赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🌅 「室町幕府将軍足利義持」は「越中五位庄」の半分を足利家菩提寺『等持院』に寄進した !!

2018-09-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■『越中吉岡庄』は南北朝末期に『五位庄』と成り、室町幕府の直轄地になった。




■「応永22年(1415年)1 0月16日 室町幕府将軍足利義持は越中五位庄の半分を足利家菩提寺の『等持院』に寄進した。」
(※「大日本史料」等持院常住記録)→東京大学資料編纂所大日本史料DB




■「三代将軍足利義満」によって『相国寺(金閣寺)』に寄進された「越中五位庄」は、「足利義持」によってその半分が足利家菩提寺の『等持院』に寄進された。その後の記録を見ると、残りの半分は同じく足利家菩提寺の『等持寺』に寄進された様だ。








■「五位庄」と「吉岡庄」
「五位庄」は、南北朝時代まで「越中吉岡庄」と呼ばれていた。「赤丸浅井神社」は「五位庄総社」とされ、その中核の神社で在った。五位庄は広大な範囲で有り、加賀藩士富田景周が書き記したと伝わる「加越能三州地理志稿」に拠れば、江戸時代の「五位庄」は「四日市、柴野、十日市、江道、境、山川、廣谷、勝木原、澤川、淵ケ谷、田名原、小野、六郎谷、花野(花尾)、栃谷、上栃谷、西明寺、上向田(鍛冶町・田ノ子・上野)、下向田、土屋、山岸、鳥倉、西、高畠、加茂、馬場、三日市(荒田町・大野島・大野)、赤丸(谷内・次兵衛島)、舞谷、石堤(谷内・六日市)、麻生谷、東石堤、渡、内島(池田・新屋敷)、蜂ケ島、大源寺、福田六家、六家、樋詰、柴野内島、立野町、中保、駒方、駒方新、小竹、下開発、上開発、今市、宮野腰、三ケ、後正寺、須田、壹歩貮歩(二歩)、下老子、笹川(荒又・出来野)、高田島(荒又・出来野)、福岡、四十萬、稗島、下蓑、荒屋敷、土田新、以上 五十七村属五位庄」が五位庄で在ったとされる。

■「五位庄」は福岡町加茂の「超願寺文書」に拠ると、「西五位」、「東五位」に分かれており、現在では「西五位」、「東五位」は小矢部川を挟んで「西」「東」に成っている。しかし、足利幕府の統治した室町時代の「畠山文書」に拠ると、「延喜式内社赤丸浅井神社」の在る「赤丸村」の小矢部川西側と高岡市内島、池田等の小矢部川東側は「五位庄西庄」と呼ばれ、庄川東側の「般若野庄」には「五位庄東庄」が含まれたとされる事から公卿の勧修寺家領の「般若野庄」は庄川を挟んだ西側も含んでいたと見られる。

■南北朝時代の「越中統治絵図」(※「畠山文書」)


■「東寺百合文書」には「般若野庄」に「五位の東庄」を含んだ事が記されている。


■「延喜式内社赤丸浅井神社周辺の史跡」


■加賀藩時代の「西五位」・「東五位」の各地区には赤丸村は含まれていない。

📚📃 越中の『利波臣志留志』と「宇治拾遺物語」、「今昔物語」記載の『留志長者教』!!

2018-09-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

「■経蔵」、「律蔵」、「論蔵」を総称して「三蔵」と云う。この「三蔵」に精通した、優れた僧を「三蔵法師」と呼ぶ。








■毎年、東大寺お水取り行事で読み上げられる「東大寺大仏造営の寄進帳」⇒【東大寺修院過去帳】















■東大寺の大仏造営の時に寄進者筆頭に記される「利波臣志留志」は「越中石黒氏の祖」とされ、大仏造営の為に聖武天皇が行基等に勧進を行わせた時に率先して「米五千石を寄進」したとされる。(※「東大寺要録」では[米五千斛カイ])
古い物語で「宇治拾遺物語」や「今昔物語」には、インドの古い経典の『留志長者教』『盧至長者教』が紹介されている。
この経典では、「昔、天竺に強欲な主人が居て、陰で一人で食を貪り、家族にろくに飯も食べさせない者で在ったが、ある時にこの留志長者が出掛けたスキに帝釈天がこの長者の姿になって現れて、米蔵の物を全て周囲の者に分け与えて仕舞われた。帰って来た留志長者は驚いたが、帝釈天はそこで『布施』や『慈愛』の心を留志長者に言って聞かせられた。その為に、この強欲な留志長者も改心して仏道に帰依した』と言う筋書きである。この物語は当時、民衆にも広く広がっていたものか、この著名な2つの物語に取り上げられている。

『三蔵法師菩提留志』ははるばる天竺に仏教経典を求め、翻訳僧として唐の国に膨大な経典をもたらした。この経典は、日本から遣唐使として渡った僧により我が国に伝えられ、日本に仏教文化を花開かせた。各地の真言宗寺院には「三蔵法師が日本に来た」と伝える寺も在り、仏教=三蔵法師として考えられていた様だ。
東大寺に多額の、今の価値では3億円近く(※奈良文化財研究所)の巨額の寄進を行った「利波臣志留志」とはどういう人物だったのだろう?
文字通りにこの「志留志」を解釈すると、「三蔵法師菩提留志」や「留志長者」の様な菩薩を目指して付けられた名前ではなかったか? 正に「菩提留志を目指す人」と云う意味ではなかったか?

(※【[志留]志】の後ろの「志」は「サカン」と言う古代の官職の事。「利波志留志」は、「東大寺修院過去帳」と言う寄進者名簿では「リハシルノサクヮン」と呼ばれている。)

とすれば、東大寺大仏造営の為に巨額の寄進を率先して行った「利波臣志留志」とは、既に出家した者ではなかったか? 東大寺勧進僧の「行基」はその墓誌に「本姓は高志氏で在った」と記載されており、一方、「利波臣」は古事記によれば「高志の利波臣」となっている。この「高志氏」は元々、百済からの渡来人とも言われており、御存じの様に、古くは福井県から山形県の西部迄を「高志国 」と呼び、「高志氏」とは密接な国で在ったと見られる。 …… とすれば、「行基」と「利波臣」は共通のルーツを持っていたと考えられる。同族の「行基」が聖武天皇からの特命を承けて東大寺勧進を推進していた事や、「利波臣志留志」と同じ時代に天皇家の護衛も行っていた「大伴氏」の「大伴家持」が越中国司として越中に滞在しており、同時に東大寺庄園開発に当たっていた事も有って、「利波臣志留志」にとっては、従来、「郡司」にしかなれなかった「利波臣」としても立身出世の千歳一隅の時期でも在ったと見られる。「志留志」は、当初、米三千石を寄進して、その後に再び「井山庄100町」を寄進して、遂に「外従五位下員外介」として「国司」の待遇を受けた。「有職故實」によれば、下級官吏の従六位以下になると服装に於いても「裸足」で在ったともされ、報酬も微々たるものだった様だ。その中で、利波臣の中では唯一、「利波臣志留志」のみが一代限りに於いて「国司」として処遇されている。当時は、国家への寄進額によって職位や報酬が定められており、「孝霊天皇の末裔」と名乗っていた「利波臣」ですら、地方豪族はなかなか出世出来なかった。当時は「買官」の制度が在り、官への寄進額により「位階」を買う事が出来た。

■聖武天皇は東大寺大仏造営の為に東大寺に庄園4000町の開墾を認められ、天平19年(747年)東大寺に「利波臣志留志」は「米五千石」(※東大寺要録)を寄進し、外従五位下となり、神護景雲三年(769年)には東大寺に自らの庄園100町(井山庄)を寄進した。
⇒《※「続日本紀」には「米三千石寄進」と有り、後に寄進した「庄園100町」(※一町当たり米19石と試算されている)の収穫と合わせて、東大寺では「米五千石寄進」と記載していると見られる。》

■東大寺で毎年三月に行われている「お水取り行事」では大量の御経の転読と併せて、「東大寺修院過去帳」と言う東大寺大仏寄進者名簿が読み上げられて、その中には「奉加利波志留志」と必ず読み上げられている。

■この利波臣志留志は蘇我氏の系統の武内宿祢の末裔としていたが、一方、藤原利人将軍の系統の林氏と縁組して藤原氏も名乗ったようだ。古代士族の姓(かばね)に「臣」(※蘇我臣入鹿) と付くものと「連」(※物部連守屋)、「公」「君」と付くもの等が有る。「臣」は王家から分かれたヤマト系の皇別氏族で「連」は朝廷に労役や生産物を貢納する人々を統率する伴造に与えられ、「公」「君」は大王家出身の地方豪族に与えられた。※(他には直、首、史、村主等)
ここで、「利波臣志留志」は孝元天皇の末裔(※「越中石黒系図」⇒古事記では孝霊天皇)とする皇室系の一族であるから「臣」が付けられている。「利波臣志留志」は無位の官僚からいきなり大量の米や庄園を東大寺に寄進し、天平19年(747年)九月にいきなり外従五位下に叙せられ、宝亀十年(779年)二月には伊賀守に任ぜられた。又、越中員外介として越中国の砺波・射水・新川三郡の東大寺庄園などの検校を行っている。この時に、大伴家持も東大寺庄園の検校の「僧平栄」を歓迎して宴を開いた事が万葉集に記載されている。
(※「検校」は、元々は平安・鎌倉時代に置かれた寺院・荘園の事務監督の役職名であったが、室町時代以降は盲目の官僚の最高位の名称とされた。 日本では推古天皇 32年(624年)に僧尼を監督する職として置かれたが、後には大きな社寺の総務を監督する僧官の名称となった。)

(参考)



🌸🏯 古代山城「赤丸浅井城」の歴史⇒大和朝廷の軍隊の痕跡!!

2018-09-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「赤丸浅井城」(イメージ)








■「赤丸浅井城」は古くは低層の山城だったと見られる。周辺には堀切を巡らし、麓には小矢部川が流れる天然の要害だったと見られる。敷地内には「清水」が噴出しており、籠城にも対応していた様だ。近年迄、山裾の住民はこの「清水」を飲料としていたと云う。
現在も城の背後には「堀切」が残り、背後の山には「熊野社跡地」が残っている。又、麓の谷間には鎮守の「赤丸浅井神社」が在る。
又、小矢部川と庄川の合流していた浅井城の山裾には、補給物資を運ぶ為に水運を利用する為の「舟着き場」が在り、この舟乗り場を「二位の宮御創建の浅井神社前の渡し場」として、「義経記」にも登場する「二位の渡し」(※後の五位の渡し)と呼んだものと見られる。





■「延喜式内社赤丸浅井神社」は隣地の「赤丸浅井城」の鬼門に位置し、城郭を守る鎮守で在った。
この神社は第五代考昭天皇の御代に創建され、大河の河の江の神「八河江比売神」を祀る「水神」で在った。


▼「考昭天皇」の皇居は【掖上池心宮(葛城掖上宮)】で在り、修験道の祖の「役行者エンノギョウジャ」の本拠地。「延喜式内社赤丸浅井神社」は古くから修験道と密接であり、白山を開いた「泰澄大師」がその境内で「庵」を開いた事が、「川人山鞍馬寺」の始まりで在ったと云う。「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当の「川人山鞍馬寺」は、三井寺系の「本山派修験道聖護院の末寺」で在り、「役行者」を開祖とする山伏で在った。











▼「考昭天皇」の妻子。
・皇后:世襲足媛(ヨソタラシヒメ、余曽多本毘売命)(※『日本書紀』本文・『古事記』)
⇒「尾張連」の祖の瀛津世襲(奥津余曽)の妹。
・第一皇子:天足彦国押人命(アメタラシヒコクニオシヒトノミコト、天押帯日子命)

⇒ 和珥臣・春日氏・小野氏等諸氏族の祖。→「赤丸浅井神社」を開いたと伝わる「行基」は「和珥氏」と云われる。
(※「行基」の墓碑には「本姓高志氏」と記載されており、「高志国」との関係も窺わせる。)

・第二皇子:日本足彦国押人尊(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト、大倭帯日子国押人命)
⇒ 第6代孝安天皇。

■「赤丸浅井城」は、「肯搆泉達録」に「赤丸浅井神社を創建された元正天皇の二宮が在城された」と記されており、元々は、聖武天皇の時に蝦夷や隼斗等の異民族が反乱を起こし(※「類従国史」)、それを鎮圧する為に「一宮、二宮が各々東西33ケ国を担当して鎮圧に当たられた」(※「赤丸浅井神社由緒」)とされる事から、当初は朝廷の鎮圧軍の拠点の城で在ったと見られる。


■「赤丸浅井城」の建つ「西山一帯」には、多くの古墳が在り、多くの人骨や刀剣等と共に赤丸城ケ平古墳からは全国的にも数少ない大和朝廷の軍隊の指揮官が所有した「黄金に銀象嵌頭椎の太刀」の部分も出土している。(※「東京国立博物館所蔵」)
その数量の多さは富山県内でも有数の量であり、曾て、浅井城周辺には膨大な数の朝廷の軍隊が東北への出陣を待って待機していたものと見られる。
古くは、「高志国」は現在の福井県、石川県、富山県、新潟県、山形県の一部迄含んでいたとされ、平安時代中期の「和名類聚抄」には「越中国」は「こしのみちのなか」と呼ばれて、軍事上も中核の地域で在った事が分かる。











■西山の山並みの小矢部市からは、古代大和朝廷の「鎧一式」や「剣」、「太刀」等の武具も出土しており、小矢部市博物館にはその現物が展示されている。







🏯 越中西部の名勝地⇒ 連如の「土山御坊」、「光久寺」、九条道家庄園「宮島峡」 !!

2018-09-30 | 歴史



■富山県高岡市福岡町赤丸村の周辺には浄土真宗「連如」ゆかりの「土山御坊跡」(*福光町)や素晴らしい庭園の「光久寺」(*氷見市)が在り、又、富山県のナイアガラと言われる「宮島峡」(*小矢部市)等の史跡や名勝地が在る。

「土山御坊」は「連如」が白山麓で浄土真宗を布教する為に建立した深い山中にあるお寺の跡。


「光久寺」は「連如」が氷見市周辺の布教に使ったお寺で、古い庭園が有名。近くには江戸時代の剣豪「斉藤弥九郎」の出生地がある。


「宮島峡」は小矢部川の支流の上流にあり、近くには加賀藩前田家の墓所もある。


一帯には古墳が散在し、古代から文化が栄えた。越中は「大伴家持」が国司をしており、周辺には「太平記」にも記載されている「五位庄」(前身は皇室庄園「吉岡庄」)があり、南北朝時代の史跡も点在する。「後白河上皇」・「後鳥羽上皇」や「後醍醐天皇」、奈良の公家や豪族、奈良の東大寺の荘園等もあり、古くからの米の産地、集積地だった様だ。福光町は富山県西部の古代豪族「利波臣」の発祥地と云われ、小矢部市には著名な「倶利伽羅古戦場」が有り、次いで「義経記」にも登場する「五位庄」、国吉村の「東大寺庄園須加庄」、氷見から日本海沿岸一帯は「東福寺庄園」が広がり、古代から越中の政治、文化の中心地で在った。小矢部川下流の「越中の国府」から「五位庄」の赤丸村地内「小矢部市」「福光町」古代道の「駅」で繋がる米の交易の一大ルートだった。小矢部川には米俵を積んだ船が行き交い、越中国司「大伴家持」は、
「朝床に聞けばはるけし射水川 朝漕ぎしつつ唄う船人」とその様子を詠んでいる。






「吉岡庄」(赤丸村)に在った「川人山鞍馬寺」は京都の鞍馬寺が勘請されたものと伝わり、その本尊の阿弥陀如来立像は各所を流転して、現在は井波町の名刹「瑞泉寺」の客仏として宝蔵に祀られている。

■小矢部市の「宮島保」は鎌倉時代の「吾妻鏡」に、摂家将軍「藤原頼経」の父の「藤原道家」の庄園として登場している。
〇東福寺を創建した「九条道家」の越中の庄園「宮島保」についての「吾妻鏡」の記載。
〇[越中の東福寺庄園の事]→ 越中國東條。河口。曾祢。八代保。 東福寺庄園は門徒の氷見の八代氏が地頭となり管理した。氷見阿尾城の菊池氏も八代氏の同族らしく、東福寺の檀家であった。
(※「戦国・氷見」氷見市)







【吾妻鏡】
「延應元年(1239)七月大廿五日壬辰。越中國東條。河口。曾祢。八代等保事。爲請所。以京定米百斛。可備進之旨。地頭等去年十一月献連署状於禪定殿下〔道家〕。仍可停止國使入部并勅院事以下國役之由。同十二月國司加廳宣。就之。去正月任國司廳宣。地頭等寄進状。爲東福寺領。停止并勅院事國役等。爲地頭請所。可令備進年貢百石。兼又當國宮嶋保雖爲當家領。被糺返國領之由。被下禪定殿下政所御下文。是爲寄附彼寺。所被相傳也。仍被申其趣於將軍家之間。可存其旨之由。今日被奉御返事云々。」

【7月25日 壬辰
越中の国東條・河口・曽祢・八代等の保の事、請所として、京定米百斛を以て備進すべきの旨、地頭等去年十一月連署状を禅定殿下(藤原道家)に献る。仍って国使の入部並びに勅院の事以下の国役を停止すべきの由、同十二月国司の廰宣に加う。これに就いて去る正月国司の廰宣・地頭等の寄進状に任せ、東福寺領として勅院の事以下の国役等を停止し、地頭の請所として年貢百石を備進せしむべし。兼ねてまた当国宮嶋保は当家領と雖も、国領に糺返せらるるの由、禅定殿下政所の御下文を下さる。これ彼の寺に寄付せんが為相伝せらるる所なり。仍ってその趣を将軍家に申さるるの間、その旨を存ずべきの由、今日御返事を奉らると。】

⇒【解説】( 越中國の東條保。河口保。曾祢保。八代等保 は藤原道家が寄進し東福寺領と成り、小矢部市の宮嶋保は国庫に返還された。 東條・河口・曽祢・八代等の保は 米100石で地頭が管理する事で地頭が連名で藤原道家に請状を提出した。)

●九条道家の子の九条(藤原)頼経(九条頼経)は、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍で藤原摂関家から迎えられた摂家将軍。両親ともに源頼朝の同母妹「坊門姫」の孫であり、前3代の源氏将軍とは血縁関係で妻は源頼家の娘竹御所。竹御所は難産の末、母子共に亡くなり源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された。(宮騒動)
この時に源義経の弟の範頼を育てた熱田神宮神官は追放される頼経を送り届ける役であったと云う。






💥💢 【百合】に滅ぼされた【佐々成政】の記憶⇒【小百合】と【黒百合の花】‼

2018-09-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








■「佐々成政」は「三階菅笠」の旗標を用いており、無形重要文化財の越中菅笠文化と密接な武将で在る。高岡市の「守山城神保氏張」、「柴野城寺島牛介」、「赤丸浅井城中山直治」は【佐々成政】に従って「能登末森城」の【前田利家】勢を攻めたが、【豊臣秀吉】の北陸出陣により降伏して、新川郡を知行されたが、後に肥後に転封された。しかし、検地を強硬して地元郷士の反乱を受け、秀吉から統治の不始末を咎められて切腹を命じられた。
成政は愛妾【小百合】を不義の罪で惨殺したと吹聴されて、武将としての信用を落とされたが、一部には後に越中を支配した前田利家の統治戦略で在ったとも云われる。又、豊臣秀吉の妻の【ねね】に珍しい越中立山の【黒百合】を取り寄せて献上したが、これが「不吉」として「謀叛」を疑われたと云う。





【佐々氏】
【隅立四つ目結紋】
(宇多天皇から出た宇多源氏佐々木氏流で、元々は【佐々木】を名乗ったが、主家の斯波家からの文書に誤って【佐々】と書かれた事から【佐々】を名乗ったと云う。⇒「佐々成政関係系譜」佐々成政研究会)
近江国佐々木の出と云われ、この系統の佐々木氏流高島氏からは、【豊臣秀吉】の本姓の【木下氏】も出ている。

■【佐々成政】と【小百合伝説】!!
「佐々成政」は富山市呉服の娘「小百合」を見初め、他のどの愛妾よりも寵愛した。他の愛妾はこれに嫉妬し家臣と共謀して「小百合」の追い落としを画策した。「岡島金一郎」という若侍と不義密通しているとして証拠になる品を「小百合」の部屋の前に置き、共謀した家臣が「佐々成政」に不義の証拠としてこれを届け出たのである。激怒した「佐々成政」は「小百合」の一族とその噂になった若侍を惨殺した。憎悪に満ちた成政は富山護国神社の裏に立っていた大木に「小百合」を吊るし、アンコウ切りという残虐な方法で「小百合」の肉を切り裂いて殺したという。「小百合」は恨みに満ちて「必ず佐々成政を滅ぼす」と言い残して死んだと言う。「佐々成政」が「前田利家」に対して連敗して、遂には腹心の氷見阿尾城城主の「菊池伊豆守」も「佐々成政」の内部情報を「前田利家」に通報して裏切り、前田方から佐々が「豊臣秀吉」を滅ぼそうとしていると秀吉に通報した事もあって秀吉が越中に進軍した。「佐々成政」はこれに対して刃向わず、頭を丸めて墨染の衣を着て秀吉の陣に出向いて降伏し、許されてその後は九州に転封されたと云う。「佐々成政」は秀吉の妻の「ねね」に対して、立山に生えている【黒百合】と言う珍しい花を取り寄せて届けさせた。これを見た秀吉は、嫉妬で在ったか占いをさせて、「佐々成政が逆心を持っている」として警戒し、遂に統治不始末をもって秀吉に切腹を命じられた。この一連の「佐々成政」の不運は、残虐な方法で惨殺した無実の【小百合】や若侍、一族郎党の怨念によるものであると吹聴された。この物語は、成政を追い落とした「豊臣秀吉」の言い訳にも成ったし、越中の前統治者「成政」に心酔していた越中の民衆を離反させる目的が在ったとも云われる。「越中」では、立山から流れ出る「常願寺川」が何時も氾濫して民衆を苦しめて居たが、これに対して成政は大規模な「佐々堤」と言う護岸工事を施工して氾濫を食い止めたと云う。この事から、越中では成政を慕う声が強かったと云われる。現在の高岡市から福岡町にかけて勢力を持った、高岡守山城「神保氏張」、柴野城「寺嶋牛介」、赤丸浅井城「中山直治」、木舟城「佐々平左衛門」等は「前田利家」と能登末森城で戦った。越中に侵攻した「前田利家」は、先ず、石川、富山県境の「石動山」の寺院を攻めて全山の僧や女、子供、或は身寄りの無い乞食迄も殺害してその首、一千余りを寺の三門に吊るしたと云われる。その後、富山県西部の西山の麓の民衆を高岡市和田新村の開発の為に移住させ、赤丸村に多く在った寺社を高岡城の出城代わりに高岡城の周辺に配置したと云う。「前田利家」は前任地の福井県武生でも、反抗する一向一揆衆を根絶やしにして、農民一千人余りを捕らえて「釜に入れられ、磔にされた」と云う。

🔴【延喜式内社赤丸浅井神社の神域】「五位の渡し」の在った赤丸向野新村の開拓⇒福岡町の「国指定無形重要文化財 菅笠製作技術」を伝えた『大野源作』と向野新村!!

2018-09-30 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■【延喜式内社赤丸浅井神社】は「藤原摂関家」・「後白河上皇」~「後醍醐天皇」・室町幕府足利家菩提寺「相国寺」・「等持院」・「等持寺」の庄園で在った「越中吉岡庄」・「越中五位庄」の「郷社」で在り、朝廷から弊帛が捧げられた神社で在り、この神社の別当「川人山鞍馬寺」は「門跡寺院 聖護院」の末寺で在り、皇室とは幕末迄、密接で在った。この庄園には「京都の雅を遷した清水寺、鞍馬寺、貴船神社、上賀茂神社、下鴨神社、愛宕神社、熊野神社等」が勘請され、皇室・伊勢神宮にも所縁の深い「菅笠」(国指定無形重要文化財)の伝統等も伝えられている。又、「赤丸浅井神社」は、皇室庄園で在った歴史を物語る様に「皇室の祭神で在る皇室八神」の内の「高皇産霊神」を祀る朝廷所縁の神社でも在る。
又、この庄園には加賀藩の前迄「赤丸浅井城」が在って、この地域を統治する重要な軍事施設で在った事が伝えられる。













■加賀藩時代に官製の渡し場「五位の渡し場」が在った向野新村(※高岡地方法務局)









■「向野新村」は福岡町に菅笠制作技術を伝えた伊勢の人「大野源作」の子孫の「大野次兵衛」が開拓した。赤丸村向野新村には加賀藩の時代から「五位の渡し」が有り、昭和35年頃迄笹舟での渡し船が在った。「義経記」の時代は小矢部川が西山丘陵の下を流れており、この「五位の渡し」の前身が「二位の渡し」と考えられている。(✳「義経記」小学館版、岩波書店版 参照)







■赤丸村は川原・古村・鞍馬寺の三集落からなる。元和元年(一六一九年)の家高新帳には役家数二〇、赤丸組に属した。外に、元禄八年(一六九五年)に新開された高八十八石余の地があった。この新開地は安政五年(一八五八年)向野新村となった。赤丸は菅の生産が盛んで、天保一四年には一萬二千歩余(高五十石に相当)の田に作付していた。また桑が多く植えられ、天明七年(一七八七年)には井波町の商人が当村で桑葉を買い集めている。小矢部川の洪水により安政六年には家屋五十六が浸水した。明治二十二年赤丸村・向野新村・舞谷村・花尾村と高田島村・三日市村の各一部が合併し新しい「赤丸村」となる。向野新村は、赤丸村の東、小矢部川左岸の低平地に立地。赤丸村領のうち小矢部川原の荒廃地を元禄八年(一六九五年)に開発したのに起源するという。「御領国中村名帳」では宝永三年(一七〇六年)に開発し、安政五年に村立てされたとする。五位組に属した。
(加賀藩記録に赤丸村領三日市と有り、赤丸浅井神社の由緒に拠ると、「近郷五十三箇村 旧五位庄廿五ケ村國吉郷廿六ケ村宮島郷二ケ村」が赤丸浅井神社の管轄範囲の53ケ村で有ったと云う。加賀藩政の前の「五位庄」や「吉岡庄」の範囲は古くはこの範囲であったと思われる。)

■向野新村は加賀藩の鷹狩場「お鷹場」を大野次兵衞が開拓し「お鷹場新開」「次兵衞島」と俗称したという。
大野次兵衞は伊勢国河藝郡白子村の生まれで慶長年間(一五九六~一六一五年)に流浪して五位庄蓑村に移住し菅笠の製法を教えた【大野源作】の子孫という。大野源作は慶安四年六月に赤丸村で亡くなったと云う。享年は七十三歳。
(※「赤丸名勝史」国立国会図書館蔵書 参照)
百姓数は次兵衞以下十五名(うち一名は他村からの兼作)であった。石高百十石。文久三年(一八六三年)には村内神明宮の祭礼を執行している。

■明治四十二年には向野新村の神明宮等赤丸地内の十一社を浅井神社に合祀している。向野新村は俗に「次兵衞開」(ジヘイヒラキ)と云った。小矢部川が山麓寄りに流れていた頃は同川の右岸の川向であったが、流路の変改により左岸に移ったと伝えられる。明治九年石川県、同十六年富山県に所属、同二十二年より礪波郡赤丸村の大字となり、昭和二十九年福岡町と合併。平成十七年高岡市と合併した。
(※「富山県の地名」一九九四年平凡社版参照)
向野新村の神明宮(向野新村石名田八一八)は、明治四十二年に浅井神社に合祀する前迄現在の向野集会所の建っている場所にあった。向野新村は明治三十年代のウンカの大発生による農村不況、殊に大正九年に起った小矢部川の大洪水により離村者が多く小学校の中退は二割以上に上った。岐阜県から流れる庄川と合流する小矢部川は度々大洪水を繰り返し、常に流れる位置形状を変え、古くは赤丸浅井神社下の山裾を流れていたが、次第に東に流れを変え、川は大きく蛇行していた。「向野」は正に小矢部川の向こうにある荒地であり、江戸期の図面にはその荒地を「川原」と記載している。これが現在の川原集落の地名にもなっている。 


■「向野新村開拓時の人々」


●浅井神社管理の宮
・愛宕社 赤丸村古谷五四〇二(古村)
                   祭神 軻愚突智命
・清水社 赤丸村古谷五三六三(古村)
                   祭神 大巳貴命    清水山鎮座
●浅井神社に合祀されている神
(明治四十二年合祀)
・神明社 向野新村字石名田八一八番(向野)
     赤丸村焼田六七一四(鞍馬寺)
                   祭神 天照大御神
・八幡社 赤丸村砂田六二九〇(鞍馬寺)
                   祭神 誉田別尊
・熊野社 赤丸村古谷五〇三一(古村)
                   祭神 伊弉諾命
・天満社 赤丸村子吉三八七三(古村)
                   祭神 菅原道真
・諏訪社 赤丸村縄田二五一七(川原)
     赤丸村草安五七五三(鞍馬寺)
                   祭神 健御名方命
・庚能社 赤丸村焼田六六一九(鞍馬寺)
                   祭神 金山彦命
・庚能社 赤丸村古谷五二七五(古村)
                   祭神 金山媛命
・日吉社 赤丸村勝負田一四五四(古村)
     赤丸村山王四三九八(古村)
                   祭神 大山咋命
・富士社 赤丸村山王四五〇六(古村)
                   祭神 木花咲夜比売命
・白山社 赤丸村古谷四八三八(古村)
                   祭神 白山媛命



🔷🔹🔸 【中村野神社】(※小矢部市下中)に伝わる赤丸の城主【浅井左衛門尉助成】の事⇒家臣【中村久澄】とは?!!

2018-09-29 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●小矢部市教育委員会から、地元に伝わる【中村野神社の物語】を御知らせ頂いた。


■高岡市福岡町赤丸に在った赤丸浅井城城主は弓と刀を祀る神社としてある神社を厚く信仰していたが、源平の戦いで七堂伽藍が全て焼け落ちた。この城主の家臣の【中村久澄】はある日の事、紫雲に包まれるや何処からともなく「私はこの城の守護神成り。故在って小矢部川を越えて東南の方向の大杉の下に遷座しようと思う故、汝も来るが良い」と告げられた。これを聞いた城主はその大杉の下を掘らせた所、御神体が顕れた。そこでこの城主は直ちにその場所に社を造らせてお祀りしたと云う。これが「中村野神社」であると云う。
その後、この社を守った「中村久澄」の子孫の【中村久助】が原野を開いて【中村】と言う里を開いたと云う。
その後、この村は東中村、西中村、上中村、下中村の四つの村に分かれた。【中村野神社】はこの中の「下中村」の地に鎮座する。




■(※高岡守山城を居城にした「神保氏張」の祖先は「平姓良文流」で、【中村】と名乗っている。「赤丸浅井城」はこの頃、後白河上皇の庄園「吉岡庄」を守る富山県西部の著名な城で在ったと見られ、「守山城」に居た「中村氏」が「浅井城主」に従って居た可能性は高い。恐らく、この「中村久澄」と言う武将も「守山城神保氏」の祖先の「中村氏」と見られる。「赤丸浅井神社」は嘗て、小矢部市、後の五位庄地域、国吉村を含む地域の神社支配を認められて居た様で、「小矢部市史」によれば、「赤丸浅井神社」と福岡町下簑の「三乃神社」の神官は小矢部市の各地の神官を勤めている。)


■「源平の戦い」の時代には、「赤丸浅井城」に「石黒光景」が居たと伝わる。「浅井左衛門尉助成」と言う武将は初耳だが、この頃は赤丸村は【越中吉岡庄】と呼ばれた「後白河上皇」の「後院領」で源平の「利波山合戦」の時には、赤丸浅井神社の前に屋敷を構えていたと云う「池田次郎」と云う武将がおり、小矢部市の今石動(※当時は池田と言う地域で在ったと云う。)等を開いたと云われ、西山に沿って広域に「池田」と言う地域が在った事を歴史学者「朝香年木氏」は【治承・寿永の内乱論序説】に記されている。
「石黒氏の家臣」の「池田氏」の一族が、浅井神社が鎮座する浅井谷に屋敷を構えて「浅井左衛門」と名乗り、「浅井城」に入って居た可能性が高い。この池田一族は現在の高岡市関町の「総持寺」周辺も所有して、その地域に「総持寺」を動かしたと伝わる。現在、関町には「宇多刀鍛冶」の氏神と見られる「刀工の神社」の「槌の宮」が赤丸村から移ったと云われる。
(※「富山県神社誌」)








🌸 【宇多源氏 の系譜】「加賀藩前田家」と「宇多源氏」の流れを汲む「宇喜多秀家」、「宇多刀工」、「佐々成政」、「豊臣秀吉」⇒江戸時代迄続いた「越中刀工」と加賀藩!!

2018-09-29 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
●「宇喜多秀家」と「越中刀工 宇多派」
⇒「宇喜多秀家」の系統は「宇多源氏佐々木氏流」の流れを汲むと云われ、家紋は越中で栄えた宇多源氏佐々木氏流の「宇多刀工」と同じく「剣方喰紋 ケンカタバミモン」を使用している。この紋は現在も越中の西部に多く残っている。



■「加賀前田家」と「宇喜多秀家」
「宇喜多秀家」は「前田利家」の娘の「豪姫」を正妻としたが、豊臣家恩顧の大名として、関ヶ原の戦いでは明智光秀に与して西軍17000人を率いて副将として参戦した。しかし、西軍の中の裏切りも在って西軍は敗退して、秀家は西軍の島津家に匿われた。
関ヶ原戦後、島津家が秀家を庇護しているという噂が広まり、徳川幕府から睨まれた為に島津義弘の息子である忠恒は幕府へ秀家の身柄を引き渡した。一度は死罪に決まりかけたが島津忠恒や正室豪姫の兄である「前田利長」の懇願で死罪から罪一等を減じられて駿河国久能山へ幽閉となり、改めて慶長11年、宇喜多秀家34才の時に八丈島への配流処分となった。この後、宇喜多秀家は1655年、84歳で亡くなる迄50年間を八丈島で過ごした。
しかし、実家の前田家に戻っていた宇喜多秀家の正室「豪姫」は家人を秀家の下に派遣し、秀家と共に八丈島に配流された2人の息子には乳母を派遣し、専属の医師まで八丈島に派遣したと云う。又、加賀藩前田家は「豪姫」の弟の第三代前田利常の時代から幕府の許可を得て2年に1回、金銀・米・食糧・衣服、医薬品等を送り続けたと云う。

▼加賀藩士に、宇多源氏六角氏系の「佐々木定治」以下三代が仕えていたと森岡浩氏は発表されている。



■「豊臣秀吉」から「前田利家」へ遣わされた「越中の刀」
秀吉の遺品は前田屋敷で武将達に分配されたとされる。
「豊臣秀吉」の遺品の内、「前田利家」に与えられた遺品の中には、越中刀工「郷義弘」の刀剣が在る。これが、「前田郷」と呼ばれる刀か?
又、この秀吉の遺品の中には越中の刀工の「宇多刀」や「佐伯則重」の刀も見られる。
前田家が幕末迄支援し続けた宇多源氏の「宇喜多家」と江戸時代迄加賀藩で続いたと云う宇多源氏「宇多刀工」は背景に何か繋がりが在ったものか?
(※宇喜多家で徳川に就いた一族は徳川家臣として残ったが、途中で断絶したと云う。)



■「前田利家」と「能登末森城」で激しく争った「佐々成政」も本姓を「宇多源氏佐々木氏」とされる。「佐々」は「佐々木」から出たか?
「前田利家」が越中を占領した後に、赤丸村に在った「宇多刀工」の氏神の「槌宮」は高岡市関町の「総持寺」の前で、「瑞龍寺」の近くに移転しており、元々、「佐々成政」の与力で在った赤丸浅井城城主「中山氏」の支配地域から主要な寺社施設を高岡市内に移転させたと見られる。「赤丸浅井神社」には、加賀藩時代にも赤丸村に「平家盛阿弥」と云う鍛冶屋が残っていたとの記録が在り、軍事施設を造る鍛冶屋・刀鍛冶等の氏神を高岡城の近くに移転させたものか?

■「宇多源氏」の【太閤 豊臣秀吉】のルーツ
【重修真書太閤記】には、秀吉のは近江国で、「宇多源氏佐々木氏流高島氏」で在り、木下郷に住んで「木下」を名乗ったとされる。「宇多刀工」のルーツは大和国宇陀郡と言われるが、近江国甲賀郡には「宇多氏」がおり、元々は「宇多源氏佐々木氏流」とも言われる事から、元々、同族と見られる。

■【重修真書太閤記】(※部分)





💥「昭和天皇の戦争終結宣言」と「越中石黒氏の末裔 石黒忠篤」⇒何時迄続く「終戦の夏」❗

2018-09-29 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「昭和天皇の終結宣言」には「越中石黒氏の末裔 石黒忠篤」の署名が在る。

■あの日から日本は世界に隷属して、日本民族は誇りを喪った!!
毎年、反省と悔恨の夏がやって来る!!
しかし、その「天皇の終結宣言」が何を語ったのかは正確に知る人は少ない。
只、ひたすらに忘却する事にのみ日本民族は邁進して、いつの間にか、戦争を仕掛けられても何も感じないロボットの様な民族に成った。国民全体が目を遣るのは遊興やスマホやゲーム、漫画等だけで、現実逃避を続けるだけ!!
これでも尚「世界の良識にすがる」だけの憲法で良いのか?
この腐り果てた国家、国民の為に生命を賭している自衛隊員の家族は、只、身内の犬死を座して待つだけなのか?
腐り果てた政府や官僚、議員等が指導する国家に未来は無い。






🌸🏯 【木舟城】(※高岡市福岡町)の秋 ⇒「貴船神社」には真紅の彼岸花が咲き乱れています!!

2018-09-29 | 富山県高岡市福岡町
【木 舟 城 古 絵 図】
(※加賀藩十村役杉野家文書)




■「越中木舟城」は越中利波郡トナミ に在り、「越中石黒氏」が歴代、居城として来た城だが、越後の「上杉謙信」が攻めて来た時にはその支配下に成ったり、「織田信長」の家臣「佐々成政」が越中国主になるとこの城は佐々家家老「佐々平左衛門」の居城となる。「佐々成政」が「能登末森城の戦い」後は、侵攻してきた「豊臣秀吉」に降伏し、「前田利家」の支配下に成る。しかし、飛騨を震源とした天正の大地震に因って沼地に建てられていた城は地中に埋没し、城主「前田秀継」以下の家臣共々、全滅したと云う。その後、木舟城下の住民は石動町(※小矢部市)の「前田利秀」の居城の「今石動城城下」や高岡市の「木舟町」等に分散して移動している。
「越中石黒系図」等によると、元々、「木舟城」は「延喜式内社赤丸浅井神社」・「赤丸浅井城」を中心とした「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄続いた皇室直轄庄園「越中吉岡庄」に築かれた「赤丸浅井城」の出城で在り、「赤丸浅井城城主石黒光景」の子供の「石黒光弘」が居城にしたとされる。この庄園は、室町時代になると、足利幕府の糧所と成り、「足利義満」は「五位庄」を「相国寺」に寄進して、地頭として畠山一族を配置している。古絵図には、「畠山持国」の居城「赤丸浅井城」や「石黒氏」の居城の「木舟城」・「福満城」が記載されている。
(※「越中統治絵図」畠山文書)

▼上皇~天皇家庄園の【越中吉岡庄】(※平安~南北朝時代)の主な領有者
・後白河上皇
・後鳥羽上皇
・後醍醐天皇








■「越中石黒氏」は源平の「利波山の戦い」(※倶利伽羅山の戦い)や後鳥羽上皇の「承久の乱」、「南北朝の戦い」等にも登場し、古代氏族「利波臣」や「藤原氏の加賀林氏」の末裔とされ、「古事記」にも「高志利波臣」として登場する「天皇家子孫」とされる一族だ。富山県には、古くからこの支配地域を「利波郡」と呼び、近世には「砺波郡」や「西砺波郡」・「東砺波郡」として地名が残っている。
(※「平家物語」・「源平盛衰記」)














■【越 中 木 舟 城】














■木舟城絵図の中に【石原殿】と云う場所が在り、「木舟城主佐々平左衛門」 (※佐々家家老。妻は佐々成政の娘。)の子孫は金沢へ移って「石原」と改姓して、初代は「石原宗左衛門」と改名している。その子「石原善兵衛」の時に加賀藩から客分として「150石」を給されている。
(※「先祖由緒帳 石原才二郎系図」金沢市立玉川図書館)





■【五郎衛門三昧サンマイ】
【木舟城絵図】の西部には「五郎衛門三昧」が記されており、この中には嘗て、三基の「五輪塔」が在ったが、区画整理の時に城跡の西の「神明社」の境内に動かされた。この「五輪塔」は鎌倉時代から南北朝時代に盛んに造られたものと酷似している。恐らくはその時代に越中利波郡を統治していた「越中石黒氏」の遺跡と見られる。この地域に「五郎衛門家」が残っておれば間違いない。
室町時代の「畠山文書」(※「羽曳野資料叢書」)には、室町時代の木舟城は石黒氏が統治していた事が記されている。



▼「三昧」は「火葬場」の事で、「●●三昧」と固有名詞を冠した三昧は、「五郎衛門家専用の火葬場」で在って、その一族以外は使用出来なかった。赤丸村にも、柴野城主「寺嶋牛介」の子孫が加賀藩から赤丸村を知行されて「寺嶋三九郎」と名乗った一族専用の「三九郎三昧」が在った。これ等の専用の火葬場はその地域を知行された武士階級が使用した三昧で在り、庶民は別の場所で野焼きしていた。

🔴『北陸七国志』に見る「能登末森の戦い」⇒【高岡市福岡町沢川村の「田畑兵衛」狭導の事】!!

2018-09-27 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■富山県西部について記された「戦記」で、鎌倉時代では「吾妻鏡」、南北朝時代のものには「太平記」や「花榮三代記」(※「群書類従」)等が在り、室町以降の「軍記」には、「北陸七国史」、「北越軍談」、「荒山合戦記」、「末森記」、「越登賀三州史」、「小松軍記」、「富樫記」等の多くのものがある。それらは現在、市販もされておらず、郷土の人達も目にする機会は少ない。これ等の戦記を見ると、越中と加賀、能登がいつの時代にも良好な食糧生産地として、又、大陸との海外交易について重要な地域で在り、戦乱が絶えなかった事が理解できる。
特に越中と能登、越前等を集中的に扱っているものに「北陸七国史」がある。「末森記」はその中でも「能登末森城」での前田利家と佐々成政の戦いについて記し、「荒山合戦記」は前田利家の石動山攻撃と殺戮について記している。





■「北陸七国史」(※部分)







■(高岡市福岡町)沢川村(ソウゴウムラ)は高岡市と小矢部市の中間に在って、「五位庄」に在り、「赤丸村」、「鳥倉村」、「西五位村」、「小矢部市」から富山県と石川県の間の西山を能登に抜ける間道に在る。この山中には間道が網の目の様に広がり、「沢川村」から「小野村」を過ぎると能登の宝達山の麓に抜ける。その点では「津幡町経由」、「沢川村経由」、「氷見村経由」のルートの内で佐々勢が拠点とした「木舟城」から「守山城」、「柴野城」、「赤丸城」を前線として西山を山越えする為には最短のルートになる。しかも、「小野村」は石川県と富山県の二つに分かれている。
「沢川村」の「田畑兵衛」は元々、平家の末裔で能登にも所領を持っていたと云う。「田畑兵衛」は佐々成政から能登末森城への案内を乞われた時に「前田利家は領地を奪い、賦役をかけて地元の人々を苦しめて来た。だから、末森城への間道を案内する。」と佐々軍に告げて佐々軍を山中の狭い、道無き道に引き込み、散々連れ廻して佐々軍が道に迷うと自分は姿を消してしまう。佐々軍が末森城に到着するのが遅れた間に伝令が前田利家に末森城の危機を伝え、利家は早速末森に応援軍を送った。前田軍の末森城が籠城して佐々軍がこれを攻めあぐねている所に前田軍が駆けつけ、末森城は落城を免れた。この時に末森城を攻めた主力は高岡の「守山城神保氏張、その子清十郎」、「高岡柴野城寺島牛介」とその兄の「斉藤甚助」、「赤丸城中山直治」等で在った。
戦後、「前田利家」は「田畑兵衛」に恩賞として、周辺の山林、田畑を与えて全十村役を取り締まる「無役十村」に任じて、西山一帯を取り締まる「山廻り役」に任命した。苗字・帯刀を許された田畑兵衛は、家臣に準じて加賀藩の慶弔行事に参列する事を認められた。
一方、この戦いで敗れた「佐々成政」は越中に侵攻した「豊臣秀吉」に降伏して、暫く新川郡を知行されたが後には「肥後」に転封され、その後、一揆の鎮圧に失敗して切腹させられた。「守山城神保氏張」は佐々成政と共に肥後に赴いたが成政切腹後、浪々して後に「徳川家康」に仕官して千葉に知行地を貰って旗本として処遇され、「柴野城寺島牛介」は鉄砲の腕前を買われて前田家に仕官し、兄の「斉藤(小島)甚助」は富山市の蜷川村で出家した。「赤丸城中山直治」は前田家への仕官を断り福井県の敦賀に落ち延びたて、その地で今井氏の養子になった。一方、神保氏張に加勢した高岡守山城から柴野城、赤丸城のお膝元の住民は、前田利家が占領すると、西山一帯の住民は高岡市和田新村の開発の為に移住させられ、赤丸村の浄土真宗長善寺は和田の善宗寺、福岡町の長安寺に三分割され、長善寺は僅かの門徒しか残されなかった。しかも、残された住民に対しては、通常は四公六民の税制で四割の課税だったが、この小矢部川西岸の地域には幕末迄「60~75%」もの課税をかけ続けて住民に報復し、赤丸城のお膝元の「舞谷村」と末森城への間道(※「片山大道」)が在った「鳥倉村」に対しては、何と「75%」、その他の「赤丸村」、「頭川村」等にも61%もの課税をかけ続け、長く皇室庄園で優良米を生産して来てその生産額も断突に多かった「赤丸村」は加賀藩の重臣の「長九郎佐衛門」や「前田一族」に知行された。一方、前田利家に内通した田畑兵衛のお膝元の「沢川村」には40%強の低率の課税がかけ続けられて優遇された。
その為に、疲弊した小矢部川西岸地域の「赤丸村」、「舞谷村」、「花尾村」、「鳥倉村」等の住民は明治維新後には続々と多くの住民が北海道に新天地を求めて移住した。この悲惨な様子は最後の赤丸小学校の畠山校長が「赤丸小史」(※福岡町図書館蔵)に纏められて遺されている。長く加賀藩政の後遺症に苦しんだこの地域は、現在も続く高岡市の都市偏重政策の中で、人工減少、高齢化が進展して益々、限界集落に近づいている。 



■「赤丸村」、「花尾村」、「鳥倉村」等の住民は明治に入ると続々と北海道へ逃れた。その時の役場の証明書が2016年11月に北海道の開発地域住民から届けられた。




    

🏯🐎 「佐々成政」と加賀藩の陰謀「小百合伝説」・「黒百合伝説」?⇒「佐々成政の子孫」の「徳川家光妻孝子」・「徳川綱吉妻信子」・「狩野探幽」・「大石内蔵助妻理玖」等!!

2018-09-27 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■「佐々成政」
(※落合芳機作━歌川国芳門下)









■徳川家は、共に豊臣秀吉に対抗した佐々成政の子孫を家光・綱吉の2代に亘り正室として迎えて遇している。又、赤穂浪士の討入り事件では、首謀者の大石内蔵助は室町幕府鎌倉公方の重臣小山氏の末裔であったが、その妻の「理玖」が佐々成政の子孫であった事から(系図参照)、当時の将軍徳川綱吉とも連なる一族の処分に苦慮していた背景が窺われる。徳川綱吉は、外戚にも連なる一族が絡んだ事件であったからこそ、尚更にこの事件については厳罰で対応したのかもしれない。
(※大石内蔵助の事;藤原秀郷は通称「俵藤太」と呼ばれるが、藤原秀郷は江州[近江]の田原、大石を領有したので「田原の藤原秀郷」を「俵の藤太」と呼んだ。藤原秀郷は東北・北陸を主管して征夷大将軍となる。又、近江の大石に残る秀郷の子孫は「大石氏」を名乗って子孫は織田信長に対抗して足利将軍を守ったと云う。更にこの子孫は赤穂藩家老と成り、大石内蔵助は主君の敵の吉良上野介義央を討ち取り、忠義の士とされた。大石内蔵助を祀る大石神社は赤穂に在り、皮肉にも、後に赤穂藩の領主となった織田信長の小姓の森蘭丸の一族の森家資料もこの神社に在る。⇒※「大石内蔵助」福本日南著 国立国会図書館蔵)


■現在の高岡市内に有る守山城の城主神保氏張とその家臣の柴野城主寺嶋牛之助・甥の赤丸浅井城城主中山直治は佐々成政に従い石川県の能登末森城で前田利家と戦った。前田利家が勝利した為、赤丸村の主要な寺院は高岡へ移転させられ、住民は高岡市和田村の開発地に小作農(頭振りと呼ばれた無産階級の百姓)として送り込まれ貧困のどん底にあえいでいた。赤丸村の歴史は加賀藩によって徹底的に抹消され、長く栄えた吉岡庄、五位庄は廃墟と農地だけが残った。唯一、天皇家所縁の赤丸浅井神社は破却を免れて現在まで残った。

■越中守山城城主神保氏張は織田信長の妹を妻に迎え、息子の氏則には佐々成政の娘を妻として迎え、佐々成政と共に能登末森城の戦いで前田利家と戦い、敗れた。神保氏張は元々、足利氏の流れを汲む能登畠山氏からの養子と伝わる名門。本来、守山城を居城とした神保氏は本姓を二宮氏と名乗っていた。秀吉により九州に転封された佐々成政に従い九州に赴いた神保氏は、成政切腹後、浪々して後、徳川家康の旗本になったと云う。《※「神保氏系譜」(※静岡県立図書館)、「二上山研究」参照。》






■佐々成政は三階菅傘を旗標とした。三階菅傘の標の下の武将が佐々成政で、将棋の標が前田利家。佐々成政と前田利家は織田信長の鉄砲奉行として共に戦ったが、老獪な豊臣秀吉に翻弄され、遂には能登末森城で両雄は激突する。




■明治期に発刊された富山県では著名な「喚起泉達録」と「肯搆泉達録」という古書が有る。「喚起泉達録」は古代からの越中の歴史伝承等を伝え、「肯搆泉達録」はその後を受けて様々な加賀藩時代の記録、伝承等を伝えている。「肯搆泉達録」は加賀藩時代の歴史観に立って記載されており、前田家と争った佐々成政についても詳しく記載している。しかし、成政については敵の情報であり、著作の中でも豊臣、前田は「公」をつけて記載しているが、佐々成政については「成政は---」と呼び捨てで有る。
この中で有名な「佐々成政の小百合伝説」についても詳しく記載している。

【佐々成政は富山市呉服の娘「小百合」を見初め、他のどの愛妾よりも寵愛した。他の愛妾はこれに嫉妬し家臣と共謀して小百合の追い落としを画策した。岡島金一郎という若侍と不義密通しているとして証拠になる品を小百合の部屋の前に置き、共謀した家臣が佐々成政に不義の証拠としてこれを届け出たのである。激怒した佐々成政は小百合の一族とその噂になった若侍を惨殺した。憎悪に満ちた成政は富山護国神社の裏に立っていた大木に吊るし、アンコウ切りという残虐な方法で小百合の肉を切り裂いて殺したという。小百合は恨みに満ちて「必ず佐々成政を滅ぼす」と言い残して死んだと言う。佐々成政が前田利家に対して連敗をして、遂には腹心の氷見阿尾城城主の菊池伊豆守も佐々成政の内部情報を前田利家に通報して裏切り、前田方から佐々が豊臣秀吉を滅ぼそうとしていると秀吉に通報した事もあって秀吉が越中に進軍。佐々成政は刃向わずして秀吉に降伏し、許されてその後は九州に転封される。佐々成政は秀吉の妻の「ねね」に対して、珍しい立山に生えている「黒百合」を届けさせた。これを見て秀吉は占いにより「佐々成政が逆心を持っている」として警戒し、遂に秀吉に切腹を命じられる。この一連の佐々成政の不運は残虐な方法で惨殺した無実の小百合や若侍、一族郎党の怨念によるものである。】

というストーリーで、後には芝居にもなり、残虐な佐々成政を吹聴する道具にされた。これが「小百合伝説」として加賀藩に浸透し、佐々成政を恐れさせ、慕う庶民の心理的な離反を促した。その実は、佐々成政は荒れ狂う常願寺川に佐々堤という三方石積みの城郭の様な土手を築き、治山、治水に努力して、地元民から慕われて「神」として祀られていると云う。当時は「不義密通」は御法度であり、双方共に死罪となった。成政は為政者として法を実行したが、殊更に残虐性を強調し、悪逆非道の為に小百合の怨霊によって打ち滅ぼされた事にして面白くしたものだろう。当時の武将は日々、戦乱に明け暮れ、死に対するドライな感覚が有った。主君の織田信長は真宗門徒や比叡山の僧等を全員抹殺したと伝わる位で、磔や獄門も通常の仕置きだったのである。戦乱の中では「内部攪乱」も戦略だったから、成政はマンマと陰謀に乗せられ、愛する小百合を失ったと思われる。
(「絵本太閤記」、「戦国越中をゆく」※北日本新聞社発行、「家光大奥・中の丸の生涯」※遠藤和子著 参照)





🔴🔹【本山派修験道 三井寺】の【 修験道諸作法】。 「本山派修験道 熊野三山検校 近江国 三井寺」を本山とした【聖護院門跡】末寺の「川人山鞍馬寺」(※赤丸村)の真実!!

2018-09-26 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「延喜式内社赤丸浅井神社」は「川人山鞍馬寺」を別当とした「三社権現形式」の本社。神社の拝殿に掲げられた【浅井神社】の額は、「加賀藩第十三代前田斉泰」の揮毫による。「川人山鞍馬寺」は両部神道聖護院派修験道山伏。
「浅井神社」は越中石黒氏の居城の「赤丸浅井城」の鎮守社で在ったと言う。











■【三井寺修験道諸作法】(※部分)
「三井寺」で山伏として入門する時の試験で出される問題集。









■【京都 門跡寺院 聖護院】と、末寺の越中赤丸村【川人山鞍馬寺】の文化。









■《鎌倉時代》【義経記】の「勧進帳のシーン」の原点は「赤丸浅井神社」の前の【二位の渡し】の事件。
(※「義経記」の《如意の渡し》のシーン参照)






■【越中吉岡庄古図】(※「福岡町史」)
南北朝時代迄、皇室庄園『越中吉岡庄』と呼ばれた「赤丸浅井神社」を氏神とする赤丸村周辺53ケ村。
「吉岡庄」は元々、藤原摂関家長者【藤原頼長】(※藤原道長の子孫)の庄園で在ったが「保元の乱」以降は、【後白河上皇】の「後院領」に編入されて、上皇が創建された「蓮華王院三十三間堂」の庄園に成った。(※「兵範記・「人車記」)






















🔴💠🔹 室町時代の越中⇒足利義満・畠山満家が統治した「越中四郡」は「八郡」に分割されて統治された!!

2018-09-25 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


●「畠山文書」(※畠山義昭氏所蔵、羽曳野資料叢書)には貴重な室町時代の統治絵図が遺されている。







畠山氏は「畠山義深」の時に「室町二代将軍足利義詮」に従って、能州、越州、河州、紀州 を預かり、その子の「基国」は「足利義満」から能州、越州、河州、紀州、泉州、城州、摂州を委ねられ、基国の嫡男の「畠山右衛門督満家」は基国の領地を引き継ぎ、越中四郡を八郡に分けて砺波郡は蓮沼郡を設けて二郡とし、蓮間郡は畠山家持ち分で満家の嫡男「持国」の所領と成り、砺波郡は「遊佐勘解由左衛門」の知行で在った。中郡は氷見郡と分けて二郡として、氷見郡は「畠山左衛門督持永」の領地で、中郡は「畠山左馬頭持富」並びに諸侍の知行地とした。婦負郡は射水郡と分けて射水郡は「斎藤次郎右衛門尉」並びに諸侍の知行地、婦負郡は「土肥但馬守」並びに諸侍の知行地とした。新川郡は松倉郡を分けて二郡として松倉郡は「椎名小次郎」の領地、新川郡は「神保越中守」の領地として諸侍に配分した。「守護畠山満家」は能州、越州、河州、紀州、泉州、城州、摂州を預けられていた。

この絵図に拠れば、砺波郡には福光に石黒氏の城が在り、その下流には遊佐氏の城が在る。又、小矢部川西部の蓮間郡には「畠山持国」の居城が在った。この「畠山持国」の居城は位置的に「赤丸浅井城」と見られる。この絵図でも小矢部川が砺波平野の西山の麓を流れていた事が解る。

■「室町幕府三代将軍足利義満」は「越中五位庄」を室の「業子」の追善料として自らが創建した「相国寺」(※塔頭寺院「鹿苑寺金閣舎利殿」)に寄進している。
次いで「足利義持」は「五位庄の半分」を「等持院」に寄進したが、その後は「相国寺」、「等持院」、「等持寺」が同時期に「五位庄」を庄園にしていた。
この範囲は「五位庄全体に関わるものか」はた又、「五位庄」の小矢部川の西部の地域で在ったものかは明確では無い。しかし、「東寺百合文書」に拠れば、「小矢部川東の般若野庄」や「小矢部川上流の福野町野尻郷」が「五位庄」として記録されている事から、「砺波郡西庄」は小矢部川西部の地域を指し、「砺波郡東庄」は小矢部川東部を指したと見られる。当初、「足利義満」が「相国寺」に寄進したのは、後に代々畠山氏が直務した小矢部川西部と見られ、足利家菩提寺の「等持院」、「等持寺」に寄進されたのは小矢部川東部の地域東部市場前見られる。畠山満家の三回忌が元々赤丸村に在った総持寺が一時期、海岸近くに動いた「浜総持寺」で執行されたとすれば、この絵図で見る限り「畠山満家」が直務した砺波郡内と言う事に成り、この中の海岸近くと言えば、高岡市守山辺りになる。畠山満家の代には畠山氏は「砺波郡」を直務した事がこれ等の資料から推測できる。
室町時代には高岡市守山は明確に砺波郡で在った事がこの絵図から解る。

■「足利義満」は「室業子」の追善料として「越中五位庄」を「相国寺」に寄進した時に重臣中の重臣の「畠山満家」に底地の統治を行わせた。(※「富山県史 中世」)
「畠山満家」は「足利義満」の近臣の醍醐寺の僧「満済」とも懇意で在ったと言う。
醍醐寺の僧「満済マンサイ」、天授4年 ・永和4年(1378年)~ 永享7年6月13日(1435年7月8日)は、南北朝時代から室町時代中期にかけての「醍醐寺」(真言宗)の僧で「法身院ホッシンイン准后」とも呼ばれ、「醍醐寺」中興の祖とされる。
父を「従一位権大納言今小路師冬」、母を「聖護院房官法印源意」の娘として産まれ、「室町幕府三代将軍足利義満」の室の「日野業子」に仕え「白川殿」と呼ばれた。生家の今小路家は関白二条兼基の子「良冬」を始祖とし、「満済」は兼基の四世の孫にあたる。
「越中五位庄」の「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当「川人山鞍馬寺」は、「満済」の母の父が坊官を勤めた「門跡寺院 聖護院」の末寺で在り、母が仕えた「日野業子」が亡くなると「足利義満」が「五位庄」を菩提寺の「相国寺」に寄進する位に関係が深い。この時期に越中国利波郡の「五位庄」は「足利義満」の母方の縁者の「政所代 蜷川新右衛門」に委ねられたと云う。「蜷川氏」は現在の富山市蜷川等に城を構えた一族で、先祖の「宮道氏」は古くから富山県東部の「祇園舎庄園」(※現在の八坂神社)を治めていた一族で、富山県の利波郡、新川郡を知行されたと伝わり、先祖は宇多天皇の中宮を輩出している。正に、「足利義満」は南朝の後醍醐天皇の庄園で在った「五位庄」を身内の蜷川氏に統治させて、「重臣 畠山満家」に管理させていた。其ほど、「五位庄」は室町幕府にとっては重要な庄園で在った様だ。
(※「蜷川の郷土史」)

▼「満済」は「足利義満」の猶子に成り、「三宝院賢俊」に入室し、報恩院隆源の下で得度した。三宝院二十五世門跡となり、応永2年(1395年)から永享6年(1434年)の間、醍醐寺第74代座主を務め、以後、三宝院門跡が醍醐寺座主を兼ねる例となった。その間東寺長者や四天王寺別当等を兼任し、応永16年(1409年)大僧正の位に上る。正長元年(1428年)には三宝院門跡として初めて「准三后」(准三宮。太皇太后・皇太后・皇后に準じる位の「准后」となる。)に就任した。「三代将軍足利義満・四代将軍足利義持・六代将軍足利義教」の信任が厚く、殆どの政策に関与して「黒衣の宰相」と呼ばれた。出家して「義円」と称した「六代将軍足利義教」を将軍に就かせたのも「満済」の力によるものと云われ、恐怖政治を行ったと言う「足利義教」すら「満済」の進言には従ったと云う。室町幕府の幕政の中枢に在って情勢を冷静に判断し人情厚い人物として評価された。この「満済」が出来事を記録しておいたものが『満済准后日記』(『法身院准后記』)と呼ばれ、応永18年(1411年)から死去の年までの記事が記載される。
















🔴🔹 古都「恭仁京」と「相良氏 」・「越中吉岡庄」と「相良氏」⇒京都と越中を結ぶ共通の文化!!

2018-09-25 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


●京都府の南部に「皇室領・門跡領・幕府領・旗本領」で在った「相楽村」が在った。この地域は後に「相良郡」と成っているが、この辺りの「加茂村」には「聖武天皇」の時に古代の都の「恭仁京」が在り、この地には「賀茂御祖神社」の元宮ともされる「岡田国神社」が在り、「鴨氏」と密接な地で「聖武天皇」の祖母で育ての母と成った「元明天皇」(※文武天皇の母)共、所縁が在る。

■(※恭仁京;740年「天平12年」に「聖武天皇」が遷都。天平16年「744年」には難波宮に遷都。加茂町は、京都府相楽郡に在った。2007年3月12日には山城町、木津町と合併し「木津川市」となった。2007年3月12日には山城町、木津町、加茂町が合併。多数の史跡・文化財が在り、聖武天皇の祖母で母代わりの元明天皇の時に日本最初の流通貨幣「和同開珎」が造られた地。この地に在る「岡田鴨神社」は、その由緒に拠ると、京都府木津川市加茂町北鴨村にある神社は『延喜式神名帳』の「岡田鴨神社(山城国・相楽郡)」に比定される延喜式内社(大社)で郷社。『山城国風土記』では「建角身命」は大和国葛城から山城国岡田賀茂を経て、洛北の「賀茂御祖神社」(下鴨神社)に鎮まったと云う。第10代崇神天皇の時に、賀茂氏によって「建角身命」に縁のある岡田賀茂の地に「下鴨神社」を勧請したとする説の他にこの神社が「下鴨神社」の元宮ともされる。祭神は、賀茂氏の祖で「八咫烏」と同一視される「建角身命」。初見は『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条に従五位上の神階を授けた記述。岡田の地に加茂里・久仁里が含まれ、加茂里の鎮守・久仁里(恭仁里)の鎮守として「岡田国神社」が在った。「岡田国神社」は延喜式内社。岡田国神社は元々、現在地より北方に鎮座していた。木津川河岸に「鴨大明神趾」がある。奈良時代には、現在の木津川は岡田山(流岡)の北側を流れていたが、その後木津川が南側を流れるように変化し、水害が頻繁になった為に現在地に遷座した。現在地は、飛鳥時代末期~奈良時代初期の「元明天皇」(在位:707年~715年)の[岡田離宮]の旧跡と伝えられる。)

▼この地域から出た藤原南家の「工藤氏」の系統は「相良」を名乗り、静岡県の相良郷に進出した。「相良一族」は「源頼朝」の旗揚げに参陣して九州熊本の「球磨郡」に知行されて、この子孫は「人吉藩」として幕末迄存続した。



■【越中吉岡庄地頭の相良家3代目 沙弥迎蓮】


■相良氏は鎌倉幕府の源頼朝の命を受け、遠江国榛原郡相良庄(静岡県牧ノ原市相良)から熊本県に在った「人吉庄」に来て地頭になった。建久9年12月、肥後国球磨郡人吉庄に下向し人吉城に拠る。後に肥後人吉藩主相良家(2万2100石)となる。
相良頼俊(生年不詳、延慶4年1月25日(1311年2月14日)死去)は、鎌倉時代中~後期の武将で相良氏の第3代当主。(相良長頼の三男。通称は相良六郎。)
当初は大村の佐牟田に住み「佐牟田六郎」と称した。寛元4年(1246年)3月5日、父の長頼から(熊本県)「人吉庄」の南方にある「経徳名」外を、また建長3年(1251年)3月22日に「成恒庄」を譲り受け、建長6年(1254年)には兄の頼親より家督を譲られ当主となる。
その後、正嘉元年(1257年)9月14日に「成恒庄」の、その二十日後には「刁岡(とらおか)名」の地頭職を安堵され、同年、剃髪し「六郎法師沙弥迎蓮」と号す。
文永11年(1274年)の「文永の役」、そして弘安4年(1281年)の「弘安の役」では「菊池武房」と共に蒙古軍と戦って武功を挙げ、弘安10年(1287年)、家督を子の「相良長氏」に譲り隠居、延慶4年(1311年)に死去。法名は「迎蓮」。
元寇の「弘安の役」の後には美濃の東大寺庄園「茜部庄」や越中の蓮華王院領「吉岡庄」の地頭代、地頭をしていたと見られる。





■上皇(※天皇家)庄園の【越中吉岡庄】に「延喜式内社赤丸浅井神社」を中興されたと伝わる「聖武天皇」の弟「石川朝臣広成」と越中国司を勤めた「大伴家持」は共に若い頃、「恭仁京」に天皇の周辺の世話をする「内舎人」と言う役職で赴任していた。
(※「延喜式内社赤丸浅井神社」の由緒では「元正天皇二宮の御創建」とされてこの「石川朝臣広成」の創建と記されている。)
「聖武天皇」と「石川朝臣広成」は腹違いの「文武天皇」の子供だが、叔母の「元正天皇」は若くして亡くなられた「文武天皇」の親代わりを勤めて、臣下に成った「広成」には「天皇の子は全て親王とする」(※「継嗣令」)として「親王」としてこの子に「石川朝臣」の名前を授け、後には「高円朝臣」と賜姓された。「元正天皇」の母の「元明天皇」の時には京都の「相良郷加茂村」で国内で初めて鋳造貨幣の「和同開珎」を鋳造されたと云う。





▼聖武天皇は父を文武天皇、母を藤原不比等の娘の宮子として生まれ、後には藤原不比等と県犬養三千代の娘の光明子を妻とした。
文武天皇が藤原宮子を「夫人」とし、紀竈門娘(キノカマドノイラツメ)、石川刀自娘(イシカワノトジノイラツメ)を「妃」とした事が続日本紀に文武元年(697年)8月の項に記載されている。しかし、その16年後、和同6年(713年)の項には、「石川・紀の二嬪の呼び方を貶して嬪と称してはならない」と記載されている。
「大鏡」に拠ると、藤原宮子の父の藤原不比等は実は天智天皇の子で、天智天皇(中大兄皇子)は蘇我入鹿を討った「乙巳の変」(※イッシノヘン) の時に協力した中臣鎌足にその功績を賞して自分の愛妾を授けた。がその時には愛妾は妊娠しており、天智天皇は「男の子なら自分の子とせよ」と鎌足に命じたと云う。その時生まれた男子が藤原不比等であった事が「大鏡」に記載されている。この「乙巳の変」では元明天皇の祖父の蘇我倉山田石川麻呂が中大兄皇子・中臣鎌足に味方し、素知らぬ顔で上表文を読み上げていた時に中大兄皇子と佐伯子麻呂が蘇我入鹿に斬りかかったと云う。しかし、蘇我倉山田石川麻呂は維新政府で右大臣に任命されたものの、ついには中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀で自殺に追い込まれたと云う。
藤原不比等はなりふり構わず孫の首皇子を天皇にする為に嬪の紀竈門娘と石川刀自娘を廃妃に追い込んだ。紀竈門娘は不貞を理由に追放され、石川刀自娘は臣籍に降下させられ、皇子の広成も家臣として扱われた。石川朝臣広成は天平十五年(743年)に内舎人、天平宝字二年(758年)八月に従五位下・但馬介。
【続日本紀】
《天平宝字4年(760年)2月》従五位下石川朝臣広成「高円朝臣」と賜姓。高円朝臣広成を少輔に任ず。(※赤丸浅井神社創建の親王⇒文武天皇の二宮、聖武天皇の義弟。)
《天平宝字4年(760年)6月》光明皇太后(聖武天皇の皇后)没。
《 5年5月 》従五位下高円朝臣広世を摂津亮とす。
《 6年4月 》従五位下高円朝臣広世を山背守とす。
《神護景雲二年(768年)二月癸巳》○癸巳。 従五位上高円朝臣広世為周防守。

▼万葉集に「石川朝臣広成」の歌3首の掲載がある。
万葉集巻四の696番に 「家人(いへびと)に恋ひ過ぎめやもかはづ鳴く泉の里に年の経ぬれば」
「泉の里」とは山城国相楽郡、泉川(現在の京都府木津川市加茂地区)流域の地で恭仁京(くにきょう)の所在地。恭仁遷都は天平十二年(740年)。
万葉集巻八の1600番に 「妻恋ひに鹿(か)か鳴く山辺の秋萩は露霜寒み盛り過ぎゆく」
配列から天平十五年(743年)秋の作。鹿とはシカの事で雄はシカ、雌はメカと呼ばれていた。後に全体をシカと呼んだ。
万葉集巻八の1601番に 「めづらしき君が家なる花すすき穂に出づる秋の過ぐらく惜しも」

⇒これを受けて1602番には『大伴家持』の 「山彦の相とよむまで妻恋に鹿鳴く山辺に独のみして」 が載せられている。

■「京都相良郡加茂村」と「越中吉岡庄加茂村」
この二つの庄園は共に皇室庄園の歴史を持ち、藤原氏とも密接で在った。一条天皇は叔父の「藤原道長」(※神社由緒では「川原左京」を赤丸浅井神社へ勅使として遣わされたと在り、当時の左京大夫は道長で在った。)を赤丸浅井神社に勅使として遣わされてお手植えの二本の桜を残されたと言う。これは昭和初期迄残り、「勅使桜」と呼ばれた。現在は赤丸浅井神社の拝殿にその写真が残されている。又、「吉岡庄」は藤原摂関家の「藤原頼長」の庄園で在ったが「保元の乱」で「後白河上皇」に没収され、その後、南朝の「後醍醐天皇」迄、皇室庄園として続いた。
「後白河上皇」は自らの頭痛を治す為に「蓮華王院」に「三十三間堂」を建立されて、九州肥後の地頭の「相良氏」に遠州相良郷等と共に「地頭」を命じられていた。









■「京都相良郡加茂村」と「越中吉岡庄加茂村」には共通して「加茂村」が在り、この地には「京都の下鴨神社」が勘請されていた。「越中吉岡庄」は「白河上皇」の時に「上賀茂神社」の庄園と成り、南北朝末期の長慶天皇の時と室町時代の将軍足利義政の時代には「下鴨神社」の庄園として寄進されている。「延喜式内社赤丸浅井神社」は皇室八神の一つで最高神の「正一位 高皇産霊神 タカミウブスナノカミ」を祭神としており、古くから皇室や藤原氏が崇敬してきた神社と伝わり、「一条天皇」の時には「勅使 川原左京」が遣わされてお手植えの二本の桜を植えられたとされ、この桜の写真は現在、赤丸浅井神社の拝殿に飾られている。(※「一条天皇」の時の京都左京を統轄した「左京大夫」は藤原氏の全盛を迎えた「藤原道長」で在った。)
「延喜式内社赤丸浅井神社」を中興された「石川朝臣広成」(※聖武天皇の弟)や越中国司「大伴家持」がこの二つの庄園に絡んでおり、地頭の「相良氏」も共通する背景を持つ事、双方共に「皇室庄園」で在った事等から、「恭仁京」と「越中吉岡庄」の深い繋がりを窺う事が出来る。

「京都下鴨神社」が「越中吉岡庄」に勘請され、「下加茂社」と呼ばれた。その地域は「加茂村」と言う。