赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🌄「越中五位庄赤丸村」の【赤丸浅井神社48坊】と史跡位置図 !!

2017-09-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
『赤丸浅井神社』(赤丸古屋5324)


「延喜式内社赤丸浅井神社」
延喜式神名帳に「国幣小社」(国司が幣帛を捧げる神社 )として記載され、延喜式兵部には川人の駅に駅馬の配置が定められ、社僧寺坊の総号を「川人山鞍馬寺」と称えられた。一条天皇の御世、蝗害除去祈願の勅使参向あり、石黒氏は浅井城の鎮守と崇め、後醍醐天皇の皇子宗良親王は清水社、愛宕社、八幡社、山王社、北野社、加茂社、熊野社の七社を末社として勧請し、知識米の制を定めて、48坊の社人、社僧の勤王を励まされた。
(※「富山県神社誌」富山県神社庁編)

「赤丸浅井神社」には一条天皇が蝗害防止の祈願の為に勅使川原左京(河原町の左京大夫=藤原道長)を遣わされて、左右1対の桜をお手植えされた。これは「勅使桜」「遅桜」と呼ばれ、昭和初期迄、五位庄の田植えの時期を決める目安になっていた。

宗良親王の「李花集」には
『かそふれば七とせもへぬ 頼みこし 七の社のかけをはなれて』 と御詠歌された。
又、建武二年、赤丸城ケ平山に御殿を築かれ、御遷殿の御歌に
『城かきをきつき 八重の垣平らかに このうへなきや 乗り合ひの里』 と歌われて、この御殿の建つ場所を「城ケ平」と名付けられられた。



●赤丸に在ったという赤丸浅井神社48坊と呼ばれた寺院(花尾村含む)では以下のお寺の名前が判っている。
総持寺、西大寺、聖安寺、性宗寺(浄光寺)、長善寺、宗泉寺(明見寺)、長安寺、善宗寺、法筵寺、天景寺、長光寺、西宝院(東坊)、永賢寺、超願寺 

●中心寺院の「川人山鞍馬寺7坊」の玉蔵坊、観念坊、寶仙坊、宥坎坊、玄皆坊、寶池坊が何れかは不明。明治維新迄浅井神社にはこの7坊の内の「西宝院」が奉仕しており、明治2年、廃仏毀釈の時に還俗して川人他治馬と名乗り神職になった。

●宗良親王開基の「極楽寺」も元赤丸に在ったと伝わる。(※「越中宮極楽寺由緒」)

●明治に建立された霊寿寺は中山妙心尼が奉仕していた。(※「福岡町史」)


🔴 国指定重要文化財 「木造千手観音座像」 (衆徳山総持寺)

2017-09-20 | 富山県高岡市


例年11月15「特別御開帳」
(撮影:総持寺住職 永田龍祥師)

富山県高岡市関町32

🔴『越中五位庄』の「延喜式内社赤丸浅井神社 秋季例大祭」と「向野新村 神明社」の祭り「獅子舞行事」!!

2017-09-17 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「後白河上皇」以来「後醍醐天皇」迄、長く上皇の庄園「後院領 越中吉岡庄」として続き、室町時代からは室町幕府料所として京都「相国寺」に寄進されて、以後「五位庄」と呼ばれた高岡市伏木港から福野町野尻に至る広大な庄園の総鎮守として「延喜式内社赤丸浅井神社」は常に西礪波郡地域の中心に在った。
この神社の別当寺「川人山鞍馬寺」の本尊「富山県指定文化財釈迦如来立像」は現在、井波町瑞泉寺の客仏と成り、県内最古の「高岡市文化財釈迦十六善神像」は福岡歴史民俗資料館の所蔵と成っている。






















■「延喜式内社赤丸浅井神社」を中興されたと伝わる「文武天皇第二皇子 石川朝臣広成」


■「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当寺「川人山鞍馬寺」の本尊「富山県指定文化財釈迦如来立像」と富山県内最古の仏画「高岡市文化財 釈迦十六善神像」





■旧赤丸村向野新村の「神明社」は現在、赤丸浅井神社に合祀されているが、秋の例大祭には「赤丸浅井神社」の「御弊」を頭に頂いて「獅子舞行事」が域内の各戸を巡行する。










🎼🎬「映画」『一青妙と歌手一青窈 姉妹の母は能登一青庄にルーツを持つ』

2017-09-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「越中吉岡庄』と「能登一青庄』や奥州五ヶ国は、平安の頃は、摂関家藤原氏長者藤原頼長の庄園で在った。何と同じ国だった訳ですか!!
越中吉岡庄赤丸村と能登一青庄には同じ名前の「浅井神社」が在ったと言いますから、
同じ国として同じ文化が在ったのでしょうか?

【一青】=「しとと(志止止)」⇒「ひとと」「しとと」;「頬白等の小鳥」で青い鳥が群れていたと云う。
イメージ

金沢を舞台にした映画。



(YouTube)
公開日 2017年2月11日 (北陸では2月19日から石川県限定公開)
キャスト 監督・脚本:白羽弥仁
原作:一青妙
主題歌:一青窈
出演:木南晴夏 呉朋奉 藤本泉 甲本雅裕 春風亭昇太 河合美智子





🔴🔴 室町幕府第三代将軍「足利義満」の時代に「越中五位庄赤丸村」は激変した。 !!

2017-09-09 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「後白河上皇」以来、皇室領として続いた「越中吉岡庄」は南北朝時代末期から「五位庄」と呼ばれ、室町時代の応永年間、「越中五位庄」は「足利義満」による南北朝の統一を受けて、「足利義満」の直轄領と成った。この時期に「五位庄」は幕府領と成って激変の時代を迎えた。
①「五位庄が足利義満の直轄領として相国寺に寄進される」、
②「総持寺の移転」、
③「宇多刀工の繁栄」、
④「川人山鞍馬寺の追放」













■2005年の高岡市教育委員会による福岡町埋蔵文化財調査に拠ると、現在高岡のJR駅南の瑞龍寺の傍に在る「衆徳山総持寺」が当初設立されたと云われる赤丸の「観音堂遺跡」の山地の麓に広がる前田島と云う地域には「前田島遺跡」が広がり、その調査では1000枚近くの莫大な古銭が発掘されていた。
「総持寺は1402年(応永9年頃)に高岡の現在地に移転した」と地元の伝承では伝わるが、この莫大な古銭は空海が唐から仏舎利等を持ち帰った時代から、丁度総持寺が高岡へ移転した時期までの間の長期間の古銭が発見されている。総持寺は大阪の南朝の行宮で空海の修業した河内金剛寺より千手観音像が伝来したと云われ、唐銭はこの時代の日唐貿易の際にもたらされているし、その後の宋銭は平清盛が主導した日宋貿易の際に我が国にもたらされている。義経が五位庄を経由して奥州に逃れた時、「勧進帳」「安宅の関」で有名な場面の原点とも云われる「五位庄」が「後白河上皇」の庄園の「越中吉岡庄」の時、「平清盛」が「後白河上皇」に寄進した蓮華王院の三十三間堂に「後白河上皇」は「吉岡庄」の収穫物を寄進されたと云う。「吉岡庄」は平家ともこの時期密接だった訳で、後白河上皇も深く千手観音を信仰し、三十三間堂には1001体の千手観音像を祀らせている。









(※吉岡庄の国吉名には平家の武将「越中次郎兵衛(平家物語に登場する前司平盛嗣)」の居館が在ったと伝わる。「吉岡庄」は「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄、上皇・皇室領として続いたが、南北朝末期に「五位庄」と改名された事が加賀藩第五代前田綱紀が調査・保管させれた「東寺百合文書」の中の古文書から判る。)

■この莫大な古銭は総持寺が高岡に逃れた時に埋めたものか?
又、この山並の「鍛治屋町島」に在ったとされる『宇多国光』を初めとする『宇多刀工』達の畜銭で在ったのだろうか?
高岡市関町の「総持寺」の門前には赤丸村から動いたとされる『刀工の神社』で在る『槌の宮』が鎮座しており、恐らく、この神社も総持寺と同じ様に赤丸村の池田氏によって敷地を寄進されたものと見られる。
(※この神社は赤丸浅井神社神官川人家の縁者が神官を勤めている。)







■総持寺が高岡に逃れた後も、その墓地や持宮の熊野社は赤丸に残り、住職が毎年お参りしていたと伝わる。又、総持寺には赤丸浅井神社の神官「西宝院」の一族の過去帳が遺されている。
五位庄はその後、足利幕府の時代に金閣寺で有名な「相国寺」(金閣寺、銀閣寺は共に相国寺の塔頭寺院)に「足利義満」により寄進されている。「赤丸浅井神社」に伝わる「総持寺由緒」には「応永年間、後小松天皇の頃に高岡市の現在地に移転した」とされており、「後小松天皇の時代」と言えば「赤丸浅井神社」の別当「川人山鞍馬寺」が追われて福岡町一歩二歩に移転してその後を鞍馬寺の一坊の「西宝院(※後の川人家)」が継いだとされ、「足利義満」が室の業子の追善の為に「五位庄」を「相国寺」に寄進して、「能登守護畠山満家」や「越中蜷川氏」の「蜷川新右エ門親当」が政所代として砺波郡を統治した時期に合致する。現在、浄土真宗井波別院に「客仏」として祀られている元赤丸村に在った鞍馬寺の本尊とされる大きな仏像は「後小松天皇所縁の仏像」と伝えられている。又、「一休さん」に「蜷川新右エ門」と共に登場する「一休和尚」は「後小松天皇の子」とされ、正に「五位庄」はこの時期に激変した事が分かる。

🔴『赤丸浅井神社』の古い墓碑銘と越中での石川朝臣の展開!!

2017-09-01 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
「延喜式内社赤丸浅井神社」の神官を47代も務めた川人家の墓所には「郎女」の名前が入った墓碑銘が有る。創建は700年代に元正天皇の第二皇子が創建されたと伝わる所から、この墓碑銘も皇族に連なる女性かも? ……と思ったら、神道では亡くなった女史には[郎女 イラツメ]の尊称をつける様だ。



「赤丸浅井神社」の創建は「元正天皇の二宮」とされ、元正天皇は文武天皇の姉で、文武天皇が早逝された為に、皇統譜上では文武天皇の中宮に擬せられて女性で有りながら、女帝に就任されたと云う。
元正天皇は未婚で、聖武天皇の母代りになった方で、二宮というのは文武天皇の第二皇子の「石川朝臣広成」が該当する。「石川朝臣広成」は万葉集に3首の和歌が掲載されており、この石川氏は蘇我氏の一族で蘇我石川麻呂の子孫である。蘇我氏は蘇我入鹿や蝦夷が誅殺された為に、以後、慎んで「石川氏」を名乗った。石川朝臣の一族が大伴家持の前後に越中国司をしていたり、左大臣を務めた「石川朝臣豊成」が高岡市と射水市大門町の間に在ったとされている「東大寺庄園鹿田荘」の隣地に名前が記載されている事から、当時は、越中には[石川朝臣]の一族が展開していた様だ。「石川朝臣広成」は後に更に「高円朝臣広世」と賜姓されている。
ちなみに、「石川県」と云う名前は、蘇我氏の末裔が「石川郡」に住み着き、「石川県」の名前の由来になっていると云う。

『赤丸浅井神社』には「宮様、京のみやびをこの地に移され…」と伝承されている。『赤丸浅井神社』の背後の『清水山』には、京都清水寺の千手観音像を写した石像が祀られる『観音堂』が在り、その右には清水寺の『音羽の滝』と名付けられた大滝が在った。又、近くには、『下加茂社』や『上加茂社』、『熊野社』、『愛宕社』等の都の著名な神社や『鞍馬寺』等の仏閣も勘請された。加賀藩第十三代前田斉泰公は「赤丸浅井神社」を信奉されて『浅井神社』の額を寄進し、加賀藩の板橋宿「江戸下屋敷」には、この山並みを模して「赤丸山」と名付けた築山も造られている。