赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🏯 越中西部の名勝地⇒ 連如の「土山御坊」、「光久寺」、九条道家庄園「宮島峡」 !!

2018-11-16 | 歴史



■富山県高岡市福岡町赤丸村の周辺には浄土真宗「連如」ゆかりの「土山御坊跡」(*福光町)や素晴らしい庭園の「光久寺」(*氷見市)が在り、又、富山県のナイアガラと言われる「宮島峡」(*小矢部市)等の史跡や名勝地が在る。

「土山御坊」は「連如」が白山麓で浄土真宗を布教する為に建立した深い山中にあるお寺の跡。


「光久寺」は「連如」が氷見市周辺の布教に使ったお寺で、古い庭園が有名。近くには江戸時代の剣豪「斉藤弥九郎」の出生地がある。


「宮島峡」は小矢部川の支流の上流にあり、近くには加賀藩前田家の墓所もある。


一帯には古墳が散在し、古代から文化が栄えた。越中は「大伴家持」が国司をしており、周辺には「太平記」にも記載されている「五位庄」(前身は皇室庄園「吉岡庄」)があり、南北朝時代の史跡も点在する。「後白河上皇」・「後鳥羽上皇」や「後醍醐天皇」、奈良の公家や豪族、奈良の東大寺の荘園等もあり、古くからの米の産地、集積地だった様だ。福光町は富山県西部の古代豪族「利波臣」の発祥地と云われ、小矢部市には著名な「倶利伽羅古戦場」が有り、次いで「義経記」にも登場する「五位庄」、国吉村の「東大寺庄園須加庄」、氷見から日本海沿岸一帯は「東福寺庄園」が広がり、古代から越中の政治、文化の中心地で在った。小矢部川下流の「越中の国府」から「五位庄」の赤丸村地内「小矢部市」「福光町」古代道の「駅」で繋がる米の交易の一大ルートだった。小矢部川には米俵を積んだ船が行き交い、越中国司「大伴家持」は、
「朝床に聞けばはるけし射水川 朝漕ぎしつつ唄う船人」とその様子を詠んでいる。






「吉岡庄」(赤丸村)に在った「川人山鞍馬寺」は京都の鞍馬寺が勘請されたものと伝わり、その本尊の阿弥陀如来立像は各所を流転して、現在は井波町の名刹「瑞泉寺」の客仏として宝蔵に祀られている。

■小矢部市の「宮島保」は鎌倉時代の「吾妻鏡」に、摂家将軍「藤原頼経」の父の「藤原道家」の庄園として登場している。
〇東福寺を創建した「九条道家」の越中の庄園「宮島保」についての「吾妻鏡」の記載。
〇[越中の東福寺庄園の事]→ 越中國東條。河口。曾祢。八代保。 東福寺庄園は門徒の氷見の八代氏が地頭となり管理した。氷見阿尾城の菊池氏も八代氏の同族らしく、東福寺の檀家であった。
(※「戦国・氷見」氷見市)







【吾妻鏡】
「延應元年(1239)七月大廿五日壬辰。越中國東條。河口。曾祢。八代等保事。爲請所。以京定米百斛。可備進之旨。地頭等去年十一月献連署状於禪定殿下〔道家〕。仍可停止國使入部并勅院事以下國役之由。同十二月國司加廳宣。就之。去正月任國司廳宣。地頭等寄進状。爲東福寺領。停止并勅院事國役等。爲地頭請所。可令備進年貢百石。兼又當國宮嶋保雖爲當家領。被糺返國領之由。被下禪定殿下政所御下文。是爲寄附彼寺。所被相傳也。仍被申其趣於將軍家之間。可存其旨之由。今日被奉御返事云々。」

【7月25日 壬辰
越中の国東條・河口・曽祢・八代等の保の事、請所として、京定米百斛を以て備進すべきの旨、地頭等去年十一月連署状を禅定殿下(藤原道家)に献る。仍って国使の入部並びに勅院の事以下の国役を停止すべきの由、同十二月国司の廰宣に加う。これに就いて去る正月国司の廰宣・地頭等の寄進状に任せ、東福寺領として勅院の事以下の国役等を停止し、地頭の請所として年貢百石を備進せしむべし。兼ねてまた当国宮嶋保は当家領と雖も、国領に糺返せらるるの由、禅定殿下政所の御下文を下さる。これ彼の寺に寄付せんが為相伝せらるる所なり。仍ってその趣を将軍家に申さるるの間、その旨を存ずべきの由、今日御返事を奉らると。】

⇒【解説】( 越中國の東條保。河口保。曾祢保。八代等保 は藤原道家が寄進し東福寺領と成り、小矢部市の宮嶋保は国庫に返還された。 東條・河口・曽祢・八代等の保は 米100石で地頭が管理する事で地頭が連名で藤原道家に請状を提出した。)

●九条道家の子の九条(藤原)頼経(九条頼経)は、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍で藤原摂関家から迎えられた摂家将軍。両親ともに源頼朝の同母妹「坊門姫」の孫であり、前3代の源氏将軍とは血縁関係で妻は源頼家の娘竹御所。竹御所は難産の末、母子共に亡くなり源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された。(宮騒動)
この時に源義経の弟の範頼を育てた熱田神宮神官は追放される頼経を送り届ける役であったと云う。






🔴 『陽明文庫』(※ 『近衛家文庫』)に遺される『越中吉岡庄』の記録⇒『保元物語』・『人車記』(※「兵範記」平信範著)写本!!

2018-11-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

【保元物語絵巻】・【平治物語絵巻】





🔘 陽明文庫版(※近衛文庫)の【保元物語】と【人車記】

【※「兵範記」(※「平信範著」⇒近衛文庫では「人車記」)に遺される『越中吉岡庄』(※富山県高岡市福岡町赤丸浅井神社を郷社とする。)の記録。】

















■『越中吉岡庄』は藤原摂関家長者で左大臣(※左府と記されている)の『藤原頼長』 の庄園で在ったが、保元元年、『藤原頼長』と『崇徳上皇』に反乱の動き在りとして、『後白河天皇』、『平清盛』、『源義朝』等が先制攻撃をして屋敷を急襲した。『崇徳上皇』は屋敷を逃れたが、『藤原頼長』は流れ矢に当たり重症になる。頼長は死に望んでも逃れて父の忠実に会いに行くが、父は会わずに追い返す。無念の内に亡くなった『藤原頼長』の庄園『越中吉岡庄』は保元二年に官に没収されて勝者の『後白河天皇』の所領に成り、後に上皇の庄園の「後院領」になる。その後、この庄園は『後鳥羽上皇』から『後醍醐天皇』迄、皇室庄園として伝えられた。敗れた『崇徳上皇 ストクジョウコウ』は隠岐島に流罪に成り『崇徳上皇』は血書を遺して怨みを遺して亡くなった。『崇徳上皇』と『藤原頼長』の怨念は数々の天変地異を惹き起こした為に、『後白河上皇』や『後鳥羽上皇』等の歴代天皇はこの両者の怨念を鎮撫の為に慰霊施設を建てたり、勅使を遣わされている。
「吉岡庄(赤丸観音堂遺跡)」に在った「衆徳山総持寺 ストクサンソウジジ」には、胎内に「金剛位理卿」と『後鳥羽上皇』の法名が記載された「千手観音座像」が伝えられている。












■後白河天皇・源義朝・平清盛と崇徳上皇・藤原頼長が対立して『保元の乱』が起こった。摂関家長者「藤原頼長」は何事にも厳しかった事から「悪佐府」と呼ばれて恐れられたが、後白河側の先制攻撃で敗退し、首に矢を受けて死亡した。保元二年、藤原頼長の個人庄園は官に没収され、藤原家固有の庄園は兄に引き継がれた。平家の「平信範」はこの時期の様子を『兵範記』(※「人車記」)で詳しく伝えている。「平信範」は摂関家の藤原忠通・基実らに家司として仕えた為、当時の上級公家などの動きに詳しく、中でも「保元の乱」前後の詳細な記述は当時の朝廷や平家の動静を詳しく遺しており、貴重な史料とされている。
(※「兵範記」には公卿の近衛家に伝わる「陽明文庫」と京都大学に伝わるものが在り、各々に脱漏があるとされる。陽明文庫版は陰影本として、京都大学本は活字本として発行されている。「五摂家」筆頭の近衛家伝来の古文書を保管する「陽明文庫」は、昭和13年(1938年)に当時の近衛家当主、内閣総理大臣近衛文麿が仁和寺の近くの現在地に設立した施設。研究者の閲覧の便を図る為に影印本の刊行を行っている。)

■陽明文庫(近衛文庫)には『保元物語』の写本が残されており、解説本として岩波書店版が発刊されている。



■「旧藤原頼長領」の内、北陸では、『越中吉岡庄』と『能登一青庄』が没官され、「越中吉岡庄」はこの時に上皇の庄園「後院領」に組み込まれ、「能登一青庄」は石清水八幡宮の庄園に寄進された。「後院領」は天皇が退位後に糧所とされた庄園で「後院庁」の「後院司」と言う官吏が政務を執り、守護の権力が及ばない庄園とされたが、源頼朝が義経探索の為と称して全国に「地頭」を配置した時から徴税を代行する地頭が配置されている。




🔷🔹【延喜式内社越中五位庄53ケ村惣社 赤丸浅井神社】⇒ 熊野三山検校【近江国 天台寺門派本山 園城寺(三井寺)】の傘下に在った【門跡寺院聖護院】と【越中川人山鞍馬寺】!!

2018-11-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸






■【越中国川人山鞍馬寺】は富山県西部に在った「後白河上皇」の「後院領 吉岡庄」の惣社「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当で在った。この寺は両部神道、修験道本山派山伏で、元々、赤丸浅井神社の境内に白山山伏の開祖「泰澄大師」が「庵」を開いた事に始まり、「泰澄大師」は「元正天皇」の病気快癒を祈ってこの庵で祈祷をしたと云う。「赤丸浅井神社」は、「川人山三社記」によると、「元正天皇の二宮(実は元正天皇の弟の文武天皇の第二子「石川朝臣広成」、嫡男は「首皇子オビト ※後の聖武天皇」)」に東国三十三ケ国の統治を指示され、その時に第五代考昭天皇の時に創建された「赤丸浅井神社」の社殿を再興されて祀官を定めたと伝えられる。「赤丸浅井神社」は元正天皇が編纂を始めた「養老律令」の細則に当たる「延喜式」の「神名帳」にも記載される【延喜式内社】で在る。









■「後白河上皇」は、「保元の乱」で「藤原氏長者藤原頼長」に勝って「越中吉岡庄」を「後院領」に組み入れ、この庄園を自らが創建した「蓮華王院三十三間堂」に寄進された。この記録は「東大寺文書相良迎蓮書状」に見られる。

















■「後白河上皇」の皇子「静恵法親王」が「初代聖護院門跡」で在ったからか、「川人山鞍馬寺」は「聖護院派」の寺院で、「後白河上皇」が近江国「三井寺」で出家して、「三井寺」には後白河が信仰された「熊野三山修験道」の総支配を委ねられた。
【※「本山派修験道聖護院」はその筆頭に在り、白川上皇以来、熊野三山検校を勤めており、「白川上皇」は「越中吉岡庄」を京都の「上賀茂神社」の庄園とされたが、その後、藤原摂関家の庄園に成った。幕末迄赤丸村に在った「川人山鞍馬寺」は「本山派修験道聖護院末寺」としての歴史を刻んだ。】






■「三井寺」は「近江大津宮」を開かれた「天智天皇」から「天武天皇」・「持統天皇」が産湯を使われた「井戸」が在る所から「御井寺」から「三井寺」に成ったと言う。
「三井寺」は、「後白河上皇の皇子以仁王」が平家倒幕の「令旨」を出された時に、「以仁王」や「源三位頼政」を匿ったとして、平家から焼き討ちを受けており、その後も、弁慶がこの寺の鐘を引きずったと言う伝承がある源氏とも所縁が強い寺で在る。
又、この「令旨」を受けた「木曽義仲」は、「源義経」に都を追われた時に近江国で亡くなっており、「義仲寺」にはその墓標が在る。





📙📃 南北朝期の「二宮円阿軍忠状」と「赤丸浅井城中山直治」・「守山城神保氏張」の素性!

2018-11-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




■「鴨城」は吉岡谷の小矢部市寄りに有り、古記に「鴨の二つ城」と記載されているが、鴨城は赤丸城程の大きな遺構がない事から赤丸城を主城とする出城と考えられる。(※「中世城館調査報告書」福岡町教育委員会)

■貞治2年(1363年)3月、南朝の武将桃井直常討伐に従軍した「二宮円阿」が「五位庄の鴨城衆と頭川城、松根城等での戦い」を命じられて任務を果たした事等が記載された「二宮円阿軍忠状」が有り、是が「五位庄鴨城」の説明に登場する。しかし、この「二宮氏」が如何なる人物かの説明は今日迄、諸史料にも見当たらなかった。
【二宮次郎左衛門入道円阿申軍忠事】
「右、去年二月九日令発向越中国、可致忠節之由、賜将軍家自并七条殿(斯波高経)御教書、当国松□(根)御陣下向仕、同七月三日大将御共仕、和三(田)合戦令致忠節、致其外圧城・野尻御供申、自同十一月至今年三月令和田十一警固、同十三日可為鴨城衆由依仰下候、於当城致忠節、同五月十二日向馳頭高城、追落凶徒等、焼払彼城、鴨城衆等相共致忠節、至南条枯本木金山城、令致忠節候上者、賜御判形為備後証、恐々言上、如件、
貞治弐年六月 日
一見了 印 」
詳細を調べるとこの二宮円阿という人物は足利一族の斯波高経の家老に見られる。
●「斯波高経」 尾張足利氏四代目 1362年細川頼和に代わり越中に息・義将を派遣。信濃国から越中乱入。南北朝時代の南朝の武将で守護大名。越前・若狭・越中守護。南朝の勇将新田義貞を福井県で破る。観応の擾乱では足利尊氏と直義双方に時に応じて仕える。
●「二宮円阿」(※次郎左衛門入道円阿)。
斯波家家老で信濃口から越中へ乱入し庄城、野尻城、和田城、鴨城、頭高城で戦う。1363年(正平十八年)に軍功を申請する軍忠状(※戦功を記した申請書)を提出した。
(※「和田城」は「増山城」の場所に在った古城。桃井直常の居城で在ったが、斯波氏に奪われた。
「野尻城」は福野町野尻の城で、京都の「東寺百合文書」に「五位庄野尻」の記載在り。足利家御糧所と成った五位庄は「福野町野尻」迄も含んでいた。昔は庄川支流の「野尻川」が小矢部川に流れ込んでおり、野尻とは小矢部川流域の経済圏で在った。)






■高岡市の「守山城」に在城した著名な武将に、名門足利氏一族の能登畠山氏から養子に入り「織田信長」の妹を妻にした「神保氏張」がいる。神保氏は畠山氏の家臣として長く越中の統治に関わり、富山城の歴史にも登場する。しかし、この「守山城」に陣を構えた神保氏については「神保氏諸流」とされて、ルーツがはっきりしていなかった。この「神保氏張」は五位庄を上杉謙信から安堵された「寺嶋牛介」が主君とした武将で、佐々成政軍として赤丸浅井城の中山直治と共に能登末森城に前田利家と戦った武将で、佐々成政が九州に転封された時に同行し、成政切腹後に徳川家康の旗本になった人物である。しかし、この人物のルーツを調べると意外な事が解った。
(※「守山城」は南北朝時代に南朝方の桃井直常によって築城されたと言う古城。)

■静岡県立図書館に徳川家臣団系図が在り、その中の旗本神保氏の系図を調べると、以下である。

【桓武平氏系図】 (源頼朝家臣団秩父平氏)
桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王ー良文ー忠頼━━将恒(秩父三郎)ーー畠山重忠 ー娘
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| ┗━中山次郎重実
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┗━ 頼尊(僧次男)━『以下系図参照』
(神保氏の祖)
◎高岡守山城主神保氏張は能登畠山氏から養子に入っており、本姓は源氏。
◎越中土肥氏も桓武平氏良文流の同族である。
◎赤丸浅井城の中山直治は敦賀に落ち延びて今井氏の養子となり名跡を継いだ。この中山直治が入った「中山正弥家文書」に拠ると、「中山氏は藤原氏」としている。一方、越中赤丸村に残り、加賀藩に仕官した「中山孫左衛門清直家」は「赤丸城城主の末裔。本姓は源氏」としており、本国は近江として、「下がり丸に藤紋」を家紋としており、元々は藤原秀郷氏(蒲生➡泉➡今井)の近江今井氏が本姓ではないかと見られる。又、現在も赤丸に残る「中山赤圓家」は「赤丸名勝誌」(※国立国会図書館)で、先祖を「秩父平家の中山次郎重実」としている。一方、もう1軒の赤丸性宗寺は先祖を中山氏として家紋は「桧扇紋」としており、この紋は赤丸浅井神社別当寺の「川人山鞍馬寺」の家紋と同じで、近江源氏佐々木氏流今井氏の末裔の徳川旗本今井氏の家紋も同じである。この家系と中山直治が養子に入った敦賀の今井氏(本国を近江とする)の関係は明らかではないが、近江の国人今井氏は元々、近江の浅井氏と対抗する勢力であったが、浅井長政が織田信長に亡ぼされた頃には浅井氏の家臣になっており、本家はこの時に途絶えたが、支流は残ったと云う。敦賀の今井氏は恐らくこの系統であると見られる。赤丸性宗寺は浄土真宗で、川人山鞍馬寺も後に浄土真宗となっており、その関係で家紋が同じなのかどうかは分からない。しかし、本家と見られる「中山正弥家」が「藤原氏」としている事から、本姓は藤原氏と見られる。

■尚、旗本となった近江の今井氏は「近江源氏佐々木氏の支流で、近江の高島郡今井に城を構え、今井氏を称した。織田信長の下で今井兼員は摂津に二千二百石の地を領し、その子の兼久は関ヶ原の戦いで家康から旧領を安堵され、その後は代々千三百石の家禄を伝えた」と云う。佐々木氏は宇多源氏(近江源氏佐々木氏嫡流六角氏流)で源氏姓を称したとされ、今井氏の先祖は六角氏に仕えた様だ。今井氏は近江町箕浦というところで箕浦城にいた。その今井氏が六角定頼に属していて、定頼の定という字を名乗りとして貰っていたと云う。
高岡市内に残り、加賀藩に仕官した中山家は「源氏」を名乗り、「下がり藤に丸」の藤原秀郷系蒲生氏流の「藤紋」を使用しており、近江今井氏については、いろいろ議論があるらしい。
近江守に補任された「宇多源氏」は、近江に勢力を張って俵藤太と呼ばれた秀郷流藤原氏を郎等にしながら近江に進出していったと考えられると云うのだ。これが近江源氏佐々木氏の源流となっている。一方、秀郷流藤原氏を名乗る「蒲生氏」は近江国蒲生郡から甲賀郡にかけて勢力を張っていた。佐々木氏との関係を見ると、蒲生氏が佐々木氏に臣従していた事から、今井氏は秀郷流藤原氏の可能性が高く、蒲生氏初代蒲生惟賢の娘が佐々木定綱の側室になった事からも秀郷流藤原氏を名る「蒲生氏」が早い時期から宇多源氏佐々木氏の郎等であったことが分かる。従って、藤原氏である「蒲生氏」は血縁関係からも主家の宇多源氏佐々木氏の「源氏」を名乗る事があったのかも知れない。

■(神保氏; 平姓良文流 秩父平氏 家紋丸内二引両)
【✳「神保氏張(源氏姓の能登畠山氏からの養子)」からは源氏系となる。】
・「初代 頼尊 (山邉六郎):住 武蔵国 兄千葉及忠常反逆之時錐催促暴逆而忌朝敵不興仰王政堅我拭 中村土屋土肥新開二宮祖 」ー「二代 常(恒)遠 :住常冽笠間城故笠間押領 寛治三年源義家随催促軍於羽冽尽軍功々」ー「恒宗」ー 「 友平(中村四朗左衛門尉 二宮四朗大夫 称二宮)」(※中村友平は治承4年/1180年の頼朝旗揚げに参加、義経追討→1185年守護・地頭の設置、中村四郎として吾妻鏡10巻建久1年(1190)11月7日・25巻承久3年(1221)6月18日記載 )ー「朝忠(二宮太郎)」ー「某(二宮小太郎)」・「時元(二宮弥二郎)」ー「経忠 (始二宮右京進 神保左衛門尉) :住越中守山城 後醍醐天皇治世至吉野奉忠勤於南朝従桃井直常尽軍功其後随仕将軍源義詮公」ー「忠綱(神保右京進 河内守) :越中守山城主 明應年中従畠山基国尽軍功 應永十八年辛卯将軍義持公征伐飛騨国司藤原伊纜之時有軍功」ー「忠景(神保常陸介 右京進): 越中国守山城主」ー「忠貞(神保周防守 右京進): 越中国守山城主」ー「忠氏(神保越中守):越中守山城主 家紋幕紋丸内横二両引蔦之葉 應仁年中細川与山名合戦之時従畠山義純有軍功 文明五年癸巳十二月義尚公始忝内之時忠氏帯剣列後陣」ー「氏純(童名太郎 神保越中守):越中守山城主 當此時越中守護畠山義則衰武威國人不随其号令国中大乱氏純出張而振威欲領越中時上杉謙信感其武威厚為誓約故属謙信尽軍功 、女 佐々内蔵助成政室 信長封成政而越中守護 」ー「氏張(少名清十郎 神保安藝守 實能登畠山義隆二男 越中守山城主):始属上杉謙信 謙信没後信長公封越中半国廿六万石為北国押云々 佐々成政入国氏張住熊本成政家蒙勘初死云々 天正十七年巳丑大神君於濱松城被 名出賜下総国香取郡之内二千石地列交代寄合 慶長五年庚子関原之役依 釣名留守江戸城 後年於江戸没時六十五歳 法名玄皈居士」ー長男「氏則(少名清十郎 神保主馬介):室佐々成政女 天正二年甲戌十二月属伯父能登国守畠山義則之幕下」・二男「氏長(神保五郎兵衛):母信長公妹 継父家督領二千石奉仕 台徳公時代為寄合之列 大阪冬夏両御陣供奉有軍功 寛永二年乙丑四月五日没時五十一歳 法名宗英居士」ー「氏長の子 氏勝・氏房」ー「氏勝の子 氏信」ー「氏寿」 と続いた。

■神保氏は
「初代 頼尊 (山邉六郎)は武蔵国 の出身で 中村、土屋、土肥、新開、二宮の祖 である」と云う。
「五位庄」の赤丸村近くに今も「土屋村」が在る。神保氏「六代目時元」の子の「経忠」の時、始め「後醍醐天皇」に従軍し、「桃井直常」に従って軍功を挙げたが、その後敵対していた「足利義詮」(1330ー1367年)に従っている。「足利義詮」は「尊氏」の子で「桃井直常」の反対の立場に有り、「足利尊氏」側の貞治2年(1363年)3月の「二宮円阿軍忠状」は、越中守山城主が「経忠 (始二宮右京進 神保左衛門尉)」の時代に当たる。(✳「軍忠状」とは、戦果を報告して後に恩賞を貰う為の武将からの報告書に当たる。)
「斯波高経」が越中守護でその家臣の二宮氏が活躍した時に高岡守山城主「中村四朗左衛門尉」が「二宮姓」を授けられたか、縁組みにより「二宮」を名乗ったと見られる。

■ここで「観応の擾乱」の経過を確認すると、
正平5年/観応元年(1350年)に「観応の擾乱」が起きる。「桃井直常」は「足利尊氏」の弟の「足利直義」派の有力武将として北陸から入京し、正平6年/観応2年(1351年)の「打出浜の戦い」に勝ち尊氏・高師直らを追い払い引付頭人に補任される。尊氏と直義の抗争が再発し、上野で尊氏方の宇都宮氏綱・益子貞正に敗れ、尊氏に敗れた足利直義は降伏。直義が鎌倉で亡くなると桃井直常は行方不明になる。しかし、正平10年/文和4年(1355年)直常は直義の甥で養子の「足利直冬」を擁立して洛中を占拠した。以後も信濃・越中で合戦を続けたが、勢力は衰退し、鎌倉公方の「足利基氏」の保護を受けた。正平22年/貞治6年(1367年)基氏が没すると直常は出家、上洛して「足利義詮」(尊氏の子)に従う。尊氏側の「斯波高経・義将」父子が貞治の変で失脚して、直常の弟の「桃井直信」が越中守護になる。しかし翌、正平23年/応安元年(1368年)、「斯波義将」が幕政復帰すると「桃井直信」は越中守護を解かれて直常は再び越中で反幕府の軍事行動を開始する。建徳2年/応安4年(1371年)7月に直常は姉小路家綱の支援を受け飛騨から越中礪波郡へ進出して幕府方の能登守護吉見氏頼と「五位荘」(「足利義満」の時代には、現在の富山県高岡市伏木から福野町、福光町迄、拡がっていた。⇒《畠山文書》羽曳野資料叢書)で激戦を行うが敗北して、8月には飛騨へ撤兵し消息不明になったと云う。(※「花営三代記」参照)

■この由緒や経過から見ると、1363年は桃井方の勢力が衰えた時期で、この機会に「越中守山城主二宮右京進こと神保左衛門尉経忠」は桃井方から敵方の斯波氏・足利義詮側についた事が判る。今迄、守山城主の神保氏は神保氏諸流とされていたが、この系統について「神保氏と二宮氏は同じ」と言う見解は見られなかった。時代的、背景的に検討するとこの「越中守山城主二宮右京進こと神保左衛門尉経忠」こそ、「二宮円阿」と同時代の人物と推察できる。
又、この諸系図の中に別系統の「神保彦九郎茂政 生国越中」が有り、この系統は河内で活躍し、「信長の時に反逆して畠山氏が滅亡した後、秀吉公に仕え六千石を賜り、関ヶ原の戦いでは徳川家康に従軍して千石を加増され、七千石を領した」とする神保氏系図が有る。

■【平姓良文流神保氏】
元々は秩父平氏の畠山重忠の家系。
「後白河上皇」の皇子「以仁王」の令旨に拠り「源頼朝」が挙兵した時(1180年)、畠山重能の息子の「畠山重忠」は本家の「河越重頼」に従って頼朝の平氏追討軍に参加した。関東の秩父平氏「畠山重忠」は頼朝に従って平家追討や奥州の藤原氏や源義経追討の合戦で軍功が有り、本家に当たる「源義経」の正妻の父の「河越重頼」や「重房」が粛清された後に、秩父平氏惣領の座を継いだ。「畠山重忠」は“武士の鑑”と称えられ、義経の妾の静御前が頼朝の御前で舞を舞った時にも鼓を打つ事を許されたと云う。重忠は正室に「北条時政」の六女を迎えているが、「北条時政」とその妻の「牧の方」は重忠を疎んで陰謀を巡らし、1205年には重忠の従兄弟の「稲毛重成」や「榛谷重朝」を懐柔して、重忠の嫡男重保、次いで重忠と息子の重秀を武蔵国二俣川で討ち果たした。(※「畠山重忠の乱」)
重忠の遺児の重慶も後に粛清され、この時、平姓畠山氏の嫡流は滅亡した。この後に、「畠山氏」の名跡は源氏の「足利義純」が「畠山重忠」の未亡人で北条時政の六女と再婚して継承し、この後は源氏姓の「畠山氏」になる。元々、「源頼朝」が旗揚げした時に、秩父平氏「畠山氏」の支援が有った事から名門の「畠山氏」を残した様だ。この婚姻で源氏系畠山氏の「神保氏張」は平姓神保氏の養子となり、畠山氏と神保氏の同盟が図られた。

(※「源義経」の正妻は秩父平氏「河越重頼」の娘。
⇒「川越氏」は「埼玉県川越市」所縁の武将。「源頼朝」の指示で娘は義経と婚姻したが、義経が反逆したとして父の河越重頼は頼朝に誅刹された。重頼の娘は義経と共に奥州に逃れて奥州でその子と共に亡くなったと言う。「義経記」の奥州落ちの際に同行したのは河越重頼の娘とも、平時忠の娘とも言われている。義経が逃亡すると義経の愛妾の「静御前」は頼朝に召し出されて舞を強要される。この時に鼓を打った人物は「畠山重忠」で在った。)

#【惟宗姓神保氏】
神保氏は元帰化人秦姓の末裔惟宗氏から出たとする。秦氏は京都の太秦にも名を遺す渡来氏族で「秦の始皇帝の末裔」とされ、機織り=秦氏として布造りの技術を伝えたとされる。「陽成天皇」の御代「秦宿禰永原」に賜姓して「惟宗朝臣」となる。永原明経博士となり子孫代々学者を出す。この一族から薩摩の「島津氏」、対馬の「宗氏」、越中の「神保氏」が出た。武門政治となり、神保氏は鎌倉に下り畠山氏に仕える。正平十七年初代鎌倉公方「足利基氏」に「畠山国清」が逆らって伊豆に逃れた時に遊佐、神保、斎藤等がこれに従った。(※「太平記」)
後に「足利義深」に従って上京し、「畠山基国」が越中を領有した時に越中に在国したと云う。

■「寛政重修諸家譜」には徳川に仕えた神保氏に三系統有り。(1)足利義深に従って上京した一族で代々大和に住み、茂政、茂勝等の「茂」を名乗っている。(2)橘氏から出て越中国宮崎城主山城守を初代として近江国甲賀山南荘に移り、後に徳川氏に仕えた。寛文七年、四郎右衛門が巡見使として越中に来る。代々八郎右衛門、四郎右衛門、三郎兵衛を名乗って、楠木正儀の子孫と称する。(3)守山城神保氏張の系統。(前記 参照)
(✳「越中郷土史」林喜太郎著 参照)

以上からすると越中の神保氏もいくつかの系統が有り、古くから立山山麓から富山市にかけて展開した神保氏は「惟宗姓神保氏」で、守山城を拠点とした神保氏は畠山氏の同族の「秩父平氏神保氏」であると推定できる。又、加賀藩時代に幕府巡見使として越中に入った「神保氏」は「橘姓」であることが判る。神保氏については頻繁に混同が有り、非常に判りにくい。

#【幕末の勤皇の志士「橋下左内」は南北朝時代の勤皇の志士「桃井直常」の後裔】
・福井松平氏の下で幕末に勤皇の志士として著名な「橋下左内」は福井市の足羽川と足羽山の間に在る「橋下左内公園」に墓所と顕彰碑がある。近くには「柴田勝家」と「お市」の墓が在るお寺も在る。橋下左内の家系は室町幕府の足利一族の桃井氏の後胤で、先祖の代で桃井から橋本姓に改姓したが、徳川親藩の福井藩士として一橋慶喜を将軍に立てる運動を展開した。橋下左内は江戸から京都へ登って、「桃井亮太郎」又は「桃井伊織」と名を変えて、現在の京都国際ホテル近くを寝城として盛んに暗躍した。だが、大老井伊直弼の弾圧で橋下左内等は捕縛され、「安政の大獄」(※1859年)で26才の若さで斬首された。

■源義家から10代後の源氏、桃井播磨守直常の長男の「直和」は千代ケ様城等を拠点として戦ったが、越中長沢の戦いで討死した。その子の「桃井直詮」(幼名を幸若丸)は足利氏の同族の斯波氏の所領の越前朝日町に逃れ、そこで育って「幸若舞」を編み出した。朝日町の隣の織田町の「剣神社」神官の末裔の織田氏はこの剣神社を氏神とした。「織田信長」はこの「曲舞 クセマイ」と云われた「幸若舞」を好んで歌い、踊ったと云う。「織田信長」は特にその「敦盛」と言う曲を好んだと云われる。「幸若舞」は全国に広がり、戦国武将にも踊られて、明治初め迄、越中の赤丸村、石堤村、福光町等でその舞手の「舞々人」が一子相伝で伝承したと云う。嘗て、赤丸村舞谷には「桃井直常」の三男が創建した「西大寺」が在ったが、現在は、高岡市木町に在る。
(※織田家は尾張守護の斯波氏に仕え、守護代を務めた。)





🔘 富山県の【吉岡庄】(赤丸村)と【奥州平泉】との関係⇒藤原摂関家長者【藤原頼長】と【源義経】!!

2018-11-16 | 富山県高岡市福岡町赤丸村


■「延喜式」では、赤丸浅井神社の山裾にあったと云う川合駅(川人駅)には駅馬が五疋配置されていたと云う。


藤原基成の父の従兄弟は義経の母の常磐御前が再婚した一条長成で有り、基成の娘は藤原秀衡の正室であった。


■「越中吉岡庄」は元々、藤原摂関家長者・左大臣藤原頼長の庄園で在ったが、崇徳上皇・藤原頼長 対 後白河上皇・源義朝・平清盛の戦いに成った「保元の乱」で頼長が敗れて、後には後白河上皇の「後院領」と呼ばれた庄園と成り、以降、後鳥羽上皇~後醍醐天皇迄天皇家庄園として伝領した庄園である。
藤原頼長は藤原摂関家の長として全国に29庄の庄園を保有していたとされる。この中には、越中吉岡庄、能登一青庄の他、東北には配下の奥州藤原氏に管理させていた5ケ所の庄園が在った。現在の宮城県には高鞍庄(栗原郡)・本良庄(本吉郡)、山形県には大曽根庄(東村山郡)・屋代庄(東置賜郡)・遊佐郡(庄内地方)の庄園が藤原家の庄園として在り、これ等は父の関白忠実から久安四年(1148年)に頼長に譲られた庄園であると言う。藤原頼長の日記の「台記」には仁平三年(1153年)に奥州藤原氏の基衡との税率の変更についての記録が在り、奥州から金25本を金55本に、その他の馬、布、細布、漆、鷲羽根、水豹皮等を5割り増しにした事が記載されている。これを見れば藤原頼長の厳しい徴税の実態が分かるが、越中吉岡庄に於いても同様で在ったと見られる。奥州の五庄は寄進系の庄園と見られているが、越中吉岡庄についても藤原氏である越中石黒氏からの寄進系の庄園とも見られ、吉岡庄は白河上皇が上賀茂神社に寄進されて以来、藤原氏の越中石黒氏の庄園と成りその石黒氏が寄進したものと見られる。

◎「浅井城跡」; 赤丸村に在り。孝霊天皇の第三皇子彦刺方別命の五世孫某砺波臣の姓を賜り(古事記)その後裔累世此地方を領して此処に居舘せり⇒「利波臣」は奈良時代に郡司を務めた越中の豪族で有り、「石黒系図」ではその名跡を継いだのは「越中石黒氏」で在り、「花園天皇の頃から石黒光弘の後裔此地に住し延元中石黒次郎光景此地に城を築きて南朝の為に謀りし事あり興国三年宗良親王を奉迎せり。」とされる。(※「富山県西礪波郡紀要」砺波郡役所発行)


(※「武者の世に」集英社 参照)



■義経が福井の「平泉寺」、赤丸村の「二位の渡し」(五ゐの城)を経由した背景を考えてみる。
奥州平泉の藤原秀衡は福井県の平泉寺に鐘を寄進した記録があると伝えられ、奥州との関係が深かったようだ。又、勝山市の平泉寺は白山登山の福井側の登山口に当たり、昔は相当の数の比叡山の系統の僧兵がいたと伝わる。「義経記」を読んでみても弁慶は元々、熊野修験道の僧であり、修験道を中心とした両部神道の寺社の情報は熟知していたものと見え、義経が平泉寺参詣を希望してもアッサリと承諾している。修験道の勧進僧に姿を変えての潜航は、元より日本海側には白山、立山等の修験道のメッカが有り、熊野から白山、立山の麓には両部神道の寺社が展開していた事が背景に有ったようだ。義経の義理の父で常盤御前の再婚相手の「大蔵卿一条長成」が奥州藤原氏の親族で有り、後白河上皇の娘と称する者が平泉に居た事もあってか義経は逃亡先を奥州平泉に定めた。後白河上皇の親王で高野山とも密接な仁和寺宮守覺法親王(母は藤原季成の娘)や藤原範季が密かに義経の支援をし(吾妻鏡第三巻 文治二年十一月*1186年)、又、後白河上皇の親王の静恵法親王が修験道本山派の聖護院に入寺され聖護院が門跡寺院となって全国に二万余りの末寺を抱える大集団で有った事も有り、全国の高野山系、聖護院派系の寺社は義経主従にとっては比較的安全だと考えたものと思われる。

後白河上皇の皇子の仁和寺宮守覺法親王の母は「藤原季成の娘」である。
【 源範頼;源頼朝、源義経の異母弟、蒲冠者、参州、三河守】の背景を調べると、源範頼は
・1150年父を源義朝、母を池田宿の遊女として産まれる。
・熱田大宮司藤原氏[由良御前(源頼朝の母)]が密かに京都で養育。
・その後、藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の弟[勘解由丞季成(藤原季成)]が宮司を務める蒲神明宮(遠江国蒲村、蒲御厨)で養育されて「蒲冠者」と呼ばれる 。
・源頼朝は,1147年(久安3年)に源義朝の三男として現在の熱田区旗屋で生まれた。母 は,熱田大宮司の藤原季範(としのり)の娘「由良御前」である。
⇒源義経の義弟の源範頼は藤原季成に養育され、その娘は後白河上皇に嫁して守覺法親王を生む。この関係があったからか、守覺法親王は背後で源義経が奥州に落ち延びた時に支援したとされる。守覺法親王は福井県の「久河北荘」(旧吉田郡河合村・森田村)を所有したが、この庄園は九頭竜川以北の大荘園で古代の足羽郡川合郷の名を継いで「河合荘」とも言われた。藤原頼長の縁者の仁和寺相応院の僧「隆憲」が仁和寺御室の守覚法親王に寄進した所領がその前身となり建久元年に見作田(現在耕作される田。見=現)60町が二品守覚法親王「親王家領」となった。この庄園は義経が平泉寺に参詣する時の安全な経由地であったと思われる。

しかも、越中に入り、小矢部川の船下りルートの渡船場が在った「越中吉岡庄」(後の五位庄赤丸村)は「保元の乱」の後に後白河上皇の荘園となり、頼朝の配下の地頭「吉岡成佐」が配置される前は、保元の乱で敗れた藤原頼長の所領であった。奥州平泉に五か所の荘園を持ち奥州藤原氏に荘園を管理させていた藤原氏長者の藤原頼長は元々、越中吉岡庄、能登一青荘の領主でも有り、直前まで奥州と越中、能登には同じ領主の国が展開していた。源頼朝の家臣の畠山氏や義経の正妻の父の川越氏は同族の秩父平氏であり、義経の逃避行に同行していた川越氏の娘に対しても温情が在ったものか? 畠山重忠や義経の正妻の父の河越太郎重頼は元々、頼朝の旗揚げに参加した後家人で幕府の功労者であったが、頼朝と義経が不和になった一件で同じ様に清盛と戦った義経が敵に成り、しかも、河越太郎重頼の娘と義経の仲人は頼朝と云う複雑な事になった。畠山重忠は義経の愛妾の静御前が頼朝の面前での舞を強いられた時にも不憫に思い自ら鼓の打ち手を希望したとされる。頼朝が地頭吉岡成佐を配置する以前には、壇之浦の戦いに義経軍に従軍して戦功を挙げた「石黒氏の縁者の加賀の林氏」が一時期、越中を治めたと云う。(※「林一族」寺西艸骨著) 当時の越中の責任者が義経のお陰で配置された加賀の名族「林氏」であった事から、越中ではその同族の石黒氏、宮崎氏等が支援し、加賀では林本家と冨樫等の同族が背後で支援したものと見られる。又、石黒氏は福井県の敦賀を発祥として、福井県には三国等も同族を先祖とした地域だ。源頼朝の厳命にも関わらず、義経の行方が分からなかったのは、こうした背景があったからだ。強大な山伏集団を抱えた越前平泉寺には奥州の藤原氏が梵鐘を寄進する程親交があり、石川県では林氏の本拠地の鶴来に在る「白山比咩神社」は平泉寺白山山伏を大量に抱えていた。北陸路は熊野→白山→奥州羽黒山に通じる「修験の道」であり、山伏に扮した義経一行は、英雄としての義経への畏怖と幅広い人脈に大いに助けられていたと見える。「吾妻鏡」には「以前として義顕(義経の事)の消息が知れない」と再三にわたり、記述されている。
この様な背景から、「聖護院派山伏」の赤丸浅井神社の鎮座する「越中吉岡庄」に対する義経の警戒感も鎌倉幕府の領域を通過する関東近辺よりも比較的に少なかったと思われる。「義経記」に拠ると、数回の危険な関所対応を割と簡単に行っている。弁慶の機転とされているが、北陸道各地の義経主従に対する同情と前記の様な背景があって各地の関所を通過したものと考えられる。
(※義経の正妻の父の河越太郎重頼は、義経の探索が進まない事から頼朝に誅殺され、畠山重忠は力強い畠山氏を警戒した北条時政によって騙し討ちされる。秩父平氏畠山氏の後には北条義時の計らいで政子の娘(重忠の妻)が源氏の足利義純と再婚して、「畠山」の名跡を継ぎ、以降は源氏系畠山氏になった。室町時代に管令となり、河内、紀州、越中、能登を領した「畠山氏」は源氏の足利氏一門。)
(※源範頼:源頼朝、義経の腹違いの弟。遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(カバノカジャ)、蒲殿と呼ばれる。藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼして戦功を挙げ、源氏一門として鎌倉幕府に於いて重臣となったが、後には頼朝に謀反の疑いをかけられて誅殺された。)

■「蒲村」は現在の浜松市に合併している。旧区分(遠江国浜松郡)では地図上のNo50が該当する。浜松町はNo11。(Wikipedia参照)


🔷🌊大伴家持の"海ゆかば--"の一節 ⇒ 越中高岡市の「赤丸浅井神社」と「東大寺大仏」 !!

2018-11-16 | 富山県高岡市福岡町赤丸村



【海行かば 水漬(みず)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ 顧(かえり)みはせじ(『万葉集』)】
 ■これは、大伴家持が越中国の国守として赴任していた749年に詠んだ長歌「陸奥国より金を出せる詔書を賀(は)ける歌」の一節で軍歌としても有名。【※大伴氏の家訓を読み込んでいる。】
【『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」(『国歌大観』番号4094番。『新編国歌大観』番号4119番。大伴家持作)の長歌から採られている。】
(※「高岡市史」ではこれは大伴家持の歌では無い?と否定している。)


■富山県高岡市伏木には家持が赴任した越中国府跡があり、富山県には大伴一門の佐伯氏の末裔とされる一族が今も多く残っている。大伴氏は天皇の命で東北に転任した為、大伴一族については神官等に末裔とされる一族が残っており、 富山県射水市に末裔が残っているが、一門の佐伯氏の方は今も数多く富山県に分布している。現在、佐伯氏が神官を勤める高岡市福岡町の木舟城に在る「貴船神社」の神官もかつては大伴氏だったと云う。奈良の平城宮の朱雀門には、天皇を護った大伴氏と佐伯氏の名前がつけられた「大伴門」「佐伯門」が有ったと云う。大伴氏も佐伯氏も天皇家を守る武人で在り神道を司る一族であるが、今も富山県射水市の大伴氏や富山県立山町や高岡市に分布する佐伯氏は神職が多い。
大伴家持が国司として管轄していた後の越中国五位庄赤丸地内には、「延喜式神名帳」に掲載されている「赤丸淺井神社」が有る。「赤丸淺井神社」では、皇室の主要な神で大伴氏が氏神とする「高皇産霊神 タカミウブスナノカミ」を祭神として祀っている。この辺りは地元の豪族の利波氏(トナミシ)が支配しており、「利波臣志留志」は「米五千石」と言う巨額の献金を奈良の大仏造営資金として「聖武天皇」に献上しており、この「海ゆかば--」の一節が、「大仏造営の為の鍍金用の金が不足して悩んでいた聖武天皇に対して陸奥国で金が発見されたのをお祝いする一節」である事から、この歌が作られた時期は正に「利波臣志留志」の寄進した米が大仏造営の為に大量に奈良に送られた時期と一致する。
大伴家持は「万葉集」の中で東大寺の僧「平栄」を迎えて歓迎した歌が残っており、国司待遇となった「利波臣志留」が開発した東大寺庄園図にはこの「平栄」がサインしている所から、「大伴家持」、「僧平栄」、「利波臣志留志」は同時期に東大寺庄園開発に関わっていた事が分かる。

■「赤丸淺井神社」に隣接する「浅井城」は「利波臣志留志」の子孫「石黒氏」が居城にしたと伝わる。しかし、「神社由緒」に拠れば、元々は「元正天皇二宮の創建」と伝わり、越中の古書の「肯搆泉達録」には浅井神社横に建っていた「浅井城」は元々、この「元正天皇の二宮」の居城で在ったとされる。この人物は系図からすると「文武天皇の子で、聖武天皇の腹違いの弟の石川朝臣広成」で在り、「元正天皇」が親代わりになられた皇子達で在る。
「石川朝臣広成」と「大伴家持」は「恭仁京」で共に「内舎人」と言う下級役人を経験しており、万葉集には三首が掲載されている。
古記録の「三代実録」には、この「内舎人」は名家の子息が任命されて、自由に遊びを楽しんだ事が記されており、天皇に仕えて雑事を担当したこの役職の者は社会的にも将来の昇進が約束された職位だった様だ。この二人が越中で関係が在った事は直接の史料は見られないが、万葉集掲載の経緯からして、大伴家持にとっては親しい間柄だったものと推定できる。ここから、聖武天皇-石川朝臣広成-大伴家持の関係も窺われ、近年迄、万葉集研究者もこの点に触れた研究をした方は見られない。「赤丸浅井神社」に大伴氏ので氏神「高皇産霊神」が祀られ、この「赤丸浅井神社」がその友人の「石川朝臣が創建」とされる事から、「赤丸浅井神社」は聖武天皇や越中国司大伴家持と密接だった事が推定できる。「赤丸浅井神社」は当初、「行基」が社を開き、白山山伏の「泰澄」が庵を建てて「元正天皇」の健康を祈った共される事から、東大寺大仏造営の為に勧進をしていた「行基」と「赤丸浅井城」を居城にしたとされる「石川朝臣広成」、後に居城とした「越中石黒氏」の先祖「利波臣志留志」との関係も窺われる。「延喜式内社赤丸浅井神社」に東大寺大仏造営の関係者が様々に絡んで登場する事や「東大寺庄園石粟庄図」に「浅井神一段」と浅井神社の神田の記載が在る事から、天皇家所縁の浅井神社が東大寺大仏造営に関しても大きな役割を果たしていた事が推定できる。





■「赤丸浅井神社」の神田として「東大寺庄園石粟庄図」に「浅井神一段」と記載されている。
又、赤丸浅井神社の社殿には各所に皇室の紋の「十六菊花紋」が彫り込まれている。
【※「赤丸浅井神社」には大伴氏の祖先神で皇室の主要な神とされる「高皇産霊神 タカミウブスナノカミ」を主祭神として祀っており、「赤丸浅井神社」が延喜式内社として崇敬された背景が、大伴氏→石川氏→利波臣の関係として窺われる。元々、「石川氏」は蘇我氏で在り、蘇我入鹿、蝦夷が殺害された為に、残された蘇我石川麿の系統は姓を「石川」とした。】

※ちなみに「空海」も四国に渡った佐伯一族の出身とか !! 赤丸に元在った「川人山鞍馬寺」「総持寺」も空海縁の真言宗!!
この「川人山鞍馬寺」の三社権現は七社の寺坊と「赤丸浅井神社」、「石堤村浅井神社」、「舞谷村八幡宮」で構成されていたが、後の最盛期には48の寺坊が寺谷内・麻畑と呼ばれる場所を中心に建てられていたと云う。※「福岡町史」



■【赤丸浅井神社祭礼】
●6月5日 10:00より 田祭り神事  ●9月20日 14:00より 秋祭り神事 ●11月29日 15:00より 新嘗祭神事  

※神事は白川神道の佐伯神官により執り行われています。





🔴🏯🐎「室町幕府」と「川人山鞍馬寺」、「赤丸浅井神社」の関係!! ⇒「門跡寺院聖護院」と「川人山鞍馬寺」。

2018-11-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■富山県赤丸村の「川人山鞍馬寺」⇒「相国寺供養記」に遺される「聖護院」、「加賀富樫氏」との密接な関係!!


















■室町幕府「第三代将軍足利義満」は「越中五位庄」を室の追善料として「相国寺」に寄進した。その後も「五位庄」は足利家菩提寺の「等持院」、「等持寺」の庄園として続いた。
(※「相国考記」)

■「宝歴10年」に石堤浅井神社の神官が三社権現筆頭の「川人山鞍馬寺」の許可を得ずに勝手に独自の祭壇を石堤浅井神社に持ち込み、「延喜式内社赤丸浅井神社」にのみ許されていた「各戸一升の初穂米徴収権」を無視して石堤浅井神社神官が勝手に領内から米を徴収したとして、大きな騒動に成った。「延喜式内社赤丸浅井神社」は「越中吉岡庄」の領主の「後白河上皇」の皇子が初代門跡になられた「門跡寺院聖護院派」の「川人山鞍馬寺」の持ち宮であり、「石堤浅井神社」はその配下の一神社に過ぎないが、吉田神道の後押しで神社簒奪を図ろうとした。これに対して、歴代皇室の子弟や藤原摂関家から門跡を輩出して、朝廷からも重視されていた聖護院派の寺院は連携して加賀藩にその不法を訴えた。
室町時代には「足利義満」が「五位庄」を足利家菩提寺「相国寺」に寄進した事も在り、その五位庄の中核施設の「川人山鞍馬寺」や「赤丸浅井神社」は室町幕府でも重要な施設で在った様で、【相国寺塔供養記】にも「大覚寺」等と共に「聖護院」も「僧正が5人の従者を従えて」参列し、「加賀の富樫氏が足利義満の帯刀としてこの供養会に参列」している。
(※「相国寺塔供養記」)

■聖護院派が連携して加賀藩に訴えたこの訴訟では、「聖護院派本山」、「加賀藩寺社奉行」の裁定で、「石堤浅井神社が勝手に持ち込んだ祭具の撤去と初穂米徴収権を赤丸浅井神社に認める事」が命令された。従って、「延喜式内社浅井神社」についての「論社騒動」もこの時に決着しているのだが、明治以降、石堤浅井神社は別神社とされた為に、現在も「延喜式内社、五位庄53ケ村総社、郷社」を独自に自称し、合わせて高岡市関町「総持寺」の持ち宮の「水の宮」が石堤地内に在るとして独自の絵図を作成して「総持寺の旧地は現在の石堤長光寺の敷地」と言う異論を掲げ、「高岡市史」もこの主張に影響されて、高岡市教育委員会は現在も「総持寺の旧地は石堤村」と言う珍説を唱え続けている 。「歴史」と言うものはこの様に政治権力を背景にした偽物が登場して、真実の歴史を歪めており、誰かの監視が無いと勝手に改編されて仕舞うから恐ろしい。
(※この裁判の全記録は「金沢市図書館 皆月家文書」に遺されている。)
(※近年でも、「高岡市政400年誌」には元赤丸村に在った高岡市関町の総持寺が「高岡市石堤村に在った」と高岡市教育委員会が監修して発行している。この寺に付いては、この寺の「千手観音像」が国宝に指定された時の官報とも言える「国宝概説」にも「元赤丸村に在った」とされているにも関わらず、現在も未だ虚偽の珍説を垂れ流し続けて恥じる事も無い。
この様な恥知らずな連中が教育の本山の「高岡市教育委員会」を牛耳っている。正に新興宗教の町で在る。)








■明治維新では廃仏毀釈運動や両部神道の廃止が打ち出された為に、「赤丸浅井神社」の別当を勤めていた「西宝院」は還俗して「川人他治馬」と名乗り「延喜式内社赤丸浅井神社神官」に成り、名字、帯刀を許されたと云う。
・「赤丸浅井神社」の掲額は加賀藩第十三代前田斎泰の記毫に拠る。
(※加賀藩の歴史家「森田柿園」が遺した石川県立図書館の「森田文庫」には藩政時代の巨大な絵図「浅井神社古墟図」が遺されている。)

■「関白豊臣秀吉」は聖護院を重視して別院格として「方広寺」を建立して、「京都大仏」を造営したが、「豊臣秀頼」が「方広寺」に鐘を寄進して、その銘の中に「国家安康」と記載された事を口実に「徳川家康」が豊臣を滅ぼしたと言う事は有名だ。従って、徳川幕府は豊臣恩顧の勢力に対抗して「吉田神道」と手を組み、「諸社禰宜神主法度」を作成して吉田神社に神官の任命権を委ねて、聖護院派を圧迫したと云う。

(※法相宗の「華厳教」は正式には「大方広仏華厳教」と呼び、華厳の世界の中央には「留舎那仏」が鎮座されるとし、「方広寺」は「大方広仏」から名付けられ、そこには黄金の「留舎那仏」が祀られていたと云う。)









🔴🏯 映画「のぼうの城」と越中国「赤丸浅井神社」と「亀阜和尚」(※蜷川新衛門と富山の最勝寺)!!

2018-11-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


■[周囲を湖に囲まれ、浮城とも呼ばれる忍城(おしじょう)の領主・成田氏一門の成田長親は領民から「でくのぼう」を略して「のぼう様」と呼ばれていた。]----映画「のぼうの城」の舞台である。この映画は、豊臣秀吉の配下の石田光成が忍城を攻めた時を描いているが、この成田氏が越中と関わりのある武将という事は余り知られていない。
成田氏は、熊谷市を拠点とし、十三代顕時は上杉憲実に従い戦功をたて下総守となり、更に戦功を立て、関東管領足利政知(堀越公方)より、越中富山城を賜ったと云われる。成田顕泰は、現在は富山市にある光厳寺(神保氏の菩提寺。後に前田家の墓所となった)を開いている。光厳寺は、藤原鎌足の後裔といわれる武蔵国忍城城主で後に出家した成田顕泰が、当初、砺波郡増山村で開基となり長禄寺を設立した。その後、射水郡守山城外に移って光厳寺となる。
【註】成田顕泰:一四六五年~一五二四年七月九日没。山内上杉家の家宰を代々務めた室町幕府上野・武蔵守護代の惣社長尾家の三男で成田正等の養子として入る。長尾氏は桓武平氏の流れを汲む鎌倉氏の一族。源頼朝挙兵の際は平家側だったが平家滅亡後、同族三浦氏の配下となり、執権北条氏と三浦氏が戦った「宝治合戦」の時、ほぼ全滅したが、その後鎌倉時代末期から関東に入部した上杉氏の筆頭の家臣として栄え、代々に亘り山内上杉家と婚姻を重ねて血族となる。長尾氏の越後守護代の家系から長尾景虎が出て、永禄四年(1561年)上杉家から「上杉」の名跡と「関東管領」の職を譲られ、上杉謙信と名乗った。上杉謙信が越中に数回に亘り攻め込んだが、上杉謙信にしてみれば、越中は同族の成田氏の旧領で有り、上杉側からの見方では逆に越中に居た勢力は「侵略者」と考えられる。歴史的に見れば、戦勝者が敗戦者の歴史を塗り潰し、回復を求めて戦った武将は往々にして地域史では「賊將」のレッテルを貼られている事が多い。

■【赤丸浅井神社での法要ー富山県史に記載される[五位庄赤丸在住の藤原直家の法要]の記録】
光厳寺二世で後に「能登総持寺」の三十六世住持になった東海宗洋が「瑞泉二代亀阜和尚初七日忌香語」で、五位庄赤丸在住の藤原直家が赤丸の川人山鞍馬寺・浅井神社で父の十三回忌(明応四年十一月十六日、一四九五年)、十七回忌(明応八年十一月十六日、一四九九年)を営んだと記録している。これを「光厳東海和尚録」という。東海宗洋は神保氏。(※『光厳東海和尚録』富山県史史料編中世 参照)

◍亀阜和尚:亀阜豊寿(きふほうじゅ)
一四三五~一五〇一年室町-戦国時代の僧。近江 (滋賀県)の人。近江の曹洞宗新豊寺の雪叟一純について出家し後に同寺天叟祖寅(てんそうそいん)の法をつぐ。能登総持寺、越中瑞泉寺(新川郡林崎)の住持をつとめ、富山市黒崎に最勝寺を開く。(※現在は富山市蜷川) 明応一〇年一月五日死去。六七歳。東海和尚の師匠(旗雲租旭師)の兄弟子に当る。天叟祖寅の直弟子。

■富山市蜷川は一休禅師(一休さん)の逸話に出る足利義満の家臣の「蜷川新右衛門」の一族が領有したとされ、キックボクシングの格闘家武蔵の先祖に当る。「最勝寺」は北陸自動車道富山インター近く、富山県健康増進センター・富山県医師会館の隣地に有る。
古い「最勝寺由緒」に「一休禅師の開基」とするものがある。この時に「越中五位庄」は足利義満の管理下に在り、「金閣寺」で知られる「相国寺」の庄園となっており、この時、赤丸村浅井神社で「赤丸在住の藤原真家の父の法要を亀阜豊寿が導師となって営んだ」記録が富山県史に記載されている。



【註】『足利義満』の時代には「越中五位庄」(元の越中吉岡庄)が『足利義満』により「相国寺」(※塔頭寺院として「金閣寺」がある。)に寄進されている。


■足利幕府関東公方・鎌倉公方と成田氏の盛衰
足利尊氏は権力を掌握すると京都に幕府を開き、関東鎌倉に第二子の基氏を配置して箱根以東の十か国を統治させた。これを関東管領と言ったが、その執事を務めたのが上杉氏だった。尊氏の孫の満兼は富強を誇り、自らを関東公方・鎌倉公方と称して、執事の上杉氏を関東管領とした。しかし、鎌倉は宗家の室町幕府に対抗して独自の動きをした為、絶えず紛争が起こっていた。上杉氏は当初、4家に分かれていたが、扇谷上杉氏・山内上杉氏の両家が残り、満兼の子持氏の時、執事の山内上杉憲実は「永亨の乱」を起こし、室町幕府と通じて持氏を倒し、正式に室町幕府から管領に任じられる。その後、八代将軍足利義政の時、持氏の子の成氏を迎えたが父の仇とする持氏は上杉憲実を殺害。幕府は公方の成氏を攻撃した為、成氏は鎌倉を捨て下総古河を本拠とし「古河公方」と呼ばれた。上杉一門は古川公方に対抗する為鎌倉に将軍義政の弟の足利政知を迎え、伊豆北条の堀越に御所を構え「堀越公方」と呼ばれた。しかし、その結果、山内上杉・堀越公方と扇谷上杉・古河公方の勢力で関東管領職を巡って対立する事になる。延徳二年(1491年)堀越公方足利政知の子の茶々丸の乱行により伊豆は混乱し、この機会を狙っていた伊勢新九郎は堀越公方家の茶々丸を追放し、伊豆一国の領主となり、韮山に築城して北条新九郎と名乗り、出家して北条早雲宗瑞と称した。この家系を「後北条氏」と呼ぶ。北条早雲の孫の氏康が跡を取り小田原城に拠点を構えていたが、北条氏の拡大を嫌った駿河の今川義元は山内上杉の管領上杉憲政に密使を送り援軍を求めた為、対立していた両上杉氏がこれに呼応し、古河公方の足利晴氏もこれに加わった。北条氏の川越城の攻防(川越夜戦)で北条氏康が勝利し、古河公方は下総古河へ逃げ帰り扇谷上杉朝定は戦死した。残った山内上杉憲政は居城の上野国平井の城を北条氏康に責められ、越後の長尾景虎を頼り、上杉の名跡と関東管領の職を譲り、景虎は上杉謙信と名乗る。しかし、北条氏康は関東公方の足利晴氏を捕え相模国波多野に幽閉し、その子義氏(北条氏康の妹である足利晴氏の正妻の子)を関東公方にして遂には関東の実権を握った。ここに、北条氏康、上杉謙信、今川義元の対立の時代となった。
下って天正十八年(1590年)、関八州を制覇していた北条氏に対して豊臣秀吉は三万二千の兵を連れて従わない北条氏康の子の氏政とその子の氏直の追討にかかり、小田原城の北条氏を攻めた。氏政とその子の氏直が秀吉方の上洛要請を蹴り、籠城か迎撃かの論議を長々と行って遂には籠城と決まった。これを「小田原評定」と呼んでいる。しかし、前田、上杉、真田等の秀吉方は諸城を落とし、北条氏の拠点の北関東鉢形城の北条氏那は開城し、小田原城は徳川家康の娘を妻としていた北条氏直の働きで氏政、氏照の切腹を条件として和議が成立した。しかし、この時になっても忍城の成田氏長は唯一降伏しなかった。忍城は埼玉県の利根川、古利根川、荒川、元荒川が流れる行田市の西方の一画にある。文明十年(1478年)、地元の豪族成田正等・顕泰親子は支配していた扇谷上杉氏に属していた同族で武蔵七党の一つの児玉党の忍大丞一族を滅ぼして、延徳二年(1490年)成田氏十五代目成田下総守親泰が築城した。これに反発した扇谷上杉氏は忍城を攻撃するが扇谷上杉氏の家宰の太田道灌の仲介で和解(後に道灌は扇谷上杉氏に殺害された。)して以後、成田氏の居城となる。その後、北条氏康、上杉謙信の攻撃にも耐えた難攻不落の城であったが、豊臣方の石田光成は地形を利用した「水責め」を行い、周辺の河川を堤防で塞ぎ、籠城する成田氏長と対峙した。このシーンが「のぼうの城」のシーンである。成田長親は成田氏長の従兄弟で城代の父が亡くなった為、父の後を継いだ。成田氏長は忍城を築城した親泰の孫で、石田光成が堤防を造る為に採用した人夫はその食料、賃金を忍城に秘かに運び込み、この策略で氏長は耐え忍び、後には開城した。この後、関八州が徳川家康の所領となり、会津若松の蒲生氏郷の配慮で一万石を与えられ、豪勇の名高い娘の甲斐姫は豊臣秀吉の愛妾となり、成田氏長は烏山三万石の城主になった。成田長親も会津若松に移ったが、その後出家し尾張国に住み、慶長十七年(1613年)亡くなった。菩提寺は名古屋市大須の曹洞宗大光院(開山の明嶺理察は武蔵国埼玉郡忍「現・埼玉県行田市」の清善寺6世)※愛知県名古屋市中区大須2丁目7-25



■越中へ度々侵攻して一時期、越中、能登の一部を占領した上杉謙信。

■神保氏張の家臣の寺島牛之助に対して、天正五年、上杉謙信は「五位庄の安堵状」を授け、寺島牛之助は高岡市石堤の「柴野城」を居城として五位庄を統治した。


🔷🔹 天皇家庄園【越中吉岡庄】に在った二つの【方広寺】と所縁の寺院⇒「京都方広寺」、「浜松市方広寺」!!

2018-11-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「保元の乱」で藤原頼長から没収されて「後白河上皇」の庄園に成った「越中吉岡庄」は、南北朝時代の「後醍醐天皇」の時代迄、皇室庄園として続いた。




「門跡寺院 聖護院」


「聖護院派寺院」の「川人山鞍馬寺」(※赤丸村)








天皇家庄園「吉岡庄」の旧跡




■京都府と浜松市に在る二つの「方広寺」は、各々、南北朝時代の南朝の「後醍醐天皇」との因縁が深い。
「後醍醐天皇」の庄園で在った「越中吉岡庄」(※室町時代からは「五位庄」。高岡市福岡町赤丸周辺。)には、この後醍醐天皇所縁の二つの「方広寺」の系列寺院が在った。
その一ツは、「吉岡庄」の中心神社「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当寺院で「門跡寺院聖護院派」の「天台宗 川人山鞍馬寺」が在った。聖護院には「吉岡庄」の領主「後白河上皇」の皇子や「後醍醐天皇」の皇子が「聖護院門跡」となられており、豊臣政権の時には、京都の方広寺へ「聖護院宮道勝」が入寺されている。
又、もう一ツの寺院は元々「臨済宗」で、後に曹洞宗に成った「曹洞宗 天冠山三光寺」が在り、この寺院は「後醍醐天皇」、「後村上天皇」から「国済国師」・「三光国師」の称号を賜った「孤峯覚明」が開山と成った「三光寺」が在る。

①【京都 天台宗 方広寺】
京都市東山区にある天台宗の寺で、天正14年(1586年) に豊臣秀吉が創建して木造の大仏(京都大仏)を造営した。慶長元年の大地震で倒壊して慶長7年には炎上した。慶長14年には「聖護院宮 道勝」を「方広寺大仏殿寺務職」に任命した。
慶長17年には豊臣秀頼が再興し、慶長19年に落慶法要が行われたがその鐘の銘に「国家安康・君臣豊楽」と記されていた事から、徳川家康は【「家」と「康」の字が分断されているのは徳川家康を呪ったものである】とクレームをつけて「大坂の陣」で豊臣家を攻撃した。寛文2年 (1662年) には地震で大仏殿が倒壊し、寛政10年(1798年) には焼失した。天保年間 (1830~44年) には仮殿を再建し,半身の木造大仏を安置し、1880年にはその遺跡に豊国神社を建立し,1884年には鐘楼を建てこの鐘を吊るした。通称は「大仏」と云われた。
▼【聖護院宮道勝】;
「興意法親王 コウイホウシンノウ」(1576年生〜1620年没)は陽光院誠仁親王の第5王子で後陽成天皇の実弟。母は新上東門院晴子(勧修寺晴右の娘)。天正4年生。幼称は五宮、初名は邦慶。法諱は初め道勝、のち興意。法親王は出家したのちに親王宣下を受けた。
慶長19年豊臣家が再建していた方広寺大仏殿がほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。総奉行の片桐且元は、駿府の徳川家康へ大仏開眼供養の導師や日時の報告等を逐次行ったが、開眼供養と大仏殿供養の日取りや供養時の天台宗・真言宗の上下を巡り、対立を生じていた。7月26日、家康は片桐且元に宛て、開眼・大仏殿供養日が同日である事、大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわない事に加え、その内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じた。梵鐘の銘文は、南禅寺の文英清韓によって選定され、有名な「国家安康」・「君臣豊楽」が含まれていた。
興意法親王の書き下ろした棟札銘文に、棟札の形式や大工頭(棟梁)の名を入れていない事や天台・真言の座論も不審がある事等で江戸幕府の嫌疑を受け、六角東洞勝仙院に蟄居し、元和2年(1616年)には聖護院寺務および三井寺長吏を退いた。
三井寺の記録・『園城寺再興畧記』によると、幕府の嫌疑が晴れ、北白川の地に照高院再建にあたり徳川秀忠より旧伏見城二の丸御殿の寄付等を受け、洛東白川に新坊を建立し、そこに照光院を移した。元和6年9月、お礼言上の為の江戸下向し、滞在中の10月7日急死した。45歳。薨去の前日に将軍家から見舞いの使者として、水野忠元が宿舎の廣岳院に赴いたが、伺候の最中に突如頓死するという事件も起きた為にこれは徳川家の豊臣圧迫の一環としての暗殺だったとも云われる。(※「コトバンク」等参照)

②【浜松市 臨済宗 深奥山方広寺】
臨済宗方広寺派の大本山で静岡県引佐郡引佐町奥山に在る。
至徳元年(西暦1384年、南朝元中元年)、後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」によって開かれた。当地の豪族、奥山六郎次郎朝藤が自分の所領の一部を寄進して堂宇を建立し、「無文元選禅師」を招いた。末寺170カ寺を擁し、その大部分は静岡県西部地方に所在する。
▼【無文元選禅師】
方広寺を開山した。元亨3年(1323)後醍醐天皇の皇子として京都に生まれる。後醍醐天皇が崩御された翌年の暦応3年(1340、南朝興国元年)、京都建仁寺にで出家し、可翁宗然禅師、雪村友梅禅師について修行する。康永2年(1343、南朝興国4年)には、元代の中国に渡って禅の修行をする。中国漸江省の温州に着き、福建省の建寧府にある大覚明智寺に古梅正友禅師を訪ねて参禅修行し、後に諸方を行脚して「天台山方広寺」に行く。観応元年(1350、南朝正平5年)に帰国し、京都岩倉に帰休庵を結び、やがて美濃(岐阜県)に了義寺、三河(愛知県)に広沢庵を結ぶ。この広沢庵に遠江(静岡県)奥山の豪族奥山六郎次郎朝藤が参禅し、無文元選禅師の父の後醍醐天皇の追善供養と、禅師の師恩に酬いるために、所有する山林の中から50町余りを寄進して、堂宇を建立して禅師を招く。その辺りの光景が中国の「天台山方広寺」に似ている事から、この寺を「方広寺」と名付けたと云う。
・応安六年七月に【三光国師 孤峯覚明】の法嗣の「無言叟智訥」(古剣智訥)が「無文元選」の像(方広寺蔵)に「托開千聖宅 把定仏祖関 看面目也無 背面高居方 広絶塵寰」と賛を加えている。

◆浜松市の「井伊家菩提寺」の「龍潭寺」の開山となる「黙宗瑞淵」も初めは「智淵」の名で当寺に属していた。
(※「開山黙宗大和尚行実」龍潭寺蔵)
《※「龍潭寺」;静岡県浜松市北区にある臨済宗妙心寺派の寺院》
⇒永禄11年(1568年)12月、「徳川家康」は遠江への進攻の際に「龍潭寺」で休息した(武徳編年集成)。天正8年(1580年)、徳川家康から寺法が下され、祈願所としての勤行の励行や祠堂物の徳政免許、無縁所としての勧進許可などが規定された。
(※「徳川家康判物」方広寺文書)
天正15年、後陽成天皇は「当寺住持は天皇の許可によって就任する事」と定められたと言う。
(※「後陽成天皇綸旨」・「近衛前久書状」同文書)

■【三光国師】(※「孤峰覚明」)
富山県高岡市柴野に「三光国師」を開山とする【三光寺】が在り、この寺は南北朝時代に、後醍醐天皇の庄園で在った「越中吉岡庄」に大和国宇陀郡から移り住んだと云われる「宇多源氏」の刀工の【宇多派刀工】の菩提寺で、前田利長の妻に成った「織田信長」の四女「永姫」が再建した寺院である。
その後、元臨済宗で在ったこの寺に前田家菩提寺の「曹洞宗繁久寺」の住職が隠居し、この時に三光寺も曹洞宗に改宗し、繁久寺の末寺と成った。
(※「繁久寺」は元々、能登総持寺の前身とされる曹洞宗永光寺に近い越中国氷見郡に在ったと云われる。)









▼「孤峰覚明」《文永8年(1271年)~康安元年/正平16年5月24日(1361年6月27日)》は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧。俗姓は平氏。諱は覚明。道号は孤明。
陸奥国会津の出身で、比叡山延暦寺で受戒し、天台教学を学んだ。紀伊国「興国寺」において入宋僧である心地覚心に参禅し、更に出羽国の了然法明、那須雲岩寺の高峰顕日、博多崇福寺の南浦紹明に師事し本格的な禅宗を学ぶ。1311年(応長元年)中国(元)に渡り、天目山の中峰明本・古林清茂などに参禅したのち帰国した。鎌倉建長寺の南浦紹明・【能登国永光寺】の瑩山紹瑾に師事したのち、出雲国に雲樹寺を開いた。
《※「能登国永光寺」は能登国に在る「曹洞宗総持寺」の元寺。》
鎌倉幕府に対して挙兵し、伯耆国船上山にいた「後醍醐天皇」に招かれて天皇からの諮問に答え、「国済国師」の号と「天長雲樹興聖禅寺」の額を賜った。その後、京都南禅寺に招かれたがこれを辞退し、紀伊国興国寺に住した。再び上洛して妙光寺に住し、一方で大和国吉野で後村上天皇に衣鉢を与え「三光国師」の号を賜った。
・大阪府堺市西区と高石市には「浜寺」と呼ばれる地域があるが、この地に「三光国師」が建立した「大雄寺」が吉野山日雄寺に対して「浜寺」と呼ばれたことに由来する。

(※Wikipedia,コトバンク等参照)

🔴💠【北國全太平記】・【北陸七国史】・【富山県西礪波郡紀要】 「佐々成政」と「前田利家」の激闘⇒『能登末森城の戦い』と過酷な加賀藩の越中占領政策、越中西部の住民の北海道移住の歴史!!

2018-11-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




●「能登末森城の戦い」⇒越中西部の激戦の記録!!
「北陸七国史」、「北國全太平記」、「富山県西礪波郡紀要」等に記載されて全国に流布された戦乱の様子。








■「高岡市福岡歴史民俗資料館」には「田畑家文書」として「福岡町沢川」の土豪「田畑兵衛への知行状」等が遺されている。
「田畑兵衛」は佐々成政が能登末森城を攻めた時に、佐々成政に能登への間道を案内すると称して、道なき山道に佐々軍を迷わせて自らは逃亡したとされる。その為に、佐々軍の末森城への到着が遅れた為に、急を聞いて駆けつけた前田利家軍の参戦で落城を免れた。その結果、知らせを受けた豊臣秀吉が参戦して、佐々成政は降伏し、赦されて、暫くは新川郡を知行されたが、遂には肥後に伝封された。その戦功を前田利家に賞されて、十村役の上の無役十村役、山廻役と成り家臣待遇を受け、周辺一帯の山林を知行された。





■『能登末森城の戦い』に於ける中山直治の赤丸村「赤丸城」、「浅井城」とその叔父の寺島牛介の居城柴野村「柴野城」
⇒衛星写真に拠る道路地図を見れば分かる佐々軍と前田軍の位置関係と戦略!!
「能登末森城の戦い」は実質的には柴野城の寺島牛介と赤丸浅井城の中山直治軍と能登末森の直接対決で在った。
五位庄の中に在り、しかも県境の要衝に当たる「沢川村」は丁度、両城の中間に当たり、しかも、網の目の様に張り巡らされた山道の結節点に当たる。その「沢川村」を束ねていた土豪の田畑兵衛は佐々軍に味方すると見せかけて佐々軍を遠回りさせ山中で迷子にさせて佐々軍の末森への参陣を業と遅らせた。この身内と思っていた田畑兵衛の裏切りは、赤丸、柴野の佐々軍にとっては思いもかけなかった。このまさかの裏切りで、前田利家軍の応援部隊が到着して、佐々軍は末森城を落とせなかった。この戦いでの失策は実質的に佐々軍の敗北に直結し、その後、前田軍の連絡で越中に攻め寄せてきた豊臣秀吉の大軍は富山市の呉羽山に本陣を設け、出城の安田城を築いて富山城の佐々軍に対峙した。成政は秀吉から「僧の姿で本陣に詫びに来れば許す」とする書状を受け取り、戦う事無く敵陣の中を歩いて秀吉の下に出向いた。途中、敵陣の将兵が嘲笑う中を成政は一人、呉羽山を登り秀吉の下に膝を屈した。
その後、九州熊本に転封になった成政は予てからの知り合いの秀吉の妻ねねに越中富山の立山に咲く珍しい「黒百合」を献上するが、この黒百合が「不吉」だと噂されて、遂には一揆の責任を取らされて成政は切腹させられた。





(※「北國全太平記」(※北陸七国史)には、田畑兵衛の口上等が具体的に記されている。この中に登場する「鳥越城」は白山市の鳥越では無く、津幡町に在った鳥越城の事。)













■加賀藩は越中を支配するに当たり、「能登末森城」に対峙した「木舟城佐々軍」、「赤丸城中山直治」と叔父で「五位庄領主・高岡柴野城寺嶋牛介」、越中西部26万石を知行されていたと言う「高岡守山城神保氏張」の支配地域には徹底的な占領政策を行い、特に沢川村に近い鳥倉村、赤丸村、舞谷村、花尾村周辺には厳罰を以て対応した。この地域には61%~75%もの酷税を幕末迄かけて住民を農奴化した。「赤丸浅井城」、「五位庄総社延喜式内社赤丸浅井神社」を中心として長く越中西部の中心地域で在った五位庄赤丸村の住民の内、山裾の村々の住民は高岡市和田新村に強制移動させられ、赤丸村の浄土真宗の中核寺院の「長善寺」は解体されて、「福岡町長安寺」、「和田村善宗寺」の三寺に分割された。
(※「城端別院善徳寺文書」富山県立公文書館)
明治維新の後、藩政時代に厳しい支配を受けた小矢部川西部の住民はこぞって新興開拓の地の北海道に逃れ、現在もその子孫の方達は郷土が恋しいとされて交流されている方達が多い。









🔴神々の郷「越中五位庄」!! ⇒藤原摂関家、天皇家、足利家と続いた「越中吉岡庄」、「五位庄」

2018-11-16 | 富山県高岡市福岡町赤丸村









■その昔、南北朝時代の後醍醐天皇所領の時代まで「吉岡庄」と呼ばれた富山県西部の「五位庄」は、その後、足利義満により金閣寺で有名な京都相国寺に寄進され、引き続き足利氏菩提寺の等持寺、等持院に寄進された。
長く藤原摂関家領、後白河上皇~後醍醐天皇迄皇室直轄領として続き、一時期には京都下鴨社領にも成り、 その後は室町幕府の管理地と成り越中蜷川氏が統治したと伝えられる。
(※「蜷川の郷土史」)
元正天皇の二宮(*実際は文武天皇の二宮、聖武天皇の弟)が創建され、延喜式にも掲載された式内社で五位庄53ケ村総社として700年代から続き、東大寺の荘園図にも掲載されている赤丸村の浅井神社には、歴代の領主の信仰した神々や仏閣が数多く有った。浅井神社には48坊のお寺と7つの社が有ったと伝え、更に郷内には数多くの神社を抱え、現在はその神々も浅井神社に合祀されて、浅井神社には数多くの神々が祭られている。
浅井神社の御祭神は、琵琶湖にも祀られる河の水神たる「八河江比賈神」(※ヤガワエヒメノカミ)と、神々を地上に遣わした天上の指令神たる「高皇産霊神」(※タカミウブスナノカミ)であり、五位庄にはその昔、京都の賀茂神社が招致されて、上賀茂社、下鴨社が有ったという。上賀茂社は現在、鳥倉村の鳥倉八幡社に合祀され、下鴨社は舞谷村八幡社に合祀されている。何れも利波臣とその子孫の赤丸浅井城城主石黒氏の強い信仰によって勧請された神々と見られる。利波臣は古事記によると「高志利波臣」とされ、浅井神社の元の古い神社を開いたとされる「行基」は「本姓は高志氏」とされる事から両者は「高志氏同族」で在ったか?
(「行基」所縁の琵琶湖の神社にも「八河江比賈神」が祭られている。)
奈良時代には「利波臣志留志」の信仰で琵琶湖系の水神が祀られ、次いで、藤原摂関家により京都の神々が勧請され、両部神道の浅井神社には白山信仰や熊野信仰が加わり、熊野社や白山社の神々も祀られた。
平家、源氏の時代には京都や奈良の神々や八幡社が、天皇家の縁では神明社に「天照大神」が祀られ、後醍醐天皇第八皇子宗良親王赤丸浅井城に在城の時、本拠にされていた長野県の諏訪社を勧請され、正に全国の神々が集う「神々の故郷」となったと考えられる。
特に皇室の関係では京都の神々が祀られ、「保元の乱」で藤原氏長者藤原頼長から没官された後には、後白河上皇の住まいの近くの清水信仰の影響が特に大きかったと見られる。又、京都清水山の山裾には歴代の藤原氏の墓が在ったと云われる鳥辺野が広がる事や藤原伊勢人が創建したと伝わる鞍馬寺が吉岡庄(赤丸村)に勧請されている事から、藤原道長以来の藤原氏の影響も大きい。浅井神社由緒には「一条天皇は河原町に住む左京大夫を浅井神社に勅使として派遣した」と伝わり、これは時の左京大夫の「藤原道長」と考えられる。浅井神社の後ろの神域の山は「清水山」と名付けられ、清水山には頂上に「京都清水寺の千手観音像」を祀る「観音寺」が有り、その山の右の中腹には清水寺の脇侍の「愛宕大権現--将軍地蔵」を祀る「愛宕社」、左には清水寺の脇侍の「毘沙門天」を祀る「鞍馬寺」を配置していた。その山裾には上賀茂、下鴨社を祀り、その跡地は今も「加茂宮」として地名に残っている。明治42年には五位庄内15社を浅井神社に合祀し、正に浅井神社は「神々の集う社」となった。これだけ多くの神々を祀る神社は全国にも数少ない。この一帯には、胎内に「後鳥羽上皇の法名--金剛位理卿」を「本願聖人」と記入した千手観音像を祀る高岡の総持寺も在った。
更には、天神信仰の菅原道真が祭られているのは、その子孫と名乗る加賀前田家の統治の影響が考えられる。両部神道の川人山鞍馬寺・浅井神社の僧・神官の西宝院・川人家は朝に晩に五位庄の民の安寧と災害の除去を祈願して拝礼を行ってきた。古い時代の両部神道では神前でも仏教の読経が行われ「神前読経」と呼ばれた。浅井神社の神官は明治元年迄は「西宝院」という僧であり、空海の思想を継ぐ両部神道では寺院の元に神社が配置され、川人山鞍馬寺を頂点として、「浅井神社」は「赤丸村浅井神社」、「石堤村浅井神社」、「舞谷村八幡社」の三社で構成された三社権現形式の寺院であった。これ等の数多くの寺社を配下に持つ「川人山鞍馬寺」は戦乱の中で福岡町一歩二歩に動き、その後はその一の坊で在った「西宝院」のみが残って明治迄その信仰を維持してきたが、明治の廃仏毀釈の際にその僧が「川人他治馬」と名乗る神官に還俗した。時には政争で五位庄の所有者が変わり、時には戦乱で焼かれて苦難の中を西暦717年から今日まで営々として守り継がれてきた。

■その浅井神社に伝わる「祝詞」や「祓詞」がぼろぼろになって最近、拝殿から発見された。その中には合祀された神々についても記載されているが、今はその歴史を知る人々が少なくなり、神官の川人家が近年、途絶えた事から神々の歴史を知る人達も少なくなった。この度、歴史の記憶を呼び起こす為に、虫食いでボロボロの「祝詞」を復元した。

「太祝詞」
掛巻毛畏支浅井神社乃御前尓(に)   畏美々々毛左久
常毛守利恵美給倍畄(る)廣久厚支恩頼乎(お)蒙利弖(て)氏子等乎
始米五位荘((ごいのさと)乃諸人等諸乃災比無久平穏尓(に)今日毛暮奴
畄(る)我故尓(に)其忝佐(かたじけなさ)乎歓喜弖(て)夕日乃降尓稱言竟(おえ)奉良久乎(お) 御心豊尓聞肴志給倍止畏美々々毛白須

「兼務神社拝禮祝詞」
掛巻毛畏支比乃御社尓添弖(そえて)齋比奉利座寸奉畄。神皇産霊((かむみむすびの)大神。八幡(やはたの)大神。相(あへ)殿(どの)尓(に)座(ま)寸(す)。天照((あまてらす)大神。熊野(くまのの)大神。
八幡(やはたの)大神。天満(てま)大神。八幡(やはたの)大神。諏訪(すわの)大神等(たち)。日吉(ひよしの)大神等(たち)。愛宕(あたごの)大神。白山(しらやまの)大神。富士大神。庚能((かなへの)大神。
赤丸舞谷((まへのや)入會(いりあへ)尓座(ま)寸(す)。清水(きよみづの)大神。向野新(むかへのしん)尓座(ま)寸(す)。天照((あまてらす)大神。石名田尓座(いしなだにま)寸(す)。天照((あまてらす)大神。麻生谷(あそや)尓座(ま)寸(す)。熊野(くまのの)大神。少名彦(すくなひこの)大神。諏訪(すわの)大神。八幡(やはたの)大神。西廣谷(にしひろたに)尓(に)座(ま)寸(す)。
白山(しらやまの)大神。天照((あまてらすの)大神。諏訪(すわの)大神。沢川尓座(そうごうにま)寸(す)。愛宕(あたごの)大神。東石堤尓座(ひがしいしづつみにま)寸(す)。八幡(やはたの)大神。笹川尓座(ささがわにま)寸(す)。丹生川(にふかわ)大神。熊野(くまのの)大神。高田島尓座(たかたじまにま)寸(す)。五位庄((ごいのしょうの)大神等乃(たちの)。御前乎遥尓(はるかに)拝美奉利弖。畏美々々毛白左久。敷座畄氏子等乎。守利恵美給倍止稱言竟(おえ)奉良久止白寸。


●赤丸浅井神社管理の宮

・愛宕社 祭神 軻愚突智命
赤丸村古谷五四〇二(古村)

・清水社 祭神 大巳貴命    清水山鎮座
赤丸村古谷五三六三(古村)

●赤丸浅井神社に合祀されている神
(明治四十二年合祀)

・神明社 祭神 天照大御神
赤丸村向野新村字石名田八一八番(向野新村)

・神明社  祭神 天照大御神
赤丸村焼田六七一四(鞍馬寺)

・八幡社 祭神 誉田別尊
赤丸村砂田六二九〇(鞍馬寺)

・熊野社 祭神 伊弉諾命
赤丸村古谷五〇三一(古村)

・天満社 祭神 菅原道真
赤丸村子吉三八七三(古村)

・諏訪社 祭神 健御名方命
赤丸村縄田二五一七(川原)

・諏訪社 祭神 健御名方命
赤丸村草安五七五三(鞍馬寺)
 
・庚能社 祭神 金山彦命
赤丸村焼田六六一九(鞍馬寺)

・庚能社 祭神 金山媛命
赤丸村古谷五二七五(古村)

・日吉社 祭神 大山咋命
赤丸村勝負田一四五四(古村)

・日吉社 祭神 大山咋命
赤丸村山王四三九八(古村)

・富士社 祭神 木花咲夜比売命
赤丸村山王四五〇六(古村)

 
・白山社 祭神 白山媛命
赤丸村古谷四八三八(古村)

■今も尚、全国からの崇敬高く、白山信仰の山伏、十六夜講(十六日の月を愛でて法楽し、宮にお参りする人達)のお参りが絶えない。
その昔は朝廷から勅使が派遣され、近年迄は神社庁から奉幣使が使わされていたという格式の高い神社で有る。神社参道には数百年も経たであろう天然記念物の杉並木が連なり、往古の繁栄を忍ばせる。

📕⛵ 『太平記』に見える射水市の「放生津城」と「白山神社」⇒後醍醐天皇の「恒性皇子」と「名越時有」!!

2018-11-16 | 富山県高岡市





「後醍醐天皇」の皇子「恒性皇子」は越中二塚村で暗殺された。





















■南北朝時代に、富山県射水市の新湊小学校の敷地に在った「放生津城」は、北条一門の「名越時有」の居城で在った。現在の高岡市南部の神社に幽閉した後醍醐天皇の皇子「恒性皇子」をも暗殺して全力で戦ったが多勢に無勢、放生津城は敵に囲まれて、女子供は海に逃して戦った。しかし、遂には城中の者全員が自害し、女・子供も含む一族全員が海の藻屑となった。「太平記」には「平家物語」の「壇之浦の戦い」の様な光景で、女官の華やかな衣装が海面に漂って、悲惨な一族が海に漂う様子を著している。
この後には、舟がこの海上を通ると霞の中から亡霊が現れ、「我こそ名越時有」と告げて、かき消す様に消えたと言う。
富山県高岡市二塚1343に「白山神社」と言う神社が在る。古いこの神社は、この「名越時有」が社殿を建てたものだと云う。この神社には、「織田信長の根尾氏宛の古文書」も保管しており、系図からすると「巴御前」の一族の「中原氏」にその姓が見られる名門の神官の様だ。この神社の近くには「恒性皇子」を幽閉していた「悪皇子社」と言う神社もある。この「悪皇子」と言うのは「特別な力を持った皇子」と云う意味だと云う。





●この系図の後醍醐天皇第八皇子「宗良親王」は、興国三年、越中石黒氏の「赤丸浅井城」「福岡町木舟城」に入られ、南朝の士気を鼓舞された。赤丸城ケ平山中腹には「宗良親王の墓」と伝わる「親王塚」や宿舎跡とされる「親王屋敷跡」が在る。


●「放生津城の歴史」
放生津城は元々は土塁を巡らし、塀や柵、櫓を取り付けた「守護の屋形」で在ったが、その後、城郭が造られ放生津城になって行く。周辺には河川から水を引き込み、防衛と兵器・食糧等を運び込む水運が確保された。放生津城は約6000坪近くも在ったとされ、北条氏の一族の名越時有が正応元年(1288年)に構築したと伝わっている。後醍醐天皇の皇子で京都の大覚寺門跡で在った「恒性」(コウショウ・ツネタチ)は鎌倉幕府の討幕に参加された為に、元弘三年(1333年)二月に越中に流された。名越時有は恒性皇子を高岡市二塚に幽閉したが、全国で南朝軍が攻勢を強め幕府軍の弱体化が目立ち始めた為、元弘三年五月十四日、時有は恒性皇子を幽閉した場所で暗殺した。この頃、京都六波羅で敗戦した幕府軍に向けて出羽や越後の朝廷方が北陸道を攻め登って来た。時有は越中、能登の御家人を集めて戦ったが、戦況は不利で、放生津城に籠った時有は妻子を海に逃して海に沈め、一族郎党79人は放生津城に火をかけ、妻子の死亡を確認してから全員が切腹して果てたと云う。
「太平記」は、「一人の女房は二人の子を左右の脇に抱き、二人の女房は手に手を取り組んで同じく身をぞ投げたりける。紅の衣、絳アカキ袴の暫く浪に漂ひしは、吉野立田の河水に、落花紅葉の散乱たる如くに見えけるが、寄せ来る波に紛れて、次第に沈むを見果てて後、城に残り留まりたる人々、上下79人同時に腹を掻き切って、兵火の底にぞ焼け死にける。」と記す。
南北朝の終期1392年に後亀山天皇が後小松天皇に神璽が伝えられ、その頃の越中守護畠山持国は在国しなかった為、守護代として神保国宗、長職、慶宗と続き、この間80年間、「放生津館」を構えた。中央では、畠山氏と官領細川氏が争い、明応三年(1494年)には第十代将軍足利義稙ヨシタネ(義材ヨシキ)が神保氏を頼って越中の放生津にやって来た。この頃、実質的に富山県新湊に幕府の臨時政権ができたとする歴史家もある。
石堤村西光寺縁起には、「将軍足利義材」が、度々、立ち寄ったと記載されている。
【「五位庄」は「足利義満」が「相国寺」(※「金閣寺」)に寄進して以来、足利家菩提寺の「等持寺」「等持院」の庄園として続いた。】
神保慶宗は謙信の父の長尾為景と永正十七年(1520年)富山新庄城で戦い敗れて、この時に放生津城も焼失したと云われ、その後も神保氏と上杉謙信の戦いが続き、文祿元年(1592年)に廃城されたと云う。


🌸🌙『石動山天平寺』⇒権力者の庄園と悲惨な戦い【天平寺の戦い】・【荒山戦記】!!

2018-11-16 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
富山県氷見市と石川県中能登町に跨がる天平の遺跡「石動山」⇒「石動山」は神話に登場する「石動彦」の座します神聖な山!!





「保元の乱」の後、後白河上皇は藤原氏長者の藤原頼長領の「越中吉岡庄」(赤丸村を中心とする後の五位庄)を没官して自らの「後院領」とし蓮花王院(三十三間堂)に寄進した。その頃、石動山も後白河上皇の直轄地となった。石動山の麓には同じく後白河上皇に没官されて石清水八幡宮に寄進された「一青庄」(※ヒトトショウ)が在り、その近くには越中砺波郡赤丸村に在る「延喜式内社浅井神社」と同じ「浅井」と言う地域が在り、この地域は赤丸浅井神社との所縁を感じさせると云う。
長講堂は後白河上皇の院御所である六条殿内に建立された持仏堂を起源とし法華長講弥陀三昧堂の略称で、後白河上皇は石動山をこの長講堂領として所有していたが、その後この地は寵妃の丹後局の子の宣陽門院に譲られ、源通親がその別当に任じられた。(源通親は仁安3年1168年加賀介を兼任。安元3年1177年加賀権介を兼任。正治元年1199年内大臣。--と加賀に関する役職を歴任している。)
後鳥羽上皇が承久の乱で失脚すると一時期、42か国82ヶ所にものぼる長講堂領は鎌倉幕府の直轄地となったが、翌年、宣陽門院に返還され、その後は後鳥羽上皇の孫の後嵯峨天皇に譲られて院政の財源になったが、後嵯峨上皇は大覚寺統の亀山天皇には譲らず持明院統後深草天皇に譲渡され、その後は持明院統に受け継がれた。大覚寺統の後醍醐天皇も1326年(嘉暦元年)の後伏見院から花園院への長講堂領移転を認め、1351年(南朝正平6年、北朝観応2年)の正平一統の時も南朝の後村上天皇も当時の北朝光厳院の長講堂領領有を認めた。正平一統を機に持明院統(北朝)の皇統が北朝3代目崇光天皇の系統から後光厳天皇の系統へ移った為、皇位継承と並んで長講堂領の継承を巡る紛争が発生した。1398年(応永5年)に崇光天皇が崩御すると後小松天皇(後光厳天皇の孫)は崇光天皇の子栄仁親王から長講堂領を没収した。この紛争は1428年(正長元年)に崇光天皇の曾孫にあたる後花園天皇が後小松天皇の猶子として皇位を継承するまで続いた。石動山は上杉謙信の越中攻めや南北朝の桃井直常の戦い等で戦乱に巻き込まれ壊滅的な打撃を受け、一時期は廃墟になっていた。現在は史跡として整備され保存されている。
又、石動山の峰続きの「荒山砦」は、前田利家が1000人以上の僧や婦女子を惨殺した「石動山攻め」の戦場に成り、「荒山合戦」として今もその惨状が伝えられている。

📕🏯🐎『北国太平記』の「石動山の殺戮」と 『北国全太平記』に記される「能登末森城の戦い」 ⇒ 『前田利家』の真実!!

2018-11-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■『越中の戦記』
=>『北国太平記』と『北国全太平記』


■「前田利家戦功図」 (北方心泉作)
(※金沢市では北方心泉の作品が文化財に指定されている。 )




■「国史画帖 大和桜」




■高岡市内の守山城の城主神保氏張とその家臣の柴野城城主寺嶋牛之助・甥の赤丸・浅井城城主中山直治は佐々成政に従い石川県の能登末森城で前田利家と戦った。負けた越中砺波郡の諸将はある者は前田家にすり寄り、ある者は意地を通して領外に落ち延びた。神保氏張は佐々成政に従い、熊本に転じ、成政の死後は徳川家康に従って旗本として遇された。五位庄領主寺島牛之助(牛介)は鉄砲の腕前を買われて加賀藩に士官し、高岡町奉行や算用場奉行等の要職を勤めた後に罪を得て能登島に流されそこで生涯を閉じた。赤丸城の中山直治は敦賀に逃れて敦賀の今井家を継いだ。しかし、残された砺波郡、取り分け赤丸城や柴野城が在った小矢部川と西山一帯に囲まれた小矢部川の川西地域は、施設が破壊され、寺院は移され、西山沿いの住民は農奴として無産の頭振り百姓として現在の高岡市和田の和田新村の開発に従事させられ極貧に喘いだ。(※「富山県立公文書館資料」)
通常は「四公六民」で40%の課税標準だが、佐々成政の牙城の赤丸城の麓の舞谷村には75%もの課税が行われ、それ以外の村々の小矢部川川西の鳥倉村75%、花尾村71%、赤丸村61%、細池村70%、馬場村70%の重税が課せられ、その他の西山沿いの集落にも60%以上の税が課せられた。加賀藩からは「村御印」と云う課税通達が村々に発給され、この書面は再発行がされなかった為、紛失、汚損は重罪とされ、それだけで「手鎖の上、入牢」の処罰を受けた。赤丸村の肝煎「五衛門」も処罰を受けて、遂には亡くなっている。
(※「杉野家文書」福岡歴史民俗資料館)

■「加能越三箇国高物成帳 部分」
(※金沢市立玉川図書館 発行)


■事情の知らない歴史家は、これは小矢部川川西の生産高が高い為、或は品質が良い為だと解説しているが、加賀藩の情け容赦の無い占領政策を知らない者の戯言に過ぎない。当時は種籾を借りれば二割の利子、地域の土木工事や藩の工事には駆り出され、森林の利益は山役、河川の漁には川役として課税された。又、米を集める手数料として米の1割が役人の手元に入った。勿論、米は百姓が地域の「お蔵」に迄届けるのだが、検査と称して役人によって米が抜かれたと云う。地域は十村役、肝煎、組合頭と言う三役に徴税の義務が課され、連座して罪を問われた。示された納税が期限迄に出来なければ女房、子供も売り払い、それでも払えない凶作の年には小矢部川に次々と遺体が流れ着いた。この遺体処理費用も村の連帯責任とされた為、村々では小矢部川に立ち番をして流れて来た遺体を長い竹棒で下流に押し流していたと古老は伝えている。
赤丸地域の住民は、為政者が代わる度に家を焼かれ、農地を荒され、人間が売り買いされると云うのが実状で在った。特に五位庄は南北朝時代の桃井直常の「五位庄の戦い」や「一向一揆の五位庄への集結」、上杉謙信の「石動山焼き討ち」、前田利家の「石動山・西山」の焼き討ちにより徹底して施設は燃やされ、前田利家は、住民は女子供に至る迄斬殺して寺の山門に一千以上の首を掛けて見せしめにし、山から流れ出る谷川は流れる血で真っ赤になり溢れたと地域の古記録や伝承は伝えている。

■『北国太平記』の「前田利家石動山攻め」





■佐々成政勢が前田利家との雌雄を決する為に能登末森城の戦いに望んで柴野城、赤丸城、木舟城から出撃した時、高岡市福岡町沢川の田畑兵衛という土豪が、能登末森城の戦いに向かっていた佐々成政に味方して道案内をするフリをして成政陣営を山中でワザと迷わせ、末森の戦いに遅れさせたという話がある。この話しは通俗的な日本史とされる「北国全太平記」と云う江戸時代の物語に詳しく載っている。田畑兵衛は富山県から石川県に向かう山中の沢川村の土豪であったが、昔から能登の入口の羽咋郡・鹿島郡の二郡を領有していた平家の末裔だと云う。前田利家はその所領を返してやるとでもいったものか、沢川の田畑兵衛は見事に裏切り、前田側が戦勝した。前田利家はその後、沢川村周辺の見渡す限りの山地を田畑兵衛に与え、寛延元年、文久三年の御扶持人十村名簿には「無組御扶持人」として田畑兵衛の名前がある。又、250年近くも山廻役を務め名家とされたと云う。(※「高岡市福岡町歴史民俗資料館」には「田畑家」文書がある。)

■『北国全太平記』の「能登末森城の戦い」








■「田畑兵衛由緒」(※富山県立図書館)


■「前田利家の武生での殺戮」
福井県武生市では「前田利家は一向宗門徒を虐殺した武将」として言い伝えられている。
武生 一向一揆では、山々に逃れた民百姓を徹底的に探しだし、女、子供に至る迄、熱釜に放り込んで焼き殺したり、磔に架けて虐殺した。その時逃れて怨みを記入した屋根瓦が残されている。伝承は前田利家の狂気を今に伝えている。




■豊臣秀吉は各種の諜報活動と調略を駆使して、闘わずして味方に着ける事に腐心したが、前田利家の政治手法もこれに似ている。武骨な佐々成政は各種の調略で豊臣秀吉から離反させられ、まんまと前田利家が100万石の領地を手中にした訳だ。前田家は元々畠山氏の統治時代からの能登の雄で有った長氏の所領を没収し、代わって越中五位庄赤丸村の領地を宛がった。代わりに赤丸村等の五位庄を上杉謙信以来安堵されていた元佐々氏の配下の寺島牛介は助けられて加賀藩の家臣となり、その子孫の寺島蔵人(原家からの養子)は高岡町奉行、算用場奉行等を歴任し、加賀藩の重役として処遇を受けたが、遂には能登島に配流されて生涯を閉じた。加賀藩は巧みな情報操作と、巧みな策略、統治手法で徳川の時代を生き延びた。
戦乱は勝者と敗者の歴史を塗り替え、勝てば官軍で、敗者の歴史は消され、勝者が作り上げた「歴史」だけが残り、都合の悪い真実は隠される。戦争史に正義や真実は無い。全てが勝者の主張に沿った「歴史」だけである。今、高岡市の歴史は「前田家」一色である。長い古代、中世、近代の歴史は全て加賀藩の色眼鏡で脚色され、加賀藩におもねた家臣や町民の事だけが歴史として標榜されている。現代の高岡市は加賀藩の延長かと見紛う位だ。京都や奈良等が古代・中世に歴史の焦点を定めているのと同様に、富山県の歴史では長く統治した畠山氏や神保氏、桃井直常等の南朝の武将、上杉謙信、一向宗等の時代は霞んで見える位、前田家一色なのである。

📕📖📃 「越中古代氏族 射水臣」の子孫「三善為康」の著作「朝野群載」に記載される「八幡太郎源義家が越中への赴任を希望した文書」⇒【清和源氏系図】!!

2018-11-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●越中古代氏族」の「射水氏」の繁栄!!
(※「越中四郡」の一つ「射水郡」の名の元に成っている「射水臣」。「射水臣」は「利波郡」の名の元に成っている「利波臣」の同族で「武内宿弥」の末裔とされる。)

▲「越中吉岡庄」は南北朝時代末期に「五位庄」と改名された (※「宝永誌」)



■「越中射水氏」の「為康」は都に出て「算博士」の「三善家」の養子に成り「三善為康」と名乗る。鎌倉時代に三善一族は評定衆にも成り、幕府の中枢にも入っている。「三善為康」は「朝野群載」と言う著作を発表して、【源氏の棟梁の「八幡太郎 源義家」が越中国に転勤したい】との希望をした事を記載している。康平七年三月、源義家は越中守と成る。(※「本朝通鑑」砺波誌)
「源義家」は源氏の中では軍神とされ、清和源氏の一族は義家を「八幡太郎」と呼び、「八幡社」を信仰している。「木曽義仲」が「倶利伽羅山の戦い」の前に小矢部市の「埴生護国八幡宮」に戦勝祈願の願文を納めたのも、越中国が「八幡太郎義家」の所縁の地で在った事も在った様だ。
⇒【八幡太郎義家】は「清和源氏」で、「木曽義仲」の先祖に当たる!!




「清和源氏系図」(※部分)


■室町幕府では「三善氏」の末裔の「飯尾氏」が幕府の中枢に入る。
「飯尾氏」からの曹洞宗の名刹「信光寺」(※高岡市国吉)に対する文書が幕府記録に残る。「信光寺」は「能登総持寺」の前身の「能登永光寺」と共に曹洞宗の古刹。尚、室町時代に「越中五位庄」を訪れた元「相国寺」の僧で、連歌の「飯尾宗祇」は越中蜷川一族「蜷川新右衛門」の連歌の師匠で在り、室町幕府第三代将軍「足利義満」が「相国寺」に寄進した「五位庄」を訪れて幾つかの「連歌」を遺したと云う。「五位庄加茂村」には「宗祇塚」と呼ばれる場所が、「加茂長光寺」の裏山に在る。

「里の名の こんかきくけこ ごえのしょう(五位庄)」(宗祇)