赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🌸 「延喜式内社赤丸浅井神社」の創建時代の文化⇒「延喜年間」から見られる『掛け算九九』の文化!!

2018-04-27 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
●「延喜式内社赤丸浅井神社」は「元正天皇」の時代に古代から在った神社が再興されたと伝わり、古くから「川合郷」、「吉岡庄」、「五位庄」の中核施設として地域の信仰を集めた神社で、中世には霊験あらたかな皇室所縁の神社として「川人大明神」とも呼ばれたと言う。
「明神」とは天皇が発する「宣名」の書き出しに用いられる言葉で、先祖神に改まって言上するという意味だが、後には「霊験」の高い皇室所縁の神社が「大明神」と呼ばれて尊崇された様だ。「拾芥抄」と言う古書が在り、この中には赤丸浅井神社の繁栄した「延喜年間」から後醍醐天皇の「南北朝時代」に至る様々な説明が載せられている。


国宝「東大寺庄園越中石粟庄絵図」には、「延喜式内社赤丸浅井神社」に「神田一段」が寄進された記載が在る。



■「拾芥抄」⇒鎌倉時代中期には原型が成立し、暦応年間に洞院公賢がそれを増補・校訂したと考えられている中世の百科辞典。暦応(リャクオウ、レキオウ)は、南北朝時代の元号で北朝方が使用した。後醍醐天皇の親政が成った建武年間の後で康永の前の年代。(1338年~1341年、北朝方は光明天皇、南朝方は後醍醐天皇、後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。この時期に高岡市福岡町赤丸周辺の「越中吉岡庄」は後醍醐天皇の庄園で在った。)

江戸時代の写本の「拾芥抄」には、中世の上皇の庄園「後院領」の役職・制度や風俗・習慣も含めて様々な記載が在る。
その中に、「掛け算九九」の記載が在り、古くから高度の計算を行っていた様子も記載されている。





■「掛け算九九」については、「延喜九年」(909年)の記載が在る25点の木簡の一つに「掛け算九九」の練習を記載した木簡が出土した島根県大田市の「白坏遺跡シラツキイセキ」が在り、1988年に出土した。「九九」が記載されたものは平城京遺跡、藤原京遺跡等六ケ所から出土しているが、このケースは律令制下の地方から出土したものとして珍しいと云う。(※「古代史発掘」朝日新聞 1991年)




🔘🌸🏯「延喜式内赤丸浅井神社 社殿」に残る「皇室の紋」!! ⇒「養老年間 元正天皇」の時に「文武天皇の二宮」が創建された「延喜式内社赤丸浅井神社」

2018-04-26 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
◎「養老年間(※717年~724年)、元正天皇の時代に再建された延喜式内社赤丸浅井神社」

「文武天皇」は若くして亡くなられた為に、その母の「元明天皇」、姉の「元正天皇」はその皇子が成長する迄、親代わりに成り天皇に即位された。「延喜式内社赤丸浅井神社」は「聖武天皇」の弟の「文武天皇二宮 石川朝臣広成」が創建されたと伝わる。
(※「由緒」では母代わりの「元正天皇の二宮」とされる。)

・神社の各所には、皇室の紋の「十六菊紋」が遺されている。




歴代、天皇の皇子が門跡に為られた「門跡寺院 聖護院」の末寺の「別当寺 川人山鞍馬寺」と「赤丸浅井神社」は 、「白河上皇」の時に「上賀茂社」の庄園と成り、その後、藤原摂関家、後白河上皇~後醍醐天皇庄園、下鴨神社庄園と成った「越中吉岡庄」の中核施設で在り、室町時代に入ると「五位庄」と成り、足利義満が相国寺にこの庄園を寄進した時に「五位庄」は高岡市二上山の麓から福野町の野尻迄、幅も西山から庄川迄の広範囲な庄園に成った。この時に砺波郡は足利義満の側近の蜷川新右エ門親当が統治したと伝わる。(※「蜷川の郷土史」、「蜷川家文書」、「東寺百合文書」、「万山編年精要」、「蔭寮軒日録」)
「延喜式内社赤丸浅井神社」はこの広大な「五位庄」の郷社で在り、室町時代には「越中蜷川氏」が創建した富山市の最勝寺の住職の「亀阜豊寿 」が能登畠山氏の法要を「赤丸浅井神社」、「川人山鞍馬寺」で二度に亘り盛大に行っている。(※「富山県史」)






































📚📖🐎 松尾芭蕉自筆草稿本に見る「芭蕉」と「曽良」の越中路の旅!!

2018-04-26 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
富山県西部の「西山の夕陽」











●「おくの細道」(※松尾芭蕉自筆草稿本)から読み取れる芭蕉の経路!!

くろへ四十八ケ瀬とかや 数知らぬ川を渡りて 那古と云浦に出 担籠(※タゴ 田子)の藤波は春ならす共 初秋のあはれとふへものをと人に尋ねれは 是より五里礒つたひしてむかふの山陰に入 蜑(※タン 漁師)の芦ふきかすかなれは(※芦で葺いた様な粗末な家も少い) 一夜の宿かすものもあるましと云イおとされて かゝ(※加賀)の国に入

わせの香や 分入右は 有そ海

卯の花山くりからか谷をこえて 金沢は七月中の五日也 爰に大阪よりかよふ商人何処と云ものあり それか旅宿をともにす

■芭蕉と曽良は、田子の藤波を見たいと人に聞けば、那古浦から五里(※20km)を礒伝いに進み 向こうの(西山の)山陰に入った所だと云う。又、この辺りは家も少いので宿舎を借りるのも難しいだろうと脅かされたので(断念して) 加賀に向い 卯の花山(砺波山?)や倶利伽羅谷を越えて金沢には七月五日に入った。

★平成八年に発見されて複製公刊された「志太野坡伝来の芭蕉直筆草稿本」参照
【志太 野坡】(シダヤバ);寛文2年1月3日(1662年2月21日)~元文5年1月3日(1740年1月31日)
江戸時代前期の俳諧師。前号:野馬・別号:樗木社。蕉門十哲の一人。

🌸 越中刀工「佐伯則重の碑」⇒富山市五福(呉服郷)で作刀した佐伯則重!!

2018-04-18 | 富山県
■ 富山市呉羽山公園下に在る「佐伯則重の碑」!!
富山市呉羽山公園下には越中刀工「佐伯則重の碑」が在る。則重は系図に拠ると魚津の松倉郷で作刀した「郷(江)義弘」の師とされ、相州伝の「正宗十弟子」の一とされる。又、その作品には「越中吉岡庄」(高岡市福岡町赤丸)に大和国宇陀郡から移り住んだ大和伝宇多刀工の祖「宇多国光」の作風も見られる事から 、宇多国光に師事したともされている様だ。
(※正宗は相州伝 新藤五国光の弟子で在る事から国光違いだとする意見も在る。)

















💠🏯 室町幕府足利家菩提寺「等持院」・「等持寺」・「相国寺」と「越中五位庄」⇒「足利将軍家」、「能登畠山家」、五位庄の「宇多一族」!!

2018-04-04 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


■「足利尊氏」は「仁和寺」の子院を動かして「等持寺」と共に足利家菩提寺の「等持院」とした。
「等持院」は足利将軍家の菩提寺であり、山号は「万年山」という。この等持院は寺名(等持)や開山(夢窓疎石)・本尊(地蔵菩薩)、足利将軍家に極めて密接であったという共通性をもつ等持寺と混同されることが多い。この「万年山等持院」は、もとは衣笠山の山上に位置した真言宗の仁和寺の子院であったが、現在の場所に移されて夢窓疎石を開山とする禅宗寺院に改められたという。この「万年山等持院」は記録上では「仁和寺等持院」・「北等持」といい、現在では「等持寺」と区別するため便宜上「万年山等持院」「洛北等持院」と称されている。



■「三代将軍足利義満」は、母の「紀良子」の祖先が「宇多天皇」と越中蜷川氏の娘の「胤子」の間に出来た「醍醐天皇」を祖先に持ち、「宇多源氏」の直系にも当たる。「足利義満」の側近の「蜷川新右エ門親当」は「蜷川系図」に拠ると「越中の新川郡と利波郡を領した」とされ、この利波郡は小矢部市の蓮沼辺りとされるが、「能登畠山文書」の「室町時代越中統治絵図」に拠れば、この時期に「利波郡」の殆どを占めた「五位庄」は「五位庄の東庄」と「五位庄の西庄」に分割されていた様だ。「足利義満」は室の「日野業子」が亡くなると「越中五位庄」を京都の「相国寺」に寄進しており、この時期に「五位庄」は「利波郡」の殆どと高岡市守山、伏木港迄も占めた様だ。京都の「東寺百合文書」の「やなた某書状案」には「五位庄野尻」と記載されて南砺市福野町も五位庄に含まれた事が記載されており、又、「射水郡内段銭状案」には高岡市中田から砺波市にかけて広がっていた「般若野庄」には「五位庄の東庄」も含まれていたと記載されている。









「五位庄の東庄」が庄川沿いの「般若野庄」に含まれていた。

■「畠山家記」(※「羽曳野資料」)には、「般若野庄」の庄園領主の「徳大寺家」(※藤原氏)が越中に下向して、この時に越中の「石黒」、「井口」、「土肥」が従ったとされ、「越中統治絵図」にも石黒氏の記載が在る。



■応永22年(※1415年)には、「足利義持」が「五位庄の半分」を足利家菩提寺の「等持院」に寄進した(※「等持院常住記録」)とされ、その後の東寺百合文書では「五位庄」からの年貢未進が続いた為に「等持院」・「等持寺」が直務したいと幕府に申しれているが却下されている。当初は「等持院」に寄進されたが、後には「等持寺」の庄園にもなったと見られる。この「五位庄の半分」は小矢部川から東の「東庄」で在り、畠山守護家が所有して越中蜷川氏が統治した部分の「西庄」は除外されていたと見られる。



■「赤丸浅井神社」や高岡市関町の「総持寺」の檀家の池田家には「室町時代の応永9年頃、国主の意向により赤丸村を追われた」とされ、射水市の松山学芸員の論文では「この時期に総持寺は海岸近くに動いて浜総持寺と称して、この寺では海の光を浴びた黄金の千手観音像の前で雅楽演奏も行われて(※畠山持国の父の)畠山満家の三回忌法要が営まれた」とする「名古屋大須観音の古文書」が紹介されている。「足利義満」が「相国寺」に「五位庄」を寄進した時に「底地は畠山満家に預け置かれた」(※「富山県史中世」)とされており、「越中統治絵図」には「赤丸浅井城と見られる「城」の表示の脇に「畠山持国」の記載が在り、この論文を証明している。








■「宇多源氏佐々木氏流」とも云われる越中の刀工直系の「宇多家」の墓が在る高岡市柴野十日市の「曹洞宗三光寺」の墓地には、本家の「宇多家」や分家の「宇田家」、「鍛冶家」の墓と共に同じ「剣方喰紋」の「畠山家」の墓も林立しており、五位庄で作刀した「宇多一族」と足利一族の「能登畠山氏」が何れも「宇多天皇」と密接な事から、血縁関係を結んでいた事を窺わせる。




越中の宇多刀剣は多くの「文化財登録」が在る。



■「能登畠山氏」は「畠山重忠」の未亡人と縁組した「足利義純」の系統で、「畠山満家」の弟の「満則」を初代にすると云う。(※「能登畠山系図」参照)

「畠山重忠」は秩父平氏だが「能登畠山氏」は源氏の「足利義純」の末裔であり「源氏」