赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

💠🔹 【倶利伽羅不動寺御開山1300年記念事業】「本尊特別御開帳」と「刀剣展覧会」 !!

2018-10-31 | 富山県小矢部市


(※Hpは以下をクリック)
「倶利伽羅不動寺開山1300年記念行事」の【刀剣展覧会】開催中!!









■刀剣展覧会開催中!!
刀剣女子達の行列が続いています。
入場料 1300円
場所 倶利伽羅不動寺の会館

■本尊【倶利伽羅不動剣】の御開帳!!
日常は奥殿に安置されて見られない倶利伽羅不動寺の本尊【倶利伽羅不動剣】が直ぐ目の前で拝観できる。
拝観料 1000円~
場所 倶利伽羅不動寺本堂へ入り、拝観希望の旨、申込する。

■通常は倶利伽羅山の奥の院に祭られている「空海作」と言われる「不動明王像」は津幡町の別院で御開帳中!!

🔷この刀剣展覧会では越中の刀剣も展示されており、高岡市福岡町赤丸に栄えた「宇多刀工」の中では「宇多国宗」が展示されている。尚、この倶利伽羅山の山並である高岡市福岡町西明寺の「高岡市福岡歴史民俗資料館」では、富山県文化財を含む「宇多刀」の展覧会が開催されており、富山県の西山は「刀剣ブーム」に沸いている。(※「宇多刀工」は高岡市福岡町赤丸を発祥として、福野町、小矢部市等の小矢部川水系や富山市太田、舟橋村等に展開した南北朝から江戸時代迄続いた。その作品は膨大で富山県文化財には多くの「宇多刀」が在る。⇒2018.10.13~2018.12.2)






🌸🔹 【越中吉岡庄の記録】越中の天皇家庄園吉岡庄に在った高岡市内の諸施設と宇多刀工史跡!!

2018-10-31 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸





■高岡市の古地図に拠ると、元々、「瑞龍寺」の隣接地には「熊野社」・「稲荷社」があった事が判る。「熊野社」は「関野神社」に合祀されて前田家の神社とされ、「稲荷社」は高岡城内に祀られたと云う。
「総持寺」の旧地の赤丸村に在った「総持寺」の持宮の「熊野社」は「赤丸浅井神社」に合祀されたと伝わるが、敷地の管理を委ねただけで、実際はこの「熊野社」は現在、高岡市熊野町に鎮座する「先宮熊野社」と見られ、高岡関野神社は一時期、自社の熊野社に「先宮」の看板を掲げた為に熊野町や氷見市の熊野社の氏子が殺到してその看板を取り外し破却する等の騒乱に成ったと「越中宮極楽寺由緒」に記載されている。この「熊野社」は元々、後醍醐天皇の庄園の「越中吉岡庄」に勘請された後醍醐天皇皇子「宗良親王」の信仰と深い繋がりが在り、「宗良親王」が「越中吉岡庄」の「極楽谷」に創建されたと伝わる「越中宮極楽寺」の本堂にも、「熊野社」の祭壇が設けられている。又、【高岡御車山祭り】で曳き廻される唯一の二輪車である「二番町の山車」には「熊野社」の鳥居と二羽の「ヤタカラス」が飾られており、この車は元々、「越中宮極楽寺」に保管されていた「宗良親王」の「與車 ヨシャ」と言う牛車を利用したものだと「越中宮極楽寺由緒」には記されている。
(※「越中宮極楽寺由緒」には、創建後、二百数十年間、赤丸村に在ったと言うと記されている。⇒当ブログで全編公開している。参照されたい。)

■現在、「総持寺」周辺にある「天景寺」や、総持寺の前に在る「鎚の宮」、「宗泉寺」、「越中宮極楽寺」は全て元は「旧赤丸村」の「舞谷村」に在ったが、戦乱の中で、赤丸村の鎌倉時代からの国人領主池田氏(※現在は高岡市細池。元々は赤丸浅井神社前に住まいし、加賀藩時代は赤丸村の肝煎役をしていた。)の所領の高岡市の現在地に動いている。これ等の寺社は瑞龍寺建立の時に強制的に移転させられており、「瑞龍寺」の山号の「高岡山」さえも、元々は「総持寺」の山号が奪われたものだと云う。(※「富山大百科辞典」富山新聞社発行)

■「鎚の宮」と言うこの鍛冶職の神社は富山県神社庁の記録では赤丸村から動いてきたと云う。恐らく、この神社は加賀藩時代にも残っていたと伝わる、赤丸村領三日市に拠点を構えたあの著名な「宇多刀工」の氏神であったと思われる。

⇒下の写真は「越中吉岡庄」(後に「五位庄」)赤丸村領三日市に拠点を構えていた宇多派刀工の「初代宇多国光作」の太刀。大河ドラマ「眞田丸」に登場する「武田24将」の一人、「小山田信茂」が愛用した「赤雲の太刀」に使用されていた。高田の馬場で派手な敵討ちをした中山安兵衛の刀も宇多の刀であった。
(※高岡市福岡歴史民俗資料館には宇多刀工作の「槍」が保存されている。)













■「宇多派初代 宇多国光」の銘



🔴🔷🔸「寛永15年」の刀剣鑑定書に見える越中の「宇多刀工」・「佐伯則重・郷義弘」

2018-10-31 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「越中五位庄赤丸村領三日市」に、大和国宇陀郡の古代刀工「天国 アマクニ」を祖とする「宇多刀工」の一つの「宇多国光」が移り住んで、数多くの「宇多刀工団」が繁栄した。



■「越中宇多刀工初代宇多国光の刀剣」










■「宇多刀工」は大和国宇陀郡に「天国アマクニ」を祖とする刀工群の中で「宇多国光」が越中吉岡庄赤丸村領三日市(※後に五位庄)に移り住み、赤丸城ケ平山の麓の「鍛治屋町島」に工房を構えたとされる。
大和国宇陀郡には神武天皇が大和へ入る時に案内したとされる「やたがらす」を祀る「八咫烏神社」が在り、この宇陀郡には「天叢雲剣」を鍛えたとされる伝説の刀工「天国」を祖とする刀工群が栄えたとされる。後醍醐天皇はこの神社を崇敬されて、南朝の必勝祈願をされたとも伝わる。この刀工群から出た「宇多国光」は、越中の後醍醐天皇の庄園「吉岡庄」に 移り住み工房を構えたとされる。 その子孫は越中全体に拡がり、宇多国宗の系統は現在の富山市の「新川郡太田保」に住み数代を重ねたとされる。

又、同じ南北朝時代の越中にはこの他にも刀工「正宗」の門下の「佐伯則重」・「郷義弘」の一門が富山市五福に工房を構えたとされる。「郷義弘」は殆ど銘を刻まなかった為に正真の「郷義弘」は幻の刀とされる。しかし、江戸時代初期には「郷義弘」の存在が確認されていた様で、今回、偶然に入手した4冊の江戸初期の「刀剣鑑定書」には「宇多」と共に「郷」の押型等も記載されている。














■宇多刀工の鎮守社「槌の宮」は五位庄赤丸村から高岡市街地の総持寺前に動いた。(※「富山県神社誌」)










🔴📃 加賀藩の歴史家「富田景周」と「森田柿園」の歴史認識の誤り⇒高岡市の「如意の渡し像の偽造」!!

2018-10-31 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




■高岡市は佐藤市長の時に「義経記」に登場する「二位の渡し」での事件を偽造して、小矢部川河口の「六渡寺の渡し」に「弁慶が義経を扇子で打擲する巨大な銅像」を建設し、平成29年には伏木駅にその銅像を移設している。この銅像は小松市の歴史家が時代考証に携わり、渡船会社を経営する一民間企業の悪乗りに高岡市が便乗して高岡市長が「観光開発」と嘘ぶいて造ったものだ。



■「高岡市教育委員会」が作り上げたフエィクニュース


■この「義経記」に登場する「二位の渡し」(※二位の宮の渡し)と言う舟乗場は、実際は「五位庄」(※鎌倉時代には「吉岡庄」)の赤丸村の「五位庄五十三ケ村総社・郷社延喜式内社赤丸浅井神社」の前に在った乗場で在り、「越州川人山鞍馬寺三社誌」と云う「縁起」(※「福岡町史」)にはその詳しい内容が載っている。


■「越州川人山鞍馬寺三社記」には「元正天皇は全国を東西各々三十三ケ国に分けて一宮、二宮に各々を担当させた」と記される。

■「律令制」の「国司」。
「国司」は、古代から中世に地方の「国」の行政官として中央から派遣された官吏で、「四等官」である【守(カミ)、介(スケ)、掾(ジョウ)、目(サカン)】等を指す。(古代日本の地方官制では各府によって四等官の名前が異なる。)郡の「郡司」は地方豪族から任命され、中央支配の組織として「国司」が任命された。任期は6年(後に4年)。「国司」は国衙(国庁)において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事の全てを統括する絶大な権限を持っていた。
「大化の改新の詔」で、「国司の配置」が見られ、当初は「国宰」(クニノミコトモチ)と言われ、「国宰」の上には数ヶ国を統括する「大宰」(オオミコトモチ)が設置されたという。(※例;「大宰府」[ダザイフ])。7世紀末迄に「律令制国」の制度が確立し、全国的に「国司」が配置されたと云う。「大宝律令」は[大宝元年(701年)]に制定されて国・郡・里の「国郡里制」に編成され、中央集権的な『律令制』が敷かれた。『律令制』において、「国司」は地方統治の要で律令制の「班田収授制度」は、戸籍、田地の班給、租庸調の税制で構成され、これが「国司」の職務となる。

⇒「川人山鞍馬寺三社記」の「二人の皇子に東西三十三ケ国を統治させた」と云う記載は、明らかに桓武天皇の頃に制度化された「太宰オオミコトモチ」と言う国司制度のハシリと見られ、「大宝律令」が施行された直後には見られなかった数ヵ国を束ねる「太宰オオミコトモチ」と言う国司制度の初期の形体ではなかったかと見られる。

■加賀藩郷土史家達の「歴史の偽造」
先ず、加賀藩の歴史家「富田景周」は、この「川人山鞍馬寺三社縁起」について「有り得ない」と批判し、次いで同じく加賀藩の「森田柿園」はこれを受けて「小矢部川河口の近くには守護町が在るから、【守護の館が近ければ】と記載される部分はこの高岡市守護町の事だ」と指摘し、「如意の城」は守山の「古国府城」の事だと断定している。
しかし、残念ながらこの事件はもっと上流の「五位庄」での事件で在り、鎌倉時代にはこの辺りは「二上庄」で在った。又、「守護町」は南北朝時代に斯波氏が越中を制圧した時に僅か数年間、「守護館」が置かれた場所で在り、「古国府城」はどの歴史書にも「如意城」とは記載されていない。近年刊行されている「義経記」には「如意の城とは五位の城の事」と解説され、「如意の渡し」とは赤丸浅井神社の前から六渡寺村迄の「六渡寺川舟下りルート」の事と指摘されている。



(※元本は「福岡町史」参照)





■「延喜式内社赤丸浅井神社の縁起」




■小矢部川と庄川が合流していた「阿光ケ淵」
(※「赤丸浅井神社絵図」石川県立図書館 森田柿園文庫)







■「延喜式内社赤丸浅井神社」を創建された「石川朝臣広成」の事。





■「養老律令」の[養老令 継嗣令]⇒日本の「天皇」は「万世一系の男系男子」が引き継ぐとされる。この理念の一端が養老令に見られる。
嘗て、奈良時代には「元明天皇」・「元正天皇」の女帝が在ったが、「元明天皇」は文武天皇の中宮で在り、「元正天皇」は終世独身の文武天皇の姉で在って、何れも「聖武天皇」が即位される迄の繋ぎ役で在った。この事を知らない加賀藩の歴史家「富田景周」は「延喜式内社赤丸浅井神社」の由緒の「川人山鞍馬寺三社記」に記載される「元正天皇二宮」と言う事は有り得ないとその著作の「三州誌」に記載している。

■「養老律令」は「元正天皇」が養老元年(※717年)に発令され、 718年(養老2)に「藤原不比等」らが「大宝律令」を若干修正 して編纂した「律」と「令」各10巻で757年より施行された。その中の[継嗣令 第一]には「天皇の兄弟、皇子は全て親王とせよ」と記されている。
和銅6年(713年)11月に、「文武天皇」の「妃」の「石川刀自娘イシカワノトジノイラツメ」と「紀竈娘キノカマドノイラツメ」の二人は廃されて「妃と名乗る事を許さない」と「続日本紀」に記されている。この時にその皇子も臣籍に降下されているが、「元正天皇」の母の「元明天皇」が蘇我氏系の石川氏で在り、廃された二人の「妃」も「武内宿弥」の末裔の蘇我氏同族で在った事から、「元正天皇」は「養老律令」の中で「天皇の子供はすべて親王とせよ」と命じられた。この「石川刀自娘」の子供とされる「石川朝臣広成」は「川人山鞍馬寺」を創建した人物として「川人山鞍馬寺三社記」に記載される。この皇子(※元正天皇二宮⇒実は聖武天皇の弟で文武天皇の第二子)はこの律令が施行された翌年の758年に成って初めて臣下の「従六位上」から「皇族」としての「従五位下」に任じられている。この「継嗣令」は、明らかに、「藤原不比等」の陰謀で皇室を追放された「石川朝臣広成」の救済を目指している。「天智天皇」の実の子供(※「大鏡」)でも在り、時の権力者で在った「藤原不比等」は、自分の娘の「宮子」が産んだ「首皇子オビトオウジ」を確実に天皇にする為にこの二人の妃を追放する事を目論んだが、「元明天皇」も天智天皇の娘で在った事からその娘の「元正天皇」にとってはどうしてもこの皇子の身分を救済する必要が在ったものと見られる。

■「元正天皇」は文武天皇の姉に当たり、「文武天皇」が早逝された為に当初、母の「元明天皇」が幼い皇子の母親代わりになられたが、後に譲位して娘の「元正天皇」が終世独身で即位された。この皇子の「一宮」は「夫人 ブニン」と成った「藤原不比等の娘の宮子」の皇子で後の「聖武天皇」になられた「首皇子 オビトオウジ」で有り、「二宮」は文武天皇の「嬪ビン」の「石川刀自娘」(※蘇我氏)の皇子で、この親子は不比等の策謀で臣下に降下させられた。赤丸浅井神社は「西暦717年」頃に「元正天皇の二宮の御創建」と伝わり、「元正天皇」は臣下に降下した天皇の子供について「全て、天皇の子供は親王とする」(※「継嗣令」)と令して身分を「親王」とされて「石川刀自娘」の子供には「石川朝臣広成」と賜姓され、後にこの皇子は「高円朝臣広世」と賜姓された。(※「高円」は聖武天皇の別荘が在った地域の名称)

■「続日本紀」には文武天皇七年(697年)八月二十日の条に【藤原朝臣宮子娘を,文武天皇の夫人とし,紀朝臣竈門の娘・石川朝臣刀子娘を妃とした。】と記載され、「巻六」の和銅六年(七一三)十一月乙丑には【貶石川・紀二嬪号。不得称嬪。】と記載され、この時に「石川刀自娘」と「紀竈娘」の二人の「嬪ビン」を廃して臣籍に落としたとされる。この時に母親と共に臣籍に落された子供が「石川朝臣広成」とされる。(※続日本紀にはこの間の文章は見られ無いが、前後の関係からこの子供が「石川朝臣広成」と見られ、元正天皇はワザワザ「継嗣令」を発して広成に「親王」としての地位を確保したと見られる。)

▼石川朝臣広成;天平時代(740年頃)に「恭仁京」に赴任して詠んだ和歌が『万葉集』に載っている。又、天平15年(743年)頃には天皇の側近の「内舎人」を務めており、大伴家持もこの役職に就いている。天平宝字2年(758年)に淳仁天皇の即位に伴い、従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵され、天平宝字4年(760年)母方の氏姓であった「石川朝臣」から「高円朝臣」に改姓して同年、文部少輔に任ぜられる。その後、摂津亮、「尾張守」、「山背守」を歴任し、天平宝字8年(764年)正月には従五位上「播磨守」に叙任される。藤原仲麻呂政権下で畿内やその近辺の大国・上国の地方官を歴任していたが、同年9月に発生した「藤原仲麻呂」の乱後の10月には播磨守の官職を廃されて藤原黒麻呂と交替した。称徳天皇の時代では、「周防守」、「伊予守」と地方官を歴任して、宝亀元年(770年) 光仁天皇の即位に伴い正五位下に昇叙されている。『万葉集』に3首、『玉葉和歌集』に1首の歌が掲載される。

🔴🔹【五位庄53ケ村惣社 延喜式内社赤丸浅井神社】の樹齢1200年の富山県指定天然記念物の大ケヤキが倒壊!!

2018-10-31 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸





■【五位庄53ケ村惣社 延喜式内社赤丸浅井神社】の歴史を見つめてきた富山県指定の大ケヤキが2013年8月25日に強風の為に倒壊した。浅井神社は養老元年(717年)、「元正天皇の二宮」御創建と伝えられる。大ケヤキは高さ約20メートル、幹回りが約9・3メートルあり、県内最大級の大きさを誇っていた。1995年、幹の内部が腐って倒れる危険があったため、表面を削り、樹脂を吹き付けて補強。2本のワイヤも使って幹を立たせていたが突風に耐えられずに倒壊した。平成25年にはこの他にも拝殿近くに立って居た大ケヤキが老化して伐採された。天然記念物の「赤丸浅井神社」の参道に在る【大杉の並木】も老木の為、樹勢の維持が難しいと云われている。この参道の天然記念物の老杉の根は浮き上がっている所も有り、重量の車両が通行する事もあってか枯れて来ている杉もある様だ。鉄塔工事の車両も通行しているというが、何らかの保護を行わないと遠からずこの大ケヤキと同じ運命を辿るだろう!!
富山県や高岡市は天然記念物や文化財を指定するだけで全く放置されてこの始末!!
文化財や天然記念物は自治体が認定して定期的に保全すべきものだが、法令で勝手に所有者が手を加える事も許されず、実際には個人が維持費用を負担するのは難しく、自治体に関心が薄いと保全が手遅れになり貴重な資産はどんどん失われる。学識経験者の声も聴かれないのは残念至極!!











































🔴🌸 古代に「波利古臣 ハリコノオミ」が賜ったと言う「越中 利波郡(礪波郡)」の変遷!!

2018-10-31 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「越中利波郡」の変遷!!




■「和名類聚抄」(※平安時代中期に作られた辞書で、承平年間[931年 ~ 938年]に勤子内親王の求めに応じて源順[ミナモトノシタゴウ]が編纂した。)には「礪波郡」又は「止奈美」として見え、その中に「川合」(加波安比)他十一郷、全十二郷が在ったとされる。









■「利波郡」についいては、「利波郡」の「郡司」を勤めた一族で在ると言う「越中石黒氏」の系図では、孝霊天皇の子孫の「波利古臣」が越中に国を賜ってより、「利波郡」と呼び、「累代、郡司」を勤めたと言う。


・明治11年⇒「富山県県会議員選挙」
・明治17年三月⇒「砺波郡郡会議員選挙人公告」(第一回 郡会議員選挙)
・明治29年⇒「砺波郡」を分ち、「東砺波郡」・「西砺波郡」とした。










🔴第29回特別展【木舟城と石黒氏】(2016.09.17~11.27)⇒『高岡市福岡歴史民俗資料館』

2018-10-29 | 富山県高岡市



■「2016年9月17日~11月27日」の間、上記の展示が「福岡歴史民俗資料館」で開催された。
この展示では「東大寺」と「奈良国立博物館」の御協力の下、東大寺の古文書「上院修中過去帳」の高精細画像の貸し出しが認められ、富山県では初めて展示された。この中には富山県の「砺波郡」の名前の基になっている「利波臣志留志」が『東大寺大仏造営の時に第一番に米五千石を寄進した』事が記載されており、志留志は大伴家持の後に越中国司に成っている。

■「越中石黒系図」ではこの「利波臣」の末裔が「福光城」・「木舟城」・「赤丸浅井城」・「高木城」を拠点として「源平盛衰記」や「平家物語」、「承久記」等の著名な物語に登場する。この一族は、「上杉謙信」に敗れてその家臣になったが、「織田信長」に降伏して「織田信長」に会う為に出向く途中に一族は信長に依って暗殺された。しかし、残った一族は徳川や前田家の家臣になったり、東北や各地に広がって、射水市の著名な測量家「石黒信由」や秋田県角館佐竹藩の武家屋敷石黒家、尾張国が如意郷に如意城を築いた長谷川家、加賀藩湯原家等、又、近代にも終戦の勅書にサインしている石黒農商大臣等は越中石黒氏の子孫とされている。
この回では、山形県米沢市「上杉博物館」の協力で越中石黒氏や守山城神保氏張等の越中諸将の名前が記された「上杉謙信家臣名簿」の高精細画像による展示や、唯一、喜多川歌麿が肖像を残している「石黒光弘像」が描かれた「木曽義仲軍団絵図」の画像が東京都中央図書館の協力で展示された。
(※何れも富山県内では初の展示。)
この他にも、「越中石黒氏」からは高岡市長を勤めた「堀氏」、高岡市に地名が残る「鴨島氏」、高田島村の領主高田孫兵衛等、石黒氏の末裔とされる一族が多く輩出された。
又、この行事とコラボレーションして11月13日には「木舟城祭り」も木舟城跡地で行われた。
(※この件は「木舟城保存会」のホームページ参照。)

●「石山寺官倉交替記」に見られる「利波臣」の記録(※「高岡市中央図書館所蔵写本」)
⇒★その写本が展示された。





●「木曽義仲軍団絵図」に越中石黒氏の著名な「石黒光広」の肖像が書かれている。
(※喜多川歌麿 作 。 東京都立中央図書館所蔵)
(以下の画像の無断複製や二次使用は禁じられています。)


●「東大寺修院過去帳」には東大寺大仏造営の時に「米五千石」(※「東大寺要録」では米五千斛 カイ)を寄進した越中石黒氏の祖先とされる「利波臣志留志」の名前がある。







●「上杉家家中名尽」山形県上杉博物館所蔵
⇒越中の諸将は上杉謙信に臣従して家臣名簿に掲載された。





🔴📖 高岡市の「荊波神社」の祭神論争と「越中吉岡庄」に伝わった「天台宗」・「真言宗」兼学の文化⇒偽作「高岡市史」の論証!!

2018-10-26 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■「高岡市史」は高岡市福田の「荊波神社」(※ウバラジンジヤと呼ばれている)の祭神は【「十禅師(地蔵菩薩)」で在り、古代の越中砺波郡の郡司一族の「利波臣」の祖先とされる「彦刺方別命ヒコサシカタワケノミコト」で在る。】とし、「高岡市万葉歴史博物館」は【延喜式内社の「荊波神社」は砺波市池原の神社が該当する】と記載しているが、「富山県神社誌」には【祭神は瓊瓊杵尊 (ニニギノミコト)】と記載され、この神社の祭神は高岡市の「二上射水神社」の祭神と同じで在ると記載している。「延喜式」と言う国法で在る律令に記載された神社は何れも天皇家の祖先神の神代の神々で在り、祭神の「格」からしても福田の神社が「延喜式内社」としてふさわしい。これ等から見ると、明らかに、「高岡市史」は意図的に「福田荊波神社」を否定する論陣を張っており、立地する高岡市が「福田荊波神社」の由緒を否定している理由が分からない。本当の「延喜式内社荊波神社」とは?
(※別の「福田神社」と称する神社が高岡市立野地内に立地している。)







▼「延喜式内社五位庄惣社赤丸浅井神社由緒」


■六宗兼学の「東大寺」と歴史的に密接な「東大寺庄園石粟庄図」にも掲載される「川人山鞍馬寺」、「赤丸浅井神社」の在る「五位庄」には天台宗、真言宗の教義が混在して伝わっている。「五位庄」の一角に在った高岡市福田の「荊波神社」は「天台宗妙法院領」になった時に「十禅師」の内の「地蔵菩薩」を祀ったとされるが、「十禅師社」は比叡山に祀られている。

・「越中吉岡庄」の領主で在った「後醍醐天皇」の第八皇子「宗良親王」はこの時期に「妙法院主」に就任されている。「宗良親王」は興国三年には越中に入られ、赤丸浅井城にも入られたと伝わる。「宗良親王」は「妙法院院主」の後に「天台座主」も勤められて、三度に亘り妙法院院主に就任されたと云う。
・真言宗の「総持寺」には南北朝時代の正平八年に「後醍醐天皇所縁の河内金剛寺」から黄金の仏像が伝来している。
・「荊波神社」は「赤丸浅井神社」の門前に屋敷を構えていた奥田、桜木の総本家の池田家の持宮「イバラの宮」と見られ、この池田家は高岡市福田周辺の池田地区を開発した一族と伝わっている。現在の福田荊波神社は元々近くに在ったものを現在地に動かしているが、神社側では元々の所在地は不明としているが、池田家は「イバラの宮が区画整理の時に動かされた」として従前の敷地の写真と遺跡の一部を保管している。(※「石堤村史」)
又、高岡市福田六家地区は「赤丸浅井神社」を総鎮守とした皇室領の「吉岡庄」(※後に「五位庄」)の一角に当たる。
「高岡市和田新村」は藩政時代に「和田佐助」が開発した村で、その住民は「赤丸西円の住民を強制移住させた」もの。(※「城端別院文書」富山県立公文書館)
その殆どの住民は無産の「頭振り」と呼ばれた「水呑み百姓」で「農奴」として扱われた。和田佐助自体も隠田の罪で「磔」で虐殺された。高岡市羽広の「諏訪神社」の社殿は「赤丸浅井神社の拝殿」を移設したもの。⇒建物には浅井神社と同じく皇室の「十六菊紋」が刻まれて居る。(※「富山県神社誌」)



■「赤丸村領高田島」(現在は高岡市高田島)には、「五位庄 郷社 赤丸浅井神社」の末社として「聖武天皇勅願社」(※「富山県神社誌」)と伝える「五位庄神社」が在り、「赤丸浅井神社」の祝詞にも記載されている。



■「十禅師」と「空海」
「空海」は、「清和天皇」の時に、宮中の内道場に奉仕して天皇の御斎会の読師等の勤めをした高徳の僧一〇人(※十禅師。供奉。内供)の内の「真済僧正」が天皇に申請して「大僧正」に任じられた。
(※「六国史 三代実録 清和天皇」)

★「十禅師」には二つの意味が在る。
①毎年、正月に朝廷で法要を行い国家安泰を祈願した高僧で、「十禅師」に任じられた高僧には【天台宗】最澄、光定、円仁、相応、円珍 【真言宗】真済、真紹 等が任命されている。

・「五位庄」に「十禅師社」が祀られた理由→「空海」は東大寺に真言宗の教義を伝えたとされるが、中世以前は宗派間の区別は明確では無く、東大寺は六宗兼学の寺とされており、「五位庄」の宗派も天台、真言の区分が明確では無かった。天台宗系の聖護院派川人山鞍馬寺の周辺寺院48坊の一つとされる総持寺が真言宗で在った事もその背景が在った為と見られ、現在、総持寺の持宮の「熊野社」が「赤丸浅井神社」に合祀されており、「総持寺」の過去帳には「赤丸浅井神社」の神官の先祖一族の名前が記載されていると云う。
(※「越中古文抄」高岡市中央図書館蔵)
元々、 「瓊瓊杵尊」(ニニギノミコト)を祀っていた「荊波神社」は「赤丸浅井神社」の両部神道の影響を受けて関係が在る「地蔵菩薩」を祭神としたものと見られる。「延喜式内社赤丸浅井神社」は延喜式が定められた遥か昔の「第五代孝昭天皇の御代」に古い社が創建され、後に「八の河の江の神」⇒「八河江比売」を祭神にされたと云う。
(※「延喜式内社赤丸浅井神社由緒」)


▼「神名帳」には「ウバラノ」と注意書きが付されており、「ウバラノヤブナミ」と記載される写本も在り、本当は「荊原里」に在る「荊波神社」を指している。高岡市立野地区に比定される「東大寺庄園杵名蛭庄」の絵図には「杵名蛭庄」の隣接に「荊原里 ウバラノサト」と明記される。





■「国立歴史民俗博物館」の「庄園データーベース」には「杵名蛭庄」の位置について平成29年(2017年)6月に「高岡市立野地区」が追記された。




















②比叡山に祀られた日吉山王七社権現の一つで、国常立尊(クニトコタチノミコト)からかぞえて第十の神に当たる「瓊瓊杵尊」(ニニギノミコト)を「地蔵菩薩」の権現として名付ける。

🔴 「越中五位庄」の浄土真宗の名刹「石堤 長光寺」の梵鐘の製作!!

2018-10-25 | 富山県高岡市
●高岡市の鋳物師⇒高岡市石堤村「長光寺」の鐘のルート!!



■加賀藩の時代には、高岡市の鋳物師達は「殿様御仕事」と呼ばれた加賀藩の仕事や概ね日用品の製作に力を注ぎ、販路も又、広く全国に求めていたと言う。
その為に多くの「梵鐘」等の製作は多く、富山市金谷か金沢の鋳物師に委ねられたと言う。
その為に、高岡市石堤の名刹「長光寺」の鐘は金沢の鋳物師で「大乗寺」の梵鐘を製作した「今村定次」に依頼されて慶安二年に鋳造されたと言う。 現在は全国に多くの梵鐘を残す高岡鋳物師も藩政時代にはその製作の範囲が藩の方針で特化されて、殆どの梵鐘や仏具が他所の鋳物師によって製作されていた事は意外で在る。
(※【越中の鋳物業について】木倉豊信「越中史壇一号 昭和29年」)(※「富山県の歴史」坂井誠一著)







■加賀藩第五代前田綱吉が調査保存させた京都の「東寺百合文書」には室町幕府からの越中利波郡、射水郡の鋳物師に対する文書が多く遺されている。越中鋳物師の歴史は相当に古い様だ。



■「長光寺」は南北朝から室町時代の武将で「越中吉岡庄」の地頭も勤めた「小田(織田)氏知」が創建したと伝えられる。「長光寺」は「五爪龍の玉持ち紋」と言う中国の皇帝にしか許されて居なかった「寺紋」を持ち、中世には一向一揆の五位庄での中心寺院で在ったと言う。庭には「小田氏知」の墓が在る。

🔴📃 「延喜式内社赤丸浅井神社」と聖武天皇の弟「石川朝臣広成」の事 ⇒「元正天皇の二宮」とは?(※「続日本紀」・「新撰姓氏録」)

2018-10-23 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








■「延喜式内社赤丸浅井神社」創建の「石川朝臣広成」の素性!!
「石川朝臣広成」の父の「文武天皇」


「石川朝臣広成の系図」


■元正天皇は文武天皇の子供の聖武天皇(首 オビト)の事を宣命では「吾子 アコ」と呼んでいる。文武天皇が若くして亡くなり、二人の皇子は幼少の為、当初は文武の母の元明天皇が政務を司ったがその後は娘の元正天皇に譲位し、幼少の皇子が成長するまで政務を委ねた。即ち、首皇子にとっては叔母が元正天皇であった。首皇子の母の宮子夫人は当時権勢を誇った藤原不比等の娘で、その他にも文武天皇には二人の妃が居た。一人は蘇我氏系の紀竃門娘(紀竃門郎女 キノカマドノイラツメ)、もう一人は蘇我氏の系統の石川刀子娘(石川刀子郎女 イシカワトジノイラツメ)であった。蘇我入鹿が中大兄皇子に殺されて、中大兄皇子に加担した蘇我倉山田石川麻呂が自殺すると、蘇我氏は一挙に勢力を弱め、藤原氏が権勢を恣にする。「大鏡」には興味深い話が載っている。藤原氏が権勢を恣にしたのは、実は、この藤原不比等は天智天皇が女御に産ませた子であり、女御が妊娠した時に藤原鎌足に譲ったもので、「男が生まれたら藤原氏の子として育てよ」と命じたと有り、この子が後に右大臣までになったと記している。藤原不比等は自分の娘宮子が生んだ聖武天皇が即位すると、更にわが娘の光明子を聖武天皇の后とし、その娘は光明皇后となった。
蘇我氏はその後、石川氏と名乗り、左大臣になった石川朝臣豊成は高岡市郊外の東大寺荘園の越中鹿田庄近くに荘園を持っていた事が「東大寺越中鹿田荘図」に表示されている。又、その一族は大伴家持の前後に越中国司にも任命されたが、この時には地方に蘇我氏の勢力が分散された様だ。「石川県」の起りは蘇我氏の末裔石川氏が「石川郡」に繁栄した所から名付けられたようだし、当時の北陸には蘇我氏が相当の勢力を持っていた様だ。

■藤原不比等は我が孫の首皇子を天皇にする為に陰謀を巡らし、文武天皇の側室の紀、石川の二人の嬪の位を剥奪した。(※「続日本紀」)
石川刀子娘(イシカワトジノイラツメ)にも皇子が居たがこの皇子も臣籍に降下させられて石川朝臣広成と賜姓された。石川朝臣広成は舎人という皇室の世話や警備をする官職にされて恭仁京に転勤している。万葉集にはこの石川朝臣広成の句が三首掲載されているが、詳細の経歴は良く判らない。ただ、赤丸浅井神社由緒の「三社記」に拠れば、「元正帝は二人の宮に東西それぞれ33か国を治めさせた」と記載されており、石川氏の勢力が当時の北陸に広がっていた事等から、浅井神社由緒に出て來る「元正帝二宮」は石川朝臣広成しか考えられない。【越中川人山三社記】には「一宮二宮分五畿七道為二省西三十三國者一宮治之東三十三國者二宮有之」とある。







■「続日本紀」には石川刀子娘の廃妃や石川朝臣広成の賜姓等についての短い表現しか無いが、最近の研究で、石川朝臣広成に関する著作も見られる様になった。
「万葉集」に見られる「石川朝臣広成」の歌三首
①【家人に恋ひ過ぎめやもかはづ鳴く泉の里に年の経ぬれば(万4-696)】
◇泉の里; 山城国相楽郡、泉川(今の木津川)流域の地。恭仁京の地。
内舎人として恭仁京に単身赴任していた時、平城京に残して来た家族を思いやる歌。恭仁京遷都は天平十二年(740年)。

②【妻恋ひに鹿か鳴く山辺の秋萩は露霜寒み盛り過ぎゆく(万8-1600)】
◇万葉集巻八の配列から天平十五年(743年)秋の作と見られ、恭仁京での作らしい。内舎人は天皇に近侍して警備などに従事した役職で、大伴家持も恭仁京で内舎人だった様だ。
 
③【めづらしき君が家なる花すすき穂に出づる秋の過ぐらく惜しも(万8-1601)】
◇なかなか逢いに行けないきみの家の穂を出したススキの様に秋の過ぎて行くのは惜しいもの。

🌸🔹【高岡市財政破綻説明会】「財政破綻」に導いている高岡市の観光化事業の実態⇒「過酷な封建時代を讚美するだけ」の高岡市の偽物の都市計画⇒周辺市街地の切り捨てが始まった!!

2018-10-23 | 富山県高岡市


■平成28年市債残高 [1128億円]!!
⇒更に、平成30年度予算では40億円の歳入不足に陥る。



■「高岡市公共施設削減計画」が発表され、福岡町地区の施設が集中的に削減される。
【1月26日午後7時からUホールで説明会→順次に各地説明会】
高岡市の「中心市街地活性化法」に基づく周辺市街地の枯死化政策が始まった。高岡市は今回の財政破綻に陥った責任を誰も取って居ないし、議会は相変わらず高給を貪っている。
現代のホロコーストの始まり!?










■高岡市財政を破綻させた「観光化政策」






■2018.1.26より高岡市当局の周辺市街地施設の切り捨て計画が説明されると云う。【中心市街地活性化法】による周辺地域の抹殺計画が愈々動くと云うのだ。議員達は「大した事では無い」とウソぶき、当局は惨状を訴えて市民を説得する積もりらしい。しかし、どう誤魔化しても、必要な資金が足りなく成った事は家計ではサラ金からの借入やアルバイトに精を出す必要が有り、破綻への一歩に違いはない。高岡市の富裕な政治家や財界が不足金を高岡市に寄進するなら別だが?
計画では、福祉施設の民営化と合わせて、各地の集会所への補助の切り捨てや福祉施設の閉鎖が検討されている。それ等の施設は災害時の「避難場所」に指定されているものも在り、市街地とは異なり、高岡市郊外では公営の施設しか鉄筋コンクリートの耐火建築物や水害の時の高層避難施設は無い。高岡市中心部は民間の施設でも委託により避難場所は確保できるが、日本全国が「災害時の避難場所の確保」に動く中で、高岡市は「市街地住民だけの生き残り策」を模索しているらしい。高岡市が標榜する「中心市街地活性化」は周辺の定住人口の拡大でこそ実現できるのに、周辺住民を切り捨ててその住民が単純に中心市街地に動く筈もない。周辺地域が不便に成り、コミュニティが破壊されれば、住民はより便利で商業施設や医療施設、教育施設、公共交通機関等の充実した他の都市に流失する。高岡市の様に、就業先も無い不便な都市に市民が我慢して住み続ける筈も無い。

■現在の高岡市の大きな支出の中には【高岡駅前東地区の再開発】が在る。この事業は向當光生氏(元建設省建設経済局宅地開発課建設専門官)が主宰される建設コンサルに委託されて事業化の途上に在る。

■高岡市の駅周辺では、駅ビルや駅前再開発が行われているが、残念ながら高岡市が行ってきた「御旅屋地区再開発」は平日は老人が日向ぼっこするか時々周辺住民が通過する程度で、御旅屋通りはシャッター街に成っている。再開発にも国、県、市の補助金が入るが、莫大な投資をしても、御旅屋通りの様な大型商業開発でさえも、高岡市では周辺がスラム化して来る。その本質的な原因は「急激な人口減」と郊外に強力な大型商業施設が既に出来上がっている事で、既に何とも対応の仕様が無い状況に在り、これ等の施設には更に増設計画も在る様だ。
御旅屋地区は地元大手百貨店の「大和」が核に成っているが、「大和」ですら金沢駅前再開発ではキーテナントでありながら、数年で退去している有り様で、人口が周辺人口を含めて80万人と言われた金沢市ですら、中心地区の商業施設は運営が困難だ。今回、高岡駅前再開発を手掛けるデベロッパーは全て、他地域の企業で在り、再開発では北陸では聞いた事が無い。地域性がどの程度認識されているかは分からないが、「何でもかんでも作れば良い」的な発想で、高岡市の駅前に巨大なスクラップが出来ない様に祈るしか無い。高岡市の再開発は地元住民の血税が入っているにも関わらず、一般市民には詳細が報告される事も無く、「補助金拠出の案件一件」として、「知識も無い議会」で「承認」される。この様にして、ベルトコンベアー宜しく、血税は中央官庁OB達の思惑でコンサルをダミーにして様々に垂れ流される。役人は黙り込み、議会は御手当さえ良ければシャンシャン大会で通過させる。コレが「中心市街地再開発」の仕組みで在り、そこには「血税」を使うと云う概念すら存在せず、「まちづくり」と云う大義名分で、商業関係者の「利権」と有力者の「忖度」だけでどんどん血税は浪費される。実際、再開発事業では市民にとっての便益は二の次で、何処でも「市長様」の手腕を強調して、それに便乗する連中が選挙対策に利用する。何としても形を造りたい「市長様」は、困難な商業開発を避けて、床当たり収益性の少い「ホテル」や「マンション」を核にした開発に走り、その結果、地価の暴落が起こり、市街地は壊滅して、入居者の居ないマンションが林立する「新しい施設のゴーストタウン」が量産されて仕舞う。

■高岡市は石川県の北陸電力能登原発から40km県内に在り、富山県独特の海風によって原発事故の被害が想定されている。高岡市では本腰を入れた「災害対策」もされず、見せかけの対策に終始している。高岡市では原発事故の際に幼児に飲ませる「ヨウ素」の配布計画の説明や原発事故の際の避難訓練は行われず、地震対策の避難訓練が行われただけだ。氷見市では原発事故の被害を想定して避難訓練を実施しているが、北陸電力との利害関係者が多い高岡市は、この事実を伏せて具体的な対策も行わない。理由は、半径30kmの圏外だからと云う理由らしいが、真の理由は北陸電力関係者で在る地元有力者や電力の従業員、取引業者への忖度でしか無い。原発事故対策の説明会を電力会社が行う場合は、その参加者は、電力会社の招待客や電力会社関係者、取引業者等が殆どを占め、反対も無く、シャンシャン大会になるように予め仕組まれている。又、各地の委員会や審議会等には予めコンサルタントが根回しをして、提案議題に賛成意見を述べる大学教授等の知識人を選別してコンサルタントが提案する内容に沿って決議させ、委員達には相当の日当+御車代を支給する。官製学者は自らの意見も伏せて研究資金の出そうな大企業に恩を売る。これ等は、実際にコンサルタント業務に関わって来た経験に基ずく事実だ。これが、大した内容では無い手続き的な審議会なら影響は少ないが、これが国民の生命、財産に取って重大な審議会でも行われている事が問題だ。業界では「独占禁止法」に基ずく「談合」が摘発されて話題になるが、これ等の「官製の談合に基ずく審議会」に対してはマスコミの告発以外に制裁は無い。
地方議会での「闇から闇」の体質は、近年、政治資金の不正利用の摘発で明らかになったが、政治のもっと深い闇は、これ等の政財界、コンサル、学者等に依るオール与党化された国政や地方行政の秘匿体質に在る。これ等は恰も国民の代表者が国民の為に行っている「善行」に見せかけているが、実際は関係者の利益誘導や名誉欲に立脚した「悪行」なのだ。

■「北陸電力能登志賀原発」の危険性を報せる本も出版されている。






■海風(あえの風)により原子力発電所の被害はほぼ全てが富山県内や新潟県等に拡散する。


■高岡市は観光化事業を政策に掲げて「歴史のまちづくり」を標榜している。
しかし、この政策の中味は誠に貧弱で、「国の政策」を受けて、慌ててコンサルに依頼して基本構想を作り、審議会に特定の先生を招いてその内容をオーソライズして議会で決定したものと見られる。この手法は何処の自治体も行っている手法だが、簡単に言うと「商売人のコンサルに丸投げした計画」と言うのが実態だ。しかし、この手法での問題は、この政策が失敗した時にはコンサルには何の保証責任も無い事で、果たしてこの計画自体が市民にとって望ましいか、実際に自治体として発展する為の計画かと云う事は誰も関知しない。計画を有効に実施する為には、全市民が納得し、進んでこの街作り計画に参加できる計画でなければならない。しかし、地方自治体では、職員の知識不足と人材不足で、全市民運動にできる計画を作りあげる能力が無く、行政トップが本当の熱意を持たず、議会もセレモニーだけで終始している自治体ではおうおうにして、このやり方が一般化してしまう。
高岡市の計画を見ると、「高岡市の政策」と銘打っているが、これは、国の政策を受けて作り上げたにわか作りの政策にしか見られない。「街作り」には先ず、「回遊性」 を確保して、個々の観光地を繋ぐ視点が無ければならない。その上で、観光地に滞在させる仕掛け-「滞留性」を確保して、滞在、宿泊、飲食、観光地を繋ぐ仕掛けが必要だ。単に観光地を羅列するだけの都市計画では発展性が無い。
「自治体の歴史は加賀藩の歴史」と単純に考えるのはコンサルがよく使う手法で、とりあえず議会受けの良い言葉を並べるやり方だが、封建時代を懐古するだけが「歴史」では無く、ましてや、「商業」と「鋳物」、「曳き山」、「菅笠」だけが高岡市全体の歴史ではあるまい。市内の殆どを占める農業圏や周辺地域は「中心市街地活性化法」で切り捨てて、有力富裕層や役人だけに都合の良い都市計画に果たして、全市民が賛同するだろうか?
しかも、広域の高岡市には古代から続く歴史が在り、前田家以前の歴史の方が遥かに長い。高岡城の廃墟だけで世界から観光客は誘致できるのか?
高岡市の人口は毎年、1000人近く減少し続け、多くの雇用を支えた大企業は海外や日本全国に移転し、実態は正に「空洞化」している。数千人の職の無い人達が職を求めても、高岡市では臨時雇用だけしか無く、仕方無く子供は都市で就職し、市内で失業した人達は臨時雇用に落ちて行く。「有効求人倍率」と云う言葉には「非正規社員」を含んでおり、この言葉には明らかにマヤカシが入っている。近年の国策で進められた「国民の非正規化政策」で、実際に職安に来る求人は殆どが「臨時雇用」で在り、実際の正規雇用を求める求職者は公表された何倍もの人達で在る。その現実は実際に職安の窓口を訪れたら直ぐ分かる。役所が国民を目眩ましにしている実態が分かる。高岡市はこの現実に目をつぶり、起業振興や雇用確保の為の企業誘致も行わない。かつて、高岡市役所では「企業誘致は商工会議所の仕事」と説明された。高岡市には責任が無いと云う事だ。

■高岡市の主要施設として20億円をかけたと言う「万葉歴史館」は、一日当たり入場者が200人と聞き、これで採算は取れているのかどうかは分からないが、平日に訪れても他の訪問者の姿も見かけない。この建物の地下には全国でも有数の万葉資料を備えて、常時学芸員も配置しているが、ここも何回訪れても他の訪問者と会った事がない。高岡市の周辺には、大伴家持が国司として赴任していた頃に開発された「東大寺庄園」が点在しており、高岡市がこの建物を「万葉集」に拘って「文学館」としてのみ活用しているが、実際にはもっと深い歴史的な背景がこの地域に在る事を発信して居らず、隣の砺波市が市を挙げて「東大寺庄園の研究」に力を入れ「地域の歴史発掘」を行っているのとは格段の差が在る。その中核で動いている「砺波市散居村研究所」の活動は、著名な東大寺庄園研究者を所長に迎えてスタッフを揃え、定期的にバスで市民を史跡に案内する等の実践活動が日常的に行われる為、市民の関心は高い。それに引き換え、高岡市には全国でも有数の万葉集研究施設が在りながら、東大寺庄園の「須加庄」、「鳴戸庄」、「杵名蛭庄」、「クボ田庄」、「鹿田庄」等の高岡市周辺の研究も低調で、市民の殆どが自分の住んでいる地域にそんな庄園が在った事も知らない。そこには、「万葉集」だけでなく、この地域の古代から続く歴史が厳然と遺されている。高岡市は「1600年以前の前田利長以前には高岡市の歴史は無かった」(※「高岡市御車山会館館長の御言葉」)とする「新興宗教」に毒されており、その思想が「加賀藩守旧派」によって広げられて、高岡市の行政全体を歪めている。この発想は交通体系や教育環境整備、福祉行政等全てに暗い影を遺しており、これが、毎年、1000人も人口が減り続ける理由なのだが、行政はこれが「少子化」、「高齢化」の為だとうそぶき、政策が変えられる様子も見られない。現実には、【中心市街地活性化法】に拠る悪政や、交通政策の無策で、周辺地域では、既に高齢者の「買い物難民」や「医療難民」が発生していて、日々の生活に困っている人達も少なく無いのだが、他の市町村に比べて「高岡市」では、中心部の商業者を偏重してその対策を講じる姿勢は全く見られない。話題は職員や議員達の報酬しか無いのだ。正に、これでは「白蟻の巣」では無いか?
以前、高岡市の窓口に相談者の依頼で市道計画を聞きに行った所、その担当者から用件を告げて直ぐにいきなり「気に入らないからお前には教えない」と侮辱的な態度を取られた事が在る。何がお気に召さなかったのかは分からないが、帰りがけに知り合いの議員の名前を口にしたとたんに、駐車場迄追いかけて来て謝ったから二度、ビックリだった。又、ある時に、高岡市の幹部に面会を求めた所、「お待ち下さい」と告げられ、約一時間後に「会えないから出直して下さい」と使いの者から告げられた。更に、新設の「御車山会館」に「御車」の歴史について聞きに立ち寄った時には「高岡市が説明している定説と違う歴史史料が在る」と告げると、その館長は大声でいきなり激怒して、係員は「帰れ」と言う。高岡市の職員は市民を怒鳴りつける程偉く、知識が豊富らしい。高岡市職員のこれ等の市民に対する非礼な態度は、正に「加賀藩政時代の身分制度」を彷彿とさせる出来事だ。高岡市では気に入らないと会うことも拒否するし、観光客も追い返す方針らしい。当方は毎年、相当の税金を納めており、しかも礼を失しない様に大変、気を使っているにも拘わらずに、その「公僕」は昔の殿様然として振る舞っている。昔から「公務員は公僕」と言われるが、正にこれでは「市民が公僕」で在り、「偉い高岡市職員には百拝してお願いしなければならない」様だ。これが高岡市の目指す「観光都市」なのか?
この体質が、全てに「時代錯誤」「閉鎖性」「忖度政治」をもたらし、「高岡市の衰退」をもたらしている。今話題の「相撲道」に限らず、日本では「礼に始まり、礼に終る」事を美徳としてきたが、現在迄、高岡市政では加賀藩保守の「体制派」が絶対的な権力を行使してきた為に高岡市の近代化が遅れ、市民を蔑む土壌が常態化して、このまま「加賀藩時代の悪政」の延長で「高岡市」は「財政破綻」に陥るのだろうか? 加賀藩時代には問答無用で村役を投獄して、税収を上げた「十村断獄事件」が在ったが、いずれ、高岡市も加賀藩の悪政を踏襲して、「垂れ流し政治」の結果を市民に尻拭いさせる事になるのだろうか?

■又、2015年に高岡市が同市千鳥丘町に建設した高岡西部総合公園野球場「ボールパーク高岡」(愛称)は、両翼100メートル、中堅122メートル、収容人員は内野6000人、外野4000人で、ナイター照明や投手の球速を計測表示するスコアボードを備え、甲子園球場を模していると云う大変立派なものだ。 この球場は、高岡市が旧福岡町と2005年に合併する際の新市建設計画の主要事業で、合併特例債で総工費は約49億円をかけた。「新市民らの一体感を醸成する為」と称して旧福岡町と近い市西部地域に整備したとされている。 しかし、実際には、この球場は、当初、福岡町地内に建設される事に成っていたが、どうも政治的な駆引きで高岡市内に建設されたと言われ、この位置に選定された理由は分からない。この球場前をいつも通るが、未だ球場からの歓声や近くの西高岡駅の混雑にもお目に掛かった事がない。球場周辺にはパラパラと犬の散歩者が見られるだけだ。こんな状況で果して経営採算は取れているのだろうか? 今後、発生する年間7000万円もかかる維持費や、膨大な修繕維持費は、又々、高岡市の財政を圧迫しないのか? 少なくとも、将来20年間に収入線が支出線を超えない限り、この施設は永遠に支出が拡大し続ける「放散」の状態になる。採算を意識しない建物では必ず御荷物に成って来る時期がやって来る。官公庁の施設でサービス施設として無料で運営される施設でも、施設の「貢献程度」を評価する「決算」が必要なのだが、毎年、ダラダラと予算を付けて維持するだけの施設になるのが一般的で、監視する筈の体制派主導の議会では議員は「名誉職」的に成り、自分の懷具合を意識するだけの議会に成り下がりがちだ。官庁建物にも何らかの「事業収支」や「評価基準」は必要だ。「収入見込」は変動するが、施設維持費等の「支出」は予め分かって来る。施設計画では本来ならこれ等の長期支出費用もコストとして施設計画の時に検討して予算計画を策定すべきだ。しかし、実際は「流れ」で計画が決定され、「後は野となれ」的に見切り発車してしまう。と云うのも穿った見方で、実際には賢明な運営がされているのかも知れないが、その情報は役人の頭にしか無く、施設毎の評価が公表されているのは見た事が無い。
「財政」も「家計」も収入が無ければ破綻するのは当然なのだが、「財政」の場合は無責任で事無かれ主義の議員や官僚達が、自分の懐さえ満たせば「善きに計らえ」とばかりに放置して、国民、県民、市民達には目眩ましの言い訳や取り繕いを行い、何ともならなくなってから、「実は財政が破綻した」と選挙民にシラーッと報告して、後は選挙民の税負担を上げて帳尻を合わせようとする。利権にまみれて組織的に議員を送り込む財界は操り人形の議員に罪を背負わせて「それは官の事」と口を結び、利権でガッパリ儲けた利益は役員報酬や社内積立金として懐にため込む。政府が云う「大企業に儲けさせれば次第に底辺に利益が降りる」と云う「トリクルダウン」の説明は正に詐欺師が云う説明と同質のものだ。「資本主義」が「資本家は限界迄利益を追求する」と言う体制で有る事は経済学者で無くても知っている。どの法律の何処にも「利益は従業員に還元しなければ成らない。」とは書いて無い。資本家が従業員から極限迄利益を搾り取る体制が資本主義なのに、「資本家の善意で利益を従業員に還元するだろう。」と言う経済政策で国民消費が回復する筈等無い。その上に更に家計から消費税を搾り取れば、国民の疲弊を増大するだけなのは学者で無くても周知の事なのだが、「皆で渡れば怖くない。」とばかりに国民が口をつむぐ事を良い事に議員や官僚はやりたい放題。不足した資金は日銀でお札を刷れば良いとばかりに資金をじゃぶじゃぶ市場に供給していると、その内にケタ違いのインフレに陥り、国民は息も出来ない位の惨状に陥る。現在の状況を見て【朝三暮四】の諺を想わずには居られない。

一般的に、建設投資の収支の黒字化期間は短い程良いのだが、経験上、20年間に収支が黒字にならなければ、赤字線が「放射」して赤字は拡大し続ける。通常は計画をコンサルタントに作成させる事が多いが、この経営採算計画(役所ではB/C)も、議会や市町村の動向を見てコンサルが鉛筆を舐める事が通常であり、事業範囲や数値を極限迄大きくするか小さくするかの「見込み」で採算計画はどうにでもなる。ましてや、収入計画は「予定」であり、「当たるも八卦」の世界になる。しかも、この採算計画では、複雑な指数や係数を用いるので、一般の議員や市町村の担当者ではその可否が判断しにくい。しかも、この計画では、開業後の採算をmaxにしている為に、実際の運営事務局がサボったりする事は見込んで居らず、ましてや、選挙で市長が交替した時の政策変更も考慮されない。しかし、建物の老朽化はマッタ成しで在り、内装2年、防水10年、設備15年等の耐用年数が来れば修繕維持費はマッタ無しになる。更には、コンクリートの施工不良や、鉄骨、鉄筋、外鉄部等も露出した場所や水にさらされた場所はマッタ無しで修繕維持が必要になる。それに加えて、その施設の陳腐化が発生して、必要性が低下して誰も来なくなる事が起こる。そうなれば、建物は使用出来ても、社会的なスクラップに成ってしまい、その時には巨額の解体費が発生する。この様に「施設」は「産み出してから始末される迄」、営々と金を食い続ける。収入計画がズサンで、日々の営業努力が無ければ、官庁施設はズット市民の血税を食い続ける「ゾンビ」になる。従って、時の権力者や有力者が一時期の「名誉」や「選挙対策」で、新しい施設を造り続ける事は、将来に取り返しのつかない禍根を遺す。正に、建物についても、常に「拡大生産」、「収入拡大」が要求されているのだ。そこに、努力しない市長や役人が介在したとしたら、市の財政がドロ沼に入り込む。今や、「行政」も「経済論理」で「経営」すべきで在り、地方政治は「有能な経営者」を求めているのだ。そこには「地元名士」や「有名大学出身者」、「中央官庁出身者」等と云う先入観が介在する余地は無いのだが、往々にして、地方政治は「迎合、忖度、利益誘導」等によって体制が作られ、その内に、行政全体が「沈没」してしまう。合理化と言えば、先ず能の無い経営者は社員を減らし、施設を閉鎖してつじ褄を合わせる。これが行政になると、先ず弱い者から「合理化」する。「職員」の給料をカットして、福祉施設の閉鎖が行われる。しかも、幹部は高給を取りながらで在る。経営責任が在れば、先ず、経営者が無給になる。これが中小企業では当たり前の事だ。

■現在の高岡市は、市民不在で、役所や議会に関して職を得ている者達だけの「高岡市」に成り下がっていると見られる現象が在る。役所は公正に行政サービスを提供するべきなのだが、高岡市では、旧高岡市中心部への偏重が極めて高い。現在の高岡市中心部の商店街は郊外の大規模店に客を奪われ、文字通りのシャッター街に成っている。このスラム化して来る都市に対症療法でいくら資金を投下しても沈没は止まらない。大規模店と同じか、それ以上の投資をして大規模店に勝る施設計画や地域計画が無いと、小手先の対策で何とかなると思うのは間違いだ。要は最早、店舗間競争では無く、地域間競争で在り、大きくは都市間競争で在り、それも隣接都市間だけでは無く全国的な都市間競争でもある。又、郊外大型店では充分な駐車場を持ち、店舗間はオープンに成っている。一回、一回ドアを開けて入る店舗は「閉鎖型店舗」で在り、ユーザーの買い廻りや利便性が悪い店舗で在る。従来の商店街の形ではこの「閉鎖型店舗」になる。近年では、この店舗形態は通常「高級店」や「特定の顧客を対象とする店舗」で用いられるもので、日常の買い回り店の形態では無い。店舗の立地、構造等を無視して幾ら資金を投下しても採算は取れない。

隣県の金沢市では、「歴史のまちづくり」の為に先ず行ったのは、「情報の公開」、「市街地の電柱無柱化」、「観光施設を繋ぐ遊歩道の整備」、「ポケットパークの整備」等のインフラに力を入れて、将来的には片町から金沢港へのアクセス確保の為の「大規模道路」、「地下鉄整備」の計画を入れている。これは、単に観光を役所の論理で進めるのでは無く、個別の施設以外のインフラを観光化事業の目玉にした。当初の計画段階では、地元商業者から「金箔の街、金沢」「お茶屋(旧の遊郭)文化」等も意見として出たが、当時の市長は幅広く大手企業の意見も求める委員会を立ち上げ、商工会議所、石川県も交えた会議体を設け、手弁当で全国の先進地域の視察会が行われた。その精神の根幹には先ず「役所が保有する情報の市民との共有」と「役人の行政指導と言う恣意的な政治手法による公的情報の独占の排除」を目指し、役人の公的な奉仕姿勢を向上して公共施設の生産性の認識を高める事に在った。役所の持つ情報は基本的に市民の税金で収集されたもので在り、基本的には市民共有の財産なのだが、何を勘違いしているのか、「役所情報は役人のもの」と勘違いしている役人が多い。市民だけで無く、県外、国外から来た人達にも同質のサービスが提供されなければ、県外からの移住者は無くなり、国際的な観光客やコンベンション、アフターコンベンションの誘致は出来なくなる。世界の観光都市では観光客を意図的に差別して排除する都市は聞いた事が無い。要は、「世界に開かれた観光都市」で無ければ、気軽に全世界から観光客は来てくれないのだ。何処かの大企業の社長が富山県の閉鎖性を訴えて「今後、富山県からの採用はしない」と記者会見してブーイングを受け、知事迄が非難した事件が在った。この社長は、世界企業としては富山県基準の発想ではやって行けないと思ったのだろう。富山県民の閉鎖性は、別に道路を通行中に差別を受ける様なものでは無いが、地域に入ると、有力者や旧家等が幅を利かせて、一般市民は「当たらず触らず」に対応している。この、事無かれ主義が県外から来た人達にとっては「仲間主義、排他的」に見え、進んで意見を言わない態度を「消極的」と見て、これも「地域主義」の傾向の一つと見る。これでは、県外の人達や世界からやって来る観光客に「富山県民は何を考えているのか?」といぶからせてしまう。富山県民の「素朴さ」が、世界標準では「排他的」と見られる。ガツガツ来る大阪の人達は、それに比べて当初は「厚かましい」と思われるが、反面、すぐに「おっちゃん」と親しげに会話してくるから、思わず微笑ましく成って何でも話してしまうフランクさが在る。又、金沢市では「加賀の一両妾」と言う言葉が在り、この言葉は金沢人のおおらかさを表すと同時に富山県民を「越中さ」と言う言葉で揶揄する意味が在り、前田家の占領地として「ガツガツした高岡商人」を評価する侮蔑する意味も含まれている。これは、「金沢人は一両を手にすると妾を囲うが、越中さは金が有っても働き続ける」と言う意味で在り、反面、賛辞にも取れる。各々、都市の歴史は異なり、何も被占領地の高岡市が尾張から来た前田家だけを歴史の中心に据えて、金沢方式をマネるだけが能では無い。前田家は当主が編纂した「加賀藩史稿」には「税金の大半は越中から徴収した」事を記載し、事実、明治維新に至る迄、越中西部は60~75%と言う目玉が飛び出る様な高率な税金をかけて、越中の民を塗炭の苦しみに陥れた悪政を敷いていた。その為、自害する者が絶えず、小矢部川に流れる遺体を番人が長い竹竿で下流に押し流していたと村の古老は伝える。河川の流域にはその供養の地蔵尊が立っている。歴史は客観的に事実を確認すべきだが、「高岡市史」自体が体制派が造り上げた「偽物」で在り、高岡市中央図書館にはこれを批判した「ある贋作物語」と言う書籍も残っている。

■高岡市の観光の目玉の前田家菩提寺の「勝興寺」や前田家から姫が嫁いでいた高岡市伏木の「勝興寺」は「国指定文化財」、「国宝」とされて、表向きは国費が投じられているかに見られるが、実は「国費の投入」には条件が在り、「補助分の半分は国費だが、残りの半分は富山県と高岡市が負担する」と云う原則が在り、この両寺の修復には四分の一が高岡市からの補助金になる。これ等も高岡市民の目を眩まして秘かに加賀藩恩顧の有力者が根回しして進められ、莫大な税金が投入される。加賀藩は越中を搾取の対象としたが、民衆は塗炭の苦しみに喘いだ。高岡市の「観光化政策」は、秘かに市民を欺いて加賀藩所縁の施設に集中して投資されて来たのだ。県内の古刹とされる寺院や神社は全て門徒や氏子が寄付を集めて自力で修繕維持をしている。加賀藩所縁と言うだけで、何故、国費、県費、市費が投入されるのか?
しかも、この施設は更に「拝観料」迄取っているのだから始末が悪い。
加賀藩恩顧の有力者は過去に莫大な利益を得ており、その関係者が秘匿した資産をこれ等の寺社に寄進すべきで在り、門徒でも無い一般市民の血税を投入する理由は無い。極論すれば、議会で多数派を占める加賀藩恩顧の守旧派が、高岡市の財政規律を歪め、際限無く利益誘導してきた結果が、莫大な財源不足を生じさせている。








■金沢の金箔産業は金沢市の全産業の3%しか無く、金沢では商談を芸者を挙げた料亭で行う習慣が在り、旦那衆にとっては日常の事である。地元では「金箔都市」、「郭文化」を打ち出したいと云う人達も在ったが、どれも「世界」に訴えるインパクトにはならない。
その結果、当時の市長は「今後の観光都市は国内に止まらず、【世界の金沢】を売り出す必要がある」として、「世界都市 金沢」を都市計画の標語とされた。その為には駅周辺の世界的なホテルチェーンの誘致を目指して、駅前には高さ130mの「ホテル日航」の誘致を行い、金沢駅裏には2000台を超える立体駐車場の設置、駅地下の有機的な結合、バスターミナルの整備、観光案内用情報端末の主要交通施設への設置、市街地の交通誘導表示ボードの設置等の幅広い施策を実施。市街地を流れる辰巳用水の蓋を外し、流れる清流の演出や、兼六園~片町~武家屋敷~金沢駅の遊歩道と公園の整備、音楽、芸術ホール、近代的な美術館や観光スポットの整備等の多岐にわたる都市計画を実施して全国から来る観光客、学生や外国人の歩行ルートを確保して回遊性を高めた。何故、国際的なホテルチェーンが必要かと言うと、全てが外国人対応で、ベットは広く、長く、ユニットバスは広く、大きく、出入口や天井高さは高い。従業員には外国語の訓練を行い、案内には外国語も使用される。世界のホテルチェーンには大別して、アメリカ方式とヨーロッパ方式のホテルがある。アメリカ方式のホテルでは仕上げはシンプルだが機能的で、ヨーロッパ方式の仕上げは豪華で所謂、宮殿を彷彿とさせるがシャワー等の設備は簡単にできており、ヨーロッパの古いホテルでは部屋の真ん中に中世風の浴用の白いタブがあるだけのホテルもある。しかし、国際的なホテルチェーンはその交通アクセスもあるが、基本的にその都市が、人口が60万人、100万人等の大規模都市かどうかを立地基準にしている。従って、それ以下の地方都市では誘致の仕様が無い。裕福な外国人は、外国人対応の中核都市に宿泊して、その周辺の諸都市を観光する。富山市では例外的に旧名鉄ホテルや全日空ホテル、第一ホテルが立地しているが、これは従来、富山市が北陸の中核都市であり、大手商社等が富山市に支店を置いていた名残だ。その大手企業の支店や支社も今や、金沢に移ったり、廃止されたりして富山県全体のステータスも見る影もない。その点で、高岡市の観光は独自の施設を誘致するより、大都市との交通アクセスの利便性に重点を置くべきなのに、北陸新幹線は市街地の外れに立地して、城端線と言う支線に乗り換えて市街地へ向かわなければならない。その北陸新幹線も富山駅に互して利便性が計られるのかと思いきや、停止しない列車も在って、明らかに金沢とのアクセスは悪い。北陸自動車道にしても市街地から離れた場所にアクセスポイントが在り、全く、高岡市の交通政策は目茶苦茶である。

これに引き換え、金沢市では「本気の都市計画」を作り、市民目線での「観光都市」を目指して実施した。これは単なる観光だけでは無く、世界のコンベンションの誘致とアフターコンベンションを誘致する為の施策とも繋がっている。観光、食、文化等の施設の集積と連携が無いと世界からの観光客は呼べない。ましてや、能登地区や周辺都市との連携が無ければ、アフターコンベンションは成り立たない。又、その都市周辺にそれをサポートする定住人口が必要である。そこで、計画されたのが、郊外や能登地区とJRを繋ぐ「駅西大駐車場計画」で在った。この駐車場計画は、JRが切符と共に駐車券を発行できる体制を取る事によって「一貫した交通体系」を作る事に貢献した。又、これ等の対策により、金沢市は「カー&ライド政策」で市街地の交通渋滞対策を行い、能登地区も含む広域圏の中核都市に成った。金沢市ではここまで徹底して都市計画で対応して来たが、果して、中途半端な現在の『高岡市』ではパリやロンドン、ローマやギリシャ等に対抗して世界から観光客を誘致出来るのだろうか? それに加えて、この様な貧弱な観光対策で、形ばかりの新幹線駅を持つ『高岡市』が、富山県西部の中核都市になれるのだろうか? 新幹線の誘致に巨額の投資をしてその採算は取れるのだろうか? その成否の全ては「高岡市」の努力一つに掛かっている。『待てば何とかなる』と言うものでは無く、汗まみれの努力が必要だと云う覚悟はあるのだろうか?
ただ、「新幹線誘致で赤字財政に成った。」と報告すれば、市長が免責されるものでもあるまい。

■古い歴史を売りにする、高岡市と良く似た条件の「飛弾高山」では、名古屋のセントレア空港からJR東海や名鉄バス等で、名古屋市内のホテルから一貫した送客体制が講じられ、海外からの観光客が激増した。名古屋では各著名ホテルにバスが横付けされて、セントレアと直結している。富山空港は世界には僅かに繋がっているが、世界からの集客体制には程遠い。
ある企業に「富山県進出」を打診した所、「富山県には名古屋を初め、オール日本をネットワークする空港も無く、ましてや富山空港は世界のハブ空港でも無い。現在の大企業幹部は秒単位で世界の工場等を駆け巡っており、中には自社ビルの屋上にもヘリコプター基地を備えて、直ちに海外に出発できる体制を取っている。この様な企業のトップはユーザーとの面会も5分程度しか無い。富山県の時間軸では、富山県に拠点を置くメリットは無い。」と断言された事が在る。漸く開通した北陸新幹線も大阪との連携も薄く、時間帯も僅かに改善したに過ぎず、日本は最早、リニアに見られる「超高速時代」に入りつつある。高岡市は嘗て、この「北陸新幹線」や「高速道路」の誘致にも後手を踏み、新幹線と在来線の駅舎は遥かに離れ、北陸自動車道も高岡市郊外の「能越道高岡インター」からのアクセスに頼っている。これは、高岡市の政治、企業、産業等が「井の中の蛙」で在り、世界の枢勢に疎い為だ。現在のビジネスは「玄関が世界に繋がっている」状況なのだ。観光客も外国人との対応が日常化しており、公共施設や交通機関、宿泊等の施設にも外国人を配置して対応している自治体が多い中で、他の地方自治体では看板や観光客向けパンフレット等も外国語併記にしている所も在る。高岡市は行政の対応やサービス施設の面でも「観光都市」には程遠く、来るべき「東京オリンピック」の二次観光都市としてのサービス体制も出来ていない。これで「観光都市」、「歴史都市」等と騒いでも、世界からは相手にもされない。富山県の「立山」には観光客が増えたと云うが、それは飽くまでも「点の観光」で在り、観光客が地元に落とす金は他の地域に比べて比較にもならない。金沢でも以前は道が整備されておらず、電柱が狭い歩道の真ん中に在って、リュックを担いだ「カニ族」と呼ばれた観光客が、電柱を避けて、正にカニと同じくゾロゾロと横歩きをしていた状況で在った。高岡市では歩道も嘗ての金沢程狭くは無いが、観光客がゾロゾロ歩いている状況でも無い。しかし、市内各地を繋ぐルートは判りにくく、観光案内板もロクに無い。スマホで勝手に調べれば良いと云うものでも無い。

■高岡市の事業では、近年一般化しているB/C(ベネフィット バイ コスト)の検証も無く事業資金が投下されている様で、「高岡市曳山開館」に25億、「福岡町駅前開発」に40億等の投下をしても、投下資金に見合うだけの「観光収入」や、再開発に伴うメリットが回収される事も無い。国の予算執行では「B/C 〉1.0以上」を徹底して費用対効果の事前、事後の検証が厳重であり、役所も自前の建物を持たずに民間の低家賃の施設に入居する等の対策を講じている。しかも、建物は建設すると、将来の修繕維持費等を含んで耐用年数迄、維持しようとした場合に、「初期投資の三倍の資金手当」が必要になる。この費用を捻出出来ない建物は遠からず「スクラップ」に成り、市街地はスラム化する。市長のパフォーマンスで、やたら箱物を造って業績をアピールするアホな市長は、将来、都市をスラム化する犯人なのだ。今回計画されている駅前再開発ビルはどの様な採算計画で、B/C がどうなっているかは是非、注目したいものだ。40億円も投下した福岡町駅前区画整理事業も、道路が拡幅されただけで、敷地は駐車場や民家、コンビニエンス等の低採算の施設しか立地せず、日中は人通りさえマバラだ。高岡市は何時まで、「再開発」と言う御念仏を唱えて、基本的な交通対策や教育対策、福祉対策等の政策を後回しにして、人口減対策も講ぜずに、何時まで商業者や利権議員の思惑だけの、採算計画も立たない「箱もの行政」を続ける積もりなのか?
高岡市は地元有力者の意向のままに市政を行い、無防備に市民の血税を垂れ流してきた。

■2017年にも高岡市の小矢部川河口に在る偽物の「如意渡し像」を伏木駅前に動かしたと云う。この銅像のモデルは高岡市福岡町赤丸の「二位の渡し」で起こった「義経記」に記載される事件をモデルにしたものだが、高岡市長は一民間企業である渡船会社の専務の意見を受け入れて「歴史を偽造」して、小矢部川河口に建設したものだ。これも「客が来なくなった」として、再び伏木駅前に動かしたのだと云う。


・小矢部川の河口に「如意の渡」のモニュメントが建つ。最近は観光案内にも登場するこのモニュメントは「勧進帳」の原点になった「義経記の二位の渡」(歌舞伎勧進帳では「安宅の関」のシーンになった。)の場面を大きな彫像にしたもので、「石川県小松市の安宅の関」とちょっとした本家争いが有ったと云う。両者とも偽物同士の争いだ。
高岡市は広報統計課1996年発行の「高岡散策」という本でこのモニュメント製作の経過を説明し、成人式にも配布した。それによると、モニュメント製作は民間のレジャー会社が観光振興の為に製作したもので歴史的な検証が行われた訳では無いらしい。

・「義経記」には、この事件は「五位庄」の出来事とされる。この庄園はこの事件が在った「鎌倉時代」には、「後白河上皇」の庄園で「越中吉岡庄」と呼ばれた。解説にも「如意の渡し」とは「五位の渡し」(※「赤丸浅井城」・「赤丸浅井神社」前の渡し場の「二位の渡し」から伏木河口の六渡寺村迄の舟下りルートを指す。)の事だと記されている。「二位渡し」は「赤丸浅井神社」が「元正天皇二位宮創建とされる由緒」に起因する。この事件は、義経主従が「二位の渡し」で舟に乗り込もうとした時に起こった事件で在り、小矢部川河口は古くから「二上庄」と呼んでいた。(※「鎌倉遺文」)


「加賀藩時代の二上庄」


誰もが読んだ事の在る「義経記」を高岡市教育委員会や市長様は読んだ事も無いのだろうか?
その『偽の観光施設』を費用をかけて、2017年には再び伏木駅前に動かしたと云う。
正に高岡市政は「お友達・忖度政治」そのもので在り、財政破綻しても責任を転嫁しても関係無いと言うのだろう。










▼「延喜式内社赤丸浅井神社」が「元正天皇の二宮」(※「文武天皇の二宮で聖武天皇の弟」)が再建されたと伝える「川人山鞍馬寺三社記」と、その縁起を否定して「六渡寺渡しが如意の渡し」と主張した加賀藩士富田景周著の「三州史」の記載。
⇒加賀藩は赤丸城の中山氏が能登末森の戦いで佐々成政に味方した為に、赤丸村の多くの寺院や住民を高岡市街に強制移住させて村落の解体を狙った。その為に赤丸村の歴史を前田利家が城を構えた守山城の周辺の歴史にすり替えた。当初、赤丸村は前田利家に内通した氷見の阿尾城城主菊池氏に与えるとしたが、降伏すると、その約束は反古にされて、赤丸村の米の生産が富山県西部でもトップクラスで在った為に、加賀藩の重役「長九郎佐衛門」に知行された。
(※「越登賀三州史」・「越中志徴」・「小矢部市史」)
⇒高岡市の旧藩士や有力者はこの著作「三州史」を根拠にして歴史を捏造し、それを真に受けた不勉強の学者様が「如意の渡しは守山城近くの六渡寺の渡しの事」と喧伝して、加賀藩の歴史を踏襲する「高岡市」は恰も真実の様に市民に吹聴した。井波町には「六渡寺川舟下り」(※「如意の渡し」と云う小矢部川舟下りルート)の絵図が遺される。「高岡市の歴史」は加賀藩が占領地を統治する為に都合良く作り替えられ、赤丸村から高岡市に動いた「御車山祭り」の原点に成っている「越中宮極楽寺」や国指定文化財の千手観音像を祀る「総持寺」等の古刹の歴史も、「守山」や「高岡市石堤」から高岡市街に動いたと歴史を捏造している。全ての「高岡市の歴史」は加賀藩の嘘から始まっている。加賀藩恩顧の有力町民は大阪堺市で自治権を持った「町衆」を模して全て加賀藩の権力を背景として排他的な「唯一史観」を持ち、「周辺住民を見下した文化」を醸成して、平民は事無かれ主義で有力者にすり寄る習慣が定着した。その為に、前田利長を祀る吉田神道の関野神社と組んであらゆる宗教を弾圧して、あらゆる真実の歴史を偽造してきた。それが現在の「高岡市史」に全面的に反映している。
〓〓》従って、「高岡市史」には「資料編」も無く、高岡市の歴史に原文の古文書は遺されて居ない。在るのは高岡市の有力者が遺した作文ばかり。早く、真実の歴史に基づく「歴史の町づくり」に立ち返って貰いたい。
(※「福岡町史」掲載)



■市民の血税を地元の意見だけで垂れ流し続けた為に、2018年は40億円もの歳入欠陥を惹き起こし、再建団体に近づいたと報道されている。原因は明確で、「財政」を知らない行政幹部が「家計」では当然の「入りを促す」事をせずに、企業誘致等の歳入拡大策を全く取って来なかった為であり、地元財界や加賀藩時代から続く有力者主導の「忖度政治」を長い間ズルズルと続けてきた為だ。嘗て、「京都の有力企業が進出したいので用地のお世話をして欲しい」と高岡市幹部に申し入れた時に、高岡市幹部から「高岡市は誘致をやって居ない。窓口は商工会議所だ」と門前払いをされた事がある。かと思うと、別の大企業から高岡市内の工場の再開発を相談されたので市役所に各種規制を確認に出向いた所、市役所から頼まれたとして「その工場は市役所が開発するから手を引いてくれ‼」と言って来た。しかし、何時まで経っても市役所が動く気配は無い。公益事業優先の開発を考えているかと思いきや、市役所や議会が単に利権が欲しかったかららしい。
全国、何処の県や市町村でも知事や市町村長が率先して企業誘致に動き、幹部を叱咤激励して、自らも企業の直接訪問を行っている。嘗て、トヨタの企業進出窓口の方から「企業誘致に熱心に動かれているのは富山県では入善町で、町長の熱意は凄い」と聞いた事がある。その担当者からは「富山県」や他の市町村長の話は聞かなかった。
「高岡市」は長い間、「ぬるま湯の中の蛙」だったが、ここに来て急に「熱湯の中の蛙」に成っていた事が分かったらしい。それでも未だ、出てくる対策は「施設の閉鎖」や「市職員の給料カット」であり、当事者意識が無い行政幹部や議会は、相変わらず市民の血税をむさぼる積りらしい。
「金をかければ観光客が来て税収が増える」と云う単純なものでは無い。この責任は、財政能力の無い市長や行政幹部とそれに癒着してただ「賛成」を唱えてきたオール与党化した議会の連帯責任だ。財政破綻したら議会や行政幹部は全額を個人財産で補填すべきだ。単に労働者の市役所職員の給料カットをし続ける事は責任の転嫁であり、先ず「市長」・「幹部」と「議員全員」の大幅な給料カットを行うべきだ。高岡市の議員歳費はお手盛りが続いて高額なレベルに在り、正に政治に巣食う虫達とも云える。虫達にも「害虫」と「益虫」が居る筈だ。
金沢市は加賀百万石のお膝元で有りながら、単に百万石の讚美だけでは無く、文化や遺された遺産は保存しつつも、高岡市の様に加賀藩を偶像化して瑞龍寺や勝興寺の単体に資金を投下するのでは無く、「有機的な結合の為に」資金を投下して、合わせて、都市計画による市街地再生を果たした。基本的には民間の再開発が主体で在り、一つの民間の寺院に単体で巨額の資金を投下していない。ましてや、その寺院に市役所の関係者を派遣する等は無い。金沢の本願寺別院でも独自で整備を続けている。市民の税金の使い方はかく有るべきだと思う。
金沢ではこれ等の政策に因って、市民の憩いの場所としての市街地の利用が便利に成り、新たな商業施設も立地し始めた。金沢市でも、安易に進めた駅周辺のマンション開発では、地価の暴落や空室の発生等で痛い目に会っているが、富山市や高岡市は「中心市街地活性化」と称してこの金沢市が失敗?した計画を中心に据えた都市計画を進めている。やがて、これ等の町はスラム化して来るだろう。これは、商業実態を知らない、開発の結果に責任が無い商業主義のコンサルに丸投げした結果であり、世間が行政の動きをつぶさに見ている事を忘れた市役所の勝手な開発の結果だ。被害を受けるのは巨額の財産を拠出した権利者で在り、税金を拠出した市民なのだ。市民を抜いた行政都合の街作りが如何に自治体自体を廃墟に導くかを知らない為だ。開発利益や利便性、安全性等、市民が求めるものは多岐に亘る。高岡市の様に、都市機能の中心に為る交通政策や教育政策を無視して、「加賀藩に感謝」して「加賀藩関連の施設だけに」資金を投下する行政の姿勢にどれだけの市民が両手を挙げているかは、現在の人口減少を見れば一目瞭然である。教育施設、環境が悪いだけで、全国の都市から人口が減って、隣県に人口が動くのは今に始まる事では無い。北陸新幹線が入っただけで将来的に薔薇色に成った訳では無い。交通機関や高速道路の整備はストロー現象で、産業や雇用、住民を全て一挙、短時間に吸い上げてしまう。特に隣県で通勤圏の金沢圏への吸い上げは強力だ。名古屋近郊の岐阜市では、公共交通機関が高速化してから僅かの間に駅前の衣料品や飲食店が潰滅して、名古屋市のベットタウン化が進み、市内の百貨店も潰れ、駅前の商業施設は閉鎖して、駅前は「マンション開発」で対応した。
「住宅開発」と「商業開発」では、その土地の収益力が全く異なり、嘗て富山市中心部は25000円/坪当り の家賃が取れたが、賃貸マンションになると、せいぜい坪当たり3000円から4000円位の収入しか見込めず、又、ビジネスホテルでは床坪当たり6000~8000円の収益しか見込めない。「収益還元法」で逆算すると、それが土地価格に直結して、市街地の土地価格の暴落が始まる。富山市総曲輪は嘗て、坪当たり500万円の時代には商店主達が子供達への相続に苦しんでいたが、近年はマンション開発が進み、中心部でも坪当たり80万円程度迄、地価が暴落している。マンションは販売価格から逆算して土地費、建築費、販売経費、利益を計画するが、土地費以外は価格弾力性が少ない為に、マンション開発では容積率から計算して土地の仕入れ価格が決まる。地方都市ではマンション価格から逆算すると一種当たり(※販売延べ床面積の一坪当たり)は20万/坪を超えられない。従って、市街地の中心部の容積率400%の地区でも土地の仕入れ価格は坪当たり80万(20万×4倍)を超えられない。これが富山市の地価暴落の原因の一つだ。この現象は一時期、金沢駅周辺でも発生して、金沢駅の周辺を国鉄清算事業団が土地を売却した時も、線路近くでも坪80万で売却された。これが、引いては固定資産評価減、税収減にも繋がって来ている。「中心市街地活性化」と称する安易な中心部のマンション開発は、思わぬ二次被害をもたらすのだ。
不動産投資や土地信託等では「家賃から逆算して」土地価格が決まる。事業者はその土地購入価格が低ければ低い程、事業利益が出るから、交通の便がさほど良く無い郊外でもマンション開発が進められる場合も在る。それが「リゾートマンション」と銘打って温泉付きとかのメリットを付けて販売された。しかし、温泉付きマンションは温泉の為に水道管の腐食が早い為に、後々、マンションのリフォームに巨額の費用が掛かる。マンションは外部や室内壁等の構造体、設備が共用の為に、老朽化しても勝手にリフォームできない。そのリフォーム費用も木造に比べて高層マンションでは足場代等の仮設費用も大きい為に、すぐ億円単位の費用が掛かり、入居者は頃合いを見て売却して逃げ出す。その為に、老朽化したマンションは買手が付かずにスラム化して行く。又、ホテルデベロッパーの中には僅かな見せ金を「協力金」として数年間、地権者に貸し付けて数年の内に回収して担保をゼロにする業者も在る。この場合は、定期的に訪れる改修や追加投資が建物オーナーの負担に成り、しかも、テナントの希望でされた独特の内外装の意匠は、そのテナントが契約を打ち切って突然退去すると、次のテナントには引き継がれ難い為に、オーナーは泣く泣く、賃料改訂や改修費用の負担で「泣き」を見るか、土地すらテナントに売却して、先祖伝来の土地もろともに喪って仕舞う。又、何としても事業を存続させようと足掻いても次のテナントが見つからずに、その再開発地域全体がゴーストタウン化する。要は、「生み出すのは官僚やコンサルが支援?するが生まれた後は自己責任」と言うことだ。又、賃貸を目指す再開発の場合には、「賃貸期間」と言うリスクが在る。商業テナントやホテルテナント等では数年、数十年単位で更新する為に、大規模テナントは採算計画が取れなければ、さっさと撤退する。ホテルでも十年単位で見直しをするから、余程解体費用を超える建設協力金でも受け取って居なければ、突然のテナント退去は破産を意味する事になる。多額の借入や償却残を残して、回転資金迄自転車操業に陥っているオーナーは、ハゲ鷹フアンドと呼ばれる様な不動産屋に全てを吸い尽くされるしか無い。この様に再開発の実態は最もリスキーな事業なのだ。

更に、いずれは、この事に加えて市街地の人口現象で、商業施設や医療施設が閉鎖して加速度的にスラム化が進む。最早、シャッター街どころか、崩れかけた廃屋の市街地が遺される。無秩序な市街地のマンション開発は、何れ、東京近郊で発生しているマンション街の様なスラム化を産む。そのスラム化対策として市役所は無尽蔵に公費を投入し続けて、自治体は崩壊する。その挙げ句に資金力のある者、一過性のマンション開発で利益を上げた者やたっぷり資金を貯めた政治家は何食わぬ顔で他の地域へ移って行く。これが、地方都市で今後、発生する現象だ。要は、どんな都市開発でも利益や便益を産まない開発では、何れ、スラム化して行く。新たな事業の創造や企業誘致等、あらゆる利益、便益誘導の努力もせずに、小手先のマヤカシで都市機能は維持出来ない。大都市では商業施設に一日、数十万人が入場するが地方都市では数千人単位に成る為、あるデベロッパーからは、「一人、100円の物を売っても、同じ建設費をかけていては採算が取れない」と告げられた事が在る。地方都市で、人口が毎年、千人も減少すると云う事はこれ程、深刻な事態なのだ。

■議員の横領に近い政治資金の使用により議会の多くの議員が辞職した富山市は市長の先進的な『まちづくり』の効果をを打ち消して、今や「恥じを知らない議会」として全国で有名になり、都市の魅力が半減した。長く企業誘致を担当した経験から、全国企業は、その所在地のステータスで支店や工場を置くケースも多い。又、その市町村の教育レベルや生活レベル、市民の意識等の「民度の高さ」を基準に進出する企業も在る。「東京都」や「金沢市」は全国的にも転勤族が住みたいとして候補に上げる。「教育環境」や「交通機関の利便性」が企業進出の大きなポイントにもなっている。嘗て、一流企業の誘致活動を行っていた時に、その企業の人事担当からその自治体の教育レベルや幼、小、中、高、大等の教育施設の詳細レポートを依頼された事が在る。企業が進出しても高度な産業では、教育レベルの低い地域へ社員が移動を渋るからだと云う。教育や交通、商業、医療等も人事採用では重要だと云う。これ等は全て「企業誘致」のツールに成っているのだ。残念ながら、現在の高岡市は、この重要なポイントも無視して、行政、議会は依然として深い眠りに入ったままだ。蔓延する「何とかなる」と言う考え方は、現在の様に移り変わりが激しい社会情勢では「衰退を選択」している事とイコールだ。新幹線ルートが決まった敦賀市等は、これで一挙に通勤圏が京都、大阪迄広がって、人工や産業の流失が加速する事を恐れていると聞く。高岡市も能越道路の整備は中京圏へのアクセスが広がり便利な事だけでは無い。実際に高速バスの整備では、高岡市に住宅だけを残して名古屋市や豊田市等への通勤が可能に成り、高岡市は中京圏や金沢、関西圏のベッドタウンになってしまう可能性がある。しかも、交通、商業、教育、医療施設が消えた街からは、加速度的に人口が流失する。その時になってから、お手盛りで勝手な事を行っている行政や議会は、如何に自分達の悪行が都市をダメにしてきたかを身に染みて痛感し、市民はこの無策を放置してきた責任を痛感するだろう。行政が何も出来ないなら、せめて、市民は声をあげて行政を監視し、叱咤する必要がある。役人は安定した給料で「行政指導」や「法律」を盾に権力を行使する事しか知らない。真剣に街作りを考え、実行出きるのは役人では無理だ。それに引き換え、民間は明日の飯を求めて、アイデアを出して、ノルマの達成に必至だ。
石川県では、自治体に民間出身の人材をスカウトして、企業誘致を専門に行わせている自治体もある。民間を知らない役人に企業誘致は無理だと云う事だ。
企業誘致と云うと、単に雇用が増えるだけでは無く、勿論、従業員関連の諸税や企業の固定資産税、法人税等の自治体財政を増やす効果の方が直接的に効いて来る。又、「酒税」等は直接市町村にも恩恵をもたらすとして各市町村の誘致合戦が激しい。……………と云うと役人は「そんな事は分かっている。」と逃げるが、その結果が明日の飯に繋がると言う民間の切実さは全く無い。財政難だからと給料がカットされても、それが自分達の怠慢の結果とも気付か無い。ましてや、行政マンを指揮するトップが何も行動出来ない「お利口さん」では、その迷走も止む事はない。何と言い訳しても政治は「結果責任」だ。長く続いた高岡市の政治家と官僚連携の放漫経営の結果、破綻の入口に来たと云う事だ。地域エゴで為政者に取り入り、勝手な事を重ねて来た一部の特定地域住民の責任も大きい。
「財政破綻」したら他人事みたいに「税収不足です」と逃げる市長は企業経営者なら「即 解雇」だ。市民としては、一刻も早く、「高岡市」に「井の中の●●」から脱皮して、再建団体に陥る前に、広く世界に目を配って広い視野で「迅速に行動に移して」欲しいものだ。
高岡市の様に「入りを考えず出を際限無く脹らませる道楽者」に、高岡市の行政を司る資格は無い。民間ではこの様に当事者能力に欠ける人は従来「禁治産者」と呼ばれて社会活動が制限された。新しい制度では、この代理者を「後見人」と呼ぶが、高岡市に「後見人」をつける必要は無いのだろうか?
●禁治産者【きんちさんしゃ】
【民法7条以下に定められていた制度であるが,1999年12月の改正により成年後見制度に改められ(2000年4月施行),従来の禁治産者は〈成年被後見人〉と改称された。】




🔴2017年「第30回特別展 越中福岡の刀匠 宇多派 」(9月23日~12月3日) 【高岡市福岡歴史民俗資料館】

2018-10-22 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸















▼南北朝時代に「越中吉岡庄(赤丸村領鍛冶屋町島)」に大和国宇陀郡から移り住んだと言う「大和伝 宇多派 宇多国光」!!
「宇多派」の刀は南北朝から室町時代に多くが作刀されており、黒い地金を特徴としていると云う。



■宇陀郡は「神武天皇」が大和国に入られた時に着かれた場所で、「ヤタガラス神社」が鎮座しており、「日本刀の祖」とされる「天国 アマノクニ」が工房を構えた。「天国」は平家の重宝「小烏丸 コカラスマル」(「アメノムラクモノツルギ」の写しの両刃の剣を作ったとされ、現在は天皇の護身刀として皇室の重宝)を作刀したとされる伝説上の刀工であった。この宇多刀工集団から出た「宇多国光」が初め加賀に移り、後に「越中吉岡庄(赤丸村鍛冶屋町島)」に住したとされる













(※「系図」には「五位庄三日市」と記載されるが、加賀藩時代には、嘗て前田利家と戦った「赤丸村」の表示はの地図には消されていた。尚、元々、「越中吉岡庄」と呼ばれた皇室庄園は、室町時代に足利幕府の糧所になると「五位庄」に改名された。)



■大和国宇陀郡は南北朝時代に伊勢国司北畠親房の家臣が所領とした地域で、後醍醐天皇は「ヤタガラス神社」を崇敬されたと言う。「北畠親房」は後醍醐天皇の建武親政の時の重臣であり、後醍醐天皇の庄園の「越中吉岡庄」の「浅井城」に興国三年、後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が入られた時にも奥州で南朝の為に戦っていた。



■「延喜式 伊勢大神宮」によると、元々は伊勢神宮の神領として「神田卅六町一段」が在り、この中に「大和国宇陀郡二町」が記載される。しかし、この神田は次第に伊勢国司北畠氏に押領されて南北朝時代には「北畠親房」の配下の所領に成っていたと云う。(※「古事類苑 神祇部Ⅲ 大神宮 神領」)

■南北朝の合一を果たした「室町幕府第三代将軍足利義満」は「五位庄」(「吉岡庄」は「五位庄」と宗良親王が改名された。)を自らが創建した「相国寺」の庄園として寄進した。越中五位庄の西山一帯は能登守護「畠山満家」の一族「畠山持国」の所領と成り、政所代の「越中蜷川氏 蜷川新右エ門親当」が実務を執った様だ。







■宇陀郡は織田信長の孫「織田高良」が所領としたが、出奔して一時期、加賀藩に仕官して3000石を知行されたが、父の信雄の死去に伴い加賀藩時代の家臣を連れて宇陀郡に帰り領主と成った。この家臣団は「加賀衆」と呼ばれた。

💠🔹【「義経記」の越中如意城と尾張如意城】『尾張如意城』の城主、越中石黒氏の末裔「長谷川氏」の墓石群の紹介。⇒歴史家「橋場日月氏」のツイートより。

2018-10-22 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


●「義経記」には「越中五位庄」の「如意城」が登場する。又、「尾張国如意郷」にも「如意城」が在った。この何れも、「越中利波郡」の「石黒氏」の居城で在った。
「越中石黒氏」の「石黒重行」は南北朝時代に「後醍醐天皇の庄園越中吉岡庄」を拠点として活躍したが、「五位庄の戦い」(※「群書類従」)等で南朝軍の「桃井直常」等が足利軍に敗れた為に奥州に落ち延び、やがて、「長谷川大炊介」と名前を変え、「塩釜神社」を尾張国に勘請して「如意郷」に「如意城」を開いたと言う。

▼歴史家の橋場日月氏が、「越中石黒氏」の末裔、「尾張石黒氏」・「長谷川氏」の尾張国「如意城」についてツイートして、その領主達の「墓石群」について具体的に調査して写真等をアップされている。

(Hp)「如意城主 石黒氏の決断」
http://best-times.jp/articles/-/7020

●「越中石黒氏」と【如意城】
石黒氏の子孫「長谷川氏」が尾張国で開いた『尾張如意郷』の『如意城』と、【義経記】の【「越中五位庄」の『如意の城を後にして・・・』】の記載についての説明。










■嘗ては、「延喜式内社赤丸浅井神社」の前で小矢部川と庄川が合流して「阿光ケ淵」と言う難所に成っており、この神社野尻前の「二位の渡し」から舟で対岸の小矢部川河口の「六渡寺村」の舟乗場で降りたとされる。(※「越中浅井神社古墟図」石川県立図書館、森田文庫)




■【義経記】には「五位庄」の「二位の渡し」の事件として、役人に疑われた「弁慶」が「義経」を扇子でさんざん打ち据えて疑いを晴らす場面が在り、このシーンが【勧進帳】で「弁慶」が「義経」を金剛杖で殴打するシーンに脚色されて、有名な【勧進帳】の【安宅】の場面に成っている。
室町時代に「越中石黒氏」と縁組もしていた加賀藤原氏の雄の「加賀林氏」は、【承久の乱】で「越中吉岡庄」の領主の【後鳥羽上皇】に従って戦い、敗れた為に凋落して、代わりに分家筋で「承久の乱」で「北条軍」に加勢した【加賀富樫氏】が室町幕府重臣として勢力を持ち、南朝の庄園で在った「越中五位庄」(※旧越中吉岡庄)を「足利義満」が「相国寺」(※塔頭寺院「金閣舎利殿」)に室の菩提の為に寄進した時には「足利義満」の重臣として記録に登場している。「足利義満」が「相国寺」に「七重の塔」を建てた時の「相国寺塔供養記」には「加賀富樫氏」が重臣として記録されている。

・【源平盛衰記】に登場する「高岡市の守山」、徳大寺家庄園「般若野庄」⇒「木曽義仲」は、「後白河上皇」の「後院領」の『越中吉岡庄』(※現在の赤丸浅井神社の周辺に在った庄園)を憚って、この庄園を迂回して「般若野庄」を経由し、決戦の場の小矢部市【利波山】(※倶利伽羅山)に向かっている。



■岩波版、小学館版の『義経記』には、【「如意の城」とは「五位の城」の事】と解説しているが、この「五位の城」とは「石黒光景」(※木舟城の石黒光弘の父であり、源平盛衰記には二人が記載されている。)の居城の【赤丸浅井城】(※「肯搆泉達録」)の事で在る。(※「石黒氏の歴史の研究」)
南北朝時代迄「越中吉岡庄」と呼ばれた皇室庄園は南北朝時代末期に「越中五位庄」と改名され、室町幕府第三代将軍「足利義満」の時代から、足利家の菩提寺の糧所に成った。
「義経記」が南北朝時代に成立したとされる所から、その中では「越中吉岡庄」が「越中五位庄」として登場し、実際野尻室町時代の「越中五位庄」は南北朝時代とは比較できない位に範囲が広く成って、ほぼ、「越中利波郡」の全域が「五位庄」と成り、その庄園は小矢部川流域の「五位の西庄」と庄川流域の「五位の東庄」に分かれていた様だ。「東寺百合文書」には、現在の高岡市中田から砺波市にかけて広がっていた徳大寺家の庄園「般若野尻庄」の中に「五位の東庄」を含んでいた事が記載されている。














■『義経記』の【二位渡し】とは、『赤丸浅井神社』前に在った舟乗場の事で在り、この【二位の渡し】から小矢部川河口の『六渡寺村の渡し』(※「守山」や「二上」の対岸に在る。)迄の事を「如意の渡し」と呼んだ。
(※後には「六渡寺の渡し」と呼んでいる。)



🔴「延喜式内社赤丸浅井神社」に祭られる祭神 主祭神 【八河江比売神】 ・ 【高皇産霊神】!!

2018-10-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「川人山鞍馬寺」・「延喜式内社赤丸浅井神社」の古絵図(※石川県立図書館「森田柿園文庫」)












■「延喜式神名帳」の「越中利波郡 浅井神社」の記載


■「赤丸浅井神社」は「五位庄総社」として、「祝詞」では管内の神社の祭神全てを讃える。
「太祝詞」
掛巻毛畏支浅井神社乃御前尓(に)   畏美々々毛左久
常毛守利恵美給倍畄(る)廣久厚支恩頼乎(お)蒙利弖(て)氏子等乎
始米五位荘((ごいのさと)乃諸人等諸乃災比無久平穏尓(に)今日毛暮奴
畄(る)我故尓(に)其忝佐(かたじけなさ)乎歓喜弖(て)夕日乃降尓稱言竟(おえ)奉良久乎(お) 御心豊尓聞肴志給倍止畏美々々毛白須

■「五位庄惣社延喜式内社赤丸浅井神社」に伝わる「兼務神社拝禮祝詞」
掛巻毛畏支比乃御社尓添弖(そえて)齋比奉利座寸奉畄。神皇産霊((かむみむすびの)大神。八幡(やはたの)大神。相(あへ)殿(どの)尓(に)座(ま)寸(す)。天照((あまてらす)大神。熊野(くまのの)大神。
八幡(やはたの)大神。天満(てま)大神。八幡(やはたの)大神。諏訪(すわの)大神等(たち)。日吉(ひよしの)大神等(たち)。愛宕(あたごの)大神。白山(しらやまの)大神。富士大神。庚能((かなへの)大神。
赤丸舞谷((まへのや)入會(いりあへ)尓座(ま)寸(す)。清水(きよみづの)大神。向野新(むかへのしん)尓座(ま)寸(す)。天照((あまてらす)大神。石名田尓座(いしなだにま)寸(す)。天照((あまてらす)大神。麻生谷(あそや)尓座(ま)寸(す)。熊野(くまのの)大神。少名彦(すくなひこの)大神。諏訪(すわの)大神。八幡(やはたの)大神。西廣谷(にしひろたに)尓(に)座(ま)寸(す)。
白山(しらやまの)大神。天照((あまてらすの)大神。諏訪(すわの)大神。沢川尓座(そうごうにま)寸(す)。愛宕(あたごの)大神。東石堤尓座(ひがしいしづつみにま)寸(す)。八幡(やはたの)大神。笹川尓座(ささがわにま)寸(す)。丹生川(にふかわ)大神。熊野(くまのの)大神。高田島尓座(たかたじまにま)寸(す)。五位庄((ごいのしょうの)大神等乃(たちの)。御前乎遥尓(はるかに)拝美奉利弖。畏美々々毛白左久。敷座畄氏子等乎。守利恵美給倍止稱言竟(おえ)奉良久止白寸。

📕この他にも赤丸浅井神社には五位庄内の多くの神社が合祀されている
●赤丸浅井神社管理の宮
・愛宕社 祭神 軻愚突智命
赤丸村古谷五四〇二(古村)
・清水社 祭神 大巳貴命    清水山鎮座
赤丸村古谷五三六三(古村)
●赤丸浅井神社に合祀されている神
(明治四十二年合祀)
・神明社 祭神 天照大御神
赤丸村向野新村字石名田八一八番(向野新村)
・神明社  祭神 天照大御神
赤丸村焼田六七一四(鞍馬寺)
・八幡社 祭神 誉田別尊
赤丸村砂田六二九〇(鞍馬寺)
・熊野社 祭神 伊弉諾命
赤丸村古谷五〇三一(古村)
・天満社 祭神 菅原道真
赤丸村子吉三八七三(古村)
・諏訪社 祭神 健御名方命
赤丸村縄田二五一七(川原)
・諏訪社 祭神 健御名方命
赤丸村草安五七五三(鞍馬寺)
・庚能社 祭神 金山彦命
赤丸村焼田六六一九(鞍馬寺)
・庚能社 祭神 金山媛命
赤丸村古谷五二七五(古村)
・日吉社 祭神 大山咋命
赤丸村勝負田一四五四(古村)
・日吉社 祭神 大山咋命
赤丸村山王四三九八(古村)
・富士社 祭神 木花咲夜比売命
赤丸村山王四五〇六(古村)
・白山社 祭神 白山媛命
赤丸村古谷四八三八(古村)

■古文献に登場する「延喜式内社赤丸浅井神社由緒」
⇒(※「赤丸古代帳」赤丸村古記録)
・「延喜式 神祇上 神名下 十 二十九丁目 越中国三十四座 礪波郡七座 並小 浅井神社」
・「大日本史 二百五十九巻 神社志十六巻ノ中百十七丁」浅井神社在赤丸村 以下略
・「日本総國風土記」越中国礪波郡浅井神社圭田八十三束和銅元年戌申九月始奉圭田行神礼有神家巫戸今在赤丸村 以下略
・「類聚國史 第百八十巻畿外奉勅 宮社ノ部」天武帝九年四月越中國礪波郡気多大明神奉勅使献綿二百紙依災蝗(※往古、「気多神」を祭ったか? 「越中志徴」に「赤丸の気多氏 信長に通ず」と在り、前田利家が越中を攻めた時に内通したと記載される。)
・「三州地理志稿」式内浅井神社 越中國礪波郡在赤丸村末社置石堤村
・「三州故墟考 巻ノ六丁目」赤丸城一ニ浅井ト號ス名一跡也 五位庄赤丸村領ニ在リ浅井トハ赤丸村ニ浅
井神社アレバ也 式内ノ神ナリ 以下略
・「新編越中風土記稿 古記」浅井神社 神田百束十字田園 人皇五代孝昭天皇御宇三年戌辰ノ鎮祭 以下略
・「観跡聞老志 正應二年※1289年」浅井神社礪波郡赤丸村ニ今共神社アリ 以下略
(注:翌年後醍醐天皇が誕生。「赤丸村」初見)
・「北越地理志稿 延寶年中 ※1673年~1681年迄」赤丸気多大明神國府南四里式内帳所載浅井神社 中略 礪波郡一宮也 社領弐百石別当鞍馬寺山號川人 以下略
・「越中國史 寶永年中」延喜式内浅井神社礪波郡五位庄赤丸村ニ在リ 以下略
・「巡拜薄舊祠記 寛文年中」赤丸権現ハ延喜式ニ浅井神社ト載セラレシシ神社是也 以下略
・「中越神社考」五位庄赤丸村領ニ大社今猶存ス 式ニ載スル所ノ浅井神社是也 盍シ浅井ノ神バ位庄ノ總社ニシテ所謂土地神也 以下略
・「越ノ下草」浅井神社今赤丸村ニアリ 以下略
・「北陸巡遊記 貝原篤信編※貝原益軒:名は篤信、字は子誠、号を益軒・損軒・柔齋」浅井大明神ノ大社アリ 前ニ鳥居アリ 正一位浅井大明神トノ額アリ 是ヨリ社ニテ列樹ノ杉アリ 社ハ東向茅葺ナリ 邉地ニハヨキホドノ大社ナリ 昔ハ四十末社アリシト云フ (正徳三年洛陽六角堂通御幸町西入書林 茨木多左エ門 板行)
・「磐翁巡回記」赤丸村正一位浅井大明神ノ社アリ 延喜式内神名帳ニ礪波郡浅井神社トアレハ是ナリ
・「越中寶鑑」延喜式内浅井神社ハ礪波郡赤丸村ニアリ 以下略
・「礪波史」赤丸浅井神社ハ礪波郡赤丸村ニアリ 式内の一ナリ 以下略
・「北陸鉄道案内」延喜式内浅井神社ハ養老元年ノ勘請ニシテ西礪波郡赤丸村ニアリ

■「浅井神社寶物目録」
1.寄進状 壱通 宝永十七年九月加賀藩主第四世前田光高ヨリ
2.書状 弐通 寛永十六年三月及五月加賀藩主第四世前田光高ヨリ
3.書状 弐通 慶長十年九月及元和八年五月第三世利常ヨリノ書
4.御員筆額 一面 明治十一年正三位前田齋泰ノ書
5.古額 壱面 丈二尺 五寸 巾一尺四寸二分 但シ文字不明
6.古鏡 三面 一ハ直径三寸六分 一ハ直径三寸三分 一ハ直径三寸 右ハ往古神祇官ヨリ御下賜ノモノト言傳フ
7.太刀 一腰 丈一尺六寸 村正ノ作ト言傳フ
8.刀 一腰 丈一尺二寸四分 無銘白鞘
9.刀 一腰 丈二尺一寸五里 銘アルモ不分明
10.古鏡 一面 直径七寸壱分 藤原丈長ノ作
11.大鰐口 壱個 延寶六年八月吉日ト記セリ 目方約八貫目アリ
12.古記録 参拾弐冊 慶長以降天保ニテ古文書一冊ノ半数約百枚アリ
13.古画 壱軸 兆殿司ノ筆(二王像)
14.古画 壱軸 高祖神変大師ノ御影 大師ハ泰澄大師ナリ

■「盛阿弥」盛阿弥ハ刀鍛冶ニシテ永享年中赤丸村ニ住セリ 鍛冶ノ跡アリ(中越史料雑纂)現今鍛冶屋町島ト小字残レリ ( ※ ⇒永享年中に鰐口等の制作で文化財に残る「平氏盛阿弥」の事か?)

🌸🌸 華々しい「越中吉岡庄」・「五位庄」の動乱の歴史ー藤原氏、天皇家、足利家、上杉謙信、佐々成政 !!

2018-10-18 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■【越中吉岡庄】富山県で唯一の「上皇」の「後院領」





■「崇徳上皇」と藤原摂関家の「藤原頼長」は「保元の乱」で「後白河上皇」、「平清盛」、「源義朝」の軍に急襲され、「頼長」は戦死し、「崇徳上皇」は怨念を残して讃岐に流された。「越中吉岡庄」等29ケ所の「頼長」の庄園は「後白河上皇」の「後院領」に召し上げられ、「崇徳上皇」は亡くなって讃岐の金比羅宮に祀られた。


■「白河上皇」は「越中吉岡庄」を「上賀茂神社」の庄園と定められ、「吉岡庄」には「上加茂社」、「下加茂社」が勘請されて、競馬の神事が行われた。その旧地は「加茂村」「馬場村」となった。「上加茂社」は「鳥倉神社」に、「下加茂神社」は「舞谷八幡宮」に合祀されている。





■「延喜式内社 五位庄53ケ村総社 郷社 浅井神社 (※高岡市福岡町赤丸鞍馬寺地内鎮座)」の由緒案内リーフレットより



■「越中吉岡庄」は「後白河上皇」の領有された「後院領」の時代には「平清盛」が寄進した京都の「三十三間堂」で著名な「蓮華王院領」に寄進された。南北朝時代の「後醍醐天皇」まで皇室領として伝領されたが、室町幕府三代将軍「足利義満」の時、「足利義満」により「金閣寺」で著名な「相国寺」に寄進されている。その後は足利家菩提寺の「等持院」、「等持寺」にその半分が寄進されている。この時に「五位庄」は後の「五位の東庄」と「五位の西庄」に分かれたと推定される。






■富山県西部の「延喜式内社赤丸浅井神社」の伝承では「一条天皇の御世、川原左京を蝗害防止の祈願の為浅井神社に勅使として派遣された」と云う。その時に植えられた桜を「勅使桜」と呼び、昭和初期迄巨大な桜として著名で有った。この桜の写真は今も浅井神社拝殿に掲げられている。「一条天皇」の頃、左京大夫で京都河原町にゆかりの人物は「一条天皇」の伯父に当る「藤原道長」である。この頃、浅井神社は天皇勅使を迎える神社であり、近年までは神社庁から祭礼の時に奉幣使が使わされていたという格式の高い神社である。
「越中吉岡庄」の歴史はこの頃から天皇家、藤原家と密接な荘園となった。「延喜式内社赤丸浅井神社」の由緒に記される様に、「越中吉岡庄」は恐らく、「一条天皇」の庄園で在ったと見られるが、「白河上皇」の時にその子の「堀河天皇」が「上、下賀茂神社」に庄園600町を寄進する事とされた時に、「吉岡庄」は「上賀茂神社」の庄園に成り、その後、管理が緩んだ庄園の管理を藤原摂関家の権力者「藤原頼長」に寄進した形で神社が管理を委ねたものと見られる。この庄園は時間と共に、実質的にも「藤原摂関家」で左大臣を勤め、「悪左府」と呼ばれた「藤原頼長」の個人庄園に組み込まれたものと見られる。

■【後院領】御門の「御領」を指し、代々の「わたり物」とも云われた庄園で在り、「一条天皇」の没後に「一条院」が皇太子「敦成親王」(後一条天皇)に伝領され、「後一条天皇」没後に「朱雀院」、「冷泉院」の庄園等が「後朱雀天皇」の「後院」に引き継がれた。「後院領」は「別当ベットウ」、「預アズカリ」、「蔵人クロウド」等が担当する「後院司」が置かれ、「別当」には主要な公卿が補任された。「白河上皇」の時から本格化したと云われる「院政期」には、親王期から引き継がれた財産を「治天の君」とされた上皇が一括管理して、「保元の乱」等で没官された庄園もこれに加えられ、莫大な上皇の庄園「後院領」が集積され、その一部は代々の上皇に引き継がれた。(※「日本史広辞典」山川出版)

■「延喜式内社赤丸浅井神社由緒」によると、「一条天皇は蝗害除去祈願の為に勅使川原左京を浅井神社に派遣された」と伝わり、この事は「延喜式内社赤丸浅井神社」が【延喜式神名帳】では「国司が代理で弊帛を納める「国弊小社」の社格の神社に直接、天皇が「勅使を派遣している」事から、「一条天皇の時には既に天皇家の御領で在った」事を物語っており、本来、天皇家の庄園で在った「吉岡庄」は「藤原頼長」の時代に「藤原摂関家」に横領されていた事を指すのではないか?






■「藤原摂関政治」
仁和寺に入って法王となった「宇多天皇」(867-931年没)は藤原氏の勢力拡大を嫌い、「菅原道真」を重用して藤原氏を牽制したり、子の「醍醐天皇」(885-930年没)には「光孝天皇」の皇女で妹の「為子内親王」を正妃とした。その子の「醍醐天皇」の時代には摂関を置かず「延喜格式」を編纂して律令制度への回帰と天皇親政の理想の政治を行ったが「醍醐天皇」に妹の中宮「藤原穏子」を入内させた左大臣「藤原時平」は実質的に政務をリードし、皇太子には穏子の子がなった為、この時から実質的に後の摂関政治の基礎が形成されたと云われる。

※この「延喜式」に掲載された朝廷が認めた神社が「延喜式内社」で、「赤丸浅井神社」はこの延喜式内社である。「浅井神社」は後に両部神道の神社となっており、延喜式では両部神道等の神社は「式外社」で在ったと云うから、浅井神社が「式内社」で在り続けたのは、古くは浅井神社由緒にも現れる「元正天皇の二宮(*実際は文武天皇の二宮の事で元正天皇はその親代わりとなった女帝)」が創建されたと伝わる「皇室系の神社」であったからと考えられる。「保元の乱」で「藤原頼長」より「後白河上皇」に没官された「吉岡庄」は、「後白河上皇」の皇子が修験道聖護院派本山・本山派初代の門跡に就任されるに及び聖護院派の影響が強くなり、浅井神社も聖護院派になったものと考えられる。

■栄華を誇った藤氏長者「藤原道長」の次の「藤原頼通」の時代には、「後三条天皇」は1069年に「延久の荘園整理令」を発布し藤原氏や大寺社の荘園の拡大を阻止し始めた。後三条天皇の子の「白河上皇」(1053-1129没)※(天皇在位1073-1087後に上皇となる)の時、「白河上皇」は賀茂社への荘園給付の方針を示して、寛治4年(1090)に上・下両社に御供田として各600余町の不輸祖田与え、越中では下賀茂社には「倉垣荘」を、「上賀茂社領」として富山市の「新保荘」、高岡市福岡町赤丸周辺の「吉岡庄」が設定された。この時の藤氏長者は「藤原師実」であったが「白河上皇」は師実を信頼し、師実も上皇には協力していた為、この時には「吉岡庄」は藤原氏領から上賀茂社領になったものとみられる。
【註】「山野川湊の中世史」久保尚文著 参照

▼「白河上皇」の時に「吉岡庄」は「上賀茂神社」の庄園となる。




■寛治8年(1094)「藤原師実」の後を受けて関白になった「藤原師通」は「堀河天皇」とは協力関係にあったものの、白河上皇の政治介入には批判的であったが38歳で急死する。その子の「藤原忠実」は22歳の若さで師通の後継となり、長治2年(1105年)には「堀河天皇」の関白に任じられる。しかし、白河上皇の警戒は強く、藤原氏はその力が弱かった為、経済的な基盤を拡大して摂関家領荘園の拡大を図ったが白河法王はこれを警戒した為その動きは制約された。この頃に拡大した藤原氏の荘園の中に「上賀茂社領」となっていた「越中吉岡庄」も吸収され、藤原氏の荘園となり、それが後に「藤原頼長」の私領として伝領したものか?

■大治4年(1129年)に「白河法皇」が崩御し「鳥羽院政」が始まり「藤原忠実」は政界に復帰し、娘・勲子は「鳥羽上皇」の妃となり改名して皇后泰子となる。忠実は権勢回復の為、「鳥羽上皇」の寵妃の「藤原得子」(美福門院)や寵臣の「藤原家成」とも親交を深めたが、息子の「藤原忠通」に子が出来ない事を危惧した忠実は次男の「藤原頼長」を「忠通」の養子にする事にしたが、「忠通」に実子の「基実」が生まれると「忠通」は「頼長」との養子縁組を破棄する。「忠実」はそれでも「頼長」に摂関職を譲るように「忠通」に要求したが「忠通」がこれを断った為、父の「藤原忠実」は激怒して「忠通」から屋敷を取り上げ、「藤原氏長者」を「藤原頼長」にしてしまう。

■久寿2年(1155年)子供が無かった「近衛天皇」が崩御し、「藤原忠通」の推す「後白河天皇」が即位すると「頼長」は「近衛天皇」を呪詛した嫌疑がかけられ、保元元年(1156年)7月2日、「鳥羽法皇」が崩御すると「忠実・頼長」は謀反人とされて「後白河天皇」により屋敷も没収されてしまう。謀反人とされた「藤原頼長」は「後白河天皇」と対立した「崇徳上皇」と共に白川北殿に立て籠もり【保元の乱】が勃発する。

■NHKの大河ドラマでも【保元の乱】の場面を描いていたが、結果、「藤原頼長」は首に矢を受けて死亡し、「崇徳上皇」は讃岐に流される。藤原氏長者の荘園は「藤原忠通」に受け継がれ、父の「藤原忠実」は京都洛北に幽閉される。しかし、「藤原頼長」の私領となっていた二十九か所の荘園は保元二年三月二十九日の太政官符で「後白河上皇」の荘園「後院領」に没官された。(※「兵範記」)







■[氷見市の「上庄川」の流域を「阿努庄」と呼び、代々、醍醐源氏の源家賢の所領であったが、保延5年(1139年)頃に「鳥羽上皇」の皇后で「藤原頼長」の姉の「高陽院」に寄進された。「保元の乱」の後、藤原摂関家領の荘園が没収されるのを恐れた父の「藤原忠実」と「忠通」は「高陽院」の荘園と摂関家に伝領する荘園を、新たに摂関家長者になった「頼長」の兄の「藤原忠通」に寄進した形として朝廷に没収されるのを避けた。結果、没収は「藤原頼長」の固有の荘園二十九ヵ所の没収に止まり、依然として越中の氷見周辺は藤原氏の荘園として残る事になった。]

■しかし、この処理のお陰で長く朝廷には「崇徳上皇」・「藤原頼長」が怨霊として恐れられる事になり、四国讃岐の金毘羅宮には「崇徳上皇」を祀り勅使も遣わしている。「藤原頼長」には位を授けて鎮魂したが、策略で二人を殺した「後白河上皇」の子孫の天皇家は「安徳天皇」の様に悲惨な末路をたどる事をひたすら恐れ、各地に両者の鎮魂の施設を設けたと云う。本来は海の神の金毘羅宮が各地の山中に鎮座しているのもこの結果なのかも知れない。

■長寛2年(1164)、「後白河上皇」は邸内に建てた三十三間堂(蓮華王院)に「越中吉岡庄」を寄進された。「後白河上皇」は三十三間堂に1001体もの千手観音像を安置し、熊野詣も行って熊野信仰が広まる。




■「吾妻鏡」文治3年(1187)3月には「吉岡庄地頭吉岡成佐」が不法を働き「源頼朝」が交代させた事が記載されている。



■文永8年(1271)秦守高注進状(小浜市秦家文書) に「御い庄」との記載がある。---「後院の庄の転化したものか?」



■加賀藩記録「宝永誌」※南砺市福光町図書館所蔵  には「後醍醐天皇第八皇子宗良親王が赤丸浅井城に在城の時、「吉岡庄」を「五位庄」と名付けられた」事が記載されている。






■応安4年7月28日「桃井直常」が後位庄で斯波・吉見と戦ったとの記載がある。
(※「花営三代記」群書類従)
 結果、越中守護「斯波義将」が功により「五位庄」を与えられる。---桃井氏は足利氏・斯波氏の同族、織田氏朝倉氏は斯波氏の家臣。

■「吉岡庄」は「後醍醐天皇」迄伝領されたが応安7年(1374)京都下加茂社領となる。(藤原仲光奉書・柳原家記録)



■応永12年(1405)「足利義満」により「五位庄」は、室の「日野業子」(ナリコ)(定心院)の追善料として京都相国寺に寄進される。
  ---「室町幕府三代将軍足利義満」は「日本国王」と名乗り、その妻の「日野業子」は天皇の准母(名目上の母)となり、義満の子義嗣は親王と同等の格式を許されたと云う。皇室領に準じて「日野業子」の追善料として「京都相国寺」に寄進されたものか?  「金閣寺」は「相国寺」の塔頭寺院の一つであり、舎利殿「金閣」が著名な為に「金閣寺」と呼ばれている。




■応永22年(1415)「足利義持」により「五位庄の半分」が足利氏菩提寺の「等持院」(京都市左京区)に寄進され下地は守護「畠山満家」に預け置かれた。(※「福岡町史」)






■名古屋の「大須観音」に残る古文書には「濱惣持寺」で「管領畠山満家」の三回忌法要が営まれた記録が在り、この時には黄金の観音像が波に反射した光「金波」で輝いていたとされる事から、この寺は一時期、赤丸から日本海沿いに移り、その後、高岡市内に動いた「総持寺」ではないかとされている。(※射水市松山学芸員の発表に拠る)
⇒古くは赤丸の「総持寺」(観音寺)の直前に小矢部川が流れており、この「金波」と表現されたものは、「小矢部川の波に反射した光」とも解釈できるが、地元の伝承ではこの頃に「赤丸から動いた」とされており、赤丸と同じく石黒氏が地頭であったという「新湊の牧野」か「五位庄の六渡寺村」に総持寺が一時期動いた可能性もある。
「総持寺」の「千手観音像の由緒」に「六渡寺浜より上がった仏像」と記載されており、室町時代には「五位庄」が「伏木港」から「福野町野尻」迄、拡がっていたと云う。
(※旧総持寺門徒総代池田家の伝承)


■長禄3年(1459)「等持院」・「等持寺」(京都市中京区)より畠山氏の年貢未進を理由に直務を訴えたが足利義政は今後の年貢納入を確実にする様に指示した。(蔭涼軒日録)

■《一向宗勢力の伸長》
・永正12年(1575)石堤長光寺に阿弥陀如来絵像が本願寺実如から下賜されている。
・大永5年(1525)五位庄内又五郎所有の山畠が長慶寺の後始末をする為に氷見森寺西念寺に寄進され、西念寺が氷見の阿尾から森寺に移動している。(吉滝定孝寄進状・西念寺文書)---「越中志徴」には「五位庄は(氷見)菊池氏の所領なりき」と記載されている。氷見菊池氏は「元寇」で活躍した九州の名門で藤原氏。同族の内紛で菊池氏は越中に落ち延びたものか?近隣に勢力を持った八代氏とも縁組し、能登畠山氏とも提携するが、当初は佐々成政に味方し、後には前田利家に味方して子孫は前田家に仕官する。子孫に菊池大学の名が有る。

■永禄の末 1568年頃、上杉謙信と一向宗の争いがあり、天正4年(1576)に和睦後、上杉は越中を所領とする。天正5年上杉謙信は柴野城主寺島牛介(高岡市国吉地内)に五位庄の所領を安堵している。(金沢・寺島家文書)
※「寺島家文書」は2013年に亡くなられた「寺島蔵人と加賀藩政」の著者「長山直治氏」がお世話されて所有者の寺島啓氏所蔵の古文書の写しを石川県の金沢市立玉川図書館近世資料館に収められたもので、原本は岐阜に在住される寺島家当主が保管されていると云う。金沢市内には観光施設となっている「寺島蔵人邸」が残されている。富山県高岡市博物館には寺島蔵人が高岡町奉行をしていた関係で地元旧家に残る蔵人の絵を用いた屏風等が保管されている。
※「上杉御家中諸氏略系譜」に上杉謙信越中攻めの際に「砺波郡の紫野(柴野?)五郎衛門城を攻めた」と有る。(「小矢部川左岸地域における中世山城とその性格」高岡徹著) ⇒ 寺島牛介が入城する前は柴野五郎衛門が城主だったものか?

■天正11年(1583年)3月佐々成政が越中を制圧。2年後には前田氏の支配となる。