赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴◎[11月15日 特別御開帳] 衆徳山総持寺の【国指定重要文化財 木造千手観音坐像】⇒【後鳥羽上皇】が「本願聖人」として記載される秘仏 !!

2021-02-18 | å¯Œå±±çœŒé«˜å²¡å¸‚福岡町赤丸村




■「元、後鳥羽上皇の庄園越中吉岡庄(赤丸村)」から高岡市関町に動いた【衆徳山総持寺】の【国指定重要文化財木造千手観音座像】(※慶派仏師 幸賀 作)は昭和12年、【国宝】に指定された。
▼(現在は法律改正で「重要文化財」に指定される。)









■【国指定重要文化財木造千手観音座像】は毎年、《11月15日11時より年一回の御開帳》が行われて、隣接した「観音堂」では法要が営まれている。
[場所;高岡駅南口より砺波方向(156号線方向)徒歩約5分。国宝瑞龍寺後ろ。hpを確認!!】




(※「文化誌日本」※講談社版参照 )

■「後鳥羽上皇」は「菊」を好まれ、衣装や持ち物、刀剣等にも「菊紋」を付けられた。
総持寺の千手観音像にはその台座に通常使用される「蓮花」の代わりに「菊紋」が使用されている。



■「総持寺」は、「延喜式内社赤丸浅井神社」の周辺に立地して、皇室とつながりが在った「浅井神社48坊の一社」とされる。

「赤丸浅井神社」の建物に刻まれた天皇家の「十六菊紋」




▼元、「総持寺」が在った赤丸城ヶ平山の麓には、高岡市関町の「総持寺」以外にも「越中宮極楽寺」や「天景寺」、「槌宮」等が赤丸村から関町に移転している。「総持寺」の敷地は、長く総持寺門徒総代も勤めた高岡市国吉村細池の旧家「池田市エ門」が寄進したといわれ、この家は元々、「赤丸村の肝入」を勤め、赤丸浅井神社前に屋敷を構えていたが弟の奥田五エ門に全財産を譲り国吉村へ移転した。「市エ門」は高岡インター周辺の池田地区を開発し、古く赤丸城ヶ平の山裾に在った「池田島地区」も所有した【源平盛衰記】の「木曽義仲」軍の武将「池田次郎」の末裔と見られる。(※「治承寿永の内乱論序説」浅香年木著)





高岡市の曳き山祭りで有名な「越中宮極楽寺」は、南北朝時代に「後醍醐天皇第八皇子宗良親王」が「越中吉岡庄極楽谷」(赤丸村極楽寺跡)に創建されたと伝えられる。(※「越中宮極楽寺由緒」)


■元、「後鳥羽上皇」の荘園であった「越中吉岡庄」の赤丸村舞谷に、現在、高岡駅南に在る「衆徳山総持寺」が在った。(※「国宝概説」)
そこには昭和12年に国宝になり、その後、国指定重要文化財になった「木造千手観音坐像」が祭られている。
明治維新により、「南朝を正統とする議決」が帝国議会で行われ、南朝支援の歴史を持つ赤丸村は脚光を浴び、宮内省から再三に亘り赤丸村の史跡調査が行われた。その結果、総持寺の観音像の胎内から南朝の護持僧として著名な「河内金剛寺 禅恵」の署名や「正平八年三月 御入り」等の記名が発見されたことから、昭和12年には国宝に指定された。ただ、その際には数多い胎内名の内、「禅恵」や「仏師幸賀」等のわずかな署名しか調査されていない。昭和39年に富山県教育委員会は解体修理を行い、胎内名も書き写しているが、その署名の調査は行われていない。先ず肝心の、頭部と体前面の内部に2か所も記載されている「金剛位理 本願聖人」と「藤原浄円 大檀那」については全く調査記録が無く、学者は「禅恵」を「大檀那」とする等の混乱が残されている。
又、「正平八年三月 御入り」の記載から、この仏像の製作は「正平八年三月」とし、どの学者も「この仏像は南朝を代表する仏像」と評価してきた。(※「御入り」はこの像が製作された年では無く、「河内金剛寺」から越中の総持寺へ伝えられた年と考えるのが妥当だ。)
この胎内に残された「金剛位理」は鎌倉時代の「後鳥羽上皇」の法名であるばかりでは無く、「藤原浄円 大檀那」についても鎌倉幕府の中で執権の北条氏を助けて政治を行った「評定衆」の中に有名な「御成敗式目」の原案を作成した「斉藤長定入道藤原浄円」が実在する。又、「仏師幸賀」についても興福寺の仏像修理仏師の中にその名前が有り、疑いなく、この仏像は鎌倉時代の後鳥羽上皇に御縁のぬ有る仏像である。「吾妻鑑」に拠れば、後鳥羽上皇と藤原浄円は同年に亡くなっており、時代的にも合致している。
(※「日本彫刻史研究」小林剛著) 
胎内名の顔の内部には「金剛位理■」(※■には「乗」か空海が用いた「毎の下に水を書く海」の字と見られる文字が記載されている。)が、もう一か所の体部全面の内部には「金剛位理卿」と記載されている事から、学者は前記を「金剛位理海」と解釈し、後者は無視している。「海」の字がついた僧は誰しもが知る「空海」が有名だが、仏教用語では、多くの河川が流れ込む海ー即ち諸々の人々の苦悩、煩悩を背負う僧職に在る者、知識の豊富な人を指すと言う。
しかし、河内金剛寺の研究者はこの解釈を「金剛位理乘」と解釈されており、これは、真言宗の事を「金剛乘教」と呼び、信徒に「乘」を付けた事に拠る様だ。しかし、後者の「金剛位理卿」については、ウイキペディアでは「卿: 中国の天子・諸侯の家臣の最上位。」と記載されており、天皇も中国では「卿」と呼んでいるが、現在までこれに関する議論は耳にしていない。真言宗の各所にみられる中国的な解釈をすればこの「金剛位理卿」(良然)は「後鳥羽上皇」に他ならない。総持寺の千手観音像が昭和12年国宝に指定された時に、もう一人の「金剛理」(覚理)は「長慶天皇」の法名である為、長慶天皇の南北朝時代に造仏されたと誤って解釈された様だ。その他の胎内名の中で、南朝と繋がりの強い河内金剛寺の僧の「禅惠」の名前が在った為、この像は南北朝時代の「正平八年」の胎内の記入が決め手となって、この年に造仏されたと結論付けられた。この時代に「藤原浄円」が鎌倉幕府評定衆の一人の「齊藤長定」という人物で、出家して「藤原浄円」と名乗ったと云う事を知る学者がいなかったものか? 「吾妻鏡」の解釈には「齊藤長定入道藤原浄円」とされているのだ。この解釈は現在も文化庁が知らないのか、「この仏像は南北朝時代に造仏され、胎内名も後の追加記入が見られない事から正平八年に造られた仏像に間違いない。この仏師幸賀は大仁坊幸賀という仏師である」と回答している。この千手観音像の「胎内仏」は市内の在家に祀られているが、「鑑定では鎌倉時代の作とされている」と所有者が回答されている。日本の文化行政はせいぜいこの程度のものか? 高岡市教育委員会文化財課はもっとレベルが低く、「学会で問題点が明らかになれば検討しても良い。」と云う回答なのだ。




後鳥羽上皇がこよなく愛された「菊花」は高岡市でもフアンが居る。



■最近、総持寺の撮影による「文化誌日本」(※講談社版) に掲載の千手観音坐像の写真を入手して詳細を調べると、何と普通は蓮の「蓮華座」に座っている筈のこの観音像は、花弁の様子からどうみても「菊の花」に座っており、その下部には「小菊」の文様がビッチリ彫り込まれている。後鳥羽上皇は「菊の花」を好み、衣装や調度品、自ら制作した刀剣にも「菊」を刻印して、お気に入りの女性を「亀菊」と呼んで寵愛した。この「亀菊」に与えた荘園で鎌倉幕府の役人が不法を行い、これに抗議した上皇の要請を幕府が拒否した事が「承久の乱」に結びついたとされている。皇室の「十六菊紋」という「花弁が16枚の菊紋」はこの後鳥羽上皇の菊印から起こり、後には「皇室の紋」とされ、現在はパスポートにも刻印されている。
この胎内名の「金剛位理卿」とこの「観音像の菊の台座」から、この「国指定重要文化財 木造千手観音坐像」は明らかに後鳥羽上皇の祈願により、藤原浄円が大檀那として資金を提供したものと見られる。ちなみに、「承久の乱」で総大将を務めたのは、元能登守の北面武士藤原秀康で有り、最後には不利と判断した後鳥羽上皇から逆賊の院宣を出されて殺害されている。この時に赤丸村を含む「越中吉岡庄」(※南北朝時代末期から五位庄)は「後鳥羽上皇」の庄園(後院領)であり、赤丸浅井城に拠ったと云われる越中の石黒氏、藤原氏として石黒、林氏の同族の宮崎氏等も後鳥羽上皇の支援をして戦い、ついには降伏し、加賀の豪族で石黒氏の同族の林氏も戦いに敗れ、後は林氏の同族ながら幕府側に付いた富樫氏が繁栄したと云う。北陸の藤原氏の頭領の加賀の林氏は、石川県と福井県に跨がる「白山」の信仰を背景に石川県鶴来町を拠点として栄えたが、その一族は加賀国一帯に拡がり、現在の金沢市に遺る「石浦」等の多くの地名として残っている。「越中石黒系図」には「石浦氏からの養子」と見られる人物も見える。これらの「藤原一門」は、「越中吉岡庄」の領主で、「藤原摂関家長者、左大臣藤原頼長」の配下として北陸で繁栄し、「加賀の林氏」が比叡山と紛争になって捕縛された時には、「藤原頼長」に救われたと云う。
(※「藤原氏長者藤原頼長」は奥州でも父親の忠実から譲られた庄園「五庄」を所有して「奥州藤原氏」に統治させ、金、馬、織物等を上納させていた。)
又、「林氏」は「源義経」の配下として源平の戦いを戦い、一時期にはその恩賞として越中国を与えられたとも云う。(✳「林一族」寺西艸骨著)

【※「北面の武士」は皇室を警護した武士団で、「天子は南面す」と云われる天皇の背後を守った事からきている。天皇警護の武士団としては、後鳥羽上皇が創設された「西面の武士団」もいた。】














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