赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🌸🏯 【木舟城】(※高岡市福岡町)の秋 ⇒「貴船神社」には真紅の彼岸花が咲き乱れています!!

2018-09-29 | 富山県高岡市福岡町
【木 舟 城 古 絵 図】
(※加賀藩十村役杉野家文書)




■「越中木舟城」は越中利波郡トナミ に在り、「越中石黒氏」が歴代、居城として来た城だが、越後の「上杉謙信」が攻めて来た時にはその支配下に成ったり、「織田信長」の家臣「佐々成政」が越中国主になるとこの城は佐々家家老「佐々平左衛門」の居城となる。「佐々成政」が「能登末森城の戦い」後は、侵攻してきた「豊臣秀吉」に降伏し、「前田利家」の支配下に成る。しかし、飛騨を震源とした天正の大地震に因って沼地に建てられていた城は地中に埋没し、城主「前田秀継」以下の家臣共々、全滅したと云う。その後、木舟城下の住民は石動町(※小矢部市)の「前田利秀」の居城の「今石動城城下」や高岡市の「木舟町」等に分散して移動している。
「越中石黒系図」等によると、元々、「木舟城」は「延喜式内社赤丸浅井神社」・「赤丸浅井城」を中心とした「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄続いた皇室直轄庄園「越中吉岡庄」に築かれた「赤丸浅井城」の出城で在り、「赤丸浅井城城主石黒光景」の子供の「石黒光弘」が居城にしたとされる。この庄園は、室町時代になると、足利幕府の糧所と成り、「足利義満」は「五位庄」を「相国寺」に寄進して、地頭として畠山一族を配置している。古絵図には、「畠山持国」の居城「赤丸浅井城」や「石黒氏」の居城の「木舟城」・「福満城」が記載されている。
(※「越中統治絵図」畠山文書)

▼上皇~天皇家庄園の【越中吉岡庄】(※平安~南北朝時代)の主な領有者
・後白河上皇
・後鳥羽上皇
・後醍醐天皇








■「越中石黒氏」は源平の「利波山の戦い」(※倶利伽羅山の戦い)や後鳥羽上皇の「承久の乱」、「南北朝の戦い」等にも登場し、古代氏族「利波臣」や「藤原氏の加賀林氏」の末裔とされ、「古事記」にも「高志利波臣」として登場する「天皇家子孫」とされる一族だ。富山県には、古くからこの支配地域を「利波郡」と呼び、近世には「砺波郡」や「西砺波郡」・「東砺波郡」として地名が残っている。
(※「平家物語」・「源平盛衰記」)














■【越 中 木 舟 城】














■木舟城絵図の中に【石原殿】と云う場所が在り、「木舟城主佐々平左衛門」 (※佐々家家老。妻は佐々成政の娘。)の子孫は金沢へ移って「石原」と改姓して、初代は「石原宗左衛門」と改名している。その子「石原善兵衛」の時に加賀藩から客分として「150石」を給されている。
(※「先祖由緒帳 石原才二郎系図」金沢市立玉川図書館)





■【五郎衛門三昧サンマイ】
【木舟城絵図】の西部には「五郎衛門三昧」が記されており、この中には嘗て、三基の「五輪塔」が在ったが、区画整理の時に城跡の西の「神明社」の境内に動かされた。この「五輪塔」は鎌倉時代から南北朝時代に盛んに造られたものと酷似している。恐らくはその時代に越中利波郡を統治していた「越中石黒氏」の遺跡と見られる。この地域に「五郎衛門家」が残っておれば間違いない。
室町時代の「畠山文書」(※「羽曳野資料叢書」)には、室町時代の木舟城は石黒氏が統治していた事が記されている。



▼「三昧」は「火葬場」の事で、「●●三昧」と固有名詞を冠した三昧は、「五郎衛門家専用の火葬場」で在って、その一族以外は使用出来なかった。赤丸村にも、柴野城主「寺嶋牛介」の子孫が加賀藩から赤丸村を知行されて「寺嶋三九郎」と名乗った一族専用の「三九郎三昧」が在った。これ等の専用の火葬場はその地域を知行された武士階級が使用した三昧で在り、庶民は別の場所で野焼きしていた。