赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

💥㊙🔴 門跡寺院『聖護院派』の『赤丸村川人山鞍馬寺』 、『赤丸浅井神社』と『石堤浅井神社』⇒偽作の『高岡市史』が生んだ高岡市の歴史の混乱。今も放置される偽作『高岡市史』!!

2018-09-23 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸











■礪波郡の『川人山鞍馬寺』は、京都から勘請した鞍馬寺を別当寺として、「赤丸浅井神社」、「石堤浅井神社」、「舞谷八幡宮」の三社を抱える「三社権現形式」の天台宗聖護院派の古刹で有り、鞍馬寺自体も七社の寺坊で構成されていたという。又、周辺には48の寺坊が建っていたとも云う。しかし、これ等の寺社は度重なる戦乱で幾度も焼かれ、特に上杉謙信の攻撃では全山が焼かれたと云う。一向一揆勢が五位庄に集結した時には浅井城に本願寺の坊官「下間和泉」が武将として入り、その頃に鞍馬寺は浄土真宗に改修した為に元々浅井城を居城としていた中山氏の攻撃を受けて、福岡町一歩二歩の寺侍の浜木氏の土地に逃れたと云う。その時に寺は時の住職の名前を採って「法莚寺」と改称している。
石堤浅井神社はいつの頃からか京都の吉田神道の人間が神官として入り込み、途中で吉田から清水に改名している。吉田神道は「湯の花の神事」と言う独特の祭式を行い、唯一神道を唱えて、両部神道から神社だけを簒奪する事を目指した為に、ある時に赤丸鞍馬寺に許されていた初穂米の徴収を勝手に行って米を奪い、吉田式の祭具を石堤浅井神社に持ち込んだ。勿論、これは神官だけではなく、石堤村の大地主数名が荷担していたと云う。能登末森の戦いで前田利家に敗れて敦賀に落ち延びた赤丸浅井城の中山氏の残した古文書によると、中山氏は石堤浅井神社の代理人として米を集めて、それを周辺の農民に貸し付けて利鞘を取ると言う商売を行っていたらしいと云う。(※「石堤村資料」には「中山氏は石堤浅井神社への崇敬が篤く………」と記載されている。)
加賀藩の時に発生した浅井神社のこの騒動で、赤丸と石堤が険悪に成り、赤丸の鞍馬寺は他の聖護院派寺院と共に、門跡寺院の天台宗聖護院本山と加賀藩寺社奉行に訴えている。この裁判記録の写しは、赤丸村の組合頭皆月家が保管していたが、後に金沢市玉川図書館に寄託されたらしい。
現在は、その写し全文が高岡市福岡歴史民俗学資料館の「皆月家文書」に加えて保管されている。

(※聖護院は修験道の本山派で在り、勧進帳の弁慶の服装はこの本山派のもので在る。赤丸浅井神社には毎年、本山へ米等を贈った時の奉納札が遺されている。聖護院のHPに拠れば【天台の第5代座主、智證大師円珍(814-891年)が、 熊野那智の滝に一千日篭居をされた後、熊野より大峰修行を行われました。その後大師の後を継ぎ、常光院の増誉大僧正が大峰修行を行われ、 修験僧として名をはせました。この増誉大僧正は、寛治4年(1090年)の白河上皇が熊野三山を参詣する熊野御幸に際して先達を務められ、その功績によって聖体護持の2字をとり、 「聖護院」という寺を賜ったのが聖護院の始まりになります。増誉大僧正は、この時「熊野三山検校職」に任命され、 「本山派修験」の管領として全国の修験者の統括を命じられ、 聖護院の最盛期には全国に2万余の末寺をかかえる一大修験集団となりました。この後上皇によって行われた熊野御幸の案内は代々聖護院大先達が勤め、 「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」と言われるほど、熊野詣は盛んになり、また「愛宕山」も修験の行場として栄えました。後白河天皇の皇子、静恵法親王が宮門跡として入寺されてより後、 明治維新まで37代門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となられた皇室と関係の深い寺院です。】と記載される。「越中吉岡庄」は「白河上皇」の時に熊野信仰と繋がる賀茂氏の「上賀茂神社」の庄園として寄進され、「後白河上皇」以後は後鳥羽上皇~後醍醐天皇迄、上皇の庄園「後院領」で在った「越中吉岡庄」には、聖護院派「川人山鞍馬寺」の周辺に「熊野社」や「愛宕社」等が創建され、併せて、当初、白山修験道の開祖泰澄大師が浅井神社境内に庵を結んだとされる事がその始まりで在るとされた事から、福井県から富山県にかけて盛んで在った白山修験道共繋がって、天皇家庄園越中吉岡庄の鎮守社「延喜式内社赤丸浅井神社」は庄園内53ケ村の総社として、又、その別当寺「川人山鞍馬寺」は熊野修験道、白山修験道の中心施設として北陸の修験道の中核に在った。近年も各地の山伏の崇敬が篤いとされる。時々、バスで沢山の方々の拝観が在る。高岡市熊野町の「先宮熊野社」は、興国三年に赤丸浅井城に入られた後醍醐天皇皇子宗良親王が創建されたと伝わり、又、現在、赤丸村から高岡市関町に動いたとされる「天景寺」には京都清水寺や赤丸村に在った愛宕社の本尊の「将軍地蔵」が客仏として祀られており、この仏像は明治時代の「廃仏毀釈」に拠って廃止された修験道愛宕社の本尊仏と見られる。)













▼明治維新の廃仏毀釈では「修験道の廃止」が通達されて、本山派修験道は天台宗に当山派修験道は真言宗に組み込まれた。



▼「当山派修験道」;金峯山、大峰山を拠点として三宝院(醍醐寺)を本寺とした真言宗系の修験道集団で、「役小角 エンノオヅヌ」の流れを汲む。鎌倉時代に入ると、畿内周辺の金剛峯寺や興福寺・法隆寺等の真言宗系の修験者が大峯山中の小笹地区(現在の奈良県天川村洞川地区)を拠点に結衆し、「当山方大峯正大先達衆」と称して毎年日本各地から集まる修験者たちの先達を務めて様々な行事を行った。室町時代には36の寺院がこの組織に属していたと言われ、「本山派」、「当山派」は元々、「聖護院」を本山として活動していたが、江戸時代には徳川幕府は修験道を一派で独占する事を禁じた為に、修験道は「本山派」、「当山派」として明確に分離された。

■「赤丸浅井神社」と「石堤浅井神社」との裁判の結果、加賀藩は赤丸村浅井神社に本社としての資格を認め、石堤浅井神社には勝手に持ち込まれた吉田神道の祭具を月野谷の清水神官が引き取る事を命じた。その記録全文は現在もこの様に保管されているが、明治維新の時に両部神道が廃止されて鞍馬寺の後継の西宝院は川人他治馬と改名して還俗し、神官となった。その為、それ以後は、石堤と舞谷八幡は独立した神社となったが、石堤浅井神社は現在も延喜式内社を名乗り、五位庄53ケ村郷社を名乗り続けている為、事情を知らない高岡市等は「石堤浅井神社は式内社の論社」として紹介している。しかし。延喜式内社浅井神社は江戸時代の学者「度合延経」がその著書の「神名帳考証」で、「在赤丸村」と明確に記載しており、初めから「論社」等は無かったが、「高岡市史」の編者がこの「度合延経」を引き出して記載していながら、石堤浅井神社の清水神官が描いた絵図等を根拠にして石堤浅井神社を正当とする様な意見も掲載している為に、全国的にこの「作文」が公的なものとして広がり、まことしやかにこの偽作が流布されてしまった。この事は、浅井神社だけに止まらず、「高岡市の総持寺は元々赤丸村に在った」と言う総持寺千手観音像の国宝指定の文書迄が、「総持寺は元々、石堤の長光寺の敷地に在った」と改竄されてしまった。「高岡市史」のこれ等の酷い誤りや意図的な、いい加減な判断、主張は各所に在り、正に高岡市の歴史に泥を塗っている。これは最早、『歴史書』とは言えず、早急に改作されるべきものだ。こんなものを『高岡市』の歴史書として全国に流布していても、高岡市の指導者や教育委員会はダンマリを決め込んで動こうともしない。この体質こそが高岡市を停滞、否、縮小させている根本の原因だ。
何処かの指導者が『頭の黒い鼠をあぶり出す』と言って頑張っている様だが、高岡市の場合は隣の何処かの国の様に既に中身が腐ってしまっているのか? きびしい意見を聞いてもそ知らぬ顔をして聴く耳すら持って居ないと云うべきか? この事に因って、少なからず精神的に傷ついた人達もいる。ある関係者は、この偽作の『高岡市史』を批判して『ある贋作物語』と言う本を数冊も自費出版してマスコミ等各所にアピールし、高岡市中央図書館等にも寄贈された。しかし、怒りに充ちたこの作者の方も今は空しく高岡市の土に成ってしまわれた。行政が『意図的にやるべき事をやらない』のは「不作為の作為」と言う立派な犯罪要因では無いのか?








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