赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🎌「越中国赤丸村」の歴史と利波臣志留志の末裔「越中石黒氏」の出自 !!

2016-02-14 | 富山県高岡市福岡町赤丸村

(「肯構泉達録」に記載される赤丸浅井城  ⇒「元正天皇二宮の在城」)



(「越中勤王史」に見られる「赤丸浅井城の石黒氏」、「上杉謙信家臣の浄土真宗坊官下間和泉」)

「福井県史通史編」掲載の武内宿祢の系統図



石黒氏の祖の利波臣志留志は池田氏の祖の紀氏等と同じ「武内宿祢」を祖とすると云われ、「武内宿祢」は「蘇我氏」の先祖である。蘇我入鹿は中大兄皇子と藤原氏の祖の中臣氏の鎌足に殺され、一族の蘇我倉山田石川麻呂も自害させられて一挙に古代豪族の蘇我氏は凋落する。その後、蘇我氏は「蘇我」では無く「石川朝臣」を名乗るようになる。では、何故石黒氏が「藤原氏」を名乗ったか? 石黒氏は後になって藤原氏一族の井口氏の系統の林氏と縁組し、途中から「藤原氏」を名乗っている。(※石黒氏系図)  武内宿祢の末裔は射水臣や加賀の江沼臣等古い時代の高志の国には広範囲に栄えていた。赤丸浅井神社を開いたのが文武天皇の子で母が石川刀自郎女であった蘇我氏系の皇子であった「石川朝臣広成」と見られるのは、元々、蘇我氏の利波臣志留志が開発・領有していた礪波郡に開かれた神社であり、赤丸浅井神社は蘇我氏の神社として開かれた可能性が高い。当時の元正天皇の祖母も蘇我氏で有り、母の元明天皇は蘇我氏の娘で有った。藤原不比等の陰謀で母は「嬪」の位を奪われ、広成も臣籍に降下させられたが、絶大な力を持つ藤原不比等から命を守る為に東国33か国を担当させると云う名目で蘇我氏の勢力の砺波臣に保護させたと考えられる。元正天皇は717年に美濃に行宮を開き、有名な「養老の滝」を名付けたと伝わる。石川朝臣広成は万葉集に3首掲載されており、740年頃に「内舎人」として、後には「山城国恭仁京」に勤務しているが、もっと若い時期の事で有ったのだろうか?二上射水神社も赤丸浅井神社と同時期に創建されているが、射水臣もやはり蘇我氏と同じ武内宿祢を祖とする。
石黒氏は東大寺の大仏造営に際して米3000碩(※「続日本紀」⇒「東大寺過去帳」では米五千石寄進とされる。)を寄進し官位を得ているが、その時の天皇は「石川朝臣広成」の兄の「聖武天皇」である。蘇我氏の元明天皇、元正天皇にしてみれば母を藤原不比等の娘の宮子とする「首皇子」を何としても天皇にしなければならない事情と、「石川朝臣広成」を救う必要とに挟まれて、同族の利波臣に保護させたのではないか? 利波臣にしてみても藤原氏の聖武天皇に逆らう事は出来ない為、自らの庄園から大仏造営資金として米3000碩を聖武に差し出したとすれば事情が判る。赤丸浅井神社に山伏信仰を持ち込んだと伝わる泰澄大師は元正天皇の為に祈祷をしたと云う。元正天皇にしてみれば、「首皇子」が幼い為に母の元明天皇から皇位を譲られたがあくまでも成長する迄の繋ぎの女帝の天皇で有り、いつ藤原氏の毒牙にかかるかも知れないと云う不安定な状況に有ったと見られる。泰澄大師が赤丸浅井神社で「祭器に全て赤丸を記して---」元正天皇の厄除けと藤原氏の懲伏を祈った可能性は考えられる。赤丸浅井神社の周辺にはおびただしい古墳が集積し、その地名も「ヤチ」「テラヤチ」という名前で有り、「ヤチ」がアイヌの言葉でこの周辺に住んでいた蝦夷が大和朝廷との戦いに際して使った「赤丸印」が敵に対する懲伏を意味する事から、泰澄大師が「祭器に全て赤丸を記して---」という伝承も理由が判る。しかし、氷見方面から伏木方面、石動方面へと藤原氏の菩提寺の東福寺荘園が広がり、氷見の八代氏が東福寺荘園の管理者として頭角を現し後には能登畠山氏にも食い込んで重役に迄昇進した事から、石黒氏は途中で藤原氏の林氏と縁組してその後は藤原氏を名乗ったと見られる。「越中吉岡庄」はその過程の中で藤原氏の庄園に組み込まれ、いつしか藤原氏長者の庄園となり、石黒氏もその荘園の管理者として生き延びたと考えられる。藤原氏のエリアとなった時に藤原氏の祈願寺で有った京都の「鞍馬寺」が分霊され赤丸浅井神社の泰澄が開いた寺にそれを祀り『川人山鞍馬寺』としたものと見られる。*京都鞍馬寺は藤原伊勢人が開き、平安時代中期の英雄藤原利仁が篤く信仰したと云う。 「越中吉岡庄」が「保元の乱」で藤原氏長者の藤原頼長から後白河上皇の庄園になると、後白河上皇の皇子が聖護院門跡となられた事から、『川人山鞍馬寺』も聖護院派山伏としてその後長く続いたものと見られる。


紙幣になった武内宿祢像