赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

💠🔹高岡市周辺の観光地⇒「西山歴史街道」の『三千坊山』と幕末の剣豪『斉藤弥九郎』の故郷!!

2017-12-30 | 富山県高岡市
●越中出身の剣豪『斉藤弥九郎』




富山県氷見市仏生寺は『斉藤弥九郎』のふるさと。
三百近くの寺院が在ったと伝わり、今も跡地が山中に残る修験道のメッカで、上杉謙信に多くの僧が惨殺された三千坊山。その麓に仏生寺という部落がある。高岡市からは国吉村の山間の道を進むと到達する。集落の入口に看板がある。
その村では、謙信の襲撃で三千坊山から流れ出る水が僧達の血で真紅に染まったと云う。
この村が『斉藤弥九郎』の生地で、今も子孫が住む山里。この斉藤家と柴野城寺島一族の赤丸村に住む末裔は数度にも亘り婚姻を重ねている。
斉藤弥九郎は、越中石黒氏の同族の加賀林氏の分流で、加賀富樫氏の末裔で在り、越前斉藤氏の流れを汲み、藤原一族。一向一揆に敗れた加賀朝日城の富樫一族が落ち延び、この山中に住み着いたとか?
故郷の氷見市には弥九郎の研究者も居られる様だが、高岡市では余り耳にする事も少なく、数年前に高岡市福岡歴史民俗資料館の「西山歴史街道をゆく 展」で展示された、高岡市岩坪で発見された「斉藤弥九郎の縁者へ宛てた手紙」位しかお目にかかっていない。
貧しい百姓に生まれ、長じて高岡市の商家に奉公して苦学し、やがて大志を抱いて江戸に向かい、剣を研いて幕末の剣豪と呼ばれた。
高岡市からは、国吉からこの仏生寺を過ぎて少し行けば庭園が有名な蓮如所縁の「浄土真宗光久寺」に着く。この庭園は「志」を寄進して拝観する事ができる。





🐎🐎🐎 皇族・貴族の様々な『乗り物』⇒後白河上皇・後鳥羽上皇・後醍醐天皇の庄園『越中吉岡庄』!!

2017-12-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
『天皇行幸絵図』


『後白河上皇』(※真野満は長講堂の後白河上皇像を写した。)⇒「遊女乙前」は後白河上皇が編纂された「梁塵秘抄」に載る「今様」の師匠であった。


『後醍醐天皇』(※大徳寺の肖像の写し)


『越中吉岡庄』の「郷社53ケ村総社延喜式内社 赤丸浅井神社」を中心とする「赤丸絵図」









●『上皇』『天皇』『貴族』の様々な乗り物!
『有職故実』・『與車考 ヨシャコウ』等に見える様々な「牛車」や、天皇の象徴の乗り物の『鳳輦 ホウレン』。『鳳輦』は人が担いだが、この形が現代の『お神輿』になっている。驚いた事に「法皇」の乗り物は植物の「檳椰樹(ビンロウジュ)の葉」で葺いた「唐車」だったと云う。その理由はハッキリしないが、神武天皇以前には、「ウガヤ朝」の「ウガヤフキアワスノミコト」が天皇の時代が続いたからではないかと云う学者もいる。「天皇」や「皇族」、「関白」が乗った「唐車」や貴族の様々な「網代車」等が在り、「網代車」は奥から豪華な布を垂らして貴族の乗り物を示した。「上皇」や「天皇」が乗られた「唐車」や様々の「牛車」は、「乗る時には必ず後ろから踏み台を使って車に乗り、降りる時には牛を外して前に踏み台を置き、必ず前から降りる約束事」が在ったと云う。

天皇の乗り物『鳳輦ホウレン』




上皇の乗り物の『唐車』





『輿 コシ』


『輿車 ヨシャ』⇒牛車と人が曳く車が在る。





『鳳凰』は「青桐の木」に住むと云う。


京都の「山鉾巡行」⇒心柱に神々が降臨される「樹木」を立てた『お神輿』の大型の車



高岡市「二番町の曳山」⇒「越中宮極楽寺」では、「後醍醐天皇皇子宗良親王の御座車」を使用していると「由緒」に伝わっている。


🌸🏯📃 富山県高岡市の「高岡」と「高岡山瑞龍寺 」命名のウソ⇒歴史の偽造?!!

2017-12-30 | 富山県高岡市福岡町赤丸村


「詩経」⇒「鳳凰鳴けり、彼の高き岡に。梧桐生ず、彼の朝陽に」


「国宝 高岡山瑞龍寺」と「衆徳山総持寺」の関係とは? 「高岡市」の命名の謎とは?

「富山県大百科辞典」の記載


「総持寺門徒総代池田家の総持寺由緒の伝承」
(※赤丸浅井神社)
(※池田家は元々、赤丸浅井神社の隣接地に住まいして藩政期には肝煎を勤めた。)



「総持寺の国指定重要文化財木造千手観音座像」


「衆徳山総持寺」の越中吉岡庄(赤丸村)に残る旧地






「高岡開町時の関野原の様子」 ※「高岡史料」高岡市博物館所蔵

現在、高岡市博労町に在る「総持寺」「天景寺」「極楽寺」は総て「越中吉岡庄」の「赤丸村」に創建され、南北朝時代以降の戦乱により、赤丸浅井城城主で地頭石黒氏の同族、鴨島氏の所領に移ったものらしい。海寄りの「牧野地区」も石黒氏が地頭だったらしいので、射水市松山学芸員が発表された「総持寺は一時期、牧野に有り、その後、現在地に動いた」とする説や「極楽寺は牧野に在った」とする説も考えられる。「極楽寺由緒」には「昔、五位庄極楽谷に在ったと聞く」とも記載されている。

(※「極楽寺由緒」、「天景寺由緒」、「総持寺由緒」、「ある贋作物語」、「舞谷村の昔むかし」、「博労町十四か寺めぐり」、「三輪国治文庫」、「長慶天皇・宗良親王の五位庄に於ける御遺跡」等参照)




(※「高岡の文化財」高岡市教育委員会発行 参照)

「富山県大百科事典」(※「富山新聞」発行)に「高岡」命名の真実が記載されている。それによると、「高岡」とは元々「高岡山総持寺」から前田家が取り上げ「高岡山瑞龍寺」として名付けたものだと云う。

富山県高岡市の「高岡」の命名については、高岡総持寺の第二十二世快雄法印が詩経の一節の「鳳凰鳴けり、彼の高き岡に。梧桐生ず、彼の朝陽に」から「高岡」と前田利長に提言した事になっている。しかし、何故、利長を鳳凰になぞらえたりしたのか? この命名のいきさつが少し飛躍しているように思われるのは私だけだろうか?
「高岡」の命名については他にも、倶利伽羅長楽寺・高岡総持寺・富山の富山寺・金沢の金沢寺の住職を兼務したと言われる秀雅(慶長10年、長楽寺住職)とか、前田利家御伽衆岡本三休等の命名とされる意見も有る様だが、元の赤丸村での総持寺の立地からして総持寺が元々「高岡山」で有ったとする意見は筋が通る。又、現在高岡市街地の中心部になっている元の「関野原」は周辺が庄川の支流に囲まれた、わずかに標高十五メートルの台地で有り、「高岡」と名付けるのは違和感を感じる。

■「鳳凰」で有名なのは宇治の平等院鳳凰堂であるが、この場所は元々、藤原氏長者の藤原道長の屋敷「宇治殿」の跡で、その子の藤原氏長者藤原頼通の時、寺院となり、これが平等院の始まりである。 藤原氏長者は 、 藤原道長( 995年-1017年) 藤原頼通 (1017年-1064年) 藤原教通(1064年-1075年) 藤原師実 (1075年-1094年) 藤原師通(1094年-1098年)藤原忠実 (1098年-1121年)藤原忠通(1121年-1150年) 藤原頼長(1150年-1156年)と続くが、赤丸村を含む「越中吉岡庄」は保元の乱以前は藤原氏長者藤原頼長の荘園で有った事が「平範記」等で確認できる。「越中吉岡庄」は藤原頼長が父親の藤原忠実から摂関家荘園18荘を譲られたがその中に含まれていたかは定かでは無い。
「浅井神社由緒」では「一条天皇の時、蝗害防止の祈願の為勅使川原左京が遣わされた。その時に植えられたのが勅使桜である。」とされ、この川原左京は「河原町の左京大夫」であった一条天皇の叔父の「藤原道長」と考えられる。藤原道長は藤原氏の氏寺「法成寺」を河原町通りの鴨川西岸に建立し、この寺は「京極御堂」と呼ばれ、道長は「御堂関白」「御堂殿」と呼ばれた。一条天皇の時に藤原道長は「左京大夫」と云う「五位」の職に在った。越中吉岡庄は長く藤原氏の荘園で有ったが、保元の乱で藤原氏長者の藤原頼長が敗れると、その後は後白河上皇の後院領になり、後醍醐天皇迄天皇直轄領として伝領したと云う。
※「越中吉岡庄」を所有した「藤原頼長」は「藤原道長」と「藤原頼通」の一字を採って「頼長」と名付けられたと云う。「越中吉岡庄」も藤原道長の時代から伝領したものか?
8~12世紀には荘園が拡大する為、その対策として朝廷は延喜2年には荘園整理令を出し、以後、歴代の天皇は荘園整理令や新荘園の設立禁止の政策を取っており、11世紀からは開発領主自らが行政に進出したり、国司の課税強化を逃れる為、中央の貴族・寺院(領家、本家)に荘園を寄進する様になる。従って、古くからの荘園は伝領したが、途中で新しく荘園化する事ができなかった為、「寄進」によって荘園が増やされてゆく。奥州藤原氏の荘園も有力貴族に寄進されたと云うから、「越中吉岡庄」も地元の開発領主等から時の権力者に寄進されたものかも知れない。藤原氏に移る前の白河上皇の時代には「越中吉岡庄」は京都の上賀茂神社の荘園で在ったが、当時は財政を賄う為に領主が産物を寺社に寄進する形が多かった為、領主は古くから藤原摂関家だった可能性もある。
(※福岡町大滝地区は吉岡庄の加茂の吉岡谷に住いした地頭の「吉岡成佐」が開発したと云う。→※「貴船城古今誌」参照)

■では、この詩経の一節は何を意味するのだろうか? 「詩経」には「鳳凰鳴けり、彼の高き岡に。梧桐生ず、彼の朝陽に」と有り、「荘子 秋水篇」には「夫の鵷鶵(エンスウ)※鳳凰の一種  南海を発して北海に飛ぶ。梧桐に非ざれば止まらず、練実(竹の実)に非ざれば食わず、醴泉(甘い味のする泉の水)に非ざれば飲まず」と有り、これから「鳳凰は梧桐にあらざれば栖まず、竹実にあらざれば食わず」の諺を生んだ。※「鳳凰は青桐で無ければ住まない 竹の実しか食べない」
この竹実は昔、飢饉の時に食べられたがマズイらしい。「青桐」は最良の棺桶材で有った事から、昔は中国で櫬(シン)と書き「棺桶」を意味した。又、大雨の時に大風が吹いて青桐の葉が揺れる事から、農耕生活では「豊穣」を意味し、その大風が後には「鳳凰の鳴き声」になり、青桐は目出度い木とされた。
桐の紋で著名な紋は「桐花紋」と呼び、室町幕府では小判等の貨幣に刻印され、以後は皇室や室町幕府、豊臣政権等の政権が用いており、現在では日本国政府の紋章として「五七の桐紋」が用いられている。当初は菊紋章と共に皇室専用の家紋であったが、後には皇室以外の戦国大名等も用いるようになり、皇室は専ら菊紋章のみを用いるようになった。
※古代中国で鳳凰が棲むという桐とは、アオギリ(梧桐)である。日本で使用されている桐紋はこの伝承に倣っている。因みに隠岐に流され、仏道に専念して亡くなった『後鳥羽上皇』が亡くなる迄使用されたのは「桐製の数珠」であったと云う。(※「増鏡」)

「後鳥羽上皇の鳳凰を描いた色紙」


【詩教の一節】
鳳凰于飛、翽翽其羽、亦集爰止。
藹藹王多吉士、維君子使、媚於天子。

鳳凰于飛、翽翽其羽、亦傅于天。
藹藹王多吉人、維君子命、媚于庶人。

鳳凰鳴矣、于彼高岡。
梧桐生矣、于彼朝陽。
菶菶萋萋、雝雝喈喈。

■中国で「君主」とは、「天」に指導者として認められた「天子」で在った。この部分に於いても『天子』の記載が在り、この一節は理想的封建君主は天に認められた天子である事を示している。それに対して、日本国では曾て『万世一系の天皇』が唯一の天子であり、封建君主は「天子」とは名乗っていない。聖武天皇の祖父に当たる「藤原不比等」が天皇をコントロールする権力を持ったのは、実は「天智天皇の子供」で在り(※「大鏡」)、足利義満が「日本国王」を名乗ったのは「宇多天皇の子孫」に当たるからだとされ、日本の封建領主が「天子」と呼ばれた事は無い。高岡市の前田家家臣や有力町人が「前田家」を天子に例えているのに対して、前田家自体は恐れ多い事としてその様な主張はしていない。「封建領主」が「天子・神」を名乗る事は日本では「反逆」、「謀叛」を示し、「有ってはならない」絶対的な禁止事項で在った。全国的に見ても、「封建領主」を「天子」、「鳳凰」に見立てて持ち上げているのは「高岡市」位のもので、正に当時の「天皇絶対」を知らない「市井の徒」の戯言でしか無い。

ここでは「鳳凰」とは、言うまでもなく「天皇」を指しているが、総持寺の第二十二世快雄法印は藩祖前田利家(利長?)を持ち上げる為に実際に「鳳凰」に例えたのだろうか ?
「竹実にあらざれば食わず」についてはさすがに利長に提言しなかったかも知れないが、戦国武将の略奪、奢侈を諌め「帝王になりたいなら帝王は自らマズい竹の実の様な粗食に耐えて、高い丘から民を常々観察して、民の幸福を願う事だ!!」と云う事を示唆して皮肉を込めて話したものと思われる。しかし、これは賛美の言葉として前田氏に受け取られただけで、本当の意味は理解できなかったのだろう。前田氏は領内には基本として「四公六民」の税制を敷いたが、 実際には、占領した敵方の佐々陣営に属した五位庄には、60から75パーセントの高額な年貢をかけて極めて過酷な収奪を行った記録が有る。石川県内の民は優遇しても占領した佐々方の神保氏、寺島氏、中山氏の旧領の富山県西部の高岡や五位庄には「生かさず殺さず」の厳しい政策を取っていた事が判る。前田家の政策は農民の正に「血税」であがなわれ、一部の支配層のみが栄華を貪る体勢であった事がデータから解る。その暗黒政策を知らず、手放しで前田家を賛辞する歴史観には強く違和感を感じる。
(※「東西砺波地方史料」新興出版社 参照)

●『前田利家の封建領主としての残虐性を伝えるエピソード』
天正四年(1576年)越前で発生した一揆について「前田又左衛門尉殿、一揆千人ばかり、生け取りさせられ候なり、御成敗は磔、釜に入れられ、あぶられ候」と記載され、前田利家が如何に兇暴な殺戮集団の指導者で有ったかが判る。反発する者は捕えられ、民衆は「磔柱」に縛られて両脇を非人が槍で突き刺す「磔の刑」、大きな鉄鍋に湯を沸騰させてその中に放り込む「釜ゆでの刑」、縛り付けた柱の周りに薪を積ませて火を点けて罪人を焼き殺す「火あぶりの刑」で殺害されたと云う。※「百万石の光と影」浅香年木著 参照」
又、「高岡史料」には「数え切れない人々が処刑され、殺された」事が記載されている。中には高岡市立野、内島、国吉等の十村役五十嵐氏の様に密告により無実の罪で投獄され、牢死した者もいる。(※「十村断獄事件」と呼ばれ、隠し田の嫌疑で一斉に十村役を捕縛し、厳しい詮議で亡くなった人もいる。占領地赤丸村の住民を強制移動して高岡市和田新村を開発した「和田佐助」も「隠し田」の罪をかけられて「磔の刑」で処刑されている。)
(※「城端別院善徳寺文書」富山県立公文書館所蔵 参照)

■又、この「高岡」という名称については、富山新聞社発行の「富山大百科事典」に拠ると、元々は「総持寺」の山号であり、元の総持寺が「高岡山総持寺」で有ったと言う。この「高岡山」は、瑞龍寺建立の際に瑞龍寺に冠せられ「高岡山瑞龍寺」となり、結局、総持寺は新たに「衆徳山」と名付けたと云う。「鳳凰鳴けり、彼の高き岡に」とは正に「皇室の仏を祀る総持寺」の由緒を表わしたものでものであったが、快雄法印の巧みな生き残り策でその由緒を「高岡町」と「瑞龍寺」の由緒にすり替えたものと考えられる。この事は恐らく博識の快雄法印の一人だけの秘密であったと思われ、多くの民の命を奪い続けた戦国武将前田利家に対するさげすみと抵抗の心情、高度な訓戒を含む提言であった事を意味している。天皇家縁の寺院の山号が奪われ、侵略者・武辺者の前田家を祀る寺院にその名が用いられる事に対する大きな憤りが底辺にあったものと思われる。
(※前田家は禅宗を信仰した為、前田家と禅宗寺院の協力関係が底辺にあったものか?)
総持寺の赤丸村に在った時の旧地は高岡市教育委員会によって2006年に調査されているが、その場所は小高い山の上の一帯であり、そこが「観音堂遺跡・総持寺跡地」とされている。「高岡市」の命名の説明では、「高き岡に」から「高岳」「高丘」と名づけられたと云う。しかし、高岡開町以前の「関野」が目に見える程の山地で在ったとは考えられない。せいぜい千保川沿いの小高い台地でしかない場所で有る。因みに高岡市教育委員会では「この命名の根拠になる古文書等は無い」と回答している。

[総持寺の千手観音像と天皇家]
総持寺の旧地は写真で見られたように相当に高い山で有り、遠目にも山地である事が判る。
私はかねてから、総持寺の国指定重要文化財木造千手観音座像は、その胎内名調査の結果、後鳥羽上皇が讃岐に流された崇徳上皇の成仏を願って製作され、或は鎌倉幕府に「承久の乱」に破れて隠岐に流された後鳥羽上皇自身の無念を安んじて、一日も早い本土帰還を願う為に製作され、河内金剛寺の摩尼院で住職の秘仏として祀られていたが、南北朝の戦乱で河内金剛寺に戦火が及ぶのを恐れて、急遽、後醍醐天皇の荘園の越中吉岡庄赤丸地内の総持寺に避難させたものと考えている。
(※この千手観音像の胎内仏が高岡市内の元総持寺の総代の家に伝わり、鑑定した所「鎌倉時代の仏」と鑑定されている。)

■胎内名には「金剛位理卿」が「本願聖人」であると記載され、他の「藤原浄円 大壇那」等の記載共合わせて検討すると、この法名は「後鳥羽上皇の法名」に他ならない。
又、ここに記載される「大壇那」は鎌倉幕府評定衆の「藤原浄円斉藤長定入道」で有る。元々、越中吉岡庄は藤原氏長者の荘園で有り、藤原氏共縁が深い。仏像を避難させた正平八年頃、南朝の後醍醐天皇の子の後村上天皇側に加わっていたのは赤丸浅井城に拠点を構える藤原氏を名乗った石黒氏で有った。
年代から推測すると、この観音像を越中に避難させる前に、後醍醐天皇と天皇の師である東寺長者の文観は、この千手観音像に、空海所縁の東寺に伝わる仏舎利の壺(勅封されている重要な壺)から5粒を施入したと見られる。総持寺の千手観音像の顔の内部の胎内名には「奉納仏舎利」と2か所に記載されている。これは、後醍醐天皇と文観がそれぞれ施入し、併せて5粒だったと云う事を意味している。この辺りの事情は河内金剛寺に勅書が残っており、間違いない事実だと思われる。1333年6月に後醍醐天皇は隠岐から脱出して帰京した。その年の10月には後醍醐天皇の中宮禧子(キシ)(※西園寺・藤原氏)が亡くなった。1335年、東寺長者の文観は金剛寺住持の持仏に東寺所蔵の仏舎利5粒(後醍醐天皇2粒、文観3粒)を施入したと云う。通常は1粒しか施入されない仏舎利が何故この時は5粒も施入されたかは判らないが、年代からすると、後醍醐天皇の施入分は、父で真言宗を崇敬していた亡き後宇多上皇と、直前に亡くなられた中宮禧子の菩提を弔う為と考えられる。では文観の施入した3粒は何故だったのだろうか? この千手観音像が元々、崇徳上皇の菩提を弔う為に後鳥羽上皇が造仏されたものならば、考えられるのは、時の武士集団に抹殺されて怨霊として恐れられていた悲運の3人の天皇---崇徳上皇、安徳天皇、後鳥羽上皇--の菩提を弔う為であったのかも知れない。後醍醐天皇は武家政権の打倒を目指しており、この3天皇は平家・源氏・北条氏の為に殺されている事から、台頭する足利氏への調伏の意味も込めて護持僧の文観の手で施入され、戦火を恐れて弟子の河内金剛寺の僧禅恵に指示して越中吉岡庄の総持寺に移動させたものと考えられる。





★「後醍醐天皇」が密かに倒幕を企んで表面化した「正中の変」は公家衆のとりなしで天皇への直接の処分には至らなかった様だが、後醍醐天皇はこの年の正月に東寺保管の空海所縁の仏舎利を大量に37粒も奉請(受け取る事)されており、理由は「国家安泰を図る為」と記されている。この仏舎利は倒幕を祈願する為に各所の仏像等に納めれた様だ。後醍醐天皇は自ら、空海が着たと言う袈裟を身につけて、頭には日輪を付けた冠を被った異様な姿をして、東寺長者文観から授けられた真言宗立川流の秘術を以て倒幕を祈願されたと云う。
【元年(1324年)9月、京都の六波羅探題が後醍醐天皇の討幕計画を察知して、関係者を処罰する「正中の変」が起こる。執権は北条高時。】






✳この総持寺の千手観音像の胎内の最も重要な顔の内側に「奉納仏舎利」と二ヶ所に記載されている。この仏舎利は未だ白毫(額の第三の目)等の胎内調査が行われていない様で観音像胎内からは発見されていない。




(※空海が唐から持ち帰った仏舎利は「東寺」の仏像の白毫の下に一粒が金の容器に入れて治められている。この千手観音像が伝来したとされる河内金剛寺に伝わる後醍醐天皇と文観の「仏舎利施入状」では東寺伝来の仏舎利を合わせて五粒施入したとされる。)
しかし、最近、総持寺では由緒が不明な二基の「仏舎利容器」が発見されている。この舎利容器の一基は比較的に新しいが、もう一基は相当に旧い様である。この舎利容器は木製で形は最近薬師寺東棟から発見された「舎利容器」とよく似ている。薬師寺の舎利容器は江戸期に製作された容器に古くから薬師寺に伝来した「仏舎利」を納めたものと考えられている。




(近年、総持寺では古い二基の仏舎利容器が発見されており、この仏舎利容器は未調査だ。
又、赤丸浅井城城主石黒氏所縁の木舟城に在った「小矢部市岡の宝性寺」に由緒不明の仏舎利容器が一基在る事が判った。仏舎利容器は木製で中央部分に水晶硝子?が嵌められ、内側は更に二段に区切られ、各々に小さい仏舎利が納められている。 赤丸に在った総持寺の観音像を移動する時、後醍醐天皇を支援した石黒氏が天皇所縁の仏舎利搭を木舟城に移動し、城内の「宝性寺」で保管したものか。この舎利容器も由来は不明だ。「宝性寺」は浄土真宗で元天台宗だが現在も境内に巨大な「宝珠」を祀っている所から、「仏舎利=如意宝珠」を信仰した石黒氏の信仰を守っている寺院だ。)



※鳥羽天皇の父の白河上皇の時、赤丸村を含む「越中吉岡荘」を上賀茂神社の荘園として定めている。(*「賀茂御祖神社神戸記」)
白河上皇は息子鳥羽天皇の中宮待賢門院璋子に後の崇徳上皇を産ませたと云われ、崇徳上皇は「叔父子」と云われたと云う。高岡市の「衆徳山総持寺」は「ストクサン総持寺」と呼ぶことができ、総持寺の「国指定重要文化財木造千手観音座像」の胎内に「本願聖人」として後鳥羽上皇の法名【金剛位理】が記載されていることから、この観音像は「崇徳上皇」の怨霊を慰める為の仏像とも考えられる。後鳥羽上皇の父の後白河上皇(白河上皇の子、鳥羽上皇の兄弟)は「越中吉岡荘」の領主で藤原氏長者藤原頼長と崇徳上皇を「保元の乱」で滅ぼし、崇徳上皇は讃岐に流罪となり、血書を書いて怨みを残し、後々は怨霊として恐れられて、後鳥羽上皇も崇徳上皇を祀る四国の金比羅山に勅使を使わして慰霊する程、崇徳上皇の怨霊におののいていたと云う。この「越中吉岡荘」は後白河上皇の後、後鳥羽上皇の荘園として伝領しており、この地域が怨みを残して死んだ藤原頼長の荘園で在ったと云う事共、密接な関係が在ったと考えられる。「越中吉岡荘」がこの様な歴史を持つ事がはっきりしないと、あらゆる「吉岡荘」後の「五位庄」の歴史は闇に閉ざされてしまう。2014年(平成26年)になってようやく国立歴史民俗博物館は諸資料精査の上、学会でも「不詳」とされていた「越中吉岡荘」を高岡市福岡町赤丸を中心とした後の「五位庄域」に比定し、データーベースは是正された。

■総持寺の住職の第二十二世快雄法印は総てを知りながら、佐々成政を放逐して侵攻してきた前田利家に迎合したものだと考えられる。今は前田利家は英雄扱いだが、当時の民衆にしてみれば、武器を持った殺人集団が占領している訳で有り、恐怖の方が大きかったに違いない。各寺院はその由緒を消し、前田家に迎合して密かに生き延びるしか選択の余地はなかった。従って、総持寺の住職も、元々は赤丸村の山地に立地し、天皇家所縁の仏を安置していた総持寺の由緒を消し去り、千手観音は「海から上がった」とし、山号の「高岡山」も利常に献上して関心を得ようとしたものだろう。赤丸の地は末森城の戦いでは佐々成政に味方して前田利家と戦った寺島牛之助、中山氏の所領地であり、その意味でも総持寺がこれ等の領主と繋がっていたと勘ぐられるのを恐れた為だったのかも知れない。

■両部神道の「赤丸浅井神社」は「川人山鞍馬寺」を頂点とする総持寺、極楽寺等の48ケ寺と、石堤浅井神社、舞谷村八幡者を含む「三社権現形式」の集合体で有る。赤丸浅井神社では、後醍醐天皇第八皇子宗良親王の「李花集」所載の「七の社」の歌は「現在、鳥倉神社に合祀られている上賀茂神社、舞谷村八幡社に合祀されている下鴨神社」を含む七か所の神社を詠んだものだと言い伝えられている。具体的には1、清水社2、愛宕社3、加茂社4、山王社5、八幡社6、北野社7、熊野社を「七の社」とされている。宗良親王は、これ等の「神々の郷」の「越中吉岡庄」が比叡山七社信仰の環境と似ている事から騎上で次の詩を詠まれたと云う。

【赤丸浅井神社に伝わる後醍醐天皇第八皇子宗良親王の御詩の解釈】
「御歌」宮様淺井城御在城の時、都を偲ばせ給ひ
●「かそふれば 七とせもへぬ頼みこし 七の社のかけをはなれて」 と詠まれた。
(✳「七の社のかけ」と云うのは、宗良親王が比叡山延暦寺の天台座主の時に信仰されていた「比叡山七社の神社」の「かけ=影」、「願かけ」✳影響力、おかげを離れて・・の意味と考えられる。)

又、総持寺、極楽寺、宗良親王屋敷が在った赤丸「城ケ平山」については
●「城かきをきつき八重かき平らかに この上なきや乗り会いの里」と詠まれ、
「小矢部川の船乗り場」の「二位の渡し=後の五位の渡し」が在った赤丸村のこの山を「城」と「平」を取って「城ケ平」と名付けられたと云う。

更に、赤丸浅井神社の背後の清水山に「京都清水寺の千手観音像を祀る観音堂」を創建されて、
●「松風やをさめのたきの清水の むすふ心は冷しかるらむ」と詠まれたと云う。

【※「比叡山山王二十一社」とは?】
【上七社】・西本宮(釈迦如来)・東本宮(薬師如来)・宇佐宮(阿弥陀如来)・牛尾神社(千手観音)・白山姫神社(十一面観音)・樹下神社:十禅師(地蔵菩薩)・三宮神社(普賢菩薩:大日)
【中七社】・大物忌神社(毘沙門天)(註)石動(ユスルギ)の神 ・牛御子社(大威徳)・新物忌神社(持国天:吉祥天)・八柱社(虚空蔵菩薩)・早尾神社(不動明王)・産屋神社(文殊菩薩)・宇佐若宮(如意輪観音)
【下七社】・樹下若宮:小禅師(龍樹菩薩)・竃殿社:大宮竃殿(大日如来)・竃殿社:二宮竃殿(日光菩薩 月光菩薩)・氏神神社(摩利支天)・厳滝社(弁財天)・剣宮社(不動明王)・気比社(聖観音菩薩)
■比叡二十一社の内、大物忌神社(毘沙門天)は石動(ユスルギ)の神を祀る。富山県と石川県に跨り「石動山」が有り、ここは後白河上皇の皇女宣陽門院の祈願所とされる。山王の大物忌神社は由緒を辿ると、毘沙門天信仰の拠点であった事が判る。後白河上皇の後院領の「越中吉岡庄」後の赤丸村に毘沙門天信仰の鞍馬寺が勧請されたのは後白河上皇以来の信仰が背景にあったものと見られる。白山媛神社(十一面観音)は石川県と福井県に跨り、白山修験道は福井県出身の泰澄大師によって開かれ、赤丸浅井神社には泰澄大師が庵を結び元正天皇の健康を祈願したと伝わる。この白山媛神社(十一面観音)は山王二十一社の中でも上七社に数えられ、丁度、越中の吉岡庄からは東に白山の山波が遠望でき、西には富山県の石動山も眺望できる事から後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が巡回の騎上からこの景色を眺められて「七の社の詩」を読まれたものとみられる。(※「梁塵秘抄 巻第二」参照)
両部神道では本地垂迹説を取り、本地(仏)が垂迹して垂迹神となるとする思想で神仏の一体化を考えた。
(※「梁塵秘抄」は「後白河上皇」が選者を務められた「今様集」で、第七十六代近衛天皇が崩御されると、鳥羽院とその妃の美福門院の意向で兄の崇徳上皇と対立して29歳で第七十七代天皇に即位。藤原摂関家藤原頼長、崇徳上皇と対立し、平清盛、源義朝とともに「保元の乱」を起こし、崇徳上皇を急襲して勝利し、崇徳上皇を讃岐に移された。この時に藤原頼長の荘園の「越中吉岡庄」「能登一青庄」や奥州の庄園等の頼長個人の庄園は没官されて、後白河上皇の財政基盤の「後院」に加えられた。後院の在った京都法住寺御所には平清盛の造営による蓮華王院「三十三間堂」が創建され、1001体の千手観音を安置し、熊野三山検校兼務の三井寺で出家後は熊野三山を信仰して、三十三度の熊野詣出をされた。「越中吉岡庄」はこの時に蓮華王院の財政を賄う糧所として蓮華王院に寄進されている。後白河上皇はその後も東大寺や比叡山で受戒して仏教に傾倒された。延喜式内社赤丸浅井神社の背後の清水山に至る円山地内には、高岡に移った総持寺の持ち宮の「熊野社」が配置されていたが、現在は赤丸浅井神社に合祀されている。赤丸浅井城は東大寺大仏造営の時に米5000磧セキ、荘園100町を寄進したと云う第7代孝霊天皇の次子日子刺肩別の命の子孫の利波臣志留志の子孫である石黒氏が累代居城としたと伝わる。)

「鳳凰鳴けり」の「鳳凰」とは「法王」(※崇徳上皇?)の事と考えられ、これは千手観音像の製作目的の「崇徳上皇の成仏」を願った言葉で有り、正に「讃岐に流されて悲憤の内に亡くなり怨霊と化した崇徳上皇が泣いている」事を指している。「高き岡に」とは元々、総持寺が在った場所は赤丸村の小高い山の上であったという事を意味している。この詩経の一節を用いて、本当の総持寺と千手観音像の由緒も密かに残したとすれば、総持寺第二十二世快雄法印はすごい知恵者であり、揺るぎ無い信念の持ち主だったのだろう。現在の山号の「衆徳山」とは音読みで「ストクサン」となり、元々は「崇徳山」の意味ではなかったか?  この山号の命名にもこの総持寺と千手観音像の由来を端的に伝えようとしたものだろう。総持寺の主要な檀家に伝わる伝承では、ある時期に総ての由緒・由来を記載した書類は秘匿されたか廃棄されたと云う。この時には、寺の生き残りを賭けて重要な書類は秘匿されたものだろうか。




■総持寺の旧地が「上皇直轄領」の「後院領 越中吉岡庄」と言う「神仏のおわします郷」である事が判らないと、この総持寺由緒の裏の解釈は理解できないだろう。
「大学共同利用機関法人国立歴史民俗博物館」はこの点について、2014年5月19日に赤丸村を中心とした後の「五位庄」を後白河上皇荘園の「越中吉岡庄」と云う庄園で有ったと確定し、全国の「庄園データベース」に掲載された。
(※現在、井波別院瑞泉寺の宝蔵に安置してある巨大な仏像は元々、「川人山鞍馬寺」の本尊であったと考えられている。この仏像は北朝の後小松天皇所縁の仏と考えられて井波別院に寄進された「客仏」とされる。→「福岡町史」、「井波別院瑞泉寺誌」 参照)

■[五位庄の歴史と高岡山総持寺]
赤丸村に勘請された鞍馬寺と密接な京都の貴船神社の御神体は「高龗神・高淤加美神」「タカオカミノカミ」と言う水神・龍神であり、福岡町木舟の貴船神社(祭神は石堤浅井神社と同じ「罔象女命 ミズハノメノミコト」と言う水神)は小矢部川支流の上流域である福岡町大滝の木船城に勘請されている。推測だが、総持寺の由緒が藤原氏(石黒氏も藤原氏)と密接で鞍馬寺とも密接な「観音寺」で在ったならば、高岡総持寺の旧地は丁度貴船神社の下流にあたる事から、この「タカオカミ」を総持寺の山号にして「高岡山総持寺」と称していた可能性もある。この名称が更に瑞龍寺に取り上げられ「高岡山瑞龍寺」になったとも考えられる。京都の鞍馬寺は観音像と毘沙門天を祀る寺院である。
(※「瑞龍寺」は前田利長の法名瑞龍院から名付けられた。この寺の創建前にはこの地区に天景寺等幾つかの寺院が在ったがそれ等を立ち退かせて建立され、今の瑞龍寺の知客寮(シカリョウ)は元々在った寺院の本堂だったとか……。)

■小矢部川流域は庄川から流れ込む多数の支流が有り、氾濫で頻繁に流れが変わる度に一帯には沼地や大きな合流域が発生した為、水神を祀る神社が多く、水神の化身の「龍神伝説」もあちこちに見られる。高岡市佐野にも「光釜伝説」が有り、水神が龍となって泉の水中に沈んだ釜に巻き付いていた事から、高岡市木町に移転する前に佐野に在った「高岡市木町の西大寺」(✳佐野に移転前には赤丸村舞谷の麻畑地内に在リ、南朝の武将桃井直常の三男が創建した。)は「光釜山西大寺」と号している。

赤丸城主中山氏についても龍神伝説が残されており、赤丸村の浅井神社の祭神が大国主神系の「八河枝比売神」である事共深く絡んでいる。赤丸浅井城城主中山国松は国吉名に住む雄の龍神を殺した為に妻の雌龍の祟りで死亡したと伝える。
赤丸浅井城の鎮守社の「赤丸浅井神社」は五位庄の国吉名等53ケ村の各戸から米一升を集める事を認められていたと云うから、この伝説に残る様にこの国吉地域も往時は「越中吉岡荘」に含まれていたと見られ、「国吉名」には「平家物語」等にも登場する平家の武将の「越中次郎兵衛」が居館を構え、越中と能登を治めていたと云う。この地域には東大寺荘園の「須加荘」があり、赤丸、国吉、佐賀野、岩坪、細池と云う地域には古くより古代往還道沿いに三日市、四日市等の市が栄えていた。
(※赤丸浅井神社が古くから「各戸から米一升を集めた地域」は「国吉郷24ケ村、宮島郷を含む53ケ村」と記載される。⇒富山県立公文書館「皆月家文書」)

現在高岡市内に在る光景寺等の寺院の多くがこの地域を発祥としており、加賀藩の時代は鶴、朱鷺、鴨等を狩る「お鷹場」と呼ぶ有名な鷹狩の場所で、藩主一行は立野村から赤丸村の向野に在った「五位庄の渡し場」を渡り、狩りを楽しんだ後に「四日市の渡し場」から高岡城下に向かうのが常だったと云う。

■この様に見てみると、総持寺の山号が「高岡山」であった理由はいくつか考えられるが、あの原野に近く、お寺だけが集っていた「関野ケ原」に新しく建った寺院にいきなり「鳳凰鳴けり高き丘に」というのは、いきなりの唐突感が拭いきれない。むしろ、赤丸村の山野には極彩色の「ケーン」と格調高く声高に飛び立つ「雉キジ」が多く生息しており、この鳥を鳳凰に見立てたものとも考えられる。朝の天空に飛び立つ極彩色の雉キジがケーンと鳴く一声を聞けば、誰しもが瑞鳥の「鳳凰」と見間違えたと思われる。総持寺の旧地の小山から朝靄の中にこの雉キジの鳴き声が聞こえると何とも神聖な雰囲気に包まれるのだ。

富山新聞社発行の「富山大百科事典」の記事を糸口として推理を混じえると、「高岡」命名の裏に隠された歴史的な真実が浮かんで来る。



📙📃🐎 臨済宗の名刹「国泰寺」の「戒め」に思う!! ⇒富山県高岡市の「御車山祭り」の由緒?

2017-12-29 | 富山県高岡市


そのHPには【言葉を発す時は怒りや虚妄を除き去ることが必要であり、何かを行う時には 穏やかに偽り無くずばりと潔く行おうとすることを大事にする】と書かれている。








高岡市の「御車山祭り」が終り、翌日、「御車山会館」を訪ねた。目的は、ユネスコの無形文化遺産にも指定された「曳き山文化」の「高岡市の御車山祭り」の由緒を聞く為で在った。
対応したのは元高岡市博物館の学芸員をしていたと言う女子学芸員と館長らしい人物だったが、詳しい事は二番町に聞いてくれと言われて多忙な二番町の役員が会館に駆けつけて頂いた。言う迄も無く「二番町の山車」だけが二輪であり、これはどうみても皇族や関白以上が乗られた「與車」と言われる乗り物であり、他の山車はどうみても「御神輿」の原点の山車で在る。そこで、彼らに「高岡市の御車山祭り」の由緒について尋ね、「何故、祭りの始めに役員が越中宮極楽寺に挨拶に出向くのか?」「極楽寺由緒」では「御車山会館」が説明する内容と異なり、この祭りは「後醍醐天皇皇子宗良親王所縁の行事」と記されている事を告げ、藩政時代に関野神社と「先の宮事件」と云う論争が在った事を告げた。
その時に突然、館長らしき人物が顔色を変えて激昂して「一体何を言いたいのだ。高岡市には1600年以前の歴史は必要無く、それ以前に極楽寺の祭りが在ったと言う証拠は在るのか?」と言い放った。当方は専門家に問い合わせに出向いたのだが、逆ギレされてしまい、学芸員は「もうおしまいです」と帰る様に催促した。全国何処の観光地でも客の質問に逆ギレして追い返す観光地は何処にもない。しかも、関係者は無言で立ち去り、何処の観光地でも聞く「有難うございます」との挨拶もなくて背を向けた。
税金で建てた建物に、税金で雇われた職員が、「観光案内」として常駐して居ながら、税金を支払う市民が施設の説明を求めたら逆ギレして追い返す。こんな事態は全国でコンサル活動をしていた経験からしても見た事も聞いた事も無いことだ。
「ユネスコ無形文化遺産」と胸を張る割に、何も知らない人間を施設案内に雇って、しかもその実際の歴史も研究していない。

「高岡市」は「御車山祭り」は吉田神道系の「関野神社」の祭礼だと決めつけるが、元々、高岡市の佐野大地は後醍醐天皇皇子宗良親王が「妙法院院主」をされていた時の「妙法院領庄園」で在り、その隣接の「越中吉岡庄」はその父君の「後醍醐天皇の庄園」で在った。その「宗良親王」が創建されたと伝わる「越中宮極楽寺」では、この祭りで使用される「御車」は親王が南朝軍を鼓舞するために各所を廻られた時の「與車」と言う公卿の乗り物だと記している。

●明治維新の時に高岡市の「関野神社神官」が主導して、両部神道の寺社や名刹の仏像、仏具等を破壊して【廃仏毀釈】を推進した。この運動を根拠に「関野神社」は富山県西部の神道の頂点に立ち、真言宗、天台宗だけで無く全ての仏教もこの時以降は口を閉ざしている。
富山県西部の多様な「信仰」を奪った「関野神社」は、終戦後ものうのうとしてその権威を誇示して、「高岡市の歴史」の中心に在る。高岡市内の寺社はその由緒すら封印して現在も沈黙している。











「高岡市の御車」は豊臣秀吉が後陽成天皇を迎えた時の「御車」だと「御車山会館」では説明して、会館にはその証拠として「絵図」が飾られている。しかし、古書には、実際に出迎えの為に御所に遣わされたのは関白秀次であり、高岡市では【聚楽第に保管されていた「七基の御車」を利長が市民に与えたのが始まりだ】と説明しているが、明らかに二番町以外は「御神輿 オミコシ」であり、これも事実と異なるだろう。
しかも、近年、利長が聚楽第に保管された「御車」を拝領したとする意見に対して、秀次が高野山で自決した事に怒った秀吉が、間もなく、この聚楽第を取り壊している為に、この「御車」を利長が市民に与えたとするのは時間的におかしいと言う論文も在る。仮にこの「御車」が後陽成天皇を御迎えした時の車なら係り員が云う様に「1600年以前」の歴史にも絡んで来る。

過去には高岡市では、教育委員会の中に「利長以外の歴史は高岡市にとっては関係無い」として左遷された事件も在ったと耳にした事が在る。
兎に角、何故、高岡市は「全て利長」なのか理解に苦しむ事が多い。本家本元の金沢市で町づくりコンサルの御手伝いをして、百万石行事にも参加した経験からしても、高岡市の歴史観が異常に見えてくる。ここまで来ると高岡市全体が「狂信的な利長教の信者」の様だ。



■「高岡市の観光振興政策」
高岡市はその政策で「おもてなし」を打ち出しているが職員は役人根性そのもので「見に来い」「見せてやる」の態度そのもの。
他の行政は役人を百貨店等に派遣して「サービス研修」を行い、徹底した「サービストレーニング」を行っているのに、高岡市は依然「井の中の蛙」 。
「御車山祭り」は「利長所縁の祭り」として相変わらず「吉田神道の吹聴」を真に受け、小矢部川河口には「如意の渡し」を偽造している。「義経記」では上流の五位庄赤丸浅井神社前の出来事で在る「勧進帳」の場面を、高岡市長が率先して「如意の渡し」と言う観光施設を小矢部川河口の出来事として偽造している。この事に付いては、高岡市教育委員会が曾て発行した小冊子では、「●●海陸」の専務の発案で、単なる渡し場を赤字解消の為に「如意の渡し」と名付けて、小学生にその運航船を「如意渡し丸」と名付けて貰ったとか? それを高岡市長が公式に喧伝したと言う事だ。正に産学官の連携で見事に「偽物の観光地」がでっち上げられた。又、この渡し場に在った巨大な「義経と弁慶の銅像」は最近、伏木駅前に公費で移設して改めて喧伝されている。高岡市の有力者と地元の有力者、高岡市の政治家が結託すれば何でも出来る高岡市の実態がここに在る。
高岡市の「高岡」命名の由緒も富山大百科辞典(※富山新聞版)では「元々高岡市の総持寺の山号で在ったが取り上げられた」としており、高岡市の説明は「眉ツバ」ものだ。
観光地や由緒をでっち上げて居りながら、高岡市観光課は「クレームを受け付けない」と堂々とHPに謳うと言う厚顔無知ぶりだ。こんな態度で「おもてなし」とは片腹痛い。正に高岡市の現状は「羊頭狗肉」で在り、観光客を誘き寄せるだけの「観光振興」だ。今流行りの「●●サギ」の手口だ。もっと「正確な歴史認識」を持って「真の観光政策」を取らなければ、日本の、否、世界の信用を失う事に成り、全世界から嘲笑されるだろう。「高い教育レベル」を高岡市は吹聴してきたが、高岡市のレベルは、実際の「義経記」も読んだ事も無い人間が加賀藩の歴史家富田景周や森田柿園の主張を盲信して、検証する事も無く観光地をでっち上げると言う誤りを惹き起こしている。
加賀藩は、能登末森城の戦いで前田利家軍を攻めた佐々成政軍の赤丸城主中山直治に味方した地元の地域を徹底的に破脚して、住民を高岡市和田新村に強制移住させ、有力寺院も分割して弱体化させている。寺社施設や住民を高岡市内に移転させて、その跡に残った百姓には「75%」もの酷税を課して住民を農奴として酷使し、明治に至る迄その政策は維持されている。この政策は小矢部川西側全体に行われて、特に福岡町鳥倉村、赤丸村舞谷、赤丸村花尾については最高税率の75%が課されている。加賀藩はこの地域の歴史や文化も抹殺してその全てを「高岡の文化」にすり替える事を行った。これを実践した森田柿園は「赤丸浅井神社」の調査も行い、石川県立図書館の「森田柿園文庫」には赤丸住民が見た事も無い大きな絵図も遺されている。
しかも、現在も未だ「高岡市教育委員会」はこの政策を継続して、次々に「新しい歴史」を創作しているのだ。この背景も知らずに高岡市の有力者は厚顔無恥にも「前田利長が作った文化だ」として偽物の歴史を創作して吹聴しているのだ。


(※「五位庄」は鎌倉時代には「吉岡庄」と呼ばれ、後白河上皇以来後醍醐天皇迄「後院領」と呼ばれた皇室庄園で、室町時代には「五位庄」となった。足利義満は「五位庄」を「相国寺」(※金閣寺)に寄進した。



















●○●○ 世の中には「黒いカラスと白いカラス」が居る。⇒高岡市民が信じる「高岡御車山祭り」の真相。

2017-12-29 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

【黒いカラスを信じる人達、白いカラスを信じる人達】




http://www.reshareworthy.com/white-ravens/








高岡市の「御車山祭り」の二番町の山車には「黒いカラス」(ヤタカラス)が二羽停まっている。ヤタカラスは神武天皇を導いた「鴨氏」が変身したもので有り、この鴨氏が祀るのが京都の「賀茂御祖神社」(上賀茂、下鴨神社)。
「越中吉岡庄」の総鎮守社「延喜式内社赤丸浅井神社」の末社に「上加茂社」(現在は鳥倉八幡宮)、「下加茂社」(現在は舞谷八幡宮)が在った。曾て、「越中吉岡庄」は後白河上皇以来、後鳥羽上皇~後醍醐天皇迄伝領した皇室直轄領で有り、「御団子」の原点は後醍醐天皇が京都の賀茂神社で手を洗われた時の「泡」を象徴しており、現在も京都では「御手洗神事」として残っている。「越中吉岡庄」は白河上皇の時に「上賀茂神社」の神領と成り、南北朝末期には「下鴨神社」の神領と成って居る。
(※「類聚国史」、「賀茂御祖神社神戸記」)
又、『越中吉岡庄』は「後醍醐天皇第八皇子宗良親王が五位庄と改名された」と伝わって居る。(※「宝永史」福光町図書館所蔵)
高岡市の「御車山祭り」の原点とされる高岡市鴨島町の「越中宮極楽寺」は、この「赤丸浅井神社」の近くの越中吉岡庄極楽谷に「後醍醐天皇第八皇子宗良親王」が創建されたと伝わる。「越中吉岡庄」は曾て、後白河上皇以来天皇家に 伝わり、当時は後醍醐天皇の庄園で在った。「越中宮極楽寺由緒」に拠ると、「高岡市御車山祭り」の二番町の山車はこの宗良親王が南朝勢力鼓舞の為に巡行された時の「與車 ヨシャ」と言う「牛車」を改造したものが原点だとしている。この山車だけが「二輪」で有り、その他の町内の山車は「京都の葵祭」で巡行する「山鉾」と同じく「御神輿」を現している。本来、「御神輿」は神が降臨される自然の樹木を引き回したもので、「山鉾」の原点も「四輪の車に大木を立てたもの」で有る。高岡市の「御車山祭り」の原点は「鴨氏」の祭りの「京都葵祭」を模したもので、「鴨氏」が「熊野修験道とも密接な事」から、「越中宮極楽寺」の在る二番町の山車は「鴨氏の象徴のヤタカラス」を「熊野社の鳥居に停まらせた」形にしている。従って、この祭りの原点は、「越中宮極楽寺」の創建に関わる祭事だが、神事や天皇家の賀茂神社信仰を知らない加賀藩の人達は全てを前田家関係の祭りと信じ込まされて来たのだ。
高岡市鴨島町は赤丸浅井城を再興して宗良親王を御迎えした越中石黒氏の一族で「鴨島七郎」の所領で在った。又、「射水郡誌」に拠れば、宗良親王が牧野に入られた時に 親王を護衛して常に奉仕したのは「牧野太郎二と云い、この人物は木舟石黒氏の一族だったとされる。












●「赤丸」とは、後醍醐天皇の旗標を指し、天皇は冠に太陽を飾り、金地に赤丸の御旗を南朝の「軍旗」とされた。




💠🏯 歴史に学ぶ郷土の災害 ⇒「木舟城」と原発事故 災害は突然にやってくる!!

2017-12-26 | 富山県高岡市福岡町赤丸村












●2016,11,21の「北日本新聞」は氷見市での志賀原発対策の避難訓練の記事を報じた。能登の志賀原発が稼働して相当経ったこの時期にようやく行政は動き出した。しかし、かねてから、志賀原発に対して警報を鳴らす書籍は相当発行されているが、電力会社の大株主の富山県はニブイ対応しかして来なかった。毎日、「あいの風」と言う日本海から吹く強風はむしろ富山県西部の小矢部市や高岡市西部を吹き抜ける。鉄道の名前に迄した「あいの風」も、事、原発事故対策となると行政も財界、報道も口をつぐんでしまう。福島の原発事故でも、事故が起こる迄は同じ状況だった。折角開発した予測システムも事故が起こった途端に時の政権は知らぬ顔で伏せてしまった。亡くなったり、避難で生活を奪われたのは住民だけで、力の有る企業は他地区に生産を移して間もなく復興した。しかし、零細な庶民はどれだけの方達が苦渋に苦しんでいるかは報道も次第に無くなって、事実は闇に葬られてしまう。日本の現状で、エネルギーを海外に依存している状況では段階的に原発を減らす事も止むを得ないが、依然として地方行政は国からの指示が無いと、よそ事の様に気付か無い様に何も行動しない。議員はお手盛りで歳費を上げて金は使い放題で、事故が起これば電力会社の事として逃げてしまう。日本の行政は「法律に基づかないと何もやれない」と嘘吹くが、自分の事となると素晴らしく手際が良い。議員や首長は選挙が終われば庶民を忘れ、その原資が市民、県民から出ている事も気にかけない。中には素晴らしい首長も居るが、何もやらずに「前向きで善処します」と逃げ回る首長も居る。しかし、これも高級官僚と政府、政党、財界との共存の中で「何とかなって」しまう。終戦時に国民は政府、官僚の失策でどん底の生活に落とされた。昭和天皇の「終戦の詔勅」を聞いて奮起した方も居る筈だ。
何か「タガが外れた様な社会」は強大な自然現象の前には為す術が無い。現在、福岡歴史民俗資料館では「木舟城と石黒氏」の特別展が開催されている。ここには、時の大臣をした「越中石黒氏」の子孫がサインした「終戦の詔勅」のレプリカも展示されている。木舟城は加賀藩の時代に「飛越地震」で9mの地下に城主共々、全員が沈み、何万人(推定)もの町が消え去ったと云う。人間には出来ない事も有ると言う事を、改めて現代の人間は認識して「自分さえが良ければ」と言う風潮から共存を目指す社会への切り替えを行い、共通の敵「自然災害」への対策を強化すべきだ。