赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

📚📘【高岡市立野の東大寺庄園】「東大寺庄園越中国礪波郡杵名蛭村墾田地図」と「利波臣志留志・石黒氏」⇒「越中五位庄」の古代!!

2019-05-21 | 富山県高岡市



■「東大寺庄園杵名蛭庄」※越中国礪波郡
⇒「杵名蛭庄地参拾柒町柒段玖拾捌歩. 見開参拾柒町柒段玖拾捌歩. 神分壱段. 荒壱拾弐町伍段弐伯陸拾陸歩. 全佃弐拾伍町壱伯玖拾弐歩 」
(杵名蛭庄37町7段94歩、未開地37町7段94歩、神田1段、荒地12町5段266歩、佃25町192歩)

⇒総合計75町4段252歩で、内37町7段94歩は東大寺庄園だったが未だ未開地で在った。 又、神社に奉納される田は一段歩、荒地は12町5段266歩、「佃」と呼ばれる荘官・地頭の直営田は25町192歩で在った。 この「佃」とされるのは「杵名蛭庄図」に記載される「石黒上里」・「石黒中里」等と記載される住民が住んでいた部分と見られる。荒地は敷地内の沼地等を指すか?
※「佃」;佃(ツクダ)は、中世日本の荘園公領制において、荘園領主や荘官・地頭らによる直営田をいう。年貢や公事の賦課が免除され、収穫物をすべて領主が収取した。正作・用作・手作・門田とも。本家・領家など上級領主による直営田を佃とし、荘官・地頭など下級領主によるものを正作・用作として区分することもあるが、中世当時は必ずしも明確に区分されていたわけではなかった。(ウイキペディア参照)

■「平安遺文」古文書編東南院文書 に、東大寺文書として、「大和国十市庄 越中国礪波郡杵名蛭庄長 船木弟虫 給付状」が有り、『杵名蛭庄の庄官は船木弟虫』で在った事が記される。
『船木氏』は伊勢を拠点としたらしい。
[神八井耳命(カムヤイミミノミコト)]神武天皇の次男を祖とする。
「日本書紀」には意富(多 オオ)氏の祖。
⇒ [多(意富、大生 オオ)氏]の同族
《古事記》: 意富臣、小子部連、坂井部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊予国造、科野国造、陸奥の石城国造、常道(ヒタチ)の仲国造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣ら19氏

















■「東大寺越中杵名蛭村墾田地」について、平成29年、「国立歴史民俗博物館」は「庄園データーベース」の記載に「富山県高岡市立野」を推定位置として加えた!!







「小矢部川流域図」(※富山県立図書館蔵)











■「延喜式神名帳」とは、延長5年(927年)制定の『 延喜式』の巻九・十に記載される当時の「官社」とされていた全国の神社の一覧である。

「延喜式神名帳」記載の「越中砺波郡 七社」(※国幣小社は国司から幣帛を受ける国幣社)
・高瀬神社 タカセノ 国幣小社
(富山県南砺市高瀬 越中国一宮)
・長岡神社 ナカヲカノ 国幣小社
・林神社 ハヤシノ 国幣小社
・荊波神社 ウハラノ ヤフナミ 国幣小社
・比売神社 ヒメノ 国幣小社
・雄神神社 ヲカミノ 国幣小社
・浅井神社 アサヰノ 国幣小社
(富山県高岡市福岡町赤丸)
(※越中にはこの他に、射水郡十三社、婦負郡七社、新川郡七社が在る。)
(※「延喜式」皇典講究所、全国神職会 校訂 国立国会図書館近代デジタルライブラリー)

▼「延喜式神名帳 巻十」(利波郡・射水郡)




■「能越道高岡インター」を出るとすぐに高岡市和田地区が在る。江戸時代の記録では、「和田、是迄礪波郡なり、是より射水郡なり。」と記載され、和田迄が礪波郡であった。ここは往古、庄園「福田荘」(現在は「和田」という。)と呼ばれた。この地域の神社の「延喜式内社荊波神社」については「高岡市史」は「式内社を称するのはいささか疑わしい」と根拠も説明も無く否定している。地元では「延喜式内社荊波神社(ウバラジンジャ)」として信仰している神社について「高岡市史」は「十禪師社という比叡山山王七社の一つの神社」と主張しているが、地元の和田地区では、「延喜式内社荊波神社」は「天台宗妙法院領」になってから神仏混淆の「十禪師大明神」になったとし、現在は「延喜式内社荊波神社」と唱えている。

■最澄は797年,十禪師の一人として內供奉に任命されている。宮中で天皇の安穏を祈る事を職務とし天皇の病気平癒を祈り正月の御斎会で読師を勤めた。原則として地位は終身で、後に空海の甥の円珍も就任している。

■「荊波神社」は延喜式諸本で「宇波良」と有り、カナは「ウハラノヤフナミ」となっている。「荊波」と書いて「ウバラ」と呼ぶのは何故か? カナの通りに考えれば、「ウバラの里に在ったヤブナミ神社」となる。
⇒日吉山王七社権現の一つの「十禅師」とは、「瓊瓊杵尊」(ニニギノミコト)を権現とし、国常立尊(クニノトコタチノミコト)から数えて第10の神であり、「地蔵菩薩」の垂迹神(スイジャクシン)とされている。両部神道で「垂迹」とは、本地垂迹説(本地仏・垂迹神)に基づき人々の救済のために仮に神の姿をして現れた仏・菩薩とされ、本地仏も神の本来の姿の仏・菩薩をいう。比叡山の山王七社の一つ。
「延喜式内社荊波神社」について県内では争論が在るのは事実だが、「高岡市史」はその根拠も示さない。「延喜式内社荊波神社」については富山県福光町岩木、砺波市にも有り、この神社は石黒氏の祖の「越中利波臣の先祖」の「日子刺肩別命」を祭神にしている。浄土真宗大谷派金色山慶誓寺の近くには「荊波神社」が鎮座し、昔は山伏「石黒山寛勝寺」が別当を勤め、この神社後方の山中には福光町指定史跡の「志留志塚」(利波臣志留志の墓)が在り、宝歴二年から大正八年迄の167年間、石黒氏が石動山修験道の山伏として別当を勤めた神社である。1653年(承応二年)「越中国式内等旧記」に「岩木富士神社 同郷(石黒郷)岩木村鎮座、称富士権現 旧社地」と有り、当初は「富士権現」(※富士山本宮浅間大社の事で本地仏は大日如来)と呼ばれたこの神社は、「1759年(宝歴九年)神社改書上帳」にはじめて寛勝寺と共に「荊波神社」として記されたと云う。加賀藩士森田柿園はその著作「越中志徴の岩木富士社」の項で、「荊波はヤブナミと呼び地元にウバ桜と云う巨木が在り、この桜から誤って荊波神社(ウバラジンジャ)と言った事著明也」と記載してこの縁起に疑問を示し、本来「ヤブナミ」と呼ぶのが正しいと云う。大正時代に寛勝寺が無くなり、宮司が城端町北野の利波氏が宮司となり、宮内省諸陵寮が「記塚経塚」(志留志塚)を調査して「利波臣志留志」の塚と認定されると、一躍、この神社に「延喜式内社荊波神社」としての認定運動が起ったと云う。この神社も当初は「富士権現」と呼ばれたが、大正になって一躍、「延喜式内社」とされた神社で有り、この神社にも明確な資料は無い様だ。しかし、福光町岩木の「荊波神社」の祭神が一時期、「富士権現」とされた事については、氏神としていた石黒氏が一向一揆に破れて福光町を追われた為に一向一揆の勢力により「日子刺肩別命」が排除されていたのではないかとする意見も有り、興味深い。しかし、利波臣志留志が荊波神社の祭神とは何にも記載されていない。(※「砺波散村地域研究所研究紀要第18号 」尾田武雄氏論考、「越中志徴」 参照)
安栄四年(1775年)三月の高山彦九郎の「乙未 イッピ の春旅」に拠れば、倶利伽羅山から越中側に降りた際に「松長よりこなたに巴と山吹が塚とて二ツ有。天池より下がる。となみ山、関の清水、ぐみの木林、卯の花山、山吹塚、塚の東に蓮沼あり。ー町の右に八幡の社あり。」と記載されている。ここで注目するのは「ぐみの木」の林が砺波山に在った事だ。「ぐみの木」は富山県内の各所に野性のものが自生しているが、この木には沢山の「荊 トゲ」が生えており、赤い小さな食用の実を付け、群生して一面が緑色の野原になる。砺波山の山並みは福光に連なり、江戸時代には正にこの山並みに「荊波」が在ったらしいのだ。(※「越中、能登と北陸街道」深井甚三著)

■「荊」は明治時代に発行された漢字辞書によれば、フリガナには「スハエ、オドロ、スハブキ、ハマバエ」と記載され、オドロ(棘)とは[蕀や雑草が生い茂った]、スハブキとは[ツワブキという黄色い花が咲き葉の表面が光っている草花]、ハマバエとは[海岸の生物の死骸等に発生する蠅]、スハエとは広辞苑によると[すわえ【楚・杪】スハエ(古く「すはゑ」とも表記)
①木の枝や幹から細く長くのびた若い小枝。しもと。
【枕草子】に
[名おそろしきもの]
名おそろしきもの。青淵。谷の洞。鰭板(はたいた)。鉄(くろがね)。土塊(つちくれ)。雷(いかづち)は名のみにもあらず、いみじうおそろし。疾風(はやち)。不祥雲。矛星(ほこぼし)。肘笠雨。荒野(あらの)ら。 強盗(がうだう)、またよろづにおそろし。らんそう、おほかたおそろし。かなもち、またよろづにおそろし。生霊(いきすだま)。蛇(くちなわ)いちご。鬼わらび。鬼ところ。荊(むばら)。枳殻(からたち)。炒炭(いりずみ)。牛鬼。碇(いかり)、名よりも見るはおそろし。
②刑罰の具。杖じようやむちの類。笞しもと。
宇津保物語蔵開下「百荊してよく打たばや」]
となっており、近年考えられていた「棘のある植物、蕀」とは少し異なり、雑草、雑木、ツワブキ等の草花等を指していた様だ。又、古代の(記紀ー古事記、続日本紀)によると[荊(シバ) (紀・欽明天皇・岩波大系)]と読んでおり、雑木を指したようだ。

■奈良東大寺正倉院に「東大寺庄園越中国礪波郡杵名蛭村墾田地図」が在る。この場所は独立行政法人国立文化財機構監修の「日本の美術NO521」に拠ると、「高岡市戸出伊勢領、狼、市野瀬、市野瀬新付近に比定される」としている。(※「東大寺の越中国内の庄園位地推定図」に詳しいー富山歴史館 富山新聞発行 参照)
「越中国三郡墾田野地図」には「伊加留伎村図」の左手に記載されている。図面には、東杵名蛭川、西石黒川と記載され、庄園内には「石黒川」と「速川」が走り、「石黒川」は敷地内で「速川」と分岐している。神護景雲元年の墾田地図では伍拾捌町伍段伍拾陸歩(58町5段56歩)であり、図面の南側境界線の中央部に[廿二條石黒上里]、図面中心部に「石黒中里」、左端には[廿三條荊原上里]と記載されており、この庄園は「石黒の里」を中心に開発され、東側に「荊原里」が在った。この庄園には神社が三ヵ所在った事も記載されている。高岡市内には「早川」という地区が在り、石黒氏の居城の木舟城の近くには「黒石川」が在る。これがそれぞれ「速川」「石黒川」の転化したものなら、この庄園「杵名蛭村」の位置はもう少し小矢部川沿いの立野、高田嶋地区に在った可能性がある。小矢部川が西山の麓を走っていた頃は小矢部川の対岸に在った現在の赤丸村向野新村辺り迄「杵名蛭村」は広がっていたと考えられる。小矢部市保管の古図「越中四郡絵図」と照合するとその位置関係が推定できる。天皇家の庄園「越中吉岡庄」は赤丸村から西五位を含み、後の五位庄の内「東五位」と呼ばれた地域はこの「杵名蛭庄」の地域と重なる事が考えられる。福光町吉江村自治振興会発行の「吉江の昔と今」に、「木舟城城主石黒左近の家臣高田孫兵衛は(高岡市の)高田嶋地区に住まいした。」と記されている。この様にこの地域も石黒氏の所領だったと云う。小矢部川を挟んだ「赤丸村」の対岸に在る「高田嶋」は加賀藩時代は「赤丸村領高田嶋」で五位庄の一部で有り、ここには聖武天皇の祈願社と伝わる「五位庄神社」 が今も鎮座し、赤丸浅井神社の神官が奉仕されている。赤丸村の「浅井城」は石黒氏の居城であったと云う。
(※【五位庄は、加越能三州地理志稿には東福田郷、西能登羽咋郡南庄、糸岡郷、北射水郡の間に展開せる五十六ケ村の地域を称し、以前は吉岡の庄を指称するものにして、後鳥羽院の後院から五位庄と転化したものである。】「宗良親王」越中宮奉讃会編 富山県立図書館蔵書 参照)



■この図面には「利波臣志留志」が立ち会った署名が在る。利波臣は石黒氏の祖と云われるが、この時に既にこの庄園図に「石黒の里」「石黒川」の記載が在り、同図に「利波臣志留志」の署名が在った事はどのように考えれば良いのだろうか? 福光町の「石黒庄」が「石黒氏の発祥の地」とされている事との関連性はどうか? 又、新しい歴史の謎が現れた。
(※「石黒荘」は「黒い石」が在った事から「石黒荘」になり、利波臣は石黒氏を名乗ったと云う伝承がある。「速川」は「早川」とも考えられる。)
中世の福光、福野町地域には「石黒庄」と呼ばれる広大な庄園があったという。当初は、後三条天皇の祈願寺の円宗寺領であったが、鎌倉期には[山田郷・弘瀬郷]、[石黒上郷・中郷・下郷]、[吉江郷・太海郷・院林郷・直海郷・大光寺郷]の三荘に分かれていた。石黒庄は利波臣の子孫の石黒光弘等の石黒氏の本貫地とされている。石黒系図の中の「石黒信家」の一族が「石黒下郷」を根本の所領地としていたと云う。元々、武内宿彌の子孫(古事記では同族とされる。)の利波臣は蘇我氏と同族だが、藤原利仁の子孫の加賀の林氏と婚姻して、林氏の名跡を継いで以後、林氏の「藤原氏」を名乗る様になる。十三世紀半ばにはこの石黒庄弘瀬郷に「藤原定朝」と言う地頭が登場する。この一族は元々この地の開発領主だったが、円宗寺家人となり下司職に任じられていたが、木曽義仲の進出の時には所領を安堵され、鎌倉幕府では後家人となり、弘瀬郷の地頭職に任じられていた。その後は、地頭として勢力を拡げ当初は弘瀬郷41町歩強の中に地頭給田一町と一町の「重松名」を得ていたが、十三世紀半ばには十三町歩に迄し、税も二割から三割に引き上げて私腹を肥やす様になる。「領家」と呼ばれた庄園の所有者の京都仁和寺菩提院も藤原定朝の不法を幕府に訴えるが地頭は越中守護名越氏と組んで領家を圧迫したと云う。(※「改定郷土史事典 富山県」広瀬誠著)
しかし、これ等の事から見ると、年代は異なるものの、福光、福野の辺りには[石黒上郷・中郷・下郷]が在り、東大寺庄園杵名蛭庄の中には「石黒上里・中里・下里」が在った事になる。

■延喜式内社のフリカナから推定すると、「荊波神社」と「延喜式内社荊波神社」は元々、別のものであり、和田の「荊波神社」は「杵名蛭村」の東側の「荊原里 ウバラノサト」、後の「福田荘」に在った神社で、福光の「荊波神社 ヤブナミジンジャ?」は福光町の石黒荘の「利波臣」の氏神であった可能性が高い。どちらも「石黒」所縁の土地と考えられ、明治以降に廃仏毀釈と国家神道の影響が強くなった為、「延喜式内社」の認定と神社の昇格運動が活発になった背景がある。「延喜式神名帳」の古記註記に「ウハラノヤフナミ」とフリガナが有るものが有り、その為に論議を呼んでいる。この註記に拠ると[「荊波神社」は「荊原」に有る。]となる。この註記に拠れば荊原里(後の福田郷)に在った荊波神社が「延喜式神名帳」記載の神社になる。高岡市の和田地区は暴れ川の庄川と小矢部川に挟まれた下流域にある。「荊」はトゲのある野バラ等の植物を指し、山野には「野バラ・野イチゴ」等が繁茂している。和田地区では、大伴家持の歌が残る「夜夫奈美能佐刀」は福田庄の「延喜式内社荊波神社」が在った地域だとしている。「杵名蛭村墾田地図」を調べるとこの庄園の中は「足原田」(葦が生えている。)、「柴田」(山野に生える小さな雑木や雑草を芝草と云う。)、「野」「未開地」となっており、農作物や、屋根材、雨具の簔等に用いた「葦」と、「燃料にする雑木」・「肥料にする雑草」を生産していた事が判る。何れも当時としては生活上の必須の資材で有り、寺社も専用の畑や山林を所有していたと云う。
【※「足原田(葦原田)」については、和田地区の「荊波神社」(高岡市和田954番地)の祭神が「瓊瓊杵尊ニニギノミコト」で有り、この神は「日本神話で、天照大神の孫で天忍穂耳尊の子。天照大神の命令で「葦原の中つ国」を統治する為に高天原から日向高千穂峰に天降ったとされる。木花開耶姫を妻として彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)=(若狭彦神社祭神)を生んだとされる。「足原」は「稲」を指すとも思われる。「葦原中国」とは日本神話においては天上の「高天原」と地下の「黄泉の国」の間にあるとされる世界ですなわち日本の国土の事であると言う。「瓊瓊杵尊」は富山県では「二上神」とされる「二上射水神社」の祭神でもある。「若狭彦神社祭神」は福井県若狭地方:小浜市所縁の神で有り、石黒氏の祖の利波臣志留志は「角鹿臣 ツヌガノオミ=敦賀」を祖とすると云われる。(古事記では両者は兄弟とされる。)高岡市和田の「荊波神社」、「二上射水神社」には「彦火火出見尊」の父の「瓊瓊杵尊」を祭神としている事から一族の「利波臣」「射水臣」の影響が窺われる。[※若狭彦神社祭神(若狭国一宮)の「彦火火出見尊」は「海幸彦・山幸彦」の物語の「山幸彦」の事。】

(※「角川日本地名大辞典」には【立野村は礪波郡五位庄のうち。特産品は菅笠。立野村の隣接地に高田嶋村、渡り村、樋詰村、下開発村の他に「柴野内島」が有った。】と記載される。菅は沼地・河川に繁茂した「菅」を加工して傘にしたもの。昔は野山の雑草を腐らせて肥料にしたらしく、加賀藩の時代も「小矢部川対岸の石堤、麻生谷、柴野地区から山の柴草を運んでいた」記録がある。ここで云う柴草は山野や河川敷の雑草や山合いに流れていた「谷内川」の周辺の「葦」等も含まれていたと見られる。「葦」は同じ環境に育つ川辺の雑草の「菅」を指したかも知れない。谷内川には「赤丸清水山」から流れ出ていた京都の清水山に因んだ「愛宕の滝」が流れ込んでおり、相当な水量があって観光地ともなっていた。その谷合には観光客、保養客目当ての「谷内の湯」が開かれ、著名な温泉地で在った。従って、谷合には広大な山野草が自生していた沼地も広がっていた様だ。)
(※高岡市博労町の「安養山極楽寺由緒」に「五位庄に二百数十年在った」事が記載されており、「後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が創建され、その時に地元の郷士の柴田、柴、本間氏等がお仕えした」と記載される。この地域には古くから「柴田」「柴」等と名乗る一族が繁栄し、現在も高岡市石堤周辺に柴田という一族が多い。加賀藩の時代には豪農一族がおり、村役を努めていたと云う。)

▼(※石黒氏は木舟城に「貴船神社」を祀ったとされているが、京都の貴船神社の祭神は水神である「淤加美神、または、たかおかみ神タカオカミノカミ」を祀り「たかおかみ」(※文字化けの為ひらがな記載)は「雨の下に龍」を書き、龍神を祀っている。しかし、木舟城の「貴布禰社」の祭神は水神の[罔象女命(みつはのめのみこと)]で有り、「大伴家持の後胤大伴右京持定の勘請なり」と言う由緒を持つ。この神社の神官は福岡町の佐伯神官で有り、大伴氏の一族である。石黒氏の氏神は福光町岩木の荊波神社の祭神の「利波臣志留志」の筈である。石黒氏は貴布禰社の祭神を犬に繋いで川に流して何れが助かるか競わせたと云う逸話がある。貴布禰社は石黒氏の祭神と言うより赤丸浅井神社の脇社の石堤浅井神社と同じ祭神を祀っている。「吉岡庄の地頭吉岡成佐」が木舟城の周辺の「大瀧(大竹)地区」を開発したと言う伝承から、赤丸と加茂集落の間に在った吉岡谷の吉岡氏が勘請した神社であったのかも知れない。)


「柴田彦四郎寄贈の赤丸浅井神社の大鏡」


■五位庄立野村周辺には「柴野内島村」、小矢部川対岸には石堤村の隣地に「柴野村」が有り、古代荘園図の呼び名「柴田」の名残りを残している。推定される高岡市立野、高田嶋地区の域内には現在も三ケ所の古い神社が在り、「荊波神社」の在った和田地区の西に位置する立野地区に「福田神社」、上渡りに「八幡宮」、高田嶋地区には「五位庄神社」が在り、この周辺には60町歩位の農地は在ったであろう。(明治4年の立野村には畑2町歩、田62町歩が有ったという。未開地が多い古代にはもっと広範囲の庄園で有ったと思われる。この荘庄園図には但し書きに、「未開田地42町1段234歩(荒地19町6段60歩、定地22町5段174歩)、未開16町3段182歩」と記載される。)高岡市立野の鎮守「福田神社」は元「八幡宮」で八幡神を祭神とし、上渡りの「八幡宮」も現在は天照皇大神を祭神としているが八幡宮を名乗っている。高田嶋地区には「五位庄神社」が有り、「聖武天皇の御宇勅使門部連某卿が社殿を建てられ規模宏大」とする由緒を持ち、祭神は伊勢の「天照皇大神」と境内末社として諏訪神社の祭神「建御名方神」を祭る。この三社は何れも聖武天皇、東大寺との繋がりを持ち、併せて高田島地区は東大寺大仏建立に貢献した利波臣志留志の後裔の石黒氏の所領であった。この地域を開発したと推定される国人領主の池田氏は木曽義仲を埴生護国八幡宮に案内した「池田次郎忠康」の末裔と考えられており、木曽義仲は各地に諏訪大社を勘請している。この池田氏は小矢部市今石動(旧名は池田)、赤丸城ケ平山の麓一帯の「池田島」、氷見市の池田、高岡インター近くの池田地区等に名を残し、赤丸の総持寺旧地の周辺の池田島地区の開発を行い、高岡総持寺の敷地も寄進したとされている。この池田家には古く「イバラノ宮」と呼ぶ持ち宮が在ったが、今は旧地も農地に変わっている。この「イバラの宮」の場所は高岡インター周辺の池田地区周辺と推定され、今も高岡市細池の自宅の庭にこの神社に在ったと云う「地蔵菩薩の板光背」と「旧地の写真」が残されている。(※「池田家」には高岡市の総持寺に祀られている国指定文化財木造千手観音座像の鎌倉時代の「僧型の胎内仏」(※千体地蔵か?)と、加賀藩八家の奥村家から池田与三吉に嫁いだ姫が持参した「奥村家の兜仏ー観音像」と「懐剣」も伝わっていたと云う。)

【※高岡市柴野内島の隣接地の東石堤地内に八幡社の小さい社と小さな森が在り、古老に聞くと、昔は集落の墓地になっていたと云う。この森には鬱蒼と野イバラが繁茂し、池田家に残るイバラの宮の写真と酷似している。この隣接地は池田家が開発した高岡市池田地区である。】
この石造の「光背」とされるものは中央に円が有り「徳明」と彫られる。両部神道では「瓊瓊杵尊」の本地仏は「地蔵菩薩」である所から、元は仏像の「板光背」と見られ、一部に「バラ?」の花の模様が刻まれている。「十禪師大明神」の本地仏が「地蔵菩薩」で有り、神道では「瓊瓊杵尊」を御神体とする事から、和田地区の人達の伝承が正解で有り、「高岡市史」の編集者には両部神道への理解も無かった様だ。場所的にもこの池田地区は和田地区の隣接地で在り、旧地が不明とされている和田の「荊波神社」の旧地がこの池田家の持ち宮の「イバラノ宮」と推定される。
(※和田の「荊波神社」の由緒に「福田庄10ケ村総社」とされており、古の福田庄は、現在の和田から福田六家、立野地区迄を含んでいたと思われる。)
この池田家が高岡市関町の「総持寺」の敷地を寄進したと伝わり、高岡市郊外の鴨島地区の一帯が古くは石黒一族の「鴨島七郎」の領地で在った事から、池田家は石黒氏との親族関係とも推定される。武内宿祢の系統図からすると石黒氏の祖の利波臣志留志は池田氏の祖の紀氏等と同じ「武内宿祢」を祖とする。又、木曽義仲に従った越中の国人は石黒氏の他、鴨島、向田、池田、福田等とし小矢部市から高岡市に至る国人領主が総て義仲軍に参戦していた様だ。
小矢部市の「今石動』もその昔は「池田」という地名で有ったと云う。
(※「治承・寿永の内乱論序説」浅香年木著参照、「源平盛衰記」、「池田市衛門家伝承・写真・石碑」参照)

【※「八幡宮」は応神天皇(誉田別命)の神霊で神功皇后、玉依姫を祀り、元々は「東大寺の鎮守」で有り、大仏の傍らに祀られていたと云う。東大寺大仏造営の時に九州の「宇佐八幡宮」が聖武天皇に全面協力を申し入れた為に、天皇は感謝の意を示して宇佐八幡宮に庄園を献じて東大寺大仏の鎮守社にしたとされる。高岡市福田周辺には八幡神を祭神とする神社が多い。東大寺庄園に東大寺鎮守の八幡宮を祀ったと見られる。(※「故事類苑 神祇部一」参照)→平家が東大寺を焼いたのは源氏が八幡太郎義家にちなんで八幡神を氏神とした為か?】

又、この地域には石黒氏の居城の在った福岡町「木舟」付近を通過する「黒石川」と、礪波、庄川近くから流れてくる「祖父川」が流れ、この川の下流域の小矢部川河口の高岡市内には「早川地区」が在る。「祖父川」は古い絵図(小矢部市史参照)には「ソフ川」と表示されており、明らかに「早川」⇒「速川」から読み名が変化したものである。この辺りは小矢部川が氾濫して河川敷だった事もある。この地域こそ「東大寺庄園杵名蛭村墾田地」の絵図にほぼ条件が当てはまる様に思われる。小矢部市の江戸時代初期の「越中四郡絵図」に拠ると、木舟城の至近距離を流れていた川が「黒石川」と見られ、古い時代には現在と流れが相当異なっていた事が判る。ただ古の小矢部川は西山の麓を流れていたと浅井神社由緒に記載されており、庄園の範囲や川の位置が大きく変わっていた可能性がある。(※「越中四郡絵図」小矢部市図書館蔵 参照)
又、「祖父川」と「庄川」の間には、後に高岡城の水利となった「千保川」が流れているが、位置的にこの川の事を「杵名蛭川」と呼んでいる様だ。この河川も時代により蛇行を繰り返したとすれば、現在の「荊波神社」の周辺には水郷、河川敷が広がっていた事も想定されるのだ。

▼この現地の状況を「国立歴史民俗博物館」に連絡した所、「庄園データーベース」の「東大寺庄園杵名蛭庄」の比定地に「高岡市立野」が加えられた。

・【東大寺庄園杵名蛭庄】
(※「庄園データーベース」)

(※「国立歴史民俗博物館」のHpで閲覧可能)



小矢部川沿いの「高岡市上渡り地区」には「五位の渡し場の石仏」と「神社跡」が残っている。







■「小矢部川沿いに開発された直後の赤丸村向野新村絵図」(※「杉野家文書」福岡町歴史民俗資料館蔵)当時の河川敷は混沌としていた様子が判る。

🔴🔯「華厳」の世界観⇒奈良「東大寺」の【大仏( 盧舎那仏 )】の造営を支えた越中の国 !!

2019-05-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








 


■聖武天皇は「華厳宗」・「華厳教」の「あまねく衆生(花)が佛に帰依してお互いに協力して安らかに暮らせる仏法の世になります様に!」との主旨に共鳴され、民衆一人一人が小さな力を持ち寄って大きな成果(大仏)を成し遂げる事を願われ、国家の安泰を祈願して「華厳教を以て仏教の元と為す」と告げて東大寺大仏の造営を始められた。「華厳教」は「花厳」とも書かれ、東大寺を大華厳寺(大花厳寺)(※「神皇正統記」)とも云う。「華厳」とは「雜華厳浄・雜華厳飾」の「華厳」から来ており、「雜華」は「沢山の花」、「厳浄・厳飾」は「世界をきれいな花で飾りましょう」の意味で、釈迦の境地の「花で飾られる世界を造る事」「生きとし生きるもの全てが繋がっている調和の取れた世界を造る事」が「華厳の世界」の意味であると云う。「華厳教」は「唐僧賢首国師法蔵」が広げられたので「賢首宗」とも呼び、称徳天皇の時、日本に伝わる。「良弁」は東大寺の前身の「金鐘山坊」に入り、盛んに「華厳教」を布教して東大寺初代別当となり、東大寺を創立したのでこの宗は東大寺に伝来したと云う。(※「故事類苑」)

■【大仏(盧舎那仏)の造営】
天平7年(735年)には災害が多発し疱瘡等の疫病が流行り絶対的な権力を恣にした藤原不比等の子の4兄弟が相次いで死亡した。天平9年、聖武天皇は国毎に国分寺創建の詔を出し、国家鎮護を祈らせた。この頃、朝鮮半島では新羅が強大となりに日本に侵攻する恐れも強くなる。天平12年には藤原氏の後を受けて大伴家持と近い橘諸兄が右大臣となり、天平13年には橘政権に対抗して藤原広嗣が九州で反乱を起こし、大将軍大和守大野朝臣東人に鎮圧される。天平13年にはこの乱に危機感を持った聖武天皇は都を平城京から山城国恭仁京に遷都し、この年には国分寺、国分尼寺の制度を整備し、国毎に「金光明四天王護国之寺」と称する国分僧寺と「法華滅罪之寺」と称する国分尼寺の制度を定められた。しかし、その整備は遅々として進まず、奈良時代末期迄この事業はかかったと云う。天平15年(743年)には聖武天皇は盧舎那仏造像の詔を発布された。国分寺の創建は国家の費用で行われたが、この大仏造営には「人一枝の草、一把の土を持ち寄り像の造立を助けんとする者有れば自由に之を献じ、この事で国郡司は百姓より税を徴収してはならぬ」との勅令が出され、天平16年には紫香楽宮に寺地を定められて天皇自らが都の恭仁京を離れて滞在され、自らが縄を引かれて工事が始められたと云う。この勅令に賛同して「僧行基」は信徒を動員して勧進や工事支援を行った。しかし、この時期には畿内に地震、山火事、旱魃等の異変が相次いだ為、天皇は平城宮への遷都を決め、天平17年には平城宮の東方の金光明寺の寺地で大仏造立が改めて開始された。天平19年(747年)9月から始まった工事では天皇自らが袖に土を入れて土を運ばれ、文武百官も自ら土を突き固めたと云う。完成は天平勝宝元年(749年)迄足かけ3年かかったと云う。天平18年(746年)、「大伴家持」は越中守に任じられる。天平21年、陸奥の国の百済王敬福からわが国には無いものと思われていた金の産出が報告され、大仏の鍍金の為の金が確保された。聖武天皇は当時、越中国司として辺地の国司であった「大伴家持」に気を使い、大仏の前で奏された宣命の中で「大伴、佐伯氏は先祖代々天皇の親兵として忠節を尽くし、天皇は篤くこの両氏を信頼している」と述べられ、この時に両氏の関係者が叙位されたと云う。この宣命に感激した「大伴家持」は軍歌にもなった、かの有名な「陸奥国より金を出だせる詔書を賀ぐ歌」(万葉集巻十八)を詠じたと云う。
【註】この一部は軍歌で「海行かば」と歌われている。
当時、大伴氏、佐伯氏は東北の蝦夷対策で軍事上の前線基地の越中を守り、戦争の食糧基地としての北陸を防備して正に国家防衛の役目を担っていた。

🔻法相宗の「華厳教」は正式には【大方広仏華厳教】と呼び、華厳の世界の中央には「留舎那仏」が鎮座されるとし、「方広寺」は「大方広仏」から名付けられ、そこには黄金の「留舎那仏」が祀られていたと云う。



■【越中の東大寺庄園】
東北で金が算出した天平感宝元年に、越中国では567町歩の東大寺庄園があり、利波郡では伊加流伎野荘100町(砺波市権正寺:庄川沿い)が有り、射水郡では須加村35町(国吉の頭川?)、鹿田村29町(高岡と大門の間?)、鳴門村58町(高岡の赤祖父?)、くぼ(こて)田村130町(高岡市十二町島・佐野方面?)が有り、新川郡では丈部村(滑川市?:84町、大藪野(立山町?:150町)が有った。
(▼平成26年の正倉院展では、「くぼ(こて)田村図」が全国で唯一、出展されている。)

■「赤丸浅井神社」に神田として「一段」が寄進された「東大寺庄園石粟庄」(最大時199町5反196歩)は、天平宝字3年(759年)から神護景雲元年(767年)に開発され、利波郡ではこの他に、井山村(砺波市頼成:120町)と杵名蛭村(高岡市伊勢領・市の瀬:37町7反)が天平神護3年(767年)から神護景雲元年(767年)にかけて開発されている。井山村墾田地(砺波市頼成:120町)は「利波臣志留志」によって東大寺庄園に寄進された庄園である。
全国の「東大寺荘園2820町」の内、約33%が越中に有ったと云うから、越中は聖武天皇、東大寺にとって東北の蝦夷対策の前線基地、朝鮮半島の新羅対策の前線基地で有るばかりでは無く、東大寺建立の為の財政的な基盤で有った事が判る。軍事的な中枢に有り、聖武天皇の近臣として越中・能登の全権を掌握する「大伴家持」が赴任した翌年には、「利波志留志」が東大寺に「米5000石」(※「東大寺要録」)を早速寄進している。
現在の高岡市国吉村に有ったと推定されている東大寺庄園の「須加村」には「須加山」が表示されており、「大伴家持」が大切にしていた鷹が須加山へ逃げた事が万葉集にも掲載されており、この庄園の位置は二上山麓から国吉村・岩坪村の小矢部川西部の位置が推定されている。

▼平家全盛期には国吉村の「佐賀野」に能登・越中を治めた平家の武将越中次郎兵衛の館があり、古くから開けた地域の様である。(※「國吉村史」)
「須加村庄園図」には周辺が「公田」として記載されており、この当時は後の吉岡庄の範囲も国の直轄地であった様で有る。717年創建と伝わる「赤丸浅井神社」は勅許で近郷53ケ村から米一升を知識米として集める事が認められていたと神社由緒に記載され、その中には国吉名(※「吾妻鑑」記載)も含まれている事から、この地域はその後の白河上皇の時代に「京都の上賀茂神社領」となり、継いで藤原氏庄園の「吉岡庄」となったらしい。





■【利波臣志留志の東大寺への寄進】
石黒氏の祖と言われている「利波臣志留志」はこの時、「米五千石」(※「東大寺修院過去帳」)を寄進し、(※「続日本紀」では、米三千碩を寄進し、追って庄園100町歩[井山村:砺波市頼成]を東大寺大仏造営の為に寄進している。)、現在も「東大寺お水取り行事」で大仏建立の貢献者として「利波臣志留志」の名前が読み挙げられている。



■【赤丸浅井神社由緒】
「延喜式内社赤丸浅井神社」が古くから管轄していた53ケ村は「国吉名」、「宮島郷」を含んでいた。この範囲が古代から続いた「越中吉岡庄」の範囲と想定される。




▼毎年、三月に行われる「東大寺三月堂お水取り行事」には、東大寺大仏建立の寄進者名簿である「修院過去帳」が読み上げられる。その寄進者筆頭には、越中の「利波臣志留志」の名前が記されている。




📚📘「東大寺」の「修二會(お水取り行事)」と「東大寺上院修中過去帳」⇒越中の石黒氏の祖「利波臣」!!

2019-05-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「赤丸浅井城」を再興した「越中石黒氏」の祖は越中国司「利波臣志留志」とされる。
「義経記」では「浅井城」を「如意の城」と記載し、「小学館版」等の解説では「五位の城」(※「赤丸浅井城」)の事としている。(※浅井城イメージ)








■東大寺修二會(お水取り行事)の「籠松明 カゴタイマツ」




(東大寺HP参照)

■越中石黒氏の祖の「利波志留志」は東大寺大仏の造営の為に「米五千石」を寄進した。「東大寺お水取り行事」では、毎年3月5日、12日に大仏造営の功労者として「過去帳」の中で「米五千石を寄進した利波志留志…」と読み上げられている。

寄進者筆頭に記載される「利波志留志」の系統は「孝元天皇」の子孫とされるが、その後は幾つかの系図がある。(「越中石黒系図」、「古事記」、「日本書紀」)


「越中石黒系図」
(※「福井県史」では「利波臣」、「射水臣」は「孝元天皇」、「武内宿弥」の子孫とされる。



■「古事記」では「利波志留志」は「孝霊天皇」、「日子刺肩別命」の子孫「高志利波臣」の子孫とされ、「利波臣」の「臣」は天皇系の一族を示す。
⇒「志留志」は「石黒系図」の「諸石」で有り、「誌石」の誤記であろうとされる。





(※「北陸古代の政治と社会」米沢康著、「砺波散村地域研究所研究紀要第一号」の「古代砺波の地方豪族」米田雄介著 参照)


(※「越中石黒系図」、「越中石黒氏系図」(※富山県姓氏家系大辞典)、「越中国官倉納穀交替帳」より作成)

■利波臣は天平勝宝3年(751年)に利波臣虫足が郡司の「少領」に任じられ、天平神護3年(767年)には利波臣志留志が員外・外従五位下となり「国司」の「介」(この年、一年限りらしい。)に任じられ、その後も自らの荘園「井山荘100町歩を東大寺に寄進」して、従五位上に叙任される。その後、利波臣は延喜10年(910年)にも従八位上利波臣保影が「少領」となり、この時に従八位上射水臣常行はその上の「大領」に任じられている。(※「越中国官倉納穀交替帳」滋賀県大津市石山寺蔵)
「越中石黒系図」によると、利波臣はその後も郡司大領に任じられていたが、「豊久」の代に少領外従六位上となっていたが、豊久は藤原氏の加賀林貞光の猶子となっていた藤原氏の越中石黒氏石黒権太夫光久を後継者とした事で、以後は利波臣は石黒氏に継承された。この時から、越中石黒氏の傍系の福満氏の系統は藤原利仁末裔の「加賀林氏」と「利波臣」の両家を引き継ぎ、傍系の石黒氏は藤原氏と名乗ったり、利波氏を名乗ったりしている。
(※「石黒氏」は元々、石黒庄の開発に中央より送り込まれた藤原一族だったと云う。)


■東大寺で毎年の春に行われる「お水取り」と云う行事がある。
この儀式は二月二十日から「別火」と言う準備ので行法から始まり、練行は、三月一日から上七日、下七日、あわせて十四日の儀式である。「修二會」即ち「お水取り行事」は、十二日目に本堂の下の閼伽井屋と呼ばれる井戸から水を汲み取る儀式が有り、この為にこの勤行自体が「お水取り」と称されている。「修二會」の源流についてはいろいろあるらしいが、寺伝では「開山良辮和尚の弟子實忠和尚が天平勝寳三年に、笠置寺の龍穴に入り修行中に浄土の壮麗な有り様に出会った。そこでは諸々の天衆が集まり十一面観音を祀って修行していた。そこで、實忠はこの行法を人間界にも伝えたいと思って天衆に相談した所、天界の一日は人間界の四百年にも当たり行法も難しく一日千回の行道を勤修しなければならず、又、人間界で指導できる生身の観世音がいなければ修行は徒労に終るだろうと告げられた。しかし、實忠は生身の観世音がおられて人間が四百年、千回の修行を行えばこの勤行はできると考えた。そこで和尚は摂津の難波津に赴き、そこから補陀落山に向かって祈願勘請した所、御丈七寸程の十一面観音が海の向こうから一枚の閼伽折敷に乗ってやって来られた。その観音像は人肌の温もりが在った為、實忠はこれこそ生身の観世音に違い無いと、二月堂に安置して天平勝寶四年二月一日から浄土の型の観音供養の行法を勤めたと云う。」この行事がお水取りと呼ばれて、七百五十二年から今日迄1260年余りの間続けられている。因みに、天平勝宝4年は「東大寺盧舎那仏像開眼供養会」が行われた年である。この行事は十一人の練行衆で勤められ、其々が役割を持ち、和上、大導師、咒師 ジュウシ(呪文を唱えて加持祈禱を行う僧 )、堂師の四職と平衆で執り行われる。この他にも様々な会計、雑事、湯屋、松明の準備室、飯炊等の担当等が有り、総勢五十名を超える大部隊の行事である。練行衆は東大寺別当が任命し、前年の十二月十六日の開山良辮僧正の忌日法要の席上で配役と共に発表される。東大寺は八宗兼学の寺であるが、東大寺別当は華厳宗の管長で有ることから華厳宗で執り行われる。
※【八宗兼学】 →(八つの宗派を併せて学ぶ)
天台宗(開祖:最澄)、真言宗(開祖:空海)、日蓮宗(開祖:日蓮)曹洞宗(開祖:道元)、臨済宗(開祖:栄西)、浄土宗(開祖:法然)、浄土真宗(開祖:親鸞)、時宗(開祖:一遍)
→[日本での開祖]を指している。
・学派として[南都六宗] ;三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗

■「お水取り」行事の由来
「實忠和尚は二十七日夜の行法をされ、諸神一万三千七百余座の神々を招来されたが、若狭国の小潤生明神 オニブミョウジンは魚を採っていて遅参した。神は是れを嘆き、その怠りに道場の畔に香水を出して来なさいと命じる様に實忠和尚に示された。その時、黒、白二羽の鵜がにわかに岩の中から飛び出し、傍らの樹に止まった。しかも、その二羽の跡から本当に沢山の甘泉(美味しい水)が湧き出した。そこで石を組んで閼伽井(仏に捧げる清水の井戸)を造られた。かの小潤生明神が小浜の小潤生川の水龍を招いて東大寺の観音に奉った為にその川の水は枯れてしまい、その後はこの川を『音無川』と呼んだと云う。」
音無川は若狭国小浜市を流れている小川である。若狭国でもこれに該当する「二月堂への水送り行事」が有る。小浜市の音無川上流約4キロに白石神社が有り、その境内に川のよどんだ場所が有り、これを「鵜の瀬」と呼び、夜半十二時頃に手松明を炊きながらそこに集って送水の式を行うと云う。現在は、この式は東大寺と関係無く行われているが、(昔は若狭に東大寺の庄園が在った。)二月堂との直接の関係は無いと云う。この若狭からの水が東大寺の閼伽井に流れ来ると云う伝説から「修二會」の行事全体が「お水取り」と呼ばれたらしい。
この「お水取り」行事では、閼伽井の水を観音像に捧げたり、様々の行事があるが、ハイライトは十二日から十四日の3日間、勤行の後に行われる「達陀 ダッタン」の妙法である。その他、鈴や法羅貝の音楽が有り、十二日には「お水取りの式」が有り、「籠松明 カゴタイマツ」という二十貫もある大きな松明を堂の縁で振り回し、火の粉で厄を払う。この火の粉は子供の夜泣きを止めると言う。行事では「神名帳」の読み上げやお経の転読等が行われる。お経はお昼の食堂作法から日中、日没、初夜、半夜、後夜、晨朝、徹宵の勤修がある。

■「東大寺上院修中過去帳」
五日目と十二日の初夜の終わりには、東大寺所縁の人達の「過去帳」が読み上げられる。
『東大寺上院修中過去帳』記載の関係者⇒
本願聖武天皇、元正皇太后、光明皇后、行基菩薩、孝謙天皇、藤原不比等、橘諸兄、良辮僧正、實忠和尚、大仏開眼天竺僧正、隆尊律師、観音願主尾信勝、虚空蔵願主尼善光、造寺知識功課人、大仏師国君麻呂(百済から亡命した仏師)、大鋳師真国、高市真麿、鋳師柿本男玉、大工猪名部百世、小工益田縄手
材木知識五萬一千五百九十人、役夫知識一百六十六万五千七十一人、金知識二十七萬二千七十五人、役夫五十一萬四千九百二人、 米五千石奉加利波志留志、銭一千貫奉加河俣人麿、銭一千貫車十二両牛六頭奉加物部小嶌、銭一十貫奉加甲賀真束、別当良興僧都、良慧僧都、永興僧都ーーー桓武天皇ーーー嵯峨天皇ーーー淳和天皇ーーー仁名天皇ーーー文徳天皇ーーー陽成天皇ーーー光孝天皇ーーー宇多天皇ーーー宇多天皇ーーー朱雀天皇ーーー村上天皇ーーー冷泉天皇ーーー圓融天皇ーーー長官頼忠関白ーーー華山天皇ーーー一条天皇ーーー三條天皇ーーー後一条天皇ーーー後朱雀天皇ーーー後冷泉天皇ーーー後三條天皇ーーー堀河天皇ーーー白河天皇ーーー近衛天皇ーーー鳥羽天皇ーーー後白河天皇ーーー虚空蔵並増長天大仏師幸慶法眼ーーー当寺造営施主将軍頼朝右大将ーーー青衣女人ーーー大勧進栄西僧正ーーー当寺造営大施主将軍實朝将軍ーーー平義時左京権大夫(北条義時)ーーー後高倉法皇ーーー観音並廣目天大仏師快慶法眼ーーー多聞天大仏師定慶ーーー禅惠法師ーーー後堀河天皇ーーー四條天皇ーーー平泰時左京権大夫(北条泰時)ーーー後嵯峨天皇ーーー頼真大法師 他 (一部分抜粋)
(慶應二 丙寅書写 宮内卿晋海) (※「青衣女人」飯島幡可著)


※「米五千石奉加利波志留志」は越中石黒氏の祖とされ、越中の東大寺庄園の開発にも関わった人物。
※「禅惠」「頼真」は河内金剛寺から高岡市にある総持寺(元は赤丸村)に伝わったとされる国指定重要文化財木像千手観音座像の胎内にも記載されている。(同一人物かは不明!)
※「青衣女人」は 亡霊の様に現れ、掻き消す様に消え失せた伝説的な人物で未だに誰かは分からない。



🌸🌿🍃【京都三十三間堂】の「楊枝のお加持」 の由来 ⇒【後白河上皇庄園越中吉岡庄】(富山県高岡市福岡町赤丸)と【蓮華王院三十三間堂】!!

2019-05-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸













■「保元の乱」の後、摂関家藤原氏長者「左大臣 藤原頼長」の庄園「越中吉岡庄」(※高岡市の「赤丸浅井神社」はこの中心施設)は「後白河上皇」の「後院領」とされ、上皇は住まいとされた法住寺殿に蓮華王院三十三間堂の建立を発願されて、建物は平清盛が寄進した。上皇はこの寺に一千一体の黄金の千手観音像を祀られた。この「三十三社間堂」には隠れた「由緒」と「加持祈祷行事」が伝えられている。(※元の藤原頼長の庄園には北陸では「能登一青庄」もある。)

■「三十三間堂由来」(「み熊野ネット」Hpより)
【京都東山、蓮華王院。三十三間堂の名で知られるこの仏堂は、後白河上皇(在院期間中、34回と最多の熊野御幸をした上皇)が1164年、自らの離宮・法住寺殿の敷地内に一宇の仏堂を建立し、1001体の千手観音像を安置したのを始まりとします。 造営には平清盛が当たり、この功により清盛は播磨守となりました。俗に三十三間堂と称しますが、それは、本堂の内陣の柱間が33あることによるもので、また33という数字は観音菩薩が33もの姿に身を変えて人を救うという信仰によるものだということです。この三十三間堂で、「柳のお加持」という法要が行われています。正月に汲んだ初水を霊木とされる柳の枝で参拝者にそそいで加持する頭痛封じの法要です。この法要は後白河上皇の頭痛平癒にあやかったものなのですが、ここにも熊野が絡んできます。
後白河上皇は頭痛に悩まされていた。そこで熊野で祈願したところ、お告げがあった。
「上皇の前世は熊野にあった蓮華坊という僧侶であった。仏道修行の功徳によって今世、天子の位につかれるくらい高貴の方に生まれてきたが、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいる。その髑髏を貫いて柳の木が生えていて、風が吹くと柳の木が揺れて髑髏に触れ、上皇の頭が痛むのだ」という。そこで、川を調べさせたところ、髑髏が見つかり、その髑髏を三十三間堂の千手観音の1体の尊像に塗り込め、さらにその柳の木を伐って、京へ運び、三十三間堂の梁に使ったところ、上皇の頭痛は平癒したという。蓮華王院の名は前世の蓮華坊の名をとって付けられた。

■岩田川。今の富田(とんだ)川の滝尻(和歌山県西牟婁郡中辺路町)辺りから下流は岩田川と呼ばれ、熊野詣の重要な垢離場(こりば)のひとつでした。この川を1度でも渡れば、今までの罪業がことごとく消えると信じられていた聖なる川。この川を徒渉し、滝尻王子に参拝。京から熊野を目指して歩いて きた人々にとって、滝尻からが熊野の霊域の始まりでした。

■仏教では柳は一切樹木の王、仏に供える最高の聖木とされているそうですが、実際、柳には鎮痛作用があり、解熱鎮痛薬であるアスピリンは柳から作られたものなのだそうです。

■三重県南牟婁郡紀和町楊枝に楊枝薬師堂という小さなお堂がありますが、そこにはこんな伝説が。
昔、この地に60余丈(1丈は約3m)の柳の巨樹があった。頭痛に悩まされていた後白河上皇は頭痛平癒を願い、京に三十三間堂を建立することになったが、長さ100mをこえる棟木が必要であった。そこで、楊枝の里の柳の巨樹が伐り出されることとなった。この柳を伐って、京へ運び、三十三間堂の棟木に使ったところ、上皇の頭痛は平癒したという。後白河上皇は、その柳の伐り跡の上に七堂伽藍八房十二院の大寺を建て、自ら刻んだ薬師如来を安置し、「頭痛山平癒寺」と名付けた。これが楊枝薬師堂の前身である。寺は幾度かの火災や水害で失われてしまい、現在は楊枝薬師堂の一宇があるのみですが、本尊薬師如来は創建当時のものを伝えているそうで、頭の病気に霊験があるとされています。】







🔴【薬師如来】を本尊とする熊野三山熊野新宮「熊野速玉大社」と「後白河上皇」の庄園「越中吉岡庄」!!

2019-05-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸






■「越中吉岡庄」の領主「後白河上皇」は篤く熊野三山を信仰されて在位中、歴代天皇最高の三十三回の熊野行幸を重ね、自らは近江三井寺で出家して、「三井寺」を【熊野三山検校】に任じて、「本山派修験道」の総取締に任じられた。「赤丸浅井神社」の別当の「川人山鞍馬寺」はこの「本山派修験道 門跡寺院聖護院」の末寺で在り、「聖護院」は江戸時代には「光格天皇」、「孝明天皇」仮御所にもなっている。



■「後白河上皇」は重い頭痛に苦しんでおられたが、ある時に、夢に熊野の僧が現れて、「熊野山中の川の中に自分の体が在り、柳の根が体に入って来て苦しんでいる。」と告げて消えた。
上皇が熊野の川を探させると、川の中の僧の頭蓋骨に大きな柳の根が入り込んでいた。上皇は篤くその僧を供養して、その柳の大木を切取り、その木を使って自らの居所に「三十三間堂」を建て、その中に「一千一体の千手観音像」を祭られた。その為か、上皇の頭痛は快癒したと云う。
現在も「蓮華王院三十三間堂」には「柳枝の御加治」という法要が続いている。

■【後白河上皇】の「後院領越中吉岡庄」の「延喜式内社赤丸浅井神社」には、「熊野社」を勧請されて、背後の清水山の中腹に社を建て、これは赤丸村に在った「総持寺」の持宮で在ったと云う。
この神社は現在、「赤丸浅井神社」に合祀されているが、両部神道で在った時の本尊「薬師如来像」は「赤丸浅井神社」には伝わっていない。
高岡市関町の「総持寺」には、古い「薬師如来像」が伝わっており、総持寺に伝わる由緒には遺されていないものの、本来、この「薬師如来像」は赤丸村に在った「総持寺」の持ち宮で在った「熊野社」の本尊ではないか?  明治六年、両部神道の廃止と共に多くの仏像が行方不明になったり、廃棄されてしまっている。

■「総持寺」に伝わる「薬師如来像」は「春日明神の作」という由緒を持っている。「高岡関野神社」が属した「吉田神道」は、「春日大社」を京都へ勧請した「吉田神社」の吉田一派が唱えた「唯一神道」で在り、この由緒に「春日明神」が登場するのは、明らかに「吉田神道高岡関野神社」がでっちあげた由緒で在る事が明確だ。
「吉田神道」は徳川幕府を背景として様々に神社の簒奪を企み、寺院の由緒にも干渉して、「吉田神道」に教化しようとしていた。両部神道で在った「真言宗総持寺」に、「関野神社」の流れを汲む「仏像」が祭られる筈もない。関野神社は加賀藩の前田利長を祭る神社として、加賀藩の神社を思いのままに操り、寺院の口を塞いでいた事は明らかだ。

■赤丸浅井神社の背後に在った「愛宕社」の本尊「坂上田村麿像(将軍地蔵)」はその後、高岡市関町に在る(元々赤丸村に創建された)「曹洞宗天景寺」に祭られている様だ。
「吉田神道高岡関野神社」は、明治維新と共に、各地の神社を簒奪して我が社として吹聴した。関野神社は古くから在った熊野社を持ち込んで「我が社」として、高岡市熊野町の「先宮熊野社」迄も「我が社」と唱え、本来は、元々赤丸村に創建された「越中宮極楽寺」に祭られている「後醍醐天皇王子宗良親王の熊野信仰」に関わる「二番町の曳き山」の由緒すら打ち消して、「御車山祭り」を「熊野神を祭る関野神社」の祭礼で在ると唱えている。
その中で総持寺の薬師如来像もその由緒を隠したものではないか?
「総持寺」の「千手観音像」すら、加賀藩には「六渡寺浜より上がった」として、「元々赤丸村に在った」と云う由緒も隠している。









■「後白河上皇」は「越中吉岡庄」を、「蓮華王院三十三間堂」の庄園と定められ、「南北朝時代迄」この庄園は「三十三間堂」の庄園として続き、「花園天皇」の時代には、肥後人吉庄の「相良迎蓮」が地頭を勤めていた。(※「東大寺文書」)







🔴【衆徳山総持寺】の【薬師如来像】の検証⇒平安時代に造られたという「薬師如来像」の真実は?

2019-05-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸






現在、高岡市関町に在る「衆徳山総持寺」は、室町時代の初期迄、「越中五位庄赤丸村舞谷(舞谷村)」に在ったが、「五位庄」が、「室町幕府御料所」となり、「三代将軍足利義満」が南北朝を統一して天皇家庄園として続いた「吉岡庄」が「五位庄」と改名された頃に、「臨済宗相国寺」の庄園として寄進され、この時に臨済宗以外の宗派は赤丸村から移転させられたと伝わる。この時期に「総持寺」は「浜総持寺」と呼ばれ、海岸近くの「六渡寺村」に移ったと見られる。
(※「名古屋大須観音文書」)
この赤丸村を中心とした庄園は、その範囲も福野町野尻や高岡市中田辺りの盤若野庄や小矢部川河口の二上庄、六渡寺村迄も含む広大な庄園になり、小矢部川を挟んで、「五位の西庄」・「五位の東庄」に分かれていた様だ。この時に、小矢部市に在った「蓮間郡」を除いて、殆どは「利波郡」に属していた様だ。室町時代に「赤丸浅井神社」で藤原直家が法要を勤めた記録が「東海宗洋法語録」(※富山県史中世)に在り、その中に「利波郡五位庄赤丸村住藤原直家」と在り、室町時代には「赤丸村」は「利波郡」に属していた事が判る。



「総持寺」には南朝の後村上天皇の皇居として使用された空海ゆかりの「河内国金剛寺」から伝わったという「国指定重要文化財木造千手観音座像」が安置されており、この像の胎内銘には「後鳥羽上皇の法名 金剛位理卿 本願聖人」が記載されており、この千手観音像は「後鳥羽上皇の祈願仏」で在る事が判る。この事からも「総持寺」は皇室との深い繋がりが在った事が判る。

🔻「総持寺薬師如来像」の由緒
慶長年間(1615年~1635年)にこの像は総持寺にもたらされたと云う。(※1609年9月13日に前田利長によって高岡城が築城され、高岡の町が開かれた。)



■この薬師如来像は総持寺へ入る前700有余年間、婦負郡の某寺の本尊であったというから、造仏は慶長から700有余年前になる。従ってこの薬師如来像は900年代の平安時代に造られた事になる。その頃に既に婦負郡に「安養坊」が在り、そこにこの薬師如来像が祭られていたという。

今、呉羽山の麓の富山市五福地区には「安養坊」という地名が遺る。
しかし、この由緒書には、「この薬師如来は春日明神の御作也」と在り、この「春日明神」とは【大鏡】の記載に因れば「鹿島神宮」⇒「春日大社」⇒京都「吉田神社」と続く「吉田神道」そのもので在る。

■「吉田神道」は「唯一神道」を唱え、天皇家の「伊勢神道」(白川神祇伯)に対抗して、「神祇官領頂上」という官職を自ら唱え、「天皇」と対立した「幕府側」の神道とも言えるもので、本来の「神祇官」の権限を勝手に使用して全国の神社の神官の叙任をしたり、衣装の色等の服装を定めたりしていた。
「吉田神道」に教化された神官には大きな「任命書」が公布されて、現在も額に入れて掲示している。
これに対して、「伊勢神道」の「白川神道」は直接、伊勢神宮の傘下で、「天皇護持」「国家鎮護」を祈っている。この様に、「伊勢神道」と「吉田神道」は相容れない神道で在り、その「吉田神道」の「春日明神の作」の「薬師如来像」を天皇家と密接な歴史を持っ「総持寺」が祭っているのは信じ難い。明らかにこの由緒なるものは「吉田神道」の人物が書いたもので在る。



■「天智天皇」は、「中臣鎌足」に「壬申の乱」で「蘇我氏を滅ぼした恩賞」として、「藤原の姓」と自らの愛妾を与えたが、その時既に愛妾のお腹には子供がおり、天皇は「男子ならば自らの子供として育てよ」と命じられた。この時に生まれた子供は「藤原不比等」と云う。「藤原不比等」は「文武天皇」、「元明天皇」、「元正天皇」の下で、「大宝律令」の編纂等の成果を遺して自らの娘「宮子」を「文武天皇」の「夫人」とし、その子は「聖武天皇」として即位した。不比等の功績を愛でられて「文武天皇」は、【藤原は不比人等の子孫のみに認め、元々の中臣は神官としての職務に戻れ】と勅令を出された。
その為に「中臣氏」は政治から除外され「藤原」を名乗る事を禁じられた。
【続日本紀】文武天皇2年(698年)8月19日の詔
「藤原朝臣賜はりし姓は,その子不比等をして承けしむべし。但し意美麻呂らは,神事に供れるに縁りて,旧の姓に復すべし。」
⇒「中臣の意美麻呂」は大津皇子事件に連座した為に、藤原氏は「藤原不比等の子孫」に限定して、「中臣氏は元の姓の中臣氏に復して、神事のみに奉仕して政治に関与してはならない」との勅令が発しられた。



■一方、「中臣氏」と共に祭祀を担当していた「卜部氏」は、独自の「吉田神道」を唱え、「仏教を排斥した唯一神道」を唱え、反伊勢神道の独自の神道派閥を作り上げた。「吉田氏」は時には天皇にも近づき、ある時には幕府に近づいて教化を進めていたが、徳川幕府が「諸社禰宜神主法度」を定めて、その権限を「吉田神道」に認めた事から、「吉田神道」による天皇家側の神社、神官との対立が激化した。天皇家とも密接な「門跡寺院聖護院」の傘下に在った「両部神道赤丸浅井神社」の末社の「石堤浅井神社」を簒奪して「吉田神道」に変えようとした事件もその一例で在る。
明治維新は「国家神道による統治」を目指した為に、「高岡関野神社の関神官」の様に明治政府の要職に食い込み、やりたい放題の「廃仏毀釈運動」の展開に繋がった。明治五年、政府は「両部神道廃止令」を発布して、「両部神道の寺院に天台宗か真言宗にもどる事」を命じた。



🔻この時期に両部神道「赤丸浅井神社」の別当「川人山鞍馬寺」の「西宝院」は、還俗して「川人他治馬」と改名して神官となり、「苗字帯刀」を許され士分に取立てられている。







🔴《五位庄「貴船神社」の御神像の発見》⇒ 【加賀藩記録 公賦要略】と高岡市福岡町の郷土記録【蓑のしずく】!!

2019-05-21 | 富山県高岡市福岡町
■加賀藩士が書き残した「加賀藩の詳細記録」の【公賦要略】に記載される【木船城主 前田秀継】は天正十三年二月に死去。







■総持寺に遺される【貴船神社の御神体】は天正元年に造られている。
この像には、【「前田家」が、木船城に入った時に犬の首に縄で縛り木船城近くの河川に流して「御神徳が在るならば浮かんで見ろ」と嘲り笑ったという】逸話が在る。













■その後、天正十三年には「飛越地震」の為に「木船城」が土中に埋まり、城主、家臣一同が死亡したと云う。正に「貴船神社」の御神徳と云うべきか、おごり高ぶった前田家は巨大な地震に拠って潰滅した。
しかし、この像はその様な災害の後にどうして遺されたものか?



■この「御神像」が何故、元々赤丸村に在ったと云う「総持寺」に奉られたものか?
「赤丸浅井城」は、「木船城」と同じく、元々「越中石黒氏の居城」で在り「源平盛衰記」で有名な「石黒光弘」の父親の「石黒光景」の居城で在り、「総持寺」は「延喜式内社赤丸浅井神社」の周辺に在った「浅井神社48坊の一つで在った」と云われる古寺で在る。「延喜式内社赤丸浅井神社」は「越中吉岡庄」と呼ばれた南北朝時代の以前にも、「五位庄」と呼ばれた室町時代以降もこの地域の中心に在った【郷社 惣社】とされる元締の神社で在り、福岡町や大滝地区はこの「吉岡庄」の中に含まれていた。

【京都の鞍馬寺と密接な貴船神社を、赤丸村の浅井城には川人山鞍馬寺、大竹村(大滝村)には貴船神社として勧請したものと見られる。】

■福岡町の中川幸作氏が遺された「蓑のしずく」には、この像は「吉田神道石堤浅井神社の立場で激しく赤丸浅井神社と争った郷土史家の飛見丈繁氏が所有ししていた」事が記されており、又、「飛見丈繁氏」の別の「越中古文抄」という著作には、「赤丸浅井神社の神官を勤めた西宝院(川人家)の法名が総持寺の過去帳に遺されている」とも記載されている。「飛見丈繁氏」は何故、「貴船神社の御神像」と云われるこの石像を縁者の嫁いでいた「総持寺」へ持ち込んで奉られたものか?







■それにしても、地震で失われたと見られていた「貴船神社の御神像」が、今、忽然として我々の前に姿を現した事は「正に御神徳」と云うべきだろうか?

🔻【歌川国芳作】
「源平盛衰記 安宅川合戦」に記載される「木船城城主石黒光弘」


🔘📚📃【保元の乱】で亡ぼされた【藤原摂関家長者 藤原頼長の庄園】⇒ 富山県高岡市福岡町赤丸【越中吉岡庄】と 石川県鹿島郡中能登町【一青庄(ヒトトショウ、シトドョウ)】!!

2019-05-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


●「後白河天皇」と「崇徳上皇」が争った「保元の乱」で没官された「藤原摂関家長者・左大臣藤原頼長」の個人庄園29庄の内に、北陸では高岡市福岡町の「郷社赤丸浅井神社」を中心とした「越中吉岡庄」と、中能登町の「浅井神社」を中心とした「能登一青庄 ヒトト、シトド」が在った。

■この「武士が台頭するきっかけ」に成った日本史上も有名な「保元の乱」の後、「越中吉岡庄」は越中では唯一の「後白河上皇」の「後院領」に編入され、「能登一青庄」は京都の「石清水八幡宮領」に成った。

(※後の南北朝時代末期から、「越中吉岡庄」は「五位庄」と改名されているが、これは位田の「後院領」から「御位領」⇒「おいの庄」⇒「五位庄」に変化したものと見られ、東寺百合文書にはその変化が記載されている。)

この「藤原頼長」の二ケ所の庄園には、同名の「浅井神社」が在ったと言われ、同じ庄園領主の下で、同様の文化が在ったと云う。伝承に、「延喜式内社赤丸浅井神社」の神官「川人家」や赤丸村組頭「皆月家」等の旧家は、「先祖が能登から来た」と言われ、加賀藩に士分として「御扶持人十村役・山廻役」に取り立てられた福岡町沢川村の「田畑兵衛」は元々、中能登を領有していた平家の末裔と名乗っており、「吉岡庄」に能登に所縁が在る一族が住み着いたと云われている。

▼「能登一青庄」の「一青」は、その語源が、その昔、能登に棲息していた「青い小鳥」の事だと云われる。現在では、その姿は見られないが、何か神事に関係していた「小鳥」の様だ。
・歌手の「一青窈」の名前は、母親の出身地の「能登一青庄」に由来している。



















■石川県鹿島郡中能登町一青と富山県高岡市福岡町赤丸。この離れた地域は何で繋がっているのだろうか? (能登一青は歌手の一青窈さんの母の故郷とされ有名になった。「一青」とは昔居た青い小さい鳥の名前らしい。)
「兵範記」に拠ると、この二つの地域は藤原氏長者の藤原頼長が保元の乱で敗れ後白河上皇に没官された時に「能登 一青荘、 越中 吉岡庄」として出て来る。この庄園は後鳥羽上皇から後醍醐天皇迄伝領し、後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が赤丸浅井城に在城の時に「吉岡庄」から「五位庄」に改名されたと「宝永史」は伝えている。
富山県の作家の遠藤和子さんは一青庄の地域について、「この鹿島郡・羽咋郡は元々、高岡市福岡町沢川の土豪の田畑兵衛家が所有しており、能登守護畠山氏の家臣三宅家秀は田畑氏に石川県羽咋郡押水町の蛇崩、十八尾、泉原の安堵状も授けている」とその著作「佐々成政」に記載されている。又、この田畑家は元、平氏で有ったが上杉謙信に敗れてその二男が跡を取り田畑兵衛と名乗ったと云う。

■[佐々成政と前田利家が能登末森城で激突した時に、田畑兵衛は佐々成政に味方すると見せかけて故意に成政の兵を山中に迷わせて末森への参陣を遅らせ、結果、前田軍が到着した為に佐々軍は撤退を余儀なくされ、豊臣秀吉の応援で成政は降伏して前田家は成政の所領を得た。田畑家はこの恩賞に領地と役職を与えられ、前田家から「功臣」として処遇された。一方、同じく上杉謙信に降伏した高岡守山城の神保氏張(能登畠山氏から神保氏に養子に入った。)、柴野城寺嶋牛介とその甥の赤丸浅井城、赤丸城城主中山氏は上杉に従って、上杉家臣名簿にも載せられて上杉の重臣と成り、寺嶋牛介は上杉謙信から「五位庄安堵状」を授けられ、五位庄五十三ケ村を統治した。(✳「金沢寺嶋蔵人邸文書」金沢市立玉川図書館控え所蔵)
上杉謙信亡き後、神保氏張が織田信長の妹を妻として織田軍に従った為、この三名はその重臣の佐々成政に従って能登末森城に陣を構える前田利家軍を攻めた。
沢川村はこの時期「五位庄」の中で寺嶋牛介の支配を受けて、同じく上杉謙信に降伏した田畑兵衛としては一人屈辱を味わった事だろう。名門の能登畠山氏の家臣団が分裂し、一部は上杉謙信に内通し、一部は畠山氏存続を願って動いたが、重臣の長氏は上杉に通じて遂に七尾城は上杉に席巻されてしまった。神保氏張が自分の実家の能登畠山氏が上杉に席巻されるのを是認した事に対する田畑氏の思いが在ったものか? 田畑氏にとって、前田利家からの調略が有った為だけでは無く、この忍従の日々がおそらく末森の戦いでの佐々・神保軍への裏切りの原因となった一面もあったのではないかと推定される。

■能登鹿島・羽咋郡の周辺には鹿西町谷内には貴布禰神社、鹿西町徳丸には能登貴船神社が有り、藤原氏が詣でていた京都の貴布禰神社の勧請と思われる。藤原道長の時代、寛弘元年には長い間雨が降らず雨乞いの奉幣使を京都貴布禰神社に遣わしており、当時としては重要な神社だった様だ。(※「権記」「日本紀略」)  
能登一青荘も藤原頼長の荘園になる前から藤原氏の荘園だったものか?
(※「吉岡庄」が庄園として見えるのは白河上皇の時に京都の上賀茂神社に寄進されたとする記録が見られる。)
「能登一青荘」はその後「石清水八幡宮領」になっている。後白河上皇は「保元の乱」で平清盛の支援を受け、平家を各地に任官している。越中もこの時代は平家の武将「越中次郎兵衛」が吉岡庄国吉名に居館を構え能登を治めたと云う。(※「国吉小史」) この「越中次郎兵衛」は「平家物語」の中で源義経の風貌を「歯の差し出でて小さき者*出っ歯で背が小さい者」と紹介する等、各所に登場する平家の有力武将だ。
又、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時に従っていたのは、畠山氏や川越氏、中山氏等の秩父平氏と云われる平家で有った。「源平の戦い」では平家と源氏の戦いと考えられているが、実は源氏の主力は秩父平氏と言われる関東を拠点とする平家であった。後に源頼朝の親族が離反や死亡により鎌倉幕府に少なくなり、結局は妻の政子の実家の秩父平氏北条氏が政権を担う事になる。
能登畠山氏に従属していたとすれば、田畑家は元、桓武平氏で能登に配流されていた平時忠の系統か?秩父平氏の畠山氏の系統か? 国吉名(越中吉岡荘か?)に住み、源氏との戦いで勇名を馳せた桓武平氏の「越中次郎兵衛」の系統 か?
何れにしろ、畠山氏の配下で有ったなら赤丸浅井城の城主中山氏と同族の秩父平氏だった可能性が高い。もっとも、能登畠山氏は、頼朝の重臣として仕えた秩父平氏畠山重忠が謀略により誅殺された後は、源氏の足利氏が畠山氏の名跡を継いだ為、この後は「源氏系畠山一族」となっている。

■(※「赤丸浅井城」は古くから「越中石黒氏」の居城で在ったが、鎌倉時代末期に「後鳥羽上皇」が起こされた「承久の乱」で上皇側の石黒氏は敗れて新川郡に去ったと云う。(※「赤丸名勝誌」)
その後、「浅井城」に入城したと云う幕府側の中山氏は福井県敦賀市博物館に「中山正弥家文書」を遺している。
①「秩父平氏を名乗る一族⇒赤丸村在住で[赤丸名勝誌]を著す」、
②「藤原氏を名乗る一族⇒末森の戦いに敗れて敦賀に落ち延び、今井氏を継ぐ」、
③「源氏を名乗る一族⇒加賀藩に仕官し、高岡市羽広在住」
の三系統が有り、敦賀と高岡市の一族は多くの古文書を残している。)

■「義経記」では「二位の渡りから船に乗らんとして---」疑いを晴らす為に義経が弁慶に扇子で打擲されたのは「越中吉岡庄(赤丸村)」であったが、この時の関守も「平権守」とされている。とすれば、この時の平氏は中山氏か沢川村の田畑家の先祖かと思えるが、後に「二位の渡し」が五位庄の「五位の渡し」となった時に、田畑家が屋敷を構えていた沢川村から船頭の(沢川)五兵衛(屋号を「五位さ」と云う。)、赤丸村領三日市西村の柴田彦兵衛が派遣されて居た事から、この関守の平家は沢川村の田畑家の関係者とも考えられる。
(※「義経記」に「守護の館の近ければ」との表現が在り、高岡市教育委員会はこれを高岡市守護町の事だとしている。しかし、守護町は南北朝時代に足利方の斯波氏が短期間館を構えたもので、鎌倉時代では無い。後白河上皇の庄園「越中吉岡庄」の地頭屋敷は赤丸城の麓の福岡町馬場村に館を構えた「吉岡成佐」と言い「吾妻鏡」に後白河上皇と源頼朝の文書の中に登場している。この人物は頼朝の旗揚げに従った「越中蜷川氏」[※物部系宮道氏]の可能性が高い。→「吾妻鏡」・「富山県史 中世」・「蜷川の郷土史」。
恐らく、「吉岡庄国吉名」には平家の著名な武将「越中次郎兵衛」が館を構えて越中、能登を統治した[※国吉小史]と伝わる事から「吉岡庄の守護は平家」と考えたものか?)






■「平家」を名乗る高岡市福岡町沢川村の「田畑家」は加賀藩の時代に、「佐々成政」と「前田利家」が戦った「末森の戦い」の勲功から加賀藩より十村役を束ねる「無役十村」に任じられ、250年近くも山廻役に任じられていた。加賀藩の時代に官営の渡し場で有った「五位の渡し」の周辺には、船頭となっていた一族が沢川村から移転してきたが、その一族は今も尚、旧向野新村の地で「沢川」の姓を名乗っている。(※「福岡町史」「土屋村史」)
(✳小矢部川の水運―舟の運航権、漁業権は利権で有り、近年迄五位渡しの子孫は五位の渡し場の近くに住まい、漁業に従事していた。)



(※「越中砺波郡沢川村田畑兵衛」:寛延元年正月二十二日前田利家の百五十回忌の法要に二十三人の御扶持十村の中に田畑兵衛有り、冥加拝礼許さる。[御郡奉行改作奉行の留書] 、天保十年正月十八日復元の切に百姓十村の中の老十村を山廻役とす。御扶持人十村は組下を以て何十ケ村をも支配する事。[改作所付属の役職]。文久三年正月無組御扶持人沢川村田畑兵衛[御扶持人十村等惣名列帳]。 【加賀藩農政史考】)

又、鹿島郡には「浅井」という場所が有り、「藤原頼長」と云う領主が共通であった事から「赤丸浅井神社」との関連も窺がわれると指摘する郷土史家もいる。赤丸浅井神社は古くから田畑兵衛の在所の「沢川村の神社」も所管しており、赤丸浅井神社の宝蔵の古い時代の「祝詞集」には「沢川尓(そうごうにま)寸(す)。愛宕(あたごの)大神。 」と沢川村の愛宕神社の神にも朝晩の祝詞奏上を欠かさなかった事が記録されている。



📕📃「義経記」を正確に読む!!--「義経記」の「如意の城」とは?「勧進帳」の【真実の場所】

2019-05-21 | 富山県高岡市福岡町赤丸村








■「越中吉岡庄」は、静岡県の蓮華王院領「相良庄」の地頭「相良氏」に知行されていた時期(鎌倉時代末期、花園天皇の頃)が在る。
この「相良氏」は「承久の乱」や「元寇」の時に活躍して各地に庄園管理を広げた。
「後白河上皇」が「蓮華王院」に寄進された「越中吉岡庄」は、この時期にも「蓮華王院三十三間堂」に寄進されていた事が「相良文書」から判る。「蓮華王院」に後白河上皇は1001体もの「千手観音像」を祀られた。「越中吉岡庄」は、鎌倉時代にはこの「千手観音像」を祀る「浄土」を具現化した三十三間堂を支える庄園で在った。




■「義経記」では勧進帳の場面の原点は「二位の渡し」の出来事とし、又は「如意の城を後にし--」とされているが、「越中志徴」で加賀藩士森田柿園は「富田景周著作」の「三州史」を引用して「如意渡とは射水郡六動寺渡し也。如意城とは今の古國府なるべし。」と記載している。しかし、古書に拠ると、その昔、小矢部川が西山の麓を流れており、小矢部川と庄川が合流していた地点から下流は射水川と呼び、合流地点から下流の六渡寺村迄の川下りのルートの事を「六渡寺舟渡」と呼んでいた事が記載されている。その合流地点は、その昔、富山県高岡市福岡町赤丸村を中心とした後白河上皇の庄園「吉岡庄」に鎮座する「延喜式内社赤丸浅井神社」の前であり、その場所を「阿古ヶ淵」と呼んだ。赤丸浅井城の城主は東大寺大仏の造営の際に米5000石、庄園100町を寄進した「利波臣志留志」の子孫である「石黒氏」(勧進帳に出てくる富樫氏も藤原利仁を祖とする同族)の居城であった。石黒氏の居城の事を、この国家的事業に協力した仏教徒を称えて仏教の宝珠を示す「如意城」と呼んだと見られる。又、「延喜式内社赤丸浅井神社」は七坊の寺を持つ山伏の修験道の寺院で有り、京都の「鞍馬寺」を勘請して、全体で『川人山鞍馬寺』と呼ばれた。この寺院は後白河上皇の皇子が門跡として出家された『聖護院』の系列の寺院でこの周辺には48の寺院が立地していたと云う。上皇の庄園「吉岡庄」には京都の景色を写した「清水寺」、「愛宕社」、「音羽の滝」等が建設され、地域には『京の雅を写し……』と伝承されてきた。
義経と弁慶は山伏の姿となり、平家に焼かれた東大寺再建の為の勧進僧に変装しての都落ちで有った。後白河上皇の庄園「越中吉岡庄」を聖護院派山伏の姿で東大寺の勧進僧として通過する程、安全なルートは無いと判断したと思われる。後白河上皇の皇子の中には、源氏と繋がりが深い熱田神宮神官家の系統の守覚法親王の様に熱烈な義経の支援者がいたと云う。又、赤丸浅井城は浅井神社を創建された文武天皇の第二皇子で聖武天皇の弟の「石川朝臣広成」の居城で有ったと伝わる。従って「二位の渡し」とは「二位の宮の居城の「赤丸浅井城」の前に在った船乗り場」を指し、その後、この城は石黒氏の居城となった為、「如意城」と呼んだものと見られる。赤丸浅井神社の建物には全体に天皇家の紋の「十六菊紋」が彫り込まれており、この神社の拝殿を移築したと伝わる高岡市羽広の諏訪社の建物にも各所にこの同じ家紋が彫り込まれている。
(※「喚起泉達録」)、(※「富山県神社誌」)

■加賀藩士森田柿園が「如意渡とは射水郡六動寺渡し也。如意城とは今の古國府なるべし。」と記載している事を検証してみると、【古記録に「正平十年(1355年)桃井直常が斯波氏頼等と共に如意城に陣した」「正平十七年(1362年)越中守護斯波高経が如意城に拠った」とされている事から南北朝期に如意城が在った事は事実と見ても良い】と「義経記」研究書の「北陸史23の謎」(✳「新人物往来社」能坂利雄著)に記載されている。又、「桃井直常が斯波氏頼等と共に如意城に陣した」事については、「足利氏は五位庄を斯波氏に治めさせた」とする記録が有り(✳「舞谷の昔むかし」)、静岡県立図書館蔵書の「諸家系譜続編」には【平姓良文流神保氏の初代頼尊(武蔵国住山辺六郎・兄は千葉忠常)の子常連は寛治三年源義家に従い軍功有り、三代目友平(中村四朗左衛門尉)は二宮と称す、六代後の経忠(始二宮右京進・神保左衛門尉)は住越中国守山城・後醍醐天皇治世至吉野奉忠勤於南朝従桃井直常尽軍功其後随任将軍源義詮公】と記載され、その七代目に【神保氏張(畠山氏より養子、妻は織田信長妹、上杉謙信、佐々成政に従い、徳川家康旗本となる)】が登場する事から「守山城」も古くから在ったが、ここには代々「神保氏張」の先祖が入城していた事が系図から解る。神保氏は、桃井直常の時代には既に能登畠山氏から高岡市の守山城城主になっており、神保氏は氏張の六代前から守山城城主であり、この守山城を「如意城」と呼んでいなかった事が判る。加賀藩士森田柿園が古国府城を「如意の城」と考えたのは、守山城を拠点とした神保氏が三代目に「二宮」と改姓していた事が根拠になっていたからかも知れない。
(※勝興寺の地に在ったとされる「古国府城」は時代が合わないと云われる。)

■「赤丸城」の並びで小矢部川上流に「加茂城」が在って、ここを南朝方の「桃井直常」が居城にしたと伝わる。しかし、ここを「如意城」と呼んだ記載は見当たらない。赤丸には浅井神社48坊と呼ばれた寺院群が在った。「後白河上皇」は「越中吉岡庄」を蓮華王院三十三間堂の庄園として寄進され、三十三間堂には1001体もの千手観音像を祀られていた。この事から鎌倉時代前期には既に「越中吉岡庄」にも後白河上皇の信仰が伝えられていたものと見られる。
南北朝時代には、赤丸城の山裾に「観音寺」(現在は高岡市の衆徳山総持寺)が在り、この寺の「国指定重要文化財木造千手観音観音座像」の胎内の顔部分には「奉納仏舎利」と二ヵ所に墨書が在り、胎内には「後鳥羽上皇の法名」が「本願聖人」として記載されておりこの千手観音は後鳥羽上皇の祈願で製作されたものと見られる。この仏が伝えられたとされる「河内金剛寺」には、「住持の持仏」に東寺長者の文観と後醍醐天皇が、空海が唐から持ち帰ったとされる80粒の真性仏舎利の内から舎利容器の勅封を解いて「5粒」も納めたとされる「勅書」と文観の「施入状」が残されている。現在、金剛寺の仏は解体修理されている様だがこの中にはこれに該当する仏は無いので、この総持寺の観音像の胎内に納められたとしか考えられない。昭和39年の富山県教育委員会による解体修理記録には「観音像の白豪の下に埋め木が在る。」と記載されているが、それ以上の調査記録は記載されていない。
(東寺の仏の白豪の下には空海が唐から持ち帰ったとされる仏舎利が1粒づつ埋められている事が知られている。)
しかも胎内には「本願聖人」として「後鳥羽上皇の法名(金剛理)」が記載されており、この千手観音像は右手に巨大な「宝珠」を捧げている。真性仏舎利は「宝珠」と同一視される。空海が持ち帰った真性仏舎利が納められている仏を祀るこの総持寺を崇敬した石黒氏の居城を「如意の城」と呼んだ可能性は大きい。「義経記」は制作されたのは南北朝時代と云われる事から、その時期には「浅井城」を石黒氏の居城「如意城」と呼んでいたものと見られる。

■(※石黒氏の直系の子孫は名古屋に移って長谷川と名乗り「如意郷」を開き「如意城」を開いている。石黒氏には大きくは藤原氏系統と武内宿弥を祖とする利波臣氏系統の2系統があるが、利波臣は東大寺大仏造営の時に多額の寄進をした仏教信仰の氏族であるところから「如意」を使用したらしい。⇒「義経記」(※小学館版、岩波版)には「如意の城とは五位の城の事」と解説している。
(✳「仏舎利」:当初分骨された釈迦の遺骨は真性仏舎利とされ、後には宝石・貴石・人骨・土中から産する白又は黄色の小石等を仏舎利にしたと云う。『古事類苑』神宮司廳発行 等参照)



■又、「義経記」に「守護に近い場所だから黙って通せない。」と「平権の守」は言っているが、この当時、鎌倉幕府の守護所は未だ越中には配置されず、越中吉岡庄の吉岡谷に「吉岡成佐」の地頭屋敷が在っただけである。この場所は「二位の船乗り場」の近くで、しかも総持寺の目の前である。建久年間(1190-1199年)の源頼朝在世中には越中には守護は未だ配置されておらず、整備されたのは元弘年間(1331-1333年)に北条氏の名越時有が守護になってからである。(✳「鎌倉幕府」研秀出版)、(※「吾妻鏡」)

(※「義経記」が記載されたと言われる室町時代には「赤丸浅井城」は「守護畠山持国」の居城 とされている。⇒「畠山文書」の「越中統治絵図」参照)



■「勧進帳」の一方の立役者とされる「冨樫氏」は石川県を所領とする武将で、「加賀の林氏」と言われる藤原氏の名門の分家筋に当たり、冨樫氏が勢力を誇ったのは後鳥羽上皇の承久の乱の後で、林氏が縁者の越中石黒氏と共に後鳥羽上皇側で戦い、冨樫氏はこの時に鎌倉幕府側について戦った。上皇側は敗れ、林氏は没落し、冨樫氏が台頭する。加賀の林氏、冨樫氏と福光町福光城・福岡町木舟城・赤丸浅井城を居城とした越中石黒氏は姻戚関係であったと言われ、「勧進帳」で石黒氏と冨樫氏を混同しているのはこれ等が背景に在る。又、「源平盛衰記」に石川県の「安宅の渡し」が登場する事から、この場面が越中赤丸村の「二位の渡し」と云う船着き場から発する小矢部川の船による川下りルートの「六渡寺船下りルート」と混同しているのだ。
「義経記」の小学館版、岩波書店版の解説にも記載されているが、これ等の事から、この「如意城」とは「赤丸浅井城」(五位の城)、「二位の渡し」とは「赤丸浅井神社の前に在った後の五位の渡し」を指している事が確実で在る。因みにこの「五位の渡し」は昭和30年代迄残っており、現在も朽ちてはいるが「五位の渡し地蔵」が赤丸村向野の対岸の上渡り地区に残されている。この「五位の渡し」は加賀藩の時代は藩の役人が専属で船頭を勤め「赤丸村西村の柴田彦兵衞、赤丸村沢川五兵衞」が任命されていたと伝える。(※「福岡町史」)
又、加賀藩時代には藩主がお鷹狩りの時に利用したと云う。

■【石黒氏居城の木舟城所縁の仏舎利容器?】
石黒氏別邸の跡地に建ち、昔は木舟城に在ったと聞く小矢部市岡の「宝性寺」には、「謎の仏舎利容器」が伝わっている。「木製舎利容器」の中央部分には透明な水晶ガラス容器が埋め込まれ、その中の容器に仏舎利が安置されている。「宝性寺」は元々天台宗であり、木舟城から福岡町の福岡駅裏に移り、福岡町の旧家の佐伯三家が大旦那だったが、後に現在地に移ったとされ、旧地は今も福岡駅裏に一部残っている。寺には「巨大な宝珠」が塔の上に祀られており、檀家の三協アルミ創業者の竹平政太郎氏の寄贈によるものだ。「謎の仏舎利容器」と「巨大な宝珠」が浄土真宗寺院にシンボル的に祀られている事は珍しい。石黒氏が赤丸浅井城・木舟城城主であり、今は高岡駅南に移っている総持寺がその昔、赤丸に在った事、総持寺の観音像の胎内に在った仏舎利の行方が判らない事、岡の「宝性寺」が昔は木舟城に在った事等からこの仏舎利容器こそ「越中石黒氏の信仰」に繋がるものでは無いかと思われる。この舎利容器は古い時代に水晶を磨いたガラス代わりの透明な板を使用した貴重品であり、後醍醐天皇が納められたとする仏舎利であればこその貴重な品とも考えられる。石黒氏も「仏舎利」を信奉して、木舟城に「仏舎利容器」を祀っていたものだろうか? さすれば「如意宝珠」を祀った城として石黒氏の居城を「如意の城」と呼んだ証拠にもなる。

■千手観音像を伝える「衆徳山総持寺」にも「二基」の「仏舎利容器」が保管されている。 調査を続けるうちに、「宝性寺の謎の仏舎利容器」も未調査なのだが、驚いた事に、最近になって当の総持寺でも「旧い木製仏舎利容器」が「2基」も発見されたと御住職から御案内をいただいた。現物を調べるとこの総持寺の「舎利容器2基」も古いものだが、これは総持寺の歴史からして独自に伝わったものと推定された。この舎利容器は比較的新しく、中に在る「舎利」を新たな容器に移し代えたとすればこの総持寺伝来のものが「千手観音像の胎内に納められた仏舎利容器」とも考えられる。しかし、これが後醍醐天皇所縁の「仏舎利」とすれば、代々の住職にも言い伝えられてきたと思われるが、その伝承は伝えられていない。
それに引き換え、宝性寺の「仏舎利容器」は元々本堂に祀られていたが、現在は、この仏舎利容器を漆塗りの保存容器に納めて蔵の中に安置されている。この寺には「仏舎利」の信仰が伝わっていたものと見られ、寺の本堂前の庭にはその先端部に巨大な宝珠を飾った2m近くの石棟が建てられており、その中には寺に伝わる古文書等が納められているらしい。
伝承では、総持寺は、室町時代に足利義満により「越中五位庄」(※旧吉岡庄)が相国寺の庄園となった頃に、五位庄から移転したと伝えられているが、石黒氏は鎌倉時代、後鳥羽上皇の「承久の乱」の頃迄は勢力を誇ったが、この戦いに敗れてからは富樫、井口氏が力を持ったらしい。その後、南北朝時代には石黒氏は再び赤丸浅井城に入り南朝の忠臣として後醍醐天皇の皇子の宗良親王に従って戦ったと云う。しかし、室町時代には足利義満の家臣の蜷川新右衛門が射水、砺波郡を統治したと伝わる事から、石黒氏はこの時期には赤丸村を去っていたと見られ、「畠山文書」の「越中統治絵図」からすると「福満城」が石黒氏の居城だった様だ。足利義満の頃、総持寺が赤丸村を去って後醍醐天皇から伝来した「仏舎利」だけを石黒氏が携えて祀っていた可能性も否めない。(※「蜷川村郷土史」)

■越中の古書の「肯搆泉達録」や「赤丸名勝誌」にも「赤丸浅井城は元正天皇二位の宮が居城とされた。その後、越中石黒氏が赤丸浅井城を再興して累代居城とした。」事が記載されており、赤丸浅井神社の縁起には「元正帝二の宮御創建」と記載されている。
(※元正天皇は聖武天皇と石川朝臣広成の叔母であり、幼少の時に父の文武天皇が亡くなった為に聖武天皇の即位までの間、親代わりになった。この「元正帝二位の宮」とは「聖武天皇の義弟の石川朝臣広成」を指す。「石川朝臣広成」については万葉集に3首の歌が掲載されている。とするとこの城は「二位宮の城」となる。「義経記」の小学館版、岩波文庫版の解説では「如意の城」は「五位の城」と解説している。云う迄もなく、そうするとこの城は赤丸村に古くから在ったと云う「赤丸浅井城」を指している事は明確だ。)




■高岡市・射水市では「富田景周」の「三州誌」の記載を信じて、この「六動寺の渡し」を小矢部川の伏木河口の六渡寺村とその対岸を繋ぐ渡し場の事として銅造を作り、観光看板を建ててアピールしているが、真実は近年、学者が指摘する様に「この渡し」とは「赤丸村浅井城前の二位の渡しと六渡寺村の渡し場迄の川下りルートである六渡寺川の舟下りルート」を指している事は疑いがない。(※「義経記」の注釈参照、「福岡町史」掲載の古図参照)

●「義経記」(※国立国会図書館)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1085960/120

■(高岡市は富田景周の主張と近くに守護町が残される事から、「如意の渡し」が「古府城の前の守山の渡し」と断定する。ここでも歴史の検証が行われないままに高岡市が絡んでの歴史の歪曲が行われている。石黒氏が古くこの辺りの地頭で在った事を根拠とした主張をする意見もあるが、地理的に検証すると 小学館版、岩波文庫版の解説が正解である。)






※「義経記」小学館版



(★「義経記」岩波書店版 では「如意の城」を「五位の城」ではないかと指摘している。とすれば、この「如意の城」とは五位庄の中心に在った「赤丸浅井城」を指すと考えられる。石黒氏は南北朝の戦いで敗れた後、一部は「長谷川」と姓を変えて、越中から東北へ、東北から尾張へと逃げ延び、名古屋の西部に「如意郷」を開き「如意城」の城主になったと云う。⇒※「浪合記」金沢市立図書館 参照 )
 従って、石黒氏の居城の赤丸浅井城を「如意城」と呼んだ事は間違い無い。赤丸の「川人山鞍馬寺」には四十八の寺坊が有り、上加茂、下加茂、熊野社等の多くの神社も周辺に有ったと伝えられており、お寺の如意宝珠を意味する「如意」と云うのはこの赤丸の一帯を指したものと考えられる。「五位庄」は長く藤原摂関家長者の荘園であり、その後も後白河上皇の荘園となり、当時は「三十三間堂」で有名な「蓮華王院」に寄進されていた。源義経の義理の父に当たる平清盛は後白河上皇の為に「三十三間堂」を寄進し、後白河上皇はここに1001体の千手観音像を造らせて祀っている。赤丸村は当時、「吉岡庄」と云うこの「三十三間堂」の庄園で在り、正に当時の「五位庄」はこの千手観音像の供物を提供していた「如意の郷」であったと云える。















■「赤丸浅井城と秩父平氏中山氏」
赤丸浅井城城主中山氏は「赤丸名勝誌」では秩父平氏とも伝えられている。「義経記」で「二位の渡し」の渡し守とされるのは「平権之守」とされている。所謂、この人物は平家だったと云う。源頼朝の旗揚げから従った畠山重実等は関東の秩父平氏だった。
「赤丸名勝誌」(*国立国会図書館蔵) に拠ると、中山氏の系譜として、赤丸の中山氏は、赤丸の浅井神社の隣接地の「浅井城」、城ケ平山の「赤丸城」を居城とし、中山氏の先祖は秩父平氏の中山氏の末裔と伝える。「赤丸名勝誌」には「中山家の系譜によれば浅井城は當家代々の居城なりしが天正五年十六世国松に至り上杉謙信のために亡ぶとあり。本丸は東西弐拾間南北参拾間二丸は東西拾間南北拾五間壕塹ありて其東を夾み徑六七間長さ参拾間深田は其南北を翼せりとぞ 而して祖先は中山次郎重實と称し武蔵國に住せしものとあり蓋し此城址の由來詳かならざるは上杉謙信來襲の時悉く兵焚に罹りしためなり」とあり、又、中山国松が浅井城を居城とした時、赤丸城には弟の次郎兵衛を配したと云う。

■しかし、中山氏の末裔としては、「赤丸名勝誌」、「中世城館調査報告書」(※福岡町教育委員会) 、「福井県史」等によると、之には「異論」も在る。
1.性宗寺--後土御門天皇の御在位赤丸中山の城主佐左衛門寛正年間に髪を剃り寺の谷内に一宇を建て浄光庵と號す同五年十月浄光寺と給ふ當寺は眞言宗なりしが明應二年蓮師の門徒となり眞宗へ歸山性宗寺と改?冤せりとなり 寺の谷内は大字赤丸村にある小部落なり 後ち舞谷村に移り明治二十年の頃今の赤丸村に移転せり
2.永賢寺--大字赤丸村にあり栄禄の初め守山城下に移り後亦高岡城下に移る 明治三十三年二月再び元の地に移転せり 永賢は赤丸城主中山国松の弟中山次郎兵衞の嫡男にして天正中落城の後僧となり祖先の菩提を弔う為一宇を建立せりとなり
3.福井県敦賀市の嫡流中山氏--「福井県史 資料編8」に掲載された敦賀市の「中山正彌家文書」に浅井・赤丸城主の中山治部左衛門が五位庄周辺の者に米を貸し付けていた大量の「借用状」が残されており、同時に知られた由緒書により、佐々成政に従っていた中山氏が成政の降伏・没落(天正十三年)により流浪して越前に移ったという経緯も判明した。この調査資料により、中山氏は浅井神社を掌握して五位庄の各戸に毎戸一升の米を初穂米として奉納させ、これを周辺の土豪・百姓に貸付けして利子を取っていたらしい事が考えられる。中山氏は敦賀に移り、今井氏の後を継いだと云う。又、一部の者は赤丸に残り、一部の者は加賀藩に召し抱えられたと云う。(※この家系の系図では「本姓藤原氏」としている。)
4.高岡市在住の中山氏---現高岡市在住の中山氏は、初代中山孫左衞門清直と言い、近江の出身で天正の頃赤丸の城に居城し田地三百五十石を領した。この一族は二代迄赤丸鞍馬寺に居住していたが三代目は加賀藩の本多政重に仕え大阪夏の陣に参戦。其の後、子孫は本多家に仕え明治を迎えたと言う。(※この家系の系図では「本姓源氏」とし、家紋は藤原氏が使用した「下がり藤紋」を使用している。)

■秩父平氏と義経
桓武平氏秩父氏系の畠山氏と河越重頼は同族。現在の埼玉県川越市はこの河越氏の元庄園で有った事から名付けられている。河越重頼は畠山氏と共に源頼朝に御家人として重用されたが、頼朝の命により正室として嫁がせた娘郷御前の夫義経が離反した為、頼朝に誅殺される。郷御前と娘は義経・金売り吉次と共に奥州平泉に逃れたという。河越氏が後白河上皇に寄進した荘園が河越荘(川越市)。秩父平氏からは畠山氏の他、森氏、高山右近の祖高山氏、江戸氏、河崎氏が出た。河崎氏の家系から渋谷氏が出て、渋谷氏から東郷平八郎が出た。河崎重家の子で渋谷重国の弟重実は中山氏を名乗った。同族からは赤木、豊島、葛西氏等が出た。

■赤丸浅井城の中山氏は畠山・河越氏に連なる秩父平氏の一族と伝えられている。(※「赤丸名勝史」国立国会図書館)
河越重頼の娘は源義経の正妻郷御前(さとごぜん)。郷(二十二歳)と娘(四歳)は義経と共に奥州に逃れ、義経と共に亡くなった。文治三年(一一八七年)義経は北陸路を逃げており一族の導きがあったものと思われる。「義経記」に登場する「二位の渡し」の役人は「平権の守」で有り、妻や妾が平氏で、義理の父が藤原氏であった義経を関所の役人が見逃した原因はここにも有ったと思われる。奥州藤原秀衡の舅で政治顧問であった藤原基成は義経の母の再婚相手(一条長成*藤原氏)の従兄弟の子。保元の乱で敗れた藤原氏の長者頼長は越中吉岡庄(後の五位庄)、能登一青庄(現中能登町)等と共に、奥州の陸奥・出羽に五か所の荘園を持ちここから藤原基衡により砂金・漆・馬・布等がもたらされていた。保元二年(一一五七年)後白河法皇はこれを没官し後院領とした。奥州は頼朝から逃れた義経に味方する藤原氏と後白河院のエリアであった。

(※赤丸浅井城の中山氏は、敦賀市博物館に在る「中山正弥家文書」に拠れば、この系統は「藤原氏」を名乗り、又、加賀藩に仕えた高岡市羽広在住の中山家は「源氏」を名乗っている。敦賀市の中山正弥家は多数の赤丸村周辺の住民への米の貸付証文を保管しており、赤丸浅井城の中山治部佐衛門尉国松の米貸付証文も在る所から、中山家嫡男の中山直治の子孫と見られる。系図には「朝日城城主」と成っているが、これは「浅井城城主」の誤りと見られる。)

■義経の愛妾静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞った時、秩父平氏畠山重忠が銅拍子を勤めたという。
河内天野山金剛寺の結縁過去帳には、義経の母の常盤御前と平清盛の間の娘の記載がある。義経が平時忠(姉が清盛の妻時子)の娘を妾とし、義経の母常盤(近衛天皇の中宮九条院の雑仕女)が清盛との間に子迄をなしていた事から、異母兄の源頼朝は義経に猜疑心を募らせたか?

■「判官ひいき」と云う言葉が有り、悲運の源義経に味方する物語が各地に残り、奥州平泉で亡くなった筈の義経は実は北海道に逃れたと云う伝承も残る。美男で、勇猛果敢、兄頼朝を慕い奮戦したが、結局頼朝に追討されてしまい、北陸路を逃げ回って奥州に落延びてそこで藤原氏の裏切りで命を落とした--というのが一般的だが、実の義経は「向う歯」即ち出っ歯で小男だったという記載が「平家物語」に残されている。

■「平家物語巻第十一 鶏合 壇浦合戦」に越中吉岡庄が後白河上皇の「後院領」になる直前の保元元年に「越中国吉郷佐賀野」に居館を構えていたという「越中次郎兵衛」が「平知盛」の前で「九郎は色白うせいちいさきが、むかばのことにさしいでていちじるしくあるなるぞ!」と義経の容姿を表現している。(※「国吉村史」)

■(※この「越中次郎兵衛」は「平家物語」や「源平盛衰記」にも登場する人物だが、この人物が国吉郷に住み能登と越中を納めたと云う。これ等の物語では「先前司越中次郎兵衛」とも記載されているが、これは「前任地は越中国で名は次郎兵衛と云う。」の意味になる。)

■古書には、義経は女好きで、捕えた平時忠の娘を我が物にし、壇ノ浦で捕えた平清盛の娘の建礼門院にも乱暴狼藉を働いたとの記載も有る。頼朝から追討された義経は大物浦から西国に向けて船出した時11人もの愛妾を同行し、嵐で吹き戻されて上陸したがやむを得ず都にも戻れず吉野に向かった時、静のみ連れて吉野に落延びる。しかし、雪の吉野で静に別れを告げ都に戻り潜伏中に平時忠の娘を娶り、北陸路を逃げ延びる時、この時忠の娘を伴っていたのではないかと云う。
義経一行は五位庄の「二位の渡り」で怪しまれて弁慶が義経を扇子で打擲してようやく難を逃れたが、この後、この時忠の娘は男子を出産したと云う。
静御前の物語は涙を誘うが、別の見解では、義経は正妻で平家の河越氏の娘の郷御前・娘と共に奥州に落延びていたと云う記載も有る。河越氏との縁組は頼朝の仲介で有ったが、義経追討の時には郷御前の父の河越氏も頼朝に誅殺されている。義経が逃亡した時、平時忠は天皇の神璽を持ち帰ったとして死を免れて能登に配流されている。能登の時国家はその子孫に当る。能登との至近の五位庄を時忠の娘が義経と逃避行をしたかも知れないという事から能登にも義経伝説が残ったのだろうか? 兄の頼朝にしてみれば、義経の妹は平清盛と常盤御前の娘で有り、正妻は平氏の河越氏の娘、能登に流した平時忠の娘も義経に従っていたとなると、義経の周りは平家だらけ。頼朝側に着いていた畠山氏も元々平家だが、義経の人脈は頼朝が警戒した後白河上皇や平清盛、平家の武将に繋がる者ばかり。義経が疑いの強い頼朝に粛清されたのはこの裏話を聞けば納得できる。

■(※平清盛が義経の母の常盤午前に産ませた娘の法名が、昔、赤丸村舞谷に在った高岡市の総持寺の千手観音像が伝わったと云う「河内国金剛寺」の過去帳に記載されている。)
《⇒他にもこの娘は「廊御前」と記載される書もある。この血統は後に後醍醐天皇に繋がっている。河内金剛寺の開基は寿永二年、越中国砺波山の合戦で亡くなった源(三善)貞弘と云う武将で主家の首を平清盛に献じて平家側で戦ったという。金剛寺は南北朝の時代には天皇の行在所になった河内の名刹で在った。(「河内金剛寺の中世的世界」堀内和明著 に詳しい。)》

■義経主従が奥州に落ち延びた時期に「越中吉岡庄」に居た地頭は、吾妻鏡によると「吉岡成佐」と言う人物が登場する。この人物は素性がハッキリしないが、一つ考えられるのは、「富山市に居城を構えた越中蜷川氏」で在る。蜷川氏は頼朝の旗揚げにも馳せ参じて源氏の足利氏とも縁組して、室町時代に入ると越中新川郡と砺波郡を統治したとされる。(※「蜷川村の郷土史」)富山市蜷川のは近くには「吉岡村」が在り、「蜷川系図」では一部の蜷川氏が「吉岡」を名乗ったとされる。
(※しかし、この一族は平氏では無く、古代氏族「物部氏」の「宮道氏」を先祖としている。)

■「義経記」が室町時代に書かれたとされる事から、表現に誤りも見られる。鎌倉時代のこの時期にはこの赤丸村周辺の庄園は「越中五位庄」では無く、後白河上皇の庄園の「越中吉岡庄」と呼ばれて居た。鎌倉幕府は秩父平氏の支援を受けて旗揚げして、中核に成った北条氏や畠山氏、河越氏等は何れも秩父平氏で在る。従って、「義経記」では「吉岡庄の二位の渡しの役人は平権の守」と記載したものか? しかし、「義経記」に登場する倶利伽羅山の「五位堂」に付いては倶利伽羅山の間道に在った小さい祠で在ったものの、正確に記載しており、この神社は実際に近くの「日枝社」に合祀されており、地理や由緒の検証等は事実に沿って克明に表現されており、全てがフイクションとは云えない。(※「富山県神社誌」)


🔴【まぼろしの村々】かつての越中国の中心都市、皇室庄園「越中吉岡庄」はかくして消えた。

2019-05-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●【まぼろしの村々】に掲載された「富山県高岡市福岡町赤丸村」⇒「室井浩一著」

かつて、皇室庄園、室町幕府御料所として繁栄した「越中吉岡庄」、「越中五位庄」は加賀藩の消滅政策で、今や「幻の村」として全国の「消え行く村々」にリストアップされている。

■「織田信長」の家臣で、かつては同僚として戦った「前田利家」と「佐々成政」は信長が突然、「本能寺の変」で暗殺されると後継者の椅子を巡って雌雄を決する「能登末森城」で戦った。越中を領した「佐々成政」は、「高岡守山城神保氏張」、「高岡柴野城寺嶋牛介」、「赤丸浅井城中山直治」、「木船城佐々平左衛門」等は高岡市福岡町沢川村を通過する西山越えのルートを取り、沢川村の土豪「田畑兵衛」が先導を買って出た。しかし、「田畑兵衛」は計画的に佐々軍を道無き山林に誘い込み山中に放置して佐々軍が前田軍の居城「能登末森城」に到達するのを妨げた。(※「北陸七国史」)

その為に、「前田利家」が急遽、末森城へ参陣して「佐々軍」は撤退した。その後、「豊臣秀吉」が参陣して富山市の呉羽山に陣を張り富山城の佐々軍と対峙した
しかし、「佐々成政」は戦わずして「豊臣秀吉」に降伏した。その結果、「佐々成政」は越中新川郡を与えられて秀吉の軍門に下った。その後、「佐々成政」は更に九州肥後国へ転封された。

■「佐々軍」として戦った「高岡守山城神保氏張」は「佐々成政」に従って肥後国へ移り、成政切腹の後は「徳川家康」の旗本として仕官し、高岡柴野城の「寺嶋牛介」は鉄砲の腕前を買われて「前田利家」に仕官した。しかし、「赤丸浅井城」の「中山直治」は一人、越前敦賀に逃れ、縁者の今井家の養子に成った。

■一方、越中に進攻した「前田利家」は「赤丸村西円の住民達を高岡市の和田新村」へ強制移住させ、赤丸村の有力寺院「長善寺」は三つに分割され、「福岡町長安寺」と「和田善宗寺」に分けられ、門徒も他地域へ移動させた。その上、「赤丸浅井城」や「柴野城」の地元の「赤丸村舞谷」、「鳥倉村」等には「75%」もの高率の課税を掛け、小矢部川西部の地域には軒並み60%以上の高率の課税を掛けて幕末迄の期間、小矢部川西部の住民達を塗炭の苦しみに遭わせた。その結果、明治維新の後には、赤丸村の有力農民は揃って北海道へ逃れ、明治時代に成っても子供達は貧困の為に学校へも行けず、入学した子供達も殆どが途中で退学して東京の風呂屋等に奉公に出向いた。加賀藩の長期間の悪政の結果、富山県の小矢部川西部は長期間、疲弊に苦しんだ。
(※他地域や沢川村は4公6民の制度で40%程度の税率。)


















📕📖 「加賀藩士 小瀬甫庵」の著作「太閤記」⇒付録「太閤素性記」、「祖父物語」、「秀吉公遺物於加賀大納言利家卿被下覚如帳面寫之」

2019-05-21 | 富山県高岡市
●加賀藩士【小瀬甫庵】の著作「太閤記」⇒金沢市東山には甫庵一族の墓が遺る。!!





■【小瀬甫庵】尾張国春日井郡上野の人で美濃守護「土岐氏」の支流であると言われ、坂井下総守の養子となった。医学と経史を学んで織田家家臣の「池田恒興」に医者として仕え、その後、「豊臣秀次」に仕え、秀次死後、文禄4年(1595)は「宇喜多秀家」、関ヶ原の戦い以後には出雲の「堀尾吉晴」に仕え、慶長16年(1611年)頃には友人の「太田牛一」のものを基として『信長記』を刊行している。「堀尾吉晴」の没後に浪人となり、寛永元年(1624)には息子の「小瀬素庵」が「前田利常公」に仕えた縁から加賀藩で知行を貰い、後に諸書の著述に専念医書などを刊行した。寛永10年代(1634年~)に『太閤記』を刊行した。

(※寛永元年[1624年]に子の「小瀬素庵」が「前田利常」に仕えた縁で加賀藩で知行250石を貰い、藩主の世子「前田光高」の兵学の師となり、諸書の著述に専念。医書などを刊行した。慶長16年(1611年)頃には「太田牛一」が著した『信長公記』を元に『信長記』(「甫庵信長記」)、寛永10年代には『太閤記』(「甫庵太閤記」)、他に『童蒙先習』『太閤軍記』『天正軍記』をそれぞれ刊行。寛永17年(1640年)、死去。)





■【小瀬甫庵】は加賀藩の碌を得た為に、「太閤記」では「前田利家」の事績について詳しく記載しており、豊臣恩顧の大名としての記載が多い。この書には、「豊臣秀吉」や父・祖父の素性、秀吉亡き後の遺品を家臣たちに分配した「目録」も掲載されており、その中には、越中の刀工「宇多国光」・「宇多國宗」・「佐伯則重」等の刀剣目録も記載されている。
(※「宇多派刀工」は大和国宇陀郡から越中吉岡庄赤丸村領三日市に住み、南北朝時代から江戸時代迄続いたと云う。赤丸村には鍛冶師が工房を構えた「鍛冶屋町島」が在り、江戸時代にも「盛阿弥」が住まいしたと云う。鍛冶屋でも、「鋳物師」等は「鍛冶師」と云い、「刀工」は「小鍛冶」と呼ばれた。)


















🔴📚加賀藩 前田家が川に投げ捨てたと云う【高岡市福岡町の貴船神社の御神体】の絵図が記載される【簑のしずく】⇒「赤丸浅井神社」と福岡町木舟の「貴船神社」!!

2019-05-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■奈良・平安・鎌倉・南北朝時代迄続いたと云う「越中吉岡庄」



「室町時代の越中絵図」(※「畠山文書」羽曳野市資料叢書)
⇒「福光城」に「石黒氏」、「木船城」に「遊佐氏」、「赤丸浅井城」には「越中守護」の「畠山持国」の名前が記載される。



🔽【越中石黒氏】は、「織田信長」によって暗殺されて滅亡したと伝えられる。(※「信長公記」)
しかし、全国に散った石黒氏はその後も加賀藩他に仕えて勢力を広げ、尾張に移って「長谷川」と改名した一族や、「掘」と名乗った一族等多岐にわたる。現在も全国に散った「越中石黒氏」の末裔は多い。



■【赤丸浅井城】の出城と見られる「木船城」の調査をして発行された「蓑のしずく」(中川幸作氏 私家本二冊)には「福岡町史」編纂の為の実地踏査の詳細記録が遺されており、貴重な資料も遺されている。







🔻【衆徳山総持寺】に祭られる謎の石仏の正体!!
高岡市関町の「総持寺」に祭られる謎の石仏の正体が判明した。
この石仏には「大■命」、「天正元年」の文字が記載されている。
この文字は恐らく【大彦命】と見られ、「大彦命」は北陸道征西将軍として蝦夷対策で北陸に遣わされた将軍で在った。福岡町木船に在ったと云う「宝性寺」(小矢部市岡)にはやはり蝦夷対策で活躍した垣武天皇の家臣の「坂上田村麿」の「兜仏」が保管されており、これらは代々「木船城」を居城としていた「越中石黒氏」の信仰に関わるものと見られる。越中石黒氏は古代豪族「利波臣」の末裔と伝えられ、「越中国司大伴家持」の時代から「越中国利波郡司」を勤め、一時期には「員外介從五位下」、「從五位」に任ぜられて「越中国司」として任官された。その後、累代「赤丸浅井城」を居城として「利波郡」を統治したと云われ、その子孫の石黒氏は南北朝時代に「後醍醐天皇」を支援した「南朝の忠臣」としても有名だ。「越中石黒系図」に拠れば、「赤丸浅井城城主石黒光景」は「木船城城主石黒光弘」の父親とされる。古代豪族「利波臣」は越中に藤原摂関家の庄園が増えると北陸の藤原氏の頭領で在った「加賀林氏」と縁組して「藤原氏」を名乗り、藤原氏の最高権力者「藤原摂関家長者藤原頼長」の庄園で在った「越中吉岡庄」の地頭として越中西部を統治したと見られる。

🔽「総持寺」(高岡市関町)に祭られる石仏


🔽「蓑のしずく」に記載される「石仏」の絵像


■現在迄、「木船城」の守護の「貴船神社」の御神体は失われ、行方が分からなかった。
しかし、かつて、「福岡町史」の編集委員で在った福岡町在住の故中川幸作氏が、各所の調査をしたメモを纏めて「蓑のしずく」という二冊本にしたものを自宅で保管されていた。
中川先生没後に、中学、高校時代の恩師の御遺族の御紹介で中川先生の御遺族に紹介されて、「自家本」で全て手書きの「蓑のしずく 二冊」を拝見する事が出来た。その中に「貴船神社御神体」、「天正元年」と記載された絵像が在り、その注釈に「飛見丈繁氏所蔵」と在り、飛見丈繁氏が史跡調査の過程でこの石仏を入手されていた事が分かった。
飛見丈繁氏とも関係が深い「総持寺」の拝観を終えて、沢山の石仏を改めて見直した時に、この「石像」を発見した。
木船城が飛越大地震で倒壊して木船城の前田一門全員が穴に埋まって亡くなり、助かった木船城城下の住民達が高岡城下に移り住んだのが現在の高岡市木船町の発祥とされ、何故、県会議員の飛見丈繁氏がこの像を所有していたかは明らかでは無い。ただ、飛見氏は郷土史の調査の過程で膨大な資料を集め、その資料集も発行されている。しかし、飛見氏が亡くなった後、この膨大な郷土資料は古物商に売り渡され、四散してしまったと聞く。その中には「高岡市史」の「資料編」として遺されるべきものも多かったが、一部資料を除いて全国に四散してしまい、今となっては取り返しがつかなくなっている。
この様に、高岡市教育委員会が「吉田神道高岡関野神社」が唱えた「新興宗教の前田教」に毒されて前田家以外の歴史を抹殺して無視し続ける間に「高岡市」にとって重要な真実の歴史が失われつつある。
高岡市には「高岡市史」の「資料編」も無く、早急に資料編集を開始すべきなのだが高岡市の教育委員会には現在も尚、「資料編」の編纂に取り掛かる気配も無い。古文書等の記録は、散逸や売却等で急速に失われている。

■「越中石黒氏」は越中の古代豪族「利波臣」の末裔とされる。
【古事記】の系図では「大彦命」は「高志利波臣」の従兄弟に当たる。


「福井県史通史編」に在る「利波臣系図」


「富山県西礪波郡紀要」に記載される「孝霊天皇の末裔利波臣」


■【東大寺庄園杵名蛭庄図】に記載される「石黒の里」
東大寺庄園杵名蛭庄図には、「石黒上里」、「石黒中里」、「石黒川」が記載されており、この庄園は、位置を検討すると祖父川流域の立野~高田島辺りがその場所の様だ。 
➡「東大寺越中杵名蛭村墾田地」については、平成29年、「国立歴史民俗博物館」は「庄園データーベース」の記載に「富山県高岡市立野」を推定位置として加えた!!



■小矢部川流域で、木舟はその上流に当たり、位置的にも近い。かつて、貴船神社の神官は大伴氏で在ったと伝え、大伴家持の歌には「矢夫奈見里」に宿泊した事が歌われている。又、氷見丈繁氏が書き残された「貴船神社の御神体」の絵図には「大介命」と記されて、その姿は大伴家持の姿に近い様だ。大伴氏の祖先は「大彦命」と言われ、この文字は「大彦命」と書いて在るのかも知れない。この神社の祭神は水路の神の「ミズハノメノミコト」で在り、赤丸浅井神社の摂社の石堤浅井神社の祭神でもある。この福岡町大滝地区は「越中吉岡庄の地頭の吉岡成佐が開発した」と石黒家には伝わっており、この貴船神社は赤丸村の川人山鞍馬寺、上賀茂神社、下鴨神社、清水観音堂、愛宕社等の寺と一体の信仰で、「宮さま京の雅をこの地に移され……」と浅井神社に伝わる様に、全体として京都の寺社を吉岡庄に移したものと思われる。
赤丸浅井神社の祭神の「高皇産霊神」は皇室の祀る主要な神で有り、大伴氏の祖先神である。貴船神社の神官が大伴氏の末裔を名乗っており、「赤丸浅井城」はその後、木舟城と同じ石黒一族が代々居城にしたとされ、赤丸村と木舟村の歴史が重なっている事に驚かされる。しかも、中川氏の資料の中には木舟城の近くを流れていた河川が小矢部川に流れ込んでおり、その場所は赤丸浅井神社前の「阿光ケ淵」で繋がっていた様だ。石黒系図では赤丸浅井城を再建した「石黒光景」は木舟城の有名な「石黒光弘」の父に当たり、赤丸浅井城は古い形の「山城」で有り、木舟城は比較的に新しい「平城」と呼ばれた形をしている。とすると、「石黒光景」が初めに「浅井城」を築き、次いで「木舟城」を平地に降りて建設した事になる。


🔻逸話として、佐々成政に代わって「木船城」に入った前田家は、木船城の「鎮守」の「貴船神社」の御神体を犬の首に付けて近くの川に投げ入れ、「霊験が在るなら浮かんで見ろ」と罵ったと云う。しかし、その後に発生した「飛越大地震」で、「木船城」は城主、家臣一同が地中に埋没してしまい、後に前田一門は石動城へ移った。
そして今、霊験あらたかな「貴船神社」の御神体が再び明らかに成り、「赤丸浅井城」、「赤丸浅井神社」の近くに在った48坊の一つの「総持寺」で発見された事は奇縁とも云える。








■【北陸道征西将軍 大彦命】
「古事記」と【越中利波臣】・【越中石黒氏】の祖先【大毘古命】(大彦命)⇒大化の改新前の高志国!!
(※「ふくおかの飛鳥時代を考える」福岡町教育委員会、「富山県 高岡市の文化財」高岡市教育委員会監修、「日本の古典 古事記」集英社 「古代びと野望のあと 日本史の舞台1」集英社 参照)

・「古事記」に拠れば第八代孝元天皇の子に「大毘古命」が見える。この人物は崇神天皇の伯父で、九代開花天皇の兄に当たる人物で、大和国家生成期の有名な将軍である。第十代崇神天皇(紀元前九十七年即位~三十年退位)は畿内地方を勢力下に治め引き続き周辺国の征伐に向かおうとしていた。崇仁天皇即位後十年目(紀元前八十八年九月一日)に伯父の「大彦命」を北陸道の征討将軍として、また武淳川別彦(タケヌカワワケノミコト)を東海道に、吉備津彦命(キビツヒコノミコト)を山陽道に、丹波道主命(タンバミチヌシノミコト)を山陰道に征討将軍として派遣された。これは「四道将軍の派遣」として大和朝廷拡大の時の大きな出来事である。この事は「古事記 中巻」に記載されており、大彦命が高志国に向かおうとして山城国に来た時、少女達が崇神天皇の暗殺を仄めかす歌を歌っている事に驚き崇神天皇に上奏して、大彦命の諸兄建波邇安王(タケハニヤスノ)の反乱と告げてこれを撃破した事が載っている。
又、富山県では富山藩士野崎伝助が書いた「喚起泉達録」とその孫の野崎政明がその後を継いで「肯構泉達録」を著し、富山県の古代の記録に挑戦した。昭和45年富山県郷土会は「肯構泉達録」の刊行を行い、「喚起泉達録」は平成十五年に桂書房から刊行された。更に、富山県郷土会では「古事記」・「喚起泉達録」を基礎として高志の国の古代を探る物語として平成十六年「とやま古事記 越の大乱」を刊行されている。


🔴第29回特別展【木舟城と石黒氏】(2016.09.17~11.27)⇒『高岡市福岡歴史民俗資料館』

2019-05-21 | 富山県高岡市



■「2016年9月17日~11月27日」の間、上記の展示が「福岡歴史民俗資料館」で開催された。
この展示では「東大寺」と「奈良国立博物館」の御協力の下、東大寺の古文書「上院修中過去帳」の高精細画像の貸し出しが認められ、富山県では初めて展示された。この中には富山県の「砺波郡」の名前の基になっている「利波臣志留志」が『東大寺大仏造営の時に第一番に米五千石を寄進した』事が記載されており、志留志は大伴家持の後に越中国司に成っている。

■「越中石黒系図」ではこの「利波臣」の末裔が「福光城」・「木舟城」・「赤丸浅井城」・「高木城」を拠点として「源平盛衰記」や「平家物語」、「承久記」等の著名な物語に登場する。この一族は、「上杉謙信」に敗れてその家臣になったが、「織田信長」に降伏して「織田信長」に会う為に出向く途中に一族は信長に依って暗殺された。しかし、残った一族は徳川や前田家の家臣になったり、東北や各地に広がって、射水市の著名な測量家「石黒信由」や秋田県角館佐竹藩の武家屋敷石黒家、尾張国が如意郷に如意城を築いた長谷川家、加賀藩湯原家等、又、近代にも終戦の勅書にサインしている石黒農商大臣等は越中石黒氏の子孫とされている。
この回では、山形県米沢市「上杉博物館」の協力で越中石黒氏や守山城神保氏張等の越中諸将の名前が記された「上杉謙信家臣名簿」の高精細画像による展示や、唯一、喜多川歌麿が肖像を残している「石黒光弘像」が描かれた「木曽義仲軍団絵図」の画像が東京都中央図書館の協力で展示された。
(※何れも富山県内では初の展示。)
この他にも、「越中石黒氏」からは高岡市長を勤めた「堀氏」、高岡市に地名が残る「鴨島氏」、高田島村の領主高田孫兵衛等、石黒氏の末裔とされる一族が多く輩出された。
又、この行事とコラボレーションして11月13日には「木舟城祭り」も木舟城跡地で行われた。
(※この件は「木舟城保存会」のホームページ参照。)

●「石山寺官倉交替記」に見られる「利波臣」の記録(※「高岡市中央図書館所蔵写本」)
⇒★その写本が展示された。





●「木曽義仲軍団絵図」に越中石黒氏の著名な「石黒光広」の肖像が書かれている。
(※喜多川歌麿 作 。 東京都立中央図書館所蔵)
(以下の画像の無断複製や二次使用は禁じられています。)


●「東大寺修院過去帳」には東大寺大仏造営の時に「米五千石」(※「東大寺要録」では米五千斛 カイ)を寄進した越中石黒氏の祖先とされる「利波臣志留志」の名前がある。







●「上杉家家中名尽」山形県上杉博物館所蔵
⇒越中の諸将は上杉謙信に臣従して家臣名簿に掲載された。





🔴📃📃 横暴を極めた吉田神道の「高岡関野神社」と「延喜式内社赤丸浅井神社」の争い⇒両部神道と唯一神道の激しい争論の歴史!!

2019-05-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「延喜式神名帳」









■明らかになった「赤丸浅井神社別当 鞍馬寺」(※西法院)と吉田神道の「高岡市関野神社」・「石堤浅井神社」の争論の実態。




■高岡市の前田利長を祀る「吉田神道 関野神社」が加賀藩に提出した文書控え
(※金沢市立図書館)



■赤丸村組合頭「皆月家」の古記録に「砺波郡石堤村一件 寛政13年・1801年」と言う記録が在る。


■これは「赤丸浅井神社」と「石堤浅井神社」が1760年から1765年にかけて争った事件である。
赤丸村の「川人山鞍馬寺」は「赤丸浅井神社」・「石堤浅井神社」・「舞谷八幡宮」の三社の別当寺で在ったが、「川人山鞍馬寺」は赤丸城の中山氏に追われて福岡町一歩二歩に逃げ、その後継として鞍馬寺の七つの寺坊の内「西宝院」だけが残って「鞍馬寺」の後継と成り、赤丸浅井神社の神官も兼ねていた。当時は両部神道では「神前読経」と云う習慣が在り、神社で読経する事も日常行われていた。従って、この三社の維持の責任は「西宝院」に在った為に、石堤浅井神社の改築費用も西宝院が調達していたと云う。
しかし、吉田神道の唯一神道を唱えた高岡市の「関野神社」の神官「関三河守」は、高岡市月野谷村の清水神官を焚き付けて、それまで石堤浅井神社に祀っていた毘沙門天等の三体の仏像や鰐口等を突然、清水神官に取り除かせて、それを隠してしまったと云う。
その為に門跡寺院(天皇の一族が門跡と成る皇室所縁の寺院)「聖護院」の末寺で在った「川人山鞍馬寺」は聖護院本山や加賀藩に訴えを起こした。この争いは表向きは「関野神社関三河守」と「聖護院」の争いと成ったが、その陰で困った氏子は両方に分かれて争った。
その上、この争いには領内から各戸、米一升を集める権利が絡んでいた為に、争いは長期化した。

■「明治五年 修験道廃止令」
高岡市の「関野神社」が主導した「廃仏毀釈運動」は、「明治五年」の「両部神道廃止令」によって決定的と成り、古くから伝えられた由緒在る県内の有力寺院は廃止された。この時に「両部神道川人山鞍馬寺」は廃止された。



■「鞍馬寺側」は「昔は石堤浅井神社の祭礼は小矢部市の埴生八幡宮が執り行っていた」と主張して、一方、関野神社の関三河守は前田家の氏神と言う立場を利用して無理矢理石堤浅井神社や高岡市の熊野神社等の簒奪を進めようとした。しかし、「赤丸浅井神社」には「浅井城主の浅井左衛門佐」を通じて三代藩主利常や四代光高が初穂米の徴収権を二上山養老寺、石動山天平寺と共に安堵していたと主張し、熊野神社も前田利長が「先宮熊野社」の称号を与えていた為に、これ等の両部神道の各寺は「既に加賀藩の認可を受けている」と主張した。その上、歴代藩主が「太刀やお金等を寄進していた」と言う書状が出た為に、さすがの関野神社も加賀藩に楯突く事が出来なく成った。しかも、この裁判には皇室所縁の聖護院本山も調査に乗り出してきた為に加賀藩は「速やかに石堤浅井神社から取り除いた仏具を返して、清水神官が持ち込んだ祭具は月野谷に持ち帰れ」との判断を下した。

■「赤丸浅井城」と鎮守の「赤丸浅井神社」















■「後醍醐天皇皇子宗良親王」が創建され、「先宮」と前田利長が命名した「熊野社」




■「赤丸浅井神社」に加賀藩主から寄進された刀剣は第一次世界大戦前迄残っていたが、戦争の為に供出する事を怖れて土中に埋めた為に、戦後掘り起こした時には錆びてしまっていたと古老は伝える。又、明治十年頃の「浅井神社宝物帳」には「第三代前田利常、第四代前田光高からの書状」も記録されているが、現在はその行方も分からない。

■「石堤浅井神社争論一件」






■この時に高岡市関町の「総持寺」も仲裁に乗り出して、「石堤浅井神社は清水神官が奉仕している。石堤浅井神社は寛文7年に三社権現から神号を許されて世俗的には川人大明神又は、河人神社と呼ばれてきた。」と説明し、一方、赤丸舞谷の「清水山観音堂」は「西宝院」の持ち寺で在り、総持寺の持ち宮の「石堤村水の宮」は氏子が奉仕していると説明して文書を提出している。
加賀藩とも密接で、日頃、西宝院共懇意にしていたとされる「総持寺」の仲介は大きかった様だ。総持寺には赤丸村西宝院の過去帳も在ると言う。(※「越中古文抄」高岡市中央図書館)
総持寺が仲介に出たのは、総持寺を代々護持してきた門徒総代の 池田家は元々、赤丸浅井神社の門前に屋敷を構え、赤丸浅井神社の周辺を取り囲む様に一族が屋敷を構えている赤丸浅井神社と密接な一族で在る事も在り、又、この池田家は石堤地内に大きな新田を開発していた一族で在った事も有るようだ。現在の高岡インター周辺の「池田地区」もこの池田家が開発した地域で在る。
(※「石堤村史」)

■「赤丸浅井神社古墟図」(※「加賀藩士森田柿園」が残した森田柿園文庫 所蔵)
(※石川県立図書館)



■高岡市関町「衆徳山総持寺」






■高岡市関町の「総持寺」は嘗て、赤丸村舞谷に在ったが、「五位庄」が室町時代に足利義満の庄園(※「相国寺」の庄園と成る。)に成った時に赤丸村を離れて高岡市の現在地に動いたと伝承されている。









■その後、加賀藩第十三代前田斎泰は「赤丸浅井神社」の扁額「浅井神社」を揮毫して赤丸浅井神社に奉納し、加賀藩江戸板橋下屋敷には「赤丸山」と云う築山を築いている。


■「加賀藩第十三代前田斎泰が揮毫した赤丸浅井神社の扁額」






■しかし、明治維新で維新政府が「両部神道の廃止」を宣言して廃仏毀釈運動が激しくなると、嘗て敗北した関野神社関神官は廃仏毀釈運動を主導して、二上射水神社を養老寺から離して高岡古城公園に移動させ、石堤浅井神社には「郷社 延喜式内社」を唱えさせ、石動山天平寺は全山廃止にした。その報復も激しく、その時に赤丸浅井神社の西宝院の墓の石仏は全て首を切られて打ち捨てられた。今はその石仏の首が修復されて赤丸浅井神社の背後の古い墓地に静かに立っている。

■赤丸村の向野新村は石堤村の「山本助九郎」と福岡町に菅笠を伝えた大野源作の子孫「大野次兵衛」が開発し、各々を「助九郎島」、「次兵衛島」と呼ぶ。又、石堤村と赤丸村は血縁関係が多く、一時期は向野新村の大野氏が石堤村を含む総代に就任した事も在る。その密接な集落に高岡市の関野神社は拭いされない憎しみを植え付けた。一部の石堤村の村役は関野神社・清水神官に取り入り、数々の文書を創作して清水神官に提出した。その偽文書は高岡市の歴史家「飛見丈繁氏」に渡り、飛見氏はそれを基に数々の論文を作成・発刊した。高岡市の有力者で、富山県議会議員・歯科医師で高岡市関町の総持寺住職の奥様の兄でも在った飛見氏の影響力は大きく、「高岡市史」の編纂者はその創作資料を独断専行して採用して「高岡市史」を発行した。間違いだらけの資料を採用して独断専行して編纂された「高岡市史」について、高岡市在住の歯科医師「桜木成一氏」は『ある贋作物語』や総持寺研究書等を刊行して、「高岡市史」のデタラメを追及された。しかし、この論争は「総持寺の奥様の兄に当たる飛見氏」の主張を遺して双方の主張はそのまま現在に引き継がれた。これ等の著作は全て高岡市中央図書館に所蔵されている。
(※「高岡市史」はこのトラブルの為だろうか「資料編」は発行されなかった。)

■高岡市の「稲荷神社」・「関野神社」の神官「関家」は【吉田神道】の「吉田家」から越中国内の「射水郡」・「砺波郡」・「新川郡」の「社家頭」に任命されているとして、「稲荷神官」・「八幡社」・「加久弥社」・「大木社」や、「神明社」、「二上権現」、「海老坂八幡宮」、「射水郡放生津八幡宮」・「射水郡加茂大明神」等は「全て私の持ち宮」と主張して、「貞享二年寺社由緒書上」に記載して加賀藩に報告している。徳川幕府が「諸社禰宜神主法度」を定めて「吉田神道」に神官の任命、衣装の指定等の権限を与えた事から、「吉田神道」の「関家」は吉田社家からの裁許状を盾にして、「越中国内の著名な神社は全て私の持ち宮で在る。」と主張して、県内の神社の簒奪を企んだ。
特に、「前田利家」が「先の宮 マズノミヤ」として指定して「最も古い熊野神社」と認定していた「熊野神社」(※高岡市熊野町)は、南北朝の頃に後醍醐天皇の皇子の「宗良親王」が創建されたと伝わり、同じ由緒を持つ高岡市の「越中宮極楽寺」の由緒には「先の宮事件」として、「関野神社」がこの熊野神社を簒奪しようとして、氏子同士が大きな騒乱を起こした事が記載されている。

■本来は伊勢神道の「白川家」が「神祇伯」として伊勢神道を主掌する筈で在ったが、鹿島神宮、春日大社の流れを汲む「吉田神社」は、勝手に「神祇官領長上」を名乗り、「唯一神道」を唱えて神道の独占を企んだ。又、文武天皇の時代には、「元々の中臣氏は藤原を名乗ってはならない。「藤原」は「藤原不比等」の子孫にのみ許される。」と勅令が出されているにも関わらず、皇室の伊勢神道をも我が手に納めんとして時の幕府と手を組んで「神社祢宜諸法度」を幕府に制定させて権力を掌握した。「加賀藩」も当初、「真言宗」の仏式で「瑞龍寺」の地鎮祭を行ったが、利家の妻の「まつ」の助言に拠って、徳川幕府の推す「吉田神道」に拠って地鎮祭をやり直したと云われ、加賀藩も幕府と組んだ吉田神道には手を焼いていた事が伝わる。
加賀藩は「関野神社」に「前田利長」を祀り、関野神社の持ち宮だと主張する「高岡市海老坂」の「物部神社」を前田家の氏神として金沢の「尾山神社」の祭神としている。

■「吉田神道裁許状」(※神官の衣装を格式によって吉田家が指定した。)



■「貞享二年寺社由緒書上」











■高岡市の「関野神社」は皇室庄園で在った「越中吉岡庄」の鎮守社の「延喜式内社赤丸浅井神社」の簒奪を図ろうとして国吉村月野谷の「清水神官」を送り込み、「赤丸浅井神社」の摂社の「石堤浅井神社」に無理矢理、吉田神道の祭具を持ち込み、「この神社は元々、私の持ち宮」と主張して争ったが、加賀藩は裁定を下して「清水神官」に祭具の撤去を命じて、「赤丸浅井神社」の主張を認めている。
(※「神社一件書上」加賀藩記録⇒金沢市立図書館所蔵「皆月家文書」)
・「貞享二年寺社由緒書上」には「月野谷・石堤浅井神社神官」として、「清水」でも「吉田」でも無く、「社家 越後」と記されており、赤丸村舞谷には現在も「元々、浅井神社の神官で在った越後家」が残っており、地元では「越後どん」の尊称で呼ばれている一族が在る。「石堤村史料」に拠れば、現在、「清水」と名乗っているこの神官は「元々、吉田で在った」事を記載しており、「高岡関野神社の手先」として「吉田家」が直接、手を出していたものと見られる。


■吉田社家は「文徳天皇」の時代の「文徳実録」によれば、元々は韓国人で「百済国」からの帰化人「吉田連」で在ったと云う。





■「吉田神道」と「明神位」⇒真実を知らない歴史家が「嘘の歴史」を造り出す‼
この時の高岡市の「吉田神道関野神社」の「横車」は、明治維新になり、加賀藩の権威を背景に「廃仏毀釈運動」を主導した事から正当化され、両部神道の神社は口を塞がれ、吉田神道の裁可を受けていた神社も一斉に口をつぐんだ。戦後、新しい神社庁は全ての神社を対象に発足したが、高岡市では皇室所縁の伊勢神道では無くこの吉田神道の影響力が大きい。
高岡市民は関野神社が作り上げた高岡市内の射水神社を崇敬し、「曳き山祭り」は関野神社の祭礼だと端から信じており、現在の高岡市の歴史や高岡市曳き山祭り等の由緒にも強く影響している。この一件はそもそも吉田神道の横暴に端を発したが、この思想は高岡市教育委員会に深く入り込み、現在も尚、真実が追及される事も無く、地域を分断する様な重いしこりを遺している。正に高岡市の歴史や文化は吉田神道がでっち上げた歴史の上に構築されており、何も知らない市民や学生は真実を知ろうともせずに加賀藩の威光を今も頼りにしている。


■「明神」とは元々、「大宝律令」・「延喜式」に記載された「日本」の修飾語!!
・「吉田神道」が産み出した「偽の神号 明神位」

■「吉田神道」は「鹿島神宮」・「春日大社」の流れを汲む「京都吉田神社」の主導した神道で、徳川幕府に「神社祢宜諸法度」を作らせて、独自に神祇伯白川家に代わり神社や神官に対して裁可状を出して唯一神道を推進した。(※「大鏡」)

「●●明神」と云うのは、元々、神社の神仏混淆の呼び方だが、中世からは吉田神道が神社を「明神」と呼んでいた。「赤丸浅井神社」・「石堤浅井神社」・「舞谷八幡宮」の「三社権現形式」を採った赤丸村の「川人山鞍馬寺」は、門跡寺院「聖護院」の末寺だが、吉田神道の地域棟梁の「関野神社」はこの寺から「石堤浅井神社」を吉田神道に変えさせる為に国吉村月野谷神官を送り込み、「川人明神」と吉田神道流の呼び方を「浅井神社」に付けて、恰も、三社が吉田神道の神社で有るかのように吹聴した。現在も高岡市史等の歴史書や郷土史家の著作には、この吹聴を真に受けて「石堤浅井神社」を「嘗ては石堤浅井神社を川人大明神と唱え・・・」と説明して、「石堤浅井神社」は「延喜式内社 浅井神社の論社で有る」等と訳の分からない説明を加えている。
元々、この「明神」とは「大宝律令」・「延喜式」等で「日本」に付けられた尊号で在り、「明神御宇日本天皇 アキツミカミトアメノシタシロスヤマト」の様に使用された言葉で「神国日本の天皇」と云う意味になる。従って、「●●大明神」とは、「神道=天皇」を意識付ける為の呼び方で在るが、残念?ながら、「川人山鞍馬寺」は天皇の皇子が門跡に入られた寺院で在り、「赤丸浅井神社」の創建は「元正天皇の二宮=文武天皇二宮」が創建された朝廷所縁の神社で在り、祭神も皇室八神の内の、天皇の祖先神「天照大神」と並ぶ最高神の「高皇産霊神」で在り、吉田神道等の遥かに及ばない神社で在ったから、加賀藩も江戸時代の宗教争いにも「赤丸浅井神社」の勝訴として、月野谷神主に対して「勝手に持ち込んだ祭具の撤去」を命じている。何しろ、「聖護院」は豊臣秀吉が再建した京都の「方広寺」の本山で在り、「前田利家」がその時にも相当の寄進をした寺なのだ。又、「聖護院」は徳川幕府の時代に、二度も「天皇の仮皇居」として使用される等、格式の高い寺院で在り、赤丸村の「川人山鞍馬寺」はこの「聖護院」の末寺で在ったから、流石に前田家も崇敬せざるを得なかったものと見られる。「前田利長」を祀った神社と吹聴していた高岡市の吉田神道「関野神社」はこの事を知らなかったのか、この争いでは完全に惨敗した。
しかし、明治維新で「神道」が国家神道とされて廃仏毀釈運動が吹き荒れると、政府の神祇官代に成った高岡関野神社の神官が主導した宗教政策が実施されて、「両部神道の廃止」を政府が打ち出した為に、県内の両部神道は、寺として真言宗、天台宗に帰属するか、寺院を棄てて「神社」に成るかの選択を迫られた。「川人山鞍馬寺」の一坊の「西宝院」は、還俗して「神官川人他治馬」と改名して、名字帯刀を赦されたと云う。
(※「令義解」、「森田柿園文庫」石川県立図書館、「石堤浅井神社争論一件」加賀藩記録)










■徳川家の武芸師範の柳生家は剣聖「上泉伊勢守信綱」の弟子で在り、「柳生心影流」の「無刀取り」は「上泉伊勢守」が愛知県一宮市の「臨済宗別格本山妙興禅寺」で修行していた時に編み出した術で在り、伊勢守に弟子入りした「柳生但馬守宗巌(石舟斎)」に伝授された。「上泉伊勢守」は13歳の時には常陸国(茨城県)鹿島 の「鹿島神傳直心影流」を習い、後に、「柳生心影影流」として相伝したと伝えられている。徳川幕府の剣術師範として幕府中枢に居た柳生家が、「鹿島神道」の流れを汲む「心影流」で在った事も徳川幕府の政策に大きく反映していたと見られる。

🏯🐎 「前田利家」の【能登末森城】の戦い!! =>【北国全太平記】の「前田利家」と沢川村「田畑兵衛」の高岡市西山一円の過酷な占領政策。

2019-05-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●加賀藩前田家の氏神は富山県高岡市の守山城近くの海老坂から移動した「物部神社」と氷見の「阿尾神社」を合祀した金沢市高岡町の「尾山神社」!!




●【金沢市文化財「北方心泉」の「前田利家像」】⇒加賀藩の家臣の家では、各地で殺戮を繰り返した「前田利家」が、戦で首を獲った事を強調する絵が、毎年、正月に床の間に飾られたと云う。




■「前田利家」と「佐々成政」は「能登末森城」で激突した。「佐々成政」は福岡町の「木舟城」、「赤丸城」、高岡市柴野の「柴野城」、守山の「守山城」で拡翼の陣形を取り、福岡町の「沢川村」を経由する「佐々平左衛門」の沢川支隊は、福岡町鳥倉八幡宮の脇の「片山大道」を通り沢川村を目指したと云う。沢川へは赤丸⇒花尾⇒沢川のルートと、赤丸・木舟⇒西明寺⇒淵ケ谷のルート、木舟⇒鳥倉⇒片山大道⇒沢川へのルートが有り、何れにしても「沢川村」は「小野村」⇒「能登末森」へ至る要衝だった。
















■五位庄沢川村(※高岡市福岡町沢川)の「田畑兵衛」と云う豪族は平家の末裔で、元々は能登に領地を持っていたと云う。「前田利家」と「佐々成政」が能登末森城で戦うと知った「田畑兵衛」は佐々成政陣営に「前田利家が能登にいた時には相当苦しめられたから、秘かに佐々軍に能登末森への貫道を教える」と申し出て、佐々軍を道なき道に率いれて散々迷わせて本人は逃亡した。佐々軍の沢川支隊が能登末森城に到着するのが遅れた為に、氷見や小矢部から山越えした先行部隊が攻めあぐねてしまった。そこに急報を受けた前田利家軍が金沢の朝日城から駆けつけて、末森城は陥落を免れた。
「前田利家」が「織田信長」の指令で初めて能登に入った時、利家軍は石川、富山県境の石動山の麓の能登羽咋市に陣営を構えており、その時には羽咋市からは山越えで繋がっている沢川村の「田畑兵衛」にも連絡が取られていた筈で、富山県側から見ると、沢川村は「五位庄」に在り、その沢川村の神社は赤丸村浅井神社神官が古くから奉仕していたから、まさか、「田畑兵衛」が能登末森軍と通じているとは思わなかったのだろう。しかも、沢川村の隣地の「小野村」は越中領と能登領に股がっており、能登領の小野村(コノムラ)と羽咋郡は経済的にも一体で在った。佐々軍に加わっていた五位庄の「柴野城寺島牛介」・「赤丸城中山直治」や「木舟城の佐々軍」等の軍隊は当然、沢川村の「田畑兵衛」は佐々軍の味方だと思い込んでしまった。この時に、小矢部市と津幡町の県境の「倶利伽羅不動尊」の住職も秘かに「前田利家」に佐々軍の動きを通報していたと云うから、明らかに佐々軍は諜報活動で「前田利家」に劣っていたのだ。

又、「前田利家」は氷見阿尾城の菊池氏に対して「赤丸村の事は家臣の富田治部佐衛門と話し合う様に!(※当方に就けば恩賞として与えると云う意味)」との文書を送り届け、秘かに佐々軍からの離脱を薦めており、越中の能登への要衝を守る阿尾城の菊池氏も秘かに内通していた。これは過去に赤丸村は氷見の菊池氏の所領だったからだと云う。(※「越中志徴」)
▼【《参考》⇒氷見の森寺の「西念寺」の用地は「五位庄」の用地と交換して氷見の森寺城城主が西念寺に寄進したものだと云う。この時期には五位庄は氷見の領主が所有していたのではないかとされる。この寄進の文書が氷見市の文化財となっている。「西念寺」は高岡市の「長慶寺」の後始末の為に能登から氷見市森寺に移したものと伝え、この寺には南朝の「長慶天皇」の皇子の「行悟親王」の書等が保管されていたと云う。「長慶寺」はその後、新川郡に動き、その後、富山市呉羽山に動いた「長慶寺」がこの後継寺院ではないかと赤丸浅井神社の神職「川人貞良氏」がその著作に遺されている。「長慶天皇」は第98代(南朝3代目)の天皇で、維新後の南朝顕彰運動の中で赤丸村や福野町の安居寺等の南朝所縁の地域で宮内省の調査が行われ、大正15年(1926年)10月21日には皇統譜への加列についての詔書が発布されて「天皇」として初めて認知された。「川人貞良氏」は「長慶天皇の五位庄に於ける御事跡」(※高岡市中央図書館)等の論文を発表してこの調査にも協力されていた。】



■能登末森城への道筋「鳥倉村片山大道」周辺の現況










■能登末森城で勝利を逃した佐々軍は富山迄撤退を余儀無くされ、「豊臣秀吉」が出馬して呉羽山に着陣すると「佐々成政」は秀吉に降伏した。
「佐々成政」は暫く新川郡をあてがわれるが、遂には九州肥後に転封され、守山城の「神保氏張」は成政に従って九州に赴き、柴野城の「寺島牛介」は末森戦での鉄砲の腕前を買われて「前田利家」に仕官した。赤丸城の「中山直治」は敦賀に逃れて、敦賀の今井氏の後継となった。(※赤丸村の鞍馬寺村に住んでいた中山氏の一部は前田家に仕官して現在も高岡市羽広に残る。)
一方、能登末森城の戦いで佐々軍を攪乱して前田軍に勝利をもたらした「田畑兵衛」には「見渡す限りの山々」が与えられ、家臣並待遇で、十村役の束ねの無役十村役や山廻役等に任命され、加賀藩の公式行事や慶弔行事にも参列が許されたと云う。

■「前田利家」の越中西部の占領政策では、利家に逆らった「赤丸西円の西山の麓の住民」を高岡市和田新村に動かし、浄土真宗で「 飛擔 」の格式を誇ったと云う赤丸村の「長善寺」は福岡町の「長安寺」と、和田の「善宗寺」に三分割された。この記録は富山県立公文書館に【赤丸村西円の信徒移徒につき伺い】(※「善徳寺文書」)と云う「城端別院善徳寺文書」が在り、「和田善宗寺」には和田新村を開いた「和田佐助寄進状」が遺されている。

■多くの赤丸浅井城城下の赤丸村の住民は高岡市の和田新村で農奴と成り、無産の「頭振り」と呼ばれた「水飲み百姓※」にされた。(※水しか食べ物が無い悲惨な百姓)
一方、赤丸村に残された百姓には62%~75%もの超高率の課税が行われ、この課税は幕末迄、続いた。
(※小矢部川東部や佐々軍を陥れた田畑兵衛の所領の沢川村等は通常の40%前後の税率-4公6民で在った。)
又、この他にも、種籾の貸付、農具の貸付利息、野山の産物に対する「山役」、小矢部川の漁労に対する「川役」等の他、五位の渡しの舟の築造や河川、道路の土木工事の労役、参勤交代の人足費用等その他にもあらゆるものに課税が行われ、その負担が出来ないと、各村の十村役、肝煎、組合頭は連帯して支払わされた。その為に、女や子供が売られ、小矢部川には入水自殺する者が耐えず、地域負担を恐れて各村は竹棹で遺体を下流に押し流していたと地域の古老は伝えている。正に、赤丸村に残った百姓も幕末迄、地獄の生活を送らされたと云う。

■加賀藩の報復に拠る圧政と搾取に苦しんだ越中西部の加賀藩領の人々。



■能登末森の戦いで佐々軍で在った富山県砺波郡の小矢部川以西の西山沿いの「鳥倉村」、「舞谷村」には75%、「赤丸村」や「国吉村」、「頭川村」等には60~70%近くの重税が課せられて、その他にも山や川の狩猟、産品にも山役、川役等の課税が行われて、種籾の貸し付けも二割の高利が付けられた。一方、和田新村に移った住民は「頭振り」と言う水呑み百姓と成り、貧困を極めたと言う。見かねた「和田佐助」は秘かに空地に作物を植えて凌いだが、密告で加賀藩に摘発されて「磔」の極刑になった。現在も「和田佐助」を偲んで和田村では毎年慰霊祭が行われて、各戸の軒先には「和田佐助」の肖像を描いた「行灯」が掛けられる。

▼「頭川村村御印」と言う加賀藩の納税命令書


▼「3000石前田監物」の「頭川村年貢皆済目録」
(※納付確認書)


§《※飛擔の格式》浄土真宗寺院の寺格(格式:序列)は宗派や時代により変遷があるが、近世では①院家(筋目、准)②内陣③余間④三之間⑤飛檐(ヒエン)⑥初中後、⑦国絹袈裟、⑧平僧と細分化されていたと云う。その格式によって、寺院内での座る位置や衣装も決められると云う。広大な五位庄でも赤丸村の「長善寺」は飛檐の格式を誇る浄土真宗の中心寺院の一ツで在り、加賀藩はその勢力を割く為にこの寺には僅の門徒しか残さず、この寺の近くの赤丸村には前田家に仕官した柴野城寺島牛介の一族を「宗門改め方」として配置している。


■「加賀藩前田家の出自」は、「出雲臣」⇒「野見宿弥」⇒「土師臣」⇒「菅家党」⇒「前田に養子に入って前田」を称したと云われる。