赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

💠◇【越中五位庄】と『足利義満』創建の「相国寺」(※塔頭寺院鹿苑寺金閣)!!

2019-01-15 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●室町幕府第三代将軍「足利義満」の時代、「南北朝の合一」が成った明徳三年(1392年)には「相国寺堂供養」が行われ、その「供養記」には「越中守護畠山満家」と共に「遊佐」、「神保」、「井口」、「斉藤」等の越中諸将と見られる名前が列記されている。応永12年(1405年)には、「足利義満」が室の日野業子の追善供養として「相国寺」(※「塔頭寺院 鹿苑寺金閣」)に「越中五位庄」を寄進し、応永15年(1408年)には「足利義満」が死去した。「五位庄」の管理は「管領畠山満家」に預け置かれ、実務は「足利義満」の縁者の「政所代 越中蜷川氏 蜷川新右エ門親当」が当たっている。「足利義満」の母は越中蜷川氏(※富山市蜷川に蜷川城跡→最勝寺に墓所)の子孫、一族。
→「蜷川新右エ門」は連歌の宗祇の高弟で在り、「一休さん」にも登場している。
(※「富山県史 中世 」・「蜷川の郷土史」・「蜷川家文書」)
・名古屋市の大須観音の古文書に拠ると、「畠山満家」の三回忌は「赤丸村」から海岸の「六渡寺村」に動いたと見られる「総持寺」(※現在は高岡市関町、文書には「浜総持寺」)で舞楽等が演じられて盛大に行われたと言う。(※射水市松山学芸員発表)
▼【寺伝では、総持寺の千手観音像は六渡寺浜より上がった尊像であると伝わる。「足利義満」が五位庄を御料所とした応永九年頃に、総持寺は「国主」の命によって赤丸村から立ち退きを命ぜられたと「赤丸浅井神社」に伝わる。】

▼「越中絵図」(※「畠山文書」羽曳野資料叢書)

室町時代には「六渡寺村」は「五位の東庄」の「利波郡」に属していた。


■【畠山満家】
応永6年(1399年)の「守護大名大内義弘」が起こした「応永の乱」では父と共に敵将の「大内義弘」を討ち取る武功を挙げた。しかし、「三代将軍足利義満」から疎まれて一時期失脚した。父の没後は弟の満慶が家督を継承していたが、「4代将軍足利義持」の治世になると、満家が当主となって「河内・紀伊・越中3ヶ国」の守護となった。足利義持残さ政権では重きをなして、「応永17年(1410年)6月~応永19年(1412年)3月」、「応永28年(1421年)8月~永享元年(1429年)8月」は室町幕府管領を務めた。応永31年(1424年)には「伊勢守護」に補任、正長元年(1428年)の北畠満雅の反乱で土岐持頼に交替して同年には「山城守護」に補任されている。





■「金閣寺」は足利義満の法名「鹿苑院殿」と舎利殿「金閣」から「鹿苑寺金閣」⇒通称「金閣寺」と呼ばれ、「相国寺」の塔頭寺院である。

■その後、第四代将軍足利義持は「五位庄の半分」を足利家菩提寺の「等持院」に寄進したが、その後、「五位庄」は足利家菩提寺の「等持院」、「等持寺」の庄園に成っている。

■「東寺百合文書」(※京都の教王護国寺文書)に拠ると、室町時代には「五位庄」の範囲が氷見市の一部、高岡市の二上山の麓、高岡市佐野等の「五位庄の東部分」、「福野町野尻郷」迄の広範囲な庄園に拡大していた様だ。














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