赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

💠❄【幸若舞】京都本能寺で繋がる「平氏織田信長」と「源氏桃井直常」の因縁 ⇒ 足利一族「斯波氏」の家臣「織田家」と足利一門「桃井直常」の越中での痕跡!!

2018-06-24 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



●「越中」と「織田信長」
⇒足利一族で南朝側で戦った「桃井直常」は「五位庄の戦い」で敗れて行方知れずに成ったと言う。
(※「花栄三代記」群書類従)
桃井直常の子孫が開いた「本能寺」で信長は明智光秀に討たれた。
「織田信長」の妹は高岡守山城の「神保氏張」の妻と成り、高岡市二塚の「白山宮」には織田信長から美濃の根尾氏に「越中の真宗門徒が大阪石山本願寺に向かわない様に監視する様に」とする命令書が残されている。「信長」と「越中」の歴史が様々に重なって来る。(※砺波市の「根尾家」にも同様の信長の文書が残されている。⇒砺波市重要文化財)






■信長が討たれた「本能寺」は越中の富山県大門町(現射水市)浅井城跡に日蓮宗本門法華派を開いた足利、斯波の一族で桃井直常の子孫の「日隆聖人」が開き、織田信長に鉄砲の情報を伝えていたと云われる。本能寺は織田信長が宿泊する為に砦の様に改造されていた様だ。又、越前朝日町に逃れた桃井直常の孫の幸若丸が編み出した「幸若舞」は織田信長初め、戦国武将に愛されて一子相伝で江戸末期迄伝承された。特に織田信長は幸若舞の「敦盛」を好んだと云われる。越中五位庄赤丸村、石堤村や福光町には明治初年迄その舞手の「舞々人」が住み、各地を巡業していたと云われる。「幸若舞」は、一子相伝とした為に衰退して、現在では九州のみやま市や織田信長の先祖の地の福井県越前町織田(旧織田町)の隣地の越前町(旧朝日町)に僅かに伝承されている。




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🔴💢加賀藩の暴政ー五位庄赤丸村住民が強制移動させられて高岡市和田新村が開発された。 (-_-#)

2018-06-24 | 富山県高岡市


●前田家に占領された五位庄赤丸村の住民を強制移動して高岡市和田新村を開発した。
■「和田佐助の和田善宗寺敷地寄進状」(善宗寺所蔵)とその時に加賀藩に浄土真宗城端別院善徳寺が提出した文書(富山県立公文書館所蔵)が遺されている。「朝日山和田善宗寺」は赤丸村の「朝日山長善寺」を分割して和田佐助が用地を寄進して創建され、この時に福岡町の「長安寺」と三カ寺に分割された。







■「和田新村の開町に伴う赤丸村の寺院・住民の移動の歴史!!」
和田新村は1649年、砺波郡佐野村佐助他四名と射水郡北島村二郎三郎が和田野に町立てすることを藩に申請。七十戸の屋敷を設けたが、1699年には87軒となり、その内77件が「頭振」と云われた「小作」であった。1853年には116軒となったが、菅笠、駄賃稼ぎの者が多く一軒当たりの面積の規模も小さい町であった。(※「たかおか歴史との出会い」高岡市発行)
※和田村の町立ての中心の佐野村の佐助は万治三年(1660年)に「隠田の罪」に問われて「磔の刑」で刑死した。和田中町の「神明宮境内」に佐助の碑が有り、毎年十月十五日に佐助の慰霊祭が行われていると云う。 
※和田佐助は浄土真宗の城端別院善徳寺の力を借りて、赤丸村西円の住民を和田に移住させて和田新村を開発し、赤丸村朝日山長善寺を分かち、和田新村に朝日山善宗寺を創建している。
又、赤丸浅井神社の拝殿は和田の住民から乞われて、後に、和田諏訪社に移設されて現在も使用されている。この拝殿には皇室の「十六菊紋」と「桐紋」が建物の各所に彫り込まれており、赤丸浅井神社が文武天皇の二宮によって創建された事を示している。







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🌸📃【越中吉岡庄】「木曽義仲」と「朝日山長善寺」(高岡市福岡町赤丸)の由緒 ⇒源氏系某城主の末裔創建の古寺の由緒!!

2018-06-24 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「越中吉岡庄」の直ぐ近くに「木曽義仲」が戦った「源平の古戦場」の「倶利伽羅古戦場」が在る。




■「越中吉岡庄(赤丸村)絵図」


■「朝日山長善寺」は源氏の武将の末裔の創建と伝わる。


■「福岡町史」では「源氏の武将の越前高雄城城主」の末裔が創建したとされ、古書には「朝日城城主」の末裔が創建したと記載されるこの寺「長善寺」は、福岡町長安寺、和田善宗寺の親寺で、「赤丸浅井神社」の周辺に在った48坊の一つとされている。この寺院の格式は高く、本山では本堂に入れる「飛檐ヒエンの寺格」を持っていたとされて、加賀藩の無役十村役の沢川村田畑家とも縁組していたと言う名門で在った。しかし、赤丸村で圧倒的な門徒数を持っていたこの寺は加賀藩の弱体化政策で、福岡町の長安寺と和田善宗寺に分割され、僅か50戸の門徒を抱える弱小の寺に落とされている。赤丸村の門徒は、城端別院の采配で、和田新村の開発の為に強制的に移動させられ、赤丸村は加賀藩の重臣「長九郎佐衛門」に知行された。現在も和田善宗寺は同じ寺紋を使用して「朝日山善宗寺」と名乗っている。
【▼《飛擔の格式》浄土真宗寺院の寺格(格式:序列)は宗派や時代により変遷があるが、 近世では①院家(筋目、准)②内陣③余間④三之間⑤飛檐(ヒエン)⑥初中後、⑦国絹袈裟、⑧平僧と細分化されていたと云う。その格式によって、寺院内での座る位置や衣装も決められると云う。広大な五位庄でも赤丸村の「長善寺」は飛檐の格式を誇る浄土真宗の中心寺院の一ツで在り、加賀藩はその勢力を割く為にこの寺には僅の門徒しか残さず、弱体化を図った。】



■「貞享二年 寺社由緒書上」(金沢大学日本海文化研究室 編)には、「長善寺」は「元和七年(1621年) 僧 道正 の中興」とされ、「赤丸浅井城中山家文書」には同時期に「妙法寺 僧 道正」の1584年の米借用証文が残されている。この「道正」が同一人とすると、この時期に「長善寺」は「妙法寺」と言う名前で在り、真言宗か天台宗で在った可能性が在る。
又、「赤丸村 長善寺」から分かれた「福岡町 長安寺」は「大永六年(1526年) 僧 玄淨が再興」とされ、「和田村 善宗寺」は「天文十七(1548年)年 僧法知が再興」とされる。
これ等の時期は上杉謙信が越中に侵攻した時期に成り、これ等の寺院は、一向一揆の影響で次々に浄土真宗に改宗していた時期と見られる。
【※「越中一向一揆」は、文明11年(1479年)頃から天正4年(1576年)にかけて、越中の瑞泉寺と土山御坊門徒らが中心となった一向一揆。文明13年(1481年)、福満城の石黒氏は瑞泉寺の一向一揆衆と対立するようになり、石黒右近光義は医王山惣海寺と組んで越中一向一揆衆と山田川で戦ったが、敗れて福野安居寺で自害して果てた。能登畠山氏の要請を受けた上杉謙信は、天文十七年(1548年)八月二十一日、越後の春日山城を出発して越中攻略に向かった。これは、天文十一年(1542年)に越中を攻めた時に長尾信濃守が討ち死にした為に今回はその弔い合戦でも在った。元亀三年(1572年)5月、武田信玄の呼びかけに応じた形で富山県西部の砺波や五位庄(富山県高岡市福岡町赤丸周辺)等に集結した加賀や越中の一向一揆連合軍は、五位庄に集結し、そこから北陸街道を東に向けて進発した。】


■「赤丸浅井城」には、天正年間(1573年-1591年)、五位庄の領主であった「中山治部左衛門国松」が拠り(この時、浅井城は「赤丸村の古城」と呼ばれている)、弟の「次郎兵衛」を「赤丸城」に配置している事から、この借用証文に出ている「中山治部左衛門尉」は「中山国松」の事と見られる。天正9年(1580年)には中山氏が柴野城寺島牛介と共に佐々成政の配下となり、 天正12年(1584年)、亡父の跡を受けた幼少の中山直治が伯父寺島牛介に伴われて、前田利家との戦いで在った能登国末森城の攻防戦において初陣を飾った。 天正13年(1585年)、富山の役によって佐々成政は豊臣秀吉に降伏して越中を放棄して、改めて新川郡を知行された。この時に伯父寺島牛介は鉄砲の腕前を買われて前田利家に仕官したが、中山直治は福井県敦賀に落ちて後には今井家の養子に成った。尚、この時に、中山氏の一部の赤丸城の系統は前田家に仕官した者も居り、この家系は高岡市羽広に残っている。(※「寺島家文書」敦賀市立博物館 所蔵)


■最近、「木曽義仲」の子孫とされる「清和源氏系木曽義仲子孫の佐野氏系図」の古書を入手する事が出来た。「木曽義仲」の子の「義高」は「源頼朝」の娘の「大姫」と結婚したが、「木曽義仲」を嫌う頼朝はこの「義高」の暗殺を企て、遂には殺害されたと云う。しかし、「木曽義仲」の系統の家系図に拠ると、「義仲」には「巴御前」の他にも数人の愛妾がおり、系図には四人の子供が見られる。「木曽義仲」は倶利伽羅合戦の後に、「後醍醐天皇」の皇子「以仁王」の子供の「北陸宮」を富山県朝日町の宮崎城等で匿っていたとされる。「木曽系佐野系図」に拠ると、「木曽義仲」の三男は「岩崎」、「佐野」を名乗って名前には父の「旭将軍」の一字を取って「義旭」と名乗り、諏訪に住んだり、各地に寺院を建立したと云う。
又、四男は「旭」を名乗り、その子孫から「山下」等を輩出している。この四男「義宗」は母親が「巴御前」で有るとも言われ、長男の義高が頼朝に殺害されると、秘かに巴が出産して同族の沼田氏に匿われて育ったと云う。しかし、長男の義高については、秘かに身代わりを立てて頼朝の手を逃れて、石川県の加賀市大聖寺に「慶徳寺」を建立して一族の菩提を弔ったと言う伝説が加賀市に残っている。(※「加賀市史」)しかし、この「義高」の伝承については、三男の義基の事で有るとも言われ、様々な説が在る様だ。



(※「日本の苗字7000傑」)

■「五位庄赤丸村」の「朝日山長善寺」の住職は、代々「旭」を名乗り、源氏の末裔と称しており、「木曽義仲」が「旭将軍」と呼ばれた事共、関係が深い様だ。「旭」と言う姓が珍しいだけで無く、「越中吉岡庄」は「以仁王」の父の「後白河上皇」の庄園で在り、「木曽義仲」は「後白河上皇」の皇子の「以仁王」の「令旨」を受けて平家追討を目指して旗揚げしている。富山県の朝日町には「木曽義仲」の愛妾の「巴御前」の城郭が在ったと「越中志徴」に記されており、「木曽」と「越中吉岡庄」の中間の 富山県朝日町に戦略拠点を構えていた様だ。古書には、「長善寺」の由緒に、「朝日城城主の末裔の創建」とされるものも在り、各地に在る「朝日城」や石川県と富山県の間に在った富樫氏の居城の「朝日城」でも「浅井城」でも無く、富山県朝日町に在った「宮崎城」や「巴御前の城郭」等の古城を指すのではないかとも見られる。

▼「越中吉岡庄」
(※富山県高岡市福岡町赤丸周辺は「後白河上皇」の庄園の「後院領」で在った。)
⇒この庄園は南北朝時代末期に「五位庄」に改名された。



■入手した「木曽義仲系佐野系図」に拠ると、「岩崎」、「佐野」の祖に当たる「木曽義仲三男」の「木曽義基」は系図では「木曽義旭」と記載されており、父、義仲の「旭将軍」の「旭」の一字を名前に付けている。

■能の「鉢の木」の伝承
→「木曽義仲」の三男「木曽義基」は、後の「佐野氏」の祖とされ、四男「義宗」は後の「木曽氏」の祖とされると云う。

・「鉢の木」では、ある雪の日に廻国の僧を佐野源左衛門が家に泊め、貧乏ながら、丹精を込めて育てた「梅、桜、松の鉢の木」を薪の代りに燃やして暖を取る等して精一杯のもてなしをした。その時に、源左衛門は、自分が一族に佐野庄三十余郷の領土を押収されたことを僧に話した。僧が旅立っ後に幕府から動員命令が下り、佐野源左衛門も駆け付けた。源左衛門は執権北条時頼に召し出され、あの雪の日に泊まった僧が時頼だったことを知る。北条時頼は、源左衛門が一族に押収された佐野庄三十余郷を返し与え、さらに家でもてなしたときに使った薪の種類に合わせ、「加賀国梅田庄」、「越中国桜井庄」、「上野国松井田庄」の領土と、さらに小田原城を恩賞として与えたと云う。富山県高岡市には高岡市鴨島の外れから高岡市戸出辺り迄拡がっていたと云う「佐野郷」が在り、古くからの湯治場で在った高岡市福岡町西明寺には「西明寺入道時頼の墓」とされる石碑が残っている。
更に、加賀国大聖寺(※加賀市大聖寺)には、「木曽義仲」の長男「義高」が逃れて開いたと云う慶徳寺」が在る。石川県の「加賀市史」に、「木曽義仲と山吹御前の子の義隆(義高)が滋賀県牧野町海津に梅霊山(現在願慶寺)に庵を設け、その五代の孫「教善」が、文明三年に「蓮如上人」と共に加賀市に移って、現在の加賀市大聖寺に在る「慶徳寺」の祖となったと云う。この加賀市の「大聖寺」は白山五院の1つで在ったと言う古い寺で在ったと云われるが、長野県飯山市にある曹洞宗の寺院にも「木曾義仲の臣、今井兼平の子孫の創建」とされる「大聖寺」が在る。「大聖寺」は全国にも見られる寺院名だが、加賀市と長野県飯山市と言う遠くない地域に、何れも木曽義仲所縁の寺院が在った事は注目される。
【※「今井兼平」は、平安時代末期の武将で、正式には「中原兼平」で、父は「中原兼遠」で、「木曾義仲」の乳母の子で在り、「木曽義仲四天王」の一人とされ、兄に「樋口兼光」、弟に「今井兼光」、妹に「巴御前」が居り、信濃国今井の地を領して今井を称した。「木曽義仲」の乳母の子として義仲と共に育ち、兄の「樋口兼光」と共に側近として仕えた。源平の戦いと成った「治承・寿永の乱」では、治承4年(1180年)に義仲の挙兵に従って、養和元年(1181年)5月、横田河原の戦いで平家の主力の「城 助職」を破り、寿永2年(1183年)には「越中般若野の戦い」・「越中倶利伽羅峠の戦い」・「加賀篠原の戦い」で平氏軍を破って、7月に平氏が都落ちした京都に義仲と共に入京した。10月には「福隆寺縄手の戦い」で「妹尾兼康」を破り、11月に「後白河法皇」と「木曽義仲」が対立した「法住寺合戦」で「今井兼平・今井兼光」兄弟の活躍が著しかった。元暦元年(1184年)正月20日、鎌倉軍に追われ敗走する「木曽義仲」に従って「粟津の戦い」で討ち死にした義仲の後を追って自害した。享年は33才と言う。 (Wikipedia等参照)】

■「源平加賀安宅川合戦絵図」(歌川国芳 作)










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🔴『富山県高岡市福岡町赤丸村』⇒ 【後白河上皇】の「後院領」の【越中吉岡庄】!!

2018-06-24 | 富山県高岡市福岡町赤丸村




■「越中吉岡庄」は初めて院政を敷いた「白河上皇」の時に「上賀茂神社」の庄園として寄進されたと云われる。


■「吉岡庄」については、歴史家の中には氷見の吉岡、富山の吉岡を挙げて「射水郡吉岡庄」として富山の吉岡を比定する学者もいる。しかし、赤丸を中心とした「吉岡庄」(後の五位庄)では、当地こそ「吉岡庄」として伝承されてきた。加賀藩でも奉行が報告した報告書「宝永誌」にその伝承が記載されている。赤丸と隣接する加茂集落の間には、「吾妻鑑」記載の源頼朝の書簡にも出て來る「吉岡成佐」の居館が在ったという場所「吉岡谷」が有り、この「吉岡庄」が吉岡成佐や石堤長光寺の開基の小田氏朝により治められていたとの伝承も有る。又、この吉岡成佐が福岡町木舟城の近辺の大滝地区を開発したとの伝承も有る。氷見や富山には吉岡谷も無いし、伝承も無い。歴史家の推定でどうにでもされてきたと云うのが歴史的な史実だ。福光町図書館には、加賀藩に伝わる「宝永誌」を書写したものが伝わっている。それによると、長く藤原摂関家の庄園で有ったが、「保元の乱」で摂関家長者の藤原頼長が敗れると、この庄園は勝者の後白河上皇に没官され蓮花王院(三十三堂)の糧所となり、その後、後鳥羽上皇~後醍醐天皇の時代まで「後院領」と呼ばれた天皇家伝来の庄園の「吉岡庄」であった。この藤原頼長は、NHKの大河ドラマ「平清盛」で首に矢を受けて亡くなった藤原氏の長者であり、「悪佐府」と呼ばれた当時の知恵者で権力者で有った。この頼長は奥州平泉の周辺にも荘園を持ち、奥州藤原氏に荘園の管理をさせていた。これらの荘園は奥州藤原氏が権力者の藤原頼長に寄進したものだった。越中吉岡庄赤丸と奥州は何れも藤原頼長の庄園で有り、この事が後に義経が奥州下りをした際にも北陸道を選んだ事情かも知れない。義経の母の常盤御前は平清盛との間に女子を出産した後に藤原氏と婚姻しているが、この相手の一族も奥州藤原氏の一族で有ったと云うから、この辺にもその背景が有ったのだろう。「後院領」とは「天皇を引退した上皇の所領」という意味で有り、「宝永誌」によると、この庄園は後醍醐天皇の第八皇子の宗良親王が赤丸浅井城に在城された時、「吉岡庄」を「五位庄」に改められたと云う。「五位庄」は元々領有していた石黒氏の先祖の利波臣志留志が外従五位の下に任官された事から「五位庄」になったと伝承されてきたが、最近の学者の意見では、「後院の庄」「御いのしょう」が「五位庄」となったと云われている。この庄園は、南朝の終わり頃、「下鴨神社」の庄園となり、足利義満は足利家菩提寺の相国寺(金閣寺)に寄進し、足利義持の時にはその半分を足利家菩提寺の等持院に寄進している。
※富山県と石川県境の「石動山」も後白河上皇の時代に上皇の屋敷内に有った「長講堂」に寄進されており、その後も皇室直轄領として続いた様だ。「承久の乱」の後は鎌倉幕府の管理となっている。
※2014年、国立歴史民俗資料館はそのデーターベースの中の「吉岡庄」を「越中五位庄」の前身の赤丸村、加茂村地域周辺と確定しそのデーターベースを修正している。この地域に上加茂、下加茂社が在った事とこの「吉岡庄」が上、下加茂社の荘園で在った事等も検証して長い懸案が解決された。又、2016年には「東寺文書」に見られる、足利義満の時代の「おいの庄」と記載される事についても、「おいの庄」=「五位庄」と確認されて「庄園データーベース」でも「五位庄」と確定された。






■「東大寺庄園図」に記載される延喜式内社赤丸浅井神社の神田「浅井神1段」の記載。


■ 藤原摂関家長者「藤原頼長」の庄園「越中吉岡庄」は「保元の乱」に破れて「後白河上皇」の庄園「後院領吉岡庄」になり、後醍醐天皇迄皇室領として伝領した。(※「兵範記」参照)




■「吾妻鑑」に、後白河上皇の後院領吉岡庄で地頭の吉岡成佐が不法行為を働き源頼朝が交代させる旨文書で回答した旨が掲載されている。


■後醍醐天皇皇子宗良親王は「吉岡庄」を「五位庄」と改名された。「※「宝永誌」福光町図書館所蔵」





■室町幕府第三代将軍「足利義満」は、室の追善料として「越中吉岡庄」を「相国寺」に寄進した。






■「上杉謙信」は高岡市国吉の「柴野城主寺島牛介」に「五位庄安堵状」を授け、高岡守山城主神保氏張と共に上杉家家臣名簿に記載された。


●加賀藩の治世には「赤丸村」は長九郎左衞門、前田典膳等に知行された。



■「国立歴史民俗博物館」の「庄園データーベース」に「おいの庄」と表示されていた部分は、学会では別の庄園とする意見があり、どの庄園の事かが不明になっていたが、博物館の学芸員が協議して頂いた結果、2016.08.31に正式に「五位庄」のデーターベースとして登録されたとの通知が有りました。
これで、「越中吉岡庄」から「五位庄」に名称が変更された過程の様々な歴史的な文書の解明が進む事になります。







🔷【国立歴史民俗博物館の庄園データーベースへの追記事項】
「東寺百合文書」(応永19年)10月17日付二宮信濃入道書状(『富山県史 史料編Ⅱ』576号)によると、斯波義郷(左衛門佐)の所領として見え、東寺造営のための棟別銭が賦課されたことが確認できる。同様の内容が、「東寺百合文書」(応永20年)3月18日付斯波義郷奉行やなた某書状案(『富山県史 史料編Ⅱ』581号)として確認でき、ここでは「五位庄」と見える。ともに東寺造営の棟別銭賦課に関すること、時期が非常に近接していることを勘案すると、「おいの庄」=「五位庄」と判断される。

■「東寺」(※教王護国寺)と「越中五位庄」(※「おいの庄」)の関係が国立歴史民俗博物館によって確認された。
「東寺百合文書」に有る三通の古文書には、室町幕府越中守護畠山満家の時に京都「等持寺、等持院」(※棟頭寺院は金閣寺)の庄園となっていた「五位庄」の「棟別銭」の課税について記されている。

■「東寺」は空海が唐から帰国した後与えられた寺で「教王護国寺」とも呼ばれる。「東寺」には空海が唐から持ち帰った80粒の「仏舎利」が天皇勅封の壺と東寺長者管理の壺に分けて保管されていたが、河内金剛寺に伝わる「後醍醐天皇の勅書」と「東寺長者文観の仏舎利施入状」に拠ると、金剛寺から赤丸村に在った「総持寺」へ伝えられた「千手観音座像」に後醍醐天皇が二粒、文観が三粒の仏舎利を施入されたと伝わり、実際にこの千手観音像の胎内からはこの仏舎利は発見されていないが、仏像の胎内には二ヶ所に「奉納仏舎利」の墨書が残されている。この「東寺」に残されてた「東寺百合文書」に「五位庄」の記載がある文書が残されていた事は、東寺と五位庄の密接な関係を証明するものだろう ❗❗






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🔴 🏯 皇室庄園「越中吉岡庄〈室町時代から五位庄 〉」の史跡位置(※「高岡地方法務局」保管絵図)

2018-06-24 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●幕末から明治初年にかけて使用されていた「絵図」が高岡地方法務局に保管されている。
この絵図には赤丸城ケ平山周辺に在った史跡の位置が遺されている。





■「越中宮極楽寺跡」、「下加茂社跡」、「総持寺跡」、「鍛冶屋町島」(※宇多刀工工房跡)が絵図から推定できる。
「越中宮極楽寺」は後醍醐天皇が浅井城に入られた時に創建されたと云われ、「極楽寺由緒」によると、現在は高岡市二番町に在る「極楽寺」がこの寺であるとされる。

■「越中宮極楽寺が越中吉岡庄の極楽谷に創建された」事を伝える「極楽寺由緒」














■「下加茂社」は京都の下鴨神社が勘請されたもので、この神社に舞を奉納した「舞屋」が在った事から「舞谷村」の名称に成ったとされる。南北朝時代には舞谷村麻畑に南朝の武将の桃井直常の三男が「西大寺」を建て、直常の孫が考案した「幸若舞」を伝える「舞々人」が明治迄舞谷村に住んだと云う。この「幸若舞」は神社にも奉納された。














■「総持寺跡」の隣地の谷間には「鍛冶屋町島」が在り、ここに南北朝時代から「大和国宇陀郡」から「宇多国光」が移り住み、子孫は江戸期迄富山県内でで作刀したと言う。




■「東大寺庄園石粟庄」に浅井神社の神田が在った事を伝える「正倉院絵図」と、「後白河上皇以来、蓮華王院三十三間堂の庄園で在った」事を伝える「東大寺文書」



■「延喜式内社赤丸浅井神社創建の聖武天皇の弟 石川朝臣広成」





■国立歴史民俗博物館の庄園データーベースに記載される『越中吉岡庄』


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🔴📜「延喜式社赤丸浅井神社縁起」に見る真実の歴史⇒「義経記」に登場する勧進帳の場面「二位の渡し」!!

2018-06-24 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「越中史徴」(森田柿園 著)に記載される「延喜式内社赤丸浅井神社は元正天皇の二宮の御創建」とする根拠に成っている『越州川人山三社記』の記載(※「福岡町史」)











■門跡寺院「聖護院派」で在った「川人山鞍馬寺」は、「赤丸浅井神社」、「石堤浅井神社」、「舞谷八幡宮」の三社を抱える「三社権現形式」の寺で在り、この寺の創建は「元正天皇」が親代わりを勤められた文武天皇の第二皇子で在ったと云う。この人物は父を文武天皇、母を嬪(※ビン 側室)の「石川刀自娘 イシカワノトジノイラツメ」として産まれたが、兄の「首皇子 オビトオウジ」(※後の聖武天皇)の母は「藤原鎌足」の子の「藤原不比等」の娘の「宮子」で在り、正室では無いものの「夫人 ブニン」と呼ばれる身分で在り、実際には天智天皇の皇子とも云われる(※「大鏡」)権力者の「藤原不比等」は当然、我が孫の「首皇子」の立太子を企んだ。一方、「石川刀自娘」の系統は凋落しつつあった「蘇我氏」で在り、「蝦夷」と「入鹿」が「天智天皇」と「中臣鎌足」に殺害されてからは、「蘇我氏」を名乗る事を憚って「石川氏」を名乗っていた。権力闘争の結果、「藤原不比等」はもう一人の嬪の「紀竈娘 キノカマドノイラツメ」 も含めて濡れ衣を着せて朝廷から追放した。この時に「石川刀自娘」が産んだ「広成」も朝廷から追われたが、「聖武天皇」の母代わりを勤めた伯母に当たる「元正天皇」は勅令(※延喜の継嗣令)を発して「全て天皇の子供は親王として待遇する」として「広成」には「石川朝臣」と賜姓された。(※「続日本紀」)この人物は、当初、「内舎人」と言う低い官職に就き聖武天皇の造られた恭仁京に赴任して、歌った歌が「万葉集」に三首掲載されている。「大伴家持」も恭仁京で内舎人の職に在ったとされる事から、二人の交流も在ったものか?
「大伴家持」が越中国司に成って越中に赴任している頃に「石川朝臣広成」も「東国三十三ケ国の統治」を任されて越中に赴任していたのだろうか? 「大伴家持」が国司としてすぐ近くの「伏木」に館を構えていた時に「石川朝臣広成」は「延喜式内社赤丸浅井神社」を再興したことになる。「川人山鞍馬寺」は元々、白山を開いた僧「泰澄」が浅井神社の敷地に庵を開いたのが始まりと伝えられており、「石川朝臣広成」が「浅井城」に居城された時に「赤丸浅井神社」はその城の鎮守でも在ったと云う。又、「延喜式内社赤丸浅井神社」は創建当初は出雲系の「八河江比売神」を祭神としていたが、この頃には、皇室八神の再高神の「高皇産霊神」を祭神にした様だ。この神は皇室の神で在ると同時に、皇室を守っていた武人の「大伴氏」の祖先ともされる。このは 背景には、大伴氏と文武天皇皇子の石川朝臣広成との繋がりも在ったからだろうか?

■現在も「延喜式内社赤丸浅井神社」の建物には皇室の紋の「菊紋」が各所に彫り込まれている。又、浅井神社の神域で在る浅井神社の背後の山林には浅井神社の神官の「川人家」と皇室の紋の入った古い墓標の在る「石川家」の墓だけが残っている。この墓はこの「石川氏」の末裔の墓で在ろうか? この「石川氏」は浅井神社との特別な付き合いが在ったらしく赤丸浅井神社の別当の川人家には「石川氏は八軒百姓と呼ばれた豪農」で在り、先祖伝来の釜を伝える旧家で在ったと云う。この石川本家は明治に成ってから北海道に移住したが、赤丸村には現在も数軒の石川家が残っている。
「森田柿園」は「越中志徴」の中で「元正天皇は女帝で在り、子供が居なかったから、この浅井神社縁起は信じがたい」としているが、実際にこの人物が生存していて万葉集に歌迄遺している事から、柿園には古代の天皇家の事情が 判らなかったと見られる。
又、往古、小矢部川は西山の麓に沿って流れ、庄川と赤丸浅井神社前の「悪口淵」で合流していたと云う。この水系については「福岡町史」を編纂された「中川幸作氏」が「簑のしずく」と云う著作の中でその経路を遺しており、この「悪口淵」(※悪王淵、阿光ケ淵)は広大な水郷を形成していた為に難所で在ったと見られ、「義経記」ではこの赤丸浅井神社前の「二位の渡し」(※「二位の宮」御創建の浅井神社前の渡し場)から義経主従が舟に乗ったとされる。この渡し場で弁慶が義経を打擲した勧進帳の場面が展開したとされる。(※「悪王淵」は広大な水郷で在った事から龍神が住むとされたが、実際は元正天皇が聖武天皇を呼ぶ時に「吾子」と呼ばれた事から「吾子ケ淵」の展化したものと見られる。)

■「事実は小説よりも奇なり」と云う。実際には現在ではこの渡し場の名残は無いが、加賀藩の時代には流路を変えた小矢部川に「五位の渡し」と言う官営の渡し場が在った事から、位置的にもこれが「二位の渡し」の名残と見られる。現在はこの渡し場の跡に「五位橋」が架けられている。





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🔴🔸「義経記」記載の「如意城」(五位の城)は石黒氏の居城【赤丸浅井城】!!

2018-06-24 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸










●越中の米は小矢部川や庄川等の河川を利用した船便で富山湾の伏木河口に運ばれ、海上の船便で福井県の敦賀港に運ばれ、陸路、京都や奈良の都に運ばれた。庄川と小矢部川は、江戸期まで途中で何本も庄川支流が小矢部川と合流しており、古い時代の小矢部川が西山丘陵の真下を流れていた頃は庄川支流が丁度「赤丸浅井神社」の前で合流し「阿古ケ淵」と呼ばれる広い水域を形成していたと云う。

■「赤丸浅井神社創建は元正天皇の二宮」と伝わり、元正天皇はその兄の聖武天皇が即位した時の詔で「吾子美麻斯王 アコミマシオウ」と聖武天皇(首皇子)の事を読んでおり、その弟の二宮(石川朝臣広成)も「吾子 アコ」と呼んでいた可能性が高い。
元正天皇は「天皇の子はすべて親王とする」という勅令を出している。聖武天皇を即位させる為に藤原不比等が陰謀を巡らし、文武天皇妃の石川刀自娘を皇室から排除し、その皇子の石川朝臣広成も臣籍に降下した「藤原氏の貶黜 ヘンチュツ 事件」は有名であった。その為に元正天皇はこの様な勅令を出したものと考えられる。(※「女帝の世紀」仁藤敦史)

■「阿古ケ淵」(「阿古=我が子=吾子」)は「元正天皇二宮創建の、又は住まいした赤丸浅井神社の前の大きな淵」を意味したものと考えられる。赤丸浅井神社の神域には神官の人家と石川家の古い墓だけが今も残されている。近くには「親王塚」と伝わる遺跡も残されている。「阿古ケ淵」は小矢部川、庄川が合流し、流域の東大寺荘園の米が神域の前を通過する地点であり、東大寺を建立した聖武天皇の弟ゆかりの宮「赤丸浅井神社」は特別な神社で有ったものと考えられる。(✳「阿古ケ淵」は「悪王ケ淵」とも呼ばれ龍神伝説にも繋がった様だ。)「赤丸浅井神社」に伝わる所では神社前では身分に係らず必ず「下馬」して拝礼して通過したものだと云う。この「式内社五位庄53村総社赤丸浅井神社」は、東大寺大仏造営の際に米5000石(セキ)を寄進した「利波臣志留志」の末裔の石黒氏が居城とした「赤丸浅井城」の鎮守社で有り、「赤丸浅井城にはその昔、元正天皇の皇子が居城された」と富山県に伝わる「肯構泉達録」という古書にも記載されている。元正天皇は女帝で文武天皇の第二子の石川朝臣広成にとっては叔母に当たる。文武天皇は子供が幼い時に亡くなられた為、一時期はその母親の元明天皇が即位されていたが、その次には文武天皇の姉の元正天皇が即位して、幼い首皇子(後の聖武天皇)と石川朝臣広成の親代わりになったのだ。当時は天皇に即位する年齢が30歳前後と遅かったらしい。

■[赤丸浅井城の歴史]
高岡市に合併する前の西礪波郡役所が発行した「西礪波郡紀要」には、【「浅井城祉」赤丸村に在り。孝霊天皇の第三皇子彦刺方別命の五世の孫礪波臣の姓を賜はり(古事記による)その後裔累世此地方を領して比處に居館せり。礪波臣志留志は聖武天皇の時従五位外に序せられ爾来五位殿の庄園と云う。是より近郷を五位庄と云ひたり。(続日本紀中越史料雑纂)後 花園天皇の頃より石黒光弘の後裔比地に住し 延元中 次郎光景比地に城を築きて南朝の為に謀りしことあり。興国二年宗良親王を比地に奉迎せり。親王の随臣中山氏 累世居城せり(太平記櫻雲記中越武家大系圖による)中山家の系譜によれば浅井城は当家代々の居城なりしが天正五年十六世国松に至り上杉謙信の為に亡ぼされしと。】と記載されている。(※「中山氏」は「上杉謙信」に亡された後、守山城の神保氏治の家臣の高岡柴野城寺嶋牛介の家臣となり、寺嶋牛介が上杉謙信から五位庄安堵状を授けられて上杉家臣団に加わった後は寺嶋氏と縁組みをして上杉家臣に加わった。「金沢寺嶋蔵人邸文書」に寺嶋牛介が上杉謙信から下賜された「五位庄安堵状」が遺されている。又、敦賀市博物館には「中山家文書」が遺され、寺嶋氏との縁組み、佐々成政への臣従についての記載がある。)

■聖武天皇とその弟の赤丸浅井神社創建の石川朝臣広成
聖武天皇(首皇子)の母の宮子は藤原不比等の娘であったが表に出る事を好まず、石川朝臣広成の母で蘇我氏系統の石川刀自郎女は文武天皇の嬪で有ったが藤原不比等の陰謀で廃され、息子の石川朝臣広成と共に臣籍降下させられ、息子は母の系蘇我氏末の「石川」を名乗っている。この時に同じく嬪で有った名門紀氏の紀竃郎女も不貞を理由に廃されて追放されたと云う。石川朝臣広成は後に「高円朝臣広世」と賜姓される。この為「赤丸浅井神社」は「越中吉岡庄」と呼ばれた藤原氏の荘園、天皇家の荘園であった時には、蘇我氏の設立した神社として、後には徳川に敵対した聖護院の系統の神社として圧迫され続けた続けた歴史を持つ。
(※「高円山 タカマドヤマ」は聖武天皇の別荘があり、狩りを楽しんだと言われる。現在は奈良の大文字焼きで「大」の字が送り火として点火される山としても有名だ。聖武天皇亡き後、高円朝臣広世と賜姓されたのは兄の聖武天皇のお気に入りの遺領を石川朝臣広成が継いだ為と思われる。)

▲[越中吉岡庄」は白河天皇の時に上賀茂神社の庄園となり、「吉岡庄」となったが、元々は藤原氏の庄園であり、白河天皇は藤原氏の庄園を没官して神社の庄園とした様だ。その後、藤原摂関家の藤原頼長の庄園となったが「保元の乱」で後白河上皇に敗れて後は後白河上皇の「後院領吉岡庄」となり、後鳥羽上皇から後醍醐天皇迄皇室の庄園として続いた。
※赤丸浅井神社の伝承では「一条天皇は川原左京(藤原道長か?)を遣わされた。」と伝え、天皇家と藤原氏が浅井神社と関係があった事を窺わせる。藤原道長は一条天皇の伯父。
※「続日本記」、「天皇と藤原氏」馬場朗著 三一書房発行 に詳しく掲載されている。

※「赤丸浅井神社」は正式には「浅井神社」だが、末社に「石堤浅井神社」が有り、吉田神道の画策により三社権現形式の「赤丸浅井神社」から分離され、「石堤浅井神社」こそが延喜式に掲載される神社として長く争ってきた。加賀藩は争論の中で「赤丸浅井神社」を本社として認定し、「石堤浅井神社」の主張を排除してきた。しかし、徳川幕府と手を組み、両部神道の聖護院派を敵視した唯一神道を主張する吉田神道は次々に神官の裁可権を行使して両部神道から神社の分離を画策した。徳川と豊臣の争いの口実になったのが「方広寺」の鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」の文字であったが、この「方広寺」は門跡寺院聖護院の隠居寺で有った為、吉田神道は徳川の意向を得て聖護院派と激しく争った。徳川家康を久能山に葬った時は臨済宗の金地院崇伝の主張した「吉田神道」で行われ、南光坊天海は改めて神号を「権現」として日光東照宮に両部神道(天台宗と神道集合した山王一実神道)で改葬した。「赤丸浅井神社」と「石堤浅井神社」も中央の徳川幕府の争いに巻き込まれたとも云える。
●「当ブログでは区別する為に「浅井神社」を本社「赤丸浅井神社」と末社「石堤浅井神社」と記載している。」

■『石黒氏の一部が長谷川と名乗り名古屋に移って「如意郷の如意城」の城主となっていた』と「浪合記」※金沢市立玉川図書館蔵 には記載されている。「石黒氏の歴史の研究」に記載される『越中石黒系図』に拠れば、源平盛衰記に登場して「倶利伽羅谷の戦い」で木曽義仲に付いて戦った有名な「木舟城主石黒光広」の父は「赤丸浅井城主石黒光景」に当たる。又、「加賀林一族」(※北国新聞社刊)に拠れば、「越中石黒氏の一族の加賀林氏は源平の戦いで源義経に従って戦い、戦功を立てた恩賞として加賀、越中を賜った。」とされている。「加賀林氏」は藤原利仁を祖とする「藤原氏」で在り、後白河上皇の庄園「越中吉岡庄」は、上皇の庄園の「後院領」になる前は「藤原摂関家長者・左大臣藤原頼長」の庄園で在ったが、「保元の乱」で頼長と崇徳上皇が敗れた後に後白河上皇によって没官されている。加賀林氏は石川県鶴来町を本拠にした為に「白山修験道」と争い、終に比叡山の訴えで林家の頭領が捕縛される事態に成った時には、「越中吉岡庄」の領主「左大臣藤原頼長」の口添えで「恩赦」を受けたと云う。加賀林氏は越中石黒氏の一族で在り、藤原氏を名乗っており、藤原頼長の代官として「越中吉岡庄」を守っていたのは「石黒氏」だった事にも起因するだろう。この「後白河上皇」は内心、源義経を応援していた様で、上皇の皇子の「守覚法親王」は源義朝の妻の実家の熱田大宮司家を通じて源義経の弟の範頼と繋がる人物で在った事から、密かに源義経を支援していたと云う。この様に「越中吉岡庄」は「天皇家」、「藤原氏」、「源氏」と密接な庄園と成り、様々な歴史の表舞台に成った。
▼藤原範頼;藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の弟[勘解由丞季成(藤原季成)]が宮司を務める蒲神明宮(遠江国蒲村、蒲御厨)で養育されて「蒲冠者」と呼ばれる 。
範頼の兄の源頼朝は,1147年(久安3年)に源義朝の三男として現在の熱田区旗屋で生まれた。母 は,熱田大宮司の藤原季範(としのり)の娘「由良御前」である。 一方、源範頼の母は遊女で在ったとされる。
⇒源義経の義弟の源範頼は藤原季成に養育され、その娘は後白河上皇に嫁して守覺法親王を生む。この関係があったからか、守覺法親王は背後で源義経が奥州に落ち延びた時に支援したとされる。守覺法親王は福井県の「久河北荘」(旧吉田郡河合村・森田村)を所有したが、この庄園は九頭竜川以北の大荘園で古代の足羽郡川合郷の名を継いで「河合荘」とも言われた。藤原頼長の縁者の仁和寺相応院の僧「隆憲」が仁和寺御室の守覚法親王に寄進した所領がその前身となり建久元年に見作田(現在耕作される田。見=現)60町が二品守覚法親王「親王家領」となった。この庄園は義経が平泉寺に参詣する時の安全な経由地であったと思われる。


■これ等の事から、源義経が奥州下りの際に船に乗ろうとして弁慶に打擲された有名な「勧進帳」の場面の原点となっている「義経記」の「如意の城」とは「赤丸浅井城」の事であり、「二位の渡し」は正にこの赤丸浅井神社前の「阿古ケ淵」に在った船着き場の事で在った事が判る。「如意の城」とは「東大寺大仏造営に密接な元正天皇二宮と大仏造営の為に巨額の寄進をした利波臣志留志(石黒氏の祖)」の関係する城で有り、「赤丸浅井神社」の周辺には「浅井神社48坊」と言われた「寺院群」も在ったと伝わる。又、浅井神社前の合流地点から下流は「射水川」と呼び、その船下りルートの事を「六渡寺川船渡し」と呼んだ事が古絵図から判る。
※「如意」とは仏像が捧げる「如意宝珠」を意味し、「仏陀の骨━仏舎利」を象徴する。
※「義経記」(岩波書店版、小学館版には「如意の城」は「五位の城」、「二位の渡し」は「五位の渡し」を指すと解説されている。)
※「福岡町史」「浅井神社三社誌」

■庄川は「雄神川」といわれて流れが速かったため、流れが緩やかな「女神川」とも呼ばれた小矢部川の船運で主に福光町辺りから運び出されていた様だ。その為、東大寺荘園も水運の便利な位置に開発されたと見られ、往時は庄川から何本も分岐して小矢部川に向かって流れる支流が有り、網の目の様に広がったこの水運が東大寺の荘園開発には重要だった。※「赤丸浅井神社」には出雲系の河川、農耕の神の「八河江媛神」と神系の皇室の祖先神で神々を地上に遣わした時の指令神である「高皇産霊神」を祀っており、小矢部川沿岸に立地した事から小矢部川を「女神川」と呼び、「雄神川」(庄川)の上流の庄川町には「延喜式内社雄神神社」が祀られており、火の神・農耕の神、滝の神・河の神の「高竃神タカカマドノカミ、 闇竃神ヤミカマドノカミ、瀬織津姫神セオリツヒメノカミ」を祭神としている事から「雄神川」と呼んだとも伝わる。平成26年の正倉院展に出品された「越中国射水郡くぼ田野地図」はこの二本の大河の小矢部川と庄川に挟まれた地域である。



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🔴🔘「木曽義仲」の末裔の「越中」・「加賀」での伝承 ⇒【源平盛衰記】と「後白河上皇」の庄園「越中吉岡庄」!!

2018-06-24 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「後白河上皇」の庄園「越中吉岡庄」は南北朝時代末期から「五位庄」に改名された。
「吉岡庄」の隣接には「源平盛衰記」で激戦が交わされた「般若野」や「倶利伽羅山」が在り、「吉岡庄」の赤丸村の「浅井城」や「木舟城」は「木曽義仲」に従軍した「越中石黒氏」の居城だった。





●高岡市福岡町赤丸には「源氏の武将の末裔が創建した」とされる「朝日山長善寺」が在り、歴代の住職は「旭」を名乗る。
「旭」と言う珍しい姓を調べると、「朝日将軍」と呼ばれた「木曽義仲」の四男「義宗」が「旭」と号して、その子孫には「山下一族」がいる。「赤丸村」の「浅井城」、「赤丸城」の麓の舞谷村や向野新村には、この「山下」と言う一族が残っている。




■能の「鉢の木」の伝承
→「木曽義仲」の三男「木曽義基」は、後の「佐野氏」の祖とされ、四男「義宗」は後の「木曽氏」の祖とされると云う。



・能の「鉢の木」では、ある雪の日に廻国の僧を「佐野源左衛門」が家に泊め、貧乏ながら、丹精を込めて育てた「梅、桜、松の鉢の木」を薪の代りに燃やして暖を取る等して精一杯のもてなしをした。その時に、源左衛門は、自分が一族に佐野庄三十余郷の領土を押収されたことを僧に話した。僧が旅立った後に幕府から動員命令が下り、「佐野源左衛門」も駆け付けた。源左衛門は「執権北条時頼」に召し出され、その時にあの雪の日に泊まった僧が時頼だったことを知る。「北条時頼」は、源左衛門が一族に押収された佐野庄三十余郷を返し与え、さらに家でもてなした時に使った薪の種類に合わせ、「加賀国梅田庄」、「越中国桜井庄」、「上野国松井田庄」の領土と、さらに小田原城を恩賞として与えたと云う。富山県高岡市には高岡市鴨島の外れから高岡市戸出辺り迄拡がっていたと云う「佐野郷」が在り、古くからの湯治場で在った高岡市福岡町西明寺には「西明寺入道時頼の墓」とされる石碑が残っている。

■加賀国大聖寺(※加賀市大聖寺)には、「木曽義仲」の次男が逃れて開いたと云う「慶徳寺」が在る。石川県の「加賀市史」に、【「木曽義仲と山吹御前の次男の義隆(義重の誤りか?)が滋賀県牧野町海津に梅霊山(現在願慶寺)に庵を設け、その五代の孫「教善」が、文明三年に「蓮如上人」と共に加賀市に移って、現在の加賀市大聖寺に在る「慶徳寺」の祖になった】と云う。この加賀市の「大聖寺」は白山五院の1つで在ったと言う古い寺で在ったと云われるが、長野県飯山市にある曹洞宗の寺院にも「木曾義仲の臣、今井兼平の子孫の創建」とされる「大聖寺」が在る。「大聖寺」は全国にも見られる寺院名だが、加賀市と長野県飯山市と言う遠くない地域に、何れも「木曽義仲所縁」の寺院が在った事は注目される。
(※加賀市の願慶寺の開基は「教善」と云い、高岡市の長善寺には「長善」と付き、何れも東本願寺派に所属する。)
現在では、「北条時頼」が「佐野源左衛門」に与えた「加賀国梅田庄」、「越中国桜井庄」がどの地域で在ったかは不明だが、「木曽義仲」の子孫が「佐野氏の祖」と云われる事とも合わせると、「佐野源左衛門」は「木曽義仲」の三男の末裔の「佐野氏」で在り、その為に鎌倉幕府執権の「北条時頼」に対して絶大な接待をしたものか?



(※「越中国桜井庄」は、「越中志徴」等では「新川郡三日市」としているが、「延喜式内社赤丸浅井神社」には、奈良時代から昭和初期迄残っていたとされる二本の桜の大木「勅使桜」が在り、赤丸村領には「宇多刀工」が栄えた「三日市」が在り、赤丸村の古い寺は戦乱で焼かれると高岡市佐野村に移転している。又、この辺りは鎌倉時代は「越中吉岡庄」と言う後白河、後鳥羽上皇の庄園で在り、この「吉岡庄」の中には「西明寺入道北条時頼」の名をつけた「西明寺村」が在り、現在もそこには「西明寺塚」が遺されている。)

■この佐野氏が与えられた「越中国」には「長善寺」が在り、「加賀国」には教善が開いた「慶徳寺」が在り、何れも「木曽義仲所縁の寺」と見られる寺院で在る。しかも、「四男の木曽義宗」の母親は「巴御前」とも言われ、「巴御前」は老いた後に「越中国福光に移り住んだ」とも云われる事から、何れも「富山県西礪波郡」に在る「赤丸村」と「福光町」に絡んでいる事から、この赤丸村の「長善寺」を「木曽義仲の末裔」が創建したと云う事は有り得る事だ。
現在も、赤丸村には「山下」、「今井」、「宮崎」、「城」、「越後」等の「源平盛衰記」に登場する一族が残っており、赤丸村の「浅井城」、福光の「福光城」、福岡町木舟「木舟城」は「源平盛衰記」に登場する「越中石黒氏」の居城で在ったと伝えられる。(※「赤丸名勝誌」)









【※「今井兼平」は、平安時代末期の武将で、正式には「中原兼平」で、父は「中原兼遠」で、「木曾義仲」の乳母の子で在り、「木曽義仲四天王」の一人とされ、兄に「樋口兼光」、弟に「今井兼光」、妹に「巴御前」が居り、信濃国今井の地を領して今井を称した。「木曽義仲」の乳母の子として義仲と共に育ち、兄の「樋口兼光」と共に側近として仕えた。源平の戦いと成った「治承・寿永の乱」では、治承4年(1180年)に義仲の挙兵に従って、養和元年(1181年)5月、横田河原の戦いで平家の主力の「城 助職」を破り、寿永2年(1183年)には「越中般若野の戦い」・「越中倶利伽羅峠の戦い」・「加賀篠原の戦い」で平氏軍を破って、7月に平氏が都落ちした京都に義仲と共に入京した。10月には「福隆寺縄手の戦い」で「妹尾兼康」を破り、11月に「後白河法皇」と「木曽義仲」が対立した「法住寺合戦」で「今井兼平・今井兼光」兄弟の活躍が著しかった。元暦元年(1184年)正月20日、鎌倉軍に追われ敗走する「木曽義仲」に従って「粟津の戦い」で討ち死にした義仲の後を追って自害した。享年は33才と言う。 (Wikipedia等参照)】
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🌸🏯 古代山城「赤丸浅井城」の歴史⇒大和朝廷の軍隊の痕跡!!

2018-06-24 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「赤丸浅井城」(イメージ)








■「赤丸浅井城」は古くは低層の山城だったと見られる。周辺には堀切を巡らし、麓には小矢部川が流れる天然の要害だったと見られる。敷地内には「清水」が噴出しており、籠城にも対応していた様だ。近年迄、山裾の住民はこの「清水」を飲料としていたと云う。
現在も城の背後には「堀切」が残り、背後の山には「熊野社跡地」が残っている。又、麓の谷間には鎮守の「赤丸浅井神社」が在る。
又、小矢部川と庄川の合流していた浅井城の山裾には、補給物資を運ぶ為に水運を利用する為の「舟着き場」が在り、この舟乗り場を「二位の宮御創建の浅井神社前の渡し場」として、「義経記」にも登場する「二位の渡し」(※後の五位の渡し)と呼んだものと見られる。







■「延喜式内社赤丸浅井神社」は隣地の「赤丸浅井城」の鬼門に位置し、城郭を守る鎮守で在った。
この神社は第五代考昭天皇の御代に創建され、大河の河の江の神「八河江比売神」を祀る「水神」で在った。


▼「考昭天皇」の皇居は【掖上池心宮(葛城掖上宮)】で在り、修験道の祖の「役行者エンノギョウジャ」の本拠地。「延喜式内社赤丸浅井神社」は古くから修験道と密接であり、白山を開いた「泰澄大師」がその境内で「庵」を開いた事が、「川人山鞍馬寺」の始まりで在ったと云う。

▼「考昭天皇」の妻子。
・皇后:世襲足媛(ヨソタラシヒメ、余曽多本毘売命)(※『日本書紀』本文・『古事記』)
⇒「尾張連」の祖の瀛津世襲(奥津余曽)の妹。
・第一皇子:天足彦国押人命(アメタラシヒコクニオシヒトノミコト、天押帯日子命)
⇒ 和珥臣・春日氏・小野氏等諸氏族の祖。→「赤丸浅井神社」を開いたと伝わる「行基」は「和珥氏」と云われる。
・第二皇子:日本足彦国押人尊(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト、大倭帯日子国押人命)
⇒ 第6代孝安天皇。


■この城には、「肯搆泉達録」に「赤丸浅井神社を創建された元正天皇の二宮が在城された」と記されており、元々は、聖武天皇の時に蝦夷や隼斗等の異民族が反乱を起こし(※「類従国史」)、それを鎮圧する為に「一宮、二宮が各々東西33ケ国を担当して鎮圧に当たられた」(※「赤丸浅井神社由緒」)とされる事から、当初は朝廷の鎮圧軍の拠点の城で在ったと見られる。「赤丸浅井城」の建つ「西山一帯」には、多くの古墳が在り、多くの人骨や刀剣等と共に赤丸城ケ平古墳からは全国的にも数少ない大和朝廷の軍隊の指揮官が所有した「黄金に銀象ガンの頭椎の太刀」の部分も出土している。(※「東京国立博物館所蔵」)
その数量の多さは富山県内でも有数の量であり、曾て、浅井城周辺には膨大な数の朝廷の軍隊が東北への出陣を待って待機していたものと見られる。
古くは、「高志国」は現在の福井県、石川県、富山県、新潟県、山形県の一部迄含んでいたとされ、平安時代中期の「和名類聚抄」には「越中国」は「こしのみちのなか」と呼ばれて、軍事上も中核の地域で在った事が分かる。











■西山の山並みの小矢部市からは、古代大和朝廷の「鎧一式」や「剣」「太刀」等の武具も出土しており、小矢部市博物館にはその現物が展示されている。






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🔴🏯『赤丸浅井城』は歴史から消されるのか? ⇒ 政治偏在は地域を破壊している。果たしてコレが日本の将来なのか?

2018-06-24 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸









●古くから様々な書籍に紹介される『赤丸浅井城』 ⇒古くは「元正天皇の第二皇子」 が居城とされ、その後、「利波臣」が居城として、後の南北朝時代にその子孫の「石黒光景」か居城したと伝わる。石黒氏は後醍醐天皇に従って戦ったが、北条氏に敗れて新川に去り、その後、中山氏が居城とした。………と伝わる。


















■この様に、「赤丸浅井城」は幾多の書物に紹介されながら、何故か近くの「加茂城」は「二宮円阿軍忠状」に「加茂城衆」と出ているだけで「高岡市指定史跡」に成り、又、上杉謙信から「五位庄安堵状」を受けた「寺島牛介」が居城として、末森城で前田利家と戦い、敗れて遂には前田家に仕官して、その子孫の「寺島蔵人」は高岡町奉行も務めている寺島氏の居城「柴野城」も「赤丸浅井城」と同様にその存在すら忘れ去られて高岡市指定史跡にはなっていない。一体、「指定史跡」とは何なのか?
歴史上の重要施設なのか、地域の政治力を示す施設なのか? 甚だ疑問だ。
加茂城の史跡調査は、赤丸小学校教員を長く務められ、後に教育委員会、福岡町歴史民俗資料館長も務められた「地崎淳一先生」がライフワークとして取り組まれ、様々な書籍も著わされている。地崎先生は誠に郷土の歴史研究に没頭された方で、実際に生徒を赤丸城ケ平古墳の発掘に当たらせたり、地域の史跡を直接子供達に見せて、様々な歴史教育をされた。又、百科辞典の監修等も精力的に行われた。正に地崎先生がこの地域の郷土史の先達で在った。地崎先生は生家が加茂城のすぐ下の加茂集落で在った事も在り、奥様の話では、少しの時間も割いて自転車に乗って各地の現地調査を続けられた。その成果が、加茂城が高岡市指定史跡と成った一因で在る事は間違いない。地崎先生の奥様の父上は、赤丸小学校校長を長く務められた「中山茂夫校長」で在り、この先生は「中山赤圓」と号して「赤丸名勝誌」(※「国立国会図書館」蔵)を著わされ、この中山家は「赤丸城城主中山氏」の子孫とされていた。赤丸小学校には、後に「第十一代高岡市長」に成られた「早苗西蔵先生」も教鞭を取られていた。
中山赤圓氏は赤丸浅井神社神官「川人貞良氏」等と共に積極的に当時の宮内庁の赤丸史跡調査等にも参画されており、赤丸村の郷土史に 深い造詣をお持ちで在った。高岡市の総持寺の千手観音像が昭和十二年に「国宝」に指定されたのも、これ等の地域の知識人の並々ならぬ調査活動に拠る部分も大きい。



■しかし、赤丸村はその後、福岡町と合併して、小学校や役場が閉鎖され、あらゆる公共施設が福岡町地域にのみ集中して、赤丸村は郷土史を語り継ぐ教師や教育施設、資料を保管する図書館機能も全て奪われた。その為に、赤丸村の長い歴史は暗闇に放り込まれて脚光を浴びる事がないまま、引き続き、福岡町が高岡市と合併した事で、更に地域の歴史に関心を示す人達が 減って、奈良時代から続いた「赤丸浅井神社」も川人神官が亡くなり、神官が無住の神社に成った。正に、「赤丸村」の歴史の伝承は途絶えようとしている。
残念ながら、地崎先生や川人先生、中山先生等の先達が亡くなり、その後は地域史は忘れ去られて、今正に、延喜式内社赤丸浅井神社 の存続にも関わる重大な局面になってしまった。延喜式内社赤丸浅井神社は、高岡市指定天然記念物の「杉並木」を保存する為にも年間、数百万円の費用がかかる。老木の枝葉が落下したり、倒れたりするのを防ぐ為に、並木全体をワイヤーで結び、倒木を防ぐ必要がある。又、杉の古木は根が地上に迄露出し始めており、その根の上を車両が行き交う為に更に老木に負担をかけている。この道は周辺住民も日常的に使用しており、これも頭の痛い問題だ。
浅井城跡等も、森林従事者が減った為に、竹木の伐採も思うように行われず、個人的に史跡を維持するのは不可能になりつつある。

■「加茂城」は「高岡市史跡指定」を受けて、林道や遊歩道が整備されているが、赤丸村の山林は個人の森林を「作業道」と言う私道で繋いで整備している。「林道」は公共の「道路扱い」だが、「作業道」は整備も私費で行わなければ成らない個人道でしかない。
ここにも、施設整備、維持面での地域格差がある。

■高岡市は「西山歴史街道」としてこの地域も観光化しようとしている様だが、それには、様々な地域住民の負担についても配慮が必要だ。この、「赤丸城」、「清水山」、「浅井城」の山並は、全国的にも著名な史跡を含む地域だ。赤丸城ケ平古墳群から出土した大和朝廷の軍隊が使用したとされる「頭椎カブツチの太刀」は東京国立博物館で展示開催中で在る。
数々の歴史書に登場する「五位庄」は「郷社赤丸浅井神社」を中心とした地域で在る。
この地域が、人口減少と政治の空白で、間もなく限界集落に落ち込もうとしている。
この地域の史跡や歴史を語り継ぐのは、個人では如何ともし難い状況に迄、至っている。
高岡市が中心市街地活性化法に基づいて、現在の政策を継続する限り、周辺は間もなく「熊」や「猪」の生息圏になるだろう。現在も浅井神社周辺には「カモシカ」すら出現し、ハクビシン等の被害も年々、大きくなって来ている。これが果たして、高岡市の都市政策の正しい方向なのだろうか?



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🔴🏯「赤丸浅井城」と「越中五位庄」⇒『宝永誌』と『東寺百合文書』等に見られる『越中五位庄』!!

2018-06-24 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








🔘後白河上皇以来、天皇退位後の上皇の庄園「後院領」として伝領された『越中吉岡庄』は、南北朝時代に後醍醐天皇の第八皇子「宗良親王」が赤丸浅井城に入城された時に『五位庄』に改名されたと『宝永誌』は伝えている。京都の「東寺百合文書」の足利義満時代の文書には「五位庄」として登場している。
(※「宝永誌」福光町図書館写本 →加賀藩郡奉行が記した地誌、原本は金沢の旧家に伝わったと云う。)








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🔴【赤丸村浅井城 判官物語】🏯🐎 謎で在った「赤丸浅井城」の伝説上の城主「中山国松」の資料が明らかになった。⇒ 「赤丸浅井城城主中山治部左衛門尉」の「米貸付証文」(※敦賀市博物館)

2018-06-24 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「赤丸浅井城」は、戦国時代に「中山国松」が城主で在ったと語り継がれて来たが、敦賀市博物館に保管される「赤丸浅井城城主」の末裔の「中山正弥家文書」では、「中山治部左衛門尉(国松)」の名前が見られる。
中山氏の子孫の「中山直治」は、「佐々成政」と「前田利家」が戦った「能登末森城の戦い」に佐々軍として参戦して敗れて、敦賀に落ち延びて今井家の養子に入ったと云う。
(※【判官】;「判官物語」とは、源義経の物語を指し、「義経記」の原型とも云える物語で在る。『判官 ホウガン』とは、衛門府、兵衛府、検非違使等の「佐スケ」の次の官名を指し、「尉 ジョウ」の呼称で呼ばれる。義経が『判官』と呼ばれるのは、木曽義仲を京都で追討し、平家を一ノ谷で破った功績により、寿永三年[1184年]には「左衛門少尉」、「検非違使少尉」に任じられた。この「少尉」を「判官」と呼ぶ事から「源義経」は『九郎判官義経』と呼ばれた。赤丸村の「二位の渡し」で起こったとされる「義経記」の「弁慶の義経打擲場面」に関守の「平権守」が登場するが、この人物はこの検非違使の役人をイメージしている様だ。南北朝末期から「赤丸浅井城」の城主で在ったと伝わる「浅井城城主中山氏」が、その官名を何れも「中山治部佐衛門尉国松」、「中山吉衛門尉」等と名乗っている事から、「赤丸浅井城の中山氏」も『判官』で在った。)





■「赤丸浅井城」の城主「中山治部左衛門尉(国松)」から米を借りていた「赤丸村妙法寺」の事!!

敦賀市博物館の「中山正弥家文書」に、「赤丸浅井城城主」が遺した数十通の証文が残されている。その中に「妙法寺 道正」が「(中山)吉衛門尉」が借入の「口入人」として「中山国松」から米を借りた事を示す米の貸付証文が遺されて居る。
この城について調査されて来た高岡徹氏はその著作の「戦国期越中の攻防」の中で、この「妙法寺」がどこかはハッキリしないとされているが、地元に残る「長善寺」と言う古刹がこの「妙法寺」で在った可能性が高い事が分かった。

■「長善寺」(高岡市福岡町赤丸)



■【朝日山長善寺 由緒】と【赤丸浅井城城主中山治部左衛門尉国松】

「貞享二年 寺社由緒書上」(金沢大学日本海文化研究室 編)では、「長善寺」は「元和七年(1621年) 僧 道正 の中興」とされ、敦賀市博物館に保管される「赤丸浅井城中山家文書」には同時期に「妙法寺 僧 道正」の1584年の米借用証文が残されている。この「道正」が同一人とすると、この時期に「長善寺」は「妙法寺」と言う名前で在り、真言宗か天台宗で在った可能性が在る。住職に問い合わせた所、この寺は元は「真言宗」で在ったと云う。又、「赤丸村 長善寺」から分かれた「福岡町 長安寺」は「大永六年(1526年) 僧 玄淨が再興」とされ、同じく「和田村 善宗寺」は「天文十七(1548年)年 僧法知が再興」とされる。これ等の時期は上杉謙信が越中に侵攻した時期に成り、これ等の寺院は、一向一揆の影響で次々に浄土真宗に改宗していた時期と見られる。
【※「越中一向一揆」は、文明11年(1479年)頃から天正4年(1576年)にかけて、越中の瑞泉寺と土山御坊門徒らが中心となった一向一揆。文明13年(1481年)、福満城の石黒氏は瑞泉寺の一向一揆衆と対立するようになり、石黒右近光義は医王山惣海寺と組んで越中一向一揆衆と山田川で戦ったが、敗れて福野安居寺で自害して果てた。能登畠山氏の要請を受けた上杉謙信は、天文十七年(1548年)八月二十一日、越後の春日山城を出発して越中攻略に向かった。これは、天文十一年(1542年)に越中を攻めた時に長尾信濃守が討ち死にした為に今回はその弔い合戦でも在った。元亀三年(1572年)5月、武田信玄の呼びかけに応じた形で富山県西部の砺波や五位庄(富山県高岡市福岡町赤丸周辺)等に集結した加賀や越中の一向一揆連合軍は、五位庄に集結し、そこから北陸街道を東に向けて進発した。】




■「敦賀市博物館」保管の「中山正弥家文書」の「妙法寺道正米借入文書」によれば、「赤丸長善寺」は元々、「妙法寺」と言う真言宗寺院で在り、その時期に「赤丸浅井城城主中山国松」に対して「口入れ」したのは、「吉衛門尉」と「太郎兵衛」と記されている。
この「吉衛門尉」は、「中山治部左衛門尉(国松)」と同じく「尉」の位で在り、中山氏同族の武士と見られる。

・「中山正弥家文書」(敦賀市博物館 蔵)の「妙法寺 道正 米借入証文」
→口入人 「(中山)吉衛門尉 」 、 「太郎兵衛」
(※赤丸村には数軒の中山家が残っているが、「太郎兵衛」については不明)


■赤丸村の古村と言う集落には 「吉衛門さ」(太吉郎)と呼ばれる古い家系が在り、ヒアリングするとこの家は「赤丸城主中山国松の子孫」と語り継がれており、「中山」を名乗り、現在も「赤丸城ケ平古墳の下」には「300坪」の山林を有すると言う。この地域は「縄伸び」が10倍で在る事から、実際には「3000坪」の広大な山林と成り、現に、城ケ平山の裾には「中山島」と言う地名が法務局で見られる。中山家の当主と奥様に聞くと、先祖から「中山国松」の子孫だと伝え聞いており、「中山国松」は「赤丸城ケ平古墳」の下に屋敷を構えていたと云う。


■「赤丸浅井城」と「赤丸城」
天正年間(1573年~1591年)に、「五位庄城主寺島氏」の下で赤丸村周辺を治めていた国人領主で、「浅井城」城主として「中山国松」が居り、「赤丸城」には弟の「次郎兵衛」を配したとされる。「上杉謙信」が越中を攻めた時に「守山城神保氏張」は上杉家中と成り、「柴野城城主寺島牛介」は「五位庄安堵状」を謙信から与えられた。(※「寺島蔵人家文書」金沢市)「浅井城城主」が亡く成った直後に、「前田利家」と「佐々成政」が戦った「能登末森城」の戦いに赤丸城城主と成った「中山直治 12才」は、伯父の「寺島牛介」に従って初陣を飾った。しかし、その後、「豊臣秀吉」が富山の呉羽山に侵攻すると「佐々成政」は秀吉に降伏して、「浅井城 中山直治」は縁者を頼り越前敦賀に逃れた。その時に、持ち出した大量の証文や系図等が「中山正弥家文書」として、敦賀市博物館に保存されている。この系統は「藤原氏」を名乗る。



■「赤丸城城主」の系統の「中山清暉家」の先祖は、この時に加賀藩に仕官して、以後、藩士として幕末を迎え、現在、この子孫は高岡市羽広に居住され、「由緒」や「知行目録」等を保存されている。この系統は「源氏」を名乗る。




■赤丸村の山林には、嘗て、中山一族の墓所が在り、そこには、「中山」を名乗る墓が建ち並び、立野の長久寺を菩提寺とした。これ等の中山一族の中には「平家」を名乗る一族が在り、各々の中山家は現在、無縁に成って居り、正確な系図は分からない。 赤丸村の「浄土真宗西派 性宗寺」や舞谷村「永賢寺」は中山国松の系統が出家して開いた寺として伝わっている。
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🔴🔹「赤丸浅井城」の「石黒光景」と「中山国松」⇒「伝説上の人物」とされて来た「赤丸浅井城」の城主の実在が確認された。

2018-06-24 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



● 「赤丸浅井城」については加賀藩の時代の古書には殆ど触れられず、触れても「城主中山氏」や浅井神社創建の「元正天皇の二宮在城」や「一向一揆の本願寺坊官下間和泉が在城」としか記載されない。何処にも「石黒氏」が登場しないが、赤丸村の知識人が書き残した記録には「石黒光景の後裔この城に代々居城した」と記され、明治維新後の「富山県西礪波郡紀要」(※西礪波郡役所発行)には相当のページを割いて「赤丸村史跡」について説明している。特に、「高岡市」が発行した書籍や歴史展示会等でも「木舟城」には触れているものの、何故か、「赤丸浅井城の石黒光景」には全く触れられない。これは、嘗て前田家が木舟城を居城にしていた関係で、高岡市独特の「前田家史観」に基づくものだろう。




■富山県立図書館にも勤務された郷土史家の「高岡徹氏」が唯一、「赤丸浅井城」、「赤丸城」について触れられて居り、その中では、敦賀市博物館に保管されている赤丸浅井城城主「中山氏」の「中山正弥文書」の研究について詳しく分析されている。
古書では、「石黒氏」が「北条氏」と争った「承久の乱」で敗れ、浅井城を去ってから「中山氏」が入城したとされている。
戦国時代には浅井城に「中山国松」が在城したと伝えられていたが、具体的な古文書も無く、伝説上の人物とされて来たが、この「中山正弥家文書」には、多くの「米貸付証文」が残されており、その中に「中山治部左衛門」が「赤丸村」の「長善寺」の前身の「妙法寺」に米を貸し付けていた証文が在り、追跡した所、この「中山治部左衛門尉」は「中山国松」の事とする書籍も在る事から、この「中山国松」が縁者の「中山吉右衛門尉」の口入れで米を貸し付けていた事が判明し、その「中山吉右衛門」の子孫とされる家も特定されて、その家系は「中山国松の子孫」と代々、伝えている事も判明した。
これ等の中山一族は、古くから赤丸村の山林に集団で一族の墓所が在ったが、その後、各々、山林から平地に下ろされている。
(※この一族は高岡市立野の「曹洞宗 長久寺」の檀家で在る。)

■「中山正弥家文書」(※「米の貸付証文」中山治部左衛門国松⇒妙法寺道正)





■「中山正弥家文書」は古物商から敦賀市立博物館が購入したもので、その購入した中山家の本家筋は姓が変わったとも云う。又、敦賀市大比田地区には10件の中山家が現在も残っていると云う。


■石黒一族の「石黒秀雄氏」は全国に散った石黒一族の各系図を収集されて、「石黒氏の歴史の研究」を発刊された。その中に掲載されている「越中砺波郡石黒氏系図」には、赤丸村の知識人が記載されていた「浅井城の石黒光景」の名前が記載されている。この系図に拠ると、「木曽義仲」に従った「石黒光弘」の父が「石黒光景」になっている。「源平盛衰記」の江戸時代の古書には明確に「石黒光景」・「石黒光弘」が「木曽義仲」の軍の中に加賀林氏や宮崎氏等と共に記載されている。

■「石黒氏の歴史の研究」






■「源平盛衰記」の「石黒光景」・「石黒光弘」







■石黒氏の居城で「平城」で在った「木舟城」の前には「山城」の「赤丸浅井城」を居城にしていた事になる。歴史的にも敵を防ぎ易い「山城」は古く、木舟周辺の大竹村(大滝村)は赤丸城ケ平の麓の吉岡谷に居館を構えた「吉岡成佐」(※「吾妻鏡」)が開拓したと云われ、時代的にも赤丸村周辺よりも遥かに遅い鎌倉時代に開発されており、古図に拠れば木舟城の脇を流れた木舟川の下流が小矢部川に流れ込んでおり、それが浅井神社前で合流して大きな「阿光ケ淵」を形成していたと伝わる事から、浅井神社、鞍馬寺、下加茂神社(※下鴨神社、賀茂御祖神社)、上加茂神社(※「上賀茂神社」)等の京都の寺社を勘請され「京の雅を移し……」と赤丸村に伝わる伝承とも合致する。
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🔴越中五位庄赤丸村「赤丸浅井城」、「赤丸城」の『城主中山氏』とその素性!!

2018-06-24 | 富山県高岡市福岡町赤丸村





●「赤丸浅井城中山氏」の四つの子孫!!
■敦賀市「中山正彌家文書」


■高岡市「中山清輝家文書」






■能登末森城の戦いで前田利家に敗れて敦賀に逃れた【赤丸浅井城の「中山直治」の系統の「中山正弥家」①】と、【赤丸に残って加賀藩に仕官した「中山孫左衛門清直」(高岡市)②】の系統を示す系図を入手した。
「赤丸浅井城」の中山氏の系統では、敦賀の中山氏は「藤原氏」、高岡市の中山氏は「源氏」を名乗るが、中山氏が敦賀の今井氏の養子になっている事、近江中山氏は近江の中山八幡神社を氏神とする事、近江の今井氏(徳川の旗本)が「桧扇紋」を使用し、【赤丸村の中山氏(性宗寺)③】が「桧扇紋」を使用している事等から、この一族は「近江の出身」「藤原氏」で、「近江今井氏」の縁者と見られる。
(※徳川家康は元々藤原氏だが、征夷大将軍になる時に足利将軍家の後継者と名乗る為に「源氏」に替えた経過から、同じ理由で高岡市の中山氏も藤原氏の「下リ円に藤」と云う藤原氏の家紋を使用しながら「源氏」と名乗ったと見られる。)

■現在迄、中山氏は【赤丸村在住の中山赤圓家④】が遺した「赤丸名勝誌」に拠って秩父平氏の中山次郎重定の末裔としていたが、この一軒を除いて他の三軒は「藤原氏」を原点とする事から、「中山氏の本姓は藤原氏」と思われる。「中山正弥家文書」(※敦賀市博物館)では、敦賀へ移った中山氏が越前朝倉家から安堵状を貰っている事から、足利尊氏の家臣の斯波高経が越中守護となった時に足利方の朝倉家の家臣として赤丸村に進出し、石黒氏は「承久の乱」で破れた時に「赤丸浅井城」を去ったものと見られる。しかし、石黒氏も中山氏も本姓を「藤原氏」とする事から、何らかの交流が在ったとも考えられる。「越中石黒氏」は「角鹿臣」の同族とされ、又、敦賀の女を妻とした「藤原利仁」の末裔とされる事から、同じく敦賀に所縁の藤原氏と云う事になる。

■「中山氏」は近江の「中山神社」を氏神とする一族と云われ、「赤丸浅井城」の城主「中山国松」は近江中山氏の一族共云われる。

「中山氏」の中で、赤穂浪士四十七士の「中山安兵衛」は堀部家に養子に入り「堀部」を名乗っているが、中山氏は元々、秀吉の家臣で加賀大聖寺に居城を構えた溝口氏の家臣となり、豊臣秀吉に転封を命ぜられて主家溝口氏に従って越前新発田に移った一族だと云う。
赤穂藩家老「大石内蔵助」自体は、オオムカデ退治で有名な「田原(※俵)藤太」と呼ばれた「近江の藤原氏の藤原秀郷」の末裔に当たると云われ、藤原氏で近江の田原に住して「田原」を名乗った一族と云われる事から、「越中吉岡庄(赤丸村領三日市)」に工房を構えた「宇多刀工」の出自の「宇多源氏佐々木氏」や「中山氏」、「大石氏」等が全て近江国を出自としている。越中の藤原氏はそのルーツを近江や越前に持っている。中山氏の中に、「源氏」や「藤原氏」と名乗るルーツの違いはその背景が在るのかも知れない。

■「赤丸城城主中山次郎兵衛」は「赤丸浅井城城主中山国松」の弟と伝える。

■「赤丸浅井城城主中山正弥家」の末裔は、現在、敦賀市の杉津に近い地域に残っているが、近年、総本家は東京へ移住し、縁者の数軒が残っている。


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🔴📃【勧進帳】の真実の舞台は「越中吉岡庄(赤丸村)」⇒「義経記」の五位庄(吉岡庄)「如意の渡し」!!

2018-06-24 | 富山県高岡市福岡町赤丸村

■源頼朝・源義経



■古い時代には小矢部川は西山の麓を流れて、赤丸浅井神社・浅井城の前で庄川と合流して「吾子ケ淵」と言う広大な淵となっていた。「赤丸浅井神社」は「元正天皇二ノ宮の御創建」の由緒を持ち、この宮は聖武天皇の弟に当たる。ここに在った舟乗場を「二位の渡し場」と呼び、浅井神社と隣接する「浅井城」を東大寺大仏の為に米五千石を寄進した石黒氏の居城として「如意の城」と呼んだと見られる。


■石川県立図書館に残る「浅井神社故墟図」⇒小矢部川と庄川の合流点の「吾子ケ淵」が記載される。








■古書に記載される『義経記』⇒後ろには「赤丸浅井神社」!?








■源頼朝が義経の探索の為として配置した地頭の「吉岡成佐」が、庄園の地頭として徴収した収入を納めないとして、「後院領越中吉岡庄」(※赤丸村を含む五位庄の前身で上皇の後院領)の領主の後白河上皇はこの地頭を何とかする様に頼朝に申し入れられた。
(※後院領とは、天皇を退位された上皇の庄園の事。「越中吉岡庄」は後の後醍醐天皇迄、皇室庄園として続いた。その後、五位庄と改名された。「越中吉岡庄」の範囲は富山県立公文書館に保管される「(赤丸)浅井神社由緒」に拠ると、「赤丸浅井神社は国吉郷24ケ村、(小矢部市)宮島郷2ケ村を含む53ケ村の鎮守社」とされており、古くはこの範囲が「越中吉岡庄」の範囲と考えられる。)









■高岡駅南の高岡市関町「衆徳山総持寺」に祀られる「国指定重要文化財木造千手観音座像」は巨大な「如意宝珠」を捧げている。この「総持寺」は「赤丸浅井城」の近接地に在ったが、「越中五位庄」が「足利義満」によって「京都相国寺」に寄進された頃に赤丸村を去ったとされる。(※赤丸浅井神社の伝承)
※この観音像には、「大壇那 藤原浄円」「金剛位理卿 本願聖人」「仏所 幸賀 大仏師」「頼真 小仏師」「奉納 仏舎利」等の多くの胎内記名が記載されている。「大壇那」(※資金を出した人)は鎌倉幕府評定衆の「藤原浄円」(※「貞永式目」の起草者)、「本願聖人 金剛位理」(※祈願した人)とは「後鳥羽上皇」の法名。⇒この庄園は後白河上皇、後鳥羽上皇から後醍醐天皇迄皇室庄園として続いた。


■「義経記」で義経、弁慶主従は「五位庄に至りて」(※鎌倉時代は「越中吉岡庄」と呼ばれた後白河上皇の「後院領」)、「如意の城を後にして」「二位の渡しから舟に乗らんとして」「如意の渡しを過ぎて」と「如意」と言う言葉が出てくる。「如意」とは「如意宝珠」の事で、又は「仏舎利」を意味する。後白河上皇は「保元の乱」で敗れた摂関家長者藤原頼長の庄園「越中吉岡庄」を没官して後白河上皇の「後院領」に組み込んだ。(※「平範記」)
後白河上皇は「吉岡庄」を自ら創建した「蓮華王院三十三間堂」の庄園とされた。この三十三間堂には1001体の千手観音像が安置されており、「吉岡庄」はこの時に正に千手観音像を守る庄園で在ったと云える。










■赤丸村に在った小矢部川の「二位の渡し」の前には「如意宝珠」を捧げ持ち、胎内に「仏舎利」が納められた総持寺の「千手観音像」が祀られていた。この観音像は南北朝時代に赤丸村の総持寺に伝わった(※「国宝概説」)とされているが、胎内には「後鳥羽上皇の法名、金剛位理卿 本願聖人」や「(鎌倉幕府評定衆) 藤原浄圓 大壇那」の署名が在り、実際に製作されたのは鎌倉時代と見られる。この隣接地に建つ「赤丸浅井城」の城主はかつて「東大寺大仏造営の時に米五千石を寄進」した「越中石黒氏」で有り、石黒氏は「仏」を信仰して、後に尾張に移った一族は「如意郷」を開き、「如意城」を居城にしている。越中石黒氏は後鳥羽上皇が起こされた「承久の乱」、南北朝時代の「五位庄の戦い」で敗れて一時期、越中から撤退した様だ。従って、ここで云う「如意の城」とは後の「五位の城」の事で有り、「赤丸浅井城」の事である。「赤丸名勝誌」に拠ると、石黒氏は鎌倉時代末期に承久の乱に敗れて北条氏に降伏した時に「新川に去った」とされ、南北朝の五位庄の戦いの後には「足利氏に敗れて、東北を経由して尾張に逃れ、長谷川と改名」して、尾張如意郷に「如意城」を建てたとされる。この経過から義経の都落ちの時には石黒氏の居城で在ったと見られる。「赤丸浅井神社」は後白河上皇の皇子が初代門跡を勤められた「聖護院本山派」の山伏が支配する両部神道の神社で在った。
(※「二位の渡し」では「渡し守」として「平権の守」が登場するが、源平合戦前には越中吉岡庄の一部の国吉名には平家物語、源平盛衰記にも登場する「越中前司平盛俊」が居館を構えて、越中と能登を統治したと伝わる。この人物から「平権の守」が推定されたものと見られる。越中吉岡庄が後白河上皇の庄園となった初期には吉岡庄には平家が入っていたと見られる。


■ 平家全盛の平安時代には、「国吉名」に平家の武将「越中次郎兵衛」が館を構えて、目代として能登と越中を治めたと云う。(※「國吉村史」「越登賀三州史」
(※「平家物語」、「源平盛衰記」に「越中前司盛俊」とその子「越中次郎兵衛盛嗣」が登場する。)




■「浅井古墟図」川人他治馬画 石川県立図書館(森田柿園文庫)
(赤丸浅井神社は聖護院派の山伏。聖護院は門跡寺院で、熊野三山検校兼務、三井寺筆頭⇒後白河上皇は三井寺で出家。本山派ー熊野本宮派。真言宗。→※「当山派」修験道は天台宗。)






吉岡荘の地頭「吉岡成佐館」のあった吉岡谷


■「義経記」に見られる「二位の渡」(五位の渡)と云う船乗り場と「如意の渡」(六渡寺川船渡し)と云う川下りルート❗ (✳「義経記」小学館版 参照)



※「五位の渡」は昭和時代迄、現在の赤丸村向野に在る「五位橋」の少し上流に在り、加賀藩の時代は官営の渡場だった。(「福岡町史」参照)
「義経記」の解説に見られる「五位山から流れ出る子撫川」は赤丸浅井神社の後方の花尾村から流れ出る「谷内川 ヤチガワ」との錯誤と見られ、昔は浅井神社裏の「音羽の滝」という水量の多い滝もこの川に流入しており、この写真は昭和時代迄赤丸小学校に保管されていたが、平成25年度の高岡市福岡町民俗史料館主催の「第1回西山歴史街道を行く」展にはこの写真が展示されていた。この川は赤丸浅井神社の前で今も往古の小矢部川跡を流れる五位庄用水路とクロスして流れており、この場所で庄川も合流していた事から、相当広大な「阿古ケ淵」と呼ばれた沼地が広がっていた様だ。






■加賀藩政の時代は赤丸村領三日市に米蔵が在った為、「三日市渡し」と呼ばれた。





■加賀藩参勤交代絵図に見られる「五位の渡し」





■「六渡寺川船渡し」(※「如意の渡し」)の図



■世に知られる「勧進帳」の「石川県安宅の関」の場面は、室町時代に記されたと云われる「義経記」では「越中の五位庄」の事件とされている。義経主従は平氏に焼かれた東大寺復興勧進の聖護院派山伏に身をやつして熊野修験道のネットワークの北陸道を東北の羽黒山へ向かうと云う口実で各地で勧進をしながらの旅であった。赤丸村の延喜式内浅井神社・川人山鞍馬寺は両部神道で聖護院派山伏であった。北陸は奥州藤原氏が信仰して鐘を寄進した白山修験道の福井県の平泉寺や石川県の白山比神社、越中の立山修験道が広がる修験道のメッカであり、越中吉岡荘(後の五位庄)の領主は九郎義経の支援者の後白河上皇であった。越中吉岡荘は元藤原氏長者藤原頼長の荘園だったが保元の乱で後白河上皇に没官された。藤原頼長は藤原氏の長者(束ね)として自分の奥州の荘園を九郎義経(義顕)の支援者の奥州藤原氏に管理をさせていた。

【※「白山比咩神社」には文治2年2月11日(1186年)源義経が参拝したとされる。「白山比咩神社」は全国三千余社の白山神社の総本宮で石川県白山市鶴来町に在る。(義経記)】
【※「源義経」は「九郎義経」の他に近江源氏で木曽義仲に従った「山本(源)義経」がおり、当時としては「山本(源)義経」の方が有名人で、義経記の考証でも学者によって混同が見られる。】

■『如意の城』・『五位の城』;「赤丸浅井城」は東大寺大仏造営に際して米五千石【東大寺要録】、荘園100町歩を寄進した「利波臣志留志」の末裔の石黒氏の居城であった。南北朝の頃、石黒氏の一部の『石黒越中守重行』が戦いに敗れて尾張国に逃れ、長谷川と名前を変えて、尾張国に「如意郷」を開き、「如意城」を構えたと言う。


■「五位庄」は、鎌倉時代には「越中吉岡荘」と呼び、後白河上皇の「後院領」で、延喜式内社赤丸村浅井神社や浅井城の前の「二位の渡し」の至近距離の加茂地内には地頭の「吉岡成佐館」(※「吾妻鏡」)が有り吉岡西・東砦が在った。「二位の渡し」から小矢部川河口の六渡寺村迄の川下りルートは「六渡寺川舟渡し」「如意の渡し」と呼ばれた。
(※小矢部川と庄川が合流していた赤丸村の下流を六渡寺川、射水川とも呼び、庄川(雄神川)に対して流れが緩やかな事から女神川とも呼んだ。)





■「義経を弁慶打ち奉る事」あらすじ
義経主従は福井県、石川県を過ぎて富山県境の倶利伽羅山(砺波山)の「手向け神社」に詣でて源平合戦の激戦地で祈りを捧げ、小矢部市松永の「五位堂」で一夜を明かす。夜明に「五位庄」で「如意の渡」を船に乗って渡ろうとされた時に、(二位の渡し、五位の渡しの)関守(渡守)の「平氏の権の守」が 「暫くお待ちくだされい。申すべき事がある。この渡リは越中の守護の館に近いところであるからして、以前より仰せ事を賜っておったところ、山伏は五人三人であろうというに及ばず、十人ほども連れだったならば、守護へ子細を報告しないで、渡すことは違法であるぞと仰せ付けられておる。見れば十七、八人も渡られるようす、我等あやしく思うがゆえに、守護へ報告した上でお渡しいたしましょう」と申したので武蔵坊弁慶は憎々しく反論をする。「この北陸道で羽黒の山伏讃岐を見知らぬ者があろうか」と云うと船の中程に乗っていた者が見知っていると云う。権の守は「見知っているならばお前が取り計らって渡してやったらいい」と云う。このやり取りを聞いた弁慶は「我等はただの山伏よ。もしこの中にいるならこれが九郎判官よと名指ししておっしゃれ」と云うと「あの舳先にいる村千鳥の摺衣をお召しになっている人があやしく思われる」と申したので、「あの者は加賀の白山より連れてきた御坊だ。あの1人の為にあちらこちらで人々にあやしまれる事は不埒な事よ」と言ったけれども、判官は返事もしないで俯いておいでになる。弁慶は腹が立った様子で判官に走り寄り船端に足をかけ、その腕をむんずとつかんで肩にかけ、浜へ走り上がり、砂地の上にがばと投げ捨てて、腰にさした扇を抜き、いたわしげもなく、続けさまにうちすえた。見ている人そのむごさに目もあてることができない。北の方(奥方)はあまりの心憂さに声を上げて泣き悲しむほどに思われたが、さすがに人目が多いので、さらぬ体にておいでになる。平権の守これを見て「羽黒山伏程非情な者はない。『判官ではない』とさえいわれたならば、それだけのことであるのに、こんなに容赦なく非情に打ちたたくことの心憂さよ。煎じつめれば、これは自分が疑ったばかりにお打ち申したと云うことになる。こんなにおいたわしいことはござらん。これにお乗り下され」と言って船をさし寄せた。舵取りお乗せして云うことには、「さあ早く船賃をお渡し下さい」と云う。「常日頃、羽黒山伏から船賃を取ったことはないけれど、御坊があまりに乱暴し放題でおいでなので、船賃取って渡すのだ。さあ早く船賃をお渡し下さい」と云って船を渡さない。弁慶は「この稚児(義経)の父は坂田次郎と云って酒田湊はその領内だからお前が出羽に行くときに報復するぞ」と脅す。「何とでも云え。船賃なしではよう渡すまい」と云って船を出さない。弁慶は「仕方がない」と云うなり、北の方(義経の奥方)がお召しになっていた帷(かたびら)のこの上なく美しいのを脱がせて渡守に取らせた。権の守は帷を取って申すには「法によって取るには取ったが、あの御坊のいとわしいゆえに差し上げよう」と云って判官に手渡した。かくて六渡寺を越えて、奈呉の林をさして歩いて行かれる。武蔵坊は「いつまで御主君の身分をお隠し申し上げようというので、現実の主人を打ち奉ることの恐ろしさよ。あの世この世の罪の恐れもおそろしや。八幡大菩薩お許し下され。それにしても何と浅ましい我等が宿世であることよ」と云ってさすがに勇猛な弁慶が伏し転がって泣いたので、お供の侍どもも一つところに顔を並べて、消え入るように泣きうずくまった。義経は「これは人の為ではない。自分の為にしたことだ。こんなに果報拙い義経にこのように志深くついてくるお前達の行く末の果報がいかがと思えば、涙がこぼれることぞ」と袖をお濡らしになった。お供の面々はこのお言葉を聞いてなお一層袂を絞った。そうしているうちに日も暮れたので、泣く泣く道を辿って行かれた。やや暫くして北の方(奥方)が「三途の河を渡る時には着ているものを剥がれると云うが、それに少しも違わぬ風情であったよな」と云いつつ、岩瀬の森にお着きになった。

「小矢部川」


「赤丸の川人山鞍馬寺の聖護院献納札」













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