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英雄のつくられ方2

2008-05-16 23:30:25 | Weblog
写真は天津の街角。北京とは高速道や電車で2時間以内の距離。全国で4カ所しかない直轄市の一つで大都会のはずなのだが、どこか垢抜けない雰囲気がおもしろい。茫洋としてとらえどころのない都市。排ガスをまともに吸わないように頭から肩まですっぽりと覆う女性の姿が目立つ。まるでダースベイダーの子分たちのようだ。

【都会からの憧れ】
 馬驊(マーフア)は天津の一般家庭に生まれ、1996年に上海の復旦大学(「北の北京、南の復旦」などとも呼ばれる一流大学)を卒業。北京で外国資本のコンピュータ会社に就職し、高給取りとなった。まさに中国のエリートコースを進んでいたのだ。

 ところが2年後に辞めて、北京で芸術青年の投稿誌である『新青年』系列のインターネットサイト「北大在線」で3年間、主要メンバーとして運営と投稿を続ける生活に入る。
 やがて友人に「ベトナムのほうへ行く」と告げて、ふらりと立ち去った。友人らはその当時の彼を振り返り「じつに不可思議な生活だった」と回想している。低収入の生活を大都会で送っていたのだから、これ以上の不思議はないだろう。

 ここまでの経歴は新聞やテレビでも取り上げられていた。ここからは報道されなかった話である。

 この「北大在線」は今でこそ、北京大学とIT企業の北大青島集団が共同運営する放送大学のような一大インターネットサイトとなっているが、創立当初は北京大学の学生を中心に新文化創造を目指して、1年間の準備期間をへて2000年4月にインターネットサイトを立ち上げたゆるやかな団体だった。
 小さな貸しビルの一角でサイトを運営するかたわら、書籍やDVDの出版を行ったり、映画『少林サッカー』チャウ・シンチーの講演会を開いたりと幅広い展開を見せていた。ところが2003年10月に突然、サイトが更新されなくなった。

 停止の理由は金銭面での欠乏が主だとメンバーらは語っているが、彼らを支えたIT企業の北大青島集団が経営権を完全に掌握したためともいわれている。ちなみに「青島集団」は「青島ビール」とはなんら関係はない。「北大在線」の活動拠点だったビルが「青島楼」という名前であることから、メンバーが名付けた会社名のようだ。

 当時をよく知る元「北大新青年総経理」の戚立峰は「『北大新青年』のことは思い出したくない。また今なお私の友達が北大にいるので、ごめんなさい・・。」とあるチャットで新青年のサイトが突然、つながらなくなった理由が論議されているところに割り込んで答えている。

 2003年といえば馬驊(マーフア)が北京を離れた時期。「北大在線」のなんらかの問題に嫌気がさして、彼は南へと旅立ち、明永村にたどりついたのではないだろうか。

コメント
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