赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴 📃小矢部川河口へでっち上げられた「如意の渡」!⇒「義経記」の真実 の勧進帳の場面は赤丸村 !!

2018-08-31 | 富山県高岡市福岡町赤丸村





■「越州川人山鞍馬寺三社記」には「二位の渡し」の理由が記載される。







■赤丸浅井神社前の「二位の渡し」と云う舟乗り場の事。
「延喜式内社赤丸浅井神社」(※富山県高岡市福岡町赤丸)







■「赤丸浅井神社」前の、「小矢部川」と「庄川」の合流地点の「阿光ケ淵」(阿古ケ淵)(※「赤丸浅井神社絵図」森田柿園文庫、石川県立図書館)から下流に「小矢部川」と「谷内川」の合流地点が有り、石堤では山裾の直近を通過していた様だ ❗ ⇒「石堤」の地名は山裾を通る小矢部川の土手に積まれた石づくりの土手から名付けられたと思われる。「阿古ケ淵」の前の「赤丸浅井神社」の祭神は「八河江比売神」で有り、「河の江の神」であるという。この御神体は、この「阿古ケ淵から上がった」と伝わり、この神はびわ湖にも祀られている。



小矢部川は徃古、西山の山裾を流れていた。









■「二位の渡し」は赤丸浅井神社前の舟乗り場の事。「如意の渡し」は小矢部川と庄川が合流していた赤丸浅井神社前から下流の「六渡寺の渡し場」迄の「舟下りルート」の事で、「六渡寺川船渡し」とも呼んでいた。



■この事件は、当時は後白河上皇の庄園「越中吉岡庄」(南北朝時代に五位庄と改名された。)の「赤丸浅井神社」前の「二位の渡し」と云う渡船場で起きた…と云うのが「義経記」の真実の記載だ。「義経記」には「五位庄に至りて」と明確に記載してあるにも関わらず、「市長」と言う権力者が、歴史家?、財界の名士を動員して歴史を偽造した。それを高岡市長が銘版を作り、小矢部川の伏木河口にでっち上げた。
義経、弁慶のこの彫像の原形は石黒孫七氏の力作で、弁慶の迫力は素晴らしい ❗ しかし、残念ながら、この力作も歴史を偽造する為の証人にされてしまった。惜しい事だ。
時代考証の北野勝次氏は石川県小松市博物館にあった郷土史研究会の会員の様だ ❗
※「小松のすがた」―社会科資料(研究紀要〈第29〉)1955年、北野勝次著、小松市教育研究所
⇒「義経記」も読まずに「時代考証」とは?? これが高岡市の歴史か ⁉ 権力者は「歴史」をもでっち上げる?



■有名な「歌舞伎」や「能」にもなっている「安宅の関」の場面は、今も石川県小松市の「安宅の関」で起こったと信じている方も多い様だが、元本を見られれば、真実の「弁慶が義経を打擲した場面」が「五位庄」で起った事件であった事は直ちに解るだろう。五位庄「赤丸村」の「赤丸浅井城」は、東大寺大仏造営の時に「米五千石」を寄進して「国司」にもなった「利波臣志留志」の末裔とされる「越中石黒氏」が居城とし、後鳥羽上皇が起こした「承久の乱」には石黒氏や越中の宮崎氏、加賀の冨樫、林氏等は同族として上皇側で戦い、破れて石黒氏は降伏し、「新川に去った」とされる。(※「赤丸名勝誌」)
鎌倉時代に「越中吉岡庄」と呼ばれた「後院領」(※上皇の庄園)であった赤丸村周辺は、「承久の乱」の時には後鳥羽上皇の庄園で、石黒氏はその地頭をしていたようだ。 越中石黒氏は「承久の乱」で破れた後に、南北朝期には南朝側の雄として復活して、興国三年には後醍醐天皇の第八皇子「宗良親王」を越中吉岡庄に御迎えしたと伝わる。「宗良親王」が名付けられたと云う「赤丸城ケ平山」にはこの親王が滞在されたと伝わる「親王屋敷跡」が言い伝えられている。
一方、加賀の冨樫氏は勧進帳に登場する「富樫左衛門」が有名だが、この人物は初代とされる「冨樫泰家」をモデルとしている。冨樫氏は加賀の林氏の同族で、後鳥羽上皇の「承久の乱」で鎌倉幕府北条氏側で上皇側と戦うが、上皇側で戦った本家の林氏は破れて降伏し、この後に本家の林氏は没落して冨樫氏が興隆したと云う。加賀の林氏は越中石黒氏と縁組して、後には加賀林氏の名跡も石黒氏が継いでいる。元々、越中石黒氏と加賀林氏は先祖を藤原利仁将軍とする藤原一族であった。南朝の後醍醐天皇の時に「富樫高家」が加賀国の守護職[1335年(建武2年)]になるが、加賀守護職を望む有力者が多くその地位は不安定であった。1387年( 南朝 : 元中4年、北朝 : 至徳4年)に「富樫昌家」が没して、管領「斯波義将」が実弟の「斯波義種」を加賀守護職に任じ、その没後もその息子の「斯波満種」に継がせる等、30年近くの間、富樫氏は足利一族の斯波氏に守護職を奪われた。
その後、将軍「足利義持」の側近となった「富樫満成」が1414年(応永21年)に「斯波満種」を失脚させて加賀半国守護(南部)となり、更に残り半国(北部)も一族の「富樫満春」が守護となった。1418年(応永25年)に「冨樫満成」は有力守護との政争に敗れて殺され、「冨樫満春」が冨樫満成の地位を継いで加賀一国の守護職となる。以後の「富樫政親」は1488年(長享2年)に石川と富山県の県境に近い「加賀高尾城」で加賀一向一揆に攻められ敗退する(※長享の一揆)。(※この時に冨樫の一部は東北に逃れたらしく、東北に加賀冨樫氏の末裔が残っている。)「冨樫政親」の死後は一揆側の手で名目上の守護として「富樫泰高」が守護になる。その後、冨樫泰高の孫の「富樫稙泰」が本願寺の内紛と絡んで発生した一揆で一揆側に加担して敗れ、守護の地位を追われて冨樫家は更に衰退する。元亀元年(1570年)に「冨樫稙泰」の次男「富樫晴貞」は、元々、斯波氏の家臣であった織田氏の家系の「織田信長」に従って一向一揆に対抗し、一向一揆側に討ち取られた。後を継いだ「冨樫晴貞」の兄の「冨樫泰俊」は天正2年(1574年)に討ち死にし、生き残った泰俊の子「冨樫家俊」は織田家の「佐久間盛政」に仕え、「後藤弥右衛門」と改名。その後も富樫家を存続させた後藤家の子孫は加賀藩の三役の十村役・肝煎を歴任して明治維新迄続く。















■小矢部川の河口に「如意の渡」のモニュメントが建つ。最近は観光案内にも登場するこのモニュメントは「勧進帳」の原点になった「義経記の二位の渡」(歌舞伎勧進帳では「安宅の関」のシーンになった。)の場面を大きな彫像にしたもので、「石川県小松市の安宅の関」とちょっとした本家争いが有ったと云う。両者とも偽物同士の争いだ。
高岡市は広報統計課1996年発行の「高岡散策」という本でこのモニュメント製作の経過を説明し、成人式にも配布した。それによると、モニュメント製作は民間のレジャー会社が観光振興の為に製作したもので歴史的な検証が行われた訳では無いらしい。元々、全国に義経所縁の場所とされる場所は数多く有り、北陸の福井、石川、富山県にも遺跡と称する場所が多い。高岡市の説明に拠ると、この場所は浄土真宗の古刹「高岡市伏木の勝興寺」の麓に在った従来はただ「渡船場」と呼んでいた渡し場に、「如意渡」という名前を平成元年に付けたのだと云う。名付けたのはこの「渡船場」を経営していた会社の役員で、地元の歴史を知って欲しいと云う事と勿論、本心は赤字続きの経営を上向きにする為にこの名前を付けたのだと云う。そして、新しく就航させた新造船の命名を地元の伏木小学校の子どもたちに委ねた。子どもたちはこの船に「如意渡丸」と名付けた。翌平成2年に高岡市の大手銅器メーカーの社長が石黒孫七氏の原形による銅像を建立したのだと云う。宣伝の為に地元の観光協会も説明看板を建ててアピールした。その結果、新しい観光地が産まれたのだと云う。
しかし、これには先立つ別の話が有る。昭和29年、地元の「如意渡保存会」が、伏木の八幡社横の東亜合成の寮の地に「渡守の館跡」が有ったと言われているので八幡社境内に「記念碑」を建てたが、早くもその年の秋にはその石碑が崖地に放置されていたと云う。しかし、昭和30年秋には今度は「高岡市」が八幡宮境内に「如意の渡碑」を建てたと云う。昭和34年には「高岡市史」を刊行して、「如意の渡し」は小矢部川河口の六渡寺村とその対岸の間の渡しであると発表する。こうして、この地に「如意の渡し」が確定してくる。加賀藩の時代にも確かに小矢部、五位、守山とこの近くに官営の渡し場が有り、加賀藩は「渡し守」に屋敷を支給していたと記録されている。しかし、これが「義経記」に登場する渡し守の屋敷では無い。江戸期と鎌倉期の話がゴチャゴチャである。ここは明らかに「守山の渡し」で在り、「二位の渡し」はもっと上流の赤丸浅井神社前に在り、そこから河口迄の舟下りルートを「如意の渡し」「六渡寺川舟下り」と言った事すら調べないで、お粗末な持論を発表している。当初は、この様に地元の盛り上がりを受けて、「高岡市」が自ら石碑を建立して「歴史のロマン」をデッチ挙げた。(※「北陸史23の謎」能坂利雄著 新人物往来社刊 参照)
「義経記」に「守護の館の近ければ」と記載される為に、この「守護館」は高岡市守護町の事だと主張する意見もこの偽説を後押ししているが、この当時赤丸村は「越中吉岡庄」と呼ばれた後白河上皇の直轄庄園「後院領」で有り、「後院領」は「後院庁」「後院司」が管轄し、税の徴収は頼朝の任命した地頭が代行したが、基本的には行政・司法を担当した守護の権限は及んでいない。高岡市が平成三年に発行した100年記念誌「たかおかー歴史との出会い」には、この守山の守護町は南北朝期に桃井直常が敗走した時に幕府側の斯波義将が設置したと記載されており、義経が通過した時期にはこの場所にはなかった事が分かる。学者の方々がこの程度も調べずに「歴史書」を書かれたのだろうか? この点については義経記の方も誤記だと思われ、「守護の館」は「地頭の館」の誤りと見られる。この「二位の渡し」の近くには源頼朝の配下の「地頭吉岡成佐」の館が在った「吉岡谷」や「東砦」「西砦」が在った事は高岡徹氏の近年の調査で明らかになっている。(✳「吾妻鏡」、「富山県史 中世」に頼朝の書状を掲載)
高岡市は今となって「義経記」自体が後の世の南北朝期の作品で有りフィクションだと解説している。しかし、フィクションにしては地理的にも、郷土の史実についても驚く程調査しており、あたかも著者が現場に居たかの如きリアルさである。例えば、赤丸浅井神社の創建の由緒迄調べ挙げてある事には驚きを隠せない❗ 又、小矢部市の「五位堂」についても、都では知り得ない様な山道沿いの小さなお堂と神社迄調べ挙げている。現地や神社資料を調査した所、その場所には確かに「五位堂」が在り、しかも木曽義仲が勘請したと思われる「諏訪神社」だった。この事は「西礪波郡紀要」(✳西礪波郡役所発行)にも記載されているが、ここは小矢部市がPRする「歴史街道」に在るにも関わらず小矢部市教育委員会すら認識していない。
「義経記」を「偽作」とする学者の方々の意見を検証して見ると、「義経記」がフイクションでは無く、むしろ「高岡市史」等がフイクションなのである。
2009年(平成21年)8月2日 にこの小矢部川河口の渡船場に橋が開通し、即日、この作り上げられた「如意の渡し」の渡船場は廃止され、モニュメントも放置された。根拠の無いでっち上げの歴史は、小松市の「安宅の関」と云い、高岡市の「如意の渡し」と云い、観光だけを考えた商業ベースの観光地は事情が判れば誰も見向きもしなくなるのは当然である。否、むしろウソの観光地を喧伝する自治体の社会的信用が失墜して、民度の低下に地元民も呆れ果てて、毎年1000人近くの人口減の現象を生じさせている誘因なのかも知れない。高岡市二上山周辺や能登半島に残る「源義経伝承」は地元民にとっては大事な退屈しのぎのお伽噺だが、歴史や郷土史を研究する学者や教師、教育委員会、官庁が如何に「観光振興」とは言え、事実を歪曲して「権威者面」をして「嘘を事実として喧伝する」のは最悪だ。せめて観光課が「お伽噺の紹介」として、旅人に夢を与える程度にして欲しいものだ。
高岡市の観光の目玉の雨晴海岸の「義経岩」は昔から義経弁慶主従が岩穴で雨を避けたと云う伝承から、富山県の代表的な観光スポットとして富山県や高岡市の観光パンフレットには欠かせないシーンになっている。霧に浮かぶ「義経岩」とその背景の富山湾、さらに、その背景として海の上に屏風の様にそそり立つ白銀の立山連峰は正に圧巻の景色で、富山県民が誇る景観である。しかし、この岩も本当は古代の遺跡では無いかと言われるし、高岡城築城の時の石切場だとも言われる。「歴史のロマン」は観光振興の大きな力にはなるが、眉ツバな、ご都合主義の歴史認識を捨ててそろそろ真剣な歴史検証と真実に基づく本当の「歴史の町づくり」を目指してはどうだろう❗ 力を持った行政や商工団体なら何をしても赦される事ではない。嘘で塗り固められた歴史はいつか瓦解する事を覚悟すべきだ。






🔷🔹🔹『越中吉岡庄領主藤原頼長』の配下の「加賀林氏」⇒林氏の同族「越中石黒氏」の居城「吉岡庄浅井城」(※富山県高岡市赤丸村)!!

2018-08-31 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸







■「越中石黒氏」の石黒光久の義兄(妻の兄、貞光の息子)の林光家の時に、勢力を蓄えた林氏は石川県の白山宮を勢力下にしようとして白山宮と対立し、白山宮は延暦寺より訴えて、光家は捕縛された。父の貞光は国府の出先の徴税吏だったが、光家の代では領主となり、武士団を養い、政権実力者に近づき護衛役として五位に任ぜられていたと云う。
圧迫された農民は当時、比叡山延暦寺の影響下に在った白山宮に救いを求めた。林光家は藤原一族として長者の藤原頼長を頼りにしたが、一旦は捕縛された。しかし、当時、悪佐府(左大臣)と云われて絶対的な権力を恣(ホシイママ)にしていた藤原頼長の力で鳥羽法王は恩赦として解放した。ところが収まらない延暦寺は解放の20日後には連日強訴を行い、恐れた鳥羽法王は再び逮捕をした。この事件は1154年だが、林光家は獄死し、保元元年(1156年)には冷徹な権力者と恐れられた越中吉岡荘、能登一青荘(ヒトトソウ)の領主の藤原頼長が崇徳上皇と共に「保元の乱」を起こし、頼長は流れ矢に当たり死亡した。

■【藤原北家魚名流】の北陸統治
「藤原頼長」は藤原氏の四流の内で、一条天皇の叔父に当たる「藤原道長」の子孫に成り、藤原摂関家を独占した。道長の子孫の「藤原忠実」の子供に、「藤原忠通」と「藤原頼長」が在ったが、嫡男の忠通と妾腹の頼長は激しく争い、遂には「後白河天皇」と「崇徳上皇」の争いで在った「保元の乱」が勃発して、忠通は後白河天皇、頼長は崇徳上皇側で争った。結果は、後白河天皇、藤原忠通側が勝利して崇徳上皇は讃岐に流され、頼長は殺害された。
「加賀の林、富樫」の流れは、この「藤原北家」に属して「魚名流時長子孫」で在る。
この藤原時長の子供に有名な藤原利仁将軍がいる。越中石黒氏もこの藤原利仁将軍の末裔と伝えられる。正に「藤原頼長」が「藤原氏長者、藤原氏魚名流頭領、左大臣」として権力の絶頂に在った時に、加賀の林光家の解放に頼長が動いた事になる。
越中の「吉岡庄」、能登の「一青庄」は、「藤原頼長」の個人庄園で在ったが、恐らくは能登は「加賀林氏」に治めさせ、越中は林一族と縁組していた藤原氏の「越中石黒氏」に統治させていたと見られる。藤原頼長の個人庄園の成り立ちに付いては明らかでは無いが、父の忠実から譲られた「奥州の頼長の庄園五庄」は奥州藤原氏が統治していた事から、能登、越中の庄園は、石黒氏や林氏が、同族の長老の「藤原氏長者藤原頼長」に寄進した庄園で在った可能性が高い。

■「越中吉岡庄」は何時、どうして「藤原頼長」の庄園に成ったのかは不明だが、「保元の乱」の後に「後白河上皇」に没官された頼長の庄園29庄に含まれる事から、藤原摂関家伝来の庄園では無かった様だ。摂関家の庄園は兄の「藤原忠通」に引き継がれており、吉岡庄は頼長の個人庄園だったと見られる。「藤原頼長」は奥州に父の「藤原忠実」から譲られた五ヶ所の庄園を持ち、平泉の藤原氏に庄園を管理させて金、馬、布等の収穫物を都の頼長に送らせていた。頼長は全国の藤原氏の頂点に立った「藤原氏長者」で在り、その権力は絶大で、その冷徹な性格から「悪左府」と恐れられた。越中石黒氏は古くから砺波郡赤丸の「浅井城」を居城にしたと伝わり、石黒氏も藤原一族だった事から、当然、頼長の支配下に在った。従って、この「越中吉岡庄」は石黒氏から寄進された庄園だった可能性が高い。

(※「赤丸浅井神社」の社伝に「一条天皇は川原左京を蝗害(イナゴのガイ)除去の願いの為に赤丸浅井神社に派遣された。その時に植えられたお手植えの日本の桜木は昭和前年迄、浅井神社前に残っており、之を勅使桜と呼んだ。」と記載されており、一条天皇の時の左京大夫は一条天皇の叔父に当たり、後に藤原氏全盛時代を築いた『藤原道長』である。古くから、吉岡庄と藤原氏が深い関係に在ったものと見られる。)
(※「左京大夫」;京都の左側を管轄した役人で大夫は五位の官職)












🔴 📃 越中での「源氏の系譜」。「清和源氏」と「宇多源氏」。 ⇒「越中吉岡庄(赤丸村)の総持寺」へ「河内国天谷山金剛寺」から「黄金の千手観音像」が伝えられた!!

2018-08-31 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●上皇庄園「後院領 越中吉岡庄」に伝わった河内国、大和国の文化と「源氏」の系譜

■「河内金剛寺」は南北朝時代に「南朝の御所」に成った稀有な寺院で在り、一時期には「南朝、北朝両統」の天皇が住まいしていた。周辺は「南朝の楠正成」等が戦闘を行い、金剛寺自体も数回の攻撃を受けたとされる。「女人高野山」とも呼ばれ、高野山下に在って皇室、貴族、武将が多く結縁し、特に「高野山」に登れなかった女性達の信仰を集めた。








■「後白河上皇」が創建され、「三善(源)貞弘」が庄園を寄進した河内国「天谷山金剛寺」から、南北朝時代に「越中吉岡庄(※赤丸村)」の総持寺へ「千手観音像」(昭和12年国宝指定、現在は国重要文化財)が伝えられた。「越中吉岡庄」は「後白河上皇」以来「後鳥羽上皇」等の庄園を経て南北朝時代の「後醍醐天皇」迄、皇室の「後院領」として伝領した。



・「衆徳山総持寺」(※高岡市関町)の「国指定重要文化財 木造千手観音座像」
(※この秘仏は例年、11月15日に一日だけ御開帳される。)
















■「河内金剛寺」は創建後、財政的に苦しく成った時に、金剛寺周辺の土地を「三善貞弘」が寄進したが、貞弘は「越中砺波山」で源氏と平家が激突した「倶利伽羅谷の戦い」で討死した。周辺の河内石川庄は「清和源氏」の発祥の地とされるが「三善貞弘」は源氏で有りながら平清盛に従った。
「河内金剛寺」の過去帳には平清盛と常磐御前の間に生まれた娘「廊の御方」が記載されている。「廊の御方」は「宇多源氏」の「五辻家」に嫁ぎ、その子孫は「後醍醐天皇」に連なる。

・源平の激戦が展開された「越中倶利伽羅谷」とそこに立つ「倶利伽羅不動寺」




・平清盛と常磐御前の間に生まれた娘「廊の御方」と子孫に当たる「越中吉岡庄」の領主「後醍醐天皇」








■南北朝時代には「後醍醐天皇」が信仰された「ヤタガラス神社」が在り、南朝勢力の伊勢国司「北畠親房」の支配地の大和国宇陀郡から「宇多源氏五辻家」に連なる「宇多源氏佐々木氏流」の「宇多刀工」が後醍醐天皇の庄園の「越中吉岡庄」に移り住んだと云う。
この刀工達は江戸時代迄の長きに亘って続いたと云われる。











■「河内金剛寺」は「宇多天皇」が創建された「仁和寺」の末寺で、歴代の住職は興福寺から出ていた。この時期に越中から能登にかけて広がっていた「石動山」も「仁和寺末」で皇室勅願寺であり、周辺は後鳥羽上皇庄園から八条女院領に成っていたと云う。
この時期に仁和寺系の寺院が越中西部に展開していた事は越中西部に「宇多源氏」が移り住んだ一ツの要因だろうか?

■南北朝~室町、戦国時代の足利氏、能登畠山氏は「清和源氏」で、その後越中を領した「佐々成政」は「宇多源氏佐々木氏流」とも云われる。
「宇多源氏」は後々、源氏の棟梁で「征夷大将軍」と成った「清和源氏」に従う事が多かったと云う。

■「佐々成政」は宇多源氏の紋「四ツ目結紋」を使用している。

【宇多源氏佐々木氏流佐々系図】




■【重修真書太閤記】に拠れば、「太閤 豊臣秀吉」は【先祖の「木下氏」は近江を発祥とする「宇多源氏佐々木氏流高島氏」】とされる。




■赤丸村舞谷に、元々、播磨国の守護で清和源氏の「赤松氏」の末裔が「天景寺」(※現在は高岡市関町)を開いた。その紋は清和源氏の代表的な「笹竜胆紋」を使用している。



🔴📚 【太平記の世界】 「後醍醐天皇」の皇子達の「南朝の牙城 越中国」での足跡 ⇒越中の「赤丸浅井城」・「放生津城」と「後醍醐天皇」の皇子『宗良親王』・『恒性皇子』!!

2018-08-31 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「後白河上皇」から「後醍醐天皇迄」上皇・大覚寺統天皇家の庄園として続いた「越中吉岡庄」(※高岡市福岡町赤丸村周辺の庄園で、赤丸浅井神社を郷社とする。)は、南北朝時代末期に「五位庄」に改名された。この南朝の牙城で在った「吉岡庄」の「浅井城」には、後醍醐天皇皇子の「宗良親王」が南朝支援の為に入られたが、弟の「恒性皇子」は「吉岡庄」にも近い「二塚村」に幽閉されて暗殺されている。




■「越中吉岡庄」の庄園領主「後醍醐天皇」の皇子の「恒性皇子」は、北条一族の名越氏に拉致されて、越中国二塚村(※高岡市二塚)で幽閉されて、遂には「名越時有」によって暗殺された。




















■富山湾に近い射水市の「放生津城」は元々は土塁を巡らし、塀や柵、櫓を取り付けた「守護の屋形」で在ったが、その後、城郭が造られ放生津城になって行く。周辺には河川から水を引き込み、防衛と兵器・食糧等を運び込む水運が確保された。放生津城は約6000坪近くも在ったとされ、北条氏の一族の名越時有が正応元年(1288年)に構築したと伝わっている。後醍醐天皇の皇子で京都の大覚寺門跡で在った「恒性」(コウショウ・ツネタチ)は鎌倉幕府の討幕に参加された為に、元弘三年(1333年)二月に越中に流された。名越時有は恒性皇子を高岡市二塚に幽閉したが、全国で南朝軍が攻勢を強め幕府軍の弱体化が目立ち始めた為、元弘三年五月十四日、時有は恒性皇子を幽閉した場所で暗殺した。この頃、京都六波羅で敗戦した幕府軍に向けて出羽や越後の朝廷方が北陸道を攻め登って来た。時有は越中、能登の御家人を集めて戦ったが、戦況は不利で、放生津城に籠った時有は妻子を海に逃して海に沈め、一族郎党79人は放生津城に火をかけ、妻子の死亡を確認してから全員が切腹して果てたと云う。

「太平記」は、「一人の女房は二人の子を左右の脇に抱き、二人の女房は手に手を取り組んで同じく身をぞ投げたりける。紅の衣、絳アカキ袴の暫く浪に漂ひしは、吉野立田の河水に、落花紅葉の散乱たる如くに見えけるが、寄せ来る波に紛れて、次第に沈むを見果てて後、城に残り留まりたる人々、上下79人同時に腹を掻き切って、兵火の底にぞ焼け死にける。」と記す。








■南北朝の終期の1392年に、後亀山天皇が後小松天皇に神璽を伝えられた。その頃の越中守護畠山持国は在国しなかった為、守護代として神保国宗、長職、慶宗と続き、この間80年間、「放生津館」を構えた。中央では、管畠山氏と管領細川氏が争い、明応三年(1494年)には第十代将軍足利義稙ヨシタネ(義材ヨシキ)が神保氏を頼って越中の放生津にやって来た。この頃、実質的に富山県新湊に外れ幕府の臨時政権ができたとする歴史家もある。

この頃の様子を、「五位庄」の石堤村「西光寺」縁起に、「将軍足利義材」が、度々、立ち寄ったと記載されている。
【「五位庄」は「足利義満」が「相国寺」(※「金閣寺」)に寄進して以来、足利家菩提寺の「等持寺」「等持院」の庄園として続いた。】
神保慶宗は、謙信の父の長尾為景と永正十七年(1520年)に戦って富山新庄城で敗れた。この時に放生津城も焼失したと云われ、その後も神保氏と上杉謙信の戦いが続き、文祿元年(1592年)にこの城は廃城にされたと云う。


🔴🔹発見!!幕末の富山県高岡市頭川村【年貢皆済目録】(三枚)が見つかった。⇒加賀藩人持組、 3000石「前田監物」が発行した「高岡市 頭川村」の記録!!

2018-08-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●平成27年に発見した「頭川村村御印」の写し
⇒加賀藩は一度だけ各村に「村御印」と言う納税割当て書を発行して、再発行は認められず紛失すると村の「肝煎役」は「手鎖の上、入牢」の処分を受けた。「赤丸村」では肝煎役が村御印を紛失して処分を受け、再三、捕縛されて遂には亡くなっている。(※「杉野家文書」)


「頭川村村御印」(※解読→高岡市立博物館仁ケ竹学芸員)



■「平成30年3月に発見された頭川村年貢皆済目録」
⇒高岡市頭川村に残る加賀藩人持組3000石、「前田監物」からの皆済目録書状(三通)



▼「富山県高岡市頭川」
→古くから『頭川温泉』として有名で、現在も天然温泉が営まれている。
『東大寺庄園 須加庄』の比定地で、近くの国吉村には平家物語に登場する平家の猛将『越中前司平盛嗣』の屋敷が在ったと云う。(※「国吉小史」)



■「頭川村年貢皆済目録」(※前田監物 書状)
⇒加賀藩内の年貢割当て納入済確認書。頭川村は六つ二歩(※62%)で九十八石六斗八升が割当てられた。加賀藩の税制では「四公六民」で40%が課税標準で在ったが、富山県西部の小矢部川以西の村々は、嘗て、能登末森城の戦いで前田利家と戦った地域で在り、幕末迄の長期間に亘って、62~75%もの高率な懲罰課税が掛けられており、富山県でも小矢部川の東部は40%程度の低率で在った。
(※加賀藩では「定免」と称して50%の基本税率が別に在ったが、実際には村毎に「村御印」と言う年貢割付書が加賀藩から交付されて、十村役、肝煎、組合頭の三役の責任で納税が完了すると「年貢皆済目録」が発行されて「確認書」とされた。)






▼「年貢皆済目録」に付いて国税庁のHpに詳しい説明が載せられている。
この制度は加賀藩以外の他藩でも行われていたと云う。



■加賀藩人持組、3000石の「前田監物家」は前田家の支藩七日市藩(群馬県富岡市)の系統の家系で、加賀藩に仕えて重臣の人持組として遇され、富山県高岡市国吉の頭川村を知行されていた。(※七日市藩は前田利家の五男利孝が徳川家に士官して興した家系だが、後にはその一族が加賀藩本藩に抱えられて加賀藩の重臣と成っている。)
嘉永五年(1852年)には、加賀藩前田家の祖先としていた菅原道真を祀る「北野天満宮」に太刀を奉納する為に、加賀藩主前田齊泰の藩主名代として「北野天満宮」に「前田監物」が派遣されている。この頃に、「前田斎泰」は「延喜式内社赤丸浅井神社」に「浅井神社」の記毫を奉納したが、コレが現在も「赤丸浅井神社」の本殿の「浅井神社」の額として掲額されている。前田監物家第八代孝連は「寺社奉行」、(小矢部市)「今石動町支配」等を歴任しており、「前田斎泰」の代理として「赤丸浅井神社」に参詣していたと見られる。この時期に、板橋宿の加賀藩江戸下屋敷には、大岩不動を祀った『大岩』や『赤丸山』と言う築山が見られる事から、加賀藩前田家が、天皇家と所縁が強い赤丸村の 「門跡寺院聖護院派 川人山鞍馬寺」と「延喜式内社赤丸浅井神社」に対する信仰が強かったものと見られる。
⇒「赤丸浅井神社」は古くから「郷内53ケ村から米一升を集める権利」が認められていたが、前田家もこの権利を認め、「国吉郷26ケ村、旧五位庄25ケ村、宮島郷2ケ村」の五位庄53ケ村から毎年、各戸、米一升を徴収する事を認めており、「頭川村」も「国吉郷」の範囲に含まれていた為に、「五位庄 惣社 赤丸浅井神社」に偏額を寄進したものと見られる。

▼加賀藩第13代藩主前田齊泰;文政五年(1822年)に第13代加賀藩主に就任。 慶応2年(1866年)には前田慶寧に家督を譲って隠居したが実権は相変わらず握った。明治17年死去。


両部神道の「川人山鞍馬寺」、「五位庄惣社 延喜式内社赤丸浅井神社」には「第十三代前田斎泰」が「浅井神社」の記毫を寄進している。




■【前田監物家の概要】
加賀藩支藩の「七日市藩」(群馬県富岡市)系統の家系で、加賀藩に仕えて人持組、3000石を知行された。














■赤丸村の給人(※知行者)には加賀藩の重臣「長九郎左衛門」、「前田典膳」が見られる。
この地域の「米」は小矢部市(今石動)の「蔵宿」に預けられて知行高によって知行者に払い出され、蔵宿は保管料を徴収した。赤丸村領三日市村には米を収納する「御蔵」が在り、「十村役」、「肝煎役」、「組頭役」の三者の責任で「村御印」で指定された税額の米を「御蔵」に納入する迄、責任を持たされた。当初は知行者が直接取り立てた為にその額が恣意的に成った為、後には知行者が直接徴収する事を禁じて、「蔵宿」から払い出された。これ等の知行米は、「札差し」と呼ばれた商人が介在して大都市に送って現金化する等、米の流通を担った。




■「延喜式内社赤丸浅井神社 由緒」(※富山県立公文書館 皆月家文書)
(※「郷社赤丸浅井神社」が初穂米を集める事を認められた範囲には国吉郷を含んでいた。)


■加賀藩主から奉納された神社号の記毫(※十三代前田齋康書)



■「延喜式神名帳」に記載される「越中利波郡 浅井神社」(※五位庄53ケ村惣社)
















🔴【明治維新と修験道廃止令】 五位庄赤丸村の信仰⇒高岡「天景寺」と「愛宕大権現」 !!

2018-08-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

■「明治5年(1872)9月15日 太政官第273号」に因って、皇室庄園「吉岡庄」・「五位庄」に伝わった「修験道」は廃止されて、「天台宗」か「真言宗」への改宗を命ぜられた。









■【註】「天景寺由緒」には五位庄赤松氏の家臣稲垣氏が創建したと有るが、戦国大名赤松氏の子孫赤松(石野)氏満は前田利家に従い3000石となり、その次男の氏次、氏満の弟貞重も加賀藩士となっている。「稲垣与右ヱ門」は大阪冬の陣の際に高岡城を預かった武将の名前として残されており、代々、赤松氏の家臣であった稲垣与右ヱ門が慶長14年(1614年)利長死後の大阪冬の陣の後に主家赤松家の累代と慶長11年(1606年)に加賀で亡くなった赤松氏満の菩提を弔う為に天景寺を再建したものと見られる。天景寺は源氏の家紋の「笹竜胆」を使っており、村上源氏赤松氏が使用していた家紋である。天景寺が「赤丸村舞谷」に創建されたのは、五位庄加茂城の城主赤松氏所縁の「雲龍寺」が金沢へ移転した為、五位庄に残る雲竜寺門徒の為に建立されたと伝わる。その後、天景寺は現在の高岡市の瑞龍寺の場所に移転したが、瑞龍寺建立の際に関町の現在地に動いたとされる。
【註】瑞龍寺は「法円寺」が改称したもので、旧地には「天景寺」「雲龍寺」「広乾寺」「宗圓寺」「繁久寺」の五つの曹洞宗寺院を移転させて建立された。

■「赤松氏の家臣稲垣氏が創建」と言うのは瑞龍寺建立の際に現在地に移転し再建された事を指しているのか? 
(※「高岡史料」、「天景寺」ホームページ 他参照 )


■「天景寺由緒」に出てくる「勝軍地蔵」は天景寺の宗派とは異なる「客仏」で有る。天景寺は加賀藩の誘致で金沢に移った五位庄加茂村に在った雲竜寺(曹洞宗)の末寺であり、「勝軍地蔵」は愛宕信仰の仏である。本来、「勝軍地蔵」は坂上田村麻呂が創建したと云われる「京都清水寺」(法相宗)に本尊千手観音像の脇侍として毘沙門天と共に祀られている仏で有り、又、京都愛宕神社に祀られていた御神像でもある。京都愛宕神社に祀られていた「勝軍地蔵騎馬像」は地蔵尊で有りながら白馬に跨り、僧衣をまとい、鎧と兜を着けた異形の地蔵尊である。※現在は山梨県の清水寺に所蔵されている。この姿は「坂上田村麻呂」を写したものと云われ、本来は京都愛宕神社に所縁の仏である。

※京都清水寺の「勝軍地蔵立像」は右手に宝剣、左手に戟(ゲキ)を持つ立像で在り京都愛宕神社の「勝軍地蔵」とは形が異なる。高岡の「天景寺」に祀られている「勝軍地蔵」は形からして騎馬に乗っている所から京都愛宕神社形式の仏である。京都鞍馬寺の本尊は毘沙門天だが「坂上田村麻呂」が信仰したと伝えられ、「坂上田村麻呂」が由緒に出てくる。
赤丸村にはかって毘沙門天信仰の「川人山鞍馬寺」を中心として48坊があり、現在も清水山の山頂には京都清水寺の千手観音像を祀る「観音堂」が在る。又、「勝軍地蔵」を信仰した「愛宕社」がその右下に在り、左下には毘沙門天信仰の「川人山鞍馬寺」が在った。赤丸村の旧地での立地としては清水山の千手観音を頂点として、左に毘沙門天、右に将軍地蔵を配置した三尊形式になっていた。(京都清水寺では本尊「千手観音像」と脇侍「将軍地蔵」・「毘沙門天」の三尊を祀っている。)
※元赤丸村に在った高岡の衆徳山総持寺も千手観音像・不動尊・毘沙門天・薬師如来等を祀る真言宗の寺院で有る。

では何故、元五位庄赤丸村に在った「天景寺」にこの「勝軍地蔵」が伝わったものだろうか?

■五位庄赤丸村には元正天皇の養老年間(712~723年)に創建されたと伝わる「五位庄総社 延喜式内社 赤丸浅井神社」があり、7つの神社と48の寺院が周辺に在ったと伝わる。京都清水寺の観音像の写しが安置されている赤丸清水山と赤丸浅井神社の中間に「愛宕社」や「熊野社」の跡地が在る。愛宕社の神官は「愛山」と名乗る山伏だった様だが、赤丸浅井神社に鳥居や狛犬等を寄贈して、本人は北海道に移動したと云う。周辺の寺院は明治の廃仏毀釈で仏像を壊し、あるいは野山に廃棄したという。愛山家が何故北海道に移転したかは不明だが、明治以降、何回かの大凶作で赤丸村の豪農や住民が相当、北海道に移住したと伝わる。(※「赤丸小史」福岡町図書館 参照)

■「天景寺」は元、赤丸村舞谷の総持寺跡地近くに建立され 、加茂村の雲龍寺が前田家の要請で金沢へ移転した為、その現地門徒の為に創建されたと伝わり、山裾には五位庄用水が流れ、背景には小高い山が在る。現在、天景寺に伝わる「勝軍地蔵」は何れかに打ち捨てられていた仏を大切に祀っていると云われるが、現在は高岡市関町一帯で火災除けの「火伏地蔵」として崇敬され、毎年、8月16日には町内を挙げてのお祭りがある。「天景寺」では本尊以外の「客仏」として大切に祀られている。

■この「勝軍地蔵」は京都の清水寺、愛宕神社(昔は愛宕山白雲寺)に祀られていた仏で有り、「愛宕大権現」の本地仏として祀られていた。愛宕山白雲寺の本尊であった「勝軍地蔵騎馬像」は慶派の七条仏師康清作で武田信玄の発願とされ、現在は山梨県の清水寺に祀られており、高岡の「天景寺」に祀られている「勝軍地蔵騎馬像」もこの仏に近似している。愛宕権現は火伏の仏として信仰を集め愛宕山白雲寺を本山として火難除けや盗難除けの神として、又、軍神「坂上田村麻呂」として武士の信仰を集めたと云う。小矢部市の古刹の長谷山宝性寺の住職の先祖は能登の名門「長谷部信連」の末裔の「長氏」であるが、この寺には武将が戦いに臨んで兜に納めていた「坂上田村麻呂」の「兜仏」が現在も伝えられている。

■大宝年間に修験道の役小角と泰澄が山城国愛宕山で天狗(愛宕太郎坊天狗)に遭って朝日峰に神廟を設立したのが愛宕山の開基と伝わり、天狗信仰、愛宕修験道として栄えたが明治維新の際の神仏分離令による廃仏毀釈によって修験道に基づく愛宕権現は廃止された。明治3年(1870年)に天台宗・真言宗両義の白雲寺は廃寺となり愛宕修験道愛宕神社も改組され神道の神社となった。赤丸の愛宕社も、往時は清水山観音像に見られるように京都清水寺への信仰も有って信仰を集めていたようだが、恐らく明治維新の激変で閉鎖に追い込まれたものと見られる。泰澄が庵を開いたと伝わる赤丸浅井神社の山伏西宝院も明治2年には還俗して「川人他治馬」と改名し、神官になっている。「天景寺」に伝わる「勝軍地蔵」はこれ等の状況から判断すると、赤丸村の愛宕社の本尊で在ったが明治に廃寺となった為、「天景寺」に伝えられたと考えられる。この仏は廃仏毀釈で廃止された赤丸浅井神社の後ろに在った「愛宕社」の本尊ではなかったかと思われ、廃仏毀釈の時に由緒の在る仏像や果ては建物も二束三文で売りに出されたと云う。












🔷🔹 ●【近江国に在った「加賀藩領」】 ⇒「加賀藩領近江国今津村、海津村」の位置と変遷!!

2018-08-30 | 歴史
■加賀藩領として、近江国の琵琶湖沿いに所領が在った。






◆今津村は1864石で、秀吉が前田利家の大阪への旅の休憩地として与えたもので、豊臣家の大老を辞するに当たり秀吉に返上を申し入れたが、秀吉はこの地を「芳春院の化粧料」として「芳春院」に与えた。

◆海津村は加賀藩領の尾添村、荒谷村の代替えとして加賀藩に与えたもので、福井県と石川県の境に在る「白山」の神領と支配権を巡り、福井県大野市の「平泉寺」と石川県白山市鶴来町の「白山宮」が争った為、仲裁した幕府はこの二村を幕府直轄領として、代わりに琵琶湖を臨んだ海津村を「藩邸」として与えたが、実際には、この地は大阪、京都への物流の拠点としての「蔵屋敷」が置かれた。

💠🔹 「織田信長」の四女で「前田利長」の妻【永姫】が中興した畠山家、宇多刀工宗家宇多家、分家宇田家、鍛冶家の菩提寺の高岡市柴野【曹洞宗 天冠山 三光寺】!!

2018-08-30 | 越中国吉岡庄・五位庄


●【永姫】《天正2年(1574年)~元和9年2月24日(1623年3月24日)》は、「織田信長」の四女で「前田利長」の正室。院号は玉泉院、法名は玉泉院殿松厳永寿大姉。










■高岡市柴野(十日市)に在る【三光寺】は利長の菩提寺「繁久寺」の末寺で、「繁久寺」の住職の隠居寺に成った寺で、寺紋は「剣梅鉢紋」を使用している由緒在る古い寺で、この寺には室町時代に越中守護を務めた「畠山家」や吉岡庄(赤丸村舞谷 鍛冶屋町島)で南北朝時代から江戸時代迄続いたと云われる越中刀工「宇多家」やその一族の墓が在る。










■「赤丸村」と「畠山氏」
室町時代に、「赤丸住の藤原直家」が「川人山鞍馬寺」や「赤丸浅井神社」の神仏の前で、「鞍馬寺」を再興した父の十三回忌、十七回忌の法要を執り行った記録が「富山県史 中世」の「光厳東海和尚録」に記載されている。この法要を執り行ったのは、富山市蜷川の「越中蜷川氏菩提寺 最勝寺」の住職で「瑞泉二代亀阜和尚」で在る。藤原氏の菩提寺の「興福寺大乗院寺社雜事記」には「応仁の乱」の元凶と成った「畠山義就」の嫡男「修羅法師」の法要記録が在り、この「畠山修羅」の命日と「藤原直家」の父の命日が一致する事から、この法要を執り行った「赤丸住藤原直家」とは、藤原氏の寺「興福寺」に預けられていた「畠山修羅」の息子と見られる。





■「室町幕府」と「五位庄」
「越中吉岡庄」は室町時代に入ると、室町幕府御糧所に成り、「足利義満」は「五位庄」を「相国寺」に寄進した。南北朝末期に「吉岡庄」から「五位庄」と改名された後に、越中は八郡に分割され、「利波郡」は「蓮間郡」と「利波郡」に分かれていた。
「赤丸浅井城」の在る小矢部川西部は「蓮間郡」と成り、「畠山文書」の「越中統治絵図」に拠れば、この頃は「赤丸浅井城」は「畠山一族」の「畠山持国」の居城で在った事が記されている。
又、富山市蜷川を本拠とした「足利義満」の近臣で政所代の「蜷川新右衛門」は「新川郡、利波郡」を統治したと云う。(※「蜷川の昔」)















■「三光寺」は、蜷川の「最勝寺」とも親交が深く、何れも曹洞宗で在る。「最勝寺」 は元々、臨済宗だったが、後には曹洞宗に成った様だ。同じく、「三光寺」にも、臨済宗から曹洞宗に成ったと伝わっている。
この寺には、「畠山家」の墓所の周辺に、「宇多一族」の墓所が取り巻いている。この寺の墓所は、ほぼ「畠山家」と「宇多家」一族の墓で埋まっており、この寺が赤丸浅井神社とも近い事から、この寺は、元々は能登畠山家の菩提寺で在った可能性が高い。
「藤原直家の法要記録」を遺した「東海宗洋」は守山城城主神保氏の一族で在ったらしい事から、「守山城城主神保氏張」が能登畠山氏から神保家へ養子に入った背景は、元々、蓮間郡で在った赤丸村周辺は能登畠山氏の直轄地で在った事とも関係が深いとも見られる。
又、この地で「玉泉院」が「三光寺」を復興したのは、「守山城城主神保氏張」の妻が父「織田信長」の妹で在り、伯母の離婚後もその息子二人が暮らした「守山城」を近くに見られる場所で在った事とも関係していると思われる。
尚、「高岡守山城城主神保氏張」は「前田利家」との「能登末森城の戦い」に敗れた後に、一旦は佐々成政と共に肥後国に移ったが、成政切腹後は、徳川家の旗本に成って御府内に屋敷を構え、千葉に知行地を得ていたと云う。

■「三光寺」の宝物として、「前田利長」と織田信長の四女で妻の「玉泉院」 の書等三通を保有しており、年一回、正月に公開していると云う。

■「前田利長」の菩提寺「瑞龍寺」には、「玉泉院」の父の「織田信長」の「分骨廟」が在る。

🔷🔹《新発見》 加賀藩の初期全城郭絵巻⇒ 【加賀藩城郭絵巻】(※加賀藩軍学者 有沢永貞作、7.2m)の発見!!

2018-08-28 | 富山県高岡市


●最近、江戸時代初期の古文書で、加賀藩の軍学者「有沢永貞」が描いた加賀藩の全城郭を描いた「加賀藩城郭絵巻」(※写本)を発見した。「高岡城」も当初は庄川と千保川に挟まれたほぼ、全区域を含んでいた様だ。
(※元の所有者からは作成された経緯の説明書も頂いている。)
この絵巻には、「富山城」、「金沢城」、「能登末森城」等と共に富山市の「安田城」や「木舟城」等の詳細も描かれている様だ。
この内容が正しければ、今迄、全容が分らなかった「木舟城」等の詳細も分かって来る。







現在、富山県の古城研究者に詳細調査を依頼している。


■【有沢 永貞】《寛永15年(1638年)~ 享保元年(1715年)》
加賀藩の軍学者。孫作俊澄の子。初め俊貞。通称九八郎、采女右衛門、字は天淵・高臥亭と号した。通称、「梧井庵先生」。地理学や測量学にも通じた。
越中土肥氏の一門で上杉、最上氏に仕えた有沢采女長俊の孫に当たる。
延宝元年(1673年)大小姓、同2年(1674年)知行200石、同5年(1677年)父の遺領300石も相続。
当初、伯父の関屋政春に甲州流軍学を学ぶ。その後、山鹿素行、佐々木秀景に師事して甲州流を修める。『甲陽軍鑑』の注釈書等の著作有り。加賀藩士有沢永貞を師として加賀藩では甲州流軍学を有沢流と呼ぶ。子の有沢武貞、有沢致貞も軍学者として知られ、「有沢三貞」と云う。又、城館の実地調査等も手がけた。
(*Wikipedia)


🌸🐎「源平盛衰記」 の国人領主「池田次郎」 と「衆徳山総持寺」⇒「越中吉岡庄」と高岡市内の寺院 ! !

2018-08-27 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

■高岡市の「瑞龍寺」、「総持寺」、「天景寺」等が記された古地図(※「高岡史料」)


■あいの風鉄道高岡駅の南側、あの著名な千手観音座像を祀る真言宗「衆徳山総持寺」の隣地に、1645年から20年の歳月をかけて前田利長の菩提寺として建立された「高岡山瑞龍寺」は、元々その地に建っていた天景寺等幾つかの寺院等を移転させ、約36000坪の敷地に建立された。この辺りは赤丸村の国人領主の池田氏の所縁の土地らしく、隣接の総持寺の旧地は池田氏の所領であり、元々瑞龍寺の地に在った「天景寺」も赤丸村の総持寺の旧地から移転した寺である。総持寺の旧地の赤丸観音堂遺跡の山裾一帯は「池田島」という地名で今も残る。又、現在能越道高岡インターチェンジの周辺の池田地区もこの池田氏の開発によるもので、小矢部市の今石動も旧名は池田と呼び、氷見市の池田地区もこの池田氏の所領であったと推定されるという。総持寺の現在の敷地はこの池田氏の所領を寄進して建立されたと伝わる。この池田氏は源平盛衰記記載の木曽義仲を小矢部市の埴生護国八幡宮に案内した池田次郎の末裔と見られている。 (※「源平盛衰記」、※「治承・寿永の内乱論序説」浅香年木著 参照)




■高岡市関町の「総持寺敷地」を寄進したと伝わる「池田家」は現在も高岡市細池地区に残り、この池田家の開発した池田地区に在った持ち宮は「いばらの宮」と呼び、現在は区画整理により移転したが、この家には神社の石碑と宮跡の写真が遺されている。この旧地を探すと、高岡インター周辺の高岡市東石堤地区にその旧地と見られる森が遺されており、この場所は高岡インター周辺の池田地区の隣接地に在る。
この池田氏は現在の高岡インター周辺の「池田地区」を開発したと伝わり、「浅香年木氏」はこの池田氏が小矢部市今石動、高岡インター周辺、氷見市の池田地区等を広域に開発したと指摘されている。(※「赤丸浅井神社記録」、「石堤村史」、「寿永の内乱論序説」)

■「東大寺庄園杵名蛭庄図」を分析すると、この庄園の東に「荊原里 ウバラノサト」が在り、庄園図に記載される「速川」がその後「ソフ川」、現在は「祖父川」と変化しているが、この川の位置からこの「杵名蛭庄」は小矢部川が赤丸浅井神社前の山裾を流れていた頃の「高田島地区、立野地区」に比定される様だ。「杵名蛭庄図」には「石黒上里・石黒中里」等の記載が見られる。
(※この一部の高田島を所領としたのは石黒一族の高田孫兵衛であったと福光町の郷土史「吉江の昔と今」に記載されている。)
この「いばらの宮」は現在、高岡市和田地区に在る「延喜式内社荊波神社」と推定され、「延喜式神名帳」には「ウバラノヤブナミジンジャ」とフリカナが付けられている。



■この池田氏の所領で在ったと伝わる寺院等の施設を強制移転させて建てられたのが「瑞龍寺」である。この隣接地区は石黒一族の鴨島七郎の所領で現在も「高岡市鴨島町」として地名に残る。赤丸浅井神社の周辺に池田氏が居館を構えていたのは赤丸浅井城が石黒氏の居城であった事からこの池田氏も石黒氏の一族とも推定される。池田氏は蘇我氏、石黒氏と同じく武内宿弥を祖とする紀氏の末裔と言われている事から砺波郡には蘇我一族が広範囲に繁栄していた事が推定される。赤丸浅井神社の創建も「文武天皇」の妃の「石川刀自娘」(※イシカワノトジノイラツメ)を母とした「石川朝臣広成」(※イシカワアソンヒロナリ)であったと伝わる事から、この石川氏も蘇我氏であり、この池田氏は文武天皇の皇子で聖武天皇の弟の石川朝臣広成の家臣団であったとも考えられ、現在も赤丸浅井神社の神域には石川一族と赤丸浅井神社神官川人家の墓だけが遺されている。
(赤丸浅井城は古くはこの文武天皇の二位の宮石川朝臣広成が居城とされ、蘇我氏末裔の石黒氏が再建し居城としたと伝わる。→※「続日本紀」・「肯構泉達録」・「赤丸名勝誌」)

■「越中石黒系図」では「武内宿弥」を祖とする「蘇我氏同族」とする系図と、「藤原利仁将軍」を祖とする「藤原氏系図」が在り、元々、石黒庄の管理の為に下向した藤原氏が「利波臣」の後継と成り、「越中石黒氏」が「利波臣」の名跡を継いだともされる。






■高岡市の「瑞龍寺」の立地選定がどのようにこの地に決まったかは文書にも本当の所の記載は見られない。ただ、赤丸村の浅井城中山氏、五位庄領主で柴野城の寺嶋牛介、高岡守山城神保氏張は能登末森城の戦いで佐々成政に従って前田利家と戦った為、前田氏占領の時に「赤丸西円の百姓は高岡市和田の開発に強制移転させられ、寺院も分割移転させられた」とされる。(※「城端別院文書」富山県公立公文書館)
高岡市の瑞龍寺の敷地選定では、能登末森城の戦いで前田利家と戦った「赤丸浅井城城主中山直治」能登拠点の「浅井城」の周辺に居館を構えていた池田氏の所領や池田氏の関係寺院が狙い撃ちされたものと見られる。
(※この池田氏は藩政期に高岡市の四十九村に所払いになり、赤丸村の跡の財産は弟の五右衛門が全て引き継ぎ藩政期には赤丸地区の組合頭を勤めた。→「杉野家文書」高岡市福岡町民俗史料館蔵)
しかも、「元々赤丸村に在った総持寺」(※「総持寺観音像国宝概説」)の山号の「高岡山」は取り上げられて、瑞龍寺は「高岡山瑞龍寺」となり、総持寺は「衆徳山総持寺」と改名させられている。(※「富山県大百科辞典」富山新聞社)

その時、瑞龍寺の住職は倶利伽羅不動寺と兼務になり、加賀藩の思いのままに占領政策が行われた様だ。 倶利伽羅不動寺の住職は「能登末森城の戦い」で秘かに前田軍に佐々軍の動静を知らせて前田家に味方したと云う。しかし、この栄華を誇った瑞龍寺も幕末の動乱の中で、「明治3年加賀藩からの寺録を廃止され、同時に前田家からは一切従前の関係を絶ちしとの通告有り。」と史料「高岡山瑞龍寺」(大正二年刊)は伝える。その為「壁破れ、屋根漏るもこれを修繕する能ず、やむを得ず境内の樹木を悉く伐採し、材木を売りその土地も拓き(売却して)凌いだ。」更に「石燈籠、禅堂の石畳、大庫裏の向拜(入口門)迄売却した。」と云う。現在も多くの朽ちた多くの石塔が瑞龍寺境内に散乱している。この状態は明治42年に旧国宝に指定される迄約40年間も続いたと云う。


■「東大寺庄園杵名蛭村墾田図」に見られる「荊原里」


■「実際の河川等に拠って推定される杵名蛭庄の位置」










■赤丸浅井神社神域に遺る石川一族と赤丸浅井神社神官川人家だけの墓





🔴🔹 【 越中石黒氏の考察】⇒【源平盛衰記】に見られる【六道太郎光景】の素性?

2018-08-26 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸





●「源平盛衰記」に、加賀の藤原氏頭領林氏の「林六郎光明」と共に戦った武将に、『六道太郎光景』と言う名前が見られる。
「越中石黒系図」に拠れば、加賀林氏とも縁組をしていた「木舟城城主石黒光弘」は「赤丸浅井城城主石黒光景」の子供で在る。










■小矢部川河口の村に、六渡寺村(六道寺村)が在り、「源平盛衰記」の「義経奥州下り」には、「義経主従」は「赤丸浅井神社」の前に在った「二位の渡し」から「如意の舟下り」(六渡寺川舟下り)で、伏木河口の「六渡寺村」の渡し場に降り立ったとされる。又、源平盛衰記では、「木曽義仲」が倶利伽羅山に進軍する前には「六渡寺」に集結した事が記載される。「角川日本地名大辞典」には、【「六渡寺」は平安末期から見られ、寿永二年の項には「木曽義仲が六道寺の国府に着いた」とされ、木曽義仲は大軍を一旦、六道寺に集結させて、後白河上皇の庄園「越中吉岡庄」を迂回して高岡市の「般若野」を経由して小矢部市の「埴生護国八幡宮」に軍を進めたとされる。
この小矢部川河口の地域には、嘗て、古代に「六道寺」と言う古刹が在った事から、「六道寺村」(六渡寺村)に成ったと言う。







■【六道寺村】と【越中石黒氏】
「高岡史料」には、現在の高岡市街地は「往古、石黒一族の鴨島七郎の領地で在った」事が記され、「射水郡史」には、高岡市牧野の地は「石黒氏の牧野太郎二が統治した」事が書かれている。
又、福光町の「吉江村の昔と今う」では、現在の高岡市高田島は「石黒一族の高田孫兵衛の所領」で在ったとされる。
鎌倉時代には現在の高岡市街地から二上山にに至る地域は「二上庄」と呼ばれ、地頭として「石黒弥三郎」が統治した事が「久能木文書」に記載されており、執権の北条経時に呼び出された記録が在る。
「源平盛衰記」には【六道太郎光景】と云う武将が、記載されるが、【六道氏】と言うのはこの辺りの国人領主には見られない。「源平盛衰記」では、「木舟城城主石黒光弘」は「小松の安宅川合戦で矢傷を受けて、回復した後に倶利伽羅山の戦いで活躍した事」が記されている。系図では「石黒光弘」が加賀の林氏と縁組した事等が記されているが、同時期に戦った父親の「石黒光景」としては具体的な記載がない。
「赤丸浅井神社」の前で、小矢部川と庄川が合流していた鎌倉時代には、「木舟城」の脇を通過していた「唐又川」が赤丸浅井神社前に流れ込んでいた様だ。(※「蓑のしずく」)
従って、「木舟城」は、元々、「石黒光景」の居城の「赤丸浅井城」の出城で在ったと見られ、赤丸村に在った「川人山鞍馬寺」と密接な「京都の貴船神社」を「木舟城」の鎮守としたものと見られる。
「木舟城古今誌」には、木舟周辺の地域は「越中吉岡庄」の地頭「吉岡成佐」が、開発したと記載されるが、この人物は「吉岡成佐の不法事件」として鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」にも記載される有名な事件だ。
「保元の乱」で勝利した「後白河上皇」は、元々、藤原摂関家「藤原頼長」の庄園で在ったこの庄園を、自らの「後院領」に組み込み、その収入を「蓮華王院三十三間堂」に寄進したが、源頼朝が義経探索の名目で「吉岡庄」に配置した地頭の「成佐」は、その収穫を「後院」へ納付しなかった。怒った「後白河上皇」は、側近の吉田経房卿を通じて頼朝に抗議文を送り付け、頼朝は直ちに「成佐」を交替させている。
この「吉岡成佐」が、福岡町大滝地区を開発したと「木舟城古今城」には記されている。この事は、元々、木舟城は赤丸浅井城の出城で在った事を示している。



■石黒氏の傍流として射水郡二上庄(鎌倉期、庄域に二墓保[二塚保 フタツカホ ]を含む )の地頭として鎌倉幕府に訴えを起こした「石黒弥三郎」の訴状に対する執権北条経時からの呼び出し状が残されており、射水郡二上庄は鎌倉時代に石黒氏が地頭であったことが判る。
【二上荘の記載】(角川日本地名大辞典)
『※「関東御教書」寛元二年十二月二十四日 ⇒ 当荘雑掌より申し出された問注について幕府は、当荘預所と石黒弥三郎との参決を命じている。(久能木文書/大日本史料)』

■これ等の事から、仏教に心酔していた石黒氏が所有した小矢部川河口に「六道寺」を建てて、自らも「六道太郎光景」と名乗ったものと考えられる。
「越中石黒氏」は、東大寺大仏建立の際に「米五千石」を寄進して越中の国司待遇に成った「利波臣志留志」 の後裔とされており、その持城は仏教に絡んだ「如意城」と呼ばれ、又、名古屋で開いた領地は「如意郷」と呼ばれた。
「六道」とは、仏教用語で、「天道」、「人間道」、「修羅道」は三善趣(三善道)といい、「畜生道」、「餓鬼道」、「地獄道」は三悪趣(三悪道)と云う。


🔷💠🔹 【信長記】丹羽長秀の家臣「太田牛一」が書いた「織田信長の記録」⇒石川県松任市、加賀藩に所縁の「太田家」!!

2018-08-26 | 富山県高岡市


●【織田信長と高岡市】
「織田信長」の妹は、高岡市の「守山城城主神保氏張」の妻と成り、二人の男子をもうけている。又、高岡市の瑞龍寺には「織田信長の分骨墓」が在る。
富山県砺波市と高岡市には、「織田信長」の発給文書が残り、一向一揆の監視の為に、岐阜県根尾谷(薄墨桜は根尾氏の墓標と云われる。)の根尾氏を越中に潜ませていた事が記されている。

■織田信長の生涯を記した【太田牛一】の著作、【信長記】(※【信長公記】)
【太田牛一】は石川県松任市に丹羽氏の家臣として住んだ事もある。
「太田和泉守牛一」は「織田信長」の近習書記となり、後には信長の城の安土城下で屋敷を持った。永禄12年(1569年)から天正10年(1582年)にかけて丹羽長秀の与力として仕え、京の寺社との調整を担当する。【本能寺の変】の後に「丹羽長秀」に2,000石で仕え、「柴田勝家」と戦う為に坂本城へ参陣した。天正13年(1585年)「丹羽長秀」の没後、長秀の嫡男の「丹羽長重」に従って【加賀国松任城】に在城し、一時期松任で隠居した。
・その後、復活して「豊臣秀吉」、「秀頼」に仕え、関ケ原戦後には「徳川家康」に仕えた。子息の「太田小又助」は丹羽家、織田信雄、豊臣秀吉に仕え、その孫の「太田宗古」が浪人後、寛永18年(1641年)から「前田利常」に仕えて以来、家系は加賀藩士として続いた。

■【信長記】に記載される【織田信長の越中諸將の殺害】









元々、高岡守山城城主「神保氏張」と共に動いていた「木舟城」の「石黒氏」は『上杉謙信と内通している』と疑われて、「織田信長」に呼び出され、城主の「石黒左近」以下32名が近江佐和山に来た時に、「丹羽長秀」に襲われて十五名が暗殺されたと云う。次いで、越中の国人「寺崎民部左衛門」の親子も佐和山へ呼ばれて丹羽長秀に預けられていたが、間も無く切腹させられた。






🏯🌄 越中国「二上荘」の高岡市(關野)と石黒氏 ! !

2018-08-26 | 富山県高岡市


















■「高岡開町之図」(※「高岡史料」)



■総持寺や瑞龍寺の一画は、五位庄赤丸村の代々池田市衛門と名乗る「市衛門家が寄進したもの」と伝わる。この一画には赤丸村から移転した「総持寺」「天景寺」や宇多刀鍛冶の氏神の「鎚の宮」、國吉村(細池村)からは「光慶寺」が移転している。恐らく、瑞龍寺の敷地にも赤丸村から移った寺が在ったので、この一帯は全て「市衛門家」の領地で在ったものと考えられる。前田家は能登末森城で利家と戦った赤丸勢の池田氏の用地を占領して、意図的に赤丸村から動いた寺院を強制的に移転させたものと見られる。赤丸村の肝煎池田氏は加賀藩から難癖をつけられて「所払い」になり、國吉村の四十九村に動き、更に現在地の細池村に動いたと云う。赤丸村の領地や財産は全て弟の五右衛門が継ぎ、肝煎を務めたが、納税額を記した「村御印」と云う命令書を紛失したとして「手鎖の上入牢」の罰を受けて、結局身体を壊して亡くなった事が「高岡市福岡町民俗資料館」の「杉野家文書」に記録されている。
尚、この細池村には、現在、赤丸村から移った「市衛門屋敷」がある。
【註】「瑞龍寺」は金沢から移った「法円寺」が改称したもので、旧地には「天景寺」、「雲龍寺」、「広乾寺」、「宗圓寺」、「繁久寺」の五つの曹洞宗寺院が在ったがこれ等を強制的に移動させて建立されたものだ。従って、この寺はこの一帯を占領した前田家が「みせしめ」の為に造られたと言う背景が在った様だ。
⇒「天景寺」、「雲龍寺」、「宗圓寺」は五位庄赤丸村、加茂村からこの地に動いたが、加賀藩は元々在った五つの寺院を強制的に移動させて、その跡地に瑞龍寺を建立した。「宗圓寺」はその「寺院由緒」で「赤丸村から移った。」と記載し、「瑞龍寺を建立した時に移転させられた事」を記載している。ここには、前田家の宗教政策、占領政策が垣間見られるのだ。これ等の各寺社は、その由緒で「瑞龍院様より用地を賜って移転した」と記載しているが、実際は狭い敷地に追放されていたのだ。事情を知らない市民や高岡市は、後世、この事を「加賀藩の善政」として伝え、破れた佐々成政は「愛妾の小百合姫を嫉妬に駈られて惨殺した」とする「小百合伝説」を流布したものだ。現在も高岡市の伝説としてこの物語が高岡市の文書に見られる。「高岡市の歴史」は「加賀藩の歴史」であり、「曳山祭り」や「銅器産業の歴史」が語られる時には必ず「前田家の善政」として 誇張や時には笑止な嘘を交えて語られる。従って、高岡市の歴史は表向きの、嘘も交えたこの歴史しかあり得ないのだ。

■現在の高岡市は「射水郡」と「礪波郡」の各一部を含み、何れも「武内宿彌」の末裔「射水臣」「利波臣」の開いた地区とされる。(※「福井県史」中世)



■「越中石黒系図」に拠れば藤原利仁系の藤原氏を祖とすると言い、別系図では孝霊天皇系の「日子刺方別命」の子孫とされる。石黒氏は、諸系図を合わせ検討すると、石黒荘の荘官として派遣された藤原利仁系藤原氏を祖とし、傍流の福満五郎の系統の「石黒光久」は加賀富樫氏同族の藤原利仁系の加賀林氏と縁組して「加賀林氏」(石浦氏)を引き継ぎ、併せて越中の皇室系古代氏族の「利波臣」の名跡を継いで、藤原系、利波臣系両方を継いだ。この系統は織田信長に本家筋が暗殺された後も、前田利家に従い加賀藩士として存続した。一方、本家の系統は先祖を藤原氏と名乗り、一向宗門徒と争い福光城で滅亡している。又、越中に後醍醐天皇の皇子宗良親王を御迎えした石黒重之の系統は宗良親王に従い尾張に逃れて長谷川大炊助重行と名乗り、現在の名古屋市北区に「如意郷」を開いて「如意城」を居城として、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に臣従した様だ。「如意城」の跡には「瑞應寺」が建っている。又、すぐ近くには佐々成政の故城の「比良城」の跡がある。(※「浪合記」参照)
安土城古図には「長谷川屋敷」が見られ、織田信長の重臣だった様だ。又、長谷川氏は兄弟で織田信長に仕え、信長が弟の信行を討った時にも長谷川氏が手を下したらしい。
守山城の神保氏張の家臣として魚津で上杉軍と戦い、後に加賀藩に士官した石黒釆女の子孫は秋田県角館に逃れて、その系統は現在も存続している。)
※石黒諸系図を統一したものは無く諸説がある。


平成28年金沢市の古書店で発見した「石黒釆女」の知行記録。金沢の大衆免村(現在の元町。肝煎本岡三郎右衛門)で石黒釆女は加賀藩から60俵の加増を受けている。


■高岡市の二上山山麓の二上射水神社に祀られている「二上神」の祭神「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」は「射水国造」の祖神とされる。
現在は高岡市の古城公園の一画に「射水神社」が有り、二上山の地には「二上射水神社」が鎮座する。

■昭和47年発行の「高岡史料」に拠れば、「上古、塞口ノ郷と称し、中古に關野又は關野ケ原等と称し、[二上ノ荘]の一部たりしなり」とし、「越登賀三州志](※富田景周 著)には「關野ケ原 在射水郡關野 又 志貴野 トモ舊記ニアリ 今ノ高岡ノ舊號ナリ」とし、「郷庄考」には「狭野なるべし 狭き事を古言 セキ といへり 」として「狭い野原」の事と云う。
これから、「上關」、「下關」、「狭野」と分かれ、石黒一族の鴨島七郎の所領の「鴨島町」、庄川支流の千保川周辺の「川原町」等が残っていると云う。
注目すべきは、高岡市が「射水郡」の「二上ノ庄」の一画でありながら、「射水臣」の同族「利波臣」末裔とされる石黒一族が地頭として繁栄した事だ。
射水臣は氷見方面で松原氏やその一族の小浦氏等が残っているが、氷見は八代氏(屋代)や肥後の菊池氏の末裔が繁栄し、中央では射水氏の三善為康の子孫が鎌倉幕府評定衆として活躍しているものの、越中では石黒氏が海岸線の牧野、二上、關野等の小矢部川、庄川の水運や海運の拠点を地頭として押さえていた。→千保川沿川の「鴨島地内」には寿永年間(1182年~1183年)に石黒氏同族鴨島七郎の所領が在ったと云う。その隣地の「關町」は源平盛衰記に登場する五位庄赤丸村の国人池田氏の所領で在ったと見られる。⇒総持寺用地は池田氏の寄進と云う。池田氏は古代氏族「利波臣」の同族の紀氏から出たと云う。(※「治承寿永の内乱序説」浅香年木) ⇒古来、「赤丸浅井神社」の周辺にはこの池田一族と石川一族が住み、浅井神社の神域には墓地もある。赤丸浅井神社の創建は石川朝臣広成と云われ、「続日本紀」には、文武天皇の「嬪」で在った蘇我氏の「石川刀自娘」と紀氏の「紀竈娘」は藤原不比等の陰謀で廃されて息子の石川朝臣広成も追放されている。石川朝臣広成は元正天皇の配慮で親王として恭仁京で「内舎人」となり、後に「高円朝臣」と賜姓されている。
又、「高岡」命名について「越登賀三州志]は、【諸説があり、通説の「鳳凰鳴けり高き岡に]から来ているとする説も、「何是證哉」(証拠が無い)】としている。加賀藩の歴史学者が述べた意見は真摯に検討する必要があるだろう。

※【三善為康】永承4年~保延5年(1049‐1139)平安後期の文人官吏。本姓は越中国の射水氏。上京し算博士の三善為長に師事して三善家の養子となった。少内記,算博士,諸陵頭などを歴任している。

■【「高岡史料」記載の石黒氏】
「越登賀三州志」;越中の士…加茂嶋七郎…井口三郎光義ハ越中ニテ中古諸氏ノ祖 其ノ先斎藤氏ヨリ出ズ 石黒、高楯、野尻、福満、向田、泉、水巻、中村、福田、吉田、鴨嶋、宮崎、南保、入膳、皆是井口氏の庶流。

■「越中舊記」;鴨嶋七郎ハ礪波郡福光ノ城主石黒太郎ノ別レニシテ 此ノ所ノ地頭トナリテ 在住ス 今ノ高岡鴨島町ノ後ロニ 其第跡アリ

⇒關野の原は戦国時代、即ち、永祿より元龜、天正の間において幾度か上杉謙信の馬蹄に蹂躙せられ、越中郷土の軍兵能く之と對陣し、一勝一敗の戦場たりしことありしと傳う。

■石黒氏の傍流として射水郡二上庄(鎌倉期、庄域に二墓保[二塚保 フタツカホ ]を含む )の地頭として鎌倉幕府に訴えを起こした石黒弥三郎の訴状に対する執権北条経時からの呼び出し状が残されており、射水郡二上庄は鎌倉時代に石黒氏が地頭であったことが判る。

■【二上荘の記載】(角川日本地名大辞典)
『※「関東御教書」寛元二年十二月二十四日 ⇒ 当荘雑掌より申し出された問注について幕府は、当荘預所と石黒弥三郎との参決を命じている。(久能木文書/大日本史料)』
『※「室町幕府奉行人連署奉書案」寛正六年三月二日 ⇒ 「土御門三位有季申 越中国二上荘領家職御譲位以下要脚段銭之事」と有り、幕府は当荘を菅掌している土御門有季の言上を受け入れ、御料所である当荘の段銭を免除している。(土御門文書/県史 中世)』
『※「土御門有宣言上状案」文明十八年四月 #戦国期 ⇒ 「越中国二上庄年貢運送之時、去 文明十六年十二月仁本願寺門徒於賀州号国質、無謂押置之、干今不渡之条言語道断次第也」
…運送途中の当荘年貢が加賀一向宗門徒に押領され、かつ波多野因幡守らが荘内請口の地子(利息)を滞納するなどで、有宣の知行分収納賀困難になってきた事が知らされる。』


■又、石黒氏の「牧野太郎二」が後醍醐天皇の皇子「宗良親王」を射水郡の牧野に迎えたと云われ(※「射水郡史」⇒「東弘寺 舊記」)、隣接の「二上荘」の鴨島は石黒一族の「鴨島七郎」の所領であり(※「高岡史料」)、高岡市(五位庄)高田島地区は同族の「高田孫兵衛」の所領であったと伝わる所から(※「吉江村の昔」福光町)、鎌倉時代には海岸から高岡にかけての射水郡も石黒氏の勢力下にあったものと見られる。
しかも、古く立野、高田島辺りも「東大寺杵名蛭村荘園図」を精査するとこの辺りに比定され、この図面の中には「石黒上里・石黒中里」という地名が記載れており、古くからこの辺りに石黒氏が展開していた事が推定される。
(※「東大寺庄園杵名蛭庄図」・「国立歴史民俗博物館庄園データーベース」)

■【加賀藩統治下の二上庄】
加賀藩士富田景周(平の景周)の著書の「越登賀三州志」(※「圖譜村籍巻之三」)に拠れば、加賀藩時代に「二上庄」は以下の範囲で在った。



■「二上庄六十五村曁オヨビ垣内二十七處 外無家。十二町分・二塚新村」

三ケ新、六渡寺、中伏木、六渡寺新、吉久、吉久新、下牧野、上牧野、宮袋、高木、川口、大門、田町、大門新町、東廣上、西廣上新、西廣上、上伏間江、下伏間江、深澤、赤祖父、大野、井口本江、出来田、百米木、枇杷首、川原町、蓮花寺、三女子野、上野下田、野村新、石瀬、上石瀬、角、新田、能町、橋場、来島、上来島、鷲北新、北村、荻布、江尻、掛開発、向野、湶分アワラブン、高湶、中川、端、下田町關、鴨島、上關、京田、下黒田、上黒田、林新、東藤平蔵、林、二塚、三木松 鎧 三屋、十二町島、北蔵新、西藤平蔵、紅屋 龜島、佐野、上佐野 雙川佐野ソウカワサノ 西佐野、木津、東村、羽廣、出村、北島、早川、島、横田、新田、内免新、四屋川原、長慶寺、河野、波岡、長江新、大屋、高岡町、木町、土器町、

■「二上庄内下四條二十村曁垣内九處」


■五十里、道重 百橋 板屋、須田、西海老坂、東海老坂、守山町、渡、下八ケ新、守護町、守護町新、二上、上二上 谷内、二上新、城光寺、矢田、谷内手、矢田新、串岡、矢田串岡新、古府、石坂、伏木、定塚、國分、一宮、新村

⇒この中には「福田・立野地区」は含まれていない。現在、旧立野村の町中の地域に「福田神社」がある事から、古くは「立野村」と「福田村」は密接で、立野村が村立される前には「福田郷」の一画で在ったと見られる。高岡市佐野は古くから開けていた地域で、福田地区も「福田郷」として古くから開けていた地域の様だ。










🔴📚 織田信長による 越中の国人領主「石黒氏」・「寺崎氏」の暗殺⇒岡山大学所蔵国指定重要文化財「信長記」(太田牛一自筆本)と江戸中期の歴史書「北陸七国史」(馬場信意 作)の記載!!

2018-08-25 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



●「織田信長」と「上杉謙信」の争いに捲き込まれた「越中木舟城城主 石黒氏」、「越中富山願海寺城城主 寺崎氏」の殺害の記録!!




■【北陸七国史】
畠山氏の居城「能登七尾城」は室町幕府足利一族の管領畠山一族が累代、居城とした。
「能登畠山氏」は越中、能登、河内、紀州等の守護を歴任した。
七尾城は、高岡市守山城城主神保氏張の兄の義則が家臣達に毒殺されてより不安定な状態が続き、温井、三宅、遊佐の各氏は上杉謙信に通じ、古くから能登を知行されていた長九郎左衛門尉連龍は織田信長に通じて激烈な争いに成って数回の戦闘も行ったと云う。神保氏張はこの畠山家から高岡守山城の神保氏に養子と成ったが、その母親は元々、上杉謙信の妹で在ったと言われ、弟も上杉謙信の姪と一緒に成って「上杉」を名乗っており、氏張の母親は父親が死亡すると、上杉謙信の家臣の「北条氏 キタジョウシ」に再嫁しており、神保氏張の家系は正に上杉謙信の一族で在り、一時期は上杉謙信の家臣名簿(※上杉博物館所蔵)にも載っていた。
しかし、織田信長は守山城の内紛で京都に放浪していた神保氏張を呼び出して越中への帰参を約束して、織田信秀の娘(※信長の妹)を妻に迎えさせたと云う。しかし、これを知った上杉謙信は激怒して信長を警戒した為に、信長は太刀や豪華な「洛中洛外図屏風」等を上杉謙信に贈って機嫌を取っている。
しかし、元々、神保氏張と共に動いていた「木舟城」の「石黒氏」は『上杉謙信と内通している』と疑われて、織田信長に呼び出されて、石黒左近以下32名が近江佐和山に来た時に丹羽長秀に襲われて十五名が暗殺されたと云う。次いで、越中の国人寺崎民部左衛門親子も佐和山へ呼ばれて丹羽長秀に預けられていたが、間も無く切腹させられた。
何故、石黒氏や寺崎氏が殺害されたのかは、詳しく説明している歴史書は少ないが、『北陸七国史』は、具体的に歴史的な背景も記している。









■【信長記】
「織田信長」は家臣の「惟住五郎左衛門(丹羽長秀)」に命じて、佐和山城に呼び出し、石黒一族の殺害を命じ、それを知らない石黒一行は七月六日、「木舟城」を出発した。この下りを「信長記」は短く以下の様に記す。
【七月六日、越中国木舟城主石黒左近、家老、石黒与左衛門・伊藤次右衛門・水巻釆女佐・一門三十騎ばかりにて上国。佐和山にて惟住五郎左衛門生害の儀申付けらるべきの処に、長浜迄参り、風をくり(いち早く様子を悟り)罷越さず。然る間長浜へ罷参じ、石黒左近町屋にこれあるを取籠め、屋の内にて歴々十七人生害候。惟住者も、二・三人討死候。 】と記す。
この時に「木舟城」にいた石黒左近の女(娘?)は神保氏張に与えられたと云う。加賀藩士冨田景周の著作「腱嚢余考 巻之八」には「而して信長公其の女を神保安藝守氏春に嫁せしめて、(此の時神保は越中守山の下古国府に移ると云ふ。)越中の守とす。」と記載されており、「神保氏張」が石黒氏殺害に何らかの役割を果たしていた事を窺わせる記述がある。

次いで、【七月十七日、越中の寺崎民部左衛門・子息喜六郎親子生害の儀仰付けられ候。】と有り、息子の「喜六郎」は未だ若干 十七歳で眉目・形尋常に美しく生立つ若衆であったが、最後の挨拶も哀れで、父親「左衛門」は「父親が先に行くのが当然」として腹をかっさばき、若党が介錯をした。その後、息子の「喜六郎」は父親の腹を切って流れる血を手に受けてそれを嘗めて「お供申す」と言って尋常に腹を切った。著者は「比類なき働き目も当てられぬ次第なり。」とその悲惨な状況を表現している。

⇒【越中国人 寺崎氏】
寺崎氏は越中国願海寺城に拠った国人で、能登畠山氏や神保氏に仕えていたという。寺崎盛永は上杉氏の勢力が越中に及んでくるとこれに臣従したが、上杉謙信の急死後、織田方へ寝返った。ところが天正9年(1581年)2月に上杉軍が来襲した際に、上杉軍に内通していたとの疑いをかけられ、5月4日未明、菅屋長頼の織田軍に居城を攻められ、家臣が内応して落城した。盛永と子息の喜六郎は捕らえられて近江佐和山城に送られ、7月17日、織田信長の命により切腹させられた。その様子は『信長公記』に詳しく、特に十七歳の喜六郎は美少年で、その最期は見事であったと太田牛一は書き留めている。なお、「上杉家文書」では5月中に能登で切腹させられたとしている。(※Wikipedia)






🏯💢📕🐎 「越中国侍生害の事」⇒【信長公記】に記載される「木舟城」(※高岡市福岡町)の「越中石黒氏」の暗殺!!

2018-08-25 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

■越中へ進攻していた「上杉謙信」の死去に伴って、越中には「織田信長」の軍勢が配置された。高岡市の守山城城主「神保氏張」には「織田信長の妹」が嫁いだ。


「木舟城」には織田信長陣営の佐々成政の家臣「佐々平左衛門」が配置された。


■「木舟城」と「赤丸浅井城」の位置(※「加賀藩参勤交代道中絵図」)


■石黒氏の居城「越中木舟城図」(※「簑のしずく」)


■上杉謙信の占領から織田信長の占領の時代への推移

『上杉謙信の越中占領時代の家臣名簿』

●『上杉家家中名字尽 』に見られる上杉謙信占領時の越中・能登関係の家臣となった武将名と『寺島牛介に対する上杉謙信からの[五位庄安堵状](※金沢市寺島蔵人邸文書)』


■【上杉家家中名字尽】部分
*北条安芸守(北条高広)→(※神保氏張の義父→能登畠山氏の妻を謙信から与えられる)
*小島六郎左衛門尉 (小島職鎮)→(寺島一族)
*神保安芸守(神保氏張)(能登畠山氏から養子)→後に佐々成政に従う→徳川家康旗本
*遊佐左衛門尉(遊佐盛光)(越中守護代)
*石黒左近蔵人(石黒成綱)(木舟城城主)→後に織田信長により暗殺される。
*斎藤次郎右衛門尉(斎藤信利)
*寺崎民部左衛門尉(寺崎盛永)→後に織田信長に親子共に切腹を命ぜらる。
*小島甚介(小島国綱)(神保氏張の兄)→後に出家
*寺島牛介(寺島盛徳)→(※『上杉謙信五位庄安堵状』金沢市寺島蔵人邸文書)
*上条弥五郎(上条[畠山]政繁)
*直江大和守(直江景綱)
*長沢筑前守(長沢光国)
*平子若狭守(平子房長)
*井上肥後守
*長与一(長景連)→(能登の長谷部信連末裔)
*遊佐美作守(遊佐続光)(越中守護代)
*三宅備後守(三宅長盛)
*同 小三郎(三宅宗隆)
*温井備中守殿(温井景隆)
*平加賀守(平堯知)→(密かに上杉謙信に内通)
*西野隼人佑
*畠山大隅守
*同 将監
*下間侍従法橋坊(下間頼純)→(浄土真宗の坊官→武将)
*七里三河法橋坊(七里頼周)→(浄土真宗の坊官→武将)
*坪坂伯耆守
*藤丸新介(藤丸勝俊)
*瑞泉寺 井波町→(浄土真宗有力寺院。当初西本願寺派→東派)

⇒■富山県指定重要文化財「釈迦如来立像」は元赤丸村「川人山鞍馬寺」の本尊と伝わる。
*勝興寺 高岡市伏木→(浄土真宗有力寺院。西本願寺派)
⇒敷地の一画に「小島甚助」「寺島蔵人」の屋敷が在ったと言う。



■越中木舟城は代々石黒氏の居城であったが、上杉謙信に攻められ、次いで織田信長に攻められて、織田信長に臣従を約した木舟城の越中石黒氏は天正九年織田信長に呼び出しを受ける。
織田信長は家臣の惟住五郎左衛門(丹羽長秀)に命じて、佐和山城に呼び出し、石黒一族の殺害を命じ、それを知らない石黒一行は七月六日、木舟城を出発した。この下りを「信長公記」は短く以下の様に記す。
【七月六日、越中国木舟城主石黒左近、家老、石黒与左衛門・伊藤次右衛門・水巻釆女佐・一門三十騎ばかりにて上国。佐和山にて惟住五郎左衛門生害の儀申付けらるべきの処に、長浜迄参り、風をくり(いち早く様子を悟り)罷越さず。然る間長浜へ罷参じ、石黒左近町屋にこれあるを取籠め、屋の内にて歴々十七人生害候。惟住者も、二・三人討死候。 】と記す。
この時に木舟城にいた石黒氏左近の女(娘?)は神保氏張に与えられたと云う。加賀藩士冨田景周の著作「腱嚢余考 巻之八」には「而して信長公其の女を神保安藝守氏春に嫁せしめて、(此の時神保は越中守山の下古国府に移ると云ふ。)越中の守とす。」と記載されており、神保氏張が石黒氏殺害に何らかの役割を果たしていた事を窺わせる記述がある。
次いで、【七月十七日、越中の寺崎民部左衛門・子息喜六郎親子生害の儀仰付けられ候。】と有り、息子の喜六郎は未だ若干十七人歳で眉目・形尋常に美しく生立つ若衆であったが、最後の挨拶も哀れで、父親左衛門は「父親が先に行くのが当然」として腹をかっさばき、若党が介錯をした。その後、息子の喜六郎は父親の腹を切って流れる血を手に受けてそれを嘗めて「お供申す」と言って尋常に腹を切った。著者は「比類なき働き目も当てられぬ次第なり。」とその悲惨な状況を表現している。
次いで、天正十年三月十一日、越中守山城城主「神保氏張」が織田信長親子が信州に武田四郎を攻めたタイミングで反乱を起こし、柴田勝家、佐々成政、前田利家、不破彦三等から信長に「間もなく落城する旨」報告している。
天正十年六月一日、家臣の明智光秀は突如として反乱を起こし、織田信長を宿舎の本能寺に襲った。織田信長は火炎に紛れて自害し、その子の信忠はその急報を聞き、宿舎の妙覚寺を出たが既に信長討死と知り、信忠は 妙覚寺の縁側の板を剥がして火の中に投げ入れる様に命じて切腹して果てて、その遺骸を残さなかったと言う。その時に信忠に従って討死した家臣の中に「斉藤新五」や「石黒彦三郎」等の石黒氏同族(藤原一門)の名前も見受けられる。(※「佐々成政史料集」)

■守山城の神保氏張は能登畠山氏の子だったが、守山城の神保氏の養子となっていた。上杉謙信が七尾城を攻めて落城すると乗り込んだ上杉謙信は畠山氏の妻(神保氏張の母)を上杉謙信家臣の北条安藝守に与えた。この北条氏は上杉謙信の家臣で有りながら後には武田信玄に仕えたと言う人物で、神保氏張も織田信長の妹を妻としていたものの上杉謙信に敗れると上杉謙信の家臣になり、「上杉家家中名字尽」にも「石黒氏」や「寺崎氏」と共に掲載されている。さすがに怒った織田信長は妹を神保氏張と別れさせているが、この神保氏張は許されて佐々成政の配下となり、後には能登末森城で前田利家と戦っている。佐々成政が豊臣秀吉の命で九州の肥後に転封となった時には成政に付いて肥後に移ったが、成政が秀吉から切腹させられると、放浪して徳川家康の家臣となり、千葉に知行地を貰って、江戸に住み、徳川の旗本として待遇されたと云う。
越中の石黒氏は鎌倉時代の承久の乱の時に、後鳥羽上皇の味方として京都に攻め登り、乱が鎮圧された後に、一部は越中に戻ったが、一部は京都に残り、更にもう一団は越前迄戻ったが越前で定着して、後に織田信長と対立する越前朝倉氏の家臣になっている。近年、発見されたと言う「一乗記」の家臣名簿にも石黒氏が掲載されており、徳川の時代にも福井市内で村役として「石黒氏」の名前が見受けられる。(※「鳥見役越中石黒氏」、「一乗記」)
何度も織田信長を裏切った神保氏張は、信長の妹を妻として男子を設けている為か、再三に亘り許されて遂には徳川の旗本になっているのに比べて、越中の名門の石黒氏が敢えなく信長に暗殺されて一族がバラバラになっていったのは何故だったのか? 石黒氏の一族が織田信長と敵対した越前朝倉氏の家臣にも多く見られた為だろうか?