赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🏯🐎 「前田利家」の【能登末森城】の戦い!! =>【北国全太平記】の「前田利家」と沢川村「田畑兵衛」の高岡市西山一円の過酷な占領政策。

2018-09-04 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●加賀藩前田家の氏神は富山県高岡市の守山城近くの海老坂から移動した「物部神社」と氷見の「阿尾神社」を合祀した金沢市高岡町の「尾山神社」!!




●【金沢市文化財「北方心泉」の「前田利家像」】⇒加賀藩の家臣の家では、各地で殺戮を繰り返した「前田利家」が、戦で首を獲った事を強調する絵が、毎年、正月に床の間に飾られたと云う。




■「前田利家」と「佐々成政」は「能登末森城」で激突した。「佐々成政」は福岡町の「木舟城」、「赤丸城」、高岡市柴野の「柴野城」、守山の「守山城」で拡翼の陣形を取り、福岡町の「沢川村」を経由する「佐々平左衛門」の沢川支隊は、福岡町鳥倉八幡宮の脇の「片山大道」を通り沢川村を目指したと云う。沢川へは赤丸⇒花尾⇒沢川のルートと、赤丸・木舟⇒西明寺⇒淵ケ谷のルート、木舟⇒鳥倉⇒片山大道⇒沢川へのルートが有り、何れにしても「沢川村」は「小野村」⇒「能登末森」へ至る要衝だった。
















■五位庄沢川村(※高岡市福岡町沢川)の「田畑兵衛」と云う豪族は平家の末裔で、元々は能登に領地を持っていたと云う。「前田利家」と「佐々成政」が能登末森城で戦うと知った「田畑兵衛」は佐々成政陣営に「前田利家が能登にいた時には相当苦しめられたから、秘かに佐々軍に能登末森への貫道を教える」と申し出て、佐々軍を道なき道に率いれて散々迷わせて本人は逃亡した。佐々軍の沢川支隊が能登末森城に到着するのが遅れた為に、氷見や小矢部から山越えした先行部隊が攻めあぐねてしまった。そこに急報を受けた前田利家軍が金沢の朝日城から駆けつけて、末森城は陥落を免れた。
「前田利家」が「織田信長」の指令で初めて能登に入った時、利家軍は石川、富山県境の石動山の麓の能登羽咋市に陣営を構えており、その時には羽咋市からは山越えで繋がっている沢川村の「田畑兵衛」にも連絡が取られていた筈で、富山県側から見ると、沢川村は「五位庄」に在り、その沢川村の神社は赤丸村浅井神社神官が古くから奉仕していたから、まさか、「田畑兵衛」が能登末森軍と通じているとは思わなかったのだろう。しかも、沢川村の隣地の「小野村」は越中領と能登領に股がっており、能登領の小野村(コノムラ)と羽咋郡は経済的にも一体で在った。佐々軍に加わっていた五位庄の「柴野城寺島牛介」・「赤丸城中山直治」や「木舟城の佐々軍」等の軍隊は当然、沢川村の「田畑兵衛」は佐々軍の味方だと思い込んでしまった。この時に、小矢部市と津幡町の県境の「倶利伽羅不動尊」の住職も秘かに「前田利家」に佐々軍の動きを通報していたと云うから、明らかに佐々軍は諜報活動で「前田利家」に劣っていたのだ。

又、「前田利家」は氷見阿尾城の菊池氏に対して「赤丸村の事は家臣の富田治部佐衛門と話し合う様に!(※当方に就けば恩賞として与えると云う意味)」との文書を送り届け、秘かに佐々軍からの離脱を薦めており、越中の能登への要衝を守る阿尾城の菊池氏も秘かに内通していた。これは過去に赤丸村は氷見の菊池氏の所領だったからだと云う。(※「越中志徴」)
▼【《参考》⇒氷見の森寺の「西念寺」の用地は「五位庄」の用地と交換して氷見の森寺城城主が西念寺に寄進したものだと云う。この時期には五位庄は氷見の領主が所有していたのではないかとされる。この寄進の文書が氷見市の文化財となっている。「西念寺」は高岡市の「長慶寺」の後始末の為に能登から氷見市森寺に移したものと伝え、この寺には南朝の「長慶天皇」の皇子の「行悟親王」の書等が保管されていたと云う。「長慶寺」はその後、新川郡に動き、その後、富山市呉羽山に動いた「長慶寺」がこの後継寺院ではないかと赤丸浅井神社の神職「川人貞良氏」がその著作に遺されている。「長慶天皇」は第98代(南朝3代目)の天皇で、維新後の南朝顕彰運動の中で赤丸村や福野町の安居寺等の南朝所縁の地域で宮内省の調査が行われ、大正15年(1926年)10月21日には皇統譜への加列についての詔書が発布されて「天皇」として初めて認知された。「川人貞良氏」は「長慶天皇の五位庄に於ける御事跡」(※高岡市中央図書館)等の論文を発表してこの調査にも協力されていた。】



■能登末森城への道筋「鳥倉村片山大道」周辺の現況










■能登末森城で勝利を逃した佐々軍は富山迄撤退を余儀無くされ、「豊臣秀吉」が出馬して呉羽山に着陣すると「佐々成政」は秀吉に降伏した。
「佐々成政」は暫く新川郡をあてがわれるが、遂には九州肥後に転封され、守山城の「神保氏張」は成政に従って九州に赴き、柴野城の「寺島牛介」は末森戦での鉄砲の腕前を買われて「前田利家」に仕官した。赤丸城の「中山直治」は敦賀に逃れて、敦賀の今井氏の後継となった。(※赤丸村の鞍馬寺村に住んでいた中山氏の一部は前田家に仕官して現在も高岡市羽広に残る。)
一方、能登末森城の戦いで佐々軍を攪乱して前田軍に勝利をもたらした「田畑兵衛」には「見渡す限りの山々」が与えられ、家臣並待遇で、十村役の束ねの無役十村役や山廻役等に任命され、加賀藩の公式行事や慶弔行事にも参列が許されたと云う。

■「前田利家」の越中西部の占領政策では、利家に逆らった「赤丸西円の西山の麓の住民」を高岡市和田新村に動かし、浄土真宗で「 飛擔 」の格式を誇ったと云う赤丸村の「長善寺」は福岡町の「長安寺」と、和田の「善宗寺」に三分割された。この記録は富山県立公文書館に【赤丸村西円の信徒移徒につき伺い】(※「善徳寺文書」)と云う「城端別院善徳寺文書」が在り、「和田善宗寺」には和田新村を開いた「和田佐助寄進状」が遺されている。

■多くの赤丸浅井城城下の赤丸村の住民は高岡市の和田新村で農奴と成り、無産の「頭振り」と呼ばれた「水飲み百姓※」にされた。(※水しか食べ物が無い悲惨な百姓)
一方、赤丸村に残された百姓には62%~75%もの超高率の課税が行われ、この課税は幕末迄、続いた。
(※小矢部川東部や佐々軍を陥れた田畑兵衛の所領の沢川村等は通常の40%前後の税率-4公6民で在った。)
又、この他にも、種籾の貸付、農具の貸付利息、野山の産物に対する「山役」、小矢部川の漁労に対する「川役」等の他、五位の渡しの舟の築造や河川、道路の土木工事の労役、参勤交代の人足費用等その他にもあらゆるものに課税が行われ、その負担が出来ないと、各村の十村役、肝煎、組合頭は連帯して支払わされた。その為に、女や子供が売られ、小矢部川には入水自殺する者が耐えず、地域負担を恐れて各村は竹棹で遺体を下流に押し流していたと地域の古老は伝えている。正に、赤丸村に残った百姓も幕末迄、地獄の生活を送らされたと云う。

■加賀藩の報復に拠る圧政と搾取に苦しんだ越中西部の加賀藩領の人々。



■能登末森の戦いで佐々軍で在った富山県砺波郡の小矢部川以西の西山沿いの「鳥倉村」、「舞谷村」には75%、「赤丸村」や「国吉村」、「頭川村」等には60~70%近くの重税が課せられて、その他にも山や川の狩猟、産品にも山役、川役等の課税が行われて、種籾の貸し付けも二割の高利が付けられた。一方、和田新村に移った住民は「頭振り」と言う水呑み百姓と成り、貧困を極めたと言う。見かねた「和田佐助」は秘かに空地に作物を植えて凌いだが、密告で加賀藩に摘発されて「磔」の極刑になった。現在も「和田佐助」を偲んで和田村では毎年慰霊祭が行われて、各戸の軒先には「和田佐助」の肖像を描いた「行灯」が掛けられる。

▼「頭川村村御印」と言う加賀藩の納税命令書


▼「3000石前田監物」の「頭川村年貢皆済目録」
(※納付確認書)


§《※飛擔の格式》浄土真宗寺院の寺格(格式:序列)は宗派や時代により変遷があるが、近世では①院家(筋目、准)②内陣③余間④三之間⑤飛檐(ヒエン)⑥初中後、⑦国絹袈裟、⑧平僧と細分化されていたと云う。その格式によって、寺院内での座る位置や衣装も決められると云う。広大な五位庄でも赤丸村の「長善寺」は飛檐の格式を誇る浄土真宗の中心寺院の一ツで在り、加賀藩はその勢力を割く為にこの寺には僅の門徒しか残さず、この寺の近くの赤丸村には前田家に仕官した柴野城寺島牛介の一族を「宗門改め方」として配置している。


■「加賀藩前田家の出自」は、「出雲臣」⇒「野見宿弥」⇒「土師臣」⇒「菅家党」⇒「前田に養子に入って前田」を称したと云われる。