赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴 皇室庄園「越中吉岡庄」から「越中五位庄 」赤丸村への歴史⇒越中利波郡(トナミグン)の広大な皇室庄園 !!

2018-04-30 | 富山県高岡市福岡町赤丸村

「延喜式内社 五位庄五十三ケ村総社 郷社 赤丸浅井神社」















『重要』⇒平成13年、赤丸村で古来から伝承されていた「吉岡庄」は、『国立歴史民俗博物館』の調査で正式に「福岡町を中心とした越中吉岡庄」として確認され、従来「新川郡」と註釈されていた部分も「砺波郡」と修正して「庄園データベース」に正式に登載された。
(※現在も、修正前のデーターに基づいて「新川郡」としている文献が多いが、これは修正前のデーターに基づくので誤り ❗❗
新川郡の合併前の富山市域に当たる太田保に、吉岡村が在る所から越中吉岡庄と混同されてきた。太田保の蜷川郷に蜷川城を構えた蜷川氏の中に吉岡と名乗った者が在り、蜷川村の郷土史には蜷川の本家が吉岡で在ったとされる。蜷川新右衛門に代表される蜷川氏は室町時代の足利義満の近臣として政所代に成り、新川郡と利波郡を統治したとされる事から、利波郡の吉岡庄を新川郡と混同したと見られる。⇒足利義満の頃には越中吉岡庄は越中五位庄に改名されている。「※東寺百合文書」)


国学者五十嵐小豊次の『郷庄考』では正確に「平範記」記載の元藤原頼長庄園の『越中吉岡庄』と『能登一青庄』を取り上げて「砺波郡吉岡庄」としている ❗





「越中吉岡庄図」と「五位庄」と改名された後醍醐天皇皇子宗良親王

■「五位庄」と「吉岡庄」
「五位庄」は、南北朝時代まで「越中吉岡庄」と呼ばれていた。「赤丸浅井神社」は「五位庄総社」とされ、その中核の神社で在った。五位庄は広大な範囲で有り、加賀藩士富田景周が書き記したと伝わる「加越能三州地理志稿」に拠れば、江戸時代の「五位庄」は「四日市、柴野、十日市、江道、境、山川、廣谷、勝木原、澤川、淵ケ谷、田名原、小野、六郎谷、花野(花尾)、栃谷、上栃谷、西明寺、上向田(鍛冶町・田ノ子・上野)、下向田、土屋、山岸、鳥倉、西、高畠、加茂、馬場、三日市(荒田町・大野島・大野)、赤丸(谷内・次兵衛島)、舞谷、石堤(谷内・六日市)、麻生谷、東石堤、渡、内島(池田・新屋敷)、蜂ケ島、大源寺、福田六家、六家、樋詰、柴野内島、立野町、中保、駒方、駒方新、小竹、下開発、上開発、今市、宮野腰、三ケ、後正寺、須田、壹歩貮歩(二歩)、下老子、笹川(荒又・出来野)、高田島(荒又・出来野)、福岡、四十萬、稗島、下蓑、荒屋敷、土田新、以上 五十七村属五位庄」が五位庄で在ったとされる。

しかし、越中吉岡庄の時代には、「赤丸浅井神社由緒」や「浅井神社は米一升を各戸から集めていた。」と伝わるその範囲から推定すると、五位庄の時代とは少し範囲は異なっていた様だ。「赤丸浅井神社」は「五十三ケ村総社」とされているが、加賀藩時代は「57ケ村」で在ったと伝わり、加賀藩時代には赤丸村の向野新村等の小矢部川河川敷きの村が新しく開発されている。しかし、小矢部川対岸の高岡市高田島地区には古来から「聖武天皇の祈願社の五位庄神社」が在り、藩政時代も赤丸領で在った事から、概ねその範囲は合致するが、吉岡庄の時代は小矢部市の宮島郷等の山間部も含んでいた様だ。「小矢部市史」に見られる神社の古記録に拠れば、赤丸浅井神社の川人神官(当時は山伏西宝院)が小矢部市の山間部の神社の神官も兼ねており、福岡町三乃神社の佐伯神官も小矢部市の延喜式内社比売神社等の山間部の神官を兼ねている。「赤丸浅井神社由緒」(※富山県立公文書館所蔵)に拠れば、浅井神社管轄の五十三ケ村は「五位庄二十五ケ村、国吉郷二十六ケ村、宮島郷二ケ村」で在ったとされており、これが概ね「越中吉岡庄」の範囲で在ったと見られる。⇒「五位庄」では「国吉郷」が範囲から外れて、福田郷周辺迄が含まれた様だ。「越中吉岡庄」は南北朝時代に後醍醐天皇皇子の宗良親王が赤丸浅井城に在城された時に「五位庄」に改名されたと加賀藩記録の「宝永誌」は伝えている。

■鎌倉時代「吾妻鏡」の「國吉名」についての記載。⇒「五十嵐氏の所有記録」
→《北条朝時の代理人小見左衛門尉親家 と五十嵐小豊次太郎惟重の裁判記録》
「延應元年(1239)五月小二日辛未。五十嵐小豊次太郎惟重与遠江守朝時祗候人小見左衛門尉親家。日來有相論事。今日。於前武州御亭遂一决。亭主御不例雖未快。相扶之令聞食其是非云々〔以綿結御額。被懸鶏足〕。匠作渡御。主計頭師員。駿河前司義村以下評定衆等列參。是越中國々吉名事也。惟重則當所爲承久勳功之賞拝領之處。親家押領之由訴之。親家亦。惟重知行分者全不可亘惣名。親家知行來之旨陳之。及究問答。親家依難遁其過。前武州殊有御氣色。於當座召侍所司金窪左衛門大夫行親。可令預守護親家之由被仰付。又其子細被仰遣遠州。遠州頗令恐申給云々。」
【『5月2日 辛未 』
五十嵐小豊次太郎惟重と遠江の守朝時の伺候人小見左衛門の尉親家と、日来相論の事有り。今日前の武州の御亭に於いて一決を遂ぐ。亭主の御不例未快と雖も、これを相扶けその是非を聞こし食さしむと(綿を以て御額に結び、鶏足を懸けらる)。匠作渡 御す。主計の頭師員・駿河の前司義村以下評定衆等列参す。これ越中の国国吉名の事なり。惟重則ち当所は承久勲功の賞として拝領するの処、親家押領するの由これを訴う。親家また惟重の知行分は、全く惣名に亘るべからず、親家知行し来たるの旨これを陳ぶ。各々の問答に及ぶ。親家その過を遁れ難きに依って、前の武州殊に御気色有り。当座に於いて侍所司金窪左衛門大夫行親を召し、親家を預かり守護せしむべきの由仰せ付けらる。またその子細遠州に仰せ遣わさると。遠州頗る恐れ申せしめ給う。
『5月3日 壬申 』
国吉名の事、惟重裁許の御下知状を賜うと。】









「赤丸浅井神社由緒」に見られる「越中吉岡庄」の範囲 !?




「宝永誌」(加賀藩記録)に記載される「越中吉岡庄」から「五位庄」への改名記録 ❗❗






■川合郷、越中吉岡庄、五位庄と変遷した赤丸村に鎮座する「延喜式内社赤丸浅井神社」※53ケ村総社、江戸時代は57ケ村総社












赤丸浅井神社宮司(西宝院の坊官)の家系の墓碑銘に残る古代に使用された「刀自」「郎女」の戒名のナゾ!!




■赤丸浅井神社の神社由緒に「元正天皇二宮御創建」と記載され、森田柿園は「越中志徴」の中で「元正天皇は女帝で子は無し」と記載し、浅井神社由緒は更に「先帝(文武天皇)の御子か」と記載している。天皇家の系図を調べると、この「二宮」は文武天皇の第二子の石川朝臣広成と考えられる。この皇子は文武天皇の第二子でありながら藤原不比等の陰謀で、母の蘇我氏末裔の石川刀自郎女(イシカワトジノイラツメ)と共に不義の罪を被せられ廃妃・臣籍降下させられ、不比等の孫の聖武天皇の家臣となり、内舎人という天皇の世話係をさせられていたようだ。後に「石川朝臣」となり、更に「高円朝臣」と賜姓されて(※「続日本紀」)身分も回復したようだが、赤丸浅井神社を創建したと伝わる人物だ。当初、赤丸村は蘇我氏と同族の(武内宿祢の子孫)利波臣志留志の所領だったようだが、その後、「石黒氏系図」によると「利波臣」は藤原氏の林氏と婚姻して「藤原氏」を名乗っている。藤原氏の勢力が強く、さしもの利波臣も婚姻政策で「藤原氏」を名乗り始めた様だ。この時点で神社創建の由緒から蘇我氏の創建という事実は覆い隠されたのかも知れない。その後、藤原氏全盛の時代には赤丸浅井神社に藤原道長の甥に当たる「一条天皇」が「勅使川原左京」(河原町の左京太夫=藤原道長か?)を遣わし、神前に左右一対の桜をお手植えしたと云う。この桜は昭和初期迄残っていた様で、赤丸浅井神社の拝殿に巨大な桜の写真が掛けられている。
平家全盛の時代には平家の重臣「越中次郎兵衛」が国吉名に居館を構え、能登と共に統治していた様だ。(※「国吉小史」「平家物語」)
その頃は「越中吉岡庄」と呼ばれて藤原氏長者の藤原頼長領であったが、「保元の乱」で勝利した後白河上皇は「越中吉岡庄」を没官して上皇領の「後院領」としている。源頼朝が全権を握ると、赤丸浅井城の麓に地頭「吉岡成佐」が居館を構えた事が「吾妻鏡」に記載されている。その後、後鳥羽上皇が領主となったが、「承久の乱」(※1221年)で敗れ、後鳥羽上皇は血涙を流して隠岐にに流されて亡くなった。その時、石黒氏は後鳥羽上皇に従って戦ったが敗れて北条氏の軍門に下った。その後、北条一門の名越氏が越中の領主として配置され、石黒氏はこの時に赤丸浅井城を去り、新川に逃れた事が「赤丸名勝誌」等に記載されている。その時点で赤丸浅井城には「中山氏」が城主として入城した様だ。

■「越中吉岡庄」は 後白河上皇により蓮華王院に寄進され、正応3年(1290年)には未だ蓮華王院領であった記載が「鎌倉遺文」に残されている。

(http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller)
【(正応3年?※1290年)8月晦日、濫妨候了、又知行分蓮華王院領越中国吉岡庄役夫工米者、自蓮華王院…】東大寺文書四ノ十二(※鎌倉遺文23━32)
※正応年間(1288年~1292年)→この時代の天皇は伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、久明親王、執権は北条貞時。



■「蓮華王院越中吉岡庄の記録」(※「東大寺文書」)
(※『訳』正応3年8月晦日の茜部荘地頭代迎蓮書状(東大寺文書)には,美濃国(岐阜県)東大寺領茜部【アカナベ】荘への伊勢大神宮内外宮役夫工米の宛課と神符使等の同荘への入部を停止・免除してもらうために美濃国市橋荘(岐阜県岐阜市内)・蓮華王院領越中国吉岡荘の事例を引き,「又知行分蓮華王院領越中国吉岡庄役夫工米者,白蓮華王院,去々年被奏聞 公家候て,被免除候了」と述べている。→[角川日本地名大辞典])

■上杉謙信は能登七尾城を攻略し、越中と能登の間の石動山の多くの寺院が焼かれ、越中の神保氏張、寺島牛助等は謙信の軍門に下った。七尾城は上杉受け入れ賛成派、反対派に分かれ、中には上杉を陰ながら支援する武将も有った。



■能登を攻略した上杉謙信は、元畠山氏家臣の高岡守山城城主神保氏張、五位庄柴野城城主寺嶋牛之助に対して「所領安堵」をおこなった。



 

🔴🌸 「延喜式内社赤丸浅井神社」の創建時代の文化⇒「延喜年間」から見られる『掛け算九九』の文化!!

2018-04-27 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
●「延喜式内社赤丸浅井神社」は「元正天皇」の時代に古代から在った神社が再興されたと伝わり、古くから「川合郷」、「吉岡庄」、「五位庄」の中核施設として地域の信仰を集めた神社で、中世には霊験あらたかな皇室所縁の神社として「川人大明神」とも呼ばれたと言う。
「明神」とは天皇が発する「宣名」の書き出しに用いられる言葉で、先祖神に改まって言上するという意味だが、後には「霊験」の高い皇室所縁の神社が「大明神」と呼ばれて尊崇された様だ。「拾芥抄」と言う古書が在り、この中には赤丸浅井神社の繁栄した「延喜年間」から後醍醐天皇の「南北朝時代」に至る様々な説明が載せられている。


国宝「東大寺庄園越中石粟庄絵図」には、「延喜式内社赤丸浅井神社」に「神田一段」が寄進された記載が在る。



■「拾芥抄」⇒鎌倉時代中期には原型が成立し、暦応年間に洞院公賢がそれを増補・校訂したと考えられている中世の百科辞典。暦応(リャクオウ、レキオウ)は、南北朝時代の元号で北朝方が使用した。後醍醐天皇の親政が成った建武年間の後で康永の前の年代。(1338年~1341年、北朝方は光明天皇、南朝方は後醍醐天皇、後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。この時期に高岡市福岡町赤丸周辺の「越中吉岡庄」は後醍醐天皇の庄園で在った。)

江戸時代の写本の「拾芥抄」には、中世の上皇の庄園「後院領」の役職・制度や風俗・習慣も含めて様々な記載が在る。
その中に、「掛け算九九」の記載が在り、古くから高度の計算を行っていた様子も記載されている。





■「掛け算九九」については、「延喜九年」(909年)の記載が在る25点の木簡の一つに「掛け算九九」の練習を記載した木簡が出土した島根県大田市の「白坏遺跡シラツキイセキ」が在り、1988年に出土した。「九九」が記載されたものは平城京遺跡、藤原京遺跡等六ケ所から出土しているが、このケースは律令制下の地方から出土したものとして珍しいと云う。(※「古代史発掘」朝日新聞 1991年)




🔘🌸🏯「延喜式内赤丸浅井神社 社殿」に残る「皇室の紋」!! ⇒「養老年間 元正天皇」の時に「文武天皇の二宮」が創建された「延喜式内社赤丸浅井神社」

2018-04-26 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
◎「養老年間(※717年~724年)、元正天皇の時代に再建された延喜式内社赤丸浅井神社」

「文武天皇」は若くして亡くなられた為に、その母の「元明天皇」、姉の「元正天皇」はその皇子が成長する迄、親代わりに成り天皇に即位された。「延喜式内社赤丸浅井神社」は「聖武天皇」の弟の「文武天皇二宮 石川朝臣広成」が創建されたと伝わる。
(※「由緒」では母代わりの「元正天皇の二宮」とされる。)

・神社の各所には、皇室の紋の「十六菊紋」が遺されている。




歴代、天皇の皇子が門跡に為られた「門跡寺院 聖護院」の末寺の「別当寺 川人山鞍馬寺」と「赤丸浅井神社」は 、「白河上皇」の時に「上賀茂社」の庄園と成り、その後、藤原摂関家、後白河上皇~後醍醐天皇庄園、下鴨神社庄園と成った「越中吉岡庄」の中核施設で在り、室町時代に入ると「五位庄」と成り、足利義満が相国寺にこの庄園を寄進した時に「五位庄」は高岡市二上山の麓から福野町の野尻迄、幅も西山から庄川迄の広範囲な庄園に成った。この時に砺波郡は足利義満の側近の蜷川新右エ門親当が統治したと伝わる。(※「蜷川の郷土史」、「蜷川家文書」、「東寺百合文書」、「万山編年精要」、「蔭寮軒日録」)
「延喜式内社赤丸浅井神社」はこの広大な「五位庄」の郷社で在り、室町時代には「越中蜷川氏」が創建した富山市の最勝寺の住職の「亀阜豊寿 」が能登畠山氏の法要を「赤丸浅井神社」、「川人山鞍馬寺」で二度に亘り盛大に行っている。(※「富山県史」)






































📚📖🐎 松尾芭蕉自筆草稿本に見る「芭蕉」と「曽良」の越中路の旅!!

2018-04-26 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
富山県西部の「西山の夕陽」











●「おくの細道」(※松尾芭蕉自筆草稿本)から読み取れる芭蕉の経路!!

くろへ四十八ケ瀬とかや 数知らぬ川を渡りて 那古と云浦に出 担籠(※タゴ 田子)の藤波は春ならす共 初秋のあはれとふへものをと人に尋ねれは 是より五里礒つたひしてむかふの山陰に入 蜑(※タン 漁師)の芦ふきかすかなれは(※芦で葺いた様な粗末な家も少い) 一夜の宿かすものもあるましと云イおとされて かゝ(※加賀)の国に入

わせの香や 分入右は 有そ海

卯の花山くりからか谷をこえて 金沢は七月中の五日也 爰に大阪よりかよふ商人何処と云ものあり それか旅宿をともにす

■芭蕉と曽良は、田子の藤波を見たいと人に聞けば、那古浦から五里(※20km)を礒伝いに進み 向こうの(西山の)山陰に入った所だと云う。又、この辺りは家も少いので宿舎を借りるのも難しいだろうと脅かされたので(断念して) 加賀に向い 卯の花山(砺波山?)や倶利伽羅谷を越えて金沢には七月五日に入った。

★平成八年に発見されて複製公刊された「志太野坡伝来の芭蕉直筆草稿本」参照
【志太 野坡】(シダヤバ);寛文2年1月3日(1662年2月21日)~元文5年1月3日(1740年1月31日)
江戸時代前期の俳諧師。前号:野馬・別号:樗木社。蕉門十哲の一人。

📕🐎🏯 悪逆非道の「前田利家」を伝える福井県越前市・「北国太平記」!!

2018-04-23 | 富山県高岡市
「前田利家」の大量民間人殺戮の記録


「金沢市文化財 北方心泉作 前田利家像」(※北方心泉はその作品全体として文化財指定)
⇒加賀藩ではこの像を正月の床飾りにしていたと言う。





■越前・加賀・越中の一向一揆では多数の農民が殺戮された。前田利家が福井県武生にいた時に、一揆に加わった農民は野山に隠れた婦女子も捜し出され、引き摺り出されて約一千人全員が徹底的に殺戮された。その処分は槍で突き刺す「磔刑」や、熱した釜に手足を縛って放り込む「釜煎り」の刑であった。その時に、憤り絶望した越前の農民達は御寺の「 瓦」にこの残虐な殺戮の様子を刻み、後代に伝えようとした。
又、古い歴史を綴った「北国太平記」と言う書物には、前田利家が富山県と石川県境の「石動山」を攻撃した時に、寺に居た婦女子や乞食等も含めて全山の民衆を皆殺しにしてその首をはねて寺の山門に吊るしたと記載されている。











■福井県では各市町村にこの歴史認識が生きているが、高岡市の歴史は現在も前田家だけを崇める歴史しか無い。高岡市教育委員会の幹部は「高岡市の歴史は前田家が統治した1600年以前の歴史は無い!!」と平然としてウソぶく。「前田家の歴史以外は歴史では無い」と云うのだ。
歴史はこの高岡市にもさまざまな数千年の歴史がある。この偏向した歴史認識が、かくも「宣伝」に因って正反対になるのは、一面恐ろしい事だ。現代でも「福井県」では「前田利家」は悪逆の武将として密かに語り継がれている。

🌸 越中刀工「佐伯則重の碑」⇒富山市五福(呉服郷)で作刀した佐伯則重!!

2018-04-18 | 富山県
■ 富山市呉羽山公園下に在る「佐伯則重の碑」!!
富山市呉羽山公園下には越中刀工「佐伯則重の碑」が在る。則重は系図に拠ると魚津の松倉郷で作刀した「郷(江)義弘」の師とされ、相州伝の「正宗十弟子」の一とされる。又、その作品には「越中吉岡庄」(高岡市福岡町赤丸)に大和国宇陀郡から移り住んだ大和伝宇多刀工の祖「宇多国光」の作風も見られる事から 、宇多国光に師事したともされている様だ。
(※正宗は相州伝 新藤五国光の弟子で在る事から国光違いだとする意見も在る。)

















🔴🔷🔹「延喜式内社赤丸浅井神社」の墓地に残る二つの墓標 ⇒1300年の歴史の秘密!!

2018-04-17 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸






『延喜式内社赤丸浅井神社』の神官「川人家」は元々、「川人山鞍馬寺」の一坊「西宝院」で在ったが、明治二年に還俗して「川人他治馬」と名乗り、神官に成った。明治以降は一般的な墓に成っているが、古い墓地は「聖護院派山伏」で在った為に、墓地には石仏が配置されるが、恐らく廃仏毀釈の為だろうと思われるが、その殆どの首が切られている。
この一画には川人家と石川家の墓地だけが在り、石川家の墓標には天皇家の紋「十六菊紋」が配置されている。「赤丸浅井神社」の伝える所では、石川家は古い家系の「七軒百姓」と呼ばれた豪農で、本家は伝来の茶釜を伝えていたと云う。その本家は明治に入り北海道に移住して、現在残る家系はその分家筋だと云う。
「赤丸浅井神社」は奈良時代の717年に「元正天皇の二宮が社殿を整備された」と云う。この皇子は系図から見ると「文武天皇の二宮」で在り、聖武天皇の腹違いの弟に当たる。「続日本紀」に拠れば、この人物は「石川刀自娘 イシカワノトジノイラクツメ」を母として産まれたが、藤原不比等によって臣籍に降下させられて、天皇の身近に支える「内舎人」に就任して恭仁京に赴任している。この時期に大伴家持も内舎人として恭仁京に赴任して居たようであり、石川朝臣広成が恭仁京で歌った歌等三首が「万葉集」に掲載されており、大伴家持が越中国司として高岡市の国府に在任中に、越中の「利波臣志留志 リハノオミシルリノサクワン」が石川朝臣広成の義兄の聖武天皇発願の東大寺大仏造営の為に、「米五千石」(※「東大寺要録」)を寄進している。又、「利波臣志留志」が越中の東大寺庄園の開発に当たっていた時に、越中国司大伴家持は東大寺庄園の検校僧「平栄」を迎えて歓迎の宴を開いており、奥州から大仏のメッキの為の「金」が産出した事を寿ぐ歌「金を産出した事を寿ほぐ歌」を聖武天皇天皇に贈っている。この歌は軍歌にもなっている「海行かば~」の一節として有名だ。正に、この時期に、越中では聖武天皇、大伴家持、利波臣志留志、石川朝臣広成等が越中の地で交わっている事になる。元赤丸村領(高岡市高田島村)に在る「五位庄神社」の由緒には『聖武天皇勅願社』と記載される。
(※「富山県神社誌」)

(※古記録に拠ると、元正天皇の治世には九州地方の隼人と奥州の蝦夷が同時に反乱を起こしており、「赤丸浅井神社縁起」に記される様に、東西各々33ケ国を「一宮[聖武天皇]、二宮[石川朝臣広成]の二皇子が分担された」と言う事は在ったと見られる。)





■赤丸浅井神社敷地に神官以外の墓地はこの石川家のものだけであり、この石川家の古い墓標には天皇家の紋の「十六菊紋」が彫られている。「赤丸浅井神社の社殿」にも「十六菊紋」が取り付けられており、この石川家が天皇家の菊紋を付けている事から、「赤丸浅井神社三社記」にも記される様に、元正天皇の皇子の「石川朝臣広成」の子孫がこの石川家と推定される。







(※天皇家の「十六菊紋」は後鳥羽上皇が菊をこよなく愛された事から天皇家の紋に成ったとされ、この墓標も越中吉岡庄が後鳥羽上皇の庄園に成った以降に造られたものと見られる。)
⇒元々、天皇家の紋は「桐紋」で在り、それは「天子の象徴の鳳凰は青桐に住まいして竹の実を食べる事」から来ている。青桐は中国では「棺桶」を造る為の材料とされ、神聖な木とされる。桐紋が豊臣家家紋とするのは、使用を許されたと言う事だけで在り、元々の家紋では無い。

▼「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当寺「川人山鞍馬寺」の縁起に、この寺の始まりは「行基」が「浅井神社」の域内に庵を結んだのをはじめとし、その後に白山を開いた「泰澄大師」が庵を結び、当時の「元正天皇」の御代の繁栄を祈ったとされる。
「川人山鞍馬寺」の本尊で、現在、井波別院瑞泉寺の客佛に成っている「富山県指定重要文化財阿弥陀如来立像」は「白山修験道の泰澄所縁の仏像」とされている。

🌁🌄🌷 郷土の歴史は地域住民の力で!! ⇒富山県内の「東大寺庄園図」等の誤解を解く。

2018-04-07 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

「室町時代の五位庄」
(※「東寺百合文書 やなた某書状案」)
⇒国立歴史民俗博物館DB参照


富山県内の歴史については各市町村の郷土史研究団体や会誌が廃止されており、その点では「富山県の歴史研究」に赤ランプが点灯している。地域の住民の伝承や古文書保存は頗る大切だが、「近代化」「合理化」の名の下に「金を稼げない活動」として次第に細って来ている。特に高岡市は「歴史都市」を標榜して「●●遺産の指定」にのみ力を入れて、肝心な「史実の確認」を全く行っていない。
「歴史検証」では、自然災害や自然の変化等が歴史の大きい転換点になり、その大きい要素として「河川の変化」があげられる。この変化を確認せずに「現状」だけで歴史を紡ごうとする所に大きな歴史の流れの誤認が生じており、「石黒信由」の河川研究等を歴史検証に活用する事や自然変化の認識を進める事が重要だ。高岡市周辺には、【東大寺庄園】の「鳴門庄」、「須加庄」、「杵名蛭庄」、「くぼた庄」が在るが、何れの研究を見ても、曾て、「小矢部川」が西山の麓の山下を通過しており、その小矢部川と庄川が赤丸浅井神社前で合流していたとする「赤丸浅井神社」や国吉村に伝わる事実を念頭に入れている人は少ない。従って、その庄園の位置の検討自体で大きく位置がずれている。「須加庄」は従来、高岡市国吉地内とされて学校でも教えているが、実際に「東大寺庄園須加庄図」にはこの庄園は「射水郡」と記載されており、国吉村は「砺波郡」に在る。「砺波郡」と「射水郡」の郡界は室町時代には高岡市守山の方向に動いていたとする見解が有り、小矢部川の流れの変化や政治的な郡界の変更もその史跡位置の確認には重要だ。高岡市には、これほど東大寺の庄園が密集しているが、砺波市とは異なり、実際に東大寺庄園の位置の掘削確認も行われていない。「万葉歴史館」と言う全国的にも稀有な施設を持つ高岡市は、充分な施設、資料も備えながら具体的活動では相当低調で、正に「宝の持ち腐れ」で在る。それも、高岡市はこの「万葉歴史館」、「博物館」、「美術館」、「図書館」等の文化活動の中核施設を外部団体の運用に任せ、高岡市とそれ等の施設の温度差が在る事も、高岡市の文化活動が低調な原因ではないか?
実際に学芸員を抱えるこれ等の施設の意向がダイレクトに高岡市教育委員会と共有されず、教育委員会は「お上」宜しく、上から目線の歴史観を相変わらず持っている。「根拠の無い歴史」を御題目の様に唱えて、教育の本山の「教育委員会」が一番、反動的な態度を維持し、相変わらず、加賀藩時代の歴史観を引きずっている事が根本原因だ。これで、「歴史のまちづくり」を目指すと標榜しているのだから、「高岡市の歴史」は何時までもフエイクの上塗りでしか無い。


●「時代による河川名の変遷」
⇒『赤丸浅井神社古墟図』(※石川県立図書館蔵)では、曾ては、「延喜式内社赤丸浅井神社」前で「小矢部川」と「庄川」が合流しており「阿光ケ淵」(※元正天皇の勅書に拠れば「吾子」)と言う広大な合流点を形成していたと云う。曾ての「小矢部川」が富山県の「西山の麓」を流れ、「赤丸浅井神社」の前で「庄川」と合流していたと云う史実を確認せずに歴史検証を進めている為に起こっている「歴史認識の誤り」を正さずに、正確な歴史検証は進まない。その点で砺波市の河川研究の資料は非常に重要だ。














■時代に拠る河川名の変遷を辿ると、現在の「荒又川」(※「新又川」・「あらまた川」)は赤丸浅井神社前で庄川と合流しており、木舟城全盛時代には「唐又川」(※上流域を木舟川」)と呼び、古代の東大寺庄園「杵名蛭庄図」には「石黒川」として登場している様だ。
又、この庄園図に見られる「速川」は中世には「ソフ川」(※小矢部市保管絵図)となり、現在は「祖父川」に成っている。
この河川の下流域は「高岡市早川」と呼ばれ、この地域には「延喜式内社速川神社」が鎮座している。
















💠🏯 室町幕府足利家菩提寺「等持院」・「等持寺」・「相国寺」と「越中五位庄」⇒「足利将軍家」、「能登畠山家」、五位庄の「宇多一族」!!

2018-04-04 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


■「足利尊氏」は「仁和寺」の子院を動かして「等持寺」と共に足利家菩提寺の「等持院」とした。
「等持院」は足利将軍家の菩提寺であり、山号は「万年山」という。この等持院は寺名(等持)や開山(夢窓疎石)・本尊(地蔵菩薩)、足利将軍家に極めて密接であったという共通性をもつ等持寺と混同されることが多い。この「万年山等持院」は、もとは衣笠山の山上に位置した真言宗の仁和寺の子院であったが、現在の場所に移されて夢窓疎石を開山とする禅宗寺院に改められたという。この「万年山等持院」は記録上では「仁和寺等持院」・「北等持」といい、現在では「等持寺」と区別するため便宜上「万年山等持院」「洛北等持院」と称されている。



■「三代将軍足利義満」は、母の「紀良子」の祖先が「宇多天皇」と越中蜷川氏の娘の「胤子」の間に出来た「醍醐天皇」を祖先に持ち、「宇多源氏」の直系にも当たる。「足利義満」の側近の「蜷川新右エ門親当」は「蜷川系図」に拠ると「越中の新川郡と利波郡を領した」とされ、この利波郡は小矢部市の蓮沼辺りとされるが、「能登畠山文書」の「室町時代越中統治絵図」に拠れば、この時期に「利波郡」の殆どを占めた「五位庄」は「五位庄の東庄」と「五位庄の西庄」に分割されていた様だ。「足利義満」は室の「日野業子」が亡くなると「越中五位庄」を京都の「相国寺」に寄進しており、この時期に「五位庄」は「利波郡」の殆どと高岡市守山、伏木港迄も占めた様だ。京都の「東寺百合文書」の「やなた某書状案」には「五位庄野尻」と記載されて南砺市福野町も五位庄に含まれた事が記載されており、又、「射水郡内段銭状案」には高岡市中田から砺波市にかけて広がっていた「般若野庄」には「五位庄の東庄」も含まれていたと記載されている。









「五位庄の東庄」が庄川沿いの「般若野庄」に含まれていた。

■「畠山家記」(※「羽曳野資料」)には、「般若野庄」の庄園領主の「徳大寺家」(※藤原氏)が越中に下向して、この時に越中の「石黒」、「井口」、「土肥」が従ったとされ、「越中統治絵図」にも石黒氏の記載が在る。



■応永22年(※1415年)には、「足利義持」が「五位庄の半分」を足利家菩提寺の「等持院」に寄進した(※「等持院常住記録」)とされ、その後の東寺百合文書では「五位庄」からの年貢未進が続いた為に「等持院」・「等持寺」が直務したいと幕府に申しれているが却下されている。当初は「等持院」に寄進されたが、後には「等持寺」の庄園にもなったと見られる。この「五位庄の半分」は小矢部川から東の「東庄」で在り、畠山守護家が所有して越中蜷川氏が統治した部分の「西庄」は除外されていたと見られる。



■「赤丸浅井神社」や高岡市関町の「総持寺」の檀家の池田家には「室町時代の応永9年頃、国主の意向により赤丸村を追われた」とされ、射水市の松山学芸員の論文では「この時期に総持寺は海岸近くに動いて浜総持寺と称して、この寺では海の光を浴びた黄金の千手観音像の前で雅楽演奏も行われて(※畠山持国の父の)畠山満家の三回忌法要が営まれた」とする「名古屋大須観音の古文書」が紹介されている。「足利義満」が「相国寺」に「五位庄」を寄進した時に「底地は畠山満家に預け置かれた」(※「富山県史中世」)とされており、「越中統治絵図」には「赤丸浅井城と見られる「城」の表示の脇に「畠山持国」の記載が在り、この論文を証明している。








■「宇多源氏佐々木氏流」とも云われる越中の刀工直系の「宇多家」の墓が在る高岡市柴野十日市の「曹洞宗三光寺」の墓地には、本家の「宇多家」や分家の「宇田家」、「鍛冶家」の墓と共に同じ「剣方喰紋」の「畠山家」の墓も林立しており、五位庄で作刀した「宇多一族」と足利一族の「能登畠山氏」が何れも「宇多天皇」と密接な事から、血縁関係を結んでいた事を窺わせる。




越中の宇多刀剣は多くの「文化財登録」が在る。



■「能登畠山氏」は「畠山重忠」の未亡人と縁組した「足利義純」の系統で、「畠山満家」の弟の「満則」を初代にすると云う。(※「能登畠山系図」参照)

「畠山重忠」は秩父平氏だが「能登畠山氏」は源氏の「足利義純」の末裔であり「源氏」




📕⛵ 『太平記』に見える射水市の「放生津城」と「白山神社」⇒後醍醐天皇の「恒性皇子」と「名越時有」!!

2018-04-02 | 富山県高岡市





「後醍醐天皇」の皇子「恒性皇子」は越中二塚村で暗殺された。





















■南北朝時代に、富山県射水市の新湊小学校の敷地に在った「放生津城」は、北条一門の「名越時有」の居城で在った。現在の高岡市南部の神社に幽閉した後醍醐天皇の皇子「恒性皇子」をも暗殺して全力で戦ったが多勢に無勢、放生津城は敵に囲まれて、女子供は海に逃して戦った。しかし、遂には城中の者全員が自害し、女・子供も含む一族全員が海の藻屑となった。「太平記」には「平家物語」の「壇之浦の戦い」の様な光景で、女官の華やかな衣装が海面に漂って、悲惨な一族が海に漂う様子を著している。
この後には、舟がこの海上を通ると霞の中から亡霊が現れ、「我こそ名越時有」と告げて、かき消す様に消えたと言う。
富山県高岡市二塚1343に「白山神社」と言う神社が在る。古いこの神社は、この「名越時有」が社殿を建てたものだと云う。この神社には、「織田信長の根尾氏宛の古文書」も保管しており、系図からすると「巴御前」の一族の「中原氏」にその姓が見られる名門の神官の様だ。この神社の近くには「恒性皇子」を幽閉していた「悪皇子社」と言う神社もある。この「悪皇子」と言うのは「特別な力を持った皇子」と云う意味だと云う。





●この系図の後醍醐天皇第八皇子「宗良親王」は、興国三年、越中石黒氏の「赤丸浅井城」「福岡町木舟城」に入られ、南朝の士気を鼓舞された。赤丸城ケ平山中腹には「宗良親王の墓」と伝わる「親王塚」や宿舎跡とされる「親王屋敷跡」が在る。


●「放生津城の歴史」
放生津城は元々は土塁を巡らし、塀や柵、櫓を取り付けた「守護の屋形」で在ったが、その後、城郭が造られ放生津城になって行く。周辺には河川から水を引き込み、防衛と兵器・食糧等を運び込む水運が確保された。放生津城は約6000坪近くも在ったとされ、北条氏の一族の名越時有が正応元年(1288年)に構築したと伝わっている。後醍醐天皇の皇子で京都の大覚寺門跡で在った「恒性」(コウショウ・ツネタチ)は鎌倉幕府の討幕に参加された為に、元弘三年(1333年)二月に越中に流された。名越時有は恒性皇子を高岡市二塚に幽閉したが、全国で南朝軍が攻勢を強め幕府軍の弱体化が目立ち始めた為、元弘三年五月十四日、時有は恒性皇子を幽閉した場所で暗殺した。この頃、京都六波羅で敗戦した幕府軍に向けて出羽や越後の朝廷方が北陸道を攻め登って来た。時有は越中、能登の御家人を集めて戦ったが、戦況は不利で、放生津城に籠った時有は妻子を海に逃して海に沈め、一族郎党79人は放生津城に火をかけ、妻子の死亡を確認してから全員が切腹して果てたと云う。
「太平記」は、「一人の女房は二人の子を左右の脇に抱き、二人の女房は手に手を取り組んで同じく身をぞ投げたりける。紅の衣、絳アカキ袴の暫く浪に漂ひしは、吉野立田の河水に、落花紅葉の散乱たる如くに見えけるが、寄せ来る波に紛れて、次第に沈むを見果てて後、城に残り留まりたる人々、上下79人同時に腹を掻き切って、兵火の底にぞ焼け死にける。」と記す。
南北朝の終期1392年に後亀山天皇が後小松天皇に神璽が伝えられ、その頃の越中守護畠山持国は在国しなかった為、守護代として神保国宗、長職、慶宗と続き、この間80年間、「放生津館」を構えた。中央では、畠山氏と官領細川氏が争い、明応三年(1494年)には第十代将軍足利義稙ヨシタネ(義材ヨシキ)が神保氏を頼って越中の放生津にやって来た。この頃、実質的に富山県新湊に幕府の臨時政権ができたとする歴史家もある。
石堤村西光寺縁起には、「将軍足利義材」が、度々、立ち寄ったと記載されている。
【「五位庄」は「足利義満」が「相国寺」(※「金閣寺」)に寄進して以来、足利家菩提寺の「等持寺」「等持院」の庄園として続いた。】
神保慶宗は謙信の父の長尾為景と永正十七年(1520年)富山新庄城で戦い敗れて、この時に放生津城も焼失したと云われ、その後も神保氏と上杉謙信の戦いが続き、文祿元年(1592年)に廃城されたと云う。