赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴📃📃 横暴を極めた吉田神道の「高岡関野神社」と「延喜式内社赤丸浅井神社」の争い⇒両部神道と唯一神道の激しい争論の歴史!!

2018-09-13 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「延喜式神名帳」









■明らかになった「赤丸浅井神社別当 鞍馬寺」(※西法院)と吉田神道の「高岡市関野神社」・「石堤浅井神社」の争論の実態。




■高岡市の前田利長を祀る「吉田神道 関野神社」が加賀藩に提出した文書控え
(※金沢市立図書館)



■赤丸村組合頭「皆月家」の古記録に「砺波郡石堤村一件 寛政13年・1801年」と言う記録が在る。


■これは「赤丸浅井神社」と「石堤浅井神社」が1760年から1765年にかけて争った事件である。
赤丸村の「川人山鞍馬寺」は「赤丸浅井神社」・「石堤浅井神社」・「舞谷八幡宮」の三社の別当寺で在ったが、「川人山鞍馬寺」は赤丸城の中山氏に追われて福岡町一歩二歩に逃げ、その後継として鞍馬寺の七つの寺坊の内「西宝院」だけが残って「鞍馬寺」の後継と成り、赤丸浅井神社の神官も兼ねていた。当時は両部神道では「神前読経」と云う習慣が在り、神社で読経する事も日常行われていた。従って、この三社の維持の責任は「西宝院」に在った為に、石堤浅井神社の改築費用も西宝院が調達していたと云う。
しかし、吉田神道の唯一神道を唱えた高岡市の「関野神社」の神官「関三河守」は、高岡市月野谷村の清水神官を焚き付けて、それまで石堤浅井神社に祀っていた毘沙門天等の三体の仏像や鰐口等を突然、清水神官に取り除かせて、それを隠してしまったと云う。
その為に門跡寺院(天皇の一族が門跡と成る皇室所縁の寺院)「聖護院」の末寺で在った「川人山鞍馬寺」は聖護院本山や加賀藩に訴えを起こした。この争いは表向きは「関野神社関三河守」と「聖護院」の争いと成ったが、その陰で困った氏子は両方に分かれて争った。
その上、この争いには領内から各戸、米一升を集める権利が絡んでいた為に、争いは長期化した。

■「明治五年 修験道廃止令」
高岡市の「関野神社」が主導した「廃仏毀釈運動」は、「明治五年」の「両部神道廃止令」によって決定的と成り、古くから伝えられた由緒在る県内の有力寺院は廃止された。この時に「両部神道川人山鞍馬寺」は廃止された。



■「鞍馬寺側」は「昔は石堤浅井神社の祭礼は小矢部市の埴生八幡宮が執り行っていた」と主張して、一方、関野神社の関三河守は前田家の氏神と言う立場を利用して無理矢理石堤浅井神社や高岡市の熊野神社等の簒奪を進めようとした。しかし、「赤丸浅井神社」には「浅井城主の浅井左衛門佐」を通じて三代藩主利常や四代光高が初穂米の徴収権を二上山養老寺、石動山天平寺と共に安堵していたと主張し、熊野神社も前田利長が「先宮熊野社」の称号を与えていた為に、これ等の両部神道の各寺は「既に加賀藩の認可を受けている」と主張した。その上、歴代藩主が「太刀やお金等を寄進していた」と言う書状が出た為に、さすがの関野神社も加賀藩に楯突く事が出来なく成った。しかも、この裁判には皇室所縁の聖護院本山も調査に乗り出してきた為に加賀藩は「速やかに石堤浅井神社から取り除いた仏具を返して、清水神官が持ち込んだ祭具は月野谷に持ち帰れ」との判断を下した。

■「赤丸浅井城」と鎮守の「赤丸浅井神社」















■「後醍醐天皇皇子宗良親王」が創建され、「先宮」と前田利長が命名した「熊野社」




■「赤丸浅井神社」に加賀藩主から寄進された刀剣は第一次世界大戦前迄残っていたが、戦争の為に供出する事を怖れて土中に埋めた為に、戦後掘り起こした時には錆びてしまっていたと古老は伝える。又、明治十年頃の「浅井神社宝物帳」には「第三代前田利常、第四代前田光高からの書状」も記録されているが、現在はその行方も分からない。

■「石堤浅井神社争論一件」






■この時に高岡市関町の「総持寺」も仲裁に乗り出して、「石堤浅井神社は清水神官が奉仕している。石堤浅井神社は寛文7年に三社権現から神号を許されて世俗的には川人大明神又は、河人神社と呼ばれてきた。」と説明し、一方、赤丸舞谷の「清水山観音堂」は「西宝院」の持ち寺で在り、総持寺の持ち宮の「石堤村水の宮」は氏子が奉仕していると説明して文書を提出している。
加賀藩とも密接で、日頃、西宝院共懇意にしていたとされる「総持寺」の仲介は大きかった様だ。総持寺には赤丸村西宝院の過去帳も在ると言う。(※「越中古文抄」高岡市中央図書館)
総持寺が仲介に出たのは、総持寺を代々護持してきた門徒総代の 池田家は元々、赤丸浅井神社の門前に屋敷を構え、赤丸浅井神社の周辺を取り囲む様に一族が屋敷を構えている赤丸浅井神社と密接な一族で在る事も在り、又、この池田家は石堤地内に大きな新田を開発していた一族で在った事も有るようだ。現在の高岡インター周辺の「池田地区」もこの池田家が開発した地域で在る。
(※「石堤村史」)

■「赤丸浅井神社古墟図」(※「加賀藩士森田柿園」が残した森田柿園文庫 所蔵)
(※石川県立図書館)



■高岡市関町「衆徳山総持寺」






■高岡市関町の「総持寺」は嘗て、赤丸村舞谷に在ったが、「五位庄」が室町時代に足利義満の庄園(※「相国寺」の庄園と成る。)に成った時に赤丸村を離れて高岡市の現在地に動いたと伝承されている。









■その後、加賀藩第十三代前田斎泰は「赤丸浅井神社」の扁額「浅井神社」を揮毫して赤丸浅井神社に奉納し、加賀藩江戸板橋下屋敷には「赤丸山」と云う築山を築いている。


■「加賀藩第十三代前田斎泰が揮毫した赤丸浅井神社の扁額」






■しかし、明治維新で維新政府が「両部神道の廃止」を宣言して廃仏毀釈運動が激しくなると、嘗て敗北した関野神社関神官は廃仏毀釈運動を主導して、二上射水神社を養老寺から離して高岡古城公園に移動させ、石堤浅井神社には「郷社 延喜式内社」を唱えさせ、石動山天平寺は全山廃止にした。その報復も激しく、その時に赤丸浅井神社の西宝院の墓の石仏は全て首を切られて打ち捨てられた。今はその石仏の首が修復されて赤丸浅井神社の背後の古い墓地に静かに立っている。

■赤丸村の向野新村は石堤村の「山本助九郎」と福岡町に菅笠を伝えた大野源作の子孫「大野次兵衛」が開発し、各々を「助九郎島」、「次兵衛島」と呼ぶ。又、石堤村と赤丸村は血縁関係が多く、一時期は向野新村の大野氏が石堤村を含む総代に就任した事も在る。その密接な集落に高岡市の関野神社は拭いされない憎しみを植え付けた。一部の石堤村の村役は関野神社・清水神官に取り入り、数々の文書を創作して清水神官に提出した。その偽文書は高岡市の歴史家「飛見丈繁氏」に渡り、飛見氏はそれを基に数々の論文を作成・発刊した。高岡市の有力者で、富山県議会議員・歯科医師で高岡市関町の総持寺住職の奥様の兄でも在った飛見氏の影響力は大きく、「高岡市史」の編纂者はその創作資料を独断専行して採用して「高岡市史」を発行した。間違いだらけの資料を採用して独断専行して編纂された「高岡市史」について、高岡市在住の歯科医師「桜木成一氏」は『ある贋作物語』や総持寺研究書等を刊行して、「高岡市史」のデタラメを追及された。しかし、この論争は「総持寺の奥様の兄に当たる飛見氏」の主張を遺して双方の主張はそのまま現在に引き継がれた。これ等の著作は全て高岡市中央図書館に所蔵されている。
(※「高岡市史」はこのトラブルの為だろうか「資料編」は発行されなかった。)

■高岡市の「稲荷神社」・「関野神社」の神官「関家」は【吉田神道】の「吉田家」から越中国内の「射水郡」・「砺波郡」・「新川郡」の「社家頭」に任命されているとして、「稲荷神官」・「八幡社」・「加久弥社」・「大木社」や、「神明社」、「二上権現」、「海老坂八幡宮」、「射水郡放生津八幡宮」・「射水郡加茂大明神」等は「全て私の持ち宮」と主張して、「貞享二年寺社由緒書上」に記載して加賀藩に報告している。徳川幕府が「諸社禰宜神主法度」を定めて「吉田神道」に神官の任命、衣装の指定等の権限を与えた事から、「吉田神道」の「関家」は吉田社家からの裁許状を盾にして、「越中国内の著名な神社は全て私の持ち宮で在る。」と主張して、県内の神社の簒奪を企んだ。
特に、「前田利家」が「先の宮 マズノミヤ」として指定して「最も古い熊野神社」と認定していた「熊野神社」(※高岡市熊野町)は、南北朝の頃に後醍醐天皇の皇子の「宗良親王」が創建されたと伝わり、同じ由緒を持つ高岡市の「越中宮極楽寺」の由緒には「先の宮事件」として、「関野神社」がこの熊野神社を簒奪しようとして、氏子同士が大きな騒乱を起こした事が記載されている。

■本来は伊勢神道の「白川家」が「神祇伯」として伊勢神道を主掌する筈で在ったが、鹿島神宮、春日大社の流れを汲む「吉田神社」は、勝手に「神祇官領長上」を名乗り、「唯一神道」を唱えて神道の独占を企んだ。又、文武天皇の時代には、「元々の中臣氏は藤原を名乗ってはならない。「藤原」は「藤原不比等」の子孫にのみ許される。」と勅令が出されているにも関わらず、皇室の伊勢神道をも我が手に納めんとして時の幕府と手を組んで「神社祢宜諸法度」を幕府に制定させて権力を掌握した。「加賀藩」も当初、「真言宗」の仏式で「瑞龍寺」の地鎮祭を行ったが、利家の妻の「まつ」の助言に拠って、徳川幕府の推す「吉田神道」に拠って地鎮祭をやり直したと云われ、加賀藩も幕府と組んだ吉田神道には手を焼いていた事が伝わる。
加賀藩は「関野神社」に「前田利長」を祀り、関野神社の持ち宮だと主張する「高岡市海老坂」の「物部神社」を前田家の氏神として金沢の「尾山神社」の祭神としている。

■「吉田神道裁許状」(※神官の衣装を格式によって吉田家が指定した。)



■「貞享二年寺社由緒書上」











■高岡市の「関野神社」は皇室庄園で在った「越中吉岡庄」の鎮守社の「延喜式内社赤丸浅井神社」の簒奪を図ろうとして国吉村月野谷の「清水神官」を送り込み、「赤丸浅井神社」の摂社の「石堤浅井神社」に無理矢理、吉田神道の祭具を持ち込み、「この神社は元々、私の持ち宮」と主張して争ったが、加賀藩は裁定を下して「清水神官」に祭具の撤去を命じて、「赤丸浅井神社」の主張を認めている。
(※「神社一件書上」加賀藩記録⇒金沢市立図書館所蔵「皆月家文書」)
・「貞享二年寺社由緒書上」には「月野谷・石堤浅井神社神官」として、「清水」でも「吉田」でも無く、「社家 越後」と記されており、赤丸村舞谷には現在も「元々、浅井神社の神官で在った越後家」が残っており、地元では「越後どん」の尊称で呼ばれている一族が在る。「石堤村史料」に拠れば、現在、「清水」と名乗っているこの神官は「元々、吉田で在った」事を記載しており、「高岡関野神社の手先」として「吉田家」が直接、手を出していたものと見られる。


■吉田社家は「文徳天皇」の時代の「文徳実録」によれば、元々は韓国人で「百済国」からの帰化人「吉田連」で在ったと云う。





■「吉田神道」と「明神位」⇒真実を知らない歴史家が「嘘の歴史」を造り出す‼
この時の高岡市の「吉田神道関野神社」の「横車」は、明治維新になり、加賀藩の権威を背景に「廃仏毀釈運動」を主導した事から正当化され、両部神道の神社は口を塞がれ、吉田神道の裁可を受けていた神社も一斉に口をつぐんだ。戦後、新しい神社庁は全ての神社を対象に発足したが、高岡市では皇室所縁の伊勢神道では無くこの吉田神道の影響力が大きい。
高岡市民は関野神社が作り上げた高岡市内の射水神社を崇敬し、「曳き山祭り」は関野神社の祭礼だと端から信じており、現在の高岡市の歴史や高岡市曳き山祭り等の由緒にも強く影響している。この一件はそもそも吉田神道の横暴に端を発したが、この思想は高岡市教育委員会に深く入り込み、現在も尚、真実が追及される事も無く、地域を分断する様な重いしこりを遺している。正に高岡市の歴史や文化は吉田神道がでっち上げた歴史の上に構築されており、何も知らない市民や学生は真実を知ろうともせずに加賀藩の威光を今も頼りにしている。


■「明神」とは元々、「大宝律令」・「延喜式」に記載された「日本」の修飾語!!
・「吉田神道」が産み出した「偽の神号 明神位」

■「吉田神道」は「鹿島神宮」・「春日大社」の流れを汲む「京都吉田神社」の主導した神道で、徳川幕府に「神社祢宜諸法度」を作らせて、独自に神祇伯白川家に代わり神社や神官に対して裁可状を出して唯一神道を推進した。(※「大鏡」)

「●●明神」と云うのは、元々、神社の神仏混淆の呼び方だが、中世からは吉田神道が神社を「明神」と呼んでいた。「赤丸浅井神社」・「石堤浅井神社」・「舞谷八幡宮」の「三社権現形式」を採った赤丸村の「川人山鞍馬寺」は、門跡寺院「聖護院」の末寺だが、吉田神道の地域棟梁の「関野神社」はこの寺から「石堤浅井神社」を吉田神道に変えさせる為に国吉村月野谷神官を送り込み、「川人明神」と吉田神道流の呼び方を「浅井神社」に付けて、恰も、三社が吉田神道の神社で有るかのように吹聴した。現在も高岡市史等の歴史書や郷土史家の著作には、この吹聴を真に受けて「石堤浅井神社」を「嘗ては石堤浅井神社を川人大明神と唱え・・・」と説明して、「石堤浅井神社」は「延喜式内社 浅井神社の論社で有る」等と訳の分からない説明を加えている。
元々、この「明神」とは「大宝律令」・「延喜式」等で「日本」に付けられた尊号で在り、「明神御宇日本天皇 アキツミカミトアメノシタシロスヤマト」の様に使用された言葉で「神国日本の天皇」と云う意味になる。従って、「●●大明神」とは、「神道=天皇」を意識付ける為の呼び方で在るが、残念?ながら、「川人山鞍馬寺」は天皇の皇子が門跡に入られた寺院で在り、「赤丸浅井神社」の創建は「元正天皇の二宮=文武天皇二宮」が創建された朝廷所縁の神社で在り、祭神も皇室八神の内の、天皇の祖先神「天照大神」と並ぶ最高神の「高皇産霊神」で在り、吉田神道等の遥かに及ばない神社で在ったから、加賀藩も江戸時代の宗教争いにも「赤丸浅井神社」の勝訴として、月野谷神主に対して「勝手に持ち込んだ祭具の撤去」を命じている。何しろ、「聖護院」は豊臣秀吉が再建した京都の「方広寺」の本山で在り、「前田利家」がその時にも相当の寄進をした寺なのだ。又、「聖護院」は徳川幕府の時代に、二度も「天皇の仮皇居」として使用される等、格式の高い寺院で在り、赤丸村の「川人山鞍馬寺」はこの「聖護院」の末寺で在ったから、流石に前田家も崇敬せざるを得なかったものと見られる。「前田利長」を祀った神社と吹聴していた高岡市の吉田神道「関野神社」はこの事を知らなかったのか、この争いでは完全に惨敗した。
しかし、明治維新で「神道」が国家神道とされて廃仏毀釈運動が吹き荒れると、政府の神祇官代に成った高岡関野神社の神官が主導した宗教政策が実施されて、「両部神道の廃止」を政府が打ち出した為に、県内の両部神道は、寺として真言宗、天台宗に帰属するか、寺院を棄てて「神社」に成るかの選択を迫られた。「川人山鞍馬寺」の一坊の「西宝院」は、還俗して「神官川人他治馬」と改名して、名字帯刀を赦されたと云う。
(※「令義解」、「森田柿園文庫」石川県立図書館、「石堤浅井神社争論一件」加賀藩記録)










■徳川家の武芸師範の柳生家は剣聖「上泉伊勢守信綱」の弟子で在り、「柳生心影流」の「無刀取り」は「上泉伊勢守」が愛知県一宮市の「臨済宗別格本山妙興禅寺」で修行していた時に編み出した術で在り、伊勢守に弟子入りした「柳生但馬守宗巌(石舟斎)」に伝授された。「上泉伊勢守」は13歳の時には常陸国(茨城県)鹿島 の「鹿島神傳直心影流」を習い、後に、「柳生心影影流」として相伝したと伝えられている。徳川幕府の剣術師範として幕府中枢に居た柳生家が、「鹿島神道」の流れを汲む「心影流」で在った事も徳川幕府の政策に大きく反映していたと見られる。
『社会』 ã‚¸ãƒ£ãƒ³ãƒ«ã®ãƒ©ãƒ³ã‚­ãƒ³ã‚°
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