たにしのアブク 風綴り

86歳・たにしの爺。独り徘徊と追慕の日々は永い。

「3・11」あの日から10年、多くの記録や記憶が語られました

2021-03-12 11:46:31 | Journalism
令和3年3月12日 東日本大震災の記憶。
10年の歳月を経て、語り継がれる未曽有の惨禍。
爺はこれまで「何も支援らしいこと」はしてない。
「黙する」のみと思っていました。

地獄のような状態が幾日も続き、
今も癒えない、帰れない、被災地の方々に比べたら、
何も語ることはあるまいと思っていた。

しかし、昨夜からの
「NHK仙台放送局発のラジオ深夜便」
日が変わって2時台から4時まで、
「あの日~記憶のバトンをつなごう」

全国の視聴者から寄せられた「3・11」に関わる、
自身が遭遇した「そのときの危機」や記憶が、記録が、
読み上げられ、2時間あまり聞き続けました。

九州や四国の方々にも「その時」や「その後」があったのだ。
それを聴いて、「たにしの爺」にも、その日、その後が、
あったことを書いても、いいかなと思うようになりました。


同僚が新橋駅前で撮った写真。津波の映像を見て恐怖を叫ぶポッポ広場の人たち

「3・11と私」長文の記録はPCに入っています。
私はその日、虎ノ門のビルの7階の事務所に居た。
金曜日でした。関わっていた新聞の最終締め切り。

揺れ出して、机上の資料や原稿が飛び散った。
トイレに逃げ込んだが、激しい揺れが続く。
ここで潰されたら誰も助けに来ない。
階段でビルの外に逃げ出した。
揺れるたびに周囲のビルから「悲鳴が」あがる。


徘徊路になっている3キロ以内に5つの神社があります。そのうちの一つです。

夕方5時過ぎ、新橋の印刷所に原稿を歩いて届ける。
新橋駅前は人の波で埋まっていた。JRは全てストップ。
家に帰りついたのは土曜日の昼過ぎでした。

兄弟、子どもたち、親戚縁者の無事を確認しました。
テレビに映される被災地の壊滅的な、痛ましい現状。
東電福島原発「恐怖」の爆発現場を見続けていた。



月曜日からの通勤が「死ぬ思い」になりました。
計画停電、1日数本しか走らない電車。
動いている路線へ日替わりで、早朝から歩いて行く。
帰りは電車が動くまで居酒屋で時間稼ぎの日々でした。



命を削りながら「避難生活」を続ける、
被災地の皆さんに比べたら、微々たる忍耐でした。

あれから10年、今年4月に83歳になるが、
10年前と言えば73歳でした。思えば、
ぎゅう詰め電車で通勤する元気があった。

「たにしの爺」これまで、
何も支援らしいことはしていないのです。



昨日見た番組では、NHKbs1で4時から放映された、
「映像記録 東日本大震災」の3日間のが圧巻であった。

真っ黒な逆巻く津波が街を根こそぎ破壊し、瓦礫と化し、
打ち上げられた船舶、車ともに三陸一帯が、
巨大な洗濯機の中のように渦巻いた記録映像でした。

「津波が来るから非難して下さい」と行政・消防放送。
住民の皆さんは海を眺めて立っている。
ところが凄まじい「波の壁」襲い掛かり、
逃げまどい、車ともども瓦礫の中に飲み込まれていった。

放送を見ていて感じたことは、
「巨大災害」が予知されたら、
「皆さんとか、避難してください」の敬語は不要だと思った。
「早く逃げろ、死ぬぞ」「逃げろ、逃げろ」と叫ぶ方がいいと思った。