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英雄のつくられ方3

2008-05-24 06:41:34 | Weblog
写真はシャングリラのホテル街の裏側。表の街路は急ピッチで開発が進むが、下水道整備などは一切なし。この水を牛は飲み、「高原の無汚染の牛乳」として売られている。こんな汚水からもきれいな緑と花が生み出されていた。

【シャングリラの環境保護会議】
 彼の行いと経歴が記者たちによって徐々に明らかとなってきた遭難9日後に雲南省副書記丹増が「馬驊同志に敬意を込め」て、彼の兄に手紙を送った。内容は貧困山区で教育事業を興し、辺境の少数民族地区の改変に心を砕いたにもかかわらず、いっさいの名声も報酬も要求することがなかった高度な行動と精神を賞賛するものだった。

 多少、誇張しすぎと思いつつも、10日後にでた彼の写真を見て驚いた。シャングリラから徳欽まで旅をともにした青年だったのだ。

 2004年6月10日、雲南省社会科学院を中心に各国の中国高地環境のエキスパートが集結し、「シャングリラ周辺の環境保護国際会議」が開催されていた。シャングリラの環境保護活動に携わるNPO団体や、現地の住民とともに環境保護活動を続けるチベット仏教の活仏僧、村の長老ら総勢100人ほどが参加し、4日間かけてそれぞれの立場の研究報告と現地視察、夕方の交流会が催された。夫も中国の歴史環境研究者の立場で参加した。

 会議の間、私は娘と外を散歩し、汚れきった河とゴミの散乱現場をみては「会議の人達もホテルにばっかりいないで、外を歩けばいいのに」と思っていたが、たまに会議に立ち寄ると、チベット衣装に身を包んだ地元の人が

「梅里雪山をわれわれは昔から『カワクボ』と呼んでいる。このような会議なのだから、せめてそのように発言してはいかがか」
 と、時折、いらだちとも採れる発言が上がっていたので、あまり身のある会議ではなかったようだ。

その夕方の交流会に彼はいた。


 シンガポールに籍を置くネイチャーフォトグラファー、大学で英語を専攻したものの長らく地元を離れていたため、現地の事情にはうとい女性など、会議の裏方として英語も話せる中国人の若者が多数、参加していた。

 当日までに彼のする仕事は終わっていたのか、女の子が立ち働く中、彼は猫背姿で斜に構え、会う人ごとに議論をぶつけ、とにかくしゃべり、テーブルの上の料理をつまむ。
 服装は若者グループとはいえ皆がそれなりの格好をしている中、頭に黄色のバンダナを巻いた、ちょっと汗臭い感じの青年だった。現代の環境に携わる中国青年というのはヒッピー風なのか、と驚いたものだ。
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