赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴 伝説の「藤原利仁将軍」の末裔の「越前斉藤氏」、「越中石黒氏」、「加賀林氏」と「加賀富樫氏」⇒一族での戦乱の歴史!!

2018-07-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「加賀富樫家」の記録「富樫記」!!
▼「富樫記」には、この一族の系譜から「加賀朝日城」での滅亡迄が記載されている。
(以下はその部分)


■加賀の「高尾城」を拠点とした「富樫氏」は、『藤原利仁将軍』の末裔の「越前斉藤氏」・「加賀林氏」・「越中石黒氏」の内の「林氏」から出た。
「藤原氏」は、養老年間に「藤原不比等の系統は【藤原】を名乗り、元々の「中臣鎌足の一族」は元の【中臣】に復して神道祭祀に奉仕する様に」との勅令が出されて、後々、「藤原」を名乗った者は【藤原不比等の子孫】に限定される。この「藤原」から伊勢神宮の「斎宮守」に成った一族は「斉藤」に成り、「加賀」では「加藤」に成ったと云う。

■「林氏」は、当初は「越中吉岡庄」を庄園にしていた「藤原摂関家藤原頼長」の支配を受けていたが、「頼長」が「保元の乱」で「後白河上皇」に敗れて失脚すると「源頼朝」の配下に入った。「源平の戦い」では頼朝の弟の「源義経」の支配下に入って戦功が在り、「越中」を知行されたとされる。(※「保元記」、「加賀林氏」北国新聞 刊)



■一方、「後白河上皇」は「藤原頼長」の旧領の「越中吉岡庄」を没官して、自らの「後院領」に編入した。この「吉岡庄」には、聖武天皇の弟の「石川朝臣広成」が中興されたと伝わる「郷社 延喜式内社赤丸浅井神社」が 在り、その隣接地に在った「赤丸浅井城」は「累代、東大寺大仏造営の時に米五千石を寄進したとされる利波臣の子孫の石黒氏が居城にした」とされ、石黒氏は古くから「吉岡庄」とも密接な一族で在った様だ。「源頼朝」が奥州へ逃れた「源義経」の探索の為に「越中吉岡庄」には「成佐」を地頭に配置したとされ、木曽義仲に味方した「越中石黒氏」は一時期、地頭職から外れた様だ。しかし、その後の「後鳥羽上皇」が起こされた「承久の乱」では「後鳥羽上皇」の側で戦っている事から、その時には復活していたものと見られる。(※「保元記」、「平範記」、「承久記」、「吾妻鏡」)
頼朝に追討され、「源義経」が失脚すると、分家筋の「富樫氏」の勢力が強くなり、「富樫氏」は頼朝から加賀を知行されたと云う。(※「富樫記」)



■「林氏」は石川県鶴来町を本貫地として石川県の南部一帯を押さえて、分家からは「富樫」、「石浦」等の現在金沢市の地名にもなっている多数の氏族を生んだ。同じく藤原利仁将軍の末裔とされる「越中石黒系図」には、先祖に「石浦」の名前が在り、林氏と縁組していた「越中石黒氏」は一族の「石浦氏」とも縁組していた様だ。「林氏」と「石黒氏」は「源平の戦い」 では、「越中吉岡庄」の領主の「後白河上皇」の皇子「以仁王」の「令旨」に従って源氏の「木曽義仲」に就いて「倶利伽羅峠の戦い」に参戦している。「頼朝」が「義経」を追放すると、「石黒氏」は「天皇家」、「富樫氏」は「頼朝」に就いて対立したが、「後鳥羽上皇」が「承久の乱」で鎌倉幕府と戦い、上皇が隠岐島に流罪になると、上皇側の「加賀林氏」や「越中石黒氏」は降伏してその勢力が失われた。一方、「加賀富樫氏」は「承久の乱」でも「幕府側」で戦い、戦後、勢力を得て加賀国を支配したとされる。

■【越中の「藤原一族」とされる「井口氏」は奥州藤原氏系列の「田原藤太」(※藤原秀郷)の末裔とされ、その子孫は越中吉岡庄に落ち延びて高岡市石堤村「西光寺」を興したと云う。(※「西光寺縁起」石堤村誌)「井口氏」は「富樫氏」と連携した様で、石黒氏と井口氏が熾烈な戦闘をした古記録が有る。「越中吉岡庄」の領主「後白河上皇」の皇子「以仁王」の子の「越中宮」を奉じた朝日町の「越中宮崎氏」は「藤原氏」を名乗るが、源平争乱の時に、「木曽義仲」に味方して義仲は朝日町に諏訪神社を創建している。源平争乱では「加賀林氏」は「源義経」に味方して戦っているが、義経と争った義仲には「越中石黒氏」等が味方しており、藤原氏が分裂して争った様だ。「加賀林一族」(※北国新聞刊)には「林一族は義経に従って戦効が在り、一時期、越中を知行された」と記されている。しかし、「後鳥羽上皇」が惹き起こした「承久の乱」では、「富樫氏」は足利方に就き、「越中石黒氏」と越中の諸将や「加賀林氏」は後鳥羽上皇側に就き、「富樫氏」は足利方に就いて藤原一族を分断した争いに成っている。】

■「加賀富樫氏」は室町時代に足利幕府に就いて戦い、北陸で大きな勢力を持っていたが、戦国時代に猛威を奮った「一向一揆」の勢力と戦って、石川県境則加賀朝日城に籠城したが、周囲を取り囲まれて、遂には女人の救済を条件に一族は自決した。
(※「加賀林氏」北国新聞 刊、「富樫記」)



🔘「越中五位庄」の鎌倉・室町幕府の足跡  ⇒「小田氏」と「小山氏」(※大石氏) !!

2018-07-29 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

■室町幕府第三代将軍「足利義満」は、南北朝を統一すると「後白河上皇」以来、皇室庄園として南北朝末期迄続いた「越中吉岡庄」を自らが創建した京都の「相国寺」(塔頭寺院鹿苑寺金閣)の庄園とした。この頃には、この庄園は「五位庄」と改名されていた。(※「東寺百合文書」・「万山編年精要」)
当時の「五位庄」は福野町野尻や般若野庄の一部から伏木港に至る広大な範囲に成っていた。
(※「畠山文書」羽曳野資料叢書)







■越中五位庄の富山県高岡市石堤地内に「長光寺」が有り、この寺は鎌倉公方足利満兼の関東八屋形(八家)の宇都宮・小田・小山・佐竹・千葉・長沼・那須・結城の一つの、小田氏(伝承では織田?)の小田氏知が創建したと伝わっている。元、小田氏知は越中吉岡庄の地頭で有ったとも伝わる。小田氏は藤原氏で、常陸発祥、武蔵や関東を拠点とした。足利氏全盛期に、能登畠山氏も畠山重忠の妻と婚姻した足利氏が名跡を継ぎ、高岡の守山城を拠点とした神保氏も関東の武蔵国発祥で源氏の源義朝に従った。高岡市石堤の西光寺を開いた井口氏も源義朝に従ったと云う。関東で勢力を持っていた源氏の勢力がこの時代に能登・越中に集結していた事が判る。
藤原氏長者藤原頼長領、後白河上皇,後鳥羽上皇~後醍醐天皇迄皇室領として伝領した元の「越中吉岡庄」,後の「五位庄」は、応永十二年(一四〇五年)足利義満が室の追善料として京都相国寺(金閣寺)に寄贈。応永十九年斯波家領となったが、応永二十三年には五位庄の半分を足利義持が京都等持院に寄進し畠山満家に預け置かれた。
この頃、武蔵国忍城城主で後に出家した成田顕泰が、砺波郡増山村で開基となり長禄寺を設立(一四五八年)し、その後、この寺は射水郡守山城外に移って光厳寺となる。成田氏は、熊谷市を拠点とし、十三代顕時は上杉憲実に従い戦功をたて下総守となり、更に戦功を立て、関東管領足利政知(堀越公方)より、越中富山城を賜ったといわれる。成田顕泰は、現在は富山市にある光厳寺(後に前田家の墓所となった)を開いている。



■越中や加賀には現在も小山、宇都宮、小田と名乗る一族が残る。
越中五位庄にはこの小山氏の末裔と名乗る「小山どん」と長く呼ばれてきた旧家が有り、近年は土屋村の戸長も務めた家系であった。天明三年の「土屋村小山家先祖由緒書上」では「私先祖下野国之住人小山小四良朝政与申候而」と記し、「越中に来て小矢部川の東の砺波郡土屋村八日市嶋(現在の福岡小学校付近)に住まいし、その後、小矢部川の西に住まいした」と記している。
下野の小山氏は藤原秀郷の末裔で、秀郷九世の孫太田行政の子政光が都賀郡小山庄に居住して小山四郎を称したのが始まりと云う。治承四年(1180年)の源頼朝の挙兵に際して小山政光の後妻で頼朝の乳母の寒河尼はいち早く実子七郎(朝光)を頼朝の下に馳せ参じさせた。次いで、政光の嫡男の朝政・二男宗政らも参陣し、寿永二年(1183年)の常陸の志田義広の乱を鎮圧し、平氏追討戦や文治五年(1189年)の奥州征伐にも参戦し活躍した。嫡男朝政が小山を継ぎ、弟の宗政が長沼氏、朝光が結城氏を名乗り、長沼氏から皆川氏が出た。小山氏は惣領として、分かれた長沼氏・結城氏と共に小山三家と呼ばれた。鎌倉幕府では幕府宿老となり、小山氏は代々下野国権大介職及び押領使を務め、朝政は下野国日向野郷の地頭職に補任され、鎌倉時代を通じて下野守護を務めている。その後、「小山義政の乱」を起こして鎌倉公方足利氏満に滅ぼされ、後に同族の結城氏が家名を継ぐ。
五位庄土屋村の「小山家由緒」に拠れば、「小山義政の乱」を起こして鎌倉公方に滅ぼされた一族は当時の吉岡庄の土屋村に逃れ、代々、地域の名門として存続していた事になる。歴史から消えた一族は吉岡庄で生き延びた事になる。土屋村の隣接地の赤丸村領三日市には著名な「宇多刀工」の集団が住まいしており、当時は相当の武士集団がこの地域に住まいしていたのかも知れない。
その後、小山氏は上杉謙信と後北条氏にその都度形勢に応じて就いていたが、秀吉との戦いで後北条氏に就いた為に滅ぼされる。一部は水戸家に仕官し、近江では再興して大石と名乗りその孫の内蔵助良雄は浅野内匠頭の家臣となる。大石内蔵助の妻の理玖(りく)は佐々成政の子孫に当たり、主君の仇討の後に内蔵助良雄が切腹した後は息子の大三郎が父の良雄と同じ1500石という破格の条件で赤穂浅野本家に召抱えられ、理玖と一緒に広島へ移った。
※赤穂の「大石神社」へは富山前田家の産土社である「日枝神社」から嫁いでおられるとか? 富山県と佐々氏、大石神社、日枝神社の御縁は奇縁とも云える。又、「大石神社」には浅野家の後に赤穂藩主となった森氏の祖先で、織田信長の家臣の森家七武将(森蘭丸ら)を合祀しており、森蘭丸の家系の「森家」資料が保存されていると云う。森氏の武将の森可成は織田家武将として越中でも戦っている。


「祭神」は「大石内蔵助良雄以下四十七義士命と中折の烈士萱野三平命」を主神とし、浅野長直・長友・長矩の三代の城主と、その後の藩主森家の先祖で本能寺の変に散った森蘭丸ら七代の武将を合祀してある。「大石神社」に祀られる「森氏」の武将「森可成」は織田信長の家臣として越中の戦いにも参戦している。


●【小山氏の乱と越中五位庄の小山氏】
室町時代に小山義政が鎌倉公方足利氏満に起こした反乱。名門の小山氏と宇都宮氏の勢力争い。小山氏は敗れたが、討伐軍に居た小田氏が恩賞への不満から小山氏の嫡男をかくまって居た為、氏満から追討された。小山氏は後に親族の結城氏が継いだ。




■「鎌倉公方」足利氏満は室町幕府将軍足利義満の従兄弟になるが、義満が関東管領上杉憲方と組んで氏満を圧迫したため、氏満は幕府側の新田、小山、小田等を滅ぼし、特に小山氏は徹底的に滅ぼし幕府側への抵抗を強めた。
(※「鎌倉公方」足利満兼は足利氏満の子。この頃、関東では「鎌倉公方足利氏満」、「堀越公方政知」の二つの政権が対立して、同時に存在した。)

■室町幕府将軍足利義満は、関東管領足利政知(堀越公方)が成田顕時に与えた越中の地の「越中吉岡庄」を室の追善料として京都相国寺に寄贈した事になり、この時代に関東で滅ぼされた小山氏の末裔が足利義満の影響力が強くなった越中吉岡庄の土屋に逃れていた事になる。 (参考)足利氏満、足利義満文書




※「体系古文書実習」参照

💥皇室庄園「越中吉岡庄」の『赤丸浅井神社由緒』⇒「赤丸村」の消された歴史!!

2018-07-29 | 富山県高岡市福岡町赤丸村












■「越州川人山鞍馬寺三社記」
(※川人山鞍馬寺は延喜式内社赤丸浅井神社の別当で赤丸浅井神社、石堤浅井神社、舞谷八幡宮を合わせて三社権現形式の「川人山鞍馬寺」独学呼んだ。この神社は南北朝時代迄は皇室庄園の「越中吉岡庄」と呼ばれた庄園で在り、南北朝末期に京都下鴨神社の庄園に成った頃に「五位庄」と改名された。→※「東寺百合文書」・「宝永誌」)






■「聖武天皇」が東大寺の大仏を造営された時に東大寺には4000町の庄園開発が認められ、越中ではその30%以上が開発され、「越中国司大伴家持」は調査に来た東大寺の僧「平栄」を歓迎した宴を開いている。この時に富山県の「利波郡」(江戸時代に砺波郡に改名)の郡司で越中石黒氏の祖とされる「利波臣志留志」(※一般的には「トナミノオミシルシ」と呼ばれるが、東大寺の寄進者名簿の「修院過去帳」では「リハノシルノサクヮン」と呼ばれている。「大宝律令」では官吏の「四等官」として「衛府」では【督カミ,佐スケ,尉ジョウ,志サカン】の官位に成っていた為に東大寺では「利波臣志留」と言う「志サカン」として記録されている。)が庄園開発に携わり、東大寺に米五千石(※「東大寺要録」)を寄進して国司に任じられた。
(※「国宝 東大寺正倉院絵図」→「石粟庄」からは「赤丸浅井神社」に「一反」の庄園が寄進されている。)
この「利波臣」の末裔は【累代、赤丸浅井城を居城として(※「富山県西礪波郡紀要」)、南北朝の時に利波臣の末裔とされる「越中石黒氏」の「石黒光景」が浅井城を再興した】とされる。この「石黒光景」は「源平盛衰紀」に登場する福岡町木舟の木舟城主「石黒光弘」の父に当たる。(※「石黒氏の歴史の研究」)


「砺波正倉」参照 (※砺波市教育委員会)


井波町に伝わった古地図
⇒古代には赤丸浅井神社前で小矢部川と庄川が合流していたと伝わる !!
古代の北陸道の浅井神社前に在った「駅」は「川合駅」又は「川人の駅」と呼ばれた。赤丸浅井神社前の「二位の渡し」から河口の「六渡寺村」迄の舟下りルートを「如意の舟渡し」(六渡寺川舟渡し)と呼んだ !!(※この合流地点から下流の大河を射水川、六渡寺川と呼んだと云う。)




奈良正倉院の東大寺庄園図(石粟庄図)には「浅井神一段」との記載がある !!


後醍醐天皇の庄園「吉岡庄」(※五位庄赤丸村)極楽谷に創建されたと伝わる高岡市の名刹「越中宮極楽寺」



「越中吉岡庄(赤丸村)」に在った高岡市の「旧高岡山総持寺 コーコーサンソウジジ」には「国指定重要文化財木造千手観音座像」が安置されている !!




「越中吉岡庄」は「後白河上皇」の庄園となった時に「蓮華王院」(※三十三間堂)に寄進された。「越中吉岡庄」は「後白河上皇」から「後鳥羽上皇」に譲られ、後鳥羽上皇が起こした「承久の乱」の後に一旦、勝者の幕府に没収されたが、後に後堀河天皇に戻されて、以後、「大覚寺統」に伝領した。(「福岡町史」、「日本歴史 中世」岩波講座p185)
(・南北朝時代の「後醍醐天皇」迄引き継がれたと云う。⇒「日本庄園史大事典」)







■「赤丸浅井城」に「元正天皇二宮在城」と伝える富山県の古書『肯搆泉達録』!!


大和朝廷の軍隊の痕跡「赤丸城ケ平古墳」!!



■「赤丸浅井神社由緒」に拠ると、「養老年間(712~724年)、元正天皇の時代に一宮、二宮に全国を二分して統治させ、二宮は当地に駐屯され、社殿を立て、祀官を定めて祭祀を行わせられた」と云う。元正天皇は女帝で、子供が無かったが、文武天皇の子供が幼少の為、始め、文武天皇の妻が元明天皇となり、継いで後を受けて即位された文武天皇の妹、聖武天皇の叔母の元正天皇が即位して親代わりを務められ、聖武天皇の即位に際しては聖武を「吾子」*我が子 と呼んで宣命を読んでいる。文武天皇には藤原不比等の娘「宮子」が夫人(ブニン)となり、その他に古代氏族の紀氏から紀竃門郎女(キノカマドノイラツメ)と石川刀自郎女(イシカワノトジノイラツメ)が嬪(ビン)となっていてたが、藤原不比等は我が孫を天皇とする為に陰謀を巡らし、文武天皇が亡くなると二人の嬪(当初、二人は妃に任じられている。)に不義有りとして嬪の資格を剥奪した。石川刀自郎女には男子が居たが、同時に臣籍降下させられた。
(※「続日本紀」→この事件は「藤原不比等の貶黜 ヘンチュツ 事件」と歴史的に呼ばれる事件で「貶黜」とは「官位を下げる事、排斥する事」を意味する。)
その男子は石川朝臣広成と賜姓され、舎人という役職に就き、その歌は万葉集にも3首掲載されている。石川刀自郎女は蘇我氏の一族だが、蘇我蝦夷、入鹿が討たれた後は、北陸の地は蘇我氏の末裔の石川氏が勢力を持って居た様で、石川県には石川郡という地名が残り、富山県には石川氏の一族が大伴家持の前後に越中国司として赴任している。又、石川氏で左大臣迄務めた石川朝臣豊成は懇意にしていた橘氏が世話をして、高岡と大門の間に比定されている「東大寺鹿田荘」の隣地に庄園を持っていた事が「東大寺荘園図」に記載されている。高岡市伏木の越中国府と赤丸浅井神社は地理的にも近くに在り、浅井神社からは国府近くの二上山も眺望できる。赤丸には明治期迄「石川家」という七軒百姓と云われる大百姓があった。本家は北海道に移住したがその分家は今も浅井神社の神域に残り、浅井神社の奥の院の後ろには、赤丸浅井神社を統括した「別当西宝院」という聖護院派山伏の歴代の墓と明治に還俗した後の川人神官家、石川一族の墓だけが残されており、神域に残されたこの両家は赤丸浅井神社と特殊な関係の家系で有ったと推定される。元々、礪波地区に勢力を持っていた石黒氏の先祖の利波臣志留志の末裔は、藤原氏一族の林氏と婚姻して藤原氏を名乗ると、蘇我氏一族の石川氏は次第に石黒勢力に圧迫された可能性が有る。石黒氏の先祖の利波臣は天皇の末裔(臣)を名乗り、藤原氏は天智天皇系の氏族の(藤原)を名乗ったが元々は職能集団の(連)であった。赤丸を中心とした吉岡庄が藤原氏長者摂関家の直轄荘園となり、藤原氏一色なった時には石川氏は強大になった藤原氏の陰で耐え忍んだと思われる。後に、藤原氏長者「藤原頼長」は「保元の乱」で敗れて、「吉岡庄」は「後白河上皇」に 没官された。「吉岡庄」が「後院領」と呼ばれる上皇直轄領になった時に、「後白河上皇」の皇子が本山派山伏の聖護院門跡に就任されたことも有り、「赤丸浅井神社」は「泰澄」が開いた白山修験道から「本山派聖護院派山伏」に変異したものと思われる。赤丸浅井神社には聖護院への古い献上札が残されている。この「後院領」は後鳥羽上皇~後醍醐天皇迄続いたが、後醍醐天皇の開いた南朝勢力が衰退して、やがて足利幕府の配下の斯波氏が統治する。五位庄は足利義満が開いた「京都相国寺」にその半分が寄進された。赤丸浅井神社の伝承では、「承久の乱」で朝廷派の石黒氏が敗れて北条氏や、足利氏等が台頭した武士の世になると、朝廷に与した寺院は五位庄から追放、あるいは圧迫を受け郊外に退いたとされる。赤丸にあった「川人山鞍馬寺」は福岡の一歩二歩に、「高岡山総持寺」は現在の高岡の地に動いたとされる。南朝支援の石黒氏も排斥され、その後、能登畠山氏の同族、秩父平氏の一族の中山氏が浅井城主になり、追放された鞍馬寺(後に法筵寺)には再三に亘り中山氏が攻撃を仕掛け焼き討ちしたと伝わる。(※「中世城館調査報告書」福岡町教育委員会)(※能登末森の戦いの後、敦賀市に落ち延びた「中山宗家」は「姓は藤原氏」としており、赤丸村に残った中山氏は「秩父平氏」と伝えている。又、高岡市内在住の旧加賀藩士末裔の中山氏の系図では「源氏、家紋は下がり富士に丸」と伝えている。)

(※「赤丸名勝誌」の中山氏については南朝の宗良親王の随臣としたり、源頼朝の家臣の畠山重忠と同じ秩父平氏の中山次郎重実の末裔としたり、その時代に迎合して時々に主張が変わっており、真の系統を伝える実在の古文書もなく、昭和に著された「赤丸名勝誌」に私家の系図として紹介されるものしか無い。南朝後醍醐天皇の時には赤丸浅井城に越中石黒氏が入っており、室町時代には富山市蜷川郷の蜷川氏が統治したと伝わり、一向一揆の時には本願寺坊官下間和泉が在城したとも伝わり、前田利家と能登末森城で戦う迄、中山氏が浅井城を居城としたかは分からない。敦賀市の「中山正弥家文書」では、「柴野城寺島牛介の甥の中山正治」と記されており、継続的に居城としたかは不明。「赤丸名勝誌」には「累代居城とした」とされるが、この伝承が喧伝されて諸誌に引用されたと見える。)
(※「中世城館調査報告書」福岡町教育委員会、「福岡町史」)


■現在、高岡市関町に在る「総持寺」は、古代氏族と見られる赤丸の在地国人領主「池田氏」の庇護を受け、池田氏所領の現在の高岡市に逃れたと云う。
(※「池田氏」は「治承・寿永の内乱序説」(※浅香年木著)に拠ると、石動、氷見、五位庄に所領を持っていた国人領主と推定されている。池田氏は藤原秀郷流に奥州藤原氏と一緒に記載され、「石黒氏」は藤原利仁流とされる。)
赤丸の中山氏が書いた「私家史」の「赤丸名勝誌」によると「石黒氏は北条氏を忌みて射水に逃れ、その後浅井城は中山氏の居城となった」と記載されている。しかし、公的な古文書に赤丸の中山氏が源頼朝家臣の北条氏の系統とするものは無い。頼朝の家臣の「越中吉岡庄の地頭」として記載されているのは「吉岡成佐」であり、或いは石堤長光寺の開基とされる「織田(小田)陸奥守氏知」である。後にも足利一族の「斯波氏」や足利義満近臣の「蜷川氏」の記載だけだ。赤丸地区はこの時代、徹底的に源氏の北条氏・足利一族の勢力に占められ、又、後に秩父平氏畠山氏の名跡を源氏の足利氏が継いで源氏系畠山氏となった為、能登・越中は完全に源氏系畠山氏の拠点になった。(※この時期に中山氏の公的な記載は何処にも出ておらず、中山氏に焼き討ちされたとする「法莚寺の伝承」と昭和に著された「石堤村誌」や「赤丸名勝誌」しか無い。しかも、この根拠はあくまでも「伝承」としての記載であり、古文書等の証拠資料は今迄確認していない。)
後白河上皇の時に源頼朝は吉岡庄に地頭を配置して、その地頭の「吉岡成佐」が不法にも天皇直轄領で年貢を徴収して未納し、後院庁から咎められた経過が「吾妻鑑」に記載されている。天皇直轄領後院領では守護の支配を排除して「後院庁」「後院司」が支配しており、その後も武士は直接支配する事は出来なかった。しかし、「赤丸名勝誌」に拠ると、南朝が敗れると、一挙に武家が支配し、中山氏が赤丸の統治に関わってきて、前田家の侵攻迄、累代赤丸浅井城を居城にしたとされる。しかし、上杉謙信の家臣名簿にも記載されず、途中がどうであったかは何も史料がなく、この根拠は不明だ。前田家が越中に侵攻する前の佐々成政の統治時代に中山氏が、天皇が認めた赤丸浅井神社の初穂米徴収権(五位庄、小矢部の宮島、国吉に亘る五位庄53ケ村から各戸一升を徴収する権利)に介入し、初穂米を自ら徴収してその配分に関与し、その米を領地以外にも広く貸し付けて収益を上げていた事は敦賀市博物館の古文書で明らかになっている。
(※福井県敦賀博物館に赤丸の中山氏が米を貸し付けていた証文が多数保管されている。中山氏の子孫と名乗る家系は幾つかあるが、この敦賀の家系が赤丸の中山氏の本家末裔とされている。⇒「中世城館調査報告書」福岡町教育委員会)

■敦賀市に落ち延びた赤丸浅井城「中山氏」の系図(※部分)


■高岡市羽広在住の赤丸城・旧加賀藩士「中山氏」の系図(※部分)


■後白河上皇から後醍醐天皇に至る時代の「後院領吉岡庄」はその繁栄の幕を下し、北朝、足利氏の圧迫の時代になる。室町時代に入ると、「足利義満」は「越中五位庄」を「相国寺」(※金閣寺)に寄進し、その後も足利家菩提寺の「等持寺」、「等持院」の庄園となった。浄土真宗が北陸で広がり、一向一揆が越前、加賀、越中で勢力を持ち始めると、「赤丸浅井城」には一向一揆の指導者の坊官「下間和泉」が入城したと伝わり、富山県立公文書館には一向一揆の中心人物の「下間頼龍」からの「赤丸信徒への志納銀受取状」が遺されている。「越中志徴」に拠ると、一時期には氷見市阿尾城主の肥後の菊池氏末裔の「菊池氏」が所領とした事が記載されている。又、戦国時代にこの地域は、能登攻めの通路となって、長澤氏や上杉氏、佐々氏が畠山氏、前田氏の能登攻めの時に、その都度石動山の僧兵を攻め、その都度石動山の寺社は全山焼き尽くされ、僧兵や女子供も全員が撫で切りの憂き目に逢っており、上杉謙信や前田利家が攻めた時には石動山と同じ山伏の赤丸浅井神社や浅井神社48坊の寺院は全て焼き付くされたと伝わる。その後、豊臣秀吉が築造した「方広寺の鐘」を巡って豊臣と徳川が対立し、徳川が勝利する。方広寺が本山派山伏聖護院の別寺で有った事から、徳川幕府は事有る度に聖護院派を圧迫したと聖護院では伝えられている。聖護院派山伏赤丸浅井神社は徳川幕府には圧迫をされていたが、幸いにも加賀藩前田家は徳川に抵抗する意味もあってか赤丸浅井神社には寛容な姿勢を示している。しかし、徳川政権と手を組んでいた吉田神道は浅井神社の持宮の石堤浅井神社や舞谷村の八幡社等に勢力を伸ばし、「唯一神道」を標榜して、両部神道の浅井神社勢力から神社の権益を各神社固有の権益にしようと画策していた様だ。「我社こそ延喜式内社の浅井神社」と主張していた石堤浅井神社の清水神主の初代神官は「石堤村誌」に拠れば、何と「吉田家」が入り込んできている。伝えに拠るとこの清水神主の持宮の国吉郷月野谷大元神社は代々国吉郷の村役を務めた中島庄官家の持ち宮だったとも伝える。吉田神道は藤原氏の氏神の鹿島神宮、春日大社の流れを汲む京都吉田神社の系統だが、伊勢神宮の神祇官に代わり神祇官代を名乗って、徳川幕府に「諸社禰宜神主法度」を制定させ、神官の任命権、位階による衣裳の色の指定の権利等を握り、全国の神官を「唯一神道」で統一しようと企てた為、従来の両部神道や神祇官家の伊勢神道とも対立した。石堤と赤丸は加賀藩時代に行政区分が度々変わり、赤丸を中心とした「赤丸組」であったり「石堤組」であったりした事も、浅井神社が赤丸か石堤かという論争の火種にもなっていた様だ。しかし、「延喜式内社」「五位庄総社」と名乗る「石堤浅井神社」の祭神は「罔象女神 ミツハノメノカミ」と言う農耕の水路の神であり、この神は赤丸浅井神社の前で合流していたとされる庄川支流の「木舟神社」の祭神と同じ神であり、これに対して「赤丸浅井神社」の祭神は神代の「大国主神」系の「水の江(大河)に祀る神である八河江比売神 ヤガワエヒメノカミ」と、皇室の重要な祖先神で大伴氏の氏神の「正一位 高皇産霊神」と言う神々の最高神を祭神としている。「延喜式内社」は朝廷の重要な神代の神々を祭神として「国家の神々」を指定したものであり、各地にも見られる「論社」と云われる神社も、この祭神を調べれば「延喜式内社」か否かは直ぐに判断できる。祭神も調べずに「論社」等と言う人々は、神々の威光を改変しようとするとんでもないバチ当たりだ !!

(※「元正天皇」は「藤原不比等の子孫」以外は「藤原」を名乗る事を禁じて、「中臣氏」は元の「中臣」に戻る様に勅令を出されている。鹿島神社を氏神としたのは「中臣氏」で在り、「大鏡」に拠ると「藤原不比等」は実際は「天智天皇の実の子供」だと云う。又、「大鏡」では吉田神道はこの中臣系の神社だと云う。)

■その後、赤丸村は福岡町に合併され、更に高岡市に合併されて小学校や役場組織が廃止され、地域の伝承を行う機能が著しく失われた。最近、高岡市は「西山歴史街道」としてこの一帯の観光振興を図ろうと云う動きが出ており、奈良時代から富山県西部の文化の中心地だったこの地域の歴史にスポットライトが当てられる事は素晴らしい事だ。奈良や京都の歴史にも匹敵するこの地域の歴史、特に平安、鎌倉、南北朝、室町時代の失われた中世の歴史を明らかにする事はむしろ全国的に見れば遅きに失している。

■赤丸村は蘇我氏の系統の所領、上賀茂社領、藤原氏領、上皇直轄領(後院領)、下鴨社領、足利幕府領と続き、戦国期には畠山氏、上杉氏、織田氏、佐々成政、前田家、明治政府と頻繁に政権が代わり、いつも主要な街道であった北陸道に沿っていた為、保元の乱、 源平の戦い、 承久の乱、南北朝の五位庄の戦い、応仁の乱による畠山氏の内戦、上杉謙信の越中侵攻、佐々成政と前田利家との戦い等が有り、豊臣秀吉、徳川家康と覇者が変わると従来の勢力図もガラリと変わった。その度に集落や寺社は焼かれ、戦勝者は敗者の歴史を消し、敗者は奴隷化した。勝った者が歴史を作り、負けた者は打ち捨てられた。五位庄も限りない戦乱で何度も焼かれた。

■佐々成政に従った守山城主神保氏張、柴野城主寺島牛介に従った赤丸村に対しては加賀藩は重税を課し、四公六民の税制にも関わらず、中山氏の居城の有った赤丸村舞谷集落に対して、寛文十年(1670年)には75%の高額な税率が課され、赤丸村61%、馬場村70%、西村70%、高畠村67%、鳥倉村75%と五位庄には重税で報復した。ちなみに、越中国の平均税率は41%、能登は25.1~60%という税率であり、赤丸村は国老の長九郎左衛門の知行地(279石)とし、寛政十二年には一族の人持組前田典膳(72石)にその一部を知行地として与えた。又、文化十二年には舞谷村を切り離してお馬廻役土方与八郎に知行地として与えている。
加賀藩の人間は越中人を「越中さ」として差別した。「加賀の一両めかけ」と言われる諺が金沢にある。加賀の者は一両が有れば「めかけ」を囲って遊び回るという。金沢の庶民は越中からの収奪で如何に潤っていたかが判る諺である。
前田家と戦った地域や佐々成政は悪人とされ、「小百合伝説」等を流布して浮気をした「小百合」を成政が「あんこう切り」で切り刻んで惨殺したと喧伝した。(※鮟鱇アンコウと云う魚を料理する時に、身が柔らかい為、縄で鮟鱇を木に吊して削ぎ切りして調理する。人間を木に吊し上げて体を薄く削いで惨殺した残忍さを強調した逸話である。)

■一方、福井市では、前田利家の非情さを示す話として、敗れた柴田勝家とお市の方の遺体が路上に打ち捨てられていたのを地元の名も無い者が福井市の西光寺(福井市の足羽山の麓)に持ち込み小さな祠を建てたと云う話がある。信長の妹のお市の方も隣りの小さな祠に祀られており、福井の地元の人すらどこに墓が有るのかも知らない位だ。前田氏は柴田勝家に同情的だったとする物語も在るが、事実は敵将柴田勝家と主家織田家の系統のお市の方の遺体は路上に打ち捨てられた。前田利家が武生領主の時に一揆の婦女子も含む農民千人余りを「磔、獄門、火炙り、釜茹で」等の刑で惨殺したとする記録(※「百万石の光と陰」浅香年木)もあり、この時に惨殺されたのは、捕虜と成った老若男女「一万二千二百人」で、全員が切り捨てられ、抵抗した者も含めると全体では三~四万人が殺害されたと伝える書物も在る。この時に地域は足の踏み場も無い位に遺体で埋め尽くされたと伝える。(※「福井県の歴史」山川出版)

■高岡市民が「鳳凰」にも比して崇敬する戦国武将前田利家の残忍さを示す事実がここにある。
占領地に対する虐殺や奴隷化は「戦国の習い」とされ、時には戦国武将の勇猛さを示す出来事とされるが、「歴史都市を目指す高岡市」が無条件に前田利家、利長を顕彰する「高岡市」の歴史認識の稚拙さを感ぜずにはいられない。大政奉還、明治維新後に発行された「高岡史料」にも「刑を受けて惨殺された者は数えきれない」と、加賀藩の悪政にも触れた記載をしている。ある時には、報奨欲しさの農民にお互いを密告させ、疑いがあるだけで能登島に多数の十村役を流刑にして殺した「十村断獄事件」は加賀藩が民衆を断圧して殺害した有名な事件だ。五位庄では十村役の五十嵐親子等が投獄、流刑になり、死人を出している。又、高岡市和田新村を開発した「和田佐吉」は磔の極刑で殺害され、能登でも十村役の父親が磔、その息子は連座して斬首されている。高岡町奉行、加賀藩算用場奉行等を歴任して加賀藩に貢献した寺嶋蔵人(五位庄柴野城城主寺嶋牛介の子孫)は第十三代前田斎泰の勘気に触れて能登島に流刑になり、終生投獄された。

■第二次大戦後にアメリカ占領で戦前や地域の歴史が抹殺された結果、封建領主の残忍さや戦乱で踏みにじられ、惨殺された数限りない民衆の記録も廃棄され、歴史の闇に葬られた。戦国武将や加賀藩の人物はあたかもアニメの主人公の様に扱われて、「利長くん」等のキャラクターや映画の題材として、或いは観光の為に「偉人」とされ、民衆は真実を知らされる事もなく、高岡市の愚民化政策に踊らされている。

■「夏草や 強者どもが 夢の跡」
これは有名な、松尾芭蕉が奥の細道の旅の途中の平泉(今の岩手県平泉町)で、かつて繁栄した奥州藤原一門の事を偲んで詠んだ句だが、保元の乱、源平の戦い、承久の乱、桃井直常の五位庄の戦い(花営三代記)、上杉謙信の占領、佐々成政の占領、前田利家の占領と度重なる戦乱に巻き込まれ、戦場となった越中五位庄は、何の痕跡も残さない様に焼き尽くされ、奪われ、惨殺された。「赤丸浅井神社」もその都度、焼き尽くされ、古くから残る史跡は赤丸浅井神社の墓所くらいしか残されない。しかし、地元民にはよく知られていないが、「吾妻鏡」や「義経記」、「太平記」等の古書に記載されて、「地元に残る伝承」も千数百年を経ても古老により語り継がれている。だが、為政者が替わり、近代に入ってから合併が続く度に郷土の歴史や伝承は占領者、合併市町村の論理で次第に隠蔽され、或いは意図的に「多数意見の論理」で抹殺される。今、 五位庄には一面の稲穂が広がるが、ここが昔、阿鼻叫喚の地で幾多の人逹の血と涙が流された地であった事を知る人は少ない。

■五位庄赤丸村は繁栄と壊滅的な戦乱、そして報復により、ついには歴史からも消された。赤丸村に有った著名な寺院は殆どが前田家により高岡市街に移され、高岡城の周辺に配置され出城の役割を担わされた。これ等の寺は今も由緒を隠したり、紛失したとしており、著名な衆徳山総持寺の観音像は「伏木港から上がった」と流れ出た仏像の様な由緒を残しており、越中宮極楽寺も「元は牧野という海沿いの地域に有った」と表向きの由緒を作っている。占領された民衆は「頭振り」と呼ばれた「農民奴隷」として強制的に高岡市の和田新村へ移動させられ、残されるのは住民のいない寒村である。郷土史では為政者とその威光に怖れた者が全く異なった歴史を作り出している事にも注意すべきである。

■寛文十一年に郡名の改正有り。越中の利波郡を礪波郡、氷見荘を射水郡、加賀の鹿島郡を能登郡、河北郡を加賀郡とした。(【註】「加賀藩農政史考」国書刊行会発行 参照)





■【延喜式神名帳記載の赤丸浅井神社の創建年代の出来事】 
・和銅年間(708~715年)天皇は元明天皇(文武天皇の母)   
708年(和銅元年)「和同開珎」製造
・養老年間(717~724年)天皇は元正天皇
(文武天皇の妹、聖武天皇・石川朝臣広成の叔母--親代わり)
◍養老元年(717年)赤丸浅井神社を元正天皇二宮御創建(石川朝臣広成を指すと思われる) 
越中国砺波郡鎮座 【社殿】 本殿流造、 幣殿・拝殿

(※「赤丸浅井神社」に伝わる社伝に拠ると、創建はもっと古い時代とされている。)

■[参考]和銅年間に銅が発掘され「和同開珎」が国内で初めて鋳造された。


■[赤丸浅井神社の宝蔵に残る「聖護院宮」への寄進札]



■【赤丸浅井神社の別当西宝院と明治に入り還俗した川人神官の合わせて47代の墓が残されている。】







📕📃「衆徳山総持寺 国指定重要文化財 木造千手観音座像」(高岡市関町)とその【真言】!!

2018-07-29 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「衆徳山総持寺 国指定重要文化財 木造千手観音座像」(高岡市関町)




■胎内には「金剛位理乗 本願聖人」と記される。「金剛位理」は『後鳥羽上皇の法名』、『乗』は真言宗衆徒(※金剛乗教)、『本願聖人』は祈願者を示す。








■「国宝指定概説 昭和12年告示」には「元、赤丸村に在った」と記されている。


■「赤丸村」は富山県西部に在り、「白河上皇」の時に京都の上賀茂神社の庄園としてに寄進され、その後、藤原摂関家の庄園と成った「越中吉岡庄」の村で、南北朝時代末期からは「五位庄」に改名された。(※「宝永誌」)
『保元の乱』で「藤原頼長」の庄園が没収され、『後白河上皇』、『後鳥羽上皇』~『後醍醐天皇』迄「上皇の庄園」の[後院領]として皇室に伝来した。この「千手観音像」は南北朝の騒乱の時に、南朝の行宮て在った「河内金剛寺」から「後醍醐天皇」の庄園で在った「越中吉岡庄」の「総持寺」に伝来した。胎内には「奉納 仏舎利」と二ヵ所に記載され、空海ゆかりの東寺の「仏舎利」が施入されたと見られる。(※この観音像の細部調査は未了)




💠🔹 「越中吉岡庄」に移り住んだ「宇多派刀工」と江戸宇田川氏・歌川国芳!!

2018-07-22 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

●浮世絵の「歌川国芳」等の使用した「歌川」は元、「宇田川」から変化したと言われ、「宇田」は「宇多天皇」を祖とする「宇多源氏佐々木氏流」の「宇多刀工」の一族の末裔とされ、本家だけが「宇多」を名乗り刀剣にも「宇多」の姓を「銘」に刻んだと云われる。分家筋は「宇田」や「鍛冶」と名乗り、「宇多刀剣」には直系以外は「姓」を打ち込めなかったと云われる。




■「越中吉岡庄」に南北朝時代に奈良県宇陀郡から移り住んだ刀工の一派の祖「宇多国光」の刀







■『越中国吉岡庄』に栄えた「宇多刀工」と「渋谷区宇田川」(※Wikipedia)
⇒(※「吉岡庄」は南北朝時代から「五位庄」と改名)
Wikipediaに興味ある話が記載される。室町時代から関東に「宇田川氏」が栄え、渋谷区には「宇陀川」と言う河川が在ったと言う。この「宇陀」については大和国宇陀郡に起こった「宇多刀工」との関連が在る?ともしている。
「宇多氏」は「宇多源氏」の祖の「宇多天皇」の末裔の「宇多源氏佐々木氏流」とも云われ、「越中吉岡庄」を「後院領」とされた「後宇多上皇」が院政を敷き、南朝の「後醍醐天皇」を即位させられ、後醍醐天皇の皇子宗良親王が「浅井城」に入城された時に「吉岡庄」へは宗良親王と共に戦った南朝の重臣で伊勢国司の「北畠親房」の輩下の「大和国宇陀郡」から「宇多派刀工」が呼び寄せられたものと見られる。







【●『宇田川氏』(武蔵国)
武蔵国の宇田川氏とは、15世紀頃から品川や葛西など東京湾岸に定着した豪族である。地域によって、佐々木氏庶流もしくは上杉氏庶流と伝えられる。
■宇田川氏の由来については諸説ある。
一説に、宇田川氏の由来は、渋谷を流れていた宇田川であると言われている。渋谷区史によれば、その一帯は古くから「宇陀野」(うだの)と呼ばれており、宇田川は当初「宇陀川」と書かれていた。宇陀野の由来は定かではないが、宇陀は『日本書紀』や『古事記』にも登場する奈良(大和国宇陀郡)の歴史的地名であり、奈良の同地にも宇陀川という河川が存在する。
宇田川は東京によく見られる姓として知られているため、宇田川を名乗る一族が河川の宇田川や渋谷宇田川町を開発しその名を残したという説も、根拠に乏しいものの地誌などでは根強くある。実際に、宇田川氏が開発し「芝宇田川町」と名付けられた町が現在の港区内にあった。渋谷宇田川周辺から出た一族がその地にちなんで宇田川を名乗り始めたわけではなく、宇田川氏が渋谷宇田川の名の由来であるとするならば、宇田川氏の由来が問題である。この場合、一族が分かれ出たとされる宇多源氏佐々木氏の祖宇多天皇に由来するという説、刀の名前に由来するという説が可能性として残る。

■『江戸鹿子』では渋谷宇田川について、「宇田」という刀が落ちた川であることから宇田川と名付けられたという説が紹介されている他、浦安市の有形文化財・旧宇田川家住宅では上杉定正愛用の刀「宇田丸」にちなんだ家名であるとしている(刀剣につく「〜丸」は一般に愛称で特別な意味はないため、名前としては同一視できる)。「宇多」と呼ばれ「宇田」とも書かれた刀剣としては、実際に「宇多派」と呼ばれる刀工一派のものとして存在する。宇多派は、鎌倉時代末期に大和国宇陀郡出身の宇多国光が創始し、ちょうど宇田川氏が歴史に現れる室町時代に栄えた一派である。刀説もまた証拠に乏しく伝説の域を出ないが、渋谷宇田川の由来と同時に宇田川氏の由来も説明できるものではある。
⇒この「宇田川氏」は浮世絵の「歌川氏」の祖に当たるとも記載される。

■2008年、富山県の農家の蔵から国芳を中心とした歌川派の版木が368枚発見され、購入した国立歴史民俗博物館により2009年に公開された。これにより、歌川国芳作品の創作過程の解明および浮世絵本来の色の復元が始まっている。この版木については同年4月12日放送のBShi「ハイビジョン特集 幻の色 よみがえる浮世絵」、5月16日放送のNHK総合「ワンダー×ワンダー 浮世絵 よみがえる幻の色」で取り上げられた。「東都三つ股の図」に描かれているのは「東京スカイツリー」を予見していたとして話題になったが、井戸掘りの櫓(やぐら)ではないかと推察される。】



▼高岡市美術館では開館20周年記念として 『江戸の劇画家 歌川国芳の世界』[会期/2014年9月9日(火)~10月19日(日)]が開催されている。

▼大和国宇陀郡は神武天皇を大和に導いた『ヤタガラス』を祀る『ヤタガラス神社』が在り、南朝の後醍醐天皇はこの神社を崇敬された。宇陀郡は南朝の武将北畠親房の家臣の沢氏等が統治していた国で在り、南朝と密接な国で在る。宇陀郡から「宇多国光」が「越中吉岡庄」に移り住んだのは「吉岡庄」(※高岡市福岡町赤丸の延喜式内社赤丸浅井神社周辺)が 後白河上皇から後醍醐天皇迄伝領した「後院領」と呼ばれた皇室庄園で在り、越中での南朝の牙城で在ったからで在り、興国三年には後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が吉岡庄赤丸浅井城に入城されている。
宗良親王は北畠親房と共に南朝軍として戦っている。





🔴🎌ようこそ歴史の里 富山県高岡市福岡町【赤丸村】へ!!

2018-07-20 | 富山県高岡市福岡町赤丸村



■古代からの古墳や中世の遺跡が富山県内でも集中しており、延喜式内社赤丸浅井神社、浅井城を中心として栄えた藤原氏ゆかりの歴史の里で、「越中吉岡庄」・「五位庄」・「赤丸村」と呼ばれた高岡市福岡町赤丸地域の観光パンフレットが高岡市の補助事業として作成された。赤丸村は、文武天皇、元正天皇、行基、泰澄、大伴家持、東大寺の大仏造営の為に米5000石を寄進した砺波臣志留志(後の石黒氏⇒※「東大寺要録」)、一条天皇、藤原道長、藤原頼長、後白河上皇、源義経・弁慶主従、越中次郎兵衛、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、宗良親王、桃井直常、足利義満、上杉謙信、織田信長、神保氏張、寺島牛之助(寺島蔵人の祖)、佐々成政、中山氏等の数多くの歴史上の人物にゆかりの地域で有り、現在、高岡市に移転している著名な寺院が創建され、「日本書紀」、「大鏡」、「吾妻鏡」、「太平記」、「平家物語」、「義経記」等の著名な古書にも関連記事が掲載されている富山県でも最も古くから栄えたエリアの一つだが、激動の歴史の中で殆んどの史跡が破壊され、焼き尽くされて、今残るのは「赤丸浅井神社」のみとなった。(赤丸浅井神社の神領は後の五位庄赤丸村領の他、高岡市の国吉郷24ケ村、小矢部市の宮島郷2ケ村を含む範囲であったと「赤丸浅井神社由緒」(※富山県立公文書館所蔵)には記載されている。地元には赤丸浅井神社に遺される資料(福岡町史資料編)以外は何らの資料も残されていないが、国立国会図書館、国立大学図書館、石川県立図書館、金沢市立玉川図書館、富山県立図書館、富山県立公文書館等に貴重な資料を発見する事ができる。福岡町歴史民俗資料館、福岡図書館、高岡市立図書館等には江戸期以降の資料が残されているが、本当に古い文書や資料は残されていない。地元には豊富な伝承、史跡が残されているが、有効なピーアールが行われず、歴史の中に埋もれている。このブログでは、消えた歴史を探索し、復活する事を目的とし、日本史の中でも重要なエリアであったこの「赤丸村」の歴史が長く伝承される事を望んでいます。


■藤原摂関家の長者【藤原頼長】の庄園は奥州の平泉周辺の他、全国に広がり、北陸では赤丸浅井神社を中心とした「越中吉岡庄」と能登の「一青庄」であったが、【越中吉岡庄】は【保元の乱】で敗れた後は【後白河上皇】(三十三間堂の領所)から【後醍醐天皇】迄伝領した上皇の庄園【後院領越中吉岡庄】であり、【足利義満】により京都の【相国寺(金閣寺)】、足利家の菩提寺【等持寺】、【等持院】の庄園として続いた。



■元赤丸村に在り、【国指定重要文化財木造千手観音坐像】を祀る「衆徳山総持寺」は現在は「あいの風鉄道(旧JR北陸本線)高岡駅」の駅南近く、「瑞龍寺」の奥にあります。この旧地は赤丸村清水山山麓の地に有り、高岡市の「西山歴史街道事業」では各史跡に観光案内版の設置が行われた。







🌸「国立歴史民俗博物館庄園DB」に掲載される「高岡市の古代庄園」 ⇒目立つ高岡市の「庄園研究」の遅れ!!

2018-07-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「越中五位庄」の『延喜式内社赤丸浅井神社』は東大寺庄園『石粟庄図』に「浅井神一段」と記載される由緒在る神社だ。













■この中で「越中吉岡庄」、(※後の「五位庄」)については、平成26~28年に「高岡市福岡町赤丸~馬場周辺」の53~57村を確定してDBを修正確定して頂いたが、「浅井神 一段」と「赤丸浅井神社」の神田が掲載された「東大寺庄園石粟庄」については、国立歴史民俗博物館DBでは「砺波市から高岡市にかけての般若野地区」と「高岡市の旧中田地区」の二説が併記されている。
「石粟庄」には浅井神社の神田が記載されているが、砺波市では庄川町の高岡市境界寄りの場所を比定しており、庄川の流域を考えている。この事については、赤丸村との距離が遠い事を挙げて疑問視する声もあるが、赤丸村の浅井神社前で庄川支流の「木舟川、唐又川」が小矢部川と合流している事、これ等の河川は古くは砺波を経由して庄川町辺りに源流を持っていた事から、古い時代には河川の船便を利用しており、又、文化的に赤丸村は井波、砺波、福野、福光等の小矢部川上流と深い繋がりが在り、高岡市中田地区はその流域から外れる事から、立地的には般若野辺りに合理性を感じる。
又、「東大寺庄園須加庄」については、砺波郡の高岡市頭川付近と射水郡の高岡市五十里付近に比定する両論が在り、庄園図には「射水郡須加庄」との註記が在るにも関わらず、高岡市の学校では砺波郡内の国吉地区の頭川立地論が採用されて、田の中に標柱を立て、小学校の校歌にも歌われている様だ。
この庄園図には「須加山」の記載が在る事から、これをどう理解するのか? 時代によっても両郡の郡界が動いている事から、石粟庄も須加庄も砺波、射水両郡の郡界に在る事から、歴史学者も結論を出しかねているのが原状だ。
しかし、国立歴史民俗博物館の「庄園データーベース」には依然として両論併記になっており、全国的に庄園研究が進んでいる中で、高岡市の庄園研究の遅れが 目立っている。高岡市は「歴史のまちづくり」を政策に掲げて居ながら、又、全国的にも珍しい「万葉歴史館」と言う立派な施設や学芸員も抱えて居ながら、教育にも関わる部分に余りにも高岡市教育委員会は無関心過ぎる。やむを得なければ子供達にも実際を教えて、子供達に歴史に関心を持たせる好機とすべきだ。何れ、これ等の子供達が、現在の大人達が傍観していたこれ等の疑問を解決してくれるかも知れないし、これを機会にして傑出した学者が誕生するかも知れない。一番ダメなやり方は「無関心、放置」だろう。あらゆる機会に「教育の種子」がある事に先ず、視線をやるべきだ。
(※高岡市にはこの他に、十二町島~佐野地区にかけての「東大寺庄園くぼ田庄」や高岡市立野周辺の「東大寺庄園杵名蛭庄」も比定されている。)


(※射水郡、利波郡の庄園には位置が不明なものも在る。又、時代により、射水、利波郡の郡界が動いたとも云われる。)








🏯🌸📃 高岡市立博物館館蔵展(2017年新資料展)2/4~5/7⇒ 公開された加賀藩主前田利長、高岡守山城城主神保氏張等の書状!!

2018-07-20 | 富山県高岡市
●「高岡市立博物館」(2017.2.4~5.7)の展示に出品された第11代高岡市長 早苗西蔵氏 の二行書!!

早苗西蔵氏は五位庄大源寺村の出身で「大源寺屋」の屋号を持つ旧家で本姓は「源」を名乗る。若い頃は五位庄赤丸村の「赤丸小学校」で教員をされ、その後、教育委員会、助役を経て第11代高岡市長に就任された。当時は長期政権の堀仁作氏が長く市長を勤めていたが、久しぶりに市長が交替して当時は相当話題になった様だ。(※「高岡市史」)












■この他にも高岡市の古文書、絵図等が多く展示され、高岡守山城城主神保氏張、前田利長の書等も展示され、普段は目に触れる事の無い資料、文書が展示された。




■『国宝 瑞龍寺』の鉛瓦→屋根は鉛で葺かれて、緊急時の砲弾の材料にしたと伝わる。


(※現在の高岡市域)

『加賀藩時代の税率』(★小矢部川西側の多い所では75%もの極端な税金を掛けた。)

■『射水郡二上郷』等→(今回は高岡市の北部の資料が展示された。)

■『砺波郡五位庄』『五位庄』は高岡市の南部に位置し、加賀藩時代は57ケ村が所属した。
加賀藩士「富田景周」が書き記したと伝わる「加越能三州地理志稿」に拠れば、江戸時代の「五位庄」は「四日市、柴野、十日市、江道、境、山川、廣谷、勝木原、澤川、淵ケ谷、田名原、小野、六郎谷、花野(花尾)、栃谷、上栃谷、西明寺、上向田(鍛冶町・田ノ子・上野)、下向田、土屋、山岸、鳥倉、西、高畠、加茂、馬場、三日市(荒田町・大野島・大野)、赤丸(谷内・次兵衛島)、舞谷、石堤(谷内・六日市)、麻生谷、東石堤、渡、内島(池田・新屋敷)、蜂ケ島、大源寺、福田六家、六家、樋詰、柴野内島、立野町、中保、駒方、駒方新、小竹、下開発、上開発、今市、宮野腰、三ケ、後正寺、須田、壹歩貮歩(二歩)、下老子、笹川(荒又・出来野)、高田島(荒又・出来野)、福岡、四十萬、稗島、下蓑、荒屋敷、土田新、以上 五十七村属五位庄」が五位庄で在ったとされる。

★この『五位庄』には「郷社、延喜式内社赤丸浅井神社」が在る。





(今回展示された二上、伏木、高岡市街地の地域資料等)














●●【木舟城保存会月見の宴】の高岡徹氏(越中史壇会研究委員長)の講演会記録(2016,11,13)

2018-07-20 | 富山県高岡市福岡町


■高岡徹氏は富山県に奉職されていた時に、富山県内の一般に余り知られていない古城の調査を多く手掛けられ、富山県の古城調査の先達とも云える方で、福岡町教育委員会が発刊した「中世城館調査報告書」では、「木舟城」や「赤丸城」等も調査報告を出されている。特に「赤丸城」については本格的に現地調査や城主の中山氏の古文書も初めて紹介され、「赤丸城」が具体的に初めて紹介された。又、「吾妻鏡」に登場する「(吉岡)成佐」の古城と見られる「吉岡谷」の「吉岡東砦」、「西砦」についても報告書を出されており、歴史の闇に隠れた赤丸村周辺の古城調査を初めて行った方である。

●「木舟城講演会の要旨」(富山県高岡市福岡町木舟)
「木舟城」のすぐ側を唐又川の支流が流れ、その末端は小矢部川に流れ込んでいたとの事。又、この支流の三ヶ所に「船着き場跡」が在ったと云う。又、すぐ北側には北陸道(中田道)が在り、この道は富山県境の倶利伽羅峠から富山市茶屋町に至る直線的最短距離で結ぶ道路で在り、往古、木曽義仲が般若野を通り倶利伽羅峠に向かった時にも進軍した道路だとか。この中田道は意図的に雁行させて進軍を阻み、木舟城の周辺は沼田で敵が容易に近付けなかったが、沼田に石を積んで造られた様な軟弱地盤で在った為に、天正13年11月の飛越地震では木舟城が9m近くも陥没して前田利家の弟の秀継夫妻以下全員が地中に沈んでしまった事。
しかし、その翌年(天正14年)には豊臣秀吉から上洛を催促されていた上杉景勝一行が木舟に宿泊して歓待されて、帰り道にも宿泊していた事。豊臣秀吉が佐々成政を攻める為に呉羽山に陣を構える前には、途中の木舟城から佐々軍が出撃して戦いが在ったとか。




■高岡市福岡町大滝地域は赤丸村周辺が「吉岡庄」と呼ばれていた鎌倉時代に、馬場村の吉岡谷に住む「(吉岡)成佐」(※「吾妻鏡」)が開いた地域だと木舟石黒家には伝わっており、庄川支流の唐又川、木舟川の下流が赤丸周辺で小矢部川と合流していたと言う事からも、赤丸村の「鞍馬寺」、馬場村・加茂村の「下鴨神社」、「上賀茂神社」等と木舟城の「貴船神社」が一連の関連で勘請された事が今回の講演会で立証されたと思われる。
(※他にもいろいろ興味深いお話が有った。)

★最近、高岡徹氏が発刊された「戦国越中の攻防」と言う書籍は、長く富山県立図書館の学芸員もされた著者が研究・実地調査をされてきた事を集大成した大著で、「石黒氏」の他、「赤丸城主中山氏」の動静等にも触れられており、福岡町教育委員会が初めて「赤丸城城主中山氏」について発行した「中世城館調査報告書」で、具体的に、敦賀市博物館に保管される「中山正弥家文書」を初めて調査、解説されたのも高岡氏で在り、赤丸城の中山氏の歴史発掘は高岡氏の功績によるものが多い。なかなか興味深いお話が多数掲載されている。
(発刊 岩田書院)



🔴📖 京都下鴨神社の庄園「越中吉岡庄」・「越中五位庄」⇒『群書類従』・『賀茂御祖神社諸国神戸記』に記載される越中の庄園!!

2018-07-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●南北朝時代と室町時代の二回に亘り「京都下鴨神社の庄園」に成った「富山県高岡市福岡町(赤丸村)」の庄園「越中吉岡庄」(※室町時代は「五位庄」)







●「賀茂御祖神社諸国神戸記」巻七(越中)(※西尾市所蔵版)には、「群書類従」(※塙保己一)雑部 501 『康正二年造内裏段銭并国役引付』の中の「下鴨神社庄園越中吉岡庄」の記載が在る。

「足利義政」の康正二年(1456年)に越中吉岡庄から6月7日~11月8日の間に「段銭三貫文」(※一文銭で3000枚)が「京都下鴨神社」に納められた記録。

(※南朝長慶天皇の1374年にも「越中吉岡庄」は「京都下鴨神社庄園」に成っている。)

▼「賀茂御祖神社諸国神戸記」に拠ると、全国で守護、地頭の横領や東大寺と鴨神社との所領争い等が起こっていた事が記載されている。

■「室町時代の下鴨神社庄園の記録」(※「賀茂御祖神社諸国神戸記」)







■「南北朝時代の下鴨神社庄園の記録」(※「柳原家記録」、「富山県史」)


🔴🎠 上皇の庄園「後院領」⇒「保元の乱」の後に「後白河上皇後院領」になった「越中吉岡庄」 !!

2018-07-13 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
●上皇の庄園「後院領」とは?



■[後院領の始まり]
承和2年(835年)仁明天皇(深草帝、嵯峨天皇第二皇子)の時、淳和院[父桓武天皇、先代嵯峨天皇、譲位後の在所であった淳和院(現在の京都市右京区西院)の別名から西院帝(さいいんのみかど)の異称がある。]の荘園として百町歩を「後院勅旨田」とした。
(※「類聚国史 百五十九 田地」)⇒ これが「後院領」の先駆けではないかとされる。
「六国史 日本三代実録 巻49」には[光孝天皇 仁和二年八月十六日に、丹後国丹波と竹野両郡に後院田を定めた]事が記されている。



■「後院」は元々太上天皇(天皇を譲位された後の呼び名)の宮殿を指し、初めは皇太后、太皇太后の住まいも指していた。当初は垣で囲まれた簡素な住まいであった。しかし、後には天皇を譲位された後の住まいを指し、「天皇退位の際に予め準備しておく宮殿」を指す様になる。嵯峨院の時、安倍安仁を院の別当とし、院務を担当させた。これが「院司」の初めと云う。その後、村上天皇の時、朱雀上皇の為に「判官代、主典代、仕所、御随身」等の職を設けた。又、蔵人、召次所、武者所等が有り、五位の蔵人を侍者とし、六位の蔵人を判官代、その他を院の蔵人とした。出納を主典代、瀧口を武者所とした。随身には左右将曹、左右番長、左右近衛を充て、院庁の役人には公文、院掌等が有り、記録所に準じた文官を置いた。後三条天皇が白河天皇に譲位し、院司をおき、院政を執ろうとしたが半年位で亡くなった為に、実質的には白河上皇の時に体制ができた様だ。白河上皇の時、北面の武士を置き、諸国の武士をこれに任じたが、後鳥羽上皇の時には更に西面の武士を置いた。後白河上皇の時には初めて院伝奏を置き臣下の奏上を取り次がせた。又、評定衆や参衆が有り、これ等は院庁の政の参与となった。これ等は初期には「院司」と呼ばれたが、後に「後院」の勢力が拡大し「院庁」が実権を持ち始めると、これ等の役人も「後院司」と呼ばれている。
(※「古事類苑 官位部1 神宮司廰編」参照)
又、「院庁」には独自の行政組織が在り、後院領には守護の権限が及ばず、後白河上皇の時に、源頼朝が義経探索を名目に全国に地頭を配置した時には「後院領」の「越中吉岡庄」には「地頭 吉岡成佐」の名前が見られる。



🔴赤丸城ケ平古墳群出土の「頭椎カブツチの太刀」と埼玉県行田市の出土品ー大彦、豊生彦、五十嵐小豊次

2018-07-13 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■神武天皇像に見られる「頭椎の太刀」










■赤丸城ケ平古墳出土の「椎頭の太刀」の「銀象嵌の椎頭部分」(※赤丸城ケ平山の一部で地目は馬場村地内)







■埼玉県稲荷山古墳出土の刀剣 (※「古代びと野望のあと」集英社)







■赤丸城ケ平山の古墳群出土の「頭椎の太刀」は兵庫県村岡町(兵庫県北部の但馬地方 )の出土品と形状が同じである。 「頭椎の太刀 (カブツチノタチ)」については兵庫県村岡町教育委員会の調査に拠る。

この太刀は西暦100年頃のものと推定され、 頭椎の太刀は、「天忍日命・天津久米命」の二人が天孫降臨の時に腰につけて仕えたと記されている。「天忍日命」は「大伴氏の祖」で、「天津久米命」は「久米氏の祖」で、両者は大和朝廷の軍事を担当した。「続日本紀」では、「天忍日命」は「大伴氏の祖先神」で、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を先導したとされる。『古語拾遺』では、「高皇産霊神(タカミウブスナノカミ)の娘・栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)の子で、大伴宿禰の祖。また、太玉命、瓊瓊杵尊と同母兄弟」とある。「赤丸村浅井神社の祭神」は「高皇産霊神 (タカミウブスナノカミ)」 であり、その創建の由緒に出てくる元正天皇の二宮「石川朝臣広成」は大伴家持と共に恭仁京で内舎人として聖武天皇に仕えていた事から、赤丸城ケ平古墳群の被葬者は大伴氏の一人であろうか? 大伴氏は大和朝廷で軍事を統轄した氏族であり、北陸を始め、東北の蝦夷対策の責任者で在った。この「頭椎の太刀」は豪華な金・銀の装飾があり、軍事の指揮者か、地域の統治に当たった「指揮者の刀」と推定できる。
又、この「頭椎の太刀」が高貴な人の指揮者の軍刀であるとすれば、赤丸城ケ平古墳近くに「親王塚」とされる史跡が在り、城ケ平横穴古墳群に大和朝廷の指揮者が埋葬されていた可能性が高まる。しかし、この場所は横穴古墳のある傾斜地の下にあり、その場所には現在、大杉が植えられて、鎌倉、室町期に多く造られた小さい五輪塔が祀られている。この五輪塔は小矢部市の義経が宿泊したと伝わる「五位堂」に多く祀られていたものとソックリである。
この古い塚は由緒がはっきりせず、古来、「親王塚」と言い伝えて保存されてきた。「肯搆泉達録」に拠れば、赤丸浅井神社を創建され、浅井城に居城されたと伝わる「元正天皇二宮=石川朝臣広成」は、後に「高円朝臣広世」と賜姓され、この後も生存している。この塚はその「元正天皇の二宮」の墓ではないかとする意見もある。
しかし、この「親王塚」は地元では「赤丸浅井城に在城された後醍醐天皇皇子の宗良親王の塚」と言い伝えられてきた。この五輪塔が造られた時代から推測されたものだろう。
この二人の親王の足跡を見ると、後に「高円朝臣広世」と賜姓された親王はその後も各地へ官僚として赴任しており、越中に来た記録は無いが、赤丸浅井神社の神域には「石川一族」と神官の家系の墓だけが遺されている。状況から考えると、この石川一族は「赤丸浅井神社」とは特別の関係の一族と推定できる。元正天皇の時に初めて「皇室で生まれた子は全て《親王》とする」と云う勅令が出されて、臣籍に降下した天皇の子も《親王》として扱われている。この親王が赤丸村で亡くなった記録は無い。 しかし、石川朝臣広成を慕ってその遺品を埋葬したものか、或いは、赤丸の地に遺された石川朝臣広成の子孫を「親王」として祀った可能性も残る。「元正天皇」は聖武天皇の即位に際して宣命を出し、その中で首皇子(聖武天皇の幼名)の事を「吾子美麻斯王 (アコミマシオウ)」と呼んでいる。元正天皇は、早くして亡くなった兄の文武天皇の子を親代わりとして育て上げて、皇統譜上は文武天皇の妻と擬されて女系天皇になったと云う。古い時代に赤丸浅井神社前で小矢部川と庄川が合流して、その合流地点には「阿古ケ淵」と言う広大な淵となり、赤丸浅井神社にはびわ湖に祀られている「河の江の神、八河江比売神」が祀られて、この淵は「阿古ケ淵」と呼ばれて水神の龍が住むと恐れられたらしく、この地には「龍神伝説」も残る。又、「赤丸浅井神社」の神霊はこの「阿古ケ淵」から上がったと伝えられ、創建以来1700年余りの間、奥の院に秘匿され、神官も開ける事は赦されないと云う。この「阿古ケ淵」に因んで、この辺りには現在も「阿古下」と言う一族が残っている。

■「赤丸浅井神社」が「大伴氏の祖先神」の祭神「高皇産霊神」を祀っている所から、大伴氏との何等かの繋がりが推測できる。「石川朝臣広成」は「内舎人」として「恭仁京」に赴任した時に歌った歌が「万葉集」に掲載されており、この時に大伴家持も「内舎人」として「恭仁京」にいたらしい。「高皇産霊神」は皇室の守神として重要な神でも在った事から、この時の二人の関係から、「大伴家持」が「国司」として越中国国府(高岡市伏木)に赴任していた時に、石川朝臣広成は「赤丸浅井神社」を再建して、古来、祀られていた「八河江比売神」と併せて「高皇産霊神」を祭神とした可能性が高い。大伴家持の後にも石川一族が越中国司として着任しており、位置的にも赤丸村は越中国府の少し小矢部川上流に当たり、国府と赤丸村は密接だったと考えられる。赤丸浅井神社の神域の「國吉名」には「須加山」があり、大伴家持はこの「須加山」を越えて可愛がっていた鷹が飛び去った事を歌っている。
又、「二上射水神社」の祭神は男神の「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」である。赤丸浅井神社には「八河江比売神(ヤガワエヒメ)」、「高皇産霊神」の二神を主神として、この妻の「木花咲夜比売(コノハナサクヤヒメ)」も祀られている。すぐ近くの延喜式内社のこの二社に、夫婦の神が祀られている事はこの二社の関係性を推測させる。





■元埼玉県立博物館館長金井塚良一氏が「古代びと野望のあと」※集英社 に発表されていた埼玉県行田市の「稲荷山古墳」(五世紀こう)についての著作の中で、この古墳から発掘された「辛亥名鉄剣」について説明されている。その銘文には「辛亥年七月中記乎獲居臣」(※オワケノオミ) から始まる115文字が刻まれている。銘文によれば、「乎獲居臣」は「上祖意富比垝」(※カミオヤオオヒコ) から数えて八代目に当たり、代々「杖刀人首」として大王に近侍した豪族の出身であったと云う。地元ではこの人物を北武蔵の豪族とする説や畿内の豪族かの論争も有ったようであるが、この銘文から「ヤマト政権のワカタケル大王の親衛軍の長」と解釈された人物がこの鉄剣の所有者であったと考えられている。この時代について書かれた物語が越中にも有り、富山藩士野崎伝助とその孫の雅明による江戸時代中期の作と云われる「喚起泉達録」、「肯搆泉達録」が有る。富山県郷土史会からはこの両本を整理して「富山古事記 越の大乱」とタイトルが付けられた本が平成十六年に発行されている。埼玉県の史跡から出土した刀剣の銘と富山県の古書のこの二誌に共通する内容が有り、興味深い。
稲荷山古墳の有る埼玉古墳群は利根川と荒川の間の台地に分布し、九基の前方後円墳が有るが、この中でも六世紀初頭と考えられる稲荷山古墳が最も古いと考えられている。

◎先ず、稲荷山古墳出土の「辛亥名鉄剣」の銘文について調べてみる。(写真参照)
① 「辛亥の七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハチヒ。」
②「其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来たり今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。」

◎「肯搆泉達録」の記載。
・崇神天皇即位十年癸丑、詔有りて、四道将軍を定め給い、諸州を治めしむ。北陸へは大彦命下向し、先ず若狭へ至り給う。大彦命越中に至り給い、伊豆部山の下、杉野に玉趾を留め給う。------豊生彦 トヨナリヒコ 居し所を三室郷(大山町上滝付近)と云う。---豊生彦の後、寿永年中、侍となり、五十嵐小豊治と云う。(✳「五十嵐小豊治」は「吾妻鑑」に越中国吉名の領主として記載されている。加賀藩政の時代に富山県高岡市立野に住まいした「五十嵐小豊次」は国吉、立野、石堤地域を管轄した「十村役」を勤めており国学者として著名な「五十嵐篤好」の墓は「高岡市東五位小学校」の入口に在る。新潟県に五十嵐神社が有り、この地が五十嵐氏の故地で、承久の乱で手柄をたてて越中国吉名を鎌倉幕府から知行されたが北条氏が横取りした為、裁判が行われて五十嵐氏が勝利した事が記載されている。
✳「吾妻鑑 1239年5月2日」 五十嵐小豊次太郎惟重と北条朝時の家臣小見左衛門尉親家 が五十嵐氏が承久の乱で功名をあげて恩賞として賜った国吉名について争論した事が記載されている。)

・「崇神天皇の御宇、越の国阿彦という者を平らげて罷れ」と大若子命に詔して、標剣を賜ったとされる。

■⇒ここに出てくる「大彦命」は、古事記では「孝霊天皇→孝元天皇→大比古命」となり、弟に「開花天皇」と武内宿禰の祖先の「比古布都押之命」がいる。一方、「孝霊天皇→日古刺肩別命→高志の利波臣」となり、「大彦命」と「高志の利波臣」は従兄弟となる。「高志の利波臣」は越中に領土を賜って、石黒氏の祖先になったとされる。赤丸城ケ平の近くの「赤丸浅井城」については、「富山県西礪波郡役所」が発行した「富山県西礪波紀要」に「利波臣は累世此地方を領して此處に居館せり。」(※「続日本紀中越史料雑纂」)との記載がある。
一方、富山県の古記録の「肯搆泉達録」に記載される「大若子命」は「福井県史」に引用されている「越中石黒系図」では「武内宿彌」の末子とし、「大若子命」は伊勢神宮の外宮の神官の度会(わたらい)氏の祖先神とされる。こう見てくると「高志の国」は「大彦命」と「大若子宿彌」の二回にわたり、一回目は「蝦夷討伐の為に大彦が派遣」され、二回目は「高志の国阿彦の討伐の為に大若子宿彌が派遣」されている。「大若子命」は福井県史の「石黒氏系図」では、「蘇我石川宿彌」の兄弟の「武内宿彌」を祖先とするとされ、「大若子命」の三代後の「波利古臣」を「利波臣」の祖先としている。

この二つの比較では、越中についての記載の裏付けが乏しく、歴史的な検証は難しい。しかし、高岡市の赤丸村や加茂村等にも稲荷山古墳と時を近くする古墳が存在し、発掘により多くの鉄剣、人骨が出土しており、この出土刀剣と比較してみるとほぼ近い時期のものに見える。赤丸では、特に出土品の中に「頭椎太刀」という貴人が持ったと推定される太刀の一部も出土している。肯搆泉達録に記載されている「オホヒコ」について、稲荷山古墳出土の刀剣銘にも「オホヒコ」の名前が実際に刻まれている。高志の国に派遣された「大彦命」の足跡を稲荷山古墳の出土した太刀から垣間見る事ができる。

■ ※偽書とも言われる「肯搆泉達録」に記載の「豊生彦」の末裔が「五十嵐小豊次」で五位庄を長く治めていたとされる事から、この「頭椎太刀」も「豊生彦」所縁の刀剣なのだろうか? 古代のロマンである。「吾妻鏡」に拠ると「五十嵐氏」は新潟県の豪族で「承久の乱」の恩賞として「国吉名」を幕府から与えられたとされる。果たして真実は何処に?

■稲荷山古墳の調査・研究に比べて何と富山県の史跡調査がいい加減なものかを痛感する。赤丸村や加茂村から出土した品は地元民から東京の研究施設に贈られたまま、一部の出土品を除いて現地の人達は見た事も無い状況であり、一級の出土品が有りながら、地元での研究調査も行われないままに放置されてきている。正に無知な人達が貴重な出土品を東京に運び去られるまま「出土した事」だけを自慢にしているだけで、可惜、重要文化財を捨て去ったのである。
※一部の人骨・発掘物は高岡市福岡歴史民俗資料館に保管されている。


応仁天皇」は各地の「八幡社」の祭神であり赤丸浅井神社の末社にも「舞谷八幡宮」がある。







■五十嵐氏の祖先は越後の五十嵐神社に祀られる五十嵐氏とされ、「承久の乱」で戦功あり、鎌倉幕府から越中国国吉名を与えられた事が「吾妻鏡」に記載される。五十嵐氏は加賀藩の時に「十村役」として国吉、立野、石堤等を治めた。五十嵐氏の五十嵐篤好は著名な国学者で、その墓は現在、高岡市立東五位小学校の門前に在る。

🌋🌻【 ブログバトン】に見られる 九州と富山県に残る【開一族】⇒【西郷隆盛】と同じ【肥後菊池氏】の末裔(※「続群書類従」)?

2018-07-10 | 富山県高岡市
●「富山県」と九州地区に殆どが残る【開一族】のルーツ?
南北朝時代に南朝の忠臣として戦った肥後菊池氏の末裔は、越中の氷見阿尾城を拠点とし、その末裔の菊池氏は加賀藩に重臣として仕えた。氷見阿尾城に在った「榊葉神社」は「前田利家」によって金沢に勘請されて、高岡市海老坂に在った「物部神社」と共に金沢市の「尾山神社」に祀られている。
南北朝時代に、越中でも南朝の支援勢力の強かった越中西部の地域は、不思議にも、同じく南朝支援勢力で在った九州の肥後熊本と歴史的に密接な関係が在り、特に、全国的に見ても、この二ツの地域にはほぼ大半の【開 ヒラキ】と名乗る一族が住み着いている。
「ブログバトン」には、興味深いやり取りが在る。

■鎌倉時代に、九州の「肥後人吉荘」の地頭を勤めた『相良頼俊(※沙弥迎蓮)』は、天皇家庄園で【京都蓮華王院三十三間堂】の庄園に成っていた【越中吉岡庄】(※富山県高岡市福岡町赤丸周辺)の統治を行っていた。
(※「東大寺文書」・「相良家文書」・「岐阜県史」)








■戦国時代には、肥後の名族で藤原氏の【菊池氏】は、同族争いの結果、越中国氷見郡に逃れ、氷見阿尾城を構えた。阿尾城の菊池氏は「前田利家」との争いの時に「佐々成政」を裏切り、利家と内通し、後にはその養子の菊池大学は加賀藩に仕えた。又、越中半国を知行されていた「佐々成政」は「豊臣秀吉」に越中から肥後への転封を命ぜられた。この時に、佐々成政に味方した高岡市守山城の「神保氏張」は、成政と共に肥後に赴いた。この時に成政に従った越中の諸将も肥後に同行したと見られる。







・南北朝時代末期に「越中吉岡庄」は「越中五位庄」に改名されたと云う。(※「宝永誌」、「東寺百合文書」)

■南北朝時代に、「五位の庄」で戦闘の結果、亡く成ったと云う足利一族の「桃井直常」の孫の「幸若丸」が編み出した「幸若舞」は、明治維新迄「赤丸村」に伝わった。全国の武将に広まっていた「幸若舞」は、明治維新で保護した大名が無くなった為に断絶して、唯一、福岡県みやま市のみに伝わっていた。「幸若舞」は「織田信長」が愛唱した「敦盛」で有名だ。「織田信長」の妹は高岡市の「守山城城主 神保氏張」の妻と成っている。
この様に九州の「菊池市周辺」と越中国の「吉岡庄」との関係も深く、氷見阿尾城の肥後菊池氏末裔は「一時期、赤丸村を占領した」と「越中志徴」(※加賀藩士森田柿園著)に記されており、何と、この「菊池氏」の一族?とも見られる越中の「開一族」が、この福岡県みやま市や阿蘇市に住み着いたらしいと云う。この姓は富山県と九州地区南部にその殆どが住み着いており、最近、九州の「開姓」の方々から、「開一族は元々は肥後菊池氏の一族か家臣で、南北朝の時に活躍した菊池千本槍の中に著名な槍の名手がおり、某神社に祀られてその掛軸も在ると云う。」と御連絡を頂いている。







■では、何故九州と越中にしか「開姓」が無いのか?
この一族は、一度は、南朝の忠臣の菊池氏に従って肥後から越中に入り、その後、再び、佐々氏に従って越中から九州に向かった事が推定できる。現在の氷見市と隣接した「越中吉岡庄」(※延喜式内社赤丸浅井神社を郷社とした富山県高岡市福岡町赤丸村周辺の天皇家庄園)は南北朝時代迄、皇室庄園で在り、南北朝時代には【後醍醐天皇】の庄園で在り、皇子の【宗良親王】も「赤丸浅井城」に進駐されたと伝わる「南朝の牙城」で在った。



■南朝で使用された「金地に赤丸」の軍配


■「南朝の牙城」の「越中吉岡庄」⇒後に「五位庄赤丸村」


◆【後醍醐天皇】が目指された「天皇親政」を実現すべく、「明治維新」が進められた。幕末に活躍した【西郷隆盛】の一族「西郷氏」は、【肥後菊池氏系図】(※「続群書類従」)では、この菊池氏に見られる。



■【菊池系図】(※「続群書類従」)


・「肥後菊池系図」に見られる「西郷」


・菊池一族は「後醍醐天皇の女御」を輩出している。


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🔷🔷【Yahoo.ブログバトン「開姓」】より

●九州の福岡に開駅があります。開関連。(※) http://ekinavi.jp/s/fukuoka/
2011/6/3(金) 午前 7:16
●開一族の痕跡が有る開発地には「〇〇新開」「〇〇開」と名前が付けられている。
「開発地にちなんだ姓」と苗字辞典にかれていた。古文書でも有ればルーツがもっとハッキリするんですが------
2013/10/10(木) 午後 11:52
●名古屋市在住の開です!両親も名古屋在住ですが出身は熊本県阿蘇郡です
2014/3/17(月) 午前 7:21
●私の旧姓も開です。京都に住んでいましたが、田舎は富山です。祖父の代
まで土地持ちだった様です。土地を開いたからこう言う名字だと聞いたきがします。
2014/8/9(土) 午後 9:07
●現在は九州の「みやま市」に合併された「開村」が有ったようです。「開村史」参照
2014/8/10(日) 午後 0:34
●東京に実家をもつ開です。
ご先祖様が富山県から明治維新の頃に東京に来たと聞いています。
ウチの親戚だけで東京に3軒あります。
他人様では、東京で二人の開さんとお会いしました。お一方は九州出身といってましたね。
2015/3/11(水) 午後 9:56
● 私は、熊本県菊池市に名前の由来を表す一族のものです。この開の苗字はさかのぼる事600余年南北朝の戦いに、菊池一族の家臣で、槍の使い手として、絵巻物に登場していますが、私もかなり歳を重ねて来ましたので、記憶が途切れてきましたが、ある菊池の小さなお堂にその絵巻物が、飾られていた様に思います。私は現在は阿蘇郡に在住しています。
2015/6/3(水) 午前 1:57
●菊地氏は富山県の氷見市に在った阿尾城の城主で九州の菊地氏の末裔と聞きます。能登畠山氏に従いましたが、その後、前田利家の家臣に成り金沢に移ります。この氷見市近くの高岡市に圧倒的に開姓が多く、上杉謙信、佐々成政に従ってついには佐々成政と九州に動いたという話が有ります。みやま市に昔、開村が在ったと聞き「開村誌」も入手しましたがはっきり分かりません。上杉謙信の下で500石を受けて富山県常願寺の治水に当たり、工事区域に神社を建てて門の中に鳥居を書く「開姓」を賜ったとも聞きます。上杉家臣名簿にも無く、「みやま市」に手掛かりが無いかな?と思います。越中の吉岡庄も一時期、氷見の菊地氏の所領でしたが、この庄園は後醍醐天皇の庄園で後醍醐天皇の冠の太陽から「赤丸村」と呼ばれた南朝の牙城の村が現在も有ります。この辺りに「開」が多く、富山と高岡市、それと州にしか「開」は有りません。更に御教示下さい。
2015/11/3(火) 午後 10:49
●菊池氏の子孫は越中の氷見市に在った「阿尾城」の城主で、一時期、高岡市の一部も所領にしていました。氷見の興福寺庄園の地頭八代氏を頼って菊池市から越中に来たとされ、佐々成政に従い、その後は加賀藩前田利家に城と神社を引渡し家臣になりました。金沢の尾山神社はその神社を祀っています。その子孫の菊池大学は加賀藩で活躍しました。この菊池氏は赤丸村に在った浅井城に在城された南朝の宗良親王の家臣と思われます。開姓が九州の菊池市をルーツにしているとすれば大変な発見です。ぜひその神社探したいものです。
2016/1/2(土) 午前 11:38
●自分の苗字も開です。東京在住で今まで同じ苗字の方にお会いしたことがなかったので、全国にこんなにたくさん同じ苗字の方がいること、開姓に詳しい方々がいることに驚きます。祖父は四国の土地持ちでしたが、もともとは武士と聞いております。
2016/5/2(月) 午前 10:05
●私が結婚する前に、当時福岡県に住んでいたときの話でしたが、その後仕事の関係で熊本は阿蘇に在住していますので、平成28年4月14日~16日の熊本地震で被災しましたが、現在元気なうちにもう一度開家のルーツの示された絵巻の在る小さなお堂を探して写真を撮っておきたいと思います。
2017/1/13(金) 午後 9:57
● 熊本地震で被災され大変御苦労されている事と存じます。改めて御見舞い申し上げます。開姓は越中と肥後に多いのですが、佐々成政は越中から肥後へ転封され、鎌倉時代には人吉の相良氏が越中吉岡庄を頼朝から与えられ地頭に成ります。菊池氏の菊池武勝は流浪して越中氷見に阿尾城を構え、ついには織田、前田に仕えています。肥後と越中はどういう訳か何回も交流が有ります。高岡市の越中吉岡庄(五位庄)は一時期、菊池氏の所領に成っています。是非、伝説の巻物に在る武将開氏について知りたいものです。因みに富山県高岡市の「吉岡庄」は菊池市と同様に南朝勢力で後醍醐天皇の庄園でした。
2017/4/29(土) 午後 9:35

🔷🔹皇室所縁の『衆徳山総持寺』の 「国指定重要文化財木造千手観音座像 御開帳」⇒ [富山県高岡市関町]( 毎年11月15日)!!

2018-07-03 | 富山県高岡市


■「正平八年 御入」と胎内に記載される事からこの仏像は南朝ゆかりの「千手観音座像」とされ、胎内には「金剛位理乘 本願聖人」(※後鳥羽上皇法名)、「藤原浄円 大檀那」(※鎌倉幕府評定衆 斎藤長定入道)、「仏所 幸賀 大仏師」(※慶派)、「同 頼真 小仏師」等の鎌倉時代の人物の署名や、南朝の護持僧として著名な高野山近くの「河内金剛寺 禅恵」等の南朝関係者や「摩尼徳丸」(※寺の経理を担当した従者)、公卿、武将、「石熊女」・「亀松女」等の白拍子、数多くの「時宗」の僧等の署名が在り、その範囲は広範囲にのぼる。

◆「総持寺」は元々、後醍醐天皇の庄園の「吉岡庄(赤丸村)」に在ったが、室町時代の応永年間に移動したと伝わる。