石油と中東

石油(含、天然ガス)と中東関連のニュースをウォッチしその影響を探ります。

ニュースピックアップ:世界のメディアから(11月13日)

2013-11-13 | 今日のニュース

・2015年には米国が世界一の石油生産国に。但し2020年まで:IEAチーフエコノミスト談。 *

 

*米国の石油生産量については「BPエネルギー統計2013年版 石油篇」参照。

http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0271BpOil2013Full.pdf

 

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(連載)「挽歌・アラビア石油(私の追想録)」(25)

2013-11-13 | その他

迫りくる2000年問題
 1990年代に入り社内では利権契約延長の問題が急速に現実味を帯びてきた。サウジアラビアとの契約が期限を迎える2000年1月まで残すところ10年を切ったからである。社内ではこれを「2000年問題」と称していた。この問題は契約を締結した2年後の1960年1月にカフジ油田1号井から日産6千バレルの商業ベースの原油を産出した時に既に始まっていた。利権契約で期間は「商業量発見の時から40年間」と定められていたからである。

 しかし1960年当時の関係者にとって2000年1月は21世紀という世紀をまたぐはるか未来のことであった。その後カフジ油田のおかげで業績に余裕が生まれると、2000年問題対策として会社はサウジアラビア以外での石油開発に着手し、或いは総合的なエネルギー企業を目指して天然ウラン開発に手を伸ばし、石油精製業にも進出した。これによりカフジと言う単一拠点、片肺操業からの脱却を図ろうとしたのである。それが1970年代、1980年代の会社の姿であり、筆者はそのような時期に途中入社したことになる。

 天然資源が乏しい日本では戦後ずっとエネルギーの安定確保が至上命題であった。このため政府は石油需要全体の一割近くを供給するアラビア石油を国策企業と位置付けて優遇した。石油価格が暴騰したオイルショックからしばらくの間はカフジ原油優遇策に大きな批判は出なかったが、その後1980年代半ば以降世界の景気は停滞し石油の需要は落ち込んだ。日本では企業の血のにじむような省エネ努力により毎年の石油消費量が前年を下回る時代が続いた。

 この結果、第二次オイルショック直後にはバレル当たり40ドル近くまで上昇した原油価格が1990年代には20ドル以下に下落した。国際石油会社は新たな油田発見のための探鉱投資を控えた。石油産業は世界的な不況に直面しエクソンとモービルが合併(現ExxonMobil)するなど業界再編の嵐が吹き荒れた。この時期、石油は安値で自由に買うことができるコモディティ(市場商品)化したと言われ、また「油田はウォール街で買える(即ち企業買収で油田を自社のものにする)」とまで言われるようになっていたのである。

 しかしこの時期も日本政府は自主エネルギーの確保が重要課題であるとの認識を持ち続け、そのためにも産油国、特にサウジアラビアとの関係を強化すると共に水面下でアラビア石油の利権契約延長の道を探っていた。1994年の皇太子同妃両殿下のサウジアラビア訪問はまさにそのような時期に行われたのであり、その前後に海部総理(1990年)、村山総理(1995年)及び橋本総理(1997年)の三代にわたる総理大臣が相次いで同国を訪問したことはその表れである。勿論歴代の通産大臣も就任早々にサウジアラビアやUAEなど中東産油国を訪問するのが慣例となっていた。

 これら一連の資源外交は当時のアラビア石油社長である小長元通産次官の働きかけが大きかったことは言うまでもない。アラビア石油にとって日本政府の支援は願ってもないことであったが、世論の一部には石油はコモディティ(市場商品)化しており、石油獲得のために産油国におもねる必要はない、と言う意見も根強く、またアラビア石油という一私企業(確かにアラビア石油は政府資本が入らない純粋の東証一部上場民間企業である)に政府が過度の肩入れをすることを疑問視する声も少なくなかった。

 アラビア石油自体にとって総合エネルギー企業となる夢が破れ、カフジ油田の操業を続ける他に道が無いのは厳然たる事実であった。会社は何としても利権契約の延長を勝ち取らなければならない状況に追い詰められていた。1990年の湾岸危機の時、他の企業がいち早く安全な国外に退避した中でアラビア石油だけは翌年の湾岸戦争勃発直前まで原油生産を続け企業としての覚悟を示したのであった。アラビア石油が何のためにカフジに踏みとどまったのか、それは言わずもがなのことであった。

 湾岸戦争の後、サウジアラビアの石油相はアラビア石油を高く評価した。会社にとって利権契約延長の交渉を開始する絶好の機会が訪れた訳である。こうして総理大臣或いは通産大臣の相次ぐサウジアラビア訪問外交の幕が開いた。但しこのことは交渉が一方の当事者であるアラビア石油の手を離れ、日本政府が前面に出ると言う日本側の主役交代を意味している。契約延長に対してサウジアラビア政府が要求する条件はどんどん膨らみ私企業のアラビア石油には手に負えない状況になっていった。その中で小長社長は毎年頻繁に日本とサウジアラビアの間を往復し、サウジアラビア政府と日本政府の橋渡しの役割を果たしたのである。そのような役割は専務、常務以下の会社生え抜きの役員の力の及ぶところではなく結局小長社長一人の双肩にかかっていた。

 筆者がかかわることになったジェトロ・リヤド事務所もそのような経緯の中から生まれたものの一つであった。

(続く)

(追記)本シリーズ(1)~(20)は下記で一括してご覧いただけます。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0278BankaAoc.pdf 

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