Cape Fear、in JAPAN

ひとの襟首つかんで「読め!」という、映画偏愛家のサイト。

『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

縛る、絞める

2013-10-21 08:23:44 | コラム
最近、自称「ビョーキと判断されない程度の縛り癖」を持つ女子に会った。

今年初めに竹中直人による映画『自縄自縛の私』(2013)を観たが、あぁ実際にそういうひとが居るのか、、、と軽い驚きを覚えた。

自分にその趣味はないが、だからといって理解出来ないと距離を置くつもりはない。
ぶっかけやブルマなど、自分だって充分に「ちょっとずれている」のであろうし、縄や紐で縛ることがどう性的快楽につながっていくのか、ふつうに興味があるからだ。

「絶頂とか、そういうんじゃないよ。ただ、なんというか、落ち着くの。逆にいうと縛っておかないと、落ち着かないということ」
「自分で自分を?」
「そう、誰かを縛ろうとは思わない。自分だけの問題。最初はヘタで縛りがゆるくてなんにも感じなかったり、逆にきつくて痛いだけだったりしたけど」
「中間がいいんだね。この縄じゃなきゃダメというのも、ある?」
「もちろん、あるよ。ホームセンターで売っているやつは、ぜんぶ試した」
「いまも、してる?」
「ううん、在宅中だけ。外に居るときは、なにがあるか分からないし」
「だよね。・・・突っ込んで、聞いていい?」
「エッチのことでしょ?」
「うん、そう」
「いいよ、あたしもべつに、恥ずかしがるトシでもないし」
「縄や紐を使ったりする?」
「しない」
「首を絞めたりは?」
「しない」
「そこらへんは、ふつうなのかな」
「だから自称で“ビョーキと判断されない程度の”といってるの」
「なるほど」
「(笑う)期待はずれでしょ?」
「(笑う)それはないけど」


そういや俳優のデビッド・キャラダイン(=映画『キル・ビル』(2004)のビル役)が自分のナニを縛りつけられた状態で死んでいるのが見つかったけれど、あれとか、まだ事件なのか事故なのか判然としないらしい。
そういうトラブルが発生しないかぎり、基本的にはなにをやっても許されるわけでね、
あらためて世の中は広いと思う。


そんなわけできょうは、広義の意味における「縛る」「絞める」映画を10本ほどセレクトしてみよう。

※「手」も「道具のひとつ」と解釈することにする


(1)『ブラック・スネーク・モーン』(2006…トップ画像)

セックス依存症を患うレイ(クリスティーナ・リッチ)を治療するため、農夫ラザラス(サミュエル・L・ジャクソン)は彼女の自由を鎖で奪う。

(2)『愛のコリーダ』(76)

定(藤竜也)と吉蔵(松田英子)はセックスの最中、互いの首を絞めることによって「快楽の向こう側」に行こう・イコう・逝こうとした。

(3)『おとうと』(60)

肺病を患ったおとうと(川口浩)の病状が急変してもすぐに分かるように、姉(岸惠子)はふたりの腕をリボンで結んで寝るのだった。

(4)『undo』(94)

なんでも縛りたがる「強迫性緊縛症候群」を患った妻(山口智子)と夫(豊川悦司)の物語。

岩井俊二の映画で、いちばん好きかもしれない。

(5)『絞死刑』(68)

オオシマ映画、ふたつめのランクイン。
というか、日本映画強し。
そうか日本映画は、縛り・絞めに強いサブミッション系? なのか。

ただ吉蔵と定が望んで絞め合ったのに対し、死刑囚Rは「もちろん」望まずに「2度も」死刑執行を受けることになる。

(6)『アタメ』(89)

副題は「私をしばって!」だが、倒錯的なSМの物語もペトロ・アルモドバルの手にかかれば、なんとなくポップに見えてくるのだから不思議、、、というか、ちょっと卑怯かも。

(7)『アウトレイジビヨンド』(2012)

加瀬亮、椅子に縛りつけられバッティングセンターの刑? に処せられる。

イヤな殺されかただなぁ!!

(8)『ソウ』(2004)

死体ひとつ、そして、足を鎖でつながれた男ふたり―きょうのお題でアンケートを取ったとすれば、おそらくこの映画が首位に輝くか。

ただ、1作目はともかく、このシリーズになぜか乗れない自分なのだった。

(9)『気狂いピエロ』(65)

縛るとはちょっとちがうが、主人公(ジャン=ポール・ベルモンド)はダイナマイトを顔に巻きつけて爆死するのだった。


見つかった

何が? 

永遠―。

(アルチュール・ランボー、『永遠』より)


(10)『氷の微笑』(92)

「コリーダ」と展開は似ているが、吉蔵と定のように「両者の性癖が一致した」とはいえないケース。
そのために、縛られた男は殺されてしまうのだ。


※『自縄自縛の私』…デリコによる主題歌もよかった




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美女はCMで発見することが多い

2013-10-20 04:36:54 | コラム
ABCマートのCMでコンバースを履く美女が気になって検索したら、吉田栄作夫人の平子理沙だったことに驚いた。

あれ、こんなにキレイなひとだったかな、、と。





いまは時間が取れないのでそんなことはしていないが、昔、CM美女ばかりを集めた映像をつなげただけの自家製DVDなんかを作っていた。
酒呑みながらニヤニヤしてそれを眺め続ける、、、と。

キモチワリーナ、お前。

でもね、15秒の映像を2時間つなげるという作業のたいへんさくらいは理解してほしい。
モノスゴ時間を要したのだから!


とりあえず、美女は置いておいて・・・。
CMや映画予告編を制作する友人が居るし、また、自分も学校の実習でそういうものを作っていたことがあるから、映画ほどではないけれど先鋭的なCMはなるべくチェックするようにしている。


10年くらい前か、中山美穂がビールのCMで見せた指の動きが「巧い」と評判になって、そのシリーズではしばらく指の動きが強調されるものが続いた。

まだ、このあたりまでは自然だったのだが、




なんか段々とわざとらしくなってきて、
ついには飽きられ、なんとなく批判までされるようになり、いつの間にか「ふつうの演出」に戻っていた。

まだまだ観たいな―と思われているうちにやめてしまう、、、というのが、ひょっとしたらベストのタイミングなのかもしれないよね、なんて思う。

で、コロッセオのなかで動物と戦うカップヌードルのCM。
その前は英語が不得意な日本のサラリーマンが外国人の上司に戦いを挑む戦記モノみたいな創りだったが、
挑戦はしているとは思うけれど、
あれとか好評なのだろうか? と、ちょっと疑問に思う。

「hungry?」で世界的な評価を受けた日清の「もういちど、、、」みたいな野心は分かるが、なんかちがうんだよな、面白くないし・・・と、呑み会で意見してみたら、

「まっき~、それだけふつうのCMに対する評価厳しいのに、美女が出てるだけで評価が高くなるっていうね、そういう矛盾はどうなのさ」

と、突っ込まれた。

おぉ痛いとこ突くねぇ、、、みたいな。

「矛盾は認めるよ。認めたうえで、矛盾は矛盾のままにしておこうかと思う」
「開き直り?」
「まぁそうかなー。でも菜々緒が出ていても消費者金融の“いま現在の”CMは好きじゃないし、石原さとみが出ていてもLINEゲームのCMは好きじゃなかった」
「あぁ、自分なりの許せる/許せない基準はあるわけだね」
「明確じゃないけど、一応はね」


正直な話、映画の予告編で「あ、これ観たい!」と思ったことは何遍もあるが、
テレビCMを観て「あ、これ欲しい!」と思ったことは「ほとんど」ない。

ここ10年で捉えてみたら、いちどもないことに気づく。

スーパードライもユニクロもスマホもNIKEもCMを観て欲しいと思ったわけではなく、店頭で手に取って初めて「いいな」と思ったのである。
映像に仕掛けられたサブリミナルによって・・・とかいわれたら、そりゃあそうかもしれないし、まったく効果がないとは思わないけれど。

でも、それよか、自分のCMの観かたはあくまでも「あ、この子が出てる!」とか「この子、誰だ?」みたいな美女カタログの要素が強く、そういう意味で大事な大事なメディアのひとつなのだった。

「ながら見」していたとしても、その子が画面に登場するあいだだけテレビを「ガン見」してしまう。
そのことによって自然と、CMの商品まで覚えてしまう。

順序が逆のような気もするが、制作者にとっても結果オーライなのではないか。

そういうわけ? だから、これからも日課としてのCM美女チェックは怠ることが出来ない。

あれもこれもと、じつにたいへんな世の中である。

勝手にやってろ、馬鹿?

うん、勝手にやることにする。

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初体験 リッジモント・ハイ(56)

2013-10-19 02:46:07 | コラム
世界の映画祭を、トラブルの視点で捉えてみよう。


<東京>

2010年の第23回東京国際映画祭において、パンフレットに「台湾」と表記されていることに中国の江平監督が抗議、
「中国台湾」あるいは「中華台北」と改めなければボイコットすると宣言する。

背景に尖閣諸島の問題があるとされているが、いろんな意味で不愉快だなぁと感じたものだった。

<カンヌ>

世界の映画祭のなかで最大の事件といわれているのが、第21回カンヌ国際映画祭の「中止」。

68年5月19日―トリュフォーやゴダール、クロード・ルルーシュ、ロマン・ポランスキーなどの著名監督が会場に乗り込み、映画の上映と審査の中止を要求、実際にそのとおりになる・・・というか、これだけの実力者が結束したら映画祭を続行することは不可能だったにちがいない。
ほとんどクーデターのような状態だが、この直後に起こるのが五月革命で、つまり映画人たちは、映画人であるにも関わらず、、、いや、映画人だからこそ、わが国は映画「祭」なんかやっている場合じゃない―と思っていたのだろう。

もし、もし、だよ。
もし7年経っても福島原発がおとなしくなっていなかったとしたら、似たようなことだってあり得るんじゃないか・・・などと想像してしまった。

<米オスカー>

「祭」の名は冠されていないが、映画の祭典であることに変わりはないので、世界で最も有名な映画賞のトラブルについて、ひとつ。

マーロン・ブランドのオスカー受賞拒否「事件」。

『ゴッドファーザー』(72)のヴィトー・コルレオーネ役が絶賛され授賞式では彼の名が呼ばれるが、
壇上に上がったのはネイティブ・アメリカンの格好をした女性だった。
サシーン・リトルフェザーと名乗るその女性はブランドの代理だといい、
「彼は名誉あるこの賞を辞退します。その理由は、ハリウッドが先住民族を迫害した過去があるからです」
とスピーチ、会場はブーイングで包まれた―というもの。

じつはこれには、悲惨な後日談がある。
サシーン・リトルフェザーは偽名、しかも彼女はネイティブ・アメリカンとは無関係で、単なるブランドの知人だった。
素性をあきらかにされた彼女はメディアからの総攻撃を受けて雲隠れ・・・するも、一連のこの行為が原因かどうかは分からないが、数週間後に殺害されてしまうのだった。


日本の例もフランスの例も米国の例も、映画が「社会とは無関係ではいられない」ということを教えてくれる。
それがビッグバジェットのSFであれ、作家主義濃厚な個人的アートであれ。

もちろん深刻な問題ばかりがついてまわるわけじゃない、
基本的に映画祭は「祭り」なんだから、楽しいことのほうが多い。


自分の映画祭初体験は、92年の秋。
渋谷で開催された「東京国際ファンタスティック映画祭」(以下、東京ファンタ)であった。

東京ファンタは「東京国際映画祭」の協賛を受けて生まれたサブイベントであり、
乱暴にいえば、本家には「通常の」バランス感覚を持った映画ファンや批評家が集い、いわゆるオタクが東京ファンタに殺到した。

自分の目当ては、傑作『ブレードランナー』(82…トップ画像)のディレクターズ・カット版の上映。

その年、最大の目玉であり、ほとんどの映画小僧がこれ目当てで渋谷駅を降りたにちがいない。


感想?

もちろん素晴らしい出来だったが、映画祭の雰囲気、観客の熱気に圧倒され、はっきりいってしまえば、しっかり作品と対峙することが出来なかった。

だが、こういう映画体験も「あり」だなと思った。
来年も、きっと来よう―そう思った。


劇場が空いている状態で、のんびり観る―そういう風に映画を楽しみたいひとも多いだろう。
どう楽しむかはもちろん自由だけれど、映画祭は通常の満席状態でも味わえない独特の熱気があって、
映画が好きというのであれば、いちどは体感してほしいイベントなのだ。

どう?
映画祭は、始まったばかりだよ。

この週末、六本木に来てみない?

YOU、来ちゃいなよ!!


※これは一級の映像資料だと思う、東京ファンタの予告編を集めた動画。




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初体験 リッジモント・ハイ(55)

2013-10-18 00:30:00 | コラム
きのう開催された東京国際映画祭の現地取材に行ってきた。

きらきらなスターが、いっぱい。
あっち向いてもスター、こっち向いてもスター、生ゴミを自称する自分が際立つほどに、みんながみんな煌びやかで、これは目の保養だぜと。

せっかくコッポラ父子にも会えたのに、ほとんどなにも喋ることが出来ないでやんの。
みんな『ゴッドファーザー』(72)や『地獄の黙示録』(79)にしか言及しないので、つたない英語で「自分は『タッカー』も好きだ」とだけは伝えたけれど。

・・・・・情けないなぁ自分、ほんとうは『黙示録』のキルゴア大佐(ロバート・デュバル)のモノマネでもやってやろうと思っていたのに。

まぁ実際にやってすべったら顰蹙ものだし、これでよかったのかもしれないが。


『怒り新党』でマツコがいっていた、東京五輪のなにが不安かって、日本のセレモニーの出来の悪さであると。
開会式で、恥だけはかかないでおくれ―ということ。

あぁ、なんか分かる。
チャン・イーモウ(北京五輪の演出)やダニー・ボイル(倫敦五輪の演出)の演出に引けを取らないひとが居るのかっていう話で、
自分なんかは中島哲也あたりがいいと思うのだけれど、どうなのだろうね、確かにちょっと不安ではある。


で、昨日の開会セレモニーはどうだったのかというと。

スターたちがグリーンカーペットの上を歩く開会直前の様子は、とってもいい感じ。
冒頭で記したように、どっち向いてもきらきらしていて眩しいくらいだった。

開会そのものは・・・
米オスカーのような派手さはなく、ではカンヌのように威厳があるかというと、そんなこともない。
正直、やっぱり弱いなぁと感じた。

コンペ出品作が力作揃いであれば、そういった痛いところもあまり突かれない気がするけれど、
それでもやっぱり映画「鑑賞会」ではなく映画「祭」だからね、祭りとして、なにか突き抜けたところがほしいな、、、というのが、映画小僧の本音であったりする。

いまはもう懐かしい『PRIDE』の大晦日イベント『男祭り』のように、分かり易いワクワク感がほしい。
ヒルズ族を排除せよ、きょうから1週間は映画小僧こそ六本木の主役である! みたいな攻撃的な演出があってもいいはずだし。

出来立てホヤホヤであれば、そんな文句もいわないけれど、東京国際映画祭はすでに26歳だからね。
もう青年じゃないかと。


そんなわけで、今回の初体験は「初めての映画祭」でいってみよう。

群馬の高崎映画祭は野心的な企画が多くて有名だが、それも自分が上京してからの話。
だから18歳になるまで、映画祭を体感したことがなかった。
あれはセレブの祭りなのだ、一般市民が気軽に参加出来るものではないのだ―なんて思っていて、非公開の会場では乱痴気な宴が展開されている、、、みたいな、完全に誤った幻想を抱いていた。


その前に。
祭りは好きなのか・・・というと、まあまあと答える。

少年期に体感していたのは、町の夏祭りとか七夕祭りとか、あと、かーちゃんの地元の「ねぶた」とか。
肥満児だったから屋台でなにかを食べるということくらいしか目的はなく、クラスメイトの女子と逢瀬を楽しむなんていう展開は待っていなかった。

上京してからも積極的に祭りに参加することはなかったが、しかし映画祭はべつで。


映画祭のいいところは、なにか。

(1)新作を公開前に低料金で鑑賞出来る

(2)滅多にスクリーン上映されない作品が特集で一気に鑑賞出来る

(3)しかも舞台挨拶つき


映画ファンに聞くと、だいたいこの三点が挙がる。

まさに、そのとおり。
自分もそれが楽しくて、約20年間、東京近郊で開催されるあらゆる映画祭に足を運んでいるのだった。


つづく。


※きのうの模様を、少しだけ




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自己紹介の経験値

2013-10-17 00:30:00 | コラム
皆さんそうだろうが、仕事柄、とくに自己紹介する機会が多い。
ほぼ毎日、、、といっていい。

フリーライターと入れた名刺も持っているけれど、あまり使わない。
とりあえず顔と声、それから握手した際の手の感覚を覚えてくださいね、、、みたいな感じであいさつをする。

自己紹介が得意かというと、それはない。

苦手?
ということも、ない。

ナニゴトも経験というが、とりあえず数をこなしているというだけで、上手くなっているという実感なんか「ぜんぜん」ないけれど。

ただ、あぁ、こういうことを発すると完全にすべるのだな、とか、こういうジョークは笑ってくれるのだな、とか、空気の作りかたはなんとなく分かるようになってくる。
くるが、だからといって慣れることはない。

やっぱり緊張する―という意味で、葬儀のマナーと似ているかもしれない。
(先日のテレビ朝日バラエティ『格付けSP』で、「この度はご愁傷様です」の後半は「はっきり」発せず「消え入るかのように」が正しいということを解説していて、あらためて難しいなと思った)


自己紹介のあとは、その流れで互いのキャラクター性についての「探りあい的会話」が展開されることが多いと思うが、
自分、この会話のなかで、よく「っぽい」と評される。

○○っぽい。

「スポーツはなにか?」
「格闘技を、少々」
「あぁ! っぽい!」
「(笑う)そうですか」
「胸の厚みとか、なんとなく」
「よくいわれます」

「好きな映画は?」
「なんでも観ますけど、『タクシードライバー』とか、とくに70年代の映画が好きです」
「あぁ! それっぽい!!」
「(笑う)顔に出てますかね」
「昔、モヒカンとかしてたんじゃないですか?」
「なんで分かるんですかね」
「やっぱり」

「好きな異性のタイプは?」
「とことん色白で」
「とことん(笑う)」
「それから、可憐とか、けなげとか似合う感じの子が好きです」
「あぁ! いかにも好きっぽい」
「(笑う)でしょう?」

まぁ、だいたいこんな感じ。


何度も書いてきたことだが、自分ではヘラヘラした地顔と思っているものの、相手はニコニコと解釈してくれるらしく、第一印象の段階では悪くない。
つまり長期取材では(のちのち)ボロが出て本性は単なるキチガイだと気づかれるが、その日かぎりのインタビューだと「いいひと」のままで終わることのほうが多い。
自分の場合は長期が滅多にないので、そういう意味では「ありがたい見た目」なのかもしれない。

見抜くひとは、見抜くけれどね。
「きみ、ほんとうは笑ってないでしょ」なんて突っ込まれたことあったし。

「分かります?」
と答えたいところだが、実際にそう答える勇気はない。
仕事での会話だからね、これが酒の席だったら、そういっちゃうかもしれないけれど。


映画のなかの自己紹介といえば、ニュージーランド産の『乙女の祈り』(94…トップ画像)における、ケイト・ウィンスレットを想起する。
映画の内容も強烈だったが、映像も、彼女が演じるキャラクターもインパクト大だったなぁ。

それから『アメリカン・サイコ』(2000)における、クリスチャン・ベールの名刺のこだわり。
どんな紙に印刷されているかでひとの価値が決まる・・・なんて、嫌な世界だねぇ。


「ボンド、ジェームズ・ボンド」と発するだけのボンドのように、クールにスマートにいきたいところだけれど、
まぁこんなヤツだから、コッテコテの自己紹介が性にあっているのだと思う。

これからも精進を続けます。


※自己紹介といえば、やっぱりこの歌でしょう。
おニャン子による『会員番号の歌』。AKBもやればいいのに。




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