赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🌸「加賀藩前田利家系図」と加賀藩の「越中関係の武将」!!

2019-03-14 | å¯Œå±±çœŒé«˜å²¡å¸‚
■加賀藩時代の金沢市街地図と越中五位庄領主・柴野城城主寺嶋牛介の末裔「寺嶋蔵人邸」



■「加賀藩と由比小雪反乱事件」
・「慶安の変」[慶安4年7月23日;1651年]で由比正雪・丸橋忠弥の乱が発覚し、丸橋忠弥は捕縛されて鈴ケ森で磔になる。この「槍の丸橋忠弥」は一時期、加賀藩に仕えていたと云う。加賀藩の寺嶋蔵人の知人に丸橋忠弥の知人がいた事から、蔵人はこの乱に同情を感じていたと云う。
由比小雪(―1651年)は江戸前期の軍学者で、号は正真。駿河(静岡県)の岡村弥右衛門の子。軍学者高松半兵衛の養子になり高松与四郎と称する。養父の死後江戸へ出て、浅草の菓子屋の鶴屋弥次右衛門の養子となり、楠木正成の末裔と称する楠木流軍学者の楠木不伝に師事してその養子となる。1633年(寛永10年)養父を毒殺して家伝書を盗み、牛込榎町の道場を横領して、中国の兵法家張良、諸葛孔明の名から「張孔堂」を開く。旗本、大名家の家臣、改易浪人等約3000人の門弟を集めて幕府の転覆を図ろうとするが、事前に洩れて小雪は自殺する。
この事件は厳しい幕府の改易政策(所領を没収して他の者に所領を与える刑罰で、当時の江戸にはその家臣が路頭に迷い、困窮浪人が増えていたと云う。)に反抗して溢れる浪人達が幕府に対して反乱を起こそうと企てた事件だ。
幕府と同様に、加賀藩も厳しい財政の立て直しを迫られていたが、藩主は屋敷の新設等で多額の出費を重ね、民百姓からは容赦なく絞り取った。特に加賀藩が「十村断獄事件」と云われる農民とその代表の十村役を密告させて問答無用で投獄、能登島へ島流し、あるいは磔、斬首すると言う苛烈、卑怯な政策を取り始めた事は、財政再建派の寺嶋蔵人等の改革派を強硬にし、派閥の拡大を産み始めた。第十三代藩主前田斎泰は当初は寺嶋蔵人等の意見も容れていたが、次第に藩主を追い込む事になり、遂に寺嶋蔵人は能登島へ配流される。この「十村断獄事件」は加賀、能登、越中の藩内全域に拡大し、特に能登と越中の西部は密告されて投獄され、或いは死亡するケースが多く、能登では親は磔、その子は斬首と言う極刑が課せられたり、越中五位庄では十村役の内島村五十嵐孫作が親子に亘り、数回も投獄され、死者も出すという状況であった。この事件は高岡市和田新村を開いた「和田佐助の隠し田事件」に繋がり、和田佐助は捕らえられ、磔の刑になった。
寺嶋蔵人の先祖の寺嶋牛介は上杉謙信の時に「五位庄の安堵状」を授けられて長く、五位庄柴野城の城主であり、蔵人自身も元は加賀藩の高岡町奉行であった。寺嶋蔵人の激怒と激しい反対はこの辺にも理由があったのだろう。
加賀藩の暴政に憤った寺嶋蔵人が、同じ境遇で徳川幕府から改易されて憤った浪人達の心情に同情した背景もこの辺に原因があったものだろう。
偶然なのか蔵人の金沢市内の自宅の隣地は「由比家」になっている。「由比」は駿河(静岡県)の地名から来ている様だが、「加賀藩組分侍帳」の御馬廻り役四番に「由比覚左衛門組」がある。(※金沢市立図書館) 又、石川県史第2編の「侍帳」には[由比勘兵衞(加賀藩)平士並以上、四百五拾石、長町三番丁]の記載もあり、加賀藩には数名の「由比」が見られる。又、由比正勝と言う藩士は幼少の頃から利長に仕えたと云い、前田家には古く仕えた由比氏がいた様だ。


■[加賀藩前田利家の信仰した神社と菅原道真の末裔と云う根拠、背景。]
「金沢絵図」の中央部右側に赤色で「御宮」と表示される神社は「尾崎神社」で、1643年(寛永20年)に加賀藩四代藩主前田光高(※陽公候)が曽祖父である徳川家康公(東照大権現)をお祀りする為に建立された。
又、その近接地にある金沢市の著名な「尾山神社」は、 元々、菊池氏の居城の「阿尾城」(富山県氷見市)に鎮座の「榊葉神明社」と、前田利長居城の「守山城」(高岡市)近くの海老坂烏帽子峰に鎮座していた「物部(八幡)社」を合祀したもので、当初、卯辰山山麓に遷座して「卯辰山天神社」と言ったが、後に金沢城内の旧金谷御殿跡に遷座した。当初、卯辰山天神社には前田利家を御神体として祀る予定だったが、幕府を考慮して中止したと云う。

■前田利家は越前武生から能登に入った時に羽咋郡志雄町の「菅原神社」の後ろの丘陵に「菅原館」と言う居館を設けたがその後、七尾、小丸山と城を移り、やがて金沢城に入城する。前田家は「菅原神社」 の祭神の「菅原道真」を我が祖先として崇敬したと云う。

■【菅原神社】[御祭神]菅原道真、応神天皇、武甕槌命、前田利家
[由緒] 天徳4年8月13日(今を距る1015年前)菅公の遺臣國武左官等京都北野より神霊を勧請、天満宮と稱し、歴朝の勅願所であり歴代の藩主が崇敬した後現社名に改称、明治12年郷社に昇格、同34年縣社に昇格、因みに文明18年(今を距ること実に491年前)京都の公卿なる道興准后本社に詣でて「伏見にあらぬ野山を今過ぎて今宵かりねを菅原の里」と献詠して歌道の益々隆ならんことを祈った、特に慶長10年より33年毎に定期開扉大祭が行われ、藩主の代参あり5日間の大祭中は非常な人出で賑わったと云ふ。
[鎮座地]羽咋郡宝達志水町菅原フ2 (石川県神社庁)

■前田家の「物部神社」の信仰
愛知県のJR中央本線千種駅周辺に古代には物部郷古井村があり、中世に鳴海荘古井村と言う物部氏の拠点が在った。この地に「延喜式神名帳」記載の式内社「愛智郡(愛知郡) 物部神社」があった。平安時代末期の「尾張国内神名帳」には「従三位物部天神」と記載されている。
・「物部天神社 由緒」愛知県名古屋市東区筒井3-31-21
祭神;宇麻志麻遲命(ウマシマジノミコト):物部氏の祖とされる。

■【※島根県太田市川合町川合の「物部神社」[一宮 物部神社(島根県大田市 )]の由緒に「饒速日命ニギハヤヒノミコトの御子の宇摩志麻遅命(物部氏の祖)は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて美濃国・越国を平定した後に石見国(島根県)で歿したという。」とあり、「一瓶社(佐比売山三瓶大明神)が天神として祀られ、 他に神社の末社として菅原神社、川合神社等が祀られた 」とされ、「物部氏と菅原氏の合祀」はこの神社の信仰が根底に有った様で、高岡市東海老坂字川田1068 の「物部神社;祭神 宇麻志麻遲命、応神天皇(八幡神)」の由緒には「物部氏の一族は大彦命が北陸を巡撫された際に従って来たが、命が帰郷された後も留まって鎮護の任に当たった。天平年間に大伴家持卿が国司として赴任した時に随行してきた物部氏族達がこの地に我等の氏神が祀られてあるとして喜び崇敬した。天正十三年(西暦1585年)九月、前田利長が加州松任城から守山城に移り、この頃より当社が武神(八幡神を合祀)を祀ってあるとして崇敬し、武運長久等を祈願した。慶長四年(西暦1599年)利長が金沢城へ移るに際し、当社の御分霊を金沢城の鬼門である卯辰山に守護神として勘請した。」とされる。「物部神社」と「菅原神社」の合体した信仰はこの石見の国の「物部神社」に由来していると見られる。】

⇒これ等の事から、前田利家の里の尾張国に「延喜式内社物部天神社」が在り、これが「物部」と「天神=菅原道真」が繋がった原因で、高岡市海老坂の「物部神社」の近くに「守山城」が在った事から前田利長は武神の「物部(八幡)神社」を氏神にしたものと見られる。先祖の前田氏は、「美作菅氏(ミマサカカンシ)」[※岡山県] の末裔で、分派の「原田氏」を祖としたと云う。菅原道真で有名な菅原氏から派生し、美作国勝田郡を中心に中世から武士団として活動して「美作菅家党」(単に菅党・菅家共)と呼ばれた一族で、美作の武家の中でもその由緒は古く、名族として知られたが、その家紋が「梅鉢紋」であった事から、先祖を「菅原道真」として家紋を「梅鉢紋」にしたと云う。。
・菅原道真の歌「こちふかば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ」⇒「梅鉢紋」

■「前田利家の出自」
当時の武将の由緒は後付けのものが多く、織田信長は福井県織田町の剣神社の神官の末裔で「忌部氏」とされるが、実際には「藤原」や「伊勢平氏」の末裔を名乗った。豊臣秀吉も「藤原」と名乗った後に「豊臣」に改姓している。足利氏は「源氏」でその後の織田氏は「藤原」、「平氏」を名乗っていた。徳川は「源氏」の新田義貞の末裔の「世良田」、「松平」の子孫と称している。前田氏についても「平氏」「藤原氏」等とされた系図も在ったらしいが、これ等とバッティングしない姓は何かを考えた時に、これ等の武将と重ならない「菅原」は申し分なかったのだろう。
加賀藩前田家は菅原道真の子孫と名乗り、藩内の住民に菅原道真の遺影の「天神様」を各戸に飾らせて、前田家への崇敬を徹底させた。正月のこの「天神様の祭」は衣、食、住の全てを統制された庶民に受け入れられ、いろいろな産業が関わる事から財政的にも産業振興にも多いに役立っていた。
【※「前田利家の祖」とする「菅原道真」は、「天穂日命」の子孫で、大相撲の祖『野見宿禰』を祖とする「土師氏」の子孫で、平安時代初期に大和国菅原邑に住んだ事から「菅原氏」を名乗る。一方、「物部氏系図]では、 「天穂日命」(天照大神の二子、出雲国造の祖)→ 饒速日命→宇摩志麻遅命(物部氏の祖) とされる。
⇒「菅原氏」と「物部氏」は先祖を同じ「天穂日命」とするが、系統は少し違う様だ。】

■『前田利家の祖の野見宿禰』とは??
相撲神事で有名な『野見宿禰』は加賀藩前田利家の祖の土師氏の先祖とされる。
出雲国の相撲の勇士『野見宿禰ノミノスクネ 別名襲髄命カネスネノミコト』は「天穂日命」の14世の子孫で第12代の出雲国造の鵜濡渟(宇迦都久怒ウガツクヌ)の子とされる「第13代出雲国造」であった。垂仁天皇の命により「当麻蹴速タエマノケハヤ」と角力(スモウ)の為に出雲国から召喚され、蹴速と互いに激闘して勝ち、蹴速の大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられ、以後垂仁天皇に仕えたと云う。又、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時に殉死の風習を止め埴輪の制を提案して「土師臣」(ハジノオミ)と賜姓され、以後、土師氏が代々の天皇の葬儀を司った。
⇒加賀藩では「相撲」が盛んで、藩内の神社ではかつて「相撲神事」を執り行う神社が多く、特に石川県は相撲が盛んで、「横綱輪島」「栃乃洋」「遠藤」を初め多くの力士を生んでおり、富山県でも「横綱 太刀山峯右エ門」や「琴ヶ梅剛史」、「黒瀬川浪之助」、「大谷米太郎」の他、「射水川健太郎 、階ヶ嶽龍右エ門 、大八洲晃 剣岳吉五郎 浦風林右エ門、駒不動大助 、旺吉伸 玉椿憲太郎 吉野山要次郎 寒玉子爲治郎、若見山幸平 、琴ヶ浦善治郎、 大磯武 、緑嶌友之助 」等の大相撲力士を生んでいる。

しかし、前田利家の系図については異論も有り、系図には作為があり「藤原氏」とする意見も在る。「古代氏族研究会公認樹堂氏のHP 」には大変興味深い記載が在る。
「この一族は播磨の赤松氏に従って存続・活動したが、原田式部丞佐広の時に「嘉吉の乱」で赤松満祐白幡城落城の時(1441年)、尾張国海東郡下一色に至ったと伝える。その子孫が美濃国安八郡前田村に居住の前田一族の女婿となり、前田を号したとされ、更に利家の祖父蔵人利隆(利成。海東郡前田城主与十郎種利の弟)の時に分家して荒子に移ったと云う。尚、美濃の前田氏は藤原利仁将軍の末流、斎藤一族の出と云う。」として「藤原・斎藤→ 前田説」も在るとする。
(播磨の赤松氏は足利将軍を暗殺して追われたが、後に、南朝に有った「神璽」を奪い、北朝に渡した功績で「加賀半国を与えられた」と言い、その時に「五位庄」の「加茂城」は赤松氏の居城で在ったと伝わる。)

■「梅鉢紋」の使用と藤原氏!
更に、「北陸に梅鉢紋使用の諸氏が多く、加州江沼郡の敷地天神を氏神として崇めた斎藤氏等が梅鉢紋を使用した。斎藤氏は一族が美濃各地に天満宮を勧請したが、美濃の堀・前田等の諸氏は斎藤と同族と伝え、やはり梅鉢紋を使用した。 室町期の『見聞諸家紋』には加賀国石川郡の「松任氏」や大和国添上郡の筒井氏が同紋を用いたと記される。「松任氏」は利仁流藤原氏の「富樫・林一族」であるが、実はこの一族は海神族から出た彦坐王一族(和邇氏族と同族。)の道君の末流であった。「林一族」の「山岸氏」も、美濃国大野郡大洞村に遷住して、天神を信じ梅鉢紋を用いた。」と記されている。 この意見に拠れば、「前田家」が用いた「梅鉢紋は原田氏が養子に入った斎藤系の前田家の紋章」であり、「加賀の林氏、富樫氏、松任氏」の家紋は「梅鉢紋」を使用したとする。
⇒【正確には富樫氏のこの紋は「八曜紋」と呼ばれ、周辺に黒丸が7つと芯の部分に小さい黒丸を書いたもので「星梅鉢紋」に近い。→「星梅鉢」は黒丸が5つと芯の黒丸の組み合わせで6個の黒丸で構成される(六曜紋)。この紋は加賀藩の支藩の七日市藩が使用した。】【林氏の代表紋は「折敷に三の字」と言い、神事に使う三宝の六角形の中に三の字を書いたものと云う。】【斎藤氏は藤原利仁将軍の次男藤原叙用が神事を司る「斎宮頭」になり「斎藤氏」となる】
この「林氏、富樫氏、松任氏」は藤原利仁将軍の末裔とされ、加賀の林氏がその宗家に当たり、「石川県史」に記載の「林氏系図」では、「越前斎藤氏、越中井口氏、加賀石浦氏、倉光氏、石浦氏、弘岡氏、大桑氏、豊田氏、山上氏、安田氏、横江氏、近岡氏、安田氏」 と繋がり、越中では加賀の林氏と縁組した「石黒氏、宮崎氏、堀氏、福満氏」等共繋がっていたとされる。

■織田信長の妻は「美濃斎藤氏」である。前田利家の系統の「尾張荒子前田家」は分家した前の系譜は不明としている。「梅鉢紋は原田氏が養子に入った斎藤系の前田家の紋章」とされ、 美濃には「花橘紋」を使用した藤原利仁系の「美濃前田氏」が繁栄した事や、「原田氏は美作菅氏の分派とも云われる」事から、前田利家の系統の「前田家」はこの美濃前田家の系統と考えられる。
こう見ると、「加賀前田家」は、美濃前田氏が織田信長に連なる事から「藤原」と名乗る事を遠慮して、占領した北陸の名族「藤原利仁」の系統が使用した「梅鉢紋」を使用して地域との同化を図ったとも考えられる。或いは、美作菅氏の末裔の「原田氏」と同系の「藤原利仁系前田氏」が縁組により、「加賀藩前田家」の祖となり、両家の「梅鉢紋」を使用したものかも知れない。しかし、「美作菅家」では通字として名前に「佐」を使用したとされ、「前田利家」が「利」を使用している事から、寧ろ「藤原利仁」の「利」を使用したとも窺われるのだ。

※「加賀藩前田家」が使用した紋章は「梅鉢紋」だが、支藩の富山藩、大聖寺藩では梅の花の芯の形が少しづつ異なる。同じく、菅原道真を祀る「太宰府天満宮」の紋章は同じ梅紋でも少し異なり、芯が細い線で書かれるが、前田家の紋章は芯が「小さい剣」の形をしている。この他にいわゆる「剣梅鉢」と言う形の芯の剣が大きいものがあり、この剣は武門を表していると云う。又、丸だけ6個組み合わせた「星梅鉢」や、「丸に梅鉢」、「石持地抜き梅鉢」等の種類が在る。この様に「梅鉢紋」と言っても多くの形があり、単に「梅紋」と伝わっていても、必ずしもひとつの系統とは限らないから、文字で「梅紋」と記載されても同一の種族とは限らないのだ。更に、黒丸だけで構成された「八曜紋」や「九曜紋」等と「星梅鉢紋」との区別がハッキリせずに、同じ「梅紋」として伝わったケースも考えられる。(※「梅鉢紋」とは、正式には芯と周辺の黒丸をつなぐ部分に弦楽器の「バチ」を配したもので、加賀藩が使った梅鉢紋はその「バチ」を「剣」に置き換えたもので、各支藩で形が異なる。)

■『加賀藩の剣梅鉢紋』
「宗家加賀梅鉢」(幼剣梅鉢) 花芯に短小な剣、中央に黒丸、花ビラは黒丸五個。
「富山藩」富山梅鉢(丁子梅鉢) 花芯に丁子形と剣を配置、中央に黒丸、花ビラは黒丸五個。
「大聖寺藩」大聖寺梅鉢(瓜実梅鉢)花芯に瓜実状の剣、中央に黒丸、花ビラは黒丸五個。
「七日市藩」星梅鉢 花芯に剣を付けずに、中央に黒丸 、花ビラは黒丸五個。


■「加賀藩は越中を占領、統治した時に在地の武将を多く新規に召し抱えている」
(※「前田利家のすべて」花ケ前盛明著 参照)

●石黒成栄(イシグロナリヒデ)[生没年不詳]
録高1500石。元高岡市福岡町の越中木舟城主の石黒一族で、父親の成綱が信長に呼び出されて近江長浜に来た時に、信長の命で一族が暗殺された。息子の成栄は木舟城に火を掛けて京都へ流浪したと云う。能登に入国した前田利家に仕官して前田家から禄を賜う。文禄三年(1594年)に隠居した。

●荒木善大夫(アラキゼンダユウ)[ ~1590年]
元、越中城端城主。天正15年(1587年)利家に仕え、1500石。天正18年の豊臣秀吉の小田原城攻めの時に前田利家、上杉景勝等に八王子城(西多摩丘陵)を攻めさせたが、この戦いで戦死した。

●菊地安信(キクチヤスノブ)[~1596年]
禄高10000石。通称は十六郎、菊池伊豆。肥後菊池氏の末裔。佐々成政の与力の越中氷見郡阿尾城城主菊池右衛門入道武勝の子。天正十三年(1585年)前田利家の調略により、佐々成政から離反して利家と講和し、父親と共に利家に帰順した。九州、関東攻めに従軍したが、慶長元年(1596年)父親の武勝に先立ち死去した。利家の命により、城尾城(ジヨウノオジョウ)城主の斎藤小次郎の子の大学が跡を継いだ。斎藤氏一族の斎藤小次郎の妻は小次郎没後に身重で武勝の嫡男十六郎安信に嫁して大学を産み、長じて大学は武勝の娘を妻とした。
(※肥後菊池氏は鎌倉時代に元が押し寄せた「元寇の乱」の時に活躍し、南北朝時代には後醍醐天皇の忠臣として活躍した一族。同族の大友氏も絡んでの内紛で肥後菊池の正統は滅んだとされる。菊池氏はこの時に、親族の東福寺庄園氷見屋代庄の地頭の八代氏を頼って氷見に入り、後に阿尾城に入ったとされる。織田信長の安堵状には菊池氏を八代肥後としており、両者は親族だろうとされる。八代氏は氷見の山間部から射水市の海沿い、小矢部市の山間部に続く広大な藤原氏の菩提寺の東福寺庄園を管理して、後に能登畠山氏の重臣にもなった。菊池氏も八代氏も藤原氏で、東福寺の門徒。)
(※「越中志微」には、「五位庄はそのかみは菊池氏の所領なりしと聞こゆ」とし、氷見市森寺の西念寺の敷地は五位庄の又五郎の土地と交換したとする。五位庄と氷見の一体性を推定させる。菊池氏が前田利家の臣下になった時に、利家は尾張荒子衆の一人の「富田景政:禄高4000石、富田流剣法の創始者、通称与六郎、後に治部佐衛門」を指名して、「五位庄の事は治部佐衛門と打ち合わせすべし」と菊池氏に指示している。)
(※「越中古文抄」氷見武繁編集 には菊池大学が赤丸村舞谷の山崎氏に対して、高岡市の臨済宗の名刹「国泰寺」への財政支援の依頼書を送ってきている事が記録されている。)

●長連龍(チョウツラタツ)[1546~1619年]
禄高36000石。能登畠山氏重臣長続連の次男。加賀藩藩老八家の一つ。信長と通じて天正九年(1581年)前田利家の能登入国の時に利家の与力となる。利家から鹿島半郡での散在分を与えられ、天正十二年の能登末森の戦いに参戦した後に多鶴浜に居館を構えた。慶長十一年家督を嫡子の好連に譲り出家したが、慶長十六年に好連(室は利家の八女福姫)が急死し、その子の連頼が幼少の為、再び復帰して大阪の両陣に参陣。元和元年(1619年)に死去した。室は越中守山城主神保氏張の妹。神保氏張は佐々成政に従って肥後に移り、佐々成政の切腹後に徳川家康の旗本として江戸に居を構え、千葉に知行地を授けられている。 後に八家の長九郎佐衛門は、元の寺嶋牛介の領地の越中五位庄の一部の五位庄赤丸村を知行地として与えられている。

●寺嶋牛介
寺島盛徳(テラシマモリノリ)[生年不詳 - 慶長10年(1605年)]は戦国時代から江戸時代の武将。姓は寺嶋とも書く。通称は牛介。越中神保氏の家臣で兄の小島国綱(甚助)と共に剛勇をもって知られた。神保本家の没落後は守山城の神保氏張と共に上杉謙信に仕え、本領五位庄を安堵される。天正9年(1581年)上杉景勝の越中侵攻に呼応して富崎城に篭るが織田軍に鎮圧され大道城に逃れる。その後も五箇山の一向宗門徒、神保旧臣らと合流して織田軍への抵抗を続けた。本能寺の変が起こると、混乱に乗じて、湯原国信(石黒成綱の弟)らと共に魚津城から撤退する織田軍に追撃をかけた。後に、佐々成政が越中を平定すると佐々氏に従って禄高5千俵を受け、神保氏張、中山直治と共に前田氏との能登末森城攻めに従軍して奮戦した。佐々成政が豊臣秀吉に降伏した後に、前田利家は末森城の戦いの寺嶋、小嶋兄弟の鉄砲の腕前に感じて仕官を促し、伏木の勝興寺の一角に兄弟で屋敷を賜り、前田利長の代に1500石を給された。以後、子孫は加賀藩士となり、原家から養子に入った寺嶋蔵人は算学の知識に優れ、高岡町奉行、算用場奉行、等を歴任して加賀藩の重臣となったが、勢力の拡大を危惧した第十三代前田斎泰により能登島に配流され生涯を終えた。寺嶋蔵人の屋敷は現在も金沢市内に在り、「寺嶋蔵人邸」として観光施設になっている。


「著者の長山直治氏は寺嶋家文書の研究に当たられ、その写しを金沢市立図書館玉川分室に収納された。」

■高岡市海老坂の「物部神社」の由緒に「大彦命」が出てくる。「古事記」に拠ると、「大彦命」は大和朝廷から北陸道将軍として任命され、「高志の利波臣」の同系統の氏族とされる。


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