赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

💠🔹「二つの足利義満像」⇒「相国寺」・「鹿苑寺」に遺されている二つの足利義満像!!

2018-05-31 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「足利義満像」全く異なる二つの足利義満像

■「相国寺蔵」



■「鹿苑寺蔵」


⇒天皇になろうとした将軍と伝えられる「足利義満」は若い頃の肖像では悲しげな自信のなさそうな姿で「相国寺」に遺されている。「義満」は亡くなる二年前に室の業子を亡くして、その追善料として「越中五位庄」を「相国寺」に寄進している。この悲しげな風情はどんな時の肖像だろうか?
一方、権力を掌握して金閣寺を創建した義満は自信に満ち溢れている。



🌸富山県西山一帯の『吉岡庄』(★五位庄)の旧跡地域⇒ 鳥倉村~加茂村~馬場村吉岡谷~極楽谷~加茂宮跡~赤丸浅井城跡~赤丸浅井神社

2018-05-31 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■『越中五位庄』の前身は『越中吉岡庄』と云う藤原摂関家、後白河上皇、後鳥羽上皇、後醍醐天皇等の皇族・貴族等を庄園で、その間には「京都上賀茂神社」・「蓮華王院領三十三間堂」 ・「京都下鴨神社」 等の庄園として寄進され、南北朝後期に「五位庄」となった後には「室町幕府三代将軍足利義満」により「京都相国寺」(※金閣寺)や足利家菩提寺の「等持寺」、「等持院」の庄園として続いた。「赤丸浅井神社」には「宮様、京都のみやびをこの地に移され…」と伝承されているが、「越中吉岡庄」には、赤丸村の両部神道「川人山鞍馬寺七坊」を中心として「七の神社」「48の寺坊」がこの山並み一帯に立地していたと伝わる。

■富山県の西山の麓一帯に広がった『越中吉岡庄』には、『延喜式内社赤丸浅井神社由緒』に見られる「上加茂社」や「下加茂社」が在った。「上加茂社」は現在の加茂村超願寺の位置に在り、現在は鳥倉村の「鳥倉八幡宮」に合祀されている。
「下加茂社」は「吉岡谷」の隣地の「加茂宮」と言う場所に在ったが、現在は舞谷村の「舞谷八幡宮」に合祀されている。
「越中吉岡庄」は「白河天皇」の時に京都の「上賀茂神社」の庄園と成り、南北朝末期には「下鴨神社」の庄園になったと言う。
赤丸城ケ平山の麓の「舞谷村」は「下加茂社」に奉納する舞を舞う為の「舞屋」が在った事から「舞谷村」になったと伝わっている。
「吉岡谷」には「吉岡西砦」「吉岡東砦」が在り、鎌倉時代に地頭の「吉岡成佐」の屋敷が在ったと推定されている。福岡町大滝村もこの「吉岡成佐」 が開発した地域だと伝わっている。(※「木舟城古今誌」)
この「吉岡成佐」が、「後白河上皇」の「後院領」の「越中吉岡庄」の地頭で在ったが、不作の為に庄園の収穫を「後院」に納めなかったとして、後白河上皇から源頼朝に「何とかしろ!」との書状が届き、頼朝は早急に交替させる旨、上皇に回答している。(※「吾妻鏡」)










■『加賀藩参勤交代道中絵図』より








































吉岡谷に咲きほこる秋明菊











🔴📃 足利一門「斯波氏」の越中、越前、信濃守護時代!!

2018-05-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

●古書「古代御武将」に見られる「足利尊氏」一門で家臣の「管領斯波一門」の北陸での知行!!

■「斯波高経」とその子「斯波義将」の北陸での知行。
・『斯波高経』 1336.6~1354.1[越前守護]
1339.3~1341.4[若狭守護]

・『斯波義将』 1361.9~1366.8「越中守護」
1368.2~1379.11[越中守護]
※『二宮信濃入道円阿』1370.4~1376.7「砺波郡司」
→砺波郡五位庄加茂城に関する「二宮円阿軍忠状」が在る。
1380.7~1396.3[越前守護]
1387.9~1399.4[信濃守護]
1401.2~1402.5[信濃守護]

★尾張織田氏は守護斯波氏の守護代家で、越前織田庄「剣神社」の神官家の末裔。




📙📘📖 「信西」の孫『小督』の妹は「長谷部信連」の妻⇒「長氏」と「五位庄赤丸村」!!

2018-05-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸







■「平家物語」の冒頭を飾る「長谷部信連」は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将で能登の国人長氏の祖である。
長谷部信連は胆勇を誇った人物で滝口武者として強盗を捕らえた功績により左兵衛尉に任ぜられ、後に後白河上皇の皇子の以仁王に仕えた。治承4年(1180年)に以仁王は源頼政と謀って平氏追討の計画を進めていたが、計画が発覚した時、長谷部信連は以仁王を三井寺に逃がし、検非違使の討手に単身で立ち向かった。奮戦するも検非違使の源光長に捕らえられ、後に平宗盛に詰問されるが屈する事なく、以仁王の行方をもらそうとしなかった。『平家物語』巻第4「信連」に拠れば平清盛はその勇烈を賞して信連を伯耆国日野郡に流した。平家滅亡後、源頼朝は以仁王の遺臣の信連を安芸国検非違使所に補し、能登国珠洲郡大家荘を与えた。信連の子孫は能登の国人として存続し、長氏と称し能登畠山氏、加賀前田氏に仕えた。加賀前田家に仕えて後は知行所として越中国五位庄赤丸村を与えられた。(※「吾妻鏡」、「小矢部市史」)
越中国五位庄赤丸村は保元の乱[平安時代末期の保元元年(1156年)7月)]の前は藤原摂関家藤原氏長者藤原頼長の所領の「越中吉岡庄」であったが、後白河上皇と信西の企てで藤原頼長は崇徳上皇をお守りして戦う事になり、敗北して崇徳上皇は恨みを残して讃岐に配流され、藤原頼長は首に流れ矢を受けて父の忠実に助けを求めるも拒否されて失望の中に亡くなった。「越中吉岡庄」は直ちに没官されて後白河上皇の「後院領」になった。(※「平範記」)

■知恵者の信西は巧みに悪左夫と呼ばれた藤原頼長を追いつめて乱に至ったと云われるが、元々信西も鳥羽天皇、崇徳天皇にも蔵人として仕えた人物で、藤原家から高階家に養子に入り、高階通憲と名乗っていた。藤原一族の高階家は院の君臣、藤原摂関家の家司として活動した家系であり、鳥羽上皇の時には北面の武士として仕えていた経歴の持ち主である。しかし、実務官僚としての無力感から出家を思い立った時に藤原頼長は通憲の出家を止めようとしていたとも云われ、鳥羽上皇も出家を止めようとしたと云う。しかし、通憲は天養元年(1144年)に出家して「信西」と名乗った。保元元年(1156年)7月に鳥羽法皇が崩御されるとその葬儀を取り仕切り、鳥羽天皇が後継者とした二条天皇を即位させようとする信西は崇徳上皇、藤原頼長と対立して、両者を挙兵に追い込み勝利する。信西はその後は自らの縁者を要職に就けるなど権力を欲しい侭にしたした為、反信西派は平治元年(1159年)12月、清盛が熊野詣に出かけて都に軍事的空白が生じた隙をついて院御所の三条殿を襲撃する。これが平治の乱である。この時、信西は逃亡するも発見されて獄門台に首をさらされた。
信西(高階より復姓して藤原通憲:1106年~1160年)の三男は桜町中納言こと藤原成範(フジワラシゲノリ)で、その娘「小督局」は初め清盛の娘である建礼門院徳子の紹介で宮中に上がったが、高倉天皇は中宮の徳子よりも小督局を寵愛するようになり、清盛は怒って宮中から追い出してしまう。この小督の物語は『平家物語巻六』に登場する他、有名な能の『小督』にも登場する。『小督』は高倉天皇の寵愛を受けて範子内親王を生んでおり、その直後に出家したとされる。同じく藤原成範のもう一人の娘は「長新大夫信連室=長谷部信連」の妻であったとされる。何と信西の血脈は長谷部氏により能登、越中に伝わっていた事になる。[吾妻鏡30巻文暦2年(1235)6月29日条には長谷部信連の子の長谷部朝連(三郎左衛門尉)の記載がある。]
富山県小矢部市岡の「法性寺」は越中石黒氏の所縁のお寺としても名高いが、この寺の住職は代々、能登の国人長谷部氏の末裔の「長一族」初瀬部氏である。又、この寺からは五位庄石堤村の「長光寺」との養子縁組が古くから行われ、現在の住職も「法性寺」からの養子縁組である。「法性寺」も「長光寺」も浄土真宗の古刹で加賀一向一揆の拠点になったと云われ、「長光寺」は越中吉岡庄(南北朝以前の五位庄)の地頭をしたと古書に伝わる「小田(織田)氏知」が開いた寺と云われる古い寺院である。五位庄のこの地に古くから越中・能登の領主畠山氏の家臣でもあった長氏の勢力も浸透していたものか、この地には意外に長氏の痕跡が残る。
しかも、「歴史は巡る」という事か、その昔は「保元の乱」で敵対した藤原氏長者の藤原頼長領であった「越中吉岡庄」はその後の加賀藩時代には、敵対した「信西」の子孫所縁の能登国人長谷部氏の末裔の長九郎佐衞門が知行地とし、長谷部氏の子孫が今も尚、五位庄の多くの信徒を抱える浄土真宗の古刹の住職になっている事に断ち切れぬ歴史の因果が感じられるのである。






💠🔹🔸 室町幕府足利将軍家菩提寺領 『越中五位庄』⇒「相国寺」、「等持院」、「等持寺」の庄園で在った「越中五位庄」!!

2018-05-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸













●『越中五位庄』の記録!!
⇒「室町幕府第三代将軍足利義満」が「相国寺」(※「鹿苑寺金閣」)に寄進した後も足利家菩提寺の「等持院」・「等持寺」の庄園として続いた越中の庄園。

■「万山編年精要」(※「万年編年精要」、「相国考記」)(応永12年7月11日条;1405年)には、「足利義満」が日野夫人の追善料として「五位庄」を京都相国寺に寄進した事が記載される。(※「富山県史 中世」)
義満が相国寺に寄進する前は、「斯波氏」の所領であった事が永和二年(※1376年)の「越中守護斯波義将内書案」に見られ、(応永20年;1413年)3月18日付の「斯波義郷奉行やなた某書状案」(※東寺百合文書)により斯波義郷が奉行で在った事が判る。後の、応永22年(1415年)10月には「足利義持」が「五位庄」の半分を「京都等持院」に寄進した事が富山県史中世編に記載されている。
(※足利義持御判御教書案・等持院常住記録)
















🔴 藤原氏(道長→頼長)、皇室(元正→後醍醐)、源氏(鎌倉 源頼朝→室町 足利義満)と「越中吉岡庄」 !!

2018-05-30 | 富山県高岡市福岡町赤丸村

■元、赤丸村に在り、現在は高岡駅南に移転している「天景寺」にも源氏の家紋「笹竜胆」が用いられており、「五位庄」と「源氏」の関わりが推測される。

■富山県高岡市福岡町赤丸村の「赤丸浅井神社」は「元正天皇二宮創建」と伝わり、一条天皇の時に勅使として「川原左京」(河原町の左京大夫→一条天皇の叔父藤原道長)が赤丸浅井神社に遣わされて「勅使桜」をお手植えされたと云う。(※「赤丸浅井神社三社誌」) 白河天皇の時に「越中吉岡庄」として「上賀茂神社」の庄園となり、崇徳天皇の時には藤原摂関家藤原頼長の庄園となっていた。「保元の乱」で敗れた頼長の庄園は後白河上皇の庄園「後院領」となり、その後も後鳥羽上皇から後醍醐天皇迄皇室領として伝領した。上賀茂社領、藤原摂関家領、後白河上皇領(蓮華王院領)~後醍醐天皇領、下賀茂社領、斯波氏領、足利氏領(相国寺領)と変遷した「越中吉岡庄」「五位庄」は、皇室、藤原氏、時の政権等の超一流の支配者により所領とされた 越中では珍しい歴史を持つ。「越中吉岡庄」の「赤丸浅井城」を築城したと伝わる石黒氏は、聖武天皇が東大寺大仏を造営した時に、その祖先が多額の寄付をして大仏造立に貢献した「利波臣志留志」と云われ、現在も尚、東大寺お水取り行事では必ず「利波臣志留志」の名前が過去帳の中で読み上げられる位に著名な人物である。古書には、[赤丸浅井城は、当初、元正天皇二宮の居城となり、その後、利波臣志留志の子孫が累代居城とした。]と記載され、歴史的には福岡町の「木舟城」に石黒氏が入る前から赤丸浅井城は石黒氏の居城だった様である。「木船城古今誌」には、「大竹*大滝 地区は吉岡成佐が開発した。」と記載されている事から、源頼朝が越中吉岡庄の地頭として吉岡成佐を配置した時期に、大滝地区が開発された事が判る。 天皇復権を目指した南朝の後醍醐天皇(石黒、桃井)の後は足利室町幕府(斯波、中山)の支配地となり、「五位庄」と名称が変わって、足利氏の影響下では「相国寺、等持寺、等持院」と著名な寺院の所領となった。その後、畠山氏、上杉謙信(神保氏張、寺嶋牛介)、佐々成政、前田利家と支配者は変わるが、いつの時代にも、良質の米を大量に産して、越中と能登、加賀との要衝に当たり、石黒氏の拠点として発達した福光町と河口の伏木港の中継点として、庄川と小矢部川の合流点として小矢部川水系の水運でも赤丸地区は重要な地域で在った。前田利家が氷見阿尾城の菊地氏を懐柔する時も、「赤丸事は富田治部佐衛門に相談して決めたら良い。」(*「越中志微」)と、特に赤丸村の差配について菊地氏に条件を出している。加賀藩になってからも、赤丸村は加賀藩の重臣の長九郎佐衛門や前田家の親族の知行地となっていた。

・応永12年(1405)足利義満により五位庄は室日野業子(ナリコ)(定心院)の追善料として京都相国寺に寄進される。
  ---足利義満は「日本国王」と名乗り、その妻日野業子は天皇の准母(名目上の母)となり、義満の子義嗣は親王と同等の格式を許されたと云う。皇室領に準じて日野業子の追善料として京都相国寺に寄進されたものか?  金閣寺は相国寺の塔頭寺院の一つであり、舎利殿「金閣」が著名な為「鹿苑寺」は「金閣寺」と呼ばれている。

・応永22年(1415年)足利義持により五位庄の半分が足利氏菩提寺の等持院(京都市左京区)に寄進され下地は守護畠山満家に預け置かれた。(※「福岡町史」、「等持院常住記録」)

■こうして表面的な歴史を見ると判らないが、実はこの「日野氏」は京都伏見の日野の里を本拠とする「藤原鎌足の子孫」であり、バリバリの藤原氏である。JR京都駅を挟んで二条城等の北部に対して、南部の山裾に広がる京都伏見日野には、日野氏歴代の菩提寺の「法界寺」が在る。この寺には足利義政の妻で応仁の乱を起こした張本人の「日野富子」の廟所がある。この古刹は「日野薬師」と呼ばれ、「薬師如来」と「阿弥陀如来」を祀っている。藤原氏長者の元荘園の五位庄の半分が京都相国寺に寄進された背景も日野氏と藤原氏の関係が背景にあった為だろうか?

■「法界寺」は浄土真宗の開祖「親鸞」が産まれた場所で、「日野資成」から4代目の「日野有範」と「吉光女」(※キッコウニョ。清和源氏八幡太郎義家の孫娘、源義朝の娘とも伝わる) の子供が浄土真宗の開祖「親鸞」(※幼名松若丸) で有る。「親鸞」は幼くして両親を亡くした為、9歳の時(1181年)、叔父の日野範綱卿に伴われて知恩院近くの京都東山に在る天台宗青蓮院(天台宗比叡山延暦寺の三門跡寺院の一つ)に出向き出家得度をされた。青蓮院は「藤原師実の子の行玄大僧正」を第一世の門主とする寺院で、その後も門主は皇族か五摂家の子弟に限られる名門寺院である。この寺院の三代目門主が「藤原兼実」の弟で「愚管抄」を書いた「慈円」で有る。慈円は、当時まだ新興宗教であった浄土宗の祖法然上人や、浄土真宗の祖親鸞聖人にも理解を示し、延暦寺の抑圧から庇護した為、現在でも青蓮院は浄土真宗との関係は深い。浄土真宗の祖親鸞聖人は、慈円門主により得度した為、青蓮院は浄土真宗の聖地の一つともなっている。この寺には親鸞聖人が得度の際に剃髪した髪の毛を祀る植髪堂が境内北側に在る。
この様に見ると、藤原氏の日野氏と源氏の血筋が親鸞には流れており、源氏の足利氏とも密接な関係に有り、親鸞が「阿弥陀如来」を本尊として「浄土真宗」を興した事のルーツも判る。

■源氏の時、後白河上皇の後院領吉岡庄に源頼朝が地頭の「吉岡成佐」を配置していた事が「吾妻鑑」に見られる。その後、「吉岡庄」は後醍醐天皇迄、皇室領として続いたが、室町幕府になってからも幕府が直接関わっている。その後、石堤村長光寺を拠点として浄土真宗が五位庄に普及し、一向一揆の際には上杉謙信に立ち向かうために「五位庄」に集結している。又、加賀藩士 森田柿園著の「越中志徴」には「五位庄浅井城には一向一揆の指導者の下間頼竜が居城した」とも記載されており、一時期には赤丸村の浅井城は浄土真宗の牙城で在ったらしい。元、五位庄赤丸村に有り、現在は高岡市の瑞龍寺近くに移転している「天景寺」は現在、金沢に移転している「雲龍寺」※元、五位庄賀茂村 の末寺だが、家紋には「笹竜胆」の源氏の家紋を用いており、「雲龍寺」も当初は後醍醐天皇に味方した播磨の源氏の赤松氏ゆかりの寺と云われる。赤松氏の子孫は「石野」と名乗り、加賀藩に仕えている。

■五位庄は藤原氏を名乗った石黒氏とも関係が深いと思われるが、この様に歴史を追跡すると、平家追討の後は、ずっと「五位庄」は藤原氏や源氏の影響下に有った事が判ってくる。

🔴🏯 越中吉岡庄・五位庄の『赤丸浅井城』と『木舟城』⇒『蓑のしずく』から見られる両城の関係!!

2018-05-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


●「赤丸浅井城」と「木舟城」⇒小矢部川流域の「山城」と「平城」!!

■「源平盛衰記」によれば、石黒氏の居城「赤丸浅井城」・「木舟城」は「石黒光景」・「石黒光弘」親子の城で在ったが、この時代には赤丸村も木舟村も、「後白河上皇」の「後院領」と呼ばれた庄園「越中吉岡庄」の中に在った。(※「国立歴史民俗博物館庄園データーベース」・「平範記」)














■「赤丸浅井城」と「木舟城」は何れも「越中石黒氏」の居城で在った。山城の「赤丸浅井城」の鎮守は「延喜式内社赤丸浅井神社」で、越中の古書の「肯搆泉達録」には「この城は浅井神社創建の元正天皇二宮が居城とされ、累代、(利波臣の子孫の)石黒氏が居城とした。」と記載されている。「元正天皇二宮」とは、聖武天皇の弟に当たる「石川朝臣広成」である。一方、「木舟城」は比較的後期に建設されたと見られる「平城」である。「石黒氏の歴史の研究」(※小矢部市図書館)によれば、赤丸浅井城の城主「石黒光景」は「木舟城」の「石黒光弘」の父に当たる。「石黒光景」・「石黒光弘」は何れも「木曽義仲」に従って「源平の戦い」に参戦して、「源平盛衰記」でも富山県朝日町の宮崎党と共に「倶利伽羅谷」や「安宅川」で戦っている。

■郷土史家の故中川幸作氏(高岡市上蓑)は「福岡町史編纂委員」もされた方で、福岡町蓑地区の郷土史を纏めて上下、二巻の「蓑のしずく」を作成された。しかし、この二巻は全て手書き原稿の形のもので、発刊はされていない。
この中には、「木舟城」の調査内容や「貴船神社の御神体のスケッチ」等、中々、目に触れる事が無い記事も多い。
この中で注目されるのは、山城の「赤丸浅井城」と平城の「木舟城」が「木舟川」、「唐又川」で結ばれている事だ。






■赤丸浅井神社の別当は「川人山鞍馬寺」で在り、この寺は京都の「鞍馬寺」を勘請したものだが、京都の「鞍馬寺」は「貴船神社」の神の御託宣で「藤原伊勢人」が創建したものだと云い、この両社は大変密接である。又、「川人山鞍馬寺」の周辺には、京都の「上賀茂神社」や「下鴨神社」を移した舞谷村の「上加茂社」や加茂村の「下加茂社」が在り、その小矢部川支流上流には、京都の「貴船神社」を勘請した「貴船社」が「木舟城」に祀られていた事になる。更に、木舟石黒氏に伝わる「木舟城古今誌」には「吉岡庄の地頭吉岡成佐が大竹村(大滝村)を開発した」と伝わり、何と、赤丸村と馬場村一帯に在ったと伝わる「地頭吉岡成佐の居館」や「吉岡砦」を拠点とした「吉岡成佐が大滝村を開いた。」と伝わっている。この状況から判断されるのは鎌倉時代初期に源頼朝の家臣の「吉岡成佐」が「吉岡庄」の「地頭」で在った時には、既に「木舟城」は「浅井城」の「出城・支城」として在った事が推定される。
「赤丸浅井神社」には「宮様、京都のみやびをこの地に写し………」と伝わり、吉岡庄の古い社寺は京都から勘請されたものと伝わり、京都では「鞍馬寺」、「貴船神社」、「上賀茂神社」、「下鴨神社」は一体として皇室や貴族が信奉した施設で在った事から、庄川下流の「木舟川」~「唐俣川」の沿岸に平城の「木舟城」を開き、山城の本城「浅井城」の出城としたものと見られる。この様に、当初は一体のもので在ったが、足利室町幕府将軍足利義満が「五位庄」を京都の「相国寺」(※「金閣寺」)に寄進し、この時代からこの二つの城は別々の運用になったものと見られるのだ。




■『蓑のしずく』に見られる「木舟城」







🌸📃 【仏舎利信仰の世界】 謎の微笑ー富山県高岡市衆徳山総持寺の『国指定重要文化財木造千手観音座像』と「薬師寺東塔」との関連!?

2018-05-29 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■【舎利】は「釈迦の遺骨」を指し、天皇から「東寺」(※教王護国寺)を賜った「空海」は唐から帰国した時に80粒の遺骨を東寺に伝えたと云う。この「仏舎利」は天皇が勅封をした壷と、東寺長者が管理する壷に分けられて管理されたが、時の権力者は「悲願」を成就するためにこの「仏舎利」の壷を開けさせて「悲願仏」や「堂棟」の基礎に納めた。「五重の塔」等の塔は「仏舎利容器」と同じ性格のもので在り、この小型の「仏舎利容器」は建物の基礎や「仏像」の胎内に奉納された。



■「昭和十一年八月六日 高岡新聞の記事」




■この記事に拠れば、高岡総持寺の千手観音が国宝に指定された当時には既にこの観音像が「天皇」と関係した仏像であると認識されていた事が判る。(註)総持寺は現在は「衆徳山総持寺」というが、創建されたと伝わる時代や皇室領に創建されている事から、これはもしかして「崇徳天皇」所縁の寺で有ったかも知れない? 
当時は南朝顕彰運動が赤丸地区を中心として盛り上がった時期で、謎の天皇の長慶天皇の陵墓確定に宮内省が盛んに赤丸へ来て調査をしていた時期で、河内金剛寺の勤王僧の禅恵の名前がこの千手観音像の胎内銘から見つかった為、長慶天皇の縁の仏で有ろうとして「国宝」に指定された経緯が有る。しかし、この時はそれ以上の胎内銘の調査はされず、解体調査は昭和39年になって行われている。この天皇が長慶天皇で有ろうと考えられ、この仏像は1353年の南北朝時代に「大仏師幸賀」によって造られたとされたのだが、結局、禅恵の時代には大檀那として記名されている「藤原淨円」や「仏師幸賀」は見当たらず、ウヤムヤにされた。この原因はあくまで「南朝の仏」という先入観念が有り、しかも「本願聖人」として首の中央に書かれている「金剛位理卿」の文字を「金剛位理」の法名を根拠に長慶天皇としたのだが、実は鎌倉時代の「後鳥羽上皇」も「金剛理(良然)」であり、まさかこの仏が鎌倉期のものとは考えなかったのであろう。後鳥羽上皇と同年に43歳で亡くなった「藤原淨円」は「斉藤長定入道藤原浄円」という鎌倉時代の人物で鎌倉幕府評定衆に実在し、この時代には平家に焼かれた興福寺の仏を修復した「幸賀」も存在する。(小林剛著作記載) 又、絵仏師と思われる「頼真 小仏師」も筑波大学の資料に見られ、この胎内銘に記載された人物が同時期に存在する。(※「幸賀」については修復仏師で有る事から「絵仏師」であるとされているが、正確に胎内名を調べると「仏所 幸賀 大仏師」とある所から南都絵所所属の絵仏師では無く、慶派の「七条仏所」所属の木仏師と見られる。興福寺の修復仏師「幸賀」についても「絵仏師」とは記載されていない。解読文では「仏師 幸賀」としているものも有り、明らかに誤りである。)
更に、胎内銘に数人の「白拍子」か「遊女」と見られる署名も見られる。「石熊女」「亀松女」等で有る。当時の白拍子は、大阪の淀川河口に在った江口、神崎という地域を本拠としており、後鳥羽上皇自体も3人の子を白拍子との間に設けたと云う。白拍子は単なる遊女では無く、朝廷が管理する非人で有り、有る時は単身赴任の武士の都での妻の役割も担っていたと云う。平清盛の母も実は白拍子だった云われ、源義経の愛妾静御前もその一人である。当時には白拍子の長者に「石熊太郎」という人物が居り、承久の乱の原因にもなった「亀菊」という白拍子も居た。「亀松」については後鳥羽上皇が愛した「菊」の一字を与えて寵愛した白拍子を「亀菊」としたのかも知れない。こうして胎内銘を調べる限りではこの観音像は後鳥羽上皇縁の観音像と考えられ、後鳥羽上皇は「承久の乱」を起こし、不利と見るや味方の大将の藤原秀康を勅命を出して逆賊としたが、この藤原秀康も「能登守」を歴任しており、越中や能登に少なからず縁が有り、あるいは後鳥羽院が実質的に「承久の乱」で殺した忠臣の冥福を祈って造られた仏で在ったかも知れない。後鳥羽上皇の中宮は藤原氏の摂関九条兼実の娘の九条任子[暦仁元年(1238年)崩御。享年66歳]であったが皇子を産めなくて皇室から出た人物である。藤原秀康は北面の武士で有ったが、観音像の胎内に記載された「藤原淨円 大檀那」と記載されている斉藤長定も藤原氏の同族であり、藤原淨円が資金を出して密かに後鳥羽上皇の願いの観音仏を造ったと考えれば筋が通る。「吾妻鑑」に拠れば、藤原浄円は後鳥羽上皇が3月に亡くなると10月には死亡しており、藤原浄円は果たして病気だったのか? 43歳での死は早くないか?
※※「吾妻鏡」の記載→[延應元年(1239年)三月小十七日丁亥。。六波羅使者參著。去二月廿二日。隱岐法皇於遠嶋崩御〔御年六十〕同廿五日奉葬云々。][延應元年(1239年)十月小十一日丁未。天。齋藤左兵衛尉藤原長定法師〔法名淨圓〕皈黄泉〔年四十三〕]

■今迄、これ等の検証は行われず、学者はかたくなに「この仏の顔は能面に似ており南北朝の特徴である」と云い、「衣紋が典型的な南北朝期のもの」と云い、極論は「胎内銘に何が書かれていてもこの仏は南北朝のもの」と云う。しかも、文部省さえも「この仏は南北朝期に造られ、胎内銘の追記も見られず、南北朝期に一気に署名されたもの」として譲らない。確かにこの仏の特徴は「鎌倉期の典型的な仏と異なり、胴体が厚い」という事から南北朝時代の仏と見る意見も有る。しかし、中には「この仏の造り方は古い時代の仏を思わせる」とした書評を載せている記事も有る。
この観音像の胎内に「遍照位襄顕」と読める胎内銘が有る。後鳥羽上皇は法名を「金剛理良然」と云い、長慶天皇は「金剛理覚理」と云う。又、後鳥羽上皇は当初、「顕徳院」と諡されたが、「崇徳院」「安徳院」等の「徳」の字は不吉だとして「後鳥羽院」に替えられたと云う。「顕」の字を天皇の諡に使用したのは唯一後鳥羽院だけで有ると云う。
胎内名の中心には「金剛位理卿」「金剛位理乗 本願聖人」と記載される。「金剛位理乗」の「乗」については学者は「空海」の「海→毎+水」とする解釈が殆どだが、真言宗の宗徒ならこの字は「乗」と解釈するだろう。真言宗の事は別名を「真言乗教」とも呼び、信徒を真言乗衆と呼んだらしい。又、「卿」とは日本では三位以上の公卿を指したが、中国の解釈では「皇帝」を指す様だ。とすれば「金剛位理卿」とは「金剛位理」と言う法名を持つ法王の「後鳥羽上皇」を指している。何故なら、同時に記載されている「藤原浄円 大旦那」については、同年代に生きた鎌倉幕府評定衆の一人の「齋藤左兵衛尉藤原長定法師〔法名淨圓〕」だからである。(✳「仏教語大辞典 東京書籍版」には、「海」は多くの河川が流れ込む場所である事から、様々な衆生の苦しみを受け入れる「僧」を指すと云う。)
顔の胎内に「奉納仏舎利」と2か所に記載され、隣に「粒◼」(木倉豊信氏解読の福岡町史には「粒」と解読)と見られる記載も見られる事から、この観音像は後醍醐天皇と師匠の東寺の文観が仏舎利5粒を施入した河内金剛寺の秘仏で有ったが、南北朝の戦乱を避けてその弟子の禅恵により越中吉岡庄の総持寺に運ばれたものと考えられる。この観音像の胎内仏と云われる鎌倉時代の僧形の仏様が長く総持寺の門徒総代を勤めた池田家に有る。この千手観音像は胎内仏と同じく鎌倉時代に造仏されて、河内金剛寺の摩尼院で住持の持仏として、後鳥羽上皇の祈願仏としてひそかに祀られていたもので、後鳥羽上皇と同じく幕府を懲伏していた後醍醐天皇は、建武二年(1335年)、勅令を出して貴重な空海が唐から持ち帰ったという仏舎利を5粒もこの観音像に納めて、弟子の禅恵に越中に緊急避難させたものと考えられる。この時、禅恵は70歳で有り越中に來る事は無いという学者の推論も有るが、師匠の東寺長者文観や後醍醐天皇の意志が納められたこの千手観音像をその命令で戦乱を避けて無理でも越中に避難させる必要があったとすればその背景も理解できる。河内金剛寺に残る禅恵の「金剛仏子禅恵」の筆跡と衆徳山総持寺の観音像の胎内銘に有る「金剛位禅恵」の筆跡は酷似しており、金剛寺の僧禅恵により越中吉岡庄の総持寺にこの仏像が伝えられた事は間違いでは無いと思われる。歴史の検証は推論や思惑で行ってはならないが、この胎内銘の解読と仏舎利が納められたと推定される白毫部分等のエックス線検査が行われればこの仏の検証は必ず行う事ができると思われる。(昭和39年の解体修理記録には白毫の下に埋木があったと記載されている。この観音像の胎内仏等も調査されていない。)学者の先入観念よりも科学的調査に拠る解明こそこの貴重な観音像にとって待たれる所である。(註)後醍醐天皇が河内金剛寺の住持持仏に東寺の仏舎利5粒を納めた経過は「河内金剛寺の中世的世界 堀内和明著」に詳しい。又、興福寺修復仏師「幸賀」については「日本彫刻史研究 小林剛著」に示されている。
◆平成27年に総持寺でも「仏舎利容器」が2基発見されているが、空海所縁の東寺の仏舎利はすべて仏像の白毫の下に埋められていると伝わる事から、白毫の下の科学的調査が先ず優先されるべきだと考える。これは、河内金剛寺に残る「後醍醐天皇仏舎利施入状」との関連を調べる上では重要だ。





■「公方」は後醍醐天皇の事。天皇は東寺に保管される「空海が唐から持ち帰った80粒の仏舎利」から勅封を解いて2粒を金剛寺に下賜し、併せて東寺長者文観が3粒を納めたとする文書。東寺の仏舎利壷は2つ有り、1つは天皇しか開封できない「勅封」のもの、1つは東寺長者管理の壷で長者は定期的に数を勘定(勘計)して記録していた。
(※「東寺百合文書ー 仏舎利勘計記録」)

■総持寺千手観音像の顔から首筋にかけてその内側には「奉納仏舎利」と2ヶ所に記載されている。最近、総持寺には古い木製の「仏舎利容器」が2基発見されているが、この胎内に納められたものかどうかは確認されていない。


■「正平八年 御入」の記載からこの年1353年にこの仏像は製作されたと云われる。しかし、1335年に仏舎利が納められた金剛寺住持持仏は多くの胎内名の記載と共に1353年に総持寺にもたらされたとは考えられないだろうか? 「富山県史」「高岡市史」「福岡町史」等にはこの胎内名の解読文が載せられているが、何れも正確では無い。昭和39年に富山県教育委員会が解体調査した記録があるが、この仏像の歴史は昭和12年の国宝指定の時の内容(禅恵の署名)以上の調査研究は行われていない。いや、この禅恵についてさえも異論が出て来ているのだ。どの学者の解読も、この仏像が河内金剛寺から後鳥羽上皇の「後院領越中吉岡庄」の「総持寺」に伝わったと言う背景が抜けている為、何れの調査も推論と虚偽が入り込んでいる。平成26年に、「後院領越中吉岡庄」は旧赤丸村を含む「五位庄」の前身であったと「国立歴史民族博物館」のデーターベースで確定している。





■【(註)河内金剛寺:高岡駅南にある総持寺の千手観音像は高野山別院格であった真言宗天野山金剛寺の禅恵が伝えたと云われている。金剛寺は後白河院の第二皇子守覚法親王の時に仁和寺喜多院末(本寺)に編入され、興福寺大乗院門跡(本家)が六代に亘り院主職を兼務した。赤丸浅井神社を中心とした「越中吉岡庄」は後白河上皇の「後院領」で有り、「守覚法親王」は源義経の熱心な支援者であったと云われる。赤丸浅井城の前の「二位の渡し」の「義経記」で平権守が義経を見逃した背景や、後に、河内金剛寺から重要な観音像が赤丸の「観音寺」(※後に「惣持寺」→「高岡山総持寺」→「衆徳山総持寺」)に伝わった背景もここにあったと思われる。この時期には多くの僧兵を抱えた近くの「石動山」も後白河上皇の庄園で「勅願寺」となっている。尚、金剛寺の開基は越中倶利伽羅谷で木曽義仲と戦って戦死した三善(源)貞弘。】


■「奈良薬師寺」は「東大寺」と同じ「法相宗」の寺院で在る。(※東大寺は法相宗他の宗派の教を学ぶ六宗兼学の寺で在る。)
奈良平城京に天平2年(730年)に創建された薬師寺東棟は、2009年からの平成の解体修理(2018年迄の予定)で約110年振りの東塔の解体修理が進められている。この棟が建てられた頃は、724年(養老8年)に元正天皇が上皇となり、聖武天皇が即位されて、729年(天平元年)2人共に29歳になった年に光明子が皇后となっている。薬師寺東棟の解体の時に驚いたニュースが発表されている。それに拠ると、この東棟の心柱の最高部から白布に包まれた「奉納仏舎利」と記載された木箱が発見され、その中から富山県小矢部市岡に在る石黒氏の居城「木舟城」所縁の「宝性寺の仏舎利容器」とソックリな仏舎利容器が出てきている。(この薬師寺の仏舎利は玄奘三蔵が伝えたと云われる仏舎利だと伝わっている。)






◎小矢部市岡の「宝性寺」に伝わる石黒氏所縁?の(或は宝性寺住職先祖の長谷部信連所縁のものか?)「謎の仏舎利容器」。薬師寺東棟から発見された仏舎利容器とソックリだ❗「宝性寺」は高岡市福岡町木舟に在った石黒氏の居城「木舟城下」に在った寺で、石黒氏は「赤丸浅井城」「赤丸城」の城主でもあった。「赤丸城」の至近距離には「総持寺」があったが、「奉納仏舎利」と総持寺の観音像の胎内に記載されている「仏舎利」の行方は不明の様だ。「義経記」には「如意の城」と記載され、解説には「如意の城とは五位の城(石黒氏の赤丸浅井城)の事か?」と記載されている。
■「宝性寺の仏舎利容器」が何故、宝性寺に伝わったかも、製作年代も不明だが、同形の薬師寺の舎利容器は江戸時代の作だと報じられている。尚、宝性寺は元々天台宗であった。薬師寺は興福寺と同じ「法相宗」である。河内金剛寺は長く興福寺から長老を迎えていた寺で仁和寺末の寺で在った。赤丸の「川人山鞍馬寺」は天台宗の「本山派(聖護院派)両部神道」であった。薬師寺東棟が聖武天皇の時に建立され、赤丸浅井神社の創建に聖武天皇の弟の石川朝臣広成が携わったとする由緒も有り、この仏舎利の由来は大きな謎解きの鍵になる。石黒氏は「如意宝珠」(仏舎利)を信仰して名古屋に「如意郷」を開き、「如意城」を築造している。この舎利容器の中に在る仏舎利は米粒位のグレーのもの1つと純白のもの1つが二段に別けて容れてある。
■石黒氏居城の木舟城下には、現在小矢部市に移転している「真言宗観音寺」が在った。この仏舎利容器が加賀藩の時代のものなら、前田氏が木舟城を居城とした時代になる。前田家は総持寺、倶利伽羅長楽寺、上市大岩不動尊等の真言宗寺院も庇護している。仏舎利は真言宗寺院でもよく祀られていた。真言宗寺院は徳川時代迄は妻帯が認められず、一代限りで、又は途中でも交代があった為、寺宝等も売却されたケースもあったと伝わる。明治時代の廃仏毀釈では仏像、仏具、果ては建物迄が売却された。小矢部市の観音寺の建物は倶利伽羅長楽寺の本堂が移されたと云う。この仏舎利容器が元々、宝性寺の宝物なのか他から移されたものかは判らない。又、容器自体は江戸期制作でも、仏舎利自体が何処から伝わったのかも不明である。



■「宝性寺」は代々、能登の名門士族の「長氏」の末裔が住持を努め、浄土真宗の「院家」の格を持った。「宝性寺」は木舟城下から木舟城城主の石黒佐近屋敷跡に移転している。


●建久二年に各神社にも仏舎利を奉納している記録が有り、「銀の容器に入れた小塔(4寸・朴の木・彩色)」に納めてあったと記載されている。




■高岡市瑞龍寺の隣接地の「衆徳山総持寺」には「国指定重要文化財木造千手観音座像」の他にもう一体、重要な仏像がある。それは「薬師如来像」で年代も来歴もはっきりしない古い仏像で、元々この仏は安養坊?と呼ばれたらしい古寺に在ったと聞くが、この厨子は加賀藩の寄贈に拠ると云う。いつこの仏が総持寺に伝わったかも不明だが、総持寺にも薬師寺と同じ薬師信仰が有り、この「薬師如来像」は、総持寺に伝わる由緒では「春日明神の作」とする等、荒唐無稽な部分も有り伝承に拠るものだろう。

■赤丸浅井神社初め、北陸各地に「行基」の伝承が残されている。「行基」の没後、弟子の真成によって記載された行基の墓誌「大僧正舎利瓶記」に「和上、法諱法行、一号 行基、薬師寺沙門也、俗姓高志氏、諱才智、字智法君之長子也、本出於百済王子王爾之後焉、・・・・・」と有り、「行基」は「薬師寺の僧」で有り、「本名は高志」と言い、「百済の王子の末裔」だと云う。




📕📃📖 京都「東寺」(※教王護国寺)に残される越中「五位庄」の記録⇒【東寺百合文書】に残る五位庄との関係!!

2018-05-29 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



■【東寺百合文書】の「おいの庄」(※五位庄)の記録









■「国立歴史民俗博物館」の「庄園データーベース」に「おいの庄」と表示されていた部分は、学会では別の庄園とする意見があり、どの庄園の事かが不明になっていたが、博物館の学芸員が協議して頂いた結果、2016.08.31に正式に「五位庄」のデーターベースとして登録されたとの通知が有りました。
これで、「越中吉岡庄」から「五位庄」に名称が変更された過程の様々な歴史的な文書の解明が進む事になります。

▼【国立歴史民俗博物館の庄園データーベースへの追記事項】
「東寺百合文書」(応永19年)10月17日付二宮信濃入道書状(『富山県史 史料編Ⅱ』576号)によると、斯波義郷(左衛門佐)の所領として見え、東寺造営のための棟別銭が賦課されたことが確認できる。同様の内容が、「東寺百合文書」(応永20年)3月18日付斯波義郷奉行やなた某書状案(『富山県史 史料編Ⅱ』581号)として確認でき、ここでは「五位庄」と見える。ともに東寺造営の棟別銭賦課に関すること、時期が非常に近接していることを勘案すると、「おいの庄」=「五位庄」と判断される。

■「東寺」(※教王護国寺)と「越中五位庄」(※「おいの庄」)の関係が国立歴史民俗博物館によって確認された。
「東寺百合文書」に有る三通の古文書には、室町幕府越中守護畠山満家の時に京都「等持寺、等持院」(※棟頭寺院は金閣寺)の庄園となっていた「五位庄」の「棟別銭」の課税について記されている。

■「東寺」は空海が唐から帰国した後与えられた寺で「教王護国寺」とも呼ばれる。「東寺」には空海が唐から持ち帰った80粒の「仏舎利」が天皇勅封の壺と東寺長者管理の壺に分けて保管されていたが、河内金剛寺に伝わる「後醍醐天皇の勅書」と「東寺長者文観の仏舎利施入状」に拠ると、金剛寺から赤丸村に在った「総持寺」へ伝えられた「千手観音座像」に後醍醐天皇が二粒、文観が三粒の仏舎利を施入されたと伝わり、実際にこの千手観音像の胎内からはこの仏舎利は発見されていないが、仏像の胎内には二ヶ所に「奉納仏舎利」の墨書が残されている。この「東寺」に残されてた「東寺百合文書」に「五位庄」の記載がある文書が残されていた事は、東寺と五位庄の密接な関係を証明するものだろう ❗❗

🌸🏯 越中守山城城主「神保氏張」の妻『織田信長の妹』と徳川政権で手腕を振るった『春日局』(お福)!!

2018-05-29 | 富山県高岡市







■「神保氏張」の妻(織田信長の妹・名前・生年月日不詳)は天正三年(1575年)氏長を産む。氏張(大永八年1528年生まれ)は能登畠山家から神保氏の養子に入り、守山城城主となっていたが天正4年(1576年)上杉謙信に攻められ激怒した信長により妻は離縁させられ京都に流浪。信長の妹がいつ頃どの様な背景で氏張に嫁いだかは、「北越太平記」と云う古書に記載されているが、上杉謙信が神保氏張の兄(※能登畠山義隆の子)を姪の婿としていた為に、織田信長は謙信の怒りを静める為に、その弟の氏張に自分の妹を戦略として嫁がせたとされている。
「信長公記」の初見は天正六年四月に氏張は信長と会見している。同年、天正六年(1578年4月19日)に上杉謙信死去。氏張はこの年佐々成政の与力として信長により越中守山城城主・越中半国二十六万石領主に封じられて越中に派遣されるが、天正九年佐々成政が富山城主となり氏張は天正十年失脚して肥後熊本に流浪する。信長は天正十年(1582年6月21日)本能寺の変で死去。天正十二年(1584年)佐々成政に従って、柴野城の寺嶋牛介、赤丸の中山直治と共に能登末森城の前田利家と戦う。佐々成政は敗れて豊臣秀吉が越中に侵攻すると降伏し、しばらく新川を領有した後、天正十五年(1587年)熊本に転封されると氏張もこれに従う。天正十六年(1588年)佐々成政が秀吉に切腹させられると天正十七年には徳川家康に仕官して以後代々徳川幕府の旗本として存続した。氏張は文禄元年(1592年8月5日)江戸で死去。

(※神保氏張の妻で信長の妹は、神保氏張が上杉謙信に敗れて寺島牛介と共に上杉謙信の家臣となった時には実家に戻ったと見られ、やがて美濃の稲葉一鉄の子の貞通に再嫁して男子三人、女子二人を産み、娘の一人は織田信長の子息の三吉郎信秀に嫁いだと云う。→「織田信長総合辞典」雄山閣 、「上杉家臣名簿」参照)
(※稲葉系図によれば、この信長の妹の母[信秀の妻]は稲葉貞通の娘の玉雲院であったが、信長により離婚させられてからは祖父の稲葉貞通の後妻になっている。 )

🔴🌄🏯 高岡市「赤丸村」 ⇒西山の史跡には年中、極楽浄土を示す様な神秘的な夕焼けが見られる。

2018-05-29 | 富山県高岡市福岡町赤丸村


■長く藤原氏、天皇家、賀茂御祖神社、足利幕府等の庄園で在った「越中吉岡庄」・「越中五位庄」の赤丸村西山の清水観音堂から極楽谷にかけては、年中、神秘的な夕陽が沈む。この一帯には川人山鞍馬寺、浅井神社、浅井城等の奈良時代から続く古い史跡が在り、曾て、辺り一帯には川人山鞍馬寺七坊や浅井神社三社権現、48坊等の寺社が林立して正に極楽浄土を写す地域で在った。








■歴代の庄園領主











■南朝の行在所で在った「河内金剛寺」から黄金の千手観音像が伝えられた「総持寺」(高岡市関町)







🔷💧 「物部氏論考」⇒ 『越中』に残る物部氏族 (※『古代氏族系譜集成』より)

2018-05-29 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■軍事氏族で天皇家と密接な「物部氏」と「神剣」の製作。
「大和国宇陀郡」から来たとされる「宇多刀工」が栄えた「越中吉岡庄」。
(※宇陀郡には神武天皇が入られたと云う。)
「越中吉岡庄」には出雲系の神「八河江比売」と皇室の最高神「正一位 高皇産霊神」を祀った「延喜式内社赤丸浅井神社」が鎮座している。


神武天皇が東征の時に、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった逸話は有名。
(※「日本書紀」)

■日本国の人皇初代神武天皇は、即位前には「神日本磐余彦尊」( カムヤマトイワレヒコノミコト)と云われた。磐余彦尊は東に緑の国がありそこを得たいと思われたが、既に「饒速日命」がそこに入っていた。磐余彦尊は幾度戦っても戦況は思わしくなかった。そこで、天照大御神は武甕槌神と相談して霊剣(布都御魂)を熊野の高倉下に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。剣を手に進軍を再開したが、山路は険しく困難を極めた。そこで、天照大御神は八咫烏(ヤタガラス)を送り道案内とされた。 磐余彦は八咫烏に案内されて、莵田(宇多)の地に入った。磐余彦の前には八十梟帥(ヤソタケル)等の敵軍が充満して進路を阻む。磐余彦は高皇産霊尊が夢枕で指示した様に勝利を祈願した。遂に長髄彦との決戦となり苦戦する。そこへ鵄が現れて磐余彦の弓の先に止まり電撃の様な金色の光を発した為、長髄彦の軍は混乱し磐余彦に敗れた。そこで饒速日命は長髄彦を殺して磐余彦に降伏した。


【※「赤丸浅井神社」は神々を地上に遣わされた皇室の最高神「正一位 高皇産霊尊」を祭神とする。「赤丸浅井神社」を中心とする「越中吉岡庄」は藤原摂関家の長者「藤原頼長」の庄園であった。赤丸村領三日市には「宇多国光」(※本国は大和。 宇陀郡より三日市に移住。古入道という。刀剣は「古宇多」と云う。) を祖とする「宇多派刀工」が工房を構え、南北朝から江戸時代迄栄えたと云う。「宇多刀工」や日本刀は刀鍛冶の祖の「天国アマノクニ」が「八咫烏神社」が鎮座する大和国宇陀郡の神泉で刀を鍛えた事が「日本刀の始まり」とされ、「刀剣の製作」は神事と密接な歴史を持っている。「大和国宇陀郡」と「吉岡庄」の繋がりは何か? 富山市の松倉郷を拠点とした「郷義弘」は宇多国光、正宗に教えを受けたと云う。】




■『古代氏族系譜集成』は国税局勤務の宝賀寿男氏が記された大著である。
加賀藩の「前田利家」が「物部神社」を崇敬し、「金沢尾山神社」は元、高岡市海老坂に在った「物部神社」を勘請した神社で、前田家の氏神として祀り、物部守屋の子孫、野見宿彌、菅原道真の子孫の物部氏であるとされる事から、「物部系図」に記載された事を要約して検討してみたい。

▼「加賀藩士松島家文書」に拠ると、「前田利家」は当初、「豊臣」を名乗り、次いで「源氏」を名乗り、続いて最後は「物部一族」の末裔で在る「菅原」を名乗ったと記されている。



■「物部氏族」は、神武天皇の前に大和に入った「饒速日命ニギハヤヒノミコト」の後裔である。神武東征時に「饒速日命」の子の「可美眞手命」が「長髓彦ナガスネヒコ」を誅殺して「神武天皇」に帰順したと云う。この功績で物部氏族は大和朝廷の初めから重きをなし、崇神天皇朝前後には幾人かの后妃を出す迄になる。「饒速日命」の系譜は『姓氏録』では「天神部」に収められる。
「物部氏族」ではその始祖「饒速日命」は「天押穂耳命アメノオシホノミコト」の子であると云う。物部系図に在る尾張氏族系譜では「天火明命」が「尾張氏族の祖」とされる。又、「饒速日命」の十四世孫からは「尾治連」と名乗り、「物部氏の祖先」とされる「宇摩志麻治命」はその一族で、十八世孫で在る。更に、この「宇摩志麻治命」の十一世孫には【物部鍛冶師連公】が記載されており「物部氏」が刀剣製作の始まりで在った事を窺わせている。

【※「古語拾遺」に物部氏の遠祖の逸話がある。
神武天皇が東征を行う年になって大伴氏の遠祖の「日臣命」(ヒノオミノミコト)は督将の元戎を率いて兇渠を斬り払い、命の功績に片を並べる者は無かった。物部氏の遠祖の饒速日命は敵を殺し輩を率いて官軍に帰順した。忠誠の効を殊に褒めて寵愛された。大和氏の遠祖の椎根津彦は皇船を迎え案内したので、香山の嶺に功績を表した。「賀茂縣主」(カモノアガタヌシ)の遠祖の八咫烏は宸駕を導いたので「菟田(ウタ)」の道に御璽を顕した。妖気は既に晴れてまた風塵も無く都を橿原に建てて宮室を作った。】

■「饒速日命」は「天忍穂耳命」の子で、「瓊々杵命ニニギノミコト」の兄弟で邪馬台の王家の祖「天火明命」の近い親族であったと考える。谷川健一氏は「物部氏」と「少彦名神」を祖とする「鳥取部」との近縁性や「物部・鳥取部」共に優れた鍛冶技術を持つと指摘する。「少彦名神」が出雲の「大穴持命オオアナムジノミコト」(※大国主命)の国造りに協力したと「紀記」等に見え、この兄弟が出雲で活動したと『出雲国風土記』に見える。「熊野大神」を奉斎した「出雲国造」も同じ「天目一箇命」の後裔ではないか。「天目一箇命」(※天太玉命)は或いは兄弟とされた「少彦名神」かも知れないし、「山代国造」の祖の「伊岐志邇保命」は筑紫の「大己貴命」の子で「天津彦根命」にあたるのか?

■「饒速日命」は畿内の河内国河内郡の地に入り、後に大和国鳥見白庭山(磯城郡)に遷ったと云う。その子「可美眞手命」とその正統は大和国十市(磯城)郡穂積里(現、田原本町大字保津)に居て穂積姓となり、「孝元天皇」~「成務天皇」期に后妃を輩出した。「穂」は稲の穂にもみられるが鍛冶部族の「火(ホ)」にも通じる事から、「天忍穂耳命」や「天火明命」、「五十研丹穂命」という遠祖の名に使用される。「饒速日命」が大和入りした時に「天物部」を率いており、崇神朝頃に分岐した支族の「物部連」がその軍事・刑罰という職掌から次第に強大化し、履中天皇朝の「伊弗」、雄略天皇朝の「目」など大連の位につく者を輩出した為に「物部氏族」と呼ばれることになる。「物部」とは、鈴木真年氏が「品物ヲ作ル也」と記しており、『旧事本紀』の「天神本紀」には二田物部・当麻物部・芹田物部・鳥見物部・横田物部など二十五物部が記される。(この「物部」自体が物部氏族とは限らない)
物部連の本拠は物部守屋大連の頃は河内国渋川郡だが、初期以来、大和国山辺郡の穂積郷・石上郷(天理市中央部の前栽町から布留町にかけての一帯)が同様以上に重要な地であった。古式土師器とされる布留式土器を出した「布留遺跡」(天理市布留町・三島町等一帯)は、古墳時代までの複合遺跡であり、物部氏族に関係するものとみられ、その近隣に同氏族奉斎の「石上神宮」や一族の墳墓もある。「布留遺跡」よりも古い「唐古・鍵遺跡」は穂積郷に近く、ここが物部氏族初期の居地とみられる。(★「物部氏」の後衛に埴輪を考えた「土師氏」がいる。)

■「蘇我馬子」が編集したとされる「先代旧事紀」に拠ると、越中国新川郡の「大新川連ダイニイカワノムラジ」は「物部一族の祖」だとされている。









■「物部氏族」の出自は極めて難解で、その一族諸氏(阿刀連、津門首、物部依羅連など)の分布・性格、奉斎神(石上神宮を和邇氏族の物部首〔のちに布留宿禰姓〕と共に奉斎)や祖神の所伝(山代国造と共通の祖神を有する)から検討したが、遠祖の「天目一箇命」・「少彦名神」兄弟の母は、「海神族綿積豊玉彦命」の姉妹、「豊玉媛」(高比売)であり、「饒速日命」の母は「足浜目門比売命」とみられ、「足浜は葦浜」の意で「猿田彦神」(豊玉彦命の子)の姉妹ではないか?

近江国浅井郡に居を構えた物部姓守屋流と称した古代豪族浅井氏が在る。
[★赤丸浅井神社の祭神は「葦那陀迦神 (アシナダカノカミ )」⇒ 「大国主神」の妹。大国主神の孫の「国忍富神」と結婚して「速甕之多気佐波夜遅奴美神」(ハヤミカノタケサバヤジヌミノカミ)を生んだ。
【古事記】「葦那陀迦神」=八河江比賣 、八河江比売= 八河沼比賣(ヤカワヌナヒメ)]⇒物部氏との関係は不明だが、「神名帳考証」[出口(度会)延経著]に拠れば「浅井神社とは浅井の神在ればなり」と記され、行基の所縁の琵琶湖近くの「矢合神社」の祭神であるとしている。
北陸使(北陸道将軍)の「大彦命」は阿倍氏、東海使の「武渟川別命」は大彦命の息子でつまり阿倍氏、西道(山陽)使の「吉備津彦命」は吉備氏、丹波(山陰)使の「丹波道主命」は息長氏と、みんな海人系の有力豪族である。赤丸村の「浅井神社」を開いたとされる「行基」も百済系、高志国の高志氏、和邇氏、海神族とされる。⇒(※行基の墓誌に「本姓は高志氏」と記載されている。)
一方、「赤丸浅井城」を居城とした「越中石黒氏」の祖の「利波臣」は「古事記」では「高志利波臣」とされ、物部氏が妃を輩出したとされる「孝元天皇」を祖とするとされる。「延喜式内社赤丸浅井神社」はこの「浅井城」の守護神だったとされる。
(※「孝霊天皇」を祖とするとする系図もある。)

■「浅井神社由緒」に拠れば、「浅井神社」は第五代孝昭天皇の時に「八河江比売神」を祭神に祀って創建されたとされ、「浅井とは浅井神社在ればなり」と伝わり、物部氏族の近江国の浅井氏の信仰する「大国主命」の孫の妻の女神を祭神として創建されたと云う。神社の建つ場所は「浅井谷」と呼ばれ、「赤丸村」に成る前は「浅井」と呼ばれた地域で在ったと伝える古書も在る。「赤丸浅井城」は越中石黒氏が「赤丸浅井神社」を信仰して、「浅井神社」から「浅井城」と名付けたとされる事から、この祭神や浅井神社の創建には、「越中石黒氏」の祖の古代氏族「利波臣」の影響が色濃く反映している様だ。
(※「蘇我馬子」が聖徳太子の編纂された書籍を校正して作成したと伝わる「先代旧事紀」では、「物部一族」の歴史が事細かく記載されており、物部氏族は歴代の天皇の中宮を輩出して皇室とも密接な一族で在った事から物部氏についての記載が中心に成っている。「旧事紀」には、「聖徳太子」の妻が「蘇我馬子」の娘で在り、蘇我氏→聖徳太子→物部氏の関係が背景に在ったと見られる。その中でも高志の中つ国と呼ばれた越中国の「新川郡」の祖の「大新川連」が「物部氏族の祖」で在ると記載される事は注目される点だ。)

■物部氏族は初期から極めて多数の支族に分かれ諸国に繁衍し、物部八十氏とも百八十氏とも云う。本宗家は垂仁天皇朝に「物部連」姓を賜ったと伝える「十市根命」の後衛。
諸国の国造家として熊野国造(紀伊国牟婁郡熊野)、三河国造(三河)、遠淡海国造(遠江)、久努国造(遠江国山名郡久努郷)、珠流河国造(駿河)、久自国造(常陸国久慈郡)、三野後国造(美濃)等相当多くある。(※「先代旧事紀」の中の第十巻「国造本紀」参照)

・「三野後国造」は「三野前国造」と共に「三野国造」とされており、三野前国造と三野後国造とは、別系統に見えても遠祖は同じとみられる。三野前国造は伊勢の安濃県造同族で、三野後国造は物部氏族ではないか?
「越中五位庄総社赤丸浅井神社」の域内の高岡市福岡町には「三乃郷」が在ったとされ、現在は「上簑、下簑」と呼び、鎮守社の「三乃神社」が鎮座している。

・ 駿河、遠江、三(参)河の物部氏系という国造については、参河・珠流河国造は共に「三野後国造」の支流ではないかとみられ、遠江の二国造家も参駿両国造と同系か和邇氏族かで水神性が濃い。伊予の「小市国造」も水神性が強く、珠流河国造と三野後国造の一族とみられる。これらは御井神(木股神)を奉斎し、その式内社が三野では各務郡(奉斎者は村国連か)、多芸郡(同、物部多芸連か)に鎮座する。

・物部氏では、用明天皇薨去後に排仏派の物部守屋大連は蘇我氏に敗れて大きく衰えたが、「壬申の乱」(※672年、天智天皇の子、大友皇子と皇弟大海皇子「→天武天皇」の戦い)後に勢力をかなり回復して、奈良朝以降の本宗家となった石上朝臣氏では左大臣麻呂、大納言宅嗣などの高官を輩出した。それも長くは続かず、平安期に入って衰えた。(※物部一族は「丁未の乱:587年」で蘇我馬子に滅ぼされた。)
中世以降の中央の官人では、支族の中原朝臣姓の押小路家が地下筆頭として存続し、同姓で医家の官人もあった。武家では、「熊野神人」出の「鈴木一族」(穂積臣後裔)、「熊野国造後裔氏族」、伊予の「河野・越智一族」(小市国造後裔)、武蔵の「児玉党」(久自国造後裔)、長門の「厚東一族」などが繁衍している。また、伊予の「越智支族」から出た「橘遠保」が「藤原純友追討」に活躍したが、この一族は「橘朝臣姓」を冒称し、武家橘氏として諸国に繁衍した。

■物部氏族から派生した姓氏。
【畿内地方】穂積臣(録・左京。[鈴木]-紀伊国牟婁郡の熊野大神神人より起り、紀州名草郡藤白の鈴木を宗家として、三河、尾張、駿河、伊豆、武蔵、上野、下野、下総、越中等多くの地域に分岐。特に三河では繁衍し、賀茂郡の矢並・足助・酒呑・則定・寺部・九久平・小原、碧海郡竹村などに分居し、江戸期には旗本に多い。[亀井]-紀州亀井村住、分れて出雲に遷り武家華族。雑賀、[戸野]-紀州人。[井出]〔井手〕、[山村]-駿河国富士郡人、越前福井の歌人橘曙覧の家人[もと正玄、のち井手] 、[出井]、[乙種]-駿河人。[吉田]、[荻]-三州人。[井谷]-遠州人。[木原]-遠江国山名郡木原邑より起る。[鳥居]、[神倉]、[常住]-熊野人。[土居]、[今城]、[得能]-伊予国宇和郡人で熊野鈴木一族の流れ、熊野の榎本一族か。[白玖]-讃岐国多度郡大麻神社祠官。なお、大和国十市郡の保津は族裔か。同吉野郡の芋瀬〔妹背〕、[梅本]は穂積姓というも、真偽不明)、穂積朝臣(録・左京。[百谷]、[宇倍]、[広岡]-因幡国法美郡人、ただし系図には疑問があって、実際には因幡古族伊福部臣の末か)、穂積部(美濃)、穂積(木積-河内国石切剱箭神社祠官)。
釆女朝臣(録・右京。[梅木]-大和国春日神人、一に紀姓。南都居住の伊狭川も同族か。なお、大和の都祁水分社神主の[釆部〔栄部〕]は族裔か)、釆女造、釆女連、釆宿祢。

物部連、石上朝臣(録・左京。[藁科]-駿河国安倍郡藁科より起る)、物部朝臣([堤]、[中山]、[北]、[島]、[岸田]、[菅田]、[西川]、[多田]、[豊井]、[布留川]、[上田]、[乾]、[西]、[薮]、[南]、[中]、[東]、[森]、[巽]、[別所]、[豊田]、[福智][堂]-大和国山辺郡の石上神宮祠官一族)、 石上大朝臣、 榎井連(朴井連)、 榎井朝臣、 春世宿祢(この改姓の榎井朝臣もある)、 弓削連([芦田]、[枝吉]-播磨人)、
弓削宿祢(録・左京。[稲生]-伊勢国奄芸郡の稲生明神神主。[多湖]、[星合]、[和田]、[伊能]-稲生同族。[蟹江]-尾張人。[重藤]-豊前国田川郡人。[弓削]、[山崎]-遠江国佐野郡弓削庄の人)、 弓削朝臣、弓削御浄朝臣(御清朝臣)、 物部弓削連([荻生]、[上野]、[平岩]、[長坂]、[都筑]、[勝]、[竹矢]-三河人、なお系図には疑問もある) 、今木連(録・山城。[今木]-和泉人)、屋形連、錦部首(録・[山城])、 河上朝臣、 葛野県主、葛野連(録・左京。葛野大連も同じか)、
中臣部、中臣葛野連(録・[山城])、 秦忌寸(録・[山城])、 秦宿祢([松尾]、[東]、[南]([葛野]-山城人)、 高岳首(録・[和泉]。丹後国与謝郡の[高岡]は族裔かという)、神野入洲連、 依羅連(依網連。録・左京、右京)、 物部依羅連(録・[河内])、 網部(録・[和泉])、 柴垣連(録・左京)、 積組連、積組造(録・[河内])、 小軽馬連(小軽間連)、軽馬連(借馬連、軽間連。[賀留]-大和国高市郡人)
曽根連録・左京、右京、[和泉]。[曽根]、[樋口]-大和国川合村広瀬神主、祢宜)、 曽根造、曽根宿祢、椋部(阿波国那賀郡人)、 椋椅部連(録・摂津未定雑姓。[倉橋]-摂州豊島郡人。また、摂州武庫郡の瓦林〔河原林〕は族裔か、称[菅原また平、藤原姓
]、倉橋部宿祢、倉橋部朝臣)、 高橋連(録・右京、[山城]、[河内]。[堀内]-紀伊国直川庄高橋社司)、 高橋宿祢、 立野連、立野宿祢([立野-大和国平群郡人。大嶋-京官人で右馬寮、もと津田と称。近衛家侍の立野も同族か)、 桜島連(横度の改姓、大和国添上郡)、桜島宿祢、葛井連、伊勢荒比田連、小田連、縣使首(録・大和)。立野首(大和国城下郡鏡作郷)も同族か。肩野連(交野連。録・右京。河内国交野郡片野神社祠官の養父・[松尾氏]は族裔か、物部後裔と伝う)、 物部肩野連(録・左京)、 良棟宿祢([片野]-河内国交野郡人で後に常陸に遷住、称藤原姓)、
宇治連、宇治部連(宇遅部連。録・[河内]、[和泉])、 宇治山守連(録・[山城])、 宇治部、宇遅部直、宇治宿祢(録・[山城]。宇治-山城国宇治郡人。[石井]-京官人で九条家諸大夫、山城国紀伊郡石井より起る。城州久世郡の槇島〔真木島〕も族裔か、称藤原姓)、 柏原連(録・左京)。なお、大和国葛上郡の柏原造も同族か。
刈田首、刈田連、 鳥部連、 依羅田部連、 韓国連(辛国連。録・[和泉])、 高原連(同上の賜姓。[高原]、[土師]-備前国邑久郡片山日子神社祠官。河内-下野国人。泉州和泉郡唐国保の刀禰職横山氏は族裔か)、 物部韓国連(録・[摂津])、水間君(水間-大和国添上郡東山村水間より起る)、 水間宿祢。 文嶋連、 須佐連、 巫部連(録・[山城]、[和泉])、巫部宿祢(録・右京、[摂津]。[後藤]、[萬代]、[辻]-和泉国人)、当世宿祢。
大友-相模の藤原姓近藤能直が中原親能の養嗣となり、豊後で大いに繁衍、源姓とも称。大友一族には、[戸次]、[鵜本]、[片賀瀬]、[立花]、[野津原]、[志賀]、[朝倉]、[下郡]、[鶴見]、[久保]、[得永〔徳永〕]、[駒木根]、[吉岡]、[小田原]、[築井〔津久井〕]、[立石]、[清田]、[松岡]、[小川]等-以上の大友一族は藤原姓に改め、豊後国及びその周辺に住。[竹中]-豊後住、なお美濃の竹中半兵衛家はこの流れと称するも、別族か、その一族に[四宮]。[利根]-大友同族、豊後住、分れて上野に住。[日田]、[津江]、[矢野]、[平野]-豊後国日田郡人、日田郡司家跡を襲う。詫摩〔詫磨〕-肥後国託麻郡人、一族に[井上]、[平井]、[板井]、[平田]。[日並]-宗形神社祠官、称源姓。門司-豊前国企救郡人、吉原]-備後国御調郡人。 [本郷]-若狭国大飯郡の大族、称村上源氏。[田井]-紀伊人。また、筑後国三瀦郡の[堤]は、大友支流と称するが、疑問大。この堤の一族には[大石]、[高木]、[内田]、[藤崎]など。
・香宗我部-甲斐からの遷住で、土佐国香美郡に住んで甲斐とも号。甲斐源氏出自は仮冒として、大中臣(大仲臣)姓ともいうから、本来中原とは別族か。 土佐の香宗我部一族には、[甲斐]、[中山田]、[門田]、[中山]、[喜多]、[造手]、[松岡]、[岩原]、[水谷]、[青井]、[倉町]、[山本]、[倉橋]、[笠原]、[立山]、[西山]など。なお、同郡韮生郷に起り楠目城に拠った土佐七雄の一、[山田氏]は、香宗我部氏の初期の分岐というが中間の歴代が不明で、土佐古族の色彩もある。
・[甕]〔母台、母田井、茂田井〕-信濃国佐久郡住。丸子〔円子〕-同国小県郡人、同上族。 [樋口]、[今井]、[落合]-信濃国木曽より起る、甕以下は同族で本来信濃の古族の末か。 下野宇都宮配下の[今井氏]は兼平の後裔で、[滋野]姓を称した。

・[由比]-筑前国志摩郡人。一族に[河辺]、[飯]、[重富]及び早良郡の[弥永]。志摩郡の称源姓の[泊]、[松隈]も同族か。これらはおそらく筑紫国造同族の末流か。なお、建保・建武頃の筑前住吉社神官に権大宮司中原朝臣が見える)。

阿刀連、中臣習宜朝臣(摺宜朝臣。録・右京)、習宜連(中臣習宜連)、中臣熊凝連、中臣熊凝朝臣(録・右京)、熊凝朝臣、栗栖連(録・河内)、物部首(録・河内、山城未定雑姓)、日下部(録・河内)


■諸国の物部氏族
物部一族は諸国に広く分布するが、特に紀伊の熊野国造、伊予の小千(越智)国造及び常陸の久自国造の流れが各々の領域を中心にに大繁衍し、中世の有力武士団を出した。

①熊野国造の流れ⇒熊野直、熊野連(録・山城。和田-紀伊国那賀郡和田村人、中世称橘姓、熊野八庄司の一なり、河内にも住。竹坊、尾崎、河井〔河合〕、深山、大谷、堤、岩代、音無〔音无〕、宇原木、小池-熊野社家。曽根-熊野社家、又上野国碓日に分。宮脇、大熊-讃岐国香川郡十河に住。片山-讃岐人。鳥居、真砂、日高、津田、篠崎、大屋、関地-紀州人。稲熊-三河国宝飯郡竹谷神社祠官。熊野の本宮社家の竹内、壱岐、新宮社家の羽山なども熊野国造の族裔か関係者か。
愛洲(会洲、愛須)は紀伊志摩伊勢などに勢力を持ち、紀伊の一族に久留栖、三木、湯川、武田、川、別所、上(宇恵)、幸徳、波沙、坂本、尾喜など、また土佐の御本、武田、浜田(その末裔に田中光顕伯爵家も出す)などを出した。これら諸氏は、甲斐源氏の武田一族(奈古氏からなど諸説ある)の出と称したが、疑問大。紀伊古族の出は確かであるが、真年翁のいう熊野連姓かあるいは尾張氏族系の熊野古氏族の出かとみられ、後者の可能性もかなり強い(その場合、姓氏は湯母竹田連か)。
湯川(湯河)は熊野八庄司の一で、紀伊国牟婁郡道湯川に起り日高郡に拠る中世の大族、一族に大畑、沢、能城、天野、内川、日足、愛川、小松原など。熊野本宮祠官の坂本は右坐などにあり、尾治姓の坂本氏を継いだというが、本来、両者は同族か。また、越後の城氏の後と称した牟婁郡の松本・鬼ヶ城は、おそらく湯川の支流か。
楠木〔楠〕-熊野社家にあり、また河内に住み紀州に分れ、称橘朝臣姓。橋本-紀伊国伊都郡橋本村住人。高名-和泉国和泉郡人。大田-伊勢国安濃郡人。池田-摂津国池田に住、本来紀朝臣姓の家を継ぐ者を出す、ただし更に紀姓の人が相続ともいう。この池田一族には、摂津の荒牧、河辺、堀内、毛馬、辻、大塚、辰巳、山脇など。大饗-摂津人。神宮寺-河内国大県郡神宮寺村住人。佐備、石川、甲斐庄、隅屋〔須屋〕、野村-河内人。相郷-紀州人。則岡-紀州有田郡人。小南〔木南〕-紀州海部郡人。芋川-信濃国水内郡人。梶川-尾張人。奥田-伊賀人。数原〔須原〕-近江人。打越〔内越〕-出羽国由利郡人。賀茂-美濃国賀茂郡に起り、遠江国敷智郡に遷。杉本-丹波人。野口-駿河人。神岐-美濃人。山地〔山路〕-讃岐国豊田郡人、山地子爵家を出す。大塚-紀伊国牟婁郡に起り、駿河に分る。木俣〔木全〕-伊勢人、おそらく員弁郡の猪名部造族裔か。このほか、楠木一族の出と称する諸氏が多くあり疑問を留保しつつ挙げると、和泉の池樋・武、備前の楢村、伊勢の久間木や楠瀬など)、熊野朝臣、相賀直。
なお、牟婁郡居住で熊野新宮祠官の熊野部(高倉下後裔の熊野部千代包の後と称す)も同族か。この一族のうち、石垣は熊野にあったが、鵜殿は三河国宝飯郡にも展開した。紀伊の堅田連(堅田-紀伊国牟婁郡人)も熊野国造一族の出か(または尾張古氏族系か)。

②小市国造の流れ⇒越智直(小市直。録・左京。新居〔仁井〕-伊予新居郡人、称橘朝臣姓。橘、矢野、徳永、高部、金子、真名部〔真鍋〕、今井-同上族。北之川〔岐他川〕-伊予国宇和郡人、称紀朝臣姓で、また越智朝臣とも称。隣国阿波にも進出して、那東郡人に新居、古津、池田、高市が見える。 越智宿祢(越智朝臣姓の称も見えるが、これは私称か。河野-伊予人で、風早郡に起り同国に繁衍して一族甚だ多し、同族が土佐阿波等や京官人にもあり。久留嶋〔来嶋〕-予州野間郡来島に起る武家華族、もと村上といい、一族の能島・因島とともに海賊衆。正岡-伊予国風早郡の高縄神社祠官。稲葉、一柳-ともに美濃人で武家華族だが、系譜仮冒の疑いが大で、その場合は美濃古族の後か。林-美濃人。このほか伊予には一族きわめて多く、越智、高市、吾河、井門、石井、浅生、夏目、江上、萱戸、御谷、新居、拝志、吉田、井出、大野、寺町、弘田、児島、高井、浮穴、田窪、白石、遠藤、埴生〔垣生〕、浅海、周布、難波江、高尾、志津川、北条、久萬、石崎、松岡、得能、曽我部、免取、辻、大高、南、土居、小倉、神宮寺、宮田、合田、大瀬、今井、重見、木原、尾原、大井、今岡、野間、沖、井尾、久保、別府、戒能、片山、久保、黒川、井川、壬生川、福角、大内、出淵、仙波、池内、桑原、別宮、砂田、石田、青木、東条、日吉、松木、堺、一城、河内、和田、石川、平岡、富岡、久枝、柏谷等-伊予の河野同族。境田-日向諸県郡真幸院の天満宮大宮司。三島-日向薩摩人、三島子爵家を出す。小嵜-肥前国神崎郡人。福良-淡路の三原郡人。安芸国佐伯郡能美島の能美、山野井も河野同族と称。窪川-土佐国高岡郡仁井田五社祠官。新居、東、西-高岡郡の窪川一族。寺林-陸奥稗貫郡人。河上-下野人。
高橋〔のち三島〕-伊予国大三嶋の大山祇神社大祝家。鳥生、今治、島山、庄林、弥熊、大井、神野、山本、宮脇-三島大祝同族。また、藤原姓を称する忽那島の忽那、吉木氏も実際には河野一族。百々-近江国坂田郡人、一に橘姓、また宇多源氏京極支流と称。釜谷-伊賀国名張神戸司で伊勢神宮祠官。古森-大和国宇陀神戸司で伊勢神宮祠官、この二流の伊勢神宮祠官の家については系統不明。京官人でも、蓮華光院門跡坊官の榎本、二条家諸大夫の河野は越智姓と称)。出部直、伊豆部造。

③久自国造の流れ⇒大部造(常陸国久慈郡稲村神社祠官の高根は末裔か)、大部首(録・和泉未定雑姓)、大部宿祢。
有道宿祢(武蔵七党の一、児玉党を出したが、児玉郡を本拠に武蔵北部から上野国西部にかけて繁衍した。児玉-武蔵から分れて安芸国豊田郡にもあり、毛利氏重臣で一族から明治華族を出す。本庄〔本荘〕-児玉党より出て丹波に分れた家もあり、武家華族。奥平-上州甘楽郡人、なお三河国設楽郡奥平に起る武家華族奥平氏とその一族の和田・奥山などは、本来これとは別系で三河古族和邇部の裔か。
庄〔荘〕-武蔵国児玉郡人、分れて備中にあり、後掲。四方田-武蔵国児玉郡人、分れて陸奥加美郡に住し河内四頭の一。大滝、具下塚〔久下塚〕、北堀、本荘、牧西、若水〔若泉〕、小河原、宮田、蛭河、今居〔今井〕、長岡、小見野、粟生田、越生、宿谷、山崎、高坂、平児玉、秩父、与嶋、吉田、竹沢、稲嶋、柏嶋〔イ、狛嶋〕、新屋、眞下、御名、小河原、山越、木西、桜沢、吾那、志村、大淵、溝上-以上は武蔵人。大塚-武蔵に起り、出羽国置賜郡長井荘に分る。
小幡-上野国甘楽郡人で、戦国期の大族。その一族に、熊井戸、長根。小中山、大河原、多子、倉賀野、片山、大浜、鳥方、白倉、矢嶋、吉嶋、山名、嶋名、牧野、富野、大類、後閑、成嶋、反町、栗栖-以上は上野人。堀籠-上野国安蘇郡人。小代-武蔵国入西郡小代郷人、肥後に分れて繁衍。増永、倉満〔蔵満〕、荒尾、一分、中分、猿渡、片山-肥後国玉名郡の小代一族。荘、穂井田〔穂田〕、津々、福井、若林-備中国下道郡を中心に住。植木-荘一族で、同国英賀郡人。三雲、中条-近江人。若松-伊勢人。
武蔵国荏原郡に起る目黒氏は、児玉党とも畠山一族の出ともいい、源姓を称。陸奥伊具郡、出雲国飯石郡に分る。多久和-同一族で、雲州飯石郡人)。
白髪部造、白髪部連、眞髪部造(録・山城。原田-常陸国鹿嶋神人、久慈郡稲村神社祠官にもあり、伊達家臣の原田もこの一族か。神館〔上館〕、布田-同鹿嶋神人)、若湯坐造、若湯坐連(録・河内)、若湯坐宿祢(録・左京、摂津)。

④その他諸国物部氏族⇒畿内周辺の近江、伊勢、紀伊、三河、遠江、常陸、山陰の因幡、石見、長門、山陽の美作、四国の伊予、北九州などに、この氏族と族裔諸氏が濃密である。

物部宿祢(浅井-近江国浅井郡人、この同族は藤原姓あるいは橘姓と称するもの多く、本姓は物部とみられるが不明点も多い。脇坂-同州浅井郡脇坂庄より起る、武家華族。大野木、三田村、赤尾、田屋、礒谷、今木、山本-近江の浅井一族
奥村-尾張人で赤尾同族。小堀-近江国坂田郡小堀村より起る。川瀬-近江国犬上郡人。なお、浅井家臣の八田、岩橋、岩田、岩坪、脇坂、 中島、浅井、木村の諸氏は、祭祀関係からみて同族だった可能性がある)、物部浄志朝臣、中原朝臣(物部宿祢改姓)。江州栗太郡の物部には、勝部、玉岡、千代(姓氏不明で、物部玉岡宿祢姓というが疑問あり)。
【※赤丸村に赤尾・山本、木村姓有り。近くに岩坪村有り。浅井神社の“浅井”との関係?】

・物部連(厚東-周防国玖珂郷の物部連末流、長門国厚狭郡より起る。白松、木村、原、富永、河副、吉部、池、宇賀-長門の厚東一族。秋吉-同国美祢郡住。屋富〔弥富〕-同豊浦郡住。矢原-同吉敷郡住。世良-備後の厚東一族。以上は厚東同族で周防国人。飯田、倉見-遠江人。また、物部朝臣姓という厚狭郡の末富も、厚東一族か)。

・新家連(新家-伊勢国度会郡人、又三河に分る。徳田、今井-伊勢人)、新家宿祢(野田、新谷-河内国丹比郡人)、多芸連、多芸宿祢、猪名部造(録・左京)、春澄朝臣(古田-美濃国本巣郡住で称藤原姓、員弁郡に起る)、春澄宿祢。

・藤原恒見君、長田川合君(金子-石見国安濃郡川合村物部神社神主、明治に叙男爵、称物部姓。長田、川合-同社祠官。井原〔庵原〕、雲井〔雲居〕-石州邑智郡人。寺井-石州那賀郡人、以上は金子一族)。
【赤丸村浅井神社の辺りは古代の「川合郷」→川合が転化した「川人」は浅井神社の神官】

・風早直(風速直)
・信太連(根本、[朝日]-常陸国信太郡人。古徳-同那珂郡人。[菅谷]、信太、[福田]-信太郡人、称紀姓。宍倉-新治郡人で菅谷の族。田土部-同国筑波郡人で信太庄司の一族。篠崎-同筑波郡人、称藤原姓。鴨志田-信太郡に起り久慈郡に居住、平将門後裔と称)、物部志太連(浮島、木幡-常陸国信太郡人)、匝瑳連(下総国匝瑳郡。なお、武蔵国葛飾郡の匝瑳氏は族裔か)、匝瑳宿祢。
【五位庄に福田郷有り。池田姓多し。→物部氏?紀姓? 紀伊国造族の物部連?】

・伊福部臣(気吹部臣)、伊福部宿祢(伊福部、安田、池淵-因幡国法美郡の宇倍神社祠官。宮石-同国気多郡板井神社祠官)。因幡国高草郡の郡領置始臣は同族か。伯耆国日野郡楽々福神社旧神主の入沢・名沢〔那沢〕氏は、大矢口宿祢を同祖とし、物部姓という。日野郡の楽々福明神奉斎に関与した三吉、田辺や芦立〔蘆立〕も同族か。

・物部鏡連、物部文連(安芸-土佐国安芸郡の大族)。ともに土佐国香美郡に見えるが、同郡大忍庄山川村の領主・石舟明神祢宜で物部姓の物辺、末延氏は族裔か。同郡の八木、山川、清遠氏も物部姓。これら土佐の物部一族は物部同族の安芸国造の流れか。紀伊国造族の物部連と称した香美郡の延崎〔信崎〕も同族。土佐国香美・安芸両郡の称宗我部・惟宗朝臣・橘朝臣姓の諸氏(安芸一族、安岡一族)の殆どが物部文連・物部鏡連の同族とみられるが、便宜上、宗我部にあげる。香美郡の夜須もこれらの同族。

また、系統不明だが物部伊勢連もある。志摩の物部は、的矢〔的屋〕といい伊雑神戸総検校職。

■美濃の三野国造とその一族の流れとみられる三河国造(三河)、珠流河国造(駿河)は本来、饒速日命系物部氏族として微妙な違和感もないでもないが、ここに掲げる。同じく海神族系かともみられる遠江の遠淡海国造、久努国造も同様に記す(この両者は、和邇氏族系の色彩もあって、その可能性もある)。
・村国連(美濃国各務郡村国郷より起る大族)、村国奥連、物部射園連(同国厚見郡)。片県連(同国方県郡より起る)は同族か六人部連の族か。ほかに、彦坐王関係に掲げた三野国造を参照の事。

参河直、三河宿祢(永見-三河国碧海郡知立神主。同郡の重原氏も同族か)、 長谷部造(録・大和)、物部(大給〔荻生〕-三河国加茂郡人、のち松平の猶子に入り武家華族。平岩、長坂、弓削-三河碧海郡人、称守屋大連後裔。なお、清和源氏満快流と称する武家華族伊奈も、本来平岩一族か。伊奈一族には、額田郡の稲熊)、物部中原宿祢、興原宿祢、中原朝臣(秋野、田中、筧、多門、桜井-三河国額田郡人。井田-三河国額田郡人、分れて武蔵国多摩郡に住、称畠山重忠後裔は仮冒。藤原姓を称する額田郡の柴田氏も、筧一族か。清和源氏のほか、大江姓とも嵯峨源氏とも称した武家華族酒井氏は、碧海郡境村に起った井田同族。嵯峨源氏と称した額田郡の滝、大黒も同族か)。
【能登国人の長氏は長谷部と名乗る。→初瀬部】【赤丸村の柴田氏は宗良親王の随臣か?→藤原氏か物部氏か?】

・金刺舎人(珠流河国造後裔)、金刺宿祢(金指-伊豆人)、壬生直、若舎人部。珠流河国造の族裔としては、駿河郡人の大岡や大森、葛山、竹之下〔竹下〕などの諸氏が推される。藤原伊周後裔と称する大森一族は駿河東部・相模や尾張・三河などに繁衍して、前掲のほか、鮎沢〔合沢、藍沢、相沢〕、葦沢、篠葉、御宿、宮原、細井、岩城、藤曲〔イ藤田〕、大沼、河合、菅沼、神山、沓間、鷹満など。一族に稲熊、内海-尾張人。その姓氏は不明も、あるいは珠流河直(駿河直)、駿河宿祢か。竹之下は天智天皇末裔とも称。

・檜前舎人部、小長谷部直(ともに遠淡海国造後裔。なお、遠淡海国造の姓氏は不明であるが、一族の名からみておそらく遠淡海直か)、佐夜直(駿河人の佐野、大楠は族裔か)、久努直(久野-遠江国周智郡人、紀州徳川家付家老で伊勢田丸を領。中-同周智郡人。原、孕石、寺田、原田、小沢-同州佐野郡人。山名郡の山名、川井など、同郡粟倉明神社神主の北島、榛原郡の千頭、長上郡の橋爪、佐野郡の幡鎌なども、みな同族か。その殆どが為憲流藤原氏を称した)。
この他、遠淡海・久努両国造の族裔とみられるものには、長下郡等の浅羽、松下、松井や磐田郡見付総社神主の西尾、大久保などの諸氏。また、城飼郡の横地(浅羽と同じく称源姓)、榛原郡の相良、勝間田、丸山などの一族や、更には引佐郡の井伊も同族か(相互に同祖伝承をもつが、系譜には疑問もある)。これら両国造関係には橘紋・称橘姓がかなり見られることからみて、遠江出身の橘姓黒田氏(のち丹党加治氏から養嗣が入り、大名家となる)も同族か。大湯坐連、大湯坐宿祢や若倭部も、遠淡海国造の一族か。

・物部の従者関係をあげると、次のようなものがあるが、系譜や姓氏不明で『姓氏録』では未定雑姓(ここでは「未」として記載)として分類される。
天物部等二十五部としてあげられるものは、二田物部、当麻物部、芹田物部、鳥見物部、横田物部、嶋戸物部、浮田物部、巷宜物部、疋田物部、酒人物部(坂戸物部)、田尻物部、赤間物部、久米物部(来目物部)、狭竹物部、大豆物部、肩野物部、羽束物部、尋津物部、布都留物部、経跡物部、讃岐三野物部、相槻物部、筑紫聞物部、播磨物部、筑紫贄田物部。このほか、前掲と重複もあるが、阿刀物部、住跡物部、網部物部、筑紫弦田物部など。

・これらのうち、とくに勢力のあったものとしては、
舎人造(物部従者)、舎人連(同上族)、原造(未、右京。雑姓で物部従者)、度造(同上)、坂戸物部(未、右京。同上)、二田物部(録・未、右京。同上。吉野-越後国三島郡二田村の物部神社神主。三嶋、東海、白川、大矢、土生田-越後国三島郡人)、二田物部首(贄田物部首)、物部二田連(高波-常陸国多賀郡佐波波地祇神社神主。なお、陸奥磐城郡の贄田も同族か)、二田造(物部二田造。河村-河内国高安郡人、後土佐国に遷)、
相槻物部(録・未、山城。雑姓で物部従者)、竝槻忌寸、竝槻宿祢、当麻物部(雑姓で物部従者)、物部造、阿刀部(録・未、摂津。物部氏族か)、尋来津首(録・未、右京。伊香我色雄命の後というは仮冒か)、阿刀造、跡部首、肩野物部(頼信-美作国久米郡人。内田-作州苫田・真庭郡人)、横田物部(横田、松倉-大和国添上郡人。あるいは和邇氏族の流れで櫟井臣同族か)。また、播磨造は播磨物部の伴造家裔か、赤間稲置は赤間物部の族長か、豊前国規矩郡の規矩、小野田、志井、御佃は聞物部の後裔か、とみられている。寺人も物部族という。原連、原宿祢は原造の後か。
  このほか、伊予の力田物部連も見える。

※一部は文字数制限により省略して記載している。赤字は当ブログ掲載と関係する氏族を主に記載した。


     

🔴天皇家庄園「越中吉岡庄」の鎮守社「延喜式内社赤丸浅井神社」の由緒を伝える「森田柿園著」の【越中志徴】!!

2018-05-29 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸











●「越中志徴」(※加賀藩士「森田柿園」著)に記載される「赤丸村」の「吉岡庄」、「吉岡谷」、「吉岡御所跡」、「五位庄」、「川合駅」、「浅井神社」、「川人明神」、「川人権現」、「浅井城」、「宇多刀工」、「親王屋敷」、「親王塚」等の記載。







■石川県立図書館の「森田柿園文庫」には、「赤丸浅井神社」周辺の古跡を描いた古絵図が保管され、柿園の著作「越中志徴」には「赤丸村周辺」の多くの古跡について説明されている。

その中で、「森田柿園」は、「延喜式内社赤丸浅井神社」の由緒について記載して、この神社が、嘗ては「川人権現」、「川人明神」として崇敬を集めて居た事が記されている。「川人権現」は「川人山鞍馬寺三社権現記」に記される様に、「川人山鞍馬寺」の下に「赤丸浅井神社」、「石堤浅井神社」、「舞谷八幡宮」を持つ「三社権現方式」の形態をしていた事を示している。「後白河上皇」から南北朝の「後醍醐天皇」迄は「越中吉岡庄」と言う皇室庄園で、一時期、「下鴨神社」の庄園で在ったが、その後、「五位庄」に改名され、「日本国王」と名乗って権力を誇示した室町時代の第三代将軍「足利義満」の時に京都「相国寺」に寄進されて以来、足利家菩提寺の「等持院」・「等持寺」の庄園と成り、戦国末期迄、守護の能登畠山氏の影響下に在った。この間にも、門跡寺院「聖護院」の末寺として威容を誇ったが、豊臣と徳川が開戦した理由と成った「方広寺」が「聖護院」の別院で在ったことから、徳川幕府と結託した「吉田神道派」の「高岡関野神社」や「石堤浅井神社」等の圧迫を受ける事に成った。しかし、加賀藩は「豊臣恩顧」の大名として、秘かに豊臣と密接で在った「聖護院派」を庇護して、寺社奉行は「石堤浅井神社」の反乱に対しても、「赤丸浅井神社」の主張を是として判決している。(※「皆月家文書」金沢市立図書館所蔵の判決記録)
又、加賀藩の時代には「赤丸浅井神社」が別名「川人明神」とも呼ばれて崇敬され、加賀藩の江戸下屋敷(※板橋)の庭には、加賀藩が信仰した「上市大岩不動尊」と共に、「赤丸山」と言う築山迄造って居た事が「下屋敷絵図」で見られる。又、現在、「赤丸浅井神社」の本殿に掛けられた掲額は「加賀藩第十三代前田斎泰」の記毫によるものだ。
しかし、薩長主導の明治維新では、「後鳥羽上皇」や「後醍醐天皇」が目標にされた「天皇親政」を目指した為に、「唯一神道」を掲げた吉田神道が暗躍して、「廃仏毀釈」の運動が激化して、遂には「後白河上皇」、「後鳥羽上皇」~「後醍醐天皇」迄続いた皇室庄園の鎮守社で在った「延喜式内社赤丸浅井神社」も「両部神道」から「神道」に改宗せざるを得なかった。「吉田神道」の「高岡関野神社」は、この時とばかりに配下の石堤浅井神社の神官を焚き付けて「石堤浅井神社が延喜式内社・五位庄総社」で有ると名乗り、神社の簒奪を図ったが、「南朝の牙城」で在った「赤丸浅井神社」には手を出せずに、維新政府が行き過ぎを指摘して過激な廃仏毀釈を規制したと云う。しかし、この時に破却された仏像は野に打ち捨てられ、寺院は売却されたりして、嘗ては勢力を誇った両部神道寺院は、「天台宗」か「真言宗」に編成変えされた。これ等の歴史有る寺院はこの時に「寺の由緒」を改変し、又は隠して、新たな出発をした寺院が多いと言う。高岡市の「関野神社」を初めとする「吉田神道」は、「前田利長」を祭神として関野神社の権威を背景に、「加賀藩主前田斎泰」が庇護してその「掲額」を本殿に掲げる「延喜式内社赤丸浅井神社」を廃棄する事は出来なかった。更に、1911年(明治44年)2月4日には帝国議会で 【南朝を正統とする決議】を行い、社会的に南朝正統論が展開された為に、「南朝の牙城の赤丸村」に在り、元、南朝の「後醍醐天皇」の庄園「吉岡庄」の鎮守社で在った「延喜式内社赤丸浅井神社」の正当性は守られた。



■明治維新で掲げられた「明治維新の精神を伝える賛」と「後醍醐天皇の肖像」
(※大徳寺肖像の写し)







■「後醍醐天皇」は「赤丸の御旗」を作り、親王達は「赤丸の軍扇」を使用された。





■「元正天皇の二宮が創建(中興)された」と云う「赤丸浅井神社」の隣接地 には、古くから「浅井城」が在り、この城には浅井神社を中興された「二宮=文武天皇残された二宮」が在城されたと云われている。(※「越中志徴」・「肯搆泉達録」)
「浅井神社」を中興された「二宮」は、名を「石川朝臣広成」と云い、「続日本紀」には、「文武天皇の嬪ビン」の「石川刀自娘 イシカワトジノイラツメ」 の子で在ったが、権力者の「藤原不比等」の娘の「夫人ブニン 宮子」が産んだ「首皇子 オビトオウジ」を天皇にする為に「妃ヒ 石川刀自娘」と「妃ヒ 紀竃娘キノカマドノイラツメ」は不義を理由に朝廷から追われたと云う。しかし、この時に首皇子(後の聖武天皇)の母代わりをされた「元正天皇」(※故 文武天皇の姉)は「養老 継嗣令」を出して「天皇の兄弟、子供は全て【親王】とせよ」と命じられた。その為に「石川朝臣広成」は「六位」の下級官僚と成り、「恭仁京」に赴任して、「大伴家持」等と共に九人の「内舎人ウドネリ」の役職に成って赴任している。この時に歌った歌が万葉集に掲載されている。「元正天皇」は「首皇子」と「石川朝臣広成」に「東西66ケ国を各々、33ケ国」の統治を委ねられたと「川人山三社記」には記されている。
(※「続日本紀」・「川人山三社記・「福岡町史」)











■「続日本紀」(※岩波書店版)には、嘗て、朝廷と密接な神社を「明神」と呼んだと記載され、地元では霊験灼アラタかな神社を特に「明神」と呼んだと伝えられている。
しかし、元々「明神」とは、天皇が発した「宣命 センミョウ」の形式を決めた公式令の中にある言葉で在り、「明神御宇日本天皇詔旨云々。或聞」等の五つの形式を示す言葉で在った。これは、「明神アキツカミ と 御宇アメノシタシ らしめす日本ヤマト の天皇スメラ が詔旨オホミコトらまと云々。或コトゴト くに聞きたまへ」と読み、宣命の頭に付けられた形式で在ったと云う。これは、「令義解」と言う「養老律令」の解説書にも見えるが、「聖武天皇」の場合は宣命の中で「現神 アキツカミ 八洲所知倭根子天皇詔旨勅命」と告げてより直接的な表現に成っている。「現神 アキツカミ」は「世に現ウツ しく坐イ ます御神」(※「歴朝詔詞解」)=「現し世に姿を現されたかみ」と言う意味で在り、「鬼神 キジン」(※幽)に対する言葉に成っている。
これ等の事から、「現神 アキツカミ」とは、現存する「天皇」を意味し、 「明神 アキツカミ」とは「皇室の先祖神」を指すものと見られ、「川人大明神」とは「皇室の先祖神の【高皇産霊神 タカミウブスナノカミ】を祀る神社」と云う意味に成る。則ち、「川人大明神」は即、「天皇祭祀」を分担する皇室の分社として崇敬されて居た事に成る。「延喜式内社赤丸浅井神社」の前を通過していた「旧北陸街道」では、「赤丸浅井神社」の前では「下馬」して「拝礼」をする決まりが在ったと言う。








■「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当寺「川人山鞍馬寺」の遺品(※赤丸浅井神社所蔵)









■「義経記」には「如意の城」として「赤丸浅井城」が、「二位の渡し」として「赤丸浅井神社」前の舟乗り場が登場する。「勧進帳」では「安宅の関」の場面として登場する。






🌸 「越中吉岡庄」の『延喜式内社 惣社 赤丸浅井神社』と「京都吉田神社」 ⇒ 「吉田神道」配下神社の「両部神道神社」簒奪の企み!!

2018-05-29 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●江戸時代に徳川幕府に取り入り、「諸社祢宜神主法度」 を幕府に作らせて神道を牛耳ろうとした「吉田神道」の「吉田社家」は、「文徳実録」によると、元々は韓国人で、百済人で在ると言う。「吉田家」は、伊勢の白川神祇伯の権限を奪い、「神祇官領長上」と名乗って全国の神官の任命権を持ち、衣装等の諸規制を行い、「唯一神道」を唱えて、各地の両部神道の神社を簒奪する事を目論んだ。










■両部神道「川人山鞍馬寺」は、「赤丸浅井神社」・「石堤浅井神社」・「舞谷八幡宮」を抱える三社権現形式で在り、京都「鞍馬寺」を勘請したもので、門跡寺院「聖護院」の末寺で在った。「延喜式内社赤丸浅井神社」は「五位庄惣社」とされて、地域53ケ村を代表する神社で在った。







■「五位庄惣社」の「式内社赤丸浅井神社」とその末社の「石堤浅井神社」は長い間、どちらも正統だと主張して争ってきた。
「惣社」とは元々、朝廷が幣帛を捧げる為に勅使や代理の国司を派遣された時に地域の代表として参拝された神社の事で、「赤丸浅井神社」は代々、「五位庄」地域の神々を祀り、その祝詞にも地域の神々が全て入れられている。「赤丸浅井神社由緒」では「一条天皇は勅使川原左京を蝗害防止祈願の為に赤丸浅井神社に遣わされ、その時に植えられた二本の桜は勅使桜と呼ばれ、昭和初期迄残っていた」と伝え、現在も拝殿には大人が数人で取り巻く程の大木の写真が掛けられている。
元々、空海の両部神道は地主神と共存していたが、聖武天皇が国家鎮護として仏教を中心として奈良の東大寺に巨大な大仏を建立し、その命を受けた行基は各地に寺や神社を開き、石黒氏の祖の利波臣志留志は東大寺に大仏建立の為、米5000石を寄進したと東大寺の記録は伝える。この思想は地主神を尊重しつつ仏教を上部に置く思想だった為、各地の巨大寺院は神社を数か所も抱えて、三社権現、五社権現等の形を取った。「赤丸浅井神社」は上部に「川人山鞍馬寺」を置く三社権現で「赤丸の本宮」、「別宮石堤浅井神社」、「舞谷八幡宮」で三社権現の形を取り、石川県境の「石動山」の「天平寺」は「後白河上皇」の直轄領で格式が高く、「後白河上皇」の邸の長講堂が直務した為、五社権現の形を取っていた。「比叡山延暦寺」の末寺の「天平寺」は越中二上神社分として米1升、天平寺分として米1升、能登中島町の熊兜神社の分として米1升の計3升を近郷の農家から徴収する権利を許され、この他には赤丸の「鞍馬寺」が郷内の各戸から毎年米1升を徴収する権利を許されていたと云う。
(※二上神は古くは各戸一升三合を集めていたが、前田利長は慶長十五年から各戸一升を四郡から集める事を赦したと言う。)
両部神道の寺院はこの特権を使用して強制的に各戸から米を徴収した。これ等の僧は【含満梵論 カーンマンボロ】と称して民から恐れられ、大黒頭巾を被り、法衣を着て旗を高く掲げた僧三人が大きな甕を背負ってやって来て、徴収は村の肝煎の責任とされて、米を出さなければ子供を連れ去るぞと脅した為、子供達は恐怖に怯えたと言う。この習慣は明治二年七月迄続いた。
→(※「射水郡誌」)

■孝徳天皇の時に内大臣になった「中臣鎌子の連」が居り、常陸国の鹿島の出身だったと言う。「大鏡」に拠れば、「天智天皇」の時、「中臣鎌足」は最高の官位の大織冠と大臣の位を授けられ藤原氏の姓を賜り藤原氏の祖となった。「天智天皇」は「藤原鎌足」を寵愛して自分の女御(与志古娘)を譲った。この時、女御は懐妊していたが、「天智天皇」は「男なら藤原氏の子とせよ」と仰せられた。その生まれた子供は、権力を恣にした「藤原不比等」であり養老4年(720年)には太政大臣となり正一位を贈られた。「藤原不比等」は実は「天智天皇」の子供であり、孫の「聖武天皇」(首皇子)を天皇にする為に娘の「宮子」以外の「文武天皇」の嬪を廃妃した。その時に、蘇我氏の「石川刀自娘イシカワトジノイラツメ」と紀氏の「紀竈門娘キノカマドノイラツメ」は資格を失い、「石川刀自娘」の子の「石川朝臣広成」も臣籍に降下させられ、内舎人という低い官職を与えられた。この「石川朝臣広成」については万葉集にも3首記載されているが、『川人山鞍馬寺三社誌』にはこの人物が「赤丸浅井神社」を創建された「元正天皇二宮」(*実際は文武天皇の第二子)と伝えられている。この石川氏は蘇我氏の子孫であり、「広成」の父の「文武天皇」の母の「元明天皇」も蘇我氏で有った事から、「藤原不比等」がこの時に皇室から蘇我氏、紀氏の追放を狙ったものと見られている。「大鏡」には、藤原氏の祖の「中臣鎌足」の氏神は元々、常陸の「鹿島神宮」であったが、遠隔地の為、奈良の三笠山に「春日明神」として神霊を遷した。その後、桓武天皇の時に更に平安京の「大原野神社」に春日明神を勧請したと記されている。更にこの神社は京都市左京区吉田神楽岡町の「吉田神社」に勧請されたが、吉田家はこの神官を務め卜部氏から改姓して吉田家と名乗り初め、「吉田兼俱」は公家として従二位・神祇大副となって唯一神道の「吉田神道」を創始して伊勢神宮系の神職と激しく対立し「神祇管領長上」を名乗り「神祇伯白川家」を押しのけて全国の神社へ支配を広げて行った。「日本書紀」記載の「天の岩戸」神事で「天照大神」が岩戸から出られた時、「注連縄シメナワ」を張って天照が岩戸に戻らない様にしたのが中臣神と忌部神であったと云う。中臣氏はその後、藤原氏となったが、この忌部氏の下で占いを行っていたのが卜部氏だったが、忌部氏の祭祀権も中臣氏に移ると卜部氏は藤原氏に奉仕する一族になり京都の吉田に住して「吉田」と名乗ったようだ。又、元々、常陸の「鹿島神宮」(軍神の武甕槌神 タケミカヅチノカミ)は東北の蝦夷征伐の最前線として祈願をする社だったが、この地が海上から東北を攻撃する拠点であったという事も、藤原氏の権勢と相俟って重要な神とされた様だ。同じ様に常陸の国那賀群に「日本武尊 ヤマトタケル」を祭神とする「吉田神社」が有り、東北の最前線基地に祀られていたこの神社は次第に「軍神」として重要視され、宝亀~延暦年間(770~806年)にかけて官社に列せられたらしい。その後、「鹿島神宮」は平安京の大原神社に勧請され、「春日明神」となり、更には、京都の吉田に勧請された時には祭神が同じ武神という事で有ったのだろうか、元々藤原氏の神であった「武甕槌神」を祀った「春日明神」はいつの間にか「吉田神社」に引き継がれたと云う。
増大する藤原氏を牽制する為か、「文武天皇」の妹が暫定的に女帝「元正天皇」として即位すると、「元々の中臣氏は藤原氏を名乗ってはならない。藤原氏は藤原不比等の子孫しか名乗る事を赦さない。中臣氏は祭祀だけを行い、政治に口を出すな!」との勅令を発している。

※「武甕槌命」(タケミカヅチノミコト): 天照大御神の命により出雲の国に降り、大国主命に国譲りをさせた神。 鹿島神宮に祀られており、雷神・剣神・武神の神格を持つ。
※「日本武尊」(ヤマトタケル): 第12代天皇、景行天皇の皇子。本名は小碓(オウス)皇子。 天皇の命を奉じて熊襲(九州南部地方を指す。熊襲の支配者はクマソタケル。日本書紀では「川上梟帥カワカミノタケル」となっている。)の討伐に向かい、女装してその首領を倒したが、誅伐された首領の「川上梟師」は死に臨み、皇子の武勇を嘆賞してヤマトタケルの号を献じた。後に東国の東夷征討の命を受けて出征し、途中、伊勢神宮に参拝し、倭姫命(大和姫)から天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)を授けられる。 東国鎮定の途中の駿河ではこの剣によって焼き討ちから逃れ、後にこれが「草薙の剣」(クサナギノツルギ)となり、三種の神器の一つとなる。
(※藤原氏から伊勢神宮の斎宮守になった一族が「斉藤氏」の祖であるという。)

■その後、吉田家は「織田信長」により堂上の家格を獲得し、江戸時代には徳川家と結び「諸社禰宜神主法度」に基づいて、神職の任命権や衣装の指定等の許認可権限を行使して各地の両部神道や伊勢神道白川神道と激しく対立した。「吉田神道」は元々が中臣氏の氏神の「鹿島神宮」を元にするが、伊勢神道をも支配する為に、何と「伊勢神宮外宮の神が吉田神社に飛来した」と主張して伊勢神道に対抗したと言う。この一族から出たのが「吉田兼好」である。「赤丸浅井神社」もこの政争に巻き込まれ、郷内各戸からの米1升の神楽米の徴収権を巡って、吉田神道の舞谷村の八幡神社神主の青木家、石堤浅井神社神主清水家と激しく対立した。加賀藩時代には、富山県内の全聖護院派寺院と吉田神道の対立に成り、聖護院派の訴えに対して加賀藩と聖護院本山は、従来の権利は聖護院派に認められたものとして、石堤浅井神社に対して勝手に持ち込んだ蔡具と神像の撤去を命じて、米の収集権と三社権現方式を聖護院派に認めている。明治期には廃仏毀釈運動が起こった為に、再び赤丸村と石堤村で本家争いと米の徴収、祭礼での奉納相撲を巡って警察が介入する程の事件にもなり、赤丸村初代村長の向野新村中島吉造等が警察で石堤村の代表と紛争解決の合意書に調印している。
(※「豊臣秀吉」が聖護院別院の「方広寺」に「京都大仏」を造営した時に「前田利家」も相当の寄進をしたと云う。)

■「吉田神道」は後土御門天皇や藤原氏、時の幕府勢力と結び、織田家や徳川家とも密接に連携して、伊勢神道と長く対立し、現在も水面下での信仰に基づく争いは静かに続いている。明治維新で新政府は「神仏分離」、「廃仏毀釈」を打ち出し、併せて「南朝天皇が正統」という方針を打ち出した為、それ迄は神社も束ねていた両部神道の寺院は「神主になるなら苗字帯刀も許す」との方針から、浅井神社の別当寺院で在った「川人山鞍馬寺」の後継寺院の「西宝院」も明治2年には還俗して「川人他治馬」と名乗り、士分として認められたという。歴史を紐解けば純粋な信仰とは別に「権力争い」や「利権争い」の為に歴史がゆがめられているケースが多い。「越中吉岡庄」は元々、藤原氏長者の「藤原頼長」の荘園であった事から「赤丸浅井城」の城主の「石黒氏」も元々は「武内宿祢」を祖とする蘇我氏の「利波臣」であったが、途中で藤原氏の「加賀林氏」と縁組してそれ以降は藤原氏を名乗ったといわれ、代々皇室と縁組して皇室内に入り込んだ藤原氏の影響力の大きさが窺われる。藤原氏全盛の時代には「吉岡庄」は「吉田神道」に席巻され、その後、「藤原頼長」が滅ぼされ、「後白河上皇」の皇子の「静恵法親王」が両部神道の「聖護院宮門跡」となられるに及び、再び、藤原氏と吉田神社系の神官は聖護院派山伏の「川人山鞍馬寺」と「赤丸浅井神社」を中心とした両部神道に主導権を握られたものとみられる。しかし、鎌倉時代になると再び「猫間中納言」と木曽義仲に揶揄されていた「藤原光隆」が越中守に任じられ、再度、藤原氏の時代を迎えている。その後、北朝の時代には源氏の「足利義満」は「五位庄」を金閣寺で有名な京都の「相国寺」に寄進しており、応永22年10月には「足利義持」は「五位荘の半分」を「京都等持院」に寄進した。この時代には南朝勢力で聖護院派山伏の牙城であった「赤丸浅井神社」は、足利氏の専横の時代となり再び暗黒の時代を迎えた様だが、臨済宗の僧が「川人山鞍馬寺」と「赤丸浅井神社」で度々、法要を営んでいる事から「赤丸浅井神社」に対する足利氏の信仰は室町時代にも続いていた様だ。(※「赤丸住、藤原真家の法要記録」富山県史 中世)

※【吉田神道と相撲:「後鳥羽天皇」の御世に「吉田追風」の名前を賜り、昭和26年に日本相撲協会に譲るまでは相撲についての権限を有して横綱の任命等を行っていた「吉田司家」という行事の家系が有る。この家系は越前より「後鳥羽天皇」に召されて相撲の行司を行った家系だが、相撲は古事記の神事から来ており、吉田神道と同一とは言えない。】

🅾 🔹 越中国吉郷、五位庄の「十村役 五十嵐小豊次」(五十嵐篤好)記載の「郷庄考」❗ ❗

2018-05-29 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

A 上新川郡(カミニイカワグン) B 下新川郡(シモニイカワグン) C 婦負郡(ネイグン) D 射水郡(イミズグン) E 砺波郡(トナミグン)
(※時代により新川郡、婦負郡、利波郡だったり、利波郡は礪波郡となり、又西砺波郡と東砺波郡に分かれたりしている。)



■高志の北陸道の「川人の駅」には『赤丸浅井神社』『赤丸浅井城』があり、舟乗り場の『二位の渡し』が在った。


■【駅伝馬制】
中央の伝達や官吏の往来等、租税・物資の運搬等を円滑に行う為に制度として「駅伝馬制」が整備され、主要道に「駅」を約4里毎に置き、駅家(ウマヤ)を設置し、駅馬(エキバ)を配置して郡に伝馬(テンマ)を設けた。「駅」に「駅戸」(エキコ)を付属させ、駅戸から「駅長」や「駅子」(エキシ)を出し、駅長は駅戸(エキに所属する家・住民)は駅田を耕作し、駅馬の飼育を担当した。6年毎の「口分田斑給」の為に「斑田使」や行政を監察する「巡察使」、各国の行政報告や貢納に当たる「四度使」等の官人や臨時の使者など官道を往来した。中央からの使者は「駅鈴」と言う鈴を使者の証として、馬を各駅で乗り継いだ。




■砺波市発行の「砺波正倉」に詳しい ❗
(「砺波正倉」とは、砺波市教育委員会が運営する デジタルミュージアムの名称。)


白河上皇の時に上賀茂神社の庄園となった『吉岡庄』は、南北朝の時に『越中五位庄』となった。












■「五十嵐篤好」は、延喜式にも記載される古代北陸道の西礪波郡赤丸村に在った「川人の駅」の地域について、定説となっている「川合郷」ではないと否定し、別の「川合田村」の地域をこの「川合郷」だと「郷庄考」で記載している。その証拠としてこの地域には「川合五郎」なる人物がいたからだと云う。「野尻村山伏宝乗院由来記」に,野尻村の住人として「川合五郎」なる人物の名が伝えられている事をその一証としてあげている。しかし、延喜式掲載の時期に「川合五郎」なる人物がいた事をその証拠だと五十嵐篤好程の人物が信じたとは以外である。ある説では、小矢部川上流の福光辺りで小矢部川と庄川が合流していたから、その地域が川合郷だと云う。確かに、小矢部川と庄川は何ヵ所も途中で合流しているが、赤丸浅井神社の前でも小矢部川と庄川が合流していた事は江戸時代には知るべきもなかったで有ろう。古代には小矢部川が西山の麓に沿って流れており、どうもその河川敷きは現在の「五位庄用水路」の位置の様だ。石川県立図書館の「森田柿園文庫」に「赤丸浅井神社古墟図」が保管されており、そこには、この庄川と小矢部川の合流地点が「阿古ケ淵」と云われた大きな淵であったと記載されている。五十嵐篤好は五位庄や国吉郷を地盤とした著名な国学者で有り、その人物が、かくも眉唾の意見を述べたとは信じられなかったが、この「郷庄考」には実際にその事が記載されている。加賀藩の時代には五位庄の内でも、赤丸村や西五位村は大滝村の杉野家が十村役で有り、五十嵐篤好が「川合郷」を含む赤丸村は支配地外で有った為に認識がなかったものだろうか ❗ 著名な学者にしてこの程度の知識で有り、それだけに加賀藩の学者とされた人物や知識人の意見は全て疑ってかかる必要がある。間違った知識?が加賀藩の権威に裏付けされて、恰も真実の如くに伝わるケースが多い ❗ 森田柿園が小矢部川河口の「六渡寺の渡し」を「義経記」の「五位庄の二位の渡し」と「越中志徴」に記載した為に、本当は五位庄赤丸村の浅井神社前の「二位の渡し」で有るのに、現在も学者が之を鵜呑みにして、しかも、高岡市教育委員会迄がこの事を信じてしまったのだ。学者も疑いうる良い事例だ。
しかし、当時から【「越中吉岡庄」は新川郡に在り、それは富山市の吉岡の事】だと言われており、学者や国立の研究施設迄が最近迄、それを信じていたが、 五十嵐篤好はこの「郷庄庄考」で、【「越中吉岡庄」については、五位庄の馬場村に「吉岡谷」が在る】ことを指摘して、この辺りが古代の庄園「吉岡庄」だろうと見ていた事は流石と云うべきか? 「越中吉岡庄」は平成26年に資料を提供して、漸く国立歴史民俗資料館の庄園データーベースを「福岡町馬場を含む五位庄の前身」と改訂して貰ったが、現在も他の辞書には依然として「富山市の吉岡」とか「氷見市の吉岡」とか記載されており、なかなか歴史の誤りが訂正されるには時間がかかるのだ。



■石川県立図書館「森田柿園文庫」の「赤丸浅井神社古墟図」記載の小矢部川と庄川の合流地点「阿古ケ淵」❗ ❗
※元正天皇は養母として育てた「聖武天皇」の事を「吾子美麻斯王」(「我が子の 美麻斯王」 )とその宣命で述べている。聖武天皇の弟の「石川朝臣広成」が赤丸浅井神社を創建され、赤丸浅井城に在城されたと云う。元正天皇は『全て天皇の子は「親王」とする』と言う勅令を出された。(※「肯搆泉達録」、「女帝の世紀」角川書店)



■富山県高岡市「東五位小学校」の校庭に建つ「五十嵐篤好顕彰碑」⇒敷地内には「墓所」も在る。