赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔘 💢💤 吉田神道の「高岡関野神社」の由緒と「貞享二年寺社由緒書上」⇒嘘で歪められた「高岡市の歴史」!!

2019-02-11 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「関野神社由緒」(富山県高岡市)








■等しく高岡市民が古来から信仰して来た文化は「吉田神道」の横車で破壊された。貴方の信仰はこうして簒奪されて、歪められた!!

■「貞享二年寺社由緒書上」で、「関野神社 神主 関氏」は、越中一国の社頭で在り、二上射水神社、物部神社、稲荷社、熊野社、加久弥神社(神明社)、大木白山社、放生津八幡宮、高岡八幡宮、射水郡加茂神社、等の古社は「全て私の持ち宮」と主張しており、甚だしいのは「海老坂八幡宮は私の住まいで在った」として、富山県内の「延喜式内社」、「古社」は「私の持ち宮」と主張している。しかも、加賀藩前田家が氏神として祀る「金沢尾山神社」は、高岡市の「海老坂八幡宮」を勘請したもので、「関氏」の持ち宮を加賀藩が氏神にしているのだと説明している。「海老坂八幡宮」は「物部氏」を祖先神としている神社で、加賀藩前田家は菅原道真の末裔の「菅家党」から出ているとして、前田家は「菅原氏」であると名乗りをしており、加賀藩が高岡市の「海老坂八幡宮」を「金沢尾山神社」に勘請したのは、「菅原氏の祖先神」として崇敬したものと見られる。
しかし、加賀藩の家臣が書いた文書に拠ると、前田家は元々、「菅原」を名乗った訳では無く、当初は「豊臣」を名乗り、次いで「源氏」を名乗り、終には「菅原」を名乗ったと記録されており、「前田家」自体の由緒も時代によって変えられている。

■「金沢尾山神社」


■「加賀藩前田家由緒」


(家臣の松島家文書)


■「貞享二年寺社書上」(加賀藩記録)










■「関野神社の正体」
「関野神社」は「前田利長」を祀る神社と主張して、「無形重要文化財 高岡御車山祭り」も「高岡関野神社」の祭礼だと吹聴している。しかし、「関神官」が「熊野社」を「持ち宮」としている事については、「越中宮極楽寺由緒」や「先宮 熊野社由緒」が異議を唱えており、この「熊野社」は南朝の後醍醐天皇の皇子「宗良親王」が信仰された神社で在り、「御車山祭り」の最後尾を走る二輪の「與車 ヨシャ」は「宗良親王が使用された事」を使用しているとしている。しかし、「関野神社」では、この車は「後陽成天皇が聚楽第に行幸された車を豊臣秀吉から利家が拝領したもの」として、飽くまでも「前田利家所縁の車」と主張して、高岡市教育委員会もこの説明を是として観光宣伝に使用している。
(※「後陽成天皇の聚楽第行幸絵図」では、天皇は「鳳輦ホウレン」と呼ばれる「輿コシ」に乗られており、車輪のついた牛車では無い。)

■「京都葵祭り」での巡航の様子
(※南北朝時代迄、皇室庄園で在った「吉岡庄」は南北朝時代末期には「京都下鴨神社」の庄園で在った。⇒「柳原家記録」大日本史料)




■室町幕府第三代将軍足利義満によって「越中五位庄」(※南北朝迄は吉岡庄)が京都「相国寺」に寄進され、その後も足利家菩提寺の「等持院」・「等持寺」の庄園として続いた。


■「後陽成天皇の聚楽第行幸絵図」




■「後陽成天皇行幸記録」(※「群書類従」塙保己一編)


■【天皇、上皇、公卿の様々な乗り物】



■「上皇用の與車」と「天皇用の鳳輦」


■「貴族の位階」に拠って様々な乗り物が在った。







■「越中宮極楽寺由緒」(※当ブログ内で全文公開している。)に拠れば、【後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」の赤丸城ケ平山の麓の「極楽谷」に「宗良親王」が「極楽寺」を開かれ、】「二百数十年間、赤丸村に在ったと言う」と記載されている。「宗良親王」は興国三年、南朝軍の鼓舞の為に越中に入られ、「赤丸浅井城」、「木舟城」、「福満城」を巡航されたと云う。「極楽寺由緒」では、この時に使用された二輪の「與車」(※牛車)が「御車山祭り」で二番町の車として使用されているとしている。
高岡市法務局の公図にはこの場所が明示されており、「延喜式内社赤丸浅井神社」にも同様の記録が遺されている。




















■「吉田神道」は皇室の祖先神の「伊勢神道」を軽視して、鹿島神宮、春日大社を中心にしており、正規の官職である伊勢の「神祇伯白川家」を差し置いて、「神祇官領長上」と云う官名を勝手に名乗り、幕府に近づいて「唯一神道」の総取締役の地位を獲得した。幕府にとっては、朝廷を牽制する為に吉田神道を利用する必要が在り、又、宗教取締の責任と権限を「吉田神道」に委ねて、「諸社禰宜神主法度」に拠って、神官の任命や白衣以外の衣装の指定等の権限を吉田神道に与えた。幕府の傀儡と成った吉田神道は富山県内の古社を全て支配する事を目指して、奈良時代から続いた「二上射水神社」や「放生津八幡宮」、射水市の「加茂神社」迄も「私支配の神社」と称して乗っ取りを図った。

そもそも、本部の「吉田神道」は、「大鏡」に拠ると、「鹿嶋神宮」・「春日大社」の流れを汲み「京都吉田神社」に勧請された「中臣氏」の信仰で在ったが、「中臣鎌足」が「中大兄皇子」と共に政敵の「蘇我蝦夷」・「蘇我入鹿」を暗殺する事に加わった為に、恩賞として「藤原」の姓を与え、その時寵愛していた側女を鎌足に与えた。その時、胎内に居た子供が「藤原不比等」で在ったが、「天智天皇」と成った「中大兄」は「男の子で有れば鎌足の子供とせよ」と命じた。しかし、藤原氏(中臣氏)が勢力を強めた為に、「天智天皇」の子供の「藤原不比等」が政治に関わる為に障害に成った為、「元正天皇」は「藤原は不比等の子孫のみが名乗り、元の中臣は政治に関わらず神道祭祀のみに関わる様に」と勅令を発せられた。「鹿嶋神宮」は「藤原氏」の氏神であると吹聴する事で、天皇家とも、縁を繋いでいた藤原氏の威光を背景に「鹿嶋神宮」の流れを汲む「京都吉田神社」が、時々の幕府に取り入り「天皇家」の「白川神道」を押さえ込んで勢力を伸ばした。徳川幕府も吉田神道と手を組む事によって「諸社禰宜神主法度」を作り、吉田神道に全国の神官の任命権を与えた。しかし、寺院と神社が複合した「両部神道」は天皇家とも繋がる全国の寺院がその影響下に在った為に、吉田神道も公に手出しが出来なかった様で、「吉田神道高岡関野神社」は明治維新のドサクサに全国の「両部神道」を廃止し、一挙に「唯一神道」を目指した。元々の両部神道の寺院は「天台宗」か「真言宗」に組み込まれ、「神道の一本化」が推進された。過激な「廃仏毀釈運動」を先導して、仏像や仏具を野山に打ち捨てた。この時に、「赤丸浅井神社」の別当で両部神道の「川人山鞍馬寺」は廃止されて、「五位庄郷社延喜式内社赤丸浅井神社」だけが残された。現在、「赤丸浅井神社」の墓所には、元の「鞍馬寺」の石仏が全て首を切られコンクリートで修復された悲惨な姿で遺されている。


高岡市の関野神社が主導した「廃仏毀釈運動」で首を切られた「赤丸浅井神社」の別当「川人山鞍馬寺」の墓地。首を切られた沢山の石佛群が遺されている。(※写真は一部分)

■徳川時代には、両部神道の「延喜式内社二上射水神社」や「延喜式内社赤丸浅井神社」等が乗っ取りの対象にされ、「赤丸浅井*神社」には末社の「石堤浅井神社」に清水神官(本姓 吉田)を送り込んだが、門跡寺院「聖護院」の末寺「川人山鞍馬寺」の神社で在った「赤丸浅井神社」、「石堤浅井神社」、「舞谷八幡宮」を簒奪する事は加賀藩寺社奉行、聖護院本山の裁定により失敗した。「聖護院の隠居寺」で在った京都の「方広寺」は「豊臣秀吉」が復興に当たり、その時に豊臣恩顧の「前田利家」はその復興の為に秀吉に対して巨額の寄進をしていたと云う。加賀藩は表向きには徳川寄りを示していたが裏では豊臣恩顧の大名としての反骨精神が根強かったと見られる。
一方で、「二上射水神社」は別当の「養老寺」から切り離されて、高岡市内の古城公園内に移された。現在の「二上射水神社」はその後、分社した形で二上の地に戻されたと云う。
しかし、明治維新では「天皇親政」、「国家神道」に基づく国造りが目指されて、その結果、両部神道は廃止され、山伏は真言宗か天台宗に帰属させられ、両部神道の神社は神道のみを伝える施設に成った。「赤丸浅井神社」はこの時に還俗して神官と成る事を選択して、山伏の「西宝院」を改めて神官「川人他治馬」と名乗った。

■「石堤村史」に拠ると「石堤浅井神社」の「神官清水家」は本姓を「吉田」とされ、「吉田神宮帳」には「石堤村浅井神社 大宮司 吉田日向守」、「寺社奉行所神社帳」には「清水因幡」、「大滝組帳」には「清水丹後」と記載されているが、加賀藩の「貞享二年寺社由緒書上」には「月谷村社家 越後」と在る。赤丸村舞谷村には古来から「越後どん」と呼ばれた浅井神社の神官をしていたと言う社家が在る。この本家は明治に北海道に移住したが、この家系は南北朝の武将「桃井直常」の三男が舞谷村に創建した「西大寺」の門徒で在り、この家系には最近迄、神官の衣装を保管していたと言う。これ等の経過を見ると、いつの間にか、石堤浅井神社の神官は吉田神道の社家に取り替えられていたと見られる。この争論には、常に高岡関野神社が加賀藩に申し入れをしており、ここにも関野神社の暗躍が見て取れる。

■「貞享二年寺社由緒」


■「吉田神道裁許状」


■これ等の吉田神道の暗躍で、県内の殆どの神社は、その由緒や歴史を消され、或は偽造された。高岡市の「無形重要文化財御車山祭り」の正確な説明は「吉田神道流」に書き変えられて、全てが「前田家」と「関野神社」の歴史とされ、「前田家」と「関野神社」を中心とした歴史に塗り替えられた。「高岡市史」が根拠にしているのは、殆どがこの「関野神社」が書き上げた文書に基づいている。特に、高岡市の有力町民がこの説明を吹聴して、「加賀藩に貢献した高岡商人」を声高に叫んだ為に、高岡市では現在も歴史の中心は「前田家」と「関野神社」に据えられたままで在り、高岡市自体も旧態然とした文化に固執して「歴史のまちつくり」と称している。真実の「歴代のまちづくり」をするには、先ず、関野神社が根拠にしている前田利家や前田利長の文書の真偽を確認する必要が在る。詳細を反証すると関野神社の主張する高岡市の歴史とは余りにもかけ離れている事が分かる。「高岡市」の「高岡」の命名についての由来も高岡市にはその根拠も無いと回答している。加賀藩時代の「古文書」については、殆どが「吉田神道」の作為が在る。「高岡市には1600年以前の歴史は存在しない」と高岡市御車山会館の館長は叫んだ。吉田神道の作為で作り上げられた「神話」的な高岡市の歴史は、「現物の古文書を遺す事」によってこそ、「歴史」に成るが、「高岡市史」には何処の「市史」にも在る「資料編」が存在せず、その証明をするコピーもマイクロも何も無いと云う。高岡市でも、周辺では、万葉時代の歴史や、赤丸村の様に藤原摂関家庄園、上皇庄園、皇室庄園、足利将軍直轄地と成り、その間には京都の三十三間堂や上賀茂、下鴨神社、相国寺(金閣寺)の庄園に成って、「保元の乱」、「平治の乱」、「治承・寿永の乱」、「承久の乱」、「応仁の乱」等に捲き込まれ、戦国時代には上杉謙信、武田信玄、織田信長等の武将がシノギを削った歴史が在る。これ等に付いては、寧ろ、奈良や京都、国立の施設等に遺される「東寺」、「東大寺」、「相国寺」等の有名寺院や「吾妻鏡」等の著名な史書にも豊富に遺されている。これ等の古文書だけでも吉田神道が如何に歴史を捏造したかを反証できるだろう。特に、南北朝の争乱や応仁の乱、一向一揆の戦乱の影響は大きく、その間には、高岡市の西山一帯は戦乱の渦中に在って、日本の歴史の中心にも度々成っている。「高岡市には前田家の歴史しか無い」とほざく無知な人間が高岡市の幹部や教育委員会に居座っている限り、高岡市の「文明開化」は遅々として進まない。封建制度の中で「前田家の家臣」や「吉田神道」が伝えた歴史の真偽の検証もせずに、「高岡市の歴史」を紡ぐ事は「嘘の上に嘘を積み上げる」だけの空しい作業で在る。この「見直し」や「反証」もでき無い高岡市教育委員会の硬直した精神が、高岡市の財政を破綻させた一因でも在る。

■「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当「聖護院派 川人山鞍馬寺」由緒と関野神社の争い史料

(※「赤丸浅井神社由緒」※富山県立公文書館所蔵)










「延喜式内社赤丸浅井神社」の勝訴の資料 (※「加賀藩裁定記録」金沢市立図書館)






■「越中吉岡庄」の「赤丸村」周辺は、「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄、皇室庄園だった。









(※「庄園データーベース」国立歴史民俗博物館)

『政治』 ã‚¸ãƒ£ãƒ³ãƒ«ã®ãƒ©ãƒ³ã‚­ãƒ³ã‚°
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