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英雄のつくられ方5・彼を継ぐ者

2008-06-07 22:45:53 | Weblog
写真は明永村と徳欽を結ぶ道路の工事をする一家のお母さん。カメラを向けると、村の人は照れくさがって、最初は逃げるのだが、この人はとてもいい笑顔を向けてくれた。

【彼を継ぐ者】
 家族が控えめな対応に終始する中、その後も連日、馬驊の彼の業績をあれこれとかき立てる記事が続いた。彼の大学時代の知人の感想、昆明の「春城晩報」にときおり、訪れては記者に語った様子(記者もどういう人がつかみかねていたらしい)、徳欽での友人らの証言、詩の発表など、とぎれることなく、感傷的な記事は続いていった。
(『新民晩報』『北京青年報』『上海労働報』『文匯報』『西安晩報』『毎日新報』など各紙、および中央電子台、インターネットなど)

 やがて馬驊の事績は、北京や上海でも政治的な意味合いを帯びて、注目されるようになった。遭難9日目には早くも上海団市委員会が新聞発布会を開き、「馬驊同志の意志を継いで、明永村での彼の仕事を行う者を、上海の大学生に広く公募する」と発表した。

 雲南省団委員も同日、省内の大学生に、彼のように人々が必要とする農村へ基礎を造るために行く者の志願者を募ることを決定した。上海と連携をとって青年大学生志願者の活動を支え、文化を広め、教育事業を発展させることを目指す、というものだった。そして、遭難10日後の、省副書記から遺族への感謝状の発送へと続く。

 こうして、マスコミで熱せられた若者が次々と志願し、雲南大学の博士研究生という高学歴者や上海の復旦大学の1年生などの学生は言うに及ばず、北京外語大学卒の社会人(27歳)まで上海市には総勢62名が公募に応じた。そしてわずか2週間たらずで選考が行われた。

 7月20日にはついに、62名の志願者の中から選ばれた「馬驊を継ぐもの」が昆明へとやってきた。彼は周文彬。大学4年。上海生まれ、上海育ちのきっすいの上海人。「学生幹部でもなく、奨学金を得て進学した訳でもない」とわざわざ記者が注する彼は、

「私は幸運だった。選ばれるとは思わなかった。馬驊がまだなしえなかったことを成し遂げたい」と馬驊によく似た冷めた態度と、情熱を持って語った。
 
 彼は選ばれた理由を上海大学で工学部を2年、文学部を2年学び、さらに英語ができるという幅広い才能ゆえ、と自己分析している。じつに上海らしい選び方だ。彼の夢は「経済を発展させること。大旅行業者と関係を持ち、徳欽の旅行業を発展させること」

 そして23日に明永村へと赴任していった。  (つづく。次回、この回、終わります。よろしくご覧ください。)
コメント (2)
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