赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴塙保己一著「群書類従」に在る『花営三代記』の【桃井直常の五位庄の戦い】!!

2018-09-06 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸










■足利一族の「桃井直常」は「足利尊氏」と対立して南朝軍として「南朝の牙城」の『五位庄』で戦った。その様子は「群書類従」の『花営三代記』に記されている。この戦いで桃井勢は敗れて「桃井直常」は行方不明になったと云う。又、越中石黒氏の「石黒佐近将監重之」も敗れて降伏したと云う。
【・応安元年12月、「足利義満」が征夷大将軍に就任する。
・応安2年1月、南朝方の楠木正儀(クスノキマサノリ)が幕府に降伏。
・応安4年(北朝、1371年)・建徳二年(南朝)、『越中後位庄』(※五位庄)で桃井直常が足利尊氏側と戦闘をして敗れて、飛騨に落ち延び、行方不明になったと云う。一説に、五位庄で戦死した桃井直常の遺体は首を取られない様に密かに富山へ運ばれて埋葬されたと云う。
※「楠木正儀」;南朝の有力武将楠木正成(クスノキマサシゲ)の三男。】





■五位庄福岡町舞谷村の麻畑島には、桃井直常の三男が「西大寺」を建てていた。
桃井直常の孫の「幸若丸」が越前朝日町に落ち延びて編み出した「曲舞 クセマイ」を『幸若舞』と言い、明治始め迄、舞谷村、石堤村に幸若舞の舞手の「舞々人」が住んでいたと云う。『幸若舞』は戦国武将に愛されたが、特に朝日町の隣の織田町の「剱神社の神官の末裔」の「織田信長」がこよなく愛して、戦いの前には「敦盛」を舞ったと云う。「人間五十年下天のうちを比ぶれば・・・・」の歌詞は有名だ。






■この「西大寺」は舞谷村から高岡市佐野の光釜に移り、その後、高岡市木町に動いて「光釜山西大寺」を名乗る。住職は「桃井」を名乗り、本堂には創建の住職の木像が安置され、寺紋は「結び雁三羽紋」で、三男で有ることを示している。三男は幼少だった為に奈良の西大寺に預けられ、成長して「西大寺」を名乗ることを許されて、当初は福光近くの山裾に庵を建てたが、後に舞谷村に移ったと云う。現在も舞谷村のほとんどの住民がこの寺の門徒で、赤丸の清水山の山裾には一万坪近くの「西大寺山」が残されていると云う。「舞谷村」の名前は、現在の「加茂宮」の地に在った「下加茂社」に舞を奉納する為の「舞屋」から名付けられたと云う。現在、この「幸若舞」は九州の「みやま市」のみに伝承されているが、近年、朝日町でも復活してきたと云う。


🌄🔹🔸南北朝時代の足利一族斯波氏家臣「二宮信濃入道」の「越中五位庄」での痕跡!!

2018-09-06 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸





「鴨城」は福岡町吉岡谷の小矢部市寄りに有り、古記に「鴨の二つ城」と記載されているが、鴨城は赤丸城程の大きな遺構がない事から赤丸城を主城とする出城と考えられる。(※「中世城館調査報告書」福岡町教育委員会)⇒とすると、「二宮円阿」が居城としたのは主城の「赤丸城」で在ったか?

貞治2年(1363年)3月、南朝の武将桃井直常討伐に従軍した「二宮円阿」が「五位庄の鴨城衆と頭川城、松根城等での戦い」を命じられて任務を果たした事等が記載された「二宮円阿軍忠状」が有り、是が「五位庄鴨城」の説明に登場する。しかし、この「二宮氏」が如何なる人物かの説明は今日迄、明らかでなかった。しかし、東寺百合文書に見られる二通の書類はこの人物が越中→殊に「砺波郡」、「射水郡」の鋳物師に対する仕置き、「おいの庄」(※「五位庄」)に関する書状等を残し、鴨(加茂)城、頭高(頭川)城(※「柴野城か?」)等で活躍した事を示す「軍忠状」(※現在の成果報告書)を残している。

【二宮次郎左衛門入道円阿申軍忠事】
「右、去年二月九日令発向越中国、可致忠節之由、賜将軍家自并七条殿(斯波高経)御教書、当国松□(根)御陣下向仕、同七月三日大将御共仕、和三(田)合戦令致忠節、致其外圧城・野尻御供申、自同十一月至今年三月令和田十一警固、同十三日可為鴨城衆由依仰下候、於当城致忠節、同五月十二日向馳頭高城、追落凶徒等、焼払彼城、鴨城衆等相共致忠節、至南条枯本木金山城、令致忠節候上者、賜御判形為備後証、恐々言上、如件、
貞治弐年六月 日
一見了 印 」
詳細を調べるとこの二宮円阿という人物は足利一族の斯波高経の家老に見られる。
●「斯波高経」; 尾張足利氏四代目 1362年細川頼和に代わり越中に息・斯波義将を派遣。信濃国から越中乱入。南北朝時代の南朝の武将で守護大名。越前・若狭・越中守護。南朝の勇将新田義貞を福井県で破る。観応の擾乱では足利尊氏と直義双方に仕えている。「五位庄」はこの斯波高経の所領で在ったと記載されるものも在る。
●「二宮円阿」;(✳次郎左衛門入道円阿。)斯波家家老で信濃口から越中へ乱入し庄城、野尻城、和田城、鴨城、頭高城で戦う。1363年(正平十八年)に軍功を申請する申請書を提出した。⇒東寺百合文書に見られる「二宮信濃入道」と見られる。













ここで、一つの疑問が出てくる。高岡市の「守山城」に在城した著名な武将に、名門足利氏一族の能登畠山氏から養子に入り「織田信長」の妹を妻にした「神保氏張」がいる。神保氏は畠山氏の家臣として長く越中の統治に関わり、富山城の歴史にも登場する。しかし、この「守山城」に陣を構えた神保氏については「神保氏諸流」とされて、ルーツがはっきりしていなかった。この「神保氏張」は五位庄を上杉謙信から安堵された「寺嶋牛介」が主君とした武将で、佐々成政軍として赤丸浅井城の中山直治と共に能登末森城に前田利家と戦った武将で、佐々成政が九州に転封された時に同行し、成政切腹後に徳川家康の旗本になった人物である。しかし、この人物のルーツを調べると意外な事が解った。
静岡県立図書館に徳川家臣団系図が在り、その中の旗本神保氏の系図を調べると、この守山城の神保系図は、先祖を「秩父平氏 山辺六郎」として、その後、「中村」や「土屋」、「二宮」を名乗り、守山城に入った後に「神保」と名乗っている。富山県内で見られる神保系図ではこの守山城の神保氏は分岐した系図が明らかで無く、「神保諸流」とされている。この「二宮円阿」の系統と「守山城神保氏の祖の二宮氏」の繋がりについては明確な系図が見当たらないが、守山城の神保氏の歴史は相当に古い様だ ❗
系図では、「二宮右京進経忠」が「神保佐衞門尉」と改名して「守山城」に住し、後醍醐天皇の治世に「桃井直常」に仕えて軍功が在り、その後、足利尊氏の子の義詮に仕えたとされており、時代的には「二宮信濃入道」の時期と合致する。






■富山県高岡市木町に在る「西大寺」は「桃井直常の三男の創建」と云われ、元々、赤丸城の麓の舞谷地区の「麻畑島」に在ったが、その後、高岡市佐野の光釜に動き、高岡開町の時に現在の高岡市木町に移り「光釜山西大寺」と称した。住職は現在も「桃井」を名乗る。
又、直常の孫に当たる「幸若丸」は越前朝日町に育ち織田信長等の武将に好まれた「幸若舞」を考案した。織田信長の故郷は朝日町の隣の織田町で「剣神社の神官の末裔」と云われる。「幸若舞」の「人間50年、下天の内を比ぶれば………」と歌う「敦盛」が有名である。