赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔷📃📜 桓武天皇・早良親王の姪「五百井女王」庄園➰越中國 國吉名の「東大寺庄園須加庄」の秘密 !!

2018-09-02 | 富山県高岡市









「東大寺庄園須加庄」は、桓武天皇・早良親王の姪の「五百井女王」が東大寺華厳院に寄進された庄園で在った事を示す文書。


「東大寺須加庄」は高岡市の國吉地内に比定され、その位置も四ヶ所が想定されている。この遺跡を縦断して「能越自動車道」が計画され、一帯は史跡調査が行われた。その結果、一帯からは古代の農耕史跡や中世の陶器の破片等が広範囲に出土した。
今日迄、この庄園の成り立ちも分からず、いろいろ推測されてきた。この庄園だけがかつて西山の山裾を流れていた小矢部川沿いで、西山の山裾沿いに立地していたとされている。この辺りには「頭川温泉」がかつて在った事から、「須加」は後に「頭川」となったと推定されている。
東大寺庄園の開発には越中の古代氏族の「利波臣志留志」が広範囲に関わっていた事から、「利波臣」の調査に当たってみた。その資料は滋賀県の石山寺の古文書に一部残されていると聞き、早速、その調査を行った。その資料は「越中国官倉納穀交替帳」と呼び、砺波郡に在った官の穀倉の記録だが、その中には当時の国司や郡司等の役人の氏名が細部にわたり記されている。その中には唯一、東大寺大仏造営の為に米五千石を寄進して国司待遇を受けた「利波臣志留志」の一族の「利波臣」が郡司として数多く記載されている。
この記録は「平安遺文 古文書編 第一巻」に記載されており、更に、この中には他の古文書と共に「東大寺須加庄」の記録と共に 、「東大寺庄園杵名蛭庄の庄長船木弟虫」の名前や、越中国から東大寺への寄進状等が記載されており、「能登内親王」やその娘の「五百井王」が「般若寺」に地代や米を寄進した事も記載されている。
【※『船木弟虫』;伊勢ノ船来直(船木直。船木-伊勢国朝明郡舟木明神祠官。西脇-同郡耳利神社祠官)、船木臣、船木宿祢(舟木、堀内-伊勢国一志郡人。乙部、中村-伊勢人)】

又、驚いた事に、その中の「東大寺東南院文書」の中に「須加庄」が「東大寺」(※東大寺の子院華厳院)に寄進された詳細が記載されている。それによると、この庄園(五町歩)は延暦六年三月廿日に「従四位上五百井女王家から東大寺華厳院に寄進された」と記載されている。又、この時の「庄長」は「川邊白麻呂」で有り、事務取扱は「中宮史生高向諸上」で在ったと云う。この庄園は始めから東大寺の為に開発されたものでは無く、貴族からの寄進に拠る庄園で在った事が判明した。
【当時の出来事】
・延暦4年(785年)9月、「長岡京造宮長官藤原種継」が暗殺される。
「早良親王」(※桓武天皇の弟)⇒藤原種継を嫌って暗殺に加担したとされて廃太子となり淡路へ配流の途中食を断って薨去
・延暦6年 桓武天皇の姪の五百井女王から東大寺華厳院に「越中須加庄」(※高岡市国吉)を寄進(※「平安遺文」)
・延暦7年(788年)最澄が比叡山に延暦寺を創建
・延暦13年(794年)10月22日、新京に遷都。征夷大将軍大伴弟麻呂、戦勝を報ずる。
山背国を山城国と改め、新京を「平安京」と名づける。
・延暦14年(795年)征夷大将軍大伴弟麻呂ら凱旋。この頃大極殿落成。
・延暦15年(796年)隆平永宝鋳造。
・延暦16年(797年)征夷大将軍として坂上田村麻呂が東北地方の蝦夷を鎮圧
・蝦夷平定後、陸奥国に胆沢城造営、鎮守府設置
・延暦16年(797年)「続日本紀」完成
・延暦18年(799年)この年に「越中国」で大飢饉発生(※「日本後紀 桓武天皇」)
⇒数回も勅使を派遣して物資を送り、僧三百人、沙彌五十人が禁中、東宮朝堂で大般若教を読経した。
・延暦19年-21年(800-802年)、富士山が噴火(延暦大噴火)
【⇒飢饉や火山噴火は早良親王の祟りとして怖れる。】
・延暦22年(803年)陸奥国に志波城造営
・延暦23年(804年)最澄・空海ら入唐
・延暦25年(806年)3月17日、桓武天皇崩御

〇 「古事記」に拠ると、「川邊臣」は『蘇我石河宿禰』の一族である。
⇒【此建內宿禰之子】、幷九。男七、女二。『波多八代宿禰』者、波多臣林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。次『許勢小柄宿禰&者、許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。次『蘇我石河宿禰』者、蘇我臣川邊臣田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。次…『平群都久宿禰』者、平群臣、佐和良臣、馬御樴連等祖也。次『木角宿禰』者、木臣、都奴臣、坂本臣之祖。次『久米能摩伊刀比賣』、次『怒能伊呂比賣』、次『葛城長江曾都毘古』者、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也。又『若子宿禰』、江野財臣之祖。(古事記)


●五百井(イオイ)女王 ; 生年不詳 - 弘仁8年10月10日(817年11月22日))は、平安時代前期の皇族で女官。叔父桓武の朝廷等で高級女官として活躍した。 摂津大夫市原王の子。
母は能登内親王→[母は高野新笠。桓武天皇の同母姉。天智天皇皇玄孫(四世王)の市原王に嫁し、五百井女王、五百枝王(後に春原五百枝)を生む ]
兄弟に春原五百枝(五百枝王)。従二位、尚侍。母は光仁天皇の皇女。天応元年(781年)8月、二世王の待遇として同母兄弟の五百枝王と共に無位から従四位下に叙される。延暦3年(784年)11月には従四位上に昇叙。兄弟の五百枝王は延暦4年(785年)の藤原種継の暗殺事件に連座して伊予国に配流されたが、五百井女王はそのまま宮廷に残ったらしく、延暦13年(794年)平安京に家屋新造のため国稲を賜る。延暦15年(796年)7月に正四位下に昇叙。延暦19年(800年)1月、桓武天皇が五百井女王の庄に行幸。大同元年(806年)、尚縫。大同3年(808年)11月従三位。弘仁4年(813年)1月正三位。弘仁6年(815年)7月従二位に昇る。弘仁8年(817年)、薨去の際の官位は尚侍従二位。
●「般若寺」;般若寺は東大寺大仏殿や正倉院の北方に有り、聖武天皇が伽藍を建立されたと伝わる古寺。コスモス寺と呼ばれる。
・「平安遺文 古文書編 三八」『五百井女王家施入状』
尚侍従二位五百井王家 白米肆斛 右故能登内親王去寶龜十一年以品田壹町地子、奉入般若寺佛御供養䉼(=料)、而忘漏、未奉其實、仍今追一箇年之地子代奉入如件、
弘仁六年十月廿五日少書吏大初位下杖部路忌寸「道麿」
●早良親王;桓武天皇、能登内親王の同母弟。延暦4年(785年)、藤原種継暗殺事件に連座して廃され、乙訓寺に幽閉された。無実を訴えるため絶食し、淡路国に配流される途中に河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死したとされる。親王は東大寺の良弁等の信頼が厚く、東大寺の運営にも関与した様で、桓武天皇の皇太子となったが天皇にはなっていない。(※『東大寺華厳別供縁起』) 早良親王が亡くなると、様々な不幸が続き「憤死した早良親王の怨霊の仕業」と怖れたと云う。五百井女王 が東大寺華厳院に「須加庄」を寄進したのは、この早良親王と東大寺の親密な関係が有り、怨霊として怖れられた早良親王の供養の為で在ったか?
⇒元、越中国司として赴任していた「大伴家持」は、この「藤原種継暗殺事件」に大伴一族の者が関わっていた事からこの事件の主謀者とみなされて、死亡後で在ったにも関わらずその葬儀も許されず遺体は塩漬けにして放置され、資産は没収された。しかし、後にはその名誉回復が為され、資産も一族に返還されたと云う。



◎高岡市國吉地区の一画にある柴野地区に「八幡神社」が有り、この神社の由緒に「往昔、陽知之郷の中心地であった。 」と記載されている。この「陽知」は奈良時代の初期庄園の名前で有り、この少し小矢部川上流の地域は「砺波郡河合(川人)郷」(赤丸浅井神社周辺)がある。天平15年(743年)に「墾田永年私財法」が発布され、貴族や寺院に拠る大規模開発が進んだ。砺波郡には「河上、八田、河合、拜師、長岡、大岡、高柳、陽知、三野、意悲、大野、小野」が有った。「赤丸浅井神社」は聖武天皇の弟の「石川朝臣広成」(※後に高円朝臣となる)が開いたとされる。
[※ 続日本紀巻第廿二 《天平宝字四年(七六〇年)二月壬寅【壬辰朔十一】》○二月壬寅。従五位下石川朝臣広成賜姓高円朝臣。]

■ 越中の東大寺庄園跡は「八幡神社」が多く勘請されている様だ。之は聖武天皇が東大寺大仏造営の時に宇佐八幡宮が積極的に支援してくれた事に感謝して、東大寺に宇佐八幡宮を勘請した事に始まる。
又、「平安遺文 古文書編第一巻」の「内閣文庫所蔵文書68、69」には「砺波郡大野郷井山庄邊並 宇治虫足之保者」として、「利波臣志留志」が東大寺に寄進した「井山庄100町」は「砺波郡大野郷」に在った事が記載されている。

〇「平安遺文 古文書編第一巻 東南院文書」
『東大寺封戸荘園并寺用帳 天暦四年(951年)』
越中国田七百卅九町七段百八十歩
礪波郡狩城庄田百町 石粟庄田百廿町
射水郡須加庄田五十六町七段二百九十四歩 俣(クラ)田庄田百卅町八段百九十二歩 成(鳴)戸庄田五十九町八段百卌歩 鹿田庄田卅町三段二百歩

⇒「狩城庄」;伊加流伎(いかるぎ)庄--砺波市柳瀬、下中条方面。現在の庄川本流の下も含む。12世紀には狩城庄。現在の砺波インター周辺。近くに比売神社が在る。








(※「古代砺波の地方豪族」米田雄介、「平安遺文 一巻」、「越中石黒系図」等から編集)

💥💥 驚愕の真実「室町時代の 越中五位庄」の庄域の指摘 ⇒加賀藩第五代前田綱紀が保存した『東寺百合文書』に見られる【越中五位庄】!!

2018-09-02 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「東寺百合文書」に記載される『五位庄野尻』の「川合郷」に関する見解⇒室町時代の「五位庄」には福野町野尻迄が含まれていた。



















■2017.4.19 「国立歴史民俗博物館」から驚愕の御指摘を頂いた。それに拠ると
【五位荘と野尻は離れているようですが、『角川日本地名大辞典』によりますと、15世紀(応永年間)に野尻荘が五位荘に吸収され、一体化されるようです。根拠史料として、応永20年3月18日斯波義郷奉行やなた某書状が挙げられ、そこに「五位庄野尻」と見えるようです。したがって、五位荘の項目に野尻の記載があることは問題ないと考えます。】との御指摘である。

■高岡市東五位出身の著名な国学者の五十嵐国学豊次が書いた「郷庄考」には、「川合郷」を福野町野尻辺りに比定する意見が有り、一方、小矢部市倶利伽羅山から高岡市伏木の「越中国府」に向かっていた古代北陸道沿いの「川合(川人)駅」が在った福岡町赤丸村に比定して、この周辺が「川合郷」とする意見も多い。この両論は長く学者間でも論争の種になっていたが、実際に「東寺百合文書」の「やなた某書状案」を確認すると、確かにその中に【五位庄野尻】と記載されている。
💠「やなた某書状案」は「東寺百合文書」、解説は「下村史」に記載されている。

■曾て、「越中五位庄」が南砺市福野町野尻の「野尻郷」を含んだと云う事は知らなかったが、「赤丸浅井神社」の曾ての神域が「国吉郷24ケ村、小矢部市宮島郷2ケ村を含む五位庄53ケ村」となっている事から、小矢部市迄は含まれていた事は解っていたが、何と、遥かに離れた南砺市福野町迄が「五位庄」に含まれていた事は恐らく誰もが考えた事はなかったと思われる。
富山県では、「川合郷」は「小矢部川上流の福野町辺りに曾て小矢部川の合流地点が在ったから、川合郷はこの地である。」とする意見が有り、歴博からの指摘の様に、「曾ての二つの川合郷が同じ五位庄の野尻村と赤丸村に在った」と言う意見を述べる人はいなかった。しかも、一つの「五位庄域」に在ったこの二つの庄園は同じ、一帯の庄園で在った可能性もある。未だ、「吉岡庄」となる前に、小矢部川と庄川が合流していた地域に「阿光ケ淵(※吾子淵)」と言う広大な淵が形成されて、「赤丸浅井神社」前の古代北陸道沿いの「川人駅」を中心として、延喜式内社赤丸浅井神社を郷社とした広大な「川合郷」が形成されていた可能性は多いに考えられる。その場合、小矢部川流域が水運の関係で、一帯として「川合郷」と称していた事も否定できない。古代には福野や福光の米が舟で川を下り、伏木から舟で福井県敦賀港に送られていた事は記録にも表れている。しかも、庄川が赤丸浅井神社前で合流していた事から、庄川上流域からの産物は全て赤丸村を通過していた訳で、「川人駅」は富山県西部の物流の集積地であり、宿舎、渡船場、関所等が立地していた可能性は大きい。加賀藩時代にも赤丸村領三日市には加賀藩の米蔵が建てられていたと言う。
とすれば、「義経記」に、「五位庄(鎌倉時代には吉岡庄)」の赤丸村浅井神社前に在った「二位の渡し(五位の渡し)」 や「関所」が登場する背景もその理由がハッキリしてくる。
(※現在も高岡市教育委員会が広報している高岡市伏木に在る「如意の渡し」は「観光船」のPRの為に渡船会社と当時の佐藤高岡市長が企んで作り上げた「フェイク(作り話)」で在り、実際の「義経記」では「五位庄(※鎌倉時代は吉岡庄)」の赤丸浅井神社前の「二位の渡し(※後の五位の渡し)」での出来事とされている。→「赤丸浅井神社由緒」、「浅井神社三社誌」)













■「加賀藩時代の五位庄」の範囲




■「室町時代に足利義持は五位庄の半分を等持院に寄進した。」⇒その後の記録を見ると、残りの半分は同じく足利氏の菩提寺の「等持寺」に寄進されている。
・「応永22年(1415年)1 0月16日 室町幕府将軍足利義持は越中五位庄の半分を足利家菩提寺の『等持院』に寄進し、底地の管理は守護畠山満家に預け置かれた。」
(※「大日本史料」等持院常住記録)→東京大学資料編纂所大日本史料DB

・「室町時代の五位庄」の検証【※東寺百合文書】⇒南砺市福野の野尻郷迄拡がっていた「五位庄」について、「足利義持」は五位庄の半分を等持院に寄進しているが、従来考えられていた現在の西五位、東五位の範囲と相当異なっており、再検討が必要だ。
「畠山家文書」には室町時代の越中統治絵図が遺されている。この絵図では富山湾に面する伏木港、守山城が在った高岡市守山迄が砺波郡に成っており、足利義満の直轄庄園に成って居た「越中五位庄」が富山県西部の広範囲な庄園で在った事が窺われる。












📚 🏯 川田順著作「宗良親王」にも記載される「越中利波郡 赤丸村 浅井城」!! ⇒ 越中石黒氏の「石黒光景」が再建した居城。

2018-09-02 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸





■喜多川歌麿作「木曽義仲軍将図」には越中石黒氏の「石黒光弘」が描かれている。



●「後醍醐天皇第八皇子宗良親王」の研究者で、親王の「李花集」等の研究者である川田順氏はその著作の「宗良親王」で、『宗良親王は福光城、木舟城、赤丸浅井城』を構えていた「越中石黒氏」を頼り、越中に入られた事を記載されている。
石黒大介著作の『石黒氏の歴史の研究』に示されている「越中石黒系図」に拠ると、「赤丸浅井城」を再興した「石黒光景」は「福光城」、「木舟城」に名を遺す「石黒光弘」の父親と記されている。

「石黒・加賀林系図」


「源平盛衰記」に見られる「石黒光景」とその子の「石黒光弘」











■「石黒光弘」は加賀の「安宅合戦」で矢傷を受けたが、兄弟の「福満五郎」等に助けられて、次の「利波山の倶利伽羅合戦」では復活して奮戦している。














源平の「利波山の倶利伽羅合戦」