赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

📚【南朝の武将・越中守護桃井直常 】と【本能寺】⇒「 織田信長」が愛した【幸若舞】の「敦盛」のルーツ !!

2018-09-08 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
●高岡市赤丸の「延喜式内社赤丸浅井神社」を郷社とした「後醍醐天皇」の庄園【越中吉岡庄】には、南朝軍の「桃井直常」が入り、後に壮絶な「五位庄の戦い」を展開している。
(※【花営三代記】━「群書類従」塙保己一編)






■「越中五位庄」(※南北朝時代末期に吉岡庄は五位庄と改名)の赤丸城ケ平の麓には下鴨神社の跡地の「加茂宮」と言う地名が残る。赤丸村舞谷はこの下鴨神社に舞を奉納した「舞屋」があった事から「舞谷村」になったという。この舞谷村には明治初期迄幸若舞の躍り手の「舞々人」が住んでいたという。この舞谷村には、「幸若舞」を考案した「桃井幸若丸」の叔父の「桃井直常」の三男が開いた「西大寺」が在った。この寺院は現在、高岡市内に移っている。









■写真は「幸若舞」の「敦盛」福岡県みやま市大江天満神社




■本能寺の変で織田信長が自害する時に、よくドラマでは能と謡をして信長は従容として自害したと伝わるが、実はこの舞は「能の仕舞」では無く、五位庄の戦いで敗れた桃井直常の孫の幸若丸によって考案された「幸若舞」と云われるもので、明治初めまで幕府にも保護されて続いたが、「一子相伝」を旨とした為、最近まで九州の「みやま市」にしか伝わっていなかったが、最近、幸若舞発祥の地と云われる福井県越前市朝日町で復活されて上演されていると云う。朝日町は織田氏発祥の福井県織田町の隣村で有り、幸若舞が信長の故郷の芸能であったという背景があった様だ。その昔、越前の丹生郡西田中村は「印内」と呼び、織田庄の越前国二宮剣神社の社領で有ったと云う。織田家は桃井直常と同じ足利幕府の斯波氏の被官で有り、織田町の「剣神社の神官」を先祖とすると云われる。同じく斯波氏の被官であった越前朝倉氏は織田氏と競争していたが、朝倉氏から石山本願寺に門主の妻が送り込まれ、一向宗と石山本願寺に敵対した織田信長は徹底的に本願寺と対立した背景が有る。朝倉氏は加賀と越前の境界に位置した「吉崎」を治める地頭でもあった。この地は元は奈良の興福寺の庄園であったが、興福寺の高僧尋尊と蓮如が親しかったため蓮如が尋尊の後押しで吉崎に「御坊」を設ける事により、朝倉と本願寺は決定的に繋がった。その後、本願寺と信長の争いは足利将軍の取り込み合戦となり、ついには信長と朝倉の決戦に至る。この時、赤丸の近くの守山城には織田信長の妹が神保氏張の妻として嫁いで来ており、赤丸は柴野城に拠点を構えた神保氏張の家臣の五位庄城主寺嶋牛之助とその縁者の赤丸浅井城中山氏が統治しており、信長の影響も有ったものか、赤丸の舞谷、石堤には明治初年迄幸若舞の舞手の「舞々人」が住み、各地で「幸若舞」を演じていたと云う。幸若舞は古い踊りの「曲舞」と呼ばれた舞で、ゆったりとした力強い踏み足でリズムを取る踊りで有り、ユーチューブでも見られる。この舞は鎧を付けた武者がゆったりとした足踏みでリズムを取りながら舞ったものらしく動きはゆっくりだが踏み足で取る拍子は力強い。信長が好んだ幸若舞は「敦盛」の「人間五十年化天の中をくらぶれば~」の一節だけだったとも云われるが、実際に信長が舞ったと云う記録は「信長公記」にも無いらしい。しかも、この「人間」は実は「ジンカン」と呼び、色々な著作物に一般的に「下天」と書かれている所も「化楽天の八千歳と比べれば~」の意味で「化天」と書くのが正しいらしい!



■幸若舞「敦盛」
「思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」
⇒「人間(ジンカン、ニンゲン)五十年」=「人の世」
「化天」=「六欲天の第五位の世化楽天、一昼夜は人間界の800年。化天住人の定命は8,000歳」 「下天」=「六欲天の最下位の世、一昼夜は人間界の50年」 「人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり」は「人の世の50年の歳月は、下天の一日にしかあたらない」の意。
(※「京都市立芸術大学」では、「みやま市の幸若舞」の保存の為に映像化されている。)


■現在高岡市木町に在る「西大寺」はもと赤丸村舞谷に有り、「太平記」では南北朝の戦いで足利一族で有りながら南朝勢力に与した「桃井直常」は「五位庄の戦い」で幕府方の能登守護吉見氏頼に敗れ、飛騨へ撤兵した後、行方不明となり戦死したとされる。直常の三男直弘(弟を養子にした)は幼少の為、命を助けんとして奈良の真言律宗西大寺に預けられ、成長して「西大寺」の寺号を授けられ、当初は倶利伽羅山の麓に寺を開基したが、その後、赤丸村舞谷に移り、後に又、高岡市佐野に移り、利長の高岡開町時に敷地1500坪を授けられて現在の高岡市木町に移ったと云う。直常の孫の幸若丸は越前朝日町で育ち、「幸若舞」を編み出した。信長が好んだ「敦盛」の「人間五十年 化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。」は有名で有り、この幸若舞は明治初年まで赤丸村舞谷に伝わり、「舞々人」という踊り手が住んでいたと福岡町史は伝える。舞谷村は古くは下賀茂神社へ奉納する舞を踊る舞台が有った事から「舞屋」が変じて舞谷村になったと云う。赤丸の「吉岡庄」を所有した後醍醐天皇は、網野善彦氏の著作「異形の王権」に拠れば、足利氏との戦いの中で、僧兵や神人、芸人、職業人等の当時では「非人」とされていた人々や「悪人」と呼ばれた野武士、土豪等を味方にして南朝政権を樹立しており、その流れは赤丸周辺でも長く続いていた様だ。当時の吉岡庄周辺には、天皇直轄領の「石動山」や「三千坊山」の僧兵が巨大な勢力を持ち、赤丸浅井神社にも48坊の寺があり、宗良親王が勧請された上加茂、下加茂、愛宕神社等の「七の社」が有ったと伝えるから僧兵や神人だけでも相当な勢力が有った様だ。尚、当時は「非人」と呼ばれた人々の中には、金貸し、商業者や牛馬を扱う者、神社や寺院の庄園を管理する者、僧や神人、朝廷が管理していた白拍子等の芸人なども含まれており、「ケガレ」の仕事はしているが、朝廷や天皇に仕える者達も相当居た様で、江戸期に入っての幕府の扱いとは全く異なる「特権階級」でも有ったらしい。
(※「日本の歴史をよみなおす」網野善彦著 参照)


■【本能寺】の由緒
越中浅井郷(富山県大門町)の「城主桃井尚儀」(モモノイヒサノリ)と妻の益子との間に、至徳二年十月十四日に二人目の男子が誕生した。この子は父が宝剣を授かる夢を見た事から「長一丸」と名付けられた。
この「桃井尚儀」は源義康の流れを汲む足利義兼の家系で、南北朝時代に高岡市守山城、砺波市増山城、南砺市松根城等を拠点として戦った北陸の勇将「桃井直常」の弟「直弘」を曾祖父に持つ越中射水郡浅井郷に城を構えた武将で、妻の益子も足利義兼の流れを汲む室町幕府管領「斯波義将」を父に持つ武将の娘で在った。長一丸は父の死後、近くの遠成寺に入寺したが、その後、叔父の「日存上人」を京都に尋ねて入門し、「深円」と名乗る。
その頃、都では室町幕府「足利義持」の頃で、市中は繁栄していた。「日存上人」は「日像上人」が開かれた「妙顕寺」が、比叡山によって破却されて「妙本寺」と成り、寺主「日霄聖人 ニッセイ」が七堂伽藍を再建して二百人の寺衆を抱えて繁栄していたが、やがて、貴族出身の「月明上人」が寺主になると、非法を繰り返して寺内で対立が激化して「日隆上人」は寺を出て、「高野山」や「園城寺」、「四天王寺」等で修行して、当初、京都の仏光寺通りに「本応寺」を創建した。しかし、この寺も「月明上人」の迫害で追われ、この頃、越中では父が急逝して家臣の反乱が起きた為に家臣の中村元成から還俗する様に要請される。しかし、之を断り、代わりに幼い頃の絵像を渡して中村元成に統治を委ねた。しかし、この城は間もなく廃城されたと云う。応永二十三年(1416年)には、一旦、故郷に墓参りに帰ったが、敗れた中村元成を尋ねて近隣の人達に法話を行った。中村元成は感銘して禅宗から法華宗に改宗して自らの屋敷の一部を寺院にしたと云う。
その後も、月明上人達の迫害や比叡山の圧迫で各地を変遷して、尼崎に居る時に細川満元や大手商人の寄進で応永三十年(1423年)「本興寺」を創建した。京都では、師匠の日存上人、日道上人が亡くなられた為に、京都町衆の中で帰洛を要請する声が高まった為に都に帰り、応永三十年(1426年)には越中に帰国して「日存、日道上人」を桃井家菩提寺に埋葬し、中村元成の三回忌を終えた後に、帰り道には越前丹生(福井県越前市朝日町)に住む縁者の「幸若丸直詮」に会い、敦賀市に向かうが暴風雨に会い、越前敦賀市の杉津に漂着した。そこでも布教を行って都に戻った「日隆上人」は、応永五年(1433年)に洛中六角大宮に【本能寺】を建立された。











🔴【光釜山西大寺】「観応の擾乱」で「五位庄」で散った南朝の武将「桃井直常」の三男が赤丸村に高岡市木町の「西大寺」を開いた !!

2018-09-08 | 富山県高岡市福岡町赤丸村


●後醍醐天皇の第八皇子「宗良親王」に従った「桃井直常」は「太平記」「花営三代記」に拠ると、観応元年(1350年)10月、越中守護であったが、同族の足利尊氏と敵対した弟の直義派に加わり尊氏方と戦った「観応の擾乱」が起きる。応安4年7月28日,足利尊氏方の斯波氏・能登の吉見勢との「五位庄の激戦で直常は敗れた」(越中志徴)が、桃井直常の首を取られるのを恐れた家臣は遺体を富山市の興国寺に埋葬したと云う。長男の直和は松根城等を拠点としたが長沢の戦いで敗れた。直和の子幸若丸は越前朝日町に生まれ、後に幸若舞を創始したと云う。直常には9人の子が有ったと云われ、次男は砺波市秋元の光福寺を、三男の直弘は元赤丸村舞谷に在った高岡市木町の西大寺を、妙寿寺は五男の開いた寺と云われ、それぞれ「二羽の雁」「三羽の雁」「五羽の雁」を寺の紋としている。又、本門法華宗の流祖日隆は桃井直和の子で大門町浅井城城主桃井尚儀と斯波義将の娘益子との間にでき、1429年に京都の本能寺を開いたが、本能寺はその後数回の建替えを経て、当時は織田信長の京都での宿舎として要塞化し、織田信長の鉄砲入手も裏で支援していたと云う。織田氏も元々は斯波氏の被官であり、信長は幸若舞をこよなく愛して本能寺で光秀に殺される前にも幸若舞を舞ったと伝承される。富山県には直常の弟の直信が立山の芦峅寺衆に協力を求めた書状が残る。系図に見られる弟の直弘は元々直常の3男だが弟にしたと伝わる。



■元赤丸村舞谷の清水山の麓の麻畑地内にあったという西大寺は、その後、高岡市一之瀬の近く佐野地内の紅屋という場所に移り、更に高岡開町の時前田利長より寺地1500坪を現在地の木町に賜わった。寺の伝承では、西大寺の開基は南北朝期に南朝の側で戦い、五位庄の戦い以後所在不明になった足利一門の名将桃井直常の幼い3男が、直常敗走と知り奈良の西大寺に預けられたが、成長して一人前の僧になり、西大寺よりその寺号を頂いて、父直常縁の越中に赴き、初めは倶利伽羅山の越中側に寺を建立したと云う。その後、寺は舞谷村に動き、更に高岡市の紅屋という場所に動いたが、その地に「光釜」という泉が有り、その池の中の沈んだ釜に蛇が絡んでいた事から「光釜の伝説」が有った。その為、この寺は「光釜山西大寺」と名付けられて、前田利長が高岡を開町した今から400年程前に、前田家に呼ばれて現在地に動いたと云う。現在地は小矢部川沿いにあり、伏木と高岡の間に有り、小矢部川と千保川の合流点の木町は前田家の防衛拠点としての意義も有った様だ。西大寺の門徒に赤丸村舞谷に古くから多くの門徒がおり、越後から南朝の後醍醐天皇第八の皇子の宗良親王に従って吉岡庄(後の五位庄)に入り、後には「下加茂社」の神官を務め、長く「越後どん・越後さん」と呼ばれてきた名家の越後家(本家は北海道に移転)等舞谷村20軒中12軒がこの寺の門徒であり、今も麻畑地内の奥山には約15,000坪の山林が有り、此の山からは長い間、西大寺の燃料や正月の松飾り等が賄われていたと云う。西大寺は今も、住職が「桃井」を名乗る。
(※「高岡市史」は創建を高岡市佐野としている。この歴史的経過は実際に西大寺、門徒衆にヒアリング調査し西大寺山の登記関係も調査したものである。)






■「赤丸村の史跡」





■「西大寺」は赤丸村舞谷の永賢寺後ろの麻畠島に在ったと伝わる。
■この跡には一時期、現在高岡市瑞穂町の「聖安寺」が在った事が「由緒」から解る。
【石川県七尾市湯川西得寺境内聖安寺旧跡地碑】
『南無阿弥陀佛
天正九年利家公の命に召されて河北郡北中條大坪村より当地に移住す、後石動山兵乱の節兵火の為め党宇を亡し慶長十四年利家公の誘引に任せて越中砺波、舞の谷、中谷内、富山を経て高岡に至る。 昭和五十二年春建之』
⇒「越中砺波郡舞の谷」は高岡市福岡町赤丸村舞谷の事で、「中谷内」とは「赤丸村寺谷内」の事の様だ。「聖安寺」は石川県河北郡大坪村に創建され、七尾市に動き、更に赤丸村に動いて、後に高岡市瑞穂町に動いた。

🌔「蜷川新右エ門」と「越中五位庄」!! 足利将軍家庄園「五位庄」と「相国寺」(金閣寺)、「等持院」、「等持寺」

2018-09-08 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




■「越中蜷川氏」は京都の「宮道氏ミヤジ」から出て、越中の祇園社領太田保(富山市太田~魚津辺り迄)の地頭として派遣され、現在の富山市蜷川、滑川等に居城を構えていたが、室町時代になると、「三代将軍足利義満」の縁者として室町幕府の要職「政所代」に就任して、「越中国新川郡・利波郡」を統治した。
この「利波郡」は、「畠山文書」に記載される小矢部川西から西山にかけての位置で、「畠山持国」の居城で在った「赤丸浅井城」の在った「五位の西庄」の一帯の「蓮間郡」で在ったと見られる。
(※富山市太田に吉岡村が在り、蜷川氏の一部が「吉岡」と名乗った事から名付けられたと云う。一方、「越中吉岡庄」は高岡市福岡町赤丸周辺の後醍醐天皇の庄園で在り、国立歴史民俗博物館の庄園データーベースにも掲載されている。)






















「越中五位庄53ケ村総社 延喜式内社赤丸浅井神社」


■「室町幕府第三代将軍足利義満」は南北朝を統一すると、大覚寺統の南朝に伝えられた「越中吉岡庄」を室町幕府御糧所とした。やがて、この庄園は「五位庄」と改名されて、義満が創建した「相国寺」(※塔頭寺院鹿苑寺金閣)の庄園として寄進された。








■室町幕府将軍足利義教を自宅に招いて暗殺した播磨国(兵庫県)を領地とした源氏赤松氏満祐は追討されて家は断絶したが、その赤松残党は、後南朝の皇子を騙し討ちして、南朝に奪われた天皇の神璽を取り返し、満祐の甥の「赤松次郎法師丸」(三歳)を戴いて御家再興を果たした。その恩賞として赤松氏は加賀半国(※石川郡、河北郡)他を賜ったが、前領主の加賀富樫氏の抵抗に悩まされた。加賀富樫氏は鎌倉時代の「承久の乱」で幕府側として戦い、その後は本家の加賀林氏に代わって加賀に勢力を伸ばし、足利幕府でも重臣となっていた。(※「相国寺塔供養記」)
一方、越中では越中石黒氏が「承久の乱」で敗れた後に、富山市の太田保(※旧の富山市域)を領地とした越中蜷川氏が勢力を拡大していた。蜷川氏は「足利義満」の母の紀良子(※月海夫人)の先祖に、「宇多天皇」の中宮胤子を輩出して、その母の列子は蜷川氏から嫁いでいた事から、天皇家縁者として勢力を拡大して足利幕府の重臣伊勢氏とも縁組して室町幕府政所代を勤めた。又、「三代将軍足利義満」は南北朝の合一を果たし、五代前の宇多天皇の後胤として「日本国王」を名乗り、鹿苑寺金閣を創建する等権勢を誇った。この足利義満が自ら創建した「臨済宗相国寺」に代々天皇家庄園として続いた「越中五位庄」を寄進して、その統治を越中蜷川氏に委ねた事から、「五位庄」は将軍足利家と密接な関係が続いた。「相国寺」の住職が書いた「蔭涼軒日録」には、度々、「五位庄」が登場している。
しかし、長禄元年(1457年)頃には加賀で富樫氏と赤松氏が争い、越中でも代官神保氏が年貢を納めない等、幕府の威信が緩んでいた様で、この頃、隣接の越中五位庄では年貢が納められずに将軍が直接介入する事態になっていた。


■応永12年、「足利義満」は「五位庄」を室の「日野業子」の追善料として自らが創建した「相国寺」に寄進した。(※「万山編年精要」、「相国考記」)

応永22年(1415年)10月には「足利義持」が「五位庄」の半分を「京都等持院」に寄進した事が富山県史中世編に記載されている。「守護畠山満家」が治めたが、実務上は政所代の越中蜷川郷を拠点とした「蜷川新右エ門親当」が勤め、代官には神保氏が任じられた。(※「蜷川家文書」)
★「蜷川親当」は系図では「新佐衛門」と記載されるものが在り、その後の蜷川氏は代々「新右エ門」を名乗っている。
(※「蜷川新右エ門親当」は「一休さん」との親交が在り、連歌の「飯尾宗祇」の高弟で在った。)
★この時に五位庄の半分は「等持院」に寄進されたが、その後の記録には「等持院、等持寺庄園」として登場する事から、残りの半分は等持寺に寄進された様だ。

■赤松氏が加賀半国を知行された頃、「越中五位庄」は足利家菩提寺の「等持寺」、「等持院」の糧所で在ったが、長禄三年には年貢が納められ無く成り、長禄四年には業を煮やした「等持院竺雲和尚」と「等持寺笑雲和尚」が「越中五位庄」を直接統治したいと「将軍足利義政」に願い出た。「蜷川家文書」にも政所代の蜷川新右エ門が重ねて代官神保氏に督促しているが、年貢は納められなかった様だ。
しかし、「将軍足利義持」は代々直接統治を認めていないとして之を拒否している。
(※「蔭涼軒日録」長禄四年、1460年)



🐎🌸📜 越中国の「射水氏」と連歌の『宗祇 ソウギ』⇒ 室町幕府「三代将軍足利義満」、幕臣「蜷川新右衛門親当」 と『宗祇』!!

2018-09-08 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「越中射水氏」の子孫『飯尾宗祇』?




■富山県の「砺波郡」、「射水郡」の語源になった越中の古代豪族「利波臣」、「射水臣」系図



■室町幕府の要職に就いていた「越中蜷川氏」の「蜷川新右衛門」⇒「一休さん」と「新右衛門」
【「三代将軍足利義満」の母「月海夫人」は越中蜷川氏】













■連歌の『宗祇』は、応永28年(1421年)に近江か紀州に生まれ、若くして京都「相国寺」(※搭頭寺院金閣寺)に入り、30才過ぎから「宗砌 ソウギ」に師事して連歌を学び、各地を遍歴して能登畠山氏等を歴訪している。
越中の射水氏が漢系の算博士三善氏の養子と成り、三善為康を名乗った。その子孫は室町幕府で要職に就いている。






■鎌倉時代には、頼朝に登用されて問注所執事を勤めた三善為康の孫の三善朝臣康信の子弟の後裔は、町野・太田・一宮・矢野・飯尾・布施等にに分かれて、鎌倉・室町両幕府の奉行人として存続した。その「三善系図」を見ると、三善氏の一部に近江国町野に住して「町野氏」を名乗った一族が在り、この町野氏も室町幕府で要職に就いている。飯尾氏はこの町野氏の子孫にはならないが、「飯尾宗祇」もこの系統の人物と見られる。
「宗祇」は若くして足利義満が創建した「相国寺」に入寺しており、「足利義満の母は越中蜷川氏から出た月海夫人」で在ると云う。「足利義満」の近臣として、又、「宗祇」の連歌の高弟として著名な「蜷川新右衛門親当」もこの時期に活躍して、文安四年(1448年)には蜷川新右衛門親当は死去している。
「宗祇」についての明らかな出自が分からないが、飯尾氏を名乗り、足利家所縁の「相国寺」で若くして出家しており、越中蜷川氏とも懇意で在ったと云う事から、又、「飯尾氏」が越中射水氏の子孫で在る事からの繋がりを考える時に、「飯尾宗祇」は越中射水氏の流れを汲む人物だった事が推定できる。
(※この時期に赤丸村を含む「五位庄」は足利義満により「相国寺」の庄園として寄進されて、その後も足利家菩提寺「等持寺」、「等持院」の庄園として続いている。又、室町幕府の重臣「越中蜷川氏」はこの「五位庄」を含む「砺波郡」と富山市周辺の「新川郡」を統治していた。)
「飯尾宗祇」は、足利将軍家近臣の蜷川氏の統治下の「越中五位庄」に滞在して、
「錫を ○○の古木にかけて一夜神號を呪して○さる事尊し、 然る夜浅ふして○○のこかげの音しければ『里の名のこんかきくけこ五位庄』と歌を詠んだ」と加賀藩時代の五位庄十村役五十嵐豊生が伝えている。
《現在は廃校になった赤丸小学校の「永久保存」と記された古書に書き遺されている。》(※「富山県史 中世」、「蜷川の郷土史」)

■高岡市福岡町赤丸には、古く赤丸小学校が在ったが、福岡町との合併の後に「福岡小学校」に統合されて廃校には成った。この赤丸小学校下には「舞句」と言う文化が現在も残っている。上の句、下の句を各々が出題して対する下の句、上の句を返す歌遊びで在る。これは、「連歌」の形を残すもので、五位庄一帯の神社や仏閣にその短冊を並べて額に納めて奉納した。現在も旧赤丸村区域ではこの「舞句」が活発に作られている。
(※高岡市福岡歴史民俗資料館にも「舞句の奉納額」が展示されている。)