

「寂光山常照寺」は、京都市北区鷹峰(たかがみね)北鷹峰町にある日蓮宗の寺院です。鷹峰の地名の通り、鷹が住みつきそうな山すそにあります。江戸時代初期の元和2年(1616年)、書や陶芸、漆芸に優れた芸術家・本阿弥光悦の土地寄進によって、日蓮宗中興の祖・日乾(にちけん)上人を招じて開創された学寮・「鷹峰檀林」の旧跡で、「檀林の寺」とも呼ばれています。

 

「二代目吉野太夫」は、西国の武士で流浪のすえ京に住みついた松田武左衛門の娘で、本名徳子。7歳の時、武左衛門が亡くなり、六条三筋町(後の島原)の遊里に預けられ、14歳で遊女として最高位の太夫となり、才色兼備の名妓として有名になりました。光悦の縁故で日乾上人に帰依し、寛永5年、23歳の時に巨財を投じて朱塗りの山門・「吉野門」(吉野の赤門)=写真②=を寄進しました。

 

 

写真②:二代目吉野太夫が寄進した朱塗りの山門・「吉野門」

 

その赤門を潜って境内に入ると、本堂が正面にあります。吉野は、その美貌が唐の国にまで聞こえたほどで、教養が高く、和歌や連歌、俳句、書、茶湯、香道、音曲に優れていました。本阿弥の親族で、和歌や茶の湯に秀でた文化人の灰屋紹益(灰屋は藍染めに使う紺灰を家業とした屋号で、紹益は号。本名・佐野重孝)に見初められ、当初、身請けしようとした紹益の親に反対され駆け落ちしましたが、吉野に会った親が振る舞いに感服して勘当を許しました。紹益は、寛永8年(1631年)、吉野26歳の時に千3百両で身請けしたという。吉野は寛永20年(1643年)、38歳の若さで病死。二人のロマンスは、演劇や歌舞伎に戯曲化され、吉野の墓=写真③=には歌舞伎俳優や芸能人なども訪れるという。

 

 

写真③:二代目吉野太夫の墓

 

紹益は、夫婦となってわずか12年で他界した吉野を慕うあまり荼毘の骨灰を呑み干し、「都をば花なき里となしにけり 吉野の死出の山に移して」との歌を詠んだといい、その歌が境内に掲示されています=写真④=。

 

 

写真④:紹益が吉野を恋慕して詠んだ歌の掲示板

 

 吉野は、紹益の菩提寺・立本寺<京都市上京区)に葬ることもできましたが、日乾上人に帰依した吉野の遺言で「常照寺」に墓を建立。二人を添わせてやりたいと、歌舞伎俳優の第13代片岡仁左衛門らが昭和46年(1971年)に建てた「比翼塚」=写真⑤=には、吉野と紹益の戒名が刻まれていました。

 

 

写真⑤:吉野と紹益の戒名が刻まれた「比翼塚」

 

 境内には、吉野が愛したという大丸窓「通称・吉野窓」=写真⑥=のある茶室・「遺芳庵」も見られます。完全な円形ではなく、下部が水平になっており、人間の不完全さを表しているといわれています。

 

 

写真⑥:吉野が愛したという大丸窓「通称・吉野窓」

 

 境内に置かれた鉢植えの蓮にピンクの花=写真⑦=が咲いており、吉野と紹益のロマンスを偲ばせるように甘く匂っていました。毎年4月には、吉野太夫花供養が行われ、島原の太夫行列や野点茶席も催されて賑わうという。

 

 

写真⑦:ピンクの花が甘く匂う鉢植えの蓮

 

「寂光山常照寺」(京都市北区鷹峰北鷹峰町45。℡075-492-6775):拝観時間は、午前8時30分~午後5時。拝観料3百円。◆交通アクセス=〔バスで〕市営バス「鷹峰源光庵前」下車、徒歩約2分。参拝者用の駐車場あり。

 

 

「寂光山常照寺」位置図

コメント
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