赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴【毎年、11月15日は高岡市関町の総持寺「国指定重要文化財木造千手観音座像」の御開帳】「後鳥羽上皇」の祈願仏➡元、赤丸村舞谷!!

2020-11-01 | 富山県高岡市福岡町


■高岡市関町の総持寺千手観音像の胎内には、「後鳥羽上皇」の法名【金剛位理】や、資金を提供した大壇那の鎌倉幕府評定衆【斎藤長定入道して藤原浄円】等の著名人の名前がビッシリと記載される。













■この「千手観音像」が「後白河上皇」が創建された「河内金剛寺」からもたらされたのは、【赤丸村】が「藤原摂関家」や歴代の「上皇」に伝来した「越中吉岡庄」で在った事に起因するものと思われる。
「赤丸浅井城」を累代居城とした【越中石黒氏】は、藤原氏で在り、その先祖は「東大寺大仏造営の時に米五千石を寄進して寄進者筆頭」で在った仏教を篤く信仰した「利波臣志留志」で在った。重ねて「越中吉岡庄」は都からは「鬼門」に当たり、加えて、「越中吉岡庄」は、南北朝時代は南朝の「後醍醐天皇」の庄園で在り、加えて「後醍醐天皇の第八皇子宗良親王」が「赤丸浅井城」に入られた事共関係が深い。















■【南北朝時代は後醍醐天皇の南朝支持の里で南朝方の「赤丸の御旗」がたなびいたと見られる「越中国吉岡庄」】
(※「門跡寺院聖護院派川人山鞍馬寺」、「延喜式内社赤丸浅井神社」を中心に栄えた奈良時代から南北朝時代迄続いた庄園で、統治の為にその隣接には【赤丸浅井城】が在った。)

後醍醐天皇は吉野への途中、奈良県賀名生の里の「堀家」で南朝方の旗標「赤丸の御旗」を自署されて決起を促されたと言う。室町時代には、「南朝の牙城」として勇名をはせた「越中吉岡庄」は、室町幕府が直轄する「御粮所(軍俵を調達する庄園)」と成り、その後、「室町幕府第三代将軍足利義満」は妻の日野業子の追善供養の為に「相国寺」の庄園とした。(※「相国考記」)
この頃からは「東寺百合文書」では、赤丸村の浅井城を中心とした越中西部は「五位庄」と記載され、赤丸村はこの時に初めて「越中国利波郡五位庄赤丸村」と記載される。「赤丸浅井城には室町幕府越中守護畠山持国が入り、足利義満の姻戚の越中蜷川氏が利波郡を知行されて、「一休さん」でも有名な「蜷川新右衛門親当」が担当している。(※「蜷川村郷土史」、「蜷川家文書」)



(※越中国吉岡庄赤丸浅井城を居城として後醍醐天皇の皇子宗良親王を城ヶ平の親王屋敷にお迎えしたと言う南朝の武将石黒重之の一族に「堀家」が在る。先の「後鳥羽上皇」が起こされた「承久の乱」では、「後鳥羽上皇軍」として都に攻め上った越中石黒氏、加賀林氏、越中宮崎氏等は、後鳥羽上皇が敗戦された為に、全国に散らばって逃げ延びた。ある者は奥州に逃れ、ある者は途中の越前で朝倉氏の家臣になる等、後々に全国に石黒氏等が勃興した。)




🔽又、室町時代には、一時期小矢部川河口の「五位庄六渡寺浜」に在った【浜総持寺】で「室町幕府管領畠山満家」の三回忌法要を「赤丸浅井城」にいた息子の「室町幕府越中守護畠山持国」が執り行っている。
この時期に、室町幕府は越中総持寺に対して「所領安堵」の【安堵状】を出していた事が「相国寺蔭涼軒日禄」に記される。その落慶法要は雅楽を交えて盛大に執り行われ、父親の「畠山満家の三回忌法要」を兼ねていたと「名古屋大須観音文書」に記載される。
(※蔭涼軒;臨済宗相国寺内の執務室。創建当時はこの寺に、室「業子」の追善供養として「越中国五位庄」が寄進され、「蔭涼軒主」は寺を創建した「足利義満」が勤めたと言う。この頃、「守護畠山持国」の居城と成っていた「赤丸浅井城」の周辺から「臨済宗」以外の寺院が追放されていたと臨済宗寺院に伝わっている。真言宗総持寺もこの頃には、「六渡寺浜」に動いている。)



🔽室町幕府から総持寺に与えられた「安堵状」(※「蔭涼軒日禄」)


🔽「畠山文書」(※大阪府羽曳野市)に記載される室町時代の「越中統治絵図」


🔽「越中国利波郡五位庄赤丸村」の「赤丸浅井城」、「門跡寺院聖護院派越中統括 川人山鞍馬寺」と三社権現形式の「赤丸浅井神社」、「石堤浅井神社」、「舞谷八幡宮」全容を記す加賀藩の「川人山古墟図」(※「森田柿園文庫」石川県立図書館)






🔴◎[特別御開帳] 衆徳山総持寺の【国指定重要文化財 木造千手観音坐像】⇒【後鳥羽上皇】が「本願聖人」として記載される秘仏 !!

2020-10-31 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■「元、後鳥羽上皇の庄園越中吉岡庄(赤丸村)」から高岡市関町に動いた「衆徳山総持寺」の「千手観音座像」(※慶派仏師 幸賀 作)は昭和12年、国宝に指定された。






■「国指定重要文化財木造千手観音座像」は毎年、11月15日11時より年一回の御開帳が行われて法要が営まれています。[場所;高岡駅南口より砺波方向(156号線方向)徒歩約5分。国宝瑞龍寺後ろ。]



(※「文化誌日本」※講談社版参照 )

■「後鳥羽上皇」は「菊」を好まれ、衣装や持ち物、刀剣等にも「菊紋」を付けられた。
総持寺の千手観音像にはその台座に通常使用される「蓮花」の代わりに「菊紋」が使用されている。





「赤丸浅井神社」の建物に刻まれた天皇家の「十六菊紋」




■元、「後鳥羽上皇」の荘園であった「越中吉岡庄」の赤丸村舞谷に、現在、高岡駅南に在る「衆徳山総持寺」が在った。(※「国宝概説」)
そこには昭和12年に国宝になり、その後、国指定重要文化財になった「木造千手観音坐像」が祭られている。
明治維新により、「南朝を正統とする議決」が帝国議会で行われ、南朝支援の歴史を持つ赤丸村は脚光を浴び、宮内省から再三に亘り赤丸村の史跡調査が行われた。その結果、総持寺の観音像の胎内から南朝の護持僧として著名な「河内金剛寺 禅恵」の署名や「正平八年三月 御入り」等の記名が発見されたことから、昭和12年には国宝に指定された。ただ、その際には数多い胎内名の内、「禅恵」や「仏師幸賀」等のわずかな署名しか調査されていない。昭和39年に富山県教育委員会は解体修理を行い、胎内名も書き写しているが、その署名の調査は行われていない。先ず肝心の、頭部と体前面の内部に2か所も記載されている「金剛位理 本願聖人」と「藤原浄円 大檀那」については全く調査記録が無く、学者は「禅恵」を「大檀那」とする等の混乱が残されている。
又、「正平八年三月 御入り」の記載から、この仏像の製作は「正平八年三月」とし、どの学者も「この仏像は南朝を代表する仏像」と評価してきた。(※「御入り」はこの像が製作された年では無く、「河内金剛寺」から越中の総持寺へ伝えられた年と考えるのが妥当だ。)
この胎内に残された「金剛位理」は鎌倉時代の「後鳥羽上皇」の法名であるばかりでは無く、「藤原浄円 大檀那」についても鎌倉幕府の中で執権の北条氏を助けて政治を行った「評定衆」の中に有名な「御成敗式目」の原案を作成した「斉藤長定入道藤原浄円」が実在する。又、「仏師幸賀」についても興福寺の仏像修理仏師の中にその名前が有り、疑いなく、この仏像は鎌倉時代の後鳥羽上皇に御縁のぬ有る仏像である。「吾妻鑑」に拠れば、後鳥羽上皇と藤原浄円は同年に亡くなっており、時代的にも合致している。
(※「日本彫刻史研究」小林剛著) 
胎内名の顔の内部には「金剛位理■」(※■には「乗」か空海が用いた「毎の下に水を書く海」の字と見られる文字が記載されている。)が、もう一か所の体部全面の内部には「金剛位理卿」と記載されている事から、学者は前記を「金剛位理海」と解釈し、後者は無視している。「海」の字がついた僧は誰しもが知る「空海」が有名だが、仏教用語では、多くの河川が流れ込む海ー即ち諸々の人々の苦悩、煩悩を背負う僧職に在る者、知識の豊富な人を指すと言う。
しかし、河内金剛寺の研究者はこの解釈を「金剛位理乘」と解釈されており、これは、真言宗の事を「金剛乘教」と呼び、信徒に「乘」を付けた事に拠る様だ。しかし、後者の「金剛位理卿」については、ウイキペディアでは「卿: 中国の天子・諸侯の家臣の最上位。」と記載されており、天皇も中国では「卿」と呼んでいるが、現在までこれに関する議論は耳にしていない。真言宗の各所にみられる中国的な解釈をすればこの「金剛位理卿」(良然)は「後鳥羽上皇」に他ならない。総持寺の千手観音像が昭和12年国宝に指定された時に、もう一人の「金剛理」(覚理)は「長慶天皇」の法名である為、長慶天皇の南北朝時代に造仏されたと誤って解釈された様だ。その他の胎内名の中で、南朝と繋がりの強い河内金剛寺の僧の「禅惠」の名前が在った為、この像は南北朝時代の「正平八年」の胎内の記入が決め手となって、この年に造仏されたと結論付けられた。この時代に「藤原浄円」が鎌倉幕府評定衆の一人の「齊藤長定」という人物で、出家して「藤原浄円」と名乗ったと云う事を知る学者がいなかったものか? 「吾妻鏡」の解釈には「齊藤長定入道藤原浄円」とされているのだ。この解釈は現在も文化庁が知らないのか、「この仏像は南北朝時代に造仏され、胎内名も後の追加記入が見られない事から正平八年に造られた仏像に間違いない。この仏師幸賀は大仁坊幸賀という仏師である」と回答している。この千手観音像の「胎内仏」は市内の在家に祀られているが、「鑑定では鎌倉時代の作とされている」と所有者が回答されている。日本の文化行政はせいぜいこの程度のものか? 高岡市教育委員会文化財課はもっとレベルが低く、「学会で問題点が明らかになれば検討しても良い。」と云う回答なのだ。




■最近、総持寺の撮影による「文化誌日本」(※講談社版) に掲載の千手観音坐像の写真を入手して詳細を調べると、何と普通は蓮の「蓮華座」に座っている筈のこの観音像は、花弁の様子からどうみても「菊の花」に座っており、その下部には「小菊」の文様がビッチリ彫り込まれている。後鳥羽上皇は「菊の花」を好み、衣装や調度品、自ら制作した刀剣にも「菊」を刻印して、お気に入りの女性を「亀菊」と呼んで寵愛した。この「亀菊」に与えた荘園で鎌倉幕府の役人が不法を行い、これに抗議した上皇の要請を幕府が拒否した事が「承久の乱」に結びついたとされている。皇室の「十六菊紋」という「花弁が16枚の菊紋」はこの後鳥羽上皇の菊印から起こり、後には「皇室の紋」とされ、現在はパスポートにも刻印されている。
この胎内名の「金剛位理卿」とこの「観音像の菊の台座」から、この「国指定重要文化財 木造千手観音坐像」は明らかに後鳥羽上皇の祈願により、藤原浄円が大檀那として資金を提供したものと見られる。ちなみに、「承久の乱」で総大将を務めたのは、元能登守の北面武士藤原秀康で有り、最後には不利と判断した後鳥羽上皇から逆賊の院宣を出されて殺害されている。この時に赤丸村を含む「越中吉岡庄」(※南北朝時代末期から五位庄)は「後鳥羽上皇」の庄園(後院領)であり、赤丸浅井城に拠ったと云われる越中の石黒氏、藤原氏として石黒、林氏の同族の宮崎氏等も後鳥羽上皇の支援をして戦い、ついには降伏し、加賀の豪族で石黒氏の同族の林氏も戦いに敗れ、後は林氏の同族ながら幕府側に付いた富樫氏が繁栄したと云う。北陸の藤原氏の頭領の加賀の林氏は、石川県と福井県に跨がる「白山」の信仰を背景に石川県鶴来町を拠点として栄えたが、その一族は加賀国一帯に拡がり、現在の金沢市に遺る「石浦」等の多くの地名として残っている。「越中石黒系図」には「石浦氏からの養子」と見られる人物も見える。これらの「藤原一門」は、「越中吉岡庄」の領主で、「藤原摂関家長者、左大臣藤原頼長」の配下として北陸で繁栄し、「加賀の林氏」が比叡山と紛争になって捕縛された時には、「藤原頼長」に救われたと云う。
(※「藤原氏長者藤原頼長」は奥州でも父親の忠実から譲られた庄園「五庄」を所有して「奥州藤原氏」に統治させ、金、馬、織物等を上納させていた。)
又、「林氏」は「源義経」の配下として源平の戦いを戦い、一時期にはその恩賞として越中国を与えられたとも云う。(✳「林一族」寺西艸骨著)

【※「北面の武士」は皇室を警護した武士団で、「天子は南面す」と云われる天皇の背後を守った事からきている。天皇警護の武士団としては、後鳥羽上皇が創設された「西面の武士団」もいた。】








🔴元、【越中吉岡庄】の赤丸村に在った富山県高岡市「衆徳山総持寺」の「国指定重要文化財 木造千手観音座像」

2020-10-31 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
























































■「高岡市」の「高岡」命名に総持寺住職が関与したとして有名な「総持寺」の「千手観音座像」が年一回、十一月十五日に御開帳を迎える。
南北朝時代に一時期は南朝、北朝の両天皇が行在所とされた「河内国金剛寺」から「後醍醐天皇庄園の吉岡庄(赤丸村)」に伝わったとされるこの観音像は、鎌倉から南北朝時代の激動の時代に数々の政変を見てきたと言う稀有な遍歴を持ち、「慶派」の「七条仏所」の工房で「幸賀 大仏師」、「頼真 小仏師」により製作され、南北朝期の戦乱の中で赤丸村に移された。この観音像は富山県では唯一、国指定重要文化財で在り、木造、座像としては他に例を見ない千手観音像。(※この千手観音像の胎内には「後鳥羽上皇」の法名「金剛位理卿」が記載されている。千手観音像の台座は一般的な【蓮華座】と異なり、後鳥羽上皇が好まれた「菊花紋」が用いられている。)








又、他にも相当古い「薬師如来像」や、本堂には「慶派仏師 松本明慶師作」の「不動尊像」等多くの仏像が祀ってあり、更に、圧巻は寺院の周囲には数々の石仏が安置されている。これ等を拝見すると、本当に古く、由緒の在る寺院である事が分かる。この寺を舞台にした古い落語に「札所の霊験」と言う有名な落語があり、昔から江戸にも聞こえた有名な寺院だった様だ。名古屋で有名な「大須観音寺」には室町時代の越中守護「畠山満家」の三回忌をこの寺院で執り行った記録も遺されている。




■【蔭涼軒日祿】に見える室町幕府から「越州国総持寺」への「安堵状」


■越中総持寺を舞台にした落語が「円生」の落語にある。。



🔴《義経記の平権守とは誰か?》【藤原南家、相良、工藤、狩野の系譜】「蓮華王院領越中吉岡庄の地頭相良迎蓮」と「義経記の二位の渡しの渡し守【平権守】」を考える!!

2020-10-31 | 富山県高岡市福岡町赤丸村









■【義経記の二位の渡しの渡し守「平権守」とは?】
皇室庄園「後院領」の「越中吉岡庄(富山県高岡市赤丸村)」では、「院庁」の役人の「後院司」が事務を行い、「源頼朝」の時代にも収穫を納める「地頭」だけしか配置されず、司法権は「守護」では無く、「院司」が担当した。
しかし、江戸時代の「(参考)源平盛衰記」に拠れば、源義経主従が「如意の渡り」を越える時に、船頭「平権守」は【「当所の領主城之助宗茂殿より下知ありて山伏達が通れば訴え出よ! さもなくば大変な事になる」と厳重に申し渡されている。九郎義経は山伏の服装で在る。】と告げたとされ、この時の越中吉岡庄の地頭(※鎌倉在住)は「城之助宗茂」で在ったと告げている。この人物は鎌倉幕府の家臣で、静岡県の伊豆に屋敷を構えた「狩野宗茂」で在った。「狩野氏」は室町時代の「越中絵図」の「森山城」にも記載される。又、この「狩野氏」が氷見地方の「飯久保城」の城主で在ったともされ、室町時代の永禄三年(1560年)頃、「狩野中務丞良政」は人質を差し出して越中守護代の富山城主神保長職に属し、同四年には氷見市の庭園で有名な「浄土真宗光久寺」に寺地を寄進している。(畠山文書の越中絵図では、「狩野中務」は「森山城」に記載される。)

「後白河上皇」、「後鳥羽上皇」、「後醍醐天皇」の庄園「越中吉岡庄」




「室町幕府」の「越中絵図」


◆1160年から、伊豆の蛭ヶ小島に流されていた「源頼朝」が、1180年に挙兵した際に、北条義時らと共に藤原南家流の工藤茂光(狩野茂光)も従った。
しかし、石橋山の戦いで、源頼朝は敗れ、この時、大庭景親・伊東祐親らと共に戦かった工藤茂光(狩野茂光)は、敗戦の中、自刃して果てた。家督は嫡男の「狩野宗茂」が継ぎ、一ノ谷の合戦で捕虜になった平家の総大将の平重衡の身を預かっている。父の功績も在って鎌倉幕府では重用され、狩野家では代々「狩野介」を称して伊豆で続いた。
◆《室町時代の絵師「狩野正信」は伊豆の「狩野宗茂」の末裔と言われ、江戸時代作成の家譜では駿河今川氏の家臣の「狩野出羽二郎景信」を正信の父としている。》

◆【冨樫一族と狩野氏の関係、冨樫の遠江国の所領】
🔽冨樫一族には狩野氏を名乗った人物がいる。


🔽又、冨樫氏は「足利尊氏」から「越中国守護」と遠江国を知行されている。


■奈良時代から上皇の庄園の「後院領吉岡庄」の「後院司」(後院の政務を執り行う役所)の居城で在った「赤丸浅井城」には、室町幕府の守護として越中国を統治した「畠山持国」の居城として記載されている。「義経記」が室町時代に著されたとしてとも、正に「赤丸浅井城」が「守護の館」で在り、この時期に現在の高岡市守護町には居城の記載は無い。
鎌倉時代に義経追討の為に「源頼朝」が「後院領」に無理矢理配置した地頭は、しばらくして廃止されたという。
東大寺文書に記載される「蓮華王院領越中吉岡庄地頭相良迎蓮」は鎌倉幕府に仕えた武士で、肥後国相良郷の領主で在ったが、各地の所領には「地頭代」を配置して当国には在城しておらず、恐らく、「(狩野)城之助宗茂」も「吉岡庄」には「守護代を配置していた」と見られ、「渡し守平権守」については、「赤丸川人山鞍馬寺三社誌」に見られる赤丸村を統治した十二人の役人の内の「権守」が該当すると見られる。➡「平権守」は【「平家」の権守(※「国司)と言う意味】の「平権守」の意。








■【相良氏】
藤原南家の流れを汲む工藤氏の庶流で、『求麻外史』では工藤維兼(くどう これかね)を相良て氏の祖としているが、『寛政重脩諸家譜』ではその孫にあたる工藤周頼(くどう かねより)が遠江相良荘に住んだことから相良を苗字としたのを始まりとしている。ただし周頼には子がなく、親類の伊東祐時の孫(祐光の子)、光頼を養子として家督を継がせた。このために日向伊東氏とも近縁である。
『新撰事蹟通考』引用の系図から相良氏は鎮西伊佐氏(鎮西平氏)と関係がるとされ、治承四年(1180)、源頼朝が平氏追討の兵を挙げたが、ときの相良荘司頼景は文治元年(1185)に平氏が滅亡するまで、平氏方の武士として行動していた。その結果、領地没収の憂き目となるが、謝罪につとめて許され、鎌倉幕府に仕えるようになった。そして、建久四年(1193年)、肥後国球磨郡多良木荘を賜り、相良氏は肥後国の領主にもなった。しかし、一説には相良頼景は建久四年、領地没収の上、九州肥後国球磨郡多良木荘に追放されたともされ、頼景の多良木荘下向に関しては、領地を賜ったとするもの、罪をえて追放されたとするものがあるが、いずれも建久四年で在った。当時の御家人は鎌倉にあって、遠隔地にある所領の支配は代官に委ねることが多かったが頼景は、弟の頼兼、一族の平原頼範らを従えて多良木荘に下向した。多良木荘は平家没からの没官領であり、そこには既に矢瀬氏が入部しており、頼景は当初、この矢瀬氏預かりで在ったと見られる。それから四年後の建久八年、頼景は鎌倉に行き将軍源頼朝に謁見し、次いで頼朝の善光寺参詣の随兵として参加し、御家人の列に加えられ、所領として多良木荘を授けられた。 多良木荘を得た頼景は家督を嫡男長頼に譲ると隠居した。長頼は遠江国相良荘に生まれ、頼景が多良木荘に下向したとき相良荘に残った。その後、頼朝の命を受けて人吉荘に下向し、矢瀬氏を滅ぼして人吉城に入った。そして元久二年(1205)七月、長頼は命により、北条義時に従って武蔵国二俣川の戦いで「畠山重忠」を攻め、その抜群ちの功によって平家没官領である球磨郡人吉庄の地頭職に補任された。
(※秩父平氏の畠山重忠の妻は平氏の北条時政の娘で在ったが、北条一族の陰謀で畠山重忠は罪を問われて追討された。この未亡人を源氏の足利義純に嫁がせて、「畠山」の名を継がせた系統は「源氏系畠山氏」と成り、後の室町幕府では幕府の守護、地頭に任命された。越中、能登の守護の畠山家はこの系統に成り、「応仁の乱」では畠山家の後継ぎを巡って騒乱の種にもなった。)

「相良」・「工藤」系図




「応仁の乱図」


「畠山系図」



🔴《越中国領主 狩野宗茂》 【参考源平盛衰記】の【義経記】に見られる【越中吉岡庄(越中国赤丸村)】の渡し守の「平権守」と越中領主「城之助宗茂」!!

2020-10-31 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■【源平盛衰記】
「源義経」と「弁慶」を描いた巨大な奉納絵が「延喜式内社赤丸浅井神社」に掲げられている。










■【参考 源平盛衰記】と言う明治十八年、「信濃出版会社」が発刊した古書が在る。その巻十二には、「義経主従如意の渡しを渡る事並山伏問答の事」と言う項目が在り、そこには「勧進帳」の場面に採用された「如意の渡しを渡る事」と言う項目が在り、そこには「義経記」と異なり、この舟下りルートの「如意の渡し」の赤丸浅井神社前の「二位の渡し」での「平権守」とのやり取りが詳しく載っている。しかも、この時の「平権守」の上司は「静岡県伊豆」を拠点としていた「狩野宗茂」で在ったと実名が記載されている。















◆この場所は「保元の乱」で勝者の「後白河上皇」が「藤原摂関家長者・左大臣藤原頼長」の庄園「越中吉岡庄」を没収して自らの天皇退位後の庄園「後院領」に加えたもので、この庄園は「後鳥羽上皇」以降「後宇多上皇」から「大覚寺党」に伝えられ、「持明院党」との争いが起こった南北朝時代の「後醍醐天皇」迄伝領して、南北朝末期に「下鴨神社」の庄園と成り、南北朝を統一した「足利義満」によって「室町幕府御粮所」として軍俵を賄う庄園と成った。その後は、「足利義満」によって「臨済宗相国寺」に寄進され、その領地は「応仁の乱」の原因を作った「室町幕府管領畠山満家」に委ねられて、「赤丸浅井城」にはその子供の「越中守護畠山持国」が入っていた事が「畠山文書」(※「大阪府羽曳野市資料叢書」)の「越中絵図」に記載される。(※「相国考記」、「万山編年精要」)





■「参考 源平盛衰記」には「義経記」と異なり、当時の歴史背景や具体的な当時の「実名」が載っている。
「二位の渡し」の渡し守りの「平権守」は、上司に当たる領主の「城之助宗茂」の命令に従い、厳重に「偽山伏」と成って奥州へ向かっているとするお触れ書により、特に「山伏」を警戒していると言う。「弁慶」は【「羽黒山」の荒法師を知らぬか!】と激怒して威嚇するが、渡し守りの「平権守」は、「城之助宗茂」の厳命だとして一歩も譲らない。このシーンは「義経記」にも在るが、「城之助宗茂」は出て来ない。






🔻【城之助宗茂】は静岡県の修善寺から天城湯ヶ島に至る狩野郷に城を構えた武将で、「能」の【千手】でも知られる。
「藤原南家」の「藤原為輔」の末裔の「工藤」、「相良」等を輩出して、「工藤」から「狩野」が出ている。
その後、「後院領越中吉岡庄」(富山県赤丸村)の地頭として、「工藤」等の一族の「相良頼俊(沙弥迎蓮)」の記録が「東大寺文書」に遺されている。この時期に「越中吉岡庄」は「後白河上皇」が創建された「蓮華王院三十三間堂」の庄園で在った。「相良氏」は、「遠州」の「相良郷」を拠点としていたが、恩賞として「肥後国人吉庄」を知行されて遠州より動き、「蒙古来襲」の時にも活躍して、以後、徳川幕府では、「人吉藩」として存続した。
🔽蓮華王院領【越中吉岡庄】の地頭の「相良迎蓮」の文書(後醍醐天皇の前の花園天皇の時期の相良文書)


🔻「狩野」の名は「工藤氏」の拠点の伊豆国狩野荘(現在の狩野川上流、伊豆市大平柿木に城を構えた)に由来し、工藤氏、伊東氏と同じ一族である。6代目の工藤家次(※伊東家次)の四男工藤茂光を祖とし、その子の「狩野宗茂」以降、代々「狩野介」を称する伊豆国の在庁官人であった。伊豆で「源頼朝」が旗揚げした時から頼朝に従い、富士山の麓の頼朝の「巻き狩」の時に「工藤佑経」が討たれた事件で「工藤」は有名だ。
富山県の氷見市にも「狩野氏」の史跡が残っており、加納、嘉納等もこの末裔と言われる。
「当国の領主城之助宗茂」からの赤丸村の渡し守の「平権守」への厳命で、【「山伏」には特に厳戒する様に!!】
と言う命令が出ていたと言うから、この時期の「越中吉岡庄」は頼朝配下の「城之助宗茂」が統治していた事になる。


■「吾妻鏡」には、当初、「吉岡庄の地頭」として「成佐」が配置されたが、税を納めて来ない事を後白河上皇が怒り、頼朝に交替させた記録が載っており、この「成佐」の後任として「城之助宗茂」が配置されたと云う事か?



🔻「越中国司一覧」(※wikipedia)には、歴代の「越中国司」の中に「平業家」の名前があり、その後に「越中権守藤原宣親」の名前が在る。「越中吉岡庄」の領主「後白河上皇」の時に、、院近臣の中には「平家」や「藤原」が見られ、「平権守」は具体的に分かっていない。しかし、「越中吉岡庄」の鎮守社「延喜式内社赤丸浅井神社」とその別当の「門跡寺院聖護院派修験道川人山鞍馬寺」の記録には、「この庄園には十二名の祠官が定められており、その中には【権守】も記載される。」と「越州川人山三社記」は記す。

🔻【越中州川人山三社記】(延喜式内社五位庄五十三ヶ村総社 赤丸浅井神社由緒  ※「福岡町史」)




≪【権之守】(国司を指す)の記載!!≫






「兵範記」を記した兵部卿の「平信範」は、軍事部門を統括する身ながら「保元の乱」前後の情勢を詳しく記しており、「近衛文麿」が発刊した近衛家文書の「陽明文庫」には「人車記」と言うタイトルで、「越中吉岡庄」の領主の「藤原摂関家長者藤原頼長」が「崇徳上皇」と共に「源義経」、「平清盛」、「藤原通憲(信西)」の軍門に下り、「首に矢をち受けて死亡した」事が記され、次いで「信西」が「源義朝」と「信西」が「平清盛」に殺害された【平治の乱】が起こった事を記す。

「保元の乱」で「崇徳上皇」は讃岐国へ流罪になり、「藤原摂関家長者藤原頼長」は殺害された。


「平治の乱」で「信西」は殺害された。





「藤原摂関家長者藤原頼長」の庄園「越中吉岡庄」の記録を伝える【人車記】(※近衛家文書)



 「平清盛」を追討した「源頼朝」は娘の「大姫」を皇室へ入れる為に藤原氏長者の「九条兼実」に近づいたが、1197年(建久8年)7月14日に「大姫」が急逝した為に、「九条兼実」の娘「任氏」が「後鳥羽天皇」の中宮として入った。
台頭してきた武士を押さえる為に「後白河上皇」は、頼朝の弟の「源義経」を院近臣に取り立て、「義経」は「頼朝」に断りを入れずに、「後白河上皇」から官位を受ける。之が「源義経」が兄の「源頼朝」の逆鱗に触れ、「義経」は各地を放浪して、遂には「北陸道」を経由して、母の「常盤御前」が再婚した「一条長成」の一族の奥州藤原氏を頼って「奥州平泉」へ逃れた。「源氏」の縁者の「熱田神宮神官」との血縁で在った「後白河上皇」の皇子の「守覚法親王」や「後白河上皇」や「藤原氏」の各地の庄園💠等を頼りながら、「義経主従」の逃避行は続いた。
その記録で在る「義経記」や「源平盛衰記」には、「如意の渡しを渡る事」と言う項目が在り、いずれもが渡船場の「赤丸浅井神社」(※「元正天皇二宮の御創建」の由緒を持つ)前の「二位の渡し」で「義経主従」が怪しまれて、「弁慶が義経を扇子で激しく打躇して疑いを晴らそうとした」様子が「勧進帳」に取り入れられている。



■「義経記」、「源平盛衰記」には、この渡船場の渡し守を【平権守】と言う。「越中権守」に任じられた「平家」の氏名はこの頃に二名の人物が見られ、その中に唯一、「権守」に任じられた人物に「藤原宣親」が記載されているが、同時に記載される「平業家」は「権守」とは記載されない。 この両名の素性は明らかではないがいずれも院近臣の平家一門や頼朝に従った藤原南家の人物の可能性が高い。
「明治十七年発刊」の「参考源平盛衰記」では、「義経主従蝦夷渡海の事」とする記載が在り、「義経主従」は北海道へ逃れたとする説に立っている。これは、「源義経は生きて奥州を脱出して北海道へ渡った」とする【義経記】で、東北各地に多くの伝説を伝えている。
しかし、【参考 源平盛衰記】では、「源平盛衰記」よりは詳しい説明が在り、実名を交えて記載がされているが、「義経生存説を唱える」地元民の伝承と見られる部分も在り、その真偽の程は明らかでは無い。

「義経記」


🔴🌕高岡市関町【総持寺】の「国指定重要文化財木造千手観音座像」の胎内名「浄算」!!

2020-10-31 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■高岡市の総持寺に安置される『木造千手観音座像』の胎内には、「金剛位理乗」(※別の場所には「金剛位理卿」と記載される。)として 「本願聖人」の法名が記載されている。この人物は鎌倉時代に「天皇親政」を目指して「承久の乱」を起こし、敢えなく隠岐に流されて亡くなった『後鳥羽上皇』の法名である。
その胎内名の下に『実号 浄算』の記名がある。
ある「地域史」では、これは「藤原浄円 大壇那」と記載される藤原浄円の実名だと解説しているものがあるが、明らかにその筆跡は別々のものであり、別人の筆跡だ。その人物の系図を調べると色々と奥深い事情が見えてくる。文化庁は当方からの質問に対して、「これ等の筆跡は同一人物のもので、追記は見られず、従ってこれ等の胎内名は南北朝時代の正平八年にこの仏像が造られた時に全て記載されたものだ」と回答してきているが、果たしてそうなのか?
この法名が後鳥羽上皇であるなら、この仏像は鎌倉時代に製作されたものになる。

■「国宝概説」(※昭和12年)



■「総持寺千手観音像 昭和39年の解体修理記録」※(富山県立図書館 蔵)


■藤原系図に記載される【浄弁 実名(或) 浄算】
《浄弁(生年不詳 - 延文元年/正平11年(1356年)頃?)》




■この千手観音像の中に「藤原浄円 大壇那」、「金剛位理乗 本願聖人」、「仏所 幸賀 大仏師」、「仝 頼真 小仏師」と上段に記載され、その下に違う筆跡で「実号 浄算」と記載されている。
この人物は藤原北家日野氏系図の「真夏」の系統に見られ、「浄弁 実号浄算」と有る。伏見天皇の第6皇子で青蓮院第十七世門跡の尊円法親王[永仁6年6月23日(1298年8月1日)~正平11年9月13日(1356年10月7日)]の庇護を受け、青蓮院別当に就任している。青蓮院門跡には先に後鳥羽上皇の第七皇子の道覚も1248年に就任している。青蓮院は比叡山の三門跡寺院で、他には妙法院、三千院がある。この寺院は「愚菅抄」を書いた三代門跡の慈円の代に法然、親鸞も庇護した寺院で、代々天皇の皇子が門跡に就任する天台宗の名門である。
「浄算」は鎌倉から南北朝にかけての天台宗の僧でその子の「慶運」と共に4歌人の一人に数えられる。尊円法親王は、歌を「世尊寺行房」に学んだが行房は南朝方後醍醐天皇の側近として北国で戦死する。「世尊寺行房」は、大覚寺統後醍醐天皇の側近として蔵人頭や左近衛中将を歴任し、元弘2年/正慶元年(1332年)の「元弘の変」後に後醍醐天皇が隠岐に流された時にも隠岐に従った。
後醍醐天皇の皇子、恒良親王は「元弘の変」後、鎌倉幕府に捕らえられ、但馬国に配流された。元弘3年(1333年)には太田守延に奉じられて千種忠顕と足利尊氏を六波羅探題に攻撃した。幕府が滅亡し建武の新政が始まり、建武元年(1334年)には阿野廉子の子で最年長の皇子の恒良親王が皇太子となる。足利尊氏が後醍醐天皇から離反して、建武3年(1336年)の湊川の戦いで勝利し京都へ攻め登る。比叡山に逃れていた恒良親王は後醍醐天皇から皇位を譲られ、兄の尊良親王と共に新田義貞・義顕父子に奉じられ越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)に下向する。しかし、京を脱出した後醍醐天皇が吉野で南朝を開き天皇に就任する。足利方の高師泰・斯波高経率いる軍勢により金ヶ崎城が落城し、新田義貞は脱出したが、尊良親王は自害し、恒良親王は捕らえられて京都へ送られ、『太平記』では弟の成良親王等と毒殺されたとされる。「世尊寺行房」もこの「金ヶ崎城の戦い」で亡くなっている。新田義貞は福井市郊外の藤島の戦いで討死して、福井市郊外の新田塚に葬られた。
「浄算」の子の「慶運」については興福寺の国宝北円堂の本尊像の弥勒如来立像の胎内に建暦2年(1212年)の年号が記載された願文が納入されており、台座内に源慶、静慶、運賀、運助、運覚、湛慶、康弁、「慶運」、康勝等の慶派仏師の名が墨書されている。その統率をしたのが運慶で運慶晩年の名作とされる。総持寺の千手観音像の作者とされる「慶派の七条仏所 幸賀 大仏師」についても平家に焼かれた「興福寺十大弟子像」の修復仏師の中に その名前が見られる。

■「後醍醐天皇」ー「世尊寺行房」ー「尊円法親王」ー「浄算」ー「慶運」と続く人脈からすると、後醍醐天皇が仏舎利を施入された時に「浄算」が慶派の「慶運」に依頼して仏像を解体して組み込んだものではないか? その時に主導したのは「浄算」で同時に胎内に署名した。青蓮院門跡「後鳥羽上皇の第七皇子の道覚」ー「尊円法親王」ー「浄算」の流れが見られるのは、この千手観音像の願主が「後鳥羽上皇」であった為ではないか? 後醍醐天皇は延元4年8月16日(1339年9月19日)に崩御され、後村上天皇が即位された。後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が妙法院門跡、天台座主に就任されていたが、南朝の為に還俗されて興国三年(1342年)越中に入られて、越中の石黒一族が奉迎して、後醍醐天皇の所領の牧野(新湊市)、赤丸浅井城(高岡市福岡町赤丸)、木舟城(高岡市福岡町木舟)に在城されたと云われる。
金剛寺の僧の禅恵は東寺長者文観を師としており、文観は最後は金剛寺の禅恵のもとに来てそこで亡くなった。東寺長者文観は後醍醐天皇の真言立川流の師で有り、その縁と武家政権を嫌う気持ちから、貴重な仏舎利を5粒も金剛寺住持持仏に施入されたのだろう。東寺は空海が唐から帰って朝廷から賜わった寺である。又、この寺は鞍馬寺を創建した藤原伊勢人が天武天皇から造東寺長官に任命されて建てたもので、東寺は藤原氏との関連も有る。河内金剛寺と関連が強い興福寺、仁和寺も藤原氏との関連が強い。「越中吉岡庄」は元々、藤原氏の庄園で、当時は後醍醐天皇の後院領で在った。
(※「河内天谷山金剛寺」:金剛寺は後白河院の第二皇子守覚法親王の時に仁和寺喜多院末(本寺)に編入され、興福寺大乗院門跡(本家)が六代に亘り院主職を兼務した。赤丸浅井神社を中心とした「越中吉岡庄」は後白河上皇の「後院領」で有り、「守覚法親王」は源義経の熱心な支援者であったと云われる。石川県と富山県の境界、赤丸浅井神社の立地する西山に連なる「石動山」も仁和寺末で在った。)

■この千手観音像にはこの他に「●●阿弥陀仏」という胎内名が沢山記載されている。この法名は「時宗」のもので、宗良親王は比叡山の天台座主から還俗された後に、時宗に改宗し、「尊澄法親王」となられて極楽寺を五位庄極楽谷に創建された。小矢部川流域の石黒氏の所領にはこの時期に多くの寺院が建てられたと云う。(※「吉江の昔と今」福光町吉江村自治会発行 参照)
※運慶の弟子「快慶」も建久三年(1192年)から建仁三年(1203年)に及ぶ十年間は「巧匠安阿弥陀仏」(安は梵字アンを書く)と署名している。


🔴【平家の越中統治】「越中吉岡庄」に館を構えた平家の猛将【越中前司 平 盛俊】・【平 盛嗣 】⇒「平家物語」、「源平盛衰記」、「国吉小史」にも見える平家の猛将が統治した「高岡市国吉村」!!

2020-10-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
▼「越中吉岡庄国吉名」に館を構え「能登、越中」を統治したと言われる「平清盛」の家臣「越中前司平盛俊、平次郎兵衛盛嗣(盛次)」


「飛騨国治乱記」




■「後白河上皇」の庄園、「越中吉岡庄」の郷社の「延喜式内社赤丸浅井神社由緒」(※富山県立公文書館)に拠ると、その神領として「国吉郷26ケ村、赤丸村他25ヶ村、小矢部市宮島郷二ケ村を含む53ケ村」とされ、勅書によって「毎年、各戸から米一升を集めた」とされる。
その「国吉郷」は鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に拠ると「国吉名」とされ、その「国吉名」には平家の猛将「越中前司 平次郎兵衛盛嗣」が館を構え「越中、能登二国」を統治したと「国吉小史」に記載される。父の「平盛俊」も安元元年(1175年)に越中守に任じられ、治承四年には強盗を捕縛して名を挙げている。
高岡市国吉の岩坪の村外れに由緒ははっきりしないが「居館跡」とされる敷地と墓地が遺されている。
この武将は「平家物語」や「源平盛衰記」にも登場し、平家武鑑にも記載されるが、高岡市では知る人は少い。

■【平清盛】は「保元の乱」で勝利した「信西」を殺害して政権を建て、「後白河上皇」が建立された「蓮華王院」に「三十三間堂」を寄進した。「後白河上皇」は「三十三間堂」に「一千一体」の「千手観音像」を祭って自らの持病の頭痛の快癒を祈願された。
(※「平治の乱」)




▼「楊枝の御加治」と呼ばれる法事が現在も三十三間堂で執り行われている。後白河上皇の頭痛は「熊野社」の僧が「柳の下」に埋もれていた事が原因とされて、その柳は伐られて三十三間堂の建物の部材に使用されたと言う。

「越中吉岡庄の歴代領主」


🔽「平清盛」は「平盛俊」を北陸統治の為に「越中国国吉名」に配置した。平盛俊は国吉名に拠点を置き、「越中」・「能登」を統治して【越中前司】(越中の前の国司)と呼ばれている。「平家物語」には、「平盛俊」が「源義経」の事を「背が小さくて出歯の男」と説明している。
(※「国吉小史」、「平家武鑑」)

🔽「越中国国吉名」は、「後白河上皇」の庄園「越中吉岡庄」と呼ばれた赤丸村の鎮守社【赤丸浅井神社】の神域で在り、「53村」が含まれていたとされる。
「吉岡庄」には「国吉名」、「赤丸村」、「宮島郷」が含まれていた様だ。
➡小矢部市に在った「宮島郷」は鎌倉幕府将軍藤原頼経の父親の「藤原道家」の庄園で在った。(※「鎌倉遺文」)

(※「赤丸浅井神社由緒」富山県立公文書館所蔵)


















🏯🐎📃「織田信長」の越中包囲網⇒美濃の根尾一族の越中・加賀・越前での一向衆との戦い!!

2020-10-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■越中と飛騨の境の「飛騨口」・越前大野と石山本願寺の間・越中砺波郡には織田信長配下の「根尾氏」が配置され、能登畠山氏の眼前の高岡市「守山城」には「織田信長の妹」が神保氏張の妻として送り込まれた。神保氏張は能登畠山氏から神保氏の養子となった人物だった。

青線は郡上八幡経由の車の時間⇒「根尾谷 薄墨桜」



■「越前大野城」・「岐阜高山城」には織田信長配下の「金森氏」が配置された。
(※「越前大野城」大野市歴史博物館)


■石山本願寺の浄土真宗顕如は織田信長の勢力が強くなり、当初は軍資金の調達等でも無理難題を聞いていたものの、信長と不仲になった足利義昭の信長追討令も有り、元亀元年(1570年)に本願寺と織田氏が交戦状態に入った「石山合戦」が始まり、信長に対する戦闘指示を全国の門徒に発令した。本願寺顕如は、1557年、近江に勢力を持つ六角定頼の養女の如春尼と婚姻したが、この実姉が武田信玄の正妻の三条の方であった。1571年、顕如は朝倉義景の娘を長男教如の妻とした。1571年には織田信長軍の明智光秀は比叡山を焼き討ちして衆徒3000人を殺し、1573年3月に武田信玄が急逝すると、同年8月には朝倉義景、浅井長政を攻め滅ぼした。元々、織田信長の先祖は越前織田町の「剣神社の神官の養子となった平家の子孫」とも「忌部氏」ともされ、朝倉、織田は両者共に足利幕府斯波氏の家臣であった。やがて、織田氏は尾張で守護代として勢力を拡大して天下を狙う様になる。武田信玄や朝倉義景と縁組した石山本願寺は当然の成行として織田信長の敵となる。加えて、越中では一向衆の勢力拡大に対して守護の畠山氏と越後の上杉謙信が提携。上杉謙信と織田信長は武田信玄に対抗して提携する様になる。元々、越前朝倉氏は越前と加賀の境に在った興福寺庄園河口庄の地頭であり、古い宗教勢力である藤原氏の氏寺の興福寺からの依頼を受けてこの地を治めていたが、税の未納があった為に、かねてよりの興福寺大乗院と真宗の蓮如の師弟関係から、この地の吉崎と言う場所に真宗の布教拠点の「吉崎御坊」の開設を認めたと言う背景があった。従って、越前朝倉氏は古い宗教勢力と新しい宗教勢力の浄土真宗の両方に接点を持つ様になる。だが、当初は穏便にしたい蓮如が信徒の暴発を抑えたものの、やがては一向一揆は各地に拡がりを見せる。古い宗教勢力の比叡山も織田信長の圧迫に激しく抵抗をして、やがては織田信長の焼き討ちと云う悲劇を迎える。しかし、浄土真宗の中では必ずしも全てが「反織田信長」ではなく、一向一揆衆は、浄土真宗でも越前に多くの信徒を持った「高田本山派」や「三門徒派」の寺院も襲撃して焼き討ちにしたと云う。この様な複雑な情勢の中で、織田信長の妹は能登と越中の境に近い「高岡守山城」の神保氏張の妻として送り込まれ、飛騨金森氏の配下の根尾氏は越中と飛騨の境の飛騨口を抑え、又、この根尾氏は越前大野から石山本願寺に向かう越前口を抑えて警戒体勢を取っていた。「岐阜県歴史資料館」発行の「織田信長と岐阜」には、織田信長がこの「根尾氏」に発給した三通の「織田信長文書」が紹介されている。

●一)1通は【元亀二年十二月、根尾右京亮他二名宛、加賀、越前より大坂石山本願寺に通じる道を押さえる様に命じたもの、荷物や身体を絡めとれとする命令書。】
(※森本京子文書⇒ 岐阜県歴史資料館 に寄贈)

●二)1通は【天正二年五月、根尾右京亮他二名宛、越前国大野郡内小山七郷・同公文跡職を任命したもの。】(※根尾友四郎家文書→富山県砺波市文化財)

●三)1通は、【天正二年六月、根尾右京亮他二名宛、織田信長が徳川家康の応援に遠州へ出馬している間に、越前一向一揆が美濃へ侵攻しない様に飛騨口で防ぐ事を命じたもの。】(※富山県高岡市高尾宗豊氏文書)がある。

■「根尾氏」は「薄墨桜」で有名な岐阜県根尾谷を発祥とする一族で、織田信長に従った国人領主で、織田信長の重臣の金森氏に従って一族の一部は「金森」を名乗り、飛騨高山城、越前大野城に拠点を構えた「金森氏」の重臣として活躍したとされる。「薄墨桜」もこの根尾氏の「墓標」ともされる。富山県では砺波市に子孫が帰農したとされ、チューリップ栽培を振興し、中越銀行の創設にも貢献したと云う。

■又、「岐阜県歴史資料館」にある「元亀二年 西尾小六宛知行安堵朱印状」によると、この西尾小六は元々斉藤道三の家臣だったが後に織田信長に仕えた人物で、この頃、織田信長は将軍足利義昭の裏工作で浅井、朝倉、六角氏の残党、三好三人衆、甲斐武田氏、本願寺等の反信長派に包囲され、その包囲網を撃ち破る為に激闘し、九月には一揆の籠る近江金ケ崎城を撃破し、六月には三重県長島の一揆を壊滅させ、継いで「比叡山延暦寺」を攻撃した。この文書は西尾小六に「多芸郡」(現在の養老郡)から軍の資金を徴収する様に指示したものである。

■当初、一向一揆は穏やかな一揆であったが、蓮如の忠告も聞かなくなり、各地で蜂起し始めると、本願寺側では坊官の下間氏が武闘派の先頭に立ち各地で戦闘が激化する。越中五位庄の長光寺は一向衆の拠点となり、「赤丸浅井城」には「法橋下間和泉」が入城して、五位庄には一向一揆衆が集結したと云う。「五位庄」の領主は高岡市柴野城の「寺島牛介」であったが、この時はこの主家の「神保氏張」が高岡市守山城の城主であった。「神保氏張」は織田信長の妹を妻としていたが上杉謙信に敗れてからは、上杉家臣となっており、織田信長からは妻と離縁させられたと云う。


🔴📚 越中の【織田信長文書】 と美濃【根尾氏】⇒『岐阜県歴史資料館』の高岡市関係の古文書と調査!! !

2020-10-30 | 富山県高岡市










●「岐阜県歴史資料館所蔵」の『織田信長文書』の 解説!!
高岡市内の古文書の組織的調査すら行われて来なかった高岡市の実態!!

「岐阜県歴史資料館」には『織田信長から美濃の根尾谷の根尾氏への文書』が残されている。同様の文書は「砺波市文化財」の信長から根尾氏への文書と、高岡市二塚の「名越氏」創建の【二塚白山神社】に保管されている二通が富山県内に在る。先頃、白山神社高尾宮司からの御依頼でこの文書の解読文を依頼されたので、この「岐阜県歴史資料館」発行の文書もお届けした。
この文書は越中に潜む根尾氏に対して、【井波瑞泉寺の一向一揆衆が越中の飛騨口から美濃へ侵入しない様に警戒する様に】と命ずるものだ。
(※「根尾谷」は「薄墨桜」で有名だが、この桜の大木は根尾氏の墓標ともされる。)


■高岡市では高尾氏文書については未調査。岐阜に在る信長文書は「岐阜県歴史資料館」に寄贈され、砺波氏の根尾氏所蔵の文書は「砺波市文化財」に指定されて保存が図られている。
高岡市「二塚白山神社」保管の一通は所蔵者すら中身を御存じ無くて、高岡市では全く知られていない様だ。

🔴【毎年11月15日御開帳】高岡市関町「総持寺」の 「国指定重要文化財 木造千手観音座像」に関する争論⇒間違いだらけの「歴史書」を糺す❗

2020-10-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●高岡市関町「国指定重要文化財木造千手観音座像」の「胎内名」!!



「富山県史」には昭和39年に解体修理した時のこの千手観音像の胎内名写真が掲載されている。
しかし、「高岡市史」、「福岡町史」等の「史書」にはこの解説が誤って記載される。

■「藤原浄円 大壇那」については鎌倉幕府評定衆の「斎藤長定入道藤原浄円」の事でこの仏像のスポンサーで在る事は明らかだが、何れの史書でもその解説は明確では無い。



■中央部に記載される「金剛位理乗 本願聖人」は「後鳥羽上皇の法名」だが、各史ではこの法名を南北朝時代の「長慶天皇」の法名として理解されている。「後鳥羽上皇」の法名は「金剛位理 (良然)」、「長慶天皇」の法名は「金剛理 (覚理)」で在り、良く似ている事と、この仏像が「南北朝時代に製作された」と言う先入観からの学会での誤りであり、それは別の部位に記載される南北朝時代の河内金剛寺の高僧「禅惠」の胎内名に基づいている。この仏像はその胎内名を調べると明らかに「鎌倉時代の製作」で在る。

「越中吉岡庄の歴代領主」


■「仏所 幸賀 大仏師」に付いては各史では「仏師 幸賀 大仏師」と解説しているが、実は「仏所」は鎌倉時代に京都駅前に在った「慶派仏師」の工房の「七条仏所」の事で在り、専門家である歴史の大家や学会が「この千手観音像の製作時期が南北朝時代である」と決めてかかった事からの誤りである。

🔽「七条仏所跡」(JR西日本京都駅前)


この「幸賀」は平家に焼かれた「興福寺修復仏師」の中に見られる慶派仏師の事だが、これについても文化庁の学芸員すら「大仁坊幸賀」と言う仏師の事だと解説している。
又、その隣に記載される「同 頼真 小仏師」に付いては「東大寺太鼓修復絵仏師」の中に「絵仏師」として記載される。(※「筑波大学データーベース」)この仏師は平家に焼かれた「興福寺」や 「東大寺」の仏像修復の為に集められていた「南都絵所」と呼ばれた京都の絵仏師の工房の所属の絵仏師である。
「仏師」には木造りを担当する「木仏師」と、彩色を担当する「絵仏師」が在る。当時は分業で行われていたが古くは木仏師が彩色迄行っていた様だ。ここでは、同列に「幸賀」と「頼真」が記載される事から、この二人は共に「絵仏師である 」と学会では決めつけている。しかし、当時は平家に焼かれた大量の仏像修復の為に相当の仏師が京都に集められていた様で在り、「木仏師 の幸賀」と「絵仏師の頼真」のペアーの製作と言う事は考えられないのだろうか?

■この仏像の解明には幾つもの前提条件の誤りが在る。
①胎内銘の別の部位に「正平八年 御入」と記載される事から、初めからこの仏像が「南北朝時代の製作で在る」とされた事。
しかし、この「御入」は、河内金剛寺から南北朝の戦火を避ける為に越中の後醍醐天皇の庄園の「越中吉岡庄(赤丸村)」に在った「総持寺」に「御入り」に成った事を指すものであり、「製作年代」の事では無い。
②文化庁では「この仏像の胎内銘は全て同一時期に記載された」と決めつけているが、他の部位の記名の筆跡は誰が見ても同一人の記名には見られない。その原因は「胎内に記載される記名は全て同一時期に記載された」と する前提条件から来る誤りで在り、この仏像が鎌倉時代に製作されて、長く河内金剛寺の住職が持仏として金剛寺摩尼院(金剛寺住職の宿所)に祀っていた仏像を南北朝時代に慌てて越中の後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」に動かしたとすれば、その矛盾は解決する。
河内金剛寺には「後醍醐天皇の綸旨」が残っており、それによると「京都の東寺保管の空海所縁の仏舎利五粒を金剛寺住職の持仏に納めた」と記載されており、現に総持寺の仏像の胎内には「奉納 仏舎利」と二ヶ所に記載されており、東寺長者「文観」と「後醍醐天皇」が併せて「五粒」を納められたとする記載にも符合する。
③大前提として、東京大学資料編纂所では「越中吉岡庄」は「射水郡に在った」と理解している事である。「東大寺文書」に鎌倉時代の「沙弥迎蓮書状」が在り、それに拠ると源頼朝家臣の「迎蓮」(※相良頼俊)が「当家知行分蓮華王院越中吉岡庄」と記載しており、その「吉岡庄」の部分には編纂所が「新川郡」とわざわざ註記している。
東京大学では「吉岡庄」を富山市吉岡村の事だと決めつけているが、この「吉岡庄」は歴史的に「京都上賀茂神社、下鴨神社」の庄園で在った時代が二回も在り、国立歴史民俗博物館に協議を依頼した所、【富山市吉岡村は歴史的に賀茂神社との関係は見られないが、高岡市福岡町赤丸から加茂村にかけては往古、「上加茂社」、「下加茂社」が在り、その跡地とされる場所が在り、又、「富山県史」でも「吉岡庄は高岡市福岡町加茂村周辺が有望」としている事から「越中吉岡庄は高岡市福岡町」と結論付けて平成26年には「庄園データーベース」を訂正した。】との解答が在った。この決定は大きくて、それまでの誤解がこの前提条件で検討すると全てがクリヤーに成る。



④高岡市内の在家には「総持寺千手観音像の胎内仏」が祀られており、その所有者に確認した所、「鑑定して貰った所、鎌倉時代の製作と言われた」との解答が在った。
⑤「仏像史」や「美術史」等の専門家は、従来、「この仏像は南北朝時代の製作」と言う前提条件から論評を加えており、誰もが「膨大な胎内名」の調査を行っていない。又、エックス線調査等の科学的調査も行われておらず、胎内名の「禅惠」以外の部分については殆どが未調査で在り、更には様々の前提条件の誤りが在って全くちんぷんかんぷんの解釈が従来行われていた。
⑥この千手観音像が昭和12年に国宝に指定された時には「仏像史」や「美術史」の専門家がタッチしておらず、「南朝顕彰」のムードの中で「国宝に指定された」と言う背景が在ると言う。
「越中吉岡庄」が「後白河上皇、後鳥羽上皇~後醍醐天皇へと続いた上皇固有の庄園の後院領」で在り、その場所は「高岡市福岡町」で在ったと言う前提条件からすれば、これ等の誤解は忽ちに解決される。又、この「吉岡庄」の中核施設が「五位庄総社 延喜式内社赤丸浅井神社」とその隣接地に在った「赤丸浅井城」で在り、「利波郡」の郡司の家系の「利波臣」から「越中石黒氏」と続いた一族が「赤丸浅井城を代々居城にした」とされる古書の記載を重ねれば、問題点は消滅する。
(※「富山県西砺波郡紀要」)
⑦古くから「延喜式内社赤丸浅井神社」とその末社の「石堤浅井神社」との間に争論が在り、「本来は赤丸浅井神社の末社で在った石堤浅井神社に吉田神道が神社簒奪の為に介入した」事から「加賀藩が赤丸浅井神社に裁定を下す迄激しい争論が在った事」、又、明治維新の時の廃仏毀釈運動が吉田神道の「高岡市関野神社」の主導で進めらた事から「門跡寺院聖護院末」で修験道で在った「川人山鞍馬寺」の伝統を受け継いだ「赤丸浅井神社」も強制的に「唯一神道として再出発せざるを得なかった事」から赤丸浅井神社は不利な立場に追い込まれて、そのドサクサの間に再び「石堤浅井神社の清水神官」は「延喜式内社、郷社」を名乗り始めた。
この事が「二つの延喜式内社浅井神社」として現在も混乱を生んでいるが、元々は高岡市関野神社が主導した廃仏毀釈運動に便乗した「歴史の詐称」で在り、石堤村を管内にしていた旧高岡市では前田家の氏神とする関野神社や石堤浅井神社の立場に立ってこの二社を「論社」と呼び同列にしようとする企みが現在も続いている。因みに現在の「赤丸浅井神社」の扁額は「加賀藩第十三代前田斎泰」の揮毫による。
かつて、「前田利家」は豊臣秀吉の「方広寺」建立の時に多額の寄進もしており、「門跡寺院聖護院」の隠居寺としての「方広寺」と聖護院末寺の「川人山鞍馬寺」・「赤丸浅井神社」との関係を知る加賀藩藩主としては、「前田利長」を氏神として暴走する「吉田神道関野神社」を留める為に、「浅井神社」の記毫を社殿に掲げさせたものと見られる。加賀藩としても、「徳川政権」がかつて「方広寺」の住職を毒殺したと云われる位に対立していた為に、「徳川の回し者」の「吉田神道」へは警戒感が在ったものと見られる。「吉田神道」は「唯一神道,卜部神道」とも云われ、徳川家康が明神号をもって吉田の唯一宗源神道による祭祀を主張した金地院崇伝に対し一時期傾倒していた為に墓所が静岡県の「東照宮」とされたが、その後、江戸上野の寛永寺天海僧正に対しても家康が信仰をしていた為に、改めて仏式で「日光東照宮」に祭られたと云う。「徳川幕府」は、「諸社禰宜神主等法度」を定めて卜部氏の「吉田神道」に全国の神官の任命権を認めて、「佛教勢力」への牽制を行っていた。これに対して朝廷は「伊勢神道」、「白川神道」をで在った為に、全国で「吉田神道」が本来の「神祇官」で在った「白川神道」を圧迫する状況が出て来た。卜部氏は元々、中臣氏と共に朝廷での祭祀を司っていたが、「大鏡」に拠ると、「鹿島神道」、「春日大社」の流れが「吉田神道」に繋がったとされる事から、皇室の祖先神を祭る「伊勢神道」とは元々、流れを異にしていた様だ。この「吉田神道」が徳川政権に依って朝廷への牽制に利用された様だ。しかし、反面で「吉田氏」は、歴史的にも陰に陽に朝廷に仕えており、「後白河上皇」は近侍した「吉田経房卿」に命じて、上皇の庄園「越中吉岡庄」へ頼朝が配置した地頭を「不法を働いたから辞めさせる様に」と云う内容の勅書を遣わされている。(※「吾妻鏡」)

























🔴【越中五位庄総社延喜式内社赤丸浅井神社】と【万葉集】に名前を遺す二人の歌人「大伴家持」・「石川朝臣広成」!!!!

2020-10-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




🔽「大伴家持」の歌
【朝床にきけばはるけし射水川(※小矢部川) 朝漕ぎしつつ唄う舟人】
⇒「延喜式内社赤丸浅井神社」の前を流れていた【小矢部川】を河口の国司館で詠んだとされる。





■【越中国司大伴家持】が勅使として参詣していた「国幣小社延喜式内社赤丸浅井神社」を創建された「石川朝臣広成」は「聖武天皇」の腹違いの弟。(※天皇家系図参照)
二人は共に「恭仁京」で「内舎人」という下役人を経験しており、共に「万葉集」に歌を遺している。
※【延喜式の国幣小社】は天皇の勅使の代わりに「国司」が神社への捧げ物(幣帛)を納める神社の事。「大社」は天皇の「勅使」が幣帛を納める神社。





▼聖武天皇は父を文武天皇、母を藤原不比等の娘の宮子として生まれ、後には藤原不比等と県犬養三千代の娘の光明子を妻とした。
文武天皇が藤原宮子を「夫人」とし、紀竈門娘(キノカマドノイラツメ)、石川刀自娘(イシカワノトジノイラツメ)を「妃」とした事が続日本紀に文武元年(697年)8月の項に記載されている。しかし、その16年後、和同6年(713年)の項には、「石川・紀の二嬪の呼び方を貶して嬪と称してはならない」と記載されている。




東大寺大仏造営の寄進者名簿には「越中石黒氏」の祖とされる「利波臣志留志」の名前が記載される。



「延喜式内社赤丸浅井神社」(※富山県高岡市福岡町赤丸)へ「東大寺庄園石粟庄」から「神田一段」が寄進された。
【重要文化財東大寺庄園図】






■「大鏡」に拠ると、藤原宮子の父の藤原不比等は実は天智天皇の子で、天智天皇(中大兄皇子)は蘇我入鹿を討った「乙巳の変」(※イッシノヘン) の時に協力した中臣鎌足にその功績を賞して自分の愛妾を授けた。がその時には愛妾は妊娠しており、天智天皇は「男の子なら自分の子とせよ」と鎌足に命じたと云う。その時生まれた男子が藤原不比等であった事が「大鏡」に記載されている。この「乙巳の変」では元明天皇の祖父の蘇我倉山田石川麻呂が中大兄皇子・中臣鎌足に味方し、素知らぬ顔で上表文を読み上げていた時に中大兄皇子と佐伯子麻呂が蘇我入鹿に斬りかかったと云う。しかし、蘇我倉山田石川麻呂は維新政府で右大臣に任命されたものの、ついには中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀で自殺に追い込まれたと云う。
藤原不比等はなりふり構わず孫の首皇子を天皇にする為に嬪の紀竈門娘と石川刀自娘を廃妃に追い込んだ。紀竈門娘は不貞を理由に追放され、石川刀自娘は臣籍に降下させられ、皇子の広成も家臣として扱われた。石川朝臣広成は天平十五年(743年)に内舎人、天平宝字二年(758年)八月に従五位下・但馬介。


🔽【続日本紀】
《天平宝字4年(760年)2月》【従五位下石川朝臣広成】「高円朝臣」と賜姓。高円朝臣広成を少輔に任ず。(※赤丸浅井神社創建の親王「石川朝臣広成」⇒文武天皇の二宮、聖武天皇の義弟。)
《天平宝字4年(760年)6月》光明皇太后(聖武天皇の皇后)没。
《 5年5月 》従五位下高円朝臣広世を摂津亮とす。
《 6年4月 》従五位下高円朝臣広世を山背守とす。
《神護景雲二年(768年)二月癸巳》○癸巳。 従五位上高円朝臣広世為周防守。

🔻万葉集に【石川朝臣広成】の歌3首の掲載がある。

🔽万葉集巻四の[696番]に 
「家人(いへびと)に恋ひ過ぎめやもかはづ鳴く泉の里に年の経ぬれば」
※「泉の里」とは山城国相楽郡、泉川(現在の京都府木津川市加茂地区)流域の地で恭仁京(くにきょう)の所在地。恭仁遷都は天平十二年(740年)。

🔽万葉集巻八の【1600番】に 
「妻恋ひに鹿はるけし(か)か鳴く山辺の秋萩は露霜寒み盛り過ぎゆく」
※配列から天平十五年(743年)秋の作。鹿とはシカの事で雄はシカ、雌はメカと呼ばれていた。後に全体をシカと呼んだ。

🔽万葉集巻八の【1601番】に 
「めづらしき君が家なる花すすき穂に出づる秋の過ぐらく惜しも」

⇒これを受けて
🔽[1602番]には【大伴家持】の 
「山彦の相とよむまで妻恋に鹿鳴く山辺に独のみして」 
が載せられている。


🔴🏯【南朝の牙城】の【赤丸村 ⇒「後醍醐天皇」が吉野に逃れる時に奈良県五条市賀名生アノウの民家に宿泊され、そこで、南朝の旗幟の「金地に赤丸の御旗」を描かれたと言う。

2020-10-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「南朝の牙城」の富山県高岡市【赤丸村】の由来?
⇒「明治維新政府」の【南朝を正統とする議決】の経緯。



■南朝の「後醍醐天皇」は吉野に落ちる時に旅の途中の賀名生の「堀家」に「南朝の旗標」の「赤丸の御旗」を残された。南朝軍を指揮した「後醍醐天皇」の皇子達は「金地に赤丸」の軍配を使用して指揮されている。又、「後醍醐天皇」は自らも「真言宗」の「大日如来」を示す「日の丸」を冠に着け、空海が唐から持ち帰ったと云われる「東寺の重宝の袈裟」を掛けて、東寺長者「文観」より授けられた「真言宗立川流の秘技」を以て幕府の懲伏を祈られたと云う。
(※「堀家」は越中石黒氏の一族に見られ、「後鳥羽上皇」が起こされた「承久の乱」の時に都へ攻め昇った「越中吉岡庄」の地頭の石黒氏と見られる。石黒氏は「承久の乱」に敗れた為に、全員が越中に帰参できずに各地に散り、途中の越前では帰れなくなった一族が後に越前朝倉氏の家臣等に成っている。)



■南北朝時代には、越中の「石黒重行」が、「後醍醐天皇」の皇子の「宗良親王」を興国三年に越中に御迎えしたと伝わり、「後醍醐天皇」の庄園の「吉岡庄」に在った石黒氏の居城の「赤丸浅井城」、「親王屋敷」に入城されて、「木舟城」・「福満城」等の南朝軍を鼓舞されたと云う。)
「承久の乱」で敗れた「石黒重行」は、東北に逃れて、その後、「長谷川」と名を変え尾張国如意郷(※名古屋市西区。近くには佐々成政の生家の「比良城跡」が在る。)に「如意城」を造り、代々、織田家、豊臣家、徳川家、前田家、池田家等の各地の武将に仕官して、或は「石黒氏」として、或は「長谷川氏」として全国に名を遺している。





■後醍醐天皇は空海が唐から持ち帰られた「東寺の重宝」の「袈裟」を身に付け、冠には「赤丸=太陽」(※真言宗では大日如来)をつけた異様な姿で、真言宗立川流の秘法を以て、足利氏の懲伏を自ら行われた「異形の天皇」と言われる。「越中吉岡庄」は後白河上皇以来、後鳥羽上皇、後醍醐天皇等の天皇家庄園で在ったが、これ等の歴代天皇は「天皇親政」を目指されたものの、その時の幕府により島流しの憂き目に会って涙を流された。明治政府は教科書制定の必要性から「南朝を正統とする議決」を行い、「天皇親政」を実現する事を目指した。










■1911年(明治44年)1月19日付の読売新聞社説は「もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし。何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや」「日本帝国に於て真に人格の判定を為すの標準は知識徳行の優劣より先づ国民的情操、即ち大義名分の明否如何に在り。今日の多く個人主義の日に発達し、ニヒリストさへ輩出する時代に於ては特に緊要重大にして欠くべからず」と主張して天皇の位置づけを主張して「南北朝正閏問題」に火が付けられた。

【南北朝正閏問題】
政府と対立する姿勢を鮮明にした犬養毅率いる野党の立憲国民党がこの問題を利用して第2次桂内閣の糾弾・打倒を図った為、南北朝のどちらの皇統が正統であるかを巡る帝国議会での政治論争にまで発展した。1911年(明治44年)2月には衆議院議員の藤澤元造がこの問題を追求する質問主意書を提出。藤澤は議員辞職に追い込まれ、政府は野党の懐柔工作に失敗して窮地に追い込まれる。桂の後見役である元老・山縣有朋が南朝正統論の立場で動いた為、政府は野党や世論に押される形で教科書改訂を約束し、教科書執筆責任者である喜田貞吉を休職処分とし、最終的には水戸光國の『大日本史』の「南朝正統論」の記述を根拠に、明治天皇の裁断で三種の神器を所有していた南朝が正統であるとして、南北朝時代は南朝が吉野にあった事に因んで「吉野朝時代」と呼ばれる事に成った。帝国議会では後醍醐天皇所縁の「賀名生行在所」の保存も議決され、教科書表示も「南朝正統論」で記述されたが、その後も一部の学者は「吉野朝」の表記に対して抗議して南北朝正閏問題は帝国議会で議論されている。(※「帝国議会議事録」,「Wikipedia」)






🔴【加賀藩の地図から消された赤丸村】⇒何故、加賀藩の地図には「越中五位庄赤丸村領」の「三日市村」しか記載されないのか?!!

2020-10-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


■【地図から消された赤丸村の歴史】
南北朝時代に大和国宇陀郡から「越中吉岡庄」に移り住んだ越中刀工の「宇多鍛冶」に就いて加賀藩時代の系図、資料には「吉岡庄三日市に住す」とある。これは実は、「赤丸村鍛冶屋町島」の事で在り、現在の高岡市は「加賀藩史観」に基づいて「三日市」としているが、実はこれには歴史的に事情が在る。加賀藩時代には「三日市村」に加賀藩の御蔵が在った事と、「赤丸浅井城主中山直治」が「能登末森城」で「前田利家」と戦った敵陣の「佐々成政軍」で在った為か、実際には「赤丸村領三日市」で在ったが、加賀藩時代の地図には「赤丸村」を記載せずに「三日市」とのみ記されている。



■嘗て、赤丸自治会連合会が高岡市の「西山歴史街道」の事業で補助金を受けて赤丸村の観光案内版を建てた。赤丸村の「性宗寺」の後の氷見バイパスの脇(※コンビニ フアミリーマートの向かい側)には巨大な看板を建て、旧赤丸村の青年、老人会がボランテイアで各地に看板を建てた。
「鍛冶屋町島」に「宇多鍛冶」が工房を構えたとされる事から、赤丸城ケ平山の山裾の五位庄用水沿いには、「総持寺跡」、「天景寺跡」と並んで「鍛冶屋町島」の看板が建てられている。嘗ては、「赤丸城ウオーキング」等も高岡市の行事で行われ、西山歴史街道の見学会も度々行われて、「歴史都市高岡」のアピールの為に地元を挙げて協力した。
「赤丸村」と合併した「福岡町」の「福岡町史」や「小矢部市史」等の地図に「吉岡庄三日市」とのみ記載されている事については、歴史的に「赤丸村」が加賀藩と「能登末森城の戦い」で戦った時期が在った為に、藩政時代は加賀藩の「御蔵」が在った事も在ってどの地図にも「三日市」しか表示されていない。
「赤丸村」が高岡市に合併された後にも、未だ高岡市の史料には「宇多刀鍛冶のルーツは吉岡庄三日市」と記されている。
嘗て、「福岡町歴史民俗資料館」の館長や赤丸小学校の教師も勤められた「地崎淳一先生」はその著書の中で、【宇多刀工が移り住んだ赤丸村鍛冶屋町島】に就いて正確に記載されているが、赤丸村が高岡市に合併されて仕舞うと、又々、反動勢力が勢いを増して、近年の高岡市の著作物にも「吉岡庄三日市」と記載される様になった。
高岡市は全て「加賀藩の歴史観」に基づいて「高岡市史」等も編纂しており、その思想は加賀藩時代の書籍にも深く反映されており、歪曲、脚色された歴史観が現在も未だ展開されている。



■加賀藩が参勤交代の時に使用していた【参勤交代道中絵図】には、【赤丸村】が消され、加賀藩の御蔵が在った小集落の【三日市】のみが記載されている。【赤丸浅井城】の城主「中山直治」は「高岡守山城神保氏張」、「柴野城寺嶋牛介」、「木舟城佐々成政家老佐々平左衛門」は、「能登末森城」で「前田利家軍」と戦った。「佐々成政」が降伏すると、「加賀藩」は占領軍として【(赤丸浅井城)の城下の赤丸村西円の住民達を高岡市和田村の開発の為に強制移住させ】、【赤丸村の名刹で在った「長善寺」を三分割して福岡町「長安寺」と和田村の「善宗寺」に分割して門徒を移住させた】と「城端別院文書」に記載される。(※「富山県立公文書館」所蔵文書、「和田善宗寺文書」)
これ等の占領政策の後も幕末に至る迄、赤丸村舞谷や鳥倉村等には75%もの酷税をかけ続け、その他の小矢部川以西の赤丸村等には60%以上の酷税をかけた。(※加賀藩の標準は「四公六民」で在り、概ね40%が標準で在った。)
その結果、加賀藩は赤丸地区を「占領地区」として地図上からも消したものと見られる。













■「越中五位庄」の「赤丸村」は藩政時代は「三日市村」・「西村」・「高田島」を含んだと云う。「赤丸村」は全国的に有名な「宇多国光を祖とする宇多刀工の里」で在り、「高田島村」は「越中石黒一族の高田氏の所領」だったと云う。




■「高田島の由緒」は「福光町吉江村の歴史」に記載されている。




・越中山田郷下野村に「高田喜右衛門家」が有り、その過去帳に「木舟之城主石黒左近殿家臣高田孫兵衛由緒」として、『佐々成政に敗れた木舟城主石黒左近は江州(近江)に移り、その後、佐々平左衛門が居城したが、天正十三年には再び石黒左近が木舟城主となった。この時に石黒左近の家臣「高田孫兵衛」は後の赤丸村領高田島の地に居住していた事から現在の「高田島」という地名が残った。』と記されている。「高田喜右衛門」が元和元年(1617年)に開いたのが「下野村」である。
【註】「吉江の昔と今」福光町吉江自治振興会

🔴「大伴家持系図」と『越中国吉岡庄』の「東大寺庄園越中杵名蛭村墾田地」(※高岡市立野)!!

2020-10-30 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■「東大寺越中杵名蛭村墾田地」について、平成29年、「国立歴史民俗博物館」は「庄園データーベース」の記載に「富山県高岡市立野」を推定位置として加えた!!













■「越中吉岡庄」
「吉岡庄」の郷社「延喜式内社赤丸浅井神社」は、室町時代以降の「五位庄」の時代には「五位庄53ヶ村総社」とされ、加賀藩時代には57ヶ村で在ったという。「赤丸浅井神社」の神領は明治の初頭には、「国吉郷」、「赤丸村」、「小矢部市宮嶋郷2村」で在ったとされ、加賀藩時代には「高田島地区、三日市地区」も赤丸村に含まれていた。現在の浅井神社は立野の隣接地「東石堤地区」、「池田島地区」等が管轄下に在り、「高岡市和田」も赤丸村住民が開いたと云う。高岡市関町辺りは浅井神社の門前に屋敷を構えた「池田市右衛門」の所領で在ったと伝えられ、古代の石黒氏は「赤丸浅井城」に代々城を構えていたとされる事から、古くは「利波臣」、「越中石黒氏」の所領と密接な神社で在ったと見られる。浅井神社は「五位庄総式」とされる事から、室町時代の「五位庄」は小矢部川河口の一帯から福野、福光町迄の範囲が「五位庄」とされていた。

🔽「室町時代の越中絵図」(※「畠山文書」羽曳野市資料叢書)

「赤丸浅井城」には「絵図守護畠山持国」の記載が見られる。

■富山県西部の大河で在る「小矢部川」は、「庄川」が「雄神川」と呼ばれたのに対して、「女神川」とも呼ばれていた。庄川の上流には「雄神神社」が在り、小矢部川流域には「小矢部市宮島郷」に「延喜式内社比売神社」が在り、小矢部川中流に在る「延喜式内社赤丸浅井神社」は古代からの宿「川合駅」に鎮座してその神は皇室八神の一の「高皇産霊神タカミウブスナノカミ」(男神)と出雲系の神で大河の鎮守の「八河江比売」(女神)を祭る。庄川は急流で在り猛々しく、小矢部川は庄川の流れを受ける排水路で在りゆったりと流れる大河で在った事から、この様に呼ばれたと云う。又、古くは「小矢部川」と「庄川」が「延喜式内社赤丸浅井神社」の前で合流しており、その合流点は「阿光ヶ淵」と呼ばれ、その下流が広かった事から以降の小矢部川河口の伏木港に至る迄の範囲を「射水川」と呼び、又の名は、小矢部川河口の「六渡寺村(六動寺村)」の名前から「六渡(動)寺の渡り」、「如意の渡り」と呼ぶ川下りルートで在った。「万葉集」にはこの「射水川」を漕ぐ舟人が歌を唄うのを越中国府で聞いた「国司大伴家持」が歌を遺している。

🔽「延喜式内社赤丸浅井神社」(※富山県高岡市福岡町赤丸)の祭神は「皇室八神の内の一柱」で「大伴氏、佐伯氏」の祖先神「高皇産霊神」!!


【朝床に聞けばはるけし射水川 朝漕ぎしつつ 唄う舟人】













■『越中吉岡庄』(※南北朝時代末から「五位庄」)の「郷社延喜式内社赤丸浅井神社」

「延喜式内社赤丸浅井神社」ヘは庄川流域に在った「東大寺庄園石粟庄」から「神田一段が寄進された」事が国宝東大寺庄園図に記載される。この頃、「越中国司大伴家持」は東大寺庄園の開発状況を視察に来た東大寺の僧「平栄」を出迎えて歓迎の宴を開いた事が万葉集に記載されている。この頃、「越中利波郡郡司利波臣志留志」は盛んに「東大寺庄園の開発」を進めており、「東大寺庄園図」にもサインを遺している。「利波臣志留志」は聖武天皇の「東大寺大仏造営の祈願」に呼応して「米五千石」(※「東大寺要録」)を寄進して、「大伴家持」の後に「越中国司員外介」に任じられて「国司待遇」を受けている。




■「大伴家持系図の石黒系図」(※安達正雄論文)には、【「越中志徴」記載の系図では「左近大夫持豊・福光八幡社を建立した持定」】と有り、射水市の「諏訪社御由緒調査書」では「住石黒郷、号石黒加志麻呂・上杉謙信に破れ能登一宮で死んだ出羽守・住湊村石黒数馬・住久々湊村兵亮」等の記載が見られるが部分的にしか残っておらず全体は判らない。しかし、石黒加志麻呂の系統は富山県新湊市の久々湊に住み、湊村も新湊市を指す様で、測量で有名な「石黒信由」が新湊市の出である事から、この系統が大伴家持の後裔とすれば新しい発見なのかも知れない。
(※「越中志徴」森田柿園著 富山新聞社発行、「金沢大学日本海研究所報告第9号別冊 安達正雄論文」 参照)
又、高岡市福岡町の石黒氏の居城の木舟城に在った「貴船社の由緒」は「大伴家持の後胤大伴右京持定の勘請なり」と言う由緒を持つ。大伴氏の勘請した貴船社が石黒氏の居城に在ったと云うのだ。この木舟城が東大寺杵名蛭村墾田地の西部に在ったとすれば「大伴氏の子孫が石黒の里(杵名蛭村?)に住んだ」と言う可能性も出て来るし、この事から推察すれば、石黒氏の中に大伴家持系の石黒氏がいた事も考えられるのだ。同様に、「越中志徴」の「福光八幡社」の由緒には「大伴宿弥家持越中守たるより、其の子佐近大夫持豊・其子右京亮持定代々福光に在城也。福光八幡社は、持定建立と云。」とし、森田柿園はこの事について「大伴家持の子の右京亮永主は隠岐に流されたと紀略に記載されており大伴家持の子孫が越中に残った形跡は無い」としている。
富山県射水市の元新湊市八幡町に大伴神官が奉仕される「放生津八幡宮」が有り、この神社は「聖武天皇の御世天平十八年大伴宿弥家持卿が越中国司として古国府に赴任中奈呉の浦の情景を愛し豊前国宇佐八幡宮を勘請して奈呉八幡宮と称した。」とする由緒を持つ。「宇佐八幡宮」は聖武天皇が東大寺大仏建立の時に宇佐八幡宮が全面的に協力すると申し入れた事から東大寺に八幡宮を勘請して大仏の鎮守社にされたと云う。
新湊市から小矢部川、庄川を上流に登ると高岡市和田と云う地域がある。東大寺正倉院に残る「東大寺庄園杵名蛭村墾田地」は高岡市郊外の戸出市之瀬辺りが比定されているが、この絵図を詳細に調べると実際に「速川」→「ソフ川」→「祖父川」と名前が変化したと見られる河川が流れ、この庄園図の東には【荊原里】の記載が在り、現在はこの辺りに、「延喜式神名帳」に記載の「荊原神社」と見られる「延喜式内社和田荊波神社」がある。
(※「高岡市史」ではこの場所を「福田」としているが、正しくは「和田」と言う地名である。)
この庄園図には大伴家持と同時代に東大寺庄園の開発に当たった「利波臣志留志」の署名がある。現地を調査すると、「杵名蛭村墾田地」は位置関係からもう少し小矢部川沿いの「高岡市立野・内島・高田島地区」に該当する様で、「在社」と記載される神社跡地も該当地に三ヵ所在り、二社は「八幡宮」で、もう一社は「聖武天皇勅願所」の由緒を持っている「五位荘神社」と見られる。

■この庄園図には「石黒上里」・「石黒中里」の記載が有り、この時期に「石黒の庄」がこの中に在った様だ。越中志徴にも「以石黒上中下為一庄」として「石黒庄」について記載されている。大伴家持の歌に「墾田地を検察する事に縁りて、礪波郡(となみのこほり)の主帳(しゅちょう)多治比部北里(たぢひべのきたさと)の家に宿る。ここにたちまちに風雨起こり、辞去すること得ずして作る歌一首」として、「夜夫奈美(やぶなみ)の 里に宿借り 春雨(はるさめ)に 隠(こも)りつつむと 妹(いも)に告げつや」と歌っている。この「夜夫奈美」については各地に比定されて小矢部市の「薮波村」と言う意見もある。しかし、この「薮波村」は明治22年に合併して新設された村である。富山県各所に5ヶ所在る「荊波神社」の場所だとする意見も有るが、何れも確定的にはなっていない。「延喜式神名帳」の中には「荊波神社」を「ウバラノヤブナミ」と注記されているものも有り、「杵名蛭村」の東に在る「延喜式内社和田荊波神社」はまさに「荊原の里」の「荊波神社」である。しかし、この神社は旧地が残っていない様で、不思議なのは、和田地区から離れた立野地区の中に「福田神社」がある事だ。(※現在、「福田」という地名は「延喜式内社和田荊波神社」の近接地に在る書店の敷地のみに僅かに残っている。この場所は立野集落から相当離れている。)

🔻【大伴家持の母親は「多治比氏」で在ったとする記載】
「加越能氏族伝」(森田柿園)には越中氏族「多治比部氏」が記載される。


大伴家持の母親は多治比氏か?



■「延喜式神名帳 巻十 越中」




■「杵名蛭村」がその頃「石黒の里」で在り、大伴家持の子孫の「石黒加志麻呂」一族がこの庄園に住んでいたなら話しが繋がってくる。家持が「夜夫奈美」と歌ったのは、情景として「荊の様な原が続く」と言う意味で有れば、この「杵名蛭村」の推定される高岡市立野周辺が「夜夫奈美のさと」で在った可能性も出て来るのだ。大伴家持の子孫と名乗る人物が各地に神社を開いたと云う伝承から、子孫が越中に栄えたと云う事もあり得ない話しでは無く、古代から中世の武人は往々にして赴任先に現地妻を持っていたらしい。後の時代の、各地の白拍子と云われた遊び女は、事実上、単身赴任の武人の現地妻の役割を果たし、現地で子孫を残していたケースもあったと云われる。大伴家持の子の永主は大伴家持が巻き込まれた「藤原種継暗殺事件」に連座して隠岐に流され、その後、赦されたと云われるがその後の消息は明らかでは無いし、子孫の中には「持定」等の名前は見あたらない。しかし、富山県では石黒氏と繋がりが強い高岡市木舟、福光町に「大伴家持の子の持定」の伝承が残る。石黒氏の中に大伴家持と縁組して、その子孫が越中に残り、大伴氏を称した事も考えられる。(※「大伴氏」宝賀寿男著 参照)
(※「諏訪社御由緒調査書」石黒兵助(新湊市)所蔵 に石黒加志麻呂の系図があると云う。ー「金沢大学日本海研究所報告第9号別冊 安達正雄論文」 参照)



🔴【吉江の昔と今】高岡市高田島(旧赤丸村領高田島村)に住んだ「木舟城城主石黒左近の家臣高田孫兵衛由緒」!!

2020-10-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


■福光町の「旧吉江村」の地域誌の【吉江の昔と今】という書籍が在り、その中に高岡市高田島に住んだ【高田孫兵衛由緒】が在る。それに拠ると、[木舟城の石黒左近の家臣高田孫兵衛は同輩の山崎氏と共に石黒の一字をもらって石崎と名乗った]と記載されている。その【高田孫兵衛】は「赤丸村領高田島村」に住んだ事が記されている。










🔽「五位庄赤丸村領高田島村」周辺には「聖武天皇勅願社五位荘神社」、「八幡社」等が在り、この辺りから高岡市立野辺りは平成29年に【東大寺庄園杵名蛭村墾田地】に比定されており、「国立歴史民俗博物館」は「庄園データーベース」に掲載している。
聖武天皇は東大寺大仏造営の時に「宇佐八幡宮」を東大寺に勘請された。各地の東大寺庄園跡には、古い「八幡宮」が遺されている様だ。


■「越中石黒氏」の祖とされる越中の古代豪族「利波臣志留志」は、東大寺大仏の造営の時に越中で東大寺の庄園を開発し、「杵名蛭村墾田地図」にも「利波臣志留志」のサインが在り、「この絵図には「石黒上里」・「石黒中里」・「石黒川」、「速川(現在の祖父川と見られる)」や隣接地には「荊原里ウバラノサト」が記載され、この庄園はどう見ても「高岡市」の「立野・東石堤・渡り・高田島村」周辺の記載で在り、「延喜式神名帳」に「ウバラノヤブナミ」とフリカナが在る高岡市福田の「延喜式内社薮波神社」が建つ「荊原里」の事と見られる。又、この中には「聖武天皇勅願社(※「富山県神社誌」)」とされる高田島村の「五位荘神社(旧神社名は不明)」が在り、この神社の由緒からも東大寺との関係を窺わせている。この「東大寺杵名蛭村墾田地」には三箇所に、神社跡地を示す「社地」が記載されている。
(※越中国内の「東大寺庄園」については、「高岡市立万葉歴史館」の地下資料室に東京大学資料編纂所が現物の絵図から興した詳細絵図が保管されている。無料にて閲覧可能。)


■「越中石黒氏」の祖と伝わる「利波臣志留志」は東大寺大仏造営の時に「米五千石」を寄進して「越中員外介」と成り、「越中国司」に任じられた。東大寺では現在も尚、東大寺お水取行事で毎年、「利波臣志留志」の名前が入ったお経が読み上げられている。
(※「東大寺要録」・「東大寺修院過去帳」)


富山県の「礪波郡」はこの「利波臣」に由来しており、現在の南砺市福光町、高岡市福岡町赤丸等は近年の市町村合併迄は「西礪波郡」と称した。

(※高田島村と三日市村は加賀藩時代には赤丸村領で在り、現在も「五位庄総社の赤丸浅井神社」が高岡市高田島村、東石堤村等の神社祭祀を執り行っている。この「高田嶋村」には古社の【五位荘神社】が在り、この神社由緒に拠れば、【聖武天皇の勅願社】とされており、元締めの「五位庄総社赤丸浅井神社」の由緒に拠れば、「赤丸浅井神社は元正天皇の二宮の御創建」とされ、この人物は系図からすると「聖武天皇の義弟の石川朝臣広成」で在り、実はこの人物と聖武天皇は「文武天皇」の実子で在る。
又、「源義経」が兄の頼朝に追われて奥州へ逃れた時に、「渡し守」に疑われて「弁慶」が「義経」を扇子で打擲したのは、「後白河上皇の庄園【越中吉岡庄】の「赤丸浅井神社」の前に在った「二位の渡し(※「聖武天皇の弟の二宮の渡し」)」の乗り場で在った。
⇒「川人山鞍馬寺由緒」、【義経記】、「兵範記」、「保元記」、「吾妻鏡」)

🔽この地域は元々は悪左府(※冷徹な左大臣)と呼ばれた「摂関家藤原氏長者藤原頼長」の庄園「越中吉岡庄」と呼ばれたが、「保元の乱」の後から「後白河上皇」の庄園「後院領越中吉岡庄」と成り、南北朝時代には「後醍醐天皇の庄園」に成った。「室町時代」には「五位庄」と成り、室町幕府「足利義満」はこの庄園を「臨済宗相国寺」(塔頭寺院に金閣舍利殿)の庄園として寄進している。(※「相国考記」、「万山編年精要」)
「石黒氏」は南北朝時代には「後醍醐天皇皇子宗良親王」を「赤丸浅井城」、「木船城」、「福光城」に迎えたという。
(※「富山県西礪波郡紀要」、「相国考記」)













🔻【赤丸浅井城】は「木船城石黒光弘」の父の「石黒光景」が居城とした。(※「越中石黒系図」)
【源平盛衰記】には「赤丸浅井城城主石黒光景」が「六道太郎光景」として記載されており、「木曽義仲軍」として「加賀の林氏」と共に平家軍と戦った事が記されており、息子の「石黒光弘」は石川県の「安宅川合戦」で負傷した事も記載されている。「赤丸浅井城」の前を流れていた小矢部川の河口には「六(渡)道寺村」が在り、この辺りの「二上庄」は「越中石黒氏」が統治していた記録も在る。

🔽「二上荘」;鎌倉期から見える荘園名で、荘域に「二墓保 フタヅカホ」を含む。(文正元年四月八日付後花園上皇院宣/富山県史中世)
承久の乱(82代後鳥羽上皇)の後の「関東御教書」(寛元二年十二月二十四日※87代四条天皇・鎌倉幕府北条氏)に拠ると、当荘雑掌より申し出された問注について鎌倉幕府は当荘預所と石黒し氏の傍系の石黒弥三郎との参決を命じている。(※「久能木文書」大日本史料5-18)