赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔷🏯🐎 河内源氏の祖とされる「八幡太郎義家」と「越中」⇒『朝野群裁』に記載される「八幡太郎義家の文書」!!

2019-01-14 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「朝野群裁」(※「国史体系29 上」)は越中の「射水臣」の出身で算博士の三善氏の養子に成った「三善為康」が編纂したもので、白河天皇の時代の雑事を記載している。その中に「源氏の棟梁」として有名な「八幡太郎義家」が越中について遺した文書が在る。







■『源 義家』は、平安時代後期の武将。伊予守・源頼義の長男。岩清水八幡宮で元服して「八幡太郎義家」の通称で知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。

▼『源義家』;平安時代後期の武将で河内源氏の祖。生誕 長暦3年(1039年)~死没 嘉承元年7月4日(1106年8月4日)。陸奥守、鎮守府将軍。主君は藤原道長と源倫子(源雅信の娘)の長男で宇治平等院を建てた「藤原頼通」、「白河法皇」。氏族 河内源氏、石川源氏。
父:源頼義、母:平直方の娘。
比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。一方、平清盛は実は白河上皇と白拍子との間に生まれたとも言われ、その後は清盛が平家の養子に成って「保元・平治の乱」を経て平家全盛の時代を迎える。

■「白河上皇」の時に「越中吉岡庄」は「白河上皇」により京都の下鴨神社の庄園として寄進されていたと言う。これは、藤原氏への寄進系庄園が増える事を規制する為の「白河上皇」の政策で在ったと云い、その後は再び藤原氏の勢力が強く成り、「藤原頼長」の時には「頼長の個人庄園」に成っている。「白河上皇」の時に白河院の警護で働きを見せた「源義家」は奥州の清原氏との政争でまずいことが在った為か、「越中国守」に成りたいと申請する文書を遺している。(※「国史体系29 朝野群裁」)

実際に平家が越中を統治する前に「源義家」が越中国守に任じられた文書は見られないが、奥州の統治に失敗した「義家」が主君の藤原頼通の影響が強かった「越中」への任官を希望した様だ。
越中には現在も圧倒的に各地に「八幡宮」が鎮座しており、源氏が信仰した「八幡宮」が各地に祀られた可能性が在る。
又、越中には東大寺庄園の三割が在ったとされるが、東大寺大仏造営の時に聖武天皇は宇佐八幡宮を東大寺に勧請されたと言われ、元、東大寺庄園が在ったとされる地域には「八幡宮」が鎮座している様で、東大寺庄園跡地以外にも「八幡宮」が多く、何らかの「源氏」の信仰を反映していると見られる。
「延喜式内社赤丸浅井神社」の神域とされた「五位庄53ケ村」の中にも「赤丸舞谷八幡宮」、「三日市八幡宮」、「鳥倉八幡宮」、「沢川八幡宮」、「向田八幡宮」、「上渡八幡宮」、「東石堤八幡宮」が在り、赤丸舞谷八幡宮から向田八幡宮には東大寺庄園の記録が無い。この延長線には倶利伽羅谷の源平合戦に臨んで「木曽義仲」が源氏の氏神として戦勝の願文を納めた小矢部市の「埴生護国八幡宮」も在る。

■後白河上皇の時に「源頼朝」は「越中吉岡庄」に地頭を配置したが、その地頭が不法を行ったとして庄園領主の「後白河上皇」から不満が伝えられてその地頭を交替させた記録が「吾妻鏡」に記載されている。又、頼朝の妹の系統で鎌倉幕府の摂家将軍「九条頼経」の父の「九条道家」は「越中吉岡庄」の範囲で在ったと見られる小矢部市の「宮島郷」を所有していたが、後に国庫に納付しており、越中吉岡庄の中では天皇家と藤原家が相互に影響力を強めていた歴史が見られ、その背景には河内源氏の影響力も窺われる。
元々、「藤原頼長」の庄園で在った「越中吉岡庄」は「後白河上皇」、「平清盛」、「源義朝」等の天皇軍が、「崇徳上皇」、「藤原頼長」等の上皇軍を不意打ちして勝利したが(※「保元の乱」)、引続き起った「平治の乱」では「源義朝」が追討された。「保元の乱」で後白河上皇の庄園に成った「越中吉岡庄」は源頼朝の勢力下に置かれて、頼朝の旗揚げに馳せ参じた遠江国の「相良氏」(※藤原南家の流れの工藤氏の庶流)によって統治された。
『政治』 ã‚¸ãƒ£ãƒ³ãƒ«ã®ãƒ©ãƒ³ã‚­ãƒ³ã‚°
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