赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔘🔹 加賀藩の地誌【宝永誌】の成立と天皇家『後院領 吉岡庄』⇒『足利家庄園 五位庄』赤丸村の変遷!!

2021-04-12 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
🌸【後醍醐天皇】



●加賀藩士「森田柿園」が遺した数々の記録の中の『宗良親王紀事』に、加賀藩編纂の『宝永誌』の編纂について触れて、「加賀藩五代前田綱紀」が調査させて編纂したとしている。「前田綱紀」は「松雲公」と呼び、京都の東寺(※教王護国寺)の古文書を調査させて桐箱100箱を寄進してその中に収納させて古文書の収集・調査を進めた。この文書は「東寺百合文書」と呼ばれ、多くの越中の貴重な記録を遺している。又、金沢市立玉川図書館には「松雲公採集遺編類纂」と題する膨大な古文書も遺されている。
『宝永誌』には、『後醍醐天皇の八宮で南朝の将軍宗良親王が浅井城に入られ、後醍醐天皇の庄園[吉岡庄]を[五位庄]に改名された。』と伝える。
南北朝の合一を果たした室町時代三代将軍足利義満の時代に入り「五位庄」は義満が創建した「相国寺」の庄園に成った。
(※「万山編年精要」、「東寺百合文書」、「等持院常住記録」)






■【森田平次】本姓は紀氏。諱は良見、柿園と号し、加賀藩士茨木氏の家臣だった。文政六年二月十五日生まれ。加賀藩士の郷土史家富田景周(2500石)と並ぶ郷土史家である。
著書に「越中志徴」、「加賀志徴」、「能登志徴」の3部作、「松雲公採集遺編類纂」等、100編に及ぶ書物を残し、明治になってからは石川県庁に勤めて、旧幕府領の白山山麓十八ケ村の調査を行い石川県に編入した。史跡の調査も活発に行い、結果、石川県鹿島郡の親王塚は「大入杵命の墓」と治定された。官を辞して後、前田家の為に家録編纂を行い、上京して日本紀、万葉集等の講義を行い、死に至る迄書を手放さなかったと云う。明治41年12月1日、86歳にて死去。(※住居跡は金沢市中心部の柿木畠で宇都宮書店前の駐車場)








■この遺作は石川県立図書館に「森田柿園文庫」として多数の図面、記録、書等が残され、金沢市玉川図書館にも多数の記録が残されている。金沢市立玉川図書館には、「松雲公採集遺編類纂」として各名家の家系等も残されており、後醍醐天皇第八皇子の宗良親王の「宗良親王紀事」も残されている。
富山県には後醍醐天皇第八皇子の宗良親王の足跡を残す場所が多く、福岡町赤丸村の浅井城、福岡町木舟の貴船城、射水市牧野の撲館塚、氷見市小境の大栄寺、高岡市守山町の極楽寺等が有り、「宗良親王紀事」ではこれ等についての記録が残されている。また、謎の多い富山県高岡市に墓が残る「後醍醐天皇の恒性皇子」についても記載されている。

■高岡市でも「恒性皇子」の墓については宮内庁が認定しているものの、恒性皇子自体は謎が多い皇子とされているが、森田平次は「本朝皇胤紹運録」からの引用として後醍醐天皇の系図の中で説明している。
後醍醐天皇の皇子には、尊良親王、世良親王、恒良親王、成良親王、後村上天皇、護良親王、静尊法親王、宗良親王、聖助法親王、法仁法親王、玄圓法親王、?皇子、恒性皇子が居たとし、宗良親王については「二品、天台座主妙法院主尊澄還俗改宗良配讃州 母同尊良親王」となっており、宗良親王は「第一皇子の尊良親王の弟で、母は従三位為子権大納言為世卿女」で有るとしている。母を同じくすると云う事で従三位為子の二男だが、後醍醐天皇の皇子の中では第八の皇子になる。後醍醐天皇の13番目の皇子の恒性皇子については「大覚寺越中宮延慶三十九配於越中国當所守護名越於配所奉殺之 母亀山院皇女」として越中で北条一門の守護名越氏に殺害された事を記している。

■宗良親王については、赤丸浅井城に在城され、城ケ平の中腹に親王屋敷があり、その近くの極楽谷には親王が「極楽寺」を創建されたと伝わる。「極楽寺」はその後守山へ動き、更に現在の高岡市博労町に動いたとされその事が「極楽寺由緒」にも記載されている。赤丸浅井城の城主は石黒氏で福光、福岡町木舟、赤丸浅井城、射水市牧野に拠点を持ち、南朝の為に尽力した。当時の赤丸村は「越中吉岡庄」と呼ばれる後醍醐天皇の荘園で、福光図書館に写しが残る「宝永誌」には「宗良親王が浅井城に在城の時、吉岡庄を五位庄に改められた」と記載されている。


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