
土曜マチネのサブスクリプションも、いよいよ折り返し地点にさしかかり、
今日は、『ワルキューレ』。
指揮はマゼール。
ニューヨーク・フィルの音楽監督である彼なので、メトのお隣のエイブリー・フィッシャー・ホールでは
頻繁に指揮しているにもかかわらず、
メトには今シーズンの『ワルキューレ』で、なんと45年ぶり(!)に復帰というのが話題となりました。
マゼールといえば、私にとっては真珠のおじさん(その昔、なぜだか知らないが、日本で真珠のテレビコマーシャルに出演していた。)
というイメージしかなく、一度も生を聴いたことがないのですが、
CDで聴く限りは正直彼の指揮にぴんときたことがないので、『ワルキューレ』のプレミア公演での彼の指揮が
大絶賛されているのを見て、そこのところをしかと自分の耳で聴いてみたいと思います。
昨夏、キーロフのリング・サイクルから単独で観た『神々の黄昏』とのプロダクションやオケの音の比較も楽しみ。
(*リング・サイクル=ツィクルスともいう。『ニーベルングの指環』の全四作品を、
順番どおりに何日かにわたって、同じオケ、一貫したキャストで連続して演奏すること。)
今や、サブスクリプション仲間となったワシントンDCからのご夫婦と、
”長時間飛行(『ワルキューレ』の演奏時間は約3時間40分。ただし、休憩を含まない。)の準備はOK?”
と声を掛け合い、いよいよ緞帳があがる。
冒頭の嵐を描写する序奏、このほんの短い部分に、
かなり指揮者とオケとその公演のカラーが凝縮されるように感じます。
私は予習教材として、CDはベームが指揮したバイロイト盤を聴き、DVDはレヴァインが指揮したメト盤
(演出が当公演と同じオットー・シェンクで、なんとヴォータンも同じモリス!彼がものすごく若くてびっくりさせられます。)
を観たのですが、この二つだけでも、全くカラーが違っています。
さて、マゼールが描写する嵐。
なんだか、すごくべたーんとしている。のっぺらぼう、とでもいいますか。
いえ、この嵐の場面のみならず、全編を通して感じたのですが、
彼が作り出す音楽には、およそ脈拍というものが感じられない。
特にオペラは物語があるので、登場人物の感情が音楽に乗っていなければならないはずで、
その登場人物が怒ったり、悲しんだり、恋をしたなら、
その心臓をうつ音が早くなったり、ゆっくりするはずなのだから、
そういう血の流れを感じさせてほしい。
しかし、彼の音楽は、まるで人工心臓が常に脈拍を同じペースで刻んでいるような、、。
全く感情のうねりが感じられないし、これほど物語に無関心な音楽というのも、どうかと思います。
味のない料理、と言ってもいいかもしれません。
ところどころで、表面的に音がどでかくなったりするのですが、
それを支える感情とか、しっかりした枠組みというものが欠落しているように私には聴こえました。
オケについて。
ホルンが、第一幕での足並みの揃わなさが目立ったのと、
また、トロンボーンは、ベースの方は音がしっかりしているのに、
トップの音がほとんど聴こえない箇所が前半で散見されました。
弦楽器はなかなか健闘していたように思うのですが、惜しむらくは、
ジークリンデがジークムントに水を差し出すシーンでのチェロの独奏、
ここは、ぜひフィグェロア氏の演奏で!!と思っていたのですが、音が出てきた瞬間、
”彼じゃない、、、”とがっくり。
いや、今日演奏された方も全然悪くはなかったのですが、しかし、お互いにすでに魅かれ始めている
二人の気持ちをフィグェロア氏がどう表現してくれるのか聴いてみたかったし、
彼の表情豊かな音はこんなシーンにこそぴったりだと思うのですが。
さて、この『ワルキューレ』を聴くにあたって、やっかいに感じるのは、
同じ人物をさすのに、語っている人の立場によって、いろいろな呼称があること。
私はワーグナーって、命名フェチなんじゃないかと思います。
何でもかんでも名前をつけたがるから。
それから、その登場人物の性質というか生物学的分類も頭に入れておいた方がよい。
というわけで、登場人物とその生物学的分類、そしてそのいろいろな呼称、を簡単にまとめてみると、
ヴォータン (神様。しかも神の長。)
人間との間に子供を作り(ジークムント、ジークリンデ)、狼族(Walsung, Wolfing)として行動している時期あり。
ジークムントには、Wolfe(n)とかWalseと呼ばれている。
ジークムント (神様と人間のハーフ)
自分でWehwaltという源氏名を使ったりしている。
ジークムントという名は、ジークリンデが彼をそう命名するまで出てこないので一層ややこしい。
ジークリンデ(神様と人間のハーフ)
ジークムントの双子の妹。
フンディング (人間)
犬族(Neidings)の一味。ジークムントと出会うまでの、ジークリンデの夫。
犬族と狼族は敵対する仲。
フリッカ(神様。結婚の神様。)
ヴォータンの正妻。
エルダ(神様。智の神様。)
ヴォータンが神の国を守れるよう、知恵を授ける。そのプロジェクトの一貫として、
ヴォータンとの間に9人の娘=ワルキューレたちを生んだ。
ただし、この『ワルキューレ』では実際の登場シーンはない。
ブリュンヒルデ (神様。ただし、この『ワルキューレ』の最後で神性を失う。)
他の8人のワルキューレたちと同様、ヴォータンとエルダの間に生まれた。
ワルキューレの仕事は、戦死した男性の中から英雄クラスの人物を選び出して、
ワルハラに運搬すること。そこで、その英雄たちは、ワルハラを守る役を与えられる。
しかし、ジークムントの例もあるように、英雄を生け捕りにしようとする場合もあるように見受けられる。
ワルハラ (土地)
ヴォータンが神の国を治めている城がある場所。
ノートゥング (物)
もともとヴォータンがジークムントが危機に陥った際に使えるように、とつくった、
万能の剣。しかし、剣、でいいのに、なんでこんなものにまで名前を、、。
グラーネ (馬)
ブリュンヒルデの馬。剣にも名前があるんだから、馬にもつけとかにゃならんだろう、ってことか。
ちょっと大変ですが、この呼称と、関係性を覚えておくと、随分実際の公演を観るのが楽になります。
私は3回くらい手探りでCDを聴いて、やっとお互いの関係がつながりました。
特に、窮地に陥ったジークムントが、離れてしまった父親(ヴォータンですが)に剣のありかを尋ねようと、
”Walse! Walse!"と歌うこのオペラの中の聴き所のシーンは、初めて聴いたとき、Walseって誰?何?という感じでした。
そうか、生き別れになってしまったお父さんへの叫びなんだ、とわかると、
感情移入百倍です。
話は公演に戻って、オットー・シェンクの演出はきわめてオーソドックス。
ほとんど演奏会形式の歌に、セットと衣装をつけてみました、と言ってもいいくらい、
歌への邪魔度ゼロ。
ただ邪魔しないのはいいのですが、あまりにも何もなさすぎて、
もともとワーグナーがこの作品の構想を練ったときには、何か歌と歌の合間に、
演技や舞台上の動きがあったのではないか?と思う場面でも、
みんなが直立不動に近い形で歌っているので、妙な間があいてしまって、何だろう、これは?と思わせる箇所も。
そろそろ演出を入れ替えてもいい頃なのかもしれません。
一幕では、ほとんどワーグナーが指示したとおりのセットになっていて、
中心にトネリコの木が配置された、フンディングの家が再現されていました。
ジークムント役のクリフトン・フォービス。
私はまったく名前すら聞いたことのないテノールだったのですが、
今まで観たワーグナーものの公演で歌ったテノールの中では一番良かったかもしれません。
低音が落ち着いた響きのために、ちょっと年増な感じがするかもしれませんが、
どこか知的な感じもあって、下手をすると、脳たりんな印象になってしまいがちな、
ワーグナーもののテノール役を、気品を持って歌える稀有なタイプの歌手ではないでしょうか。
しかも、それらの役に必要な十分な声量も持っていながら、うるさく聴こえず、
先ほど触れた、”Walse! Walse! ”の箇所では、かなり引っ張って歌ってくれて大満足。
ワグネリアンといわれる人の中には、アメリカの歌手というだけで、
”けっ!”と鼻にもかけないようなところが見られますが、
私が聴いた中では、下手なドイツ人歌手よりも何倍も良かったように思います。

(ジークムント役のフォービス。ジークリンデ役は、ランの前半でこの役を歌ったピエチョンカ。)
それを言うと、今回のこの公演、ほとんどの人が英語圏国の出身。
ジークリンデ役のデボラ・ヴォイトもアメリカ人。

(ジークリンデ役のヴォイト)
彼女は出だし、少しジークリンデ役には声が細いのかな、と思ったのですが、
第三幕第一場最後、ブリュンヒルデの捨て身の献身に助けられて、
ジークムントとの間にできた子供を身ごもったまま逃げることになったジークリンデが、
ブリュンヒルデに感謝と別れを告げるシーンはなかなか聴き応えがありました。
彼女の歌は、どんなに大きい、高い音でも、絶叫にならずに、
声の透明度がきちんと保たれているのがよいところだと思います。
あのオケ全開の音の上をきちんと通って、なお、美しく聴こえるというのはすごいこと。
しかし、それと表裏一体なんでしょうが、逆に、それ以外のシーンが少し淡白に聴こえる嫌いがあります。
フンディング役を歌ったぺトレンコは唯一のロシア系キャスト。
キーロフの公演ではハーゲンを歌っていて、役の解釈がはっきりせず、やや不満が残りましたが、
今回のこのフンディングの役は、ハーゲンほど複雑なねじれた役ではないからか、
なかなかの出来でした。野卑になりすぎていないのが良かったです。
フンディングに眠り薬を飲ませて、ジークムントのもとにあらわれるジークリンデ。
お互いの気持ちを確認しあったあと、ノートゥング(剣)のありかをジークリンデはジークムントに教えます。
なんと、不思議な男性が現われて(実はヴォータン)、トネリコの木に差し込んでいった剣が、
どんな屈強な男性が引き抜こうとしても抜けないというのです。
扉が風のせいでひとりでに開いて、春の空気が流れ込んできたために、
二人が、”冬の嵐は過ぎ去り Windersturme wichen dem Wonnemond" を歌うシーンは、
それまでひたすら薄暗くて鬱々としたセットから、家の中側から、春の夜の光を受けた戸外が見えるようになり、
なかなかに美しいです。
ジークリンデに教えられたとおり、トネリコに刺さったノートゥング(剣)を抜き取るジークムント。
ここで、”きゃーっ!!!”と、ジークリンデの喜びの絶叫が入るのが一般的だと思うのですが、
ヴォイトは、何も叫ばず、ただ、体の動きだけで、その喜びを表現したのが、変則的でした。
第二幕は、いよいよヴォータンとブリュンヒルデの親子の登場。

ここでの二人のやりとりは軽妙ですらありますが、その日常生活の何気ない楽しさ、
二人のむつまじさがきちんと描かれていることにより、
三幕で、ヴォータンが泣く泣く娘を勘当しなければならないシーンがよりせつなくなるので、
あなどれない場面。
しかもフンディングは、ヴォータンに”フンディングはワルハラには無用の人物だな”
(つまり、ヴォータンには英雄とは認められていない)
といわれながら、結局そのフンディングによって、ヴォータンにとって思い入れの深い息子である
ジークムントは命を落とすことになるのですから、なんて皮肉な運命。。
かように、何気ない言葉のなかに、今後の出来事の伏線が巧みに張られているのです。
今日の公演の中で私が”そう来たか!”と思わされたのはデ・ヤングが演じたフリッカ。
彼女もアメリカ出身のメゾ。
先述したメトのDVDでこのフリッカ役を演じているのがクリスタ・ルートヴィッヒという、
実力も名前もあるメゾなのですが、そのルートヴィッヒがこのDVDで演じているフリッカだけは、
見ていて本当に腹がたつくらい、魅力のない女なのです。
そのDVDの公演の頃にはすでに、年齢も年齢だと思うのですが、
その上に彼女はあまりにも見た目が普通のおばちゃんっぽいので、
そんなフリッカが、ぎゃーすかぎゃーすか
私のことを顧みないで、浮気ばっかりして!と、不満をヴォータンにぶつけるのを聴いていると、
”そりゃ、ヴォータンもあんたみたいな女のところは避けて、他の女性と仲良くしたくなってもあたりまえだわ”
という気分になってしまうのです。
こういう魅力のない、やなおばさん的なフリッカも一つのタイプでしょうが、
デ・ヤングが歌うと全然違った印象になるのです。
まず彼女はカーネギー・ホールでのリサイタルなんかで見ると結構恰幅ある体躯ですが、
こういった舞台でみると、神様らしく堂々としていて、丁度よい。
しかも、綺麗な顔をしていて、年齢がまだ若いので、動きも鈍重じゃない。
一言で言うと、ルートヴィッヒのフリッカが男性に見向きもされない枯れた女とすれば、
デ・ヤングのフリッカはまだまだ現役の女性、という感じがするのです。
むしろ、こんな魅力的な奥さんがいるのに、あんた、何してるわけ?と、
ヴォータンを詰問したくなるほどに。
しかも、ルートヴィッヒのようにヒステリックなおばさんが夫を問い詰める、という風ではなく、
訥々と、しかし、じわじわっと訴えるあたりが、怖くもあり、また可哀想なようでもあり、、。
要は、デ・ヤングのフリッカには、つい女性として、同情したくなるような雰囲気があるのです。
ヴォータンがそれまでの気持ちを全部ひっくりかえして、息子であるジークムントを見殺しにすることを決意するのは、
フリッカの申し出を聞くうちに、ジークムントを通して神の世界を守り抜くことは不可能であるばかりか、
むしろ、指環の呪いのせいで、息子ジークムントを守ることさえ無理である、
ということをヴォータンは直感するのです。
そして、いずれにせよ、ジークムントを失うことになるのなら、
それなら自分の手で息子の命を奪うほうがましではないか、と考えたのではないか、と私は思います。
ヴォータンには、フリッカの言葉一つ一つが、まるで指環の呪いを確認する言葉のように聞こえたはずです。
”どうあがいても、ジークムントは死ぬ、その運命からは逃れられないのよ”という風に、、。
それがぎゃーぎゃーおばさんのヒステリーではちょっと違和感があります。
むしろ、じわっと来るデ・ヤングの歌唱こそぴったり。
ブリュンヒルデが現われたあとに、ほくそえみながら、
”お父様から、新しい命令をお聞きなさい”
(今まで、ジークムントを守るように!と言われてきたのが、突然ひっくり返して、
彼を守るな、という命令に変わる。)と捨て台詞を残して、神々しい威厳を持って去っていく
デ・ヤングの姿に、きゃー、怖いわー、と背筋が寒くなりました。
(初日は、ブライスがフリッカを演じた。冒頭の写真はブライス。)
<Part IIに続く>
Lisa Gasteen (Brunnhilde)
Deborah Voigt (Sieglinde)
Michelle DeYoung (Fricka)
Clifton Forbis (Siegmund)
James Morris (Wotan)
Mikhail Petrenko (Hunding)
Kelly Cae Hogan (Gerhilde)
Claudia Waite (Helmwige)
Laura Vlasak Nolen (Waltraute)
Jane Bunnell (Schwertleite)
Wendy Bryn Harmer (Ortlinde)
Leann Sandel-Pantaleo (Siegrune)
Edyta Kulczak (Grimgerde)
Mary Phillips (Rossweisse)
Conductor: Lorin Maazel
Production: Otto Schenk
Grand Tier D Odd
OFF
***ワーグナー ワルキューレ Wagner Die Walkure***
今日は、『ワルキューレ』。
指揮はマゼール。
ニューヨーク・フィルの音楽監督である彼なので、メトのお隣のエイブリー・フィッシャー・ホールでは
頻繁に指揮しているにもかかわらず、
メトには今シーズンの『ワルキューレ』で、なんと45年ぶり(!)に復帰というのが話題となりました。
マゼールといえば、私にとっては真珠のおじさん(その昔、なぜだか知らないが、日本で真珠のテレビコマーシャルに出演していた。)
というイメージしかなく、一度も生を聴いたことがないのですが、
CDで聴く限りは正直彼の指揮にぴんときたことがないので、『ワルキューレ』のプレミア公演での彼の指揮が
大絶賛されているのを見て、そこのところをしかと自分の耳で聴いてみたいと思います。
昨夏、キーロフのリング・サイクルから単独で観た『神々の黄昏』とのプロダクションやオケの音の比較も楽しみ。
(*リング・サイクル=ツィクルスともいう。『ニーベルングの指環』の全四作品を、
順番どおりに何日かにわたって、同じオケ、一貫したキャストで連続して演奏すること。)
今や、サブスクリプション仲間となったワシントンDCからのご夫婦と、
”長時間飛行(『ワルキューレ』の演奏時間は約3時間40分。ただし、休憩を含まない。)の準備はOK?”
と声を掛け合い、いよいよ緞帳があがる。
冒頭の嵐を描写する序奏、このほんの短い部分に、
かなり指揮者とオケとその公演のカラーが凝縮されるように感じます。
私は予習教材として、CDはベームが指揮したバイロイト盤を聴き、DVDはレヴァインが指揮したメト盤
(演出が当公演と同じオットー・シェンクで、なんとヴォータンも同じモリス!彼がものすごく若くてびっくりさせられます。)
を観たのですが、この二つだけでも、全くカラーが違っています。
さて、マゼールが描写する嵐。
なんだか、すごくべたーんとしている。のっぺらぼう、とでもいいますか。
いえ、この嵐の場面のみならず、全編を通して感じたのですが、
彼が作り出す音楽には、およそ脈拍というものが感じられない。
特にオペラは物語があるので、登場人物の感情が音楽に乗っていなければならないはずで、
その登場人物が怒ったり、悲しんだり、恋をしたなら、
その心臓をうつ音が早くなったり、ゆっくりするはずなのだから、
そういう血の流れを感じさせてほしい。
しかし、彼の音楽は、まるで人工心臓が常に脈拍を同じペースで刻んでいるような、、。
全く感情のうねりが感じられないし、これほど物語に無関心な音楽というのも、どうかと思います。
味のない料理、と言ってもいいかもしれません。
ところどころで、表面的に音がどでかくなったりするのですが、
それを支える感情とか、しっかりした枠組みというものが欠落しているように私には聴こえました。
オケについて。
ホルンが、第一幕での足並みの揃わなさが目立ったのと、
また、トロンボーンは、ベースの方は音がしっかりしているのに、
トップの音がほとんど聴こえない箇所が前半で散見されました。
弦楽器はなかなか健闘していたように思うのですが、惜しむらくは、
ジークリンデがジークムントに水を差し出すシーンでのチェロの独奏、
ここは、ぜひフィグェロア氏の演奏で!!と思っていたのですが、音が出てきた瞬間、
”彼じゃない、、、”とがっくり。
いや、今日演奏された方も全然悪くはなかったのですが、しかし、お互いにすでに魅かれ始めている
二人の気持ちをフィグェロア氏がどう表現してくれるのか聴いてみたかったし、
彼の表情豊かな音はこんなシーンにこそぴったりだと思うのですが。
さて、この『ワルキューレ』を聴くにあたって、やっかいに感じるのは、
同じ人物をさすのに、語っている人の立場によって、いろいろな呼称があること。
私はワーグナーって、命名フェチなんじゃないかと思います。
何でもかんでも名前をつけたがるから。
それから、その登場人物の性質というか生物学的分類も頭に入れておいた方がよい。
というわけで、登場人物とその生物学的分類、そしてそのいろいろな呼称、を簡単にまとめてみると、
ヴォータン (神様。しかも神の長。)人間との間に子供を作り(ジークムント、ジークリンデ)、狼族(Walsung, Wolfing)として行動している時期あり。
ジークムントには、Wolfe(n)とかWalseと呼ばれている。
ジークムント (神様と人間のハーフ)自分でWehwaltという源氏名を使ったりしている。
ジークムントという名は、ジークリンデが彼をそう命名するまで出てこないので一層ややこしい。
ジークリンデ(神様と人間のハーフ)ジークムントの双子の妹。
フンディング (人間)犬族(Neidings)の一味。ジークムントと出会うまでの、ジークリンデの夫。
犬族と狼族は敵対する仲。
フリッカ(神様。結婚の神様。)ヴォータンの正妻。
エルダ(神様。智の神様。)ヴォータンが神の国を守れるよう、知恵を授ける。そのプロジェクトの一貫として、
ヴォータンとの間に9人の娘=ワルキューレたちを生んだ。
ただし、この『ワルキューレ』では実際の登場シーンはない。
ブリュンヒルデ (神様。ただし、この『ワルキューレ』の最後で神性を失う。)他の8人のワルキューレたちと同様、ヴォータンとエルダの間に生まれた。
ワルキューレの仕事は、戦死した男性の中から英雄クラスの人物を選び出して、
ワルハラに運搬すること。そこで、その英雄たちは、ワルハラを守る役を与えられる。
しかし、ジークムントの例もあるように、英雄を生け捕りにしようとする場合もあるように見受けられる。
ワルハラ (土地)ヴォータンが神の国を治めている城がある場所。
ノートゥング (物)もともとヴォータンがジークムントが危機に陥った際に使えるように、とつくった、
万能の剣。しかし、剣、でいいのに、なんでこんなものにまで名前を、、。
グラーネ (馬)ブリュンヒルデの馬。剣にも名前があるんだから、馬にもつけとかにゃならんだろう、ってことか。
ちょっと大変ですが、この呼称と、関係性を覚えておくと、随分実際の公演を観るのが楽になります。
私は3回くらい手探りでCDを聴いて、やっとお互いの関係がつながりました。
特に、窮地に陥ったジークムントが、離れてしまった父親(ヴォータンですが)に剣のありかを尋ねようと、
”Walse! Walse!"と歌うこのオペラの中の聴き所のシーンは、初めて聴いたとき、Walseって誰?何?という感じでした。
そうか、生き別れになってしまったお父さんへの叫びなんだ、とわかると、
感情移入百倍です。
話は公演に戻って、オットー・シェンクの演出はきわめてオーソドックス。
ほとんど演奏会形式の歌に、セットと衣装をつけてみました、と言ってもいいくらい、
歌への邪魔度ゼロ。
ただ邪魔しないのはいいのですが、あまりにも何もなさすぎて、
もともとワーグナーがこの作品の構想を練ったときには、何か歌と歌の合間に、
演技や舞台上の動きがあったのではないか?と思う場面でも、
みんなが直立不動に近い形で歌っているので、妙な間があいてしまって、何だろう、これは?と思わせる箇所も。
そろそろ演出を入れ替えてもいい頃なのかもしれません。
一幕では、ほとんどワーグナーが指示したとおりのセットになっていて、
中心にトネリコの木が配置された、フンディングの家が再現されていました。
ジークムント役のクリフトン・フォービス。
私はまったく名前すら聞いたことのないテノールだったのですが、
今まで観たワーグナーものの公演で歌ったテノールの中では一番良かったかもしれません。
低音が落ち着いた響きのために、ちょっと年増な感じがするかもしれませんが、
どこか知的な感じもあって、下手をすると、脳たりんな印象になってしまいがちな、
ワーグナーもののテノール役を、気品を持って歌える稀有なタイプの歌手ではないでしょうか。
しかも、それらの役に必要な十分な声量も持っていながら、うるさく聴こえず、
先ほど触れた、”Walse! Walse! ”の箇所では、かなり引っ張って歌ってくれて大満足。
ワグネリアンといわれる人の中には、アメリカの歌手というだけで、
”けっ!”と鼻にもかけないようなところが見られますが、
私が聴いた中では、下手なドイツ人歌手よりも何倍も良かったように思います。

(ジークムント役のフォービス。ジークリンデ役は、ランの前半でこの役を歌ったピエチョンカ。)
それを言うと、今回のこの公演、ほとんどの人が英語圏国の出身。
ジークリンデ役のデボラ・ヴォイトもアメリカ人。

(ジークリンデ役のヴォイト)
彼女は出だし、少しジークリンデ役には声が細いのかな、と思ったのですが、
第三幕第一場最後、ブリュンヒルデの捨て身の献身に助けられて、
ジークムントとの間にできた子供を身ごもったまま逃げることになったジークリンデが、
ブリュンヒルデに感謝と別れを告げるシーンはなかなか聴き応えがありました。
彼女の歌は、どんなに大きい、高い音でも、絶叫にならずに、
声の透明度がきちんと保たれているのがよいところだと思います。
あのオケ全開の音の上をきちんと通って、なお、美しく聴こえるというのはすごいこと。
しかし、それと表裏一体なんでしょうが、逆に、それ以外のシーンが少し淡白に聴こえる嫌いがあります。
フンディング役を歌ったぺトレンコは唯一のロシア系キャスト。
キーロフの公演ではハーゲンを歌っていて、役の解釈がはっきりせず、やや不満が残りましたが、
今回のこのフンディングの役は、ハーゲンほど複雑なねじれた役ではないからか、
なかなかの出来でした。野卑になりすぎていないのが良かったです。
フンディングに眠り薬を飲ませて、ジークムントのもとにあらわれるジークリンデ。
お互いの気持ちを確認しあったあと、ノートゥング(剣)のありかをジークリンデはジークムントに教えます。
なんと、不思議な男性が現われて(実はヴォータン)、トネリコの木に差し込んでいった剣が、
どんな屈強な男性が引き抜こうとしても抜けないというのです。
扉が風のせいでひとりでに開いて、春の空気が流れ込んできたために、
二人が、”冬の嵐は過ぎ去り Windersturme wichen dem Wonnemond" を歌うシーンは、
それまでひたすら薄暗くて鬱々としたセットから、家の中側から、春の夜の光を受けた戸外が見えるようになり、
なかなかに美しいです。
ジークリンデに教えられたとおり、トネリコに刺さったノートゥング(剣)を抜き取るジークムント。
ここで、”きゃーっ!!!”と、ジークリンデの喜びの絶叫が入るのが一般的だと思うのですが、
ヴォイトは、何も叫ばず、ただ、体の動きだけで、その喜びを表現したのが、変則的でした。
第二幕は、いよいよヴォータンとブリュンヒルデの親子の登場。

ここでの二人のやりとりは軽妙ですらありますが、その日常生活の何気ない楽しさ、
二人のむつまじさがきちんと描かれていることにより、
三幕で、ヴォータンが泣く泣く娘を勘当しなければならないシーンがよりせつなくなるので、
あなどれない場面。
しかもフンディングは、ヴォータンに”フンディングはワルハラには無用の人物だな”
(つまり、ヴォータンには英雄とは認められていない)
といわれながら、結局そのフンディングによって、ヴォータンにとって思い入れの深い息子である
ジークムントは命を落とすことになるのですから、なんて皮肉な運命。。
かように、何気ない言葉のなかに、今後の出来事の伏線が巧みに張られているのです。
今日の公演の中で私が”そう来たか!”と思わされたのはデ・ヤングが演じたフリッカ。
彼女もアメリカ出身のメゾ。
先述したメトのDVDでこのフリッカ役を演じているのがクリスタ・ルートヴィッヒという、
実力も名前もあるメゾなのですが、そのルートヴィッヒがこのDVDで演じているフリッカだけは、
見ていて本当に腹がたつくらい、魅力のない女なのです。
そのDVDの公演の頃にはすでに、年齢も年齢だと思うのですが、
その上に彼女はあまりにも見た目が普通のおばちゃんっぽいので、
そんなフリッカが、ぎゃーすかぎゃーすか
私のことを顧みないで、浮気ばっかりして!と、不満をヴォータンにぶつけるのを聴いていると、
”そりゃ、ヴォータンもあんたみたいな女のところは避けて、他の女性と仲良くしたくなってもあたりまえだわ”
という気分になってしまうのです。
こういう魅力のない、やなおばさん的なフリッカも一つのタイプでしょうが、
デ・ヤングが歌うと全然違った印象になるのです。
まず彼女はカーネギー・ホールでのリサイタルなんかで見ると結構恰幅ある体躯ですが、
こういった舞台でみると、神様らしく堂々としていて、丁度よい。
しかも、綺麗な顔をしていて、年齢がまだ若いので、動きも鈍重じゃない。
一言で言うと、ルートヴィッヒのフリッカが男性に見向きもされない枯れた女とすれば、
デ・ヤングのフリッカはまだまだ現役の女性、という感じがするのです。
むしろ、こんな魅力的な奥さんがいるのに、あんた、何してるわけ?と、
ヴォータンを詰問したくなるほどに。
しかも、ルートヴィッヒのようにヒステリックなおばさんが夫を問い詰める、という風ではなく、
訥々と、しかし、じわじわっと訴えるあたりが、怖くもあり、また可哀想なようでもあり、、。
要は、デ・ヤングのフリッカには、つい女性として、同情したくなるような雰囲気があるのです。
ヴォータンがそれまでの気持ちを全部ひっくりかえして、息子であるジークムントを見殺しにすることを決意するのは、
フリッカの申し出を聞くうちに、ジークムントを通して神の世界を守り抜くことは不可能であるばかりか、
むしろ、指環の呪いのせいで、息子ジークムントを守ることさえ無理である、
ということをヴォータンは直感するのです。
そして、いずれにせよ、ジークムントを失うことになるのなら、
それなら自分の手で息子の命を奪うほうがましではないか、と考えたのではないか、と私は思います。
ヴォータンには、フリッカの言葉一つ一つが、まるで指環の呪いを確認する言葉のように聞こえたはずです。
”どうあがいても、ジークムントは死ぬ、その運命からは逃れられないのよ”という風に、、。
それがぎゃーぎゃーおばさんのヒステリーではちょっと違和感があります。
むしろ、じわっと来るデ・ヤングの歌唱こそぴったり。
ブリュンヒルデが現われたあとに、ほくそえみながら、
”お父様から、新しい命令をお聞きなさい”
(今まで、ジークムントを守るように!と言われてきたのが、突然ひっくり返して、
彼を守るな、という命令に変わる。)と捨て台詞を残して、神々しい威厳を持って去っていく
デ・ヤングの姿に、きゃー、怖いわー、と背筋が寒くなりました。
(初日は、ブライスがフリッカを演じた。冒頭の写真はブライス。)
<Part IIに続く>
Lisa Gasteen (Brunnhilde)
Deborah Voigt (Sieglinde)
Michelle DeYoung (Fricka)
Clifton Forbis (Siegmund)
James Morris (Wotan)
Mikhail Petrenko (Hunding)
Kelly Cae Hogan (Gerhilde)
Claudia Waite (Helmwige)
Laura Vlasak Nolen (Waltraute)
Jane Bunnell (Schwertleite)
Wendy Bryn Harmer (Ortlinde)
Leann Sandel-Pantaleo (Siegrune)
Edyta Kulczak (Grimgerde)
Mary Phillips (Rossweisse)
Conductor: Lorin Maazel
Production: Otto Schenk
Grand Tier D Odd
OFF
***ワーグナー ワルキューレ Wagner Die Walkure***
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