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(再録)現代中東の王家シリーズ:サウジアラビア・サウド家(18)

2019-03-13 | 中東諸国の動向

 

初出:2007.9.5

再録:2019.3.13

(注)以下の人名、肩書はいずれも2007年当時のものです。

 

(18)サウド家の後継者問題(1):長子相続制を採らなかった理由

 アブドルアジズ初代国王が建国したサウジアラビア王国は、その後第二代国王サウドからファイサル、ハーリド、ファハドそしてアブダッラー現国王まで、アブドルアジズの息子達が王位を継承してきた。そして次期国王であるスルタン皇太子もアブドルアジズの息子である。

 立憲君主制であれ絶対王制であれ王位の後継者は殆どの場合、国王(あるいは女王)の長男である。つまり英国、日本など象徴君主制の国を含めて長子相続制が採られている。サウド家のように兄弟間で王位が承継されることは現代社会では極めて珍しい。

 ただしベドウィンの部族社会を歴史的に見ると必ずしも長子相続が承継ルールとなっていない。ベドウィン社会では後継者はマジュリスと呼ばれる部族の長老会議で決められた。マジュリスで部族のリーダーとして最も相応しい人物が族長に選ばれるのである。過酷な自然の中、常に他の部族との闘争に晒されているベドウィンにとって、単に族長の長男と言うだけで彼に運命を委ねれば一族滅亡の危険に晒されかねない。従ってマジュリスと言う合議体が勇猛果敢な、しかも仲間に一目置かれる人物をリーダーに選ぶことがむしろ理に適っているのである。

 アブドルアジズは早世した長男のトルキ王子に代わり次男のサウド王子を皇太子としたが、彼にはサウドのほかに20数人の息子があり、サウド王子以降も長子相続とすることは問題をはらんでいた。つまり国内の統治基盤も固まっていないまま長子相続をルール化してサウド皇太子の未成年の息子(つまりアブドルアジズの直系の孫)にサウド家の未来を託することはリスクが大き過ぎた。父とともにサウジアラビア建国に尽くした他の息子達も長子相続制は容認し難かったであろう。サウド第二代国王の場合は濫費で国の財政を破綻させたため、長老会議は彼を退位させ、弟のファイサル皇太子を第三代国王とした。こうして兄弟間で王位を継承するという暗黙のルールが生まれた。

ファイサルが暗殺され5男のハーリドが新国王に即位した時、それまで兄弟の年齢順に指名されていた皇太子は4人の王子を差し置いて10男のファハドが指名された。それはまさにサウド家内部でのスデイリ・セブンの台頭を示すものであった。しかしそれは、王位継承は兄弟の長幼の序列に従わない、と言う前例を作ったことになる。長子相続制には長子の君主としての適格性の問題は残るもののルールとしては非常に解りやすい。それに比べて兄弟間の継承順位はお家騒動と言う内紛に繋がりやすい。サウド家のように多数の異母兄弟がいる場合は特に問題である。そのためには新国王が皇太子指名と同時に、更にその次の皇太子候補を明らかにして内紛の芽を摘む必要があった。

その結果生まれたのが第二副首相の指名である。サウジアラビアでは建国以来国王が首相、皇太子が副首相を務めている。そこに第二副首相のポストを設けたのである。第二副首相に指名されることは次期皇太子として暗黙の承認を与えられたことになる。こうしてハーリド国王、ファハド皇太子時代にアブダッラー王子が第二副首相に指名された。そしてファハドが国王に即位するとアブダッラーは皇太子となり、同時に第二副首相にスルタン王子が指名された。こうして現在のアブダッラー国王・スルタン皇太子の体制に至っている[1]

そして第5代ファハド国王の時代、1992年に「国家基本法」が制定され、また2000年に「王室評議会」が発足した。ファハド国王の意図は、サウジアラビアにおけるサウド家の統治の正統性を内外に明文規定として宣言することであり、同時に長老が次々と亡くなり形骸化したマジュリスを新しい組織に作り変えることであった。

「国家基本法」はサウド家がサウジアラビアの国王として行政・立法・司法の三権を掌握することを内外に宣言したものであり、(1)サウジアラビアは君主制であり、(2)アブドルアジズの子息及び孫(男子)に継承権があり国王が皇太子を指名すること、(3)立法、司法、行政の三権の拠り所は国王にあること、(4)国王は首相となり閣僚を任免すること、など絶対的な君主制を宣言している。「王室評議会」はサウド家の私的な合議体であり、皇太子を議長とする18名の王族で構成されている。その構成員は3分の2近い11名がアブドルアジズの直系子孫であり、残る7名はジャラウィ家など「五摂家」を含む外戚の王子が任命された。

こうして王位継承問題についてある程度の形式は整えられたが、皇太子の決定権は国王にあり、指名プロセスの不透明性が解消された訳ではなかった。それに対してアブダッラーは即位後に二つの手を打った。一つは第二副首相を指名しなかったことであり、もう一つは自分が亡き後の新国王による皇太子指名について、国王の独断専行をチェックする「忠誠委員会法」と呼ばれる組織を作ったのである[2]

(続く)

 

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荒葉一也

Arehakazuya1@gmail.com

 

 

(再録注記)



[1] アブダッラー国王時代に皇太子に指名されたスルタンがアブダッラー在位中に死亡、忠誠委員会で推挙されたナイフ皇太子も死亡し、続いてサルマンが皇太子に指名された。アブダッラー没後王位に就いたサルマンはアブダッラー時代に忠誠委員会が指名した異母兄弟のムクリンを皇太子としたが、ほどなく第三世代のナイフの子息ムハンマドを皇太子に据え、自分の息子のムハンマドを副皇太子に指名したが、その後皇太子を解任、息子のムハンマドを皇太子に引上げた。これにより直系長子の王位継承制度が確立した。

[2] サルマン国王時代に入り現皇太子(子息)の選任では正式な忠誠委員会が開かれた形跡はなく、同委員会は形骸化したものと見られる。

 

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