ヒトひとりの内面をきっちり描くには90分近くを要する―だから映画は90分くらいがちょうどいい、なんてなことをシナリオ教室で教えるセンセーも居るけれど、
『グランド・ホテル』(32)によって「ひとが、わんさか。」でも「それぞれの人間の内面」を描けることは証明されており、
自分は単一を描く映画も好きだが、複数を描く映画は「もっと」好きだ。
複数を描くドラマを「群像劇」という。
頭のなかを広げることが出来れば・・・
同一の時間帯である必要はなく、
同一の場所で物語を進行させる必要もない。
別の地域の、別の時代の、まったく異なる人種でさえ、表現によってはメビウスの輪のような効果をもたらすことも可能。
それが創り手に刺激を与えるのだろう、群像劇が創られない年はないと断言出来るほど、野心的な表現者によって新作が発表され続けている。
自分?
うん、もちろん挑戦した。
それぞれのキャラクターの描き分けに苦労したが、書き上げたとき、なんか自分がモノスゴ頭良くなったように感じたものだ。
それじゃあ単なる自己満足じゃないか?
まぁそうだが、そういうなかから傑作が生まれることもあるから、勘弁してくれや。
(1)『ショート・カッツ』(94)
ロバート・アルトマン、晩年の傑作。
10組のカップルが交錯する物語。
「昨日はなかった、短い切り傷」―このキャッチコピーが、抜群にいい。
(2)『マグノリア』(99)
そんなアルトマンの後継者とされていたのが、ポール・トーマス・アンダーソン。
『ショート・カッツ』のクライマックスは地震だが、この映画では、なんとカエルの雨が降る。
この映画のキャッチコピーは、「20世紀の最後を生き抜く、愛と希望のものがたり」。
(3)『どん底』(57)
ゴーリキーの同名戯曲を日本の江戸時代に置き換えた黒澤の傑作。
傑作の割には黒澤を語る際に「外されがち」な作品であり、群像劇を論じる際も、やはり無視されがちなのだ。
なぜ!?
(4)『トラフィック』(2000)
麻薬の売買、その取引を追い、それがどう末端(高校生)の手にまで渡るのかを絶妙な編集スタイルで描く。
売るほうも買うほうも、そして取り締まるほうも必死―キャッチコピーは「戦わなければ、のみこまれる」で、まさにそのとおりだと思った。
(5)『クラッシュ』(2004)
自動車の衝突にからめて人間関係の衝突を描く、オスカー作品賞受賞作。
日本でも描けそうな題材だが、多民族国家ゆえの複雑さは出せないかもしれない。
(6)『パルプ・フィクション』(94)
QTタランティーノ初期の代表作。
パルプな連中の薄っぺらい犯罪を重層的に描き、「時代を撃つ」というキャッチコピーどおり、若い世代に衝撃を与えた。
(7)『桐島、部活やめるってよ』(2012)
ヒットした原作小説の構造をさらに複雑にさせ、それでいて分かり易い物語にした吉田大八の演出力はたいしたものだと思う。
個人的にいちばん共感したのは、前田(神木隆之介)の親友・武文(前野朋哉)。
そう思った映画小僧、多いんじゃないかな。
(8)『ラブ・アクチュアリー』(2003)
クリスマスに観たい映画のベストワンに輝いたらしい、群像劇風恋愛映画。
男女あわせて19人、いちばん共感出来たのは「ラブシーンのボディダブルを演じる男女」だった。
(9)『ナッシュビル』(75)
群像劇といえばアルトマン、アルトマンといえば群像劇―そんな認識は、この映画で生まれた。
複数をつなぐのは「音楽」。
しかしアルトマンの批評眼は冴えに冴え、その矛先は政治へと向かう。
(10)『バベル』(2006)
モロッコ、カリフォルニア、メキシコ、そして日本を舞台に様々な人間模様が描かれる。
はっきりいうと本編そのものよりキャッチコピーの「届け、心。」にグッときた。
極論をいえば、すべての映画が「それ」を描いているわけだから。
※あらためて追悼、フィリップ・シーモア・ホフマン―『マグノリア』より
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『黄金週間特別企画(3)ひとりぼっちの、よる』
『グランド・ホテル』(32)によって「ひとが、わんさか。」でも「それぞれの人間の内面」を描けることは証明されており、
自分は単一を描く映画も好きだが、複数を描く映画は「もっと」好きだ。
複数を描くドラマを「群像劇」という。
頭のなかを広げることが出来れば・・・
同一の時間帯である必要はなく、
同一の場所で物語を進行させる必要もない。
別の地域の、別の時代の、まったく異なる人種でさえ、表現によってはメビウスの輪のような効果をもたらすことも可能。
それが創り手に刺激を与えるのだろう、群像劇が創られない年はないと断言出来るほど、野心的な表現者によって新作が発表され続けている。
自分?
うん、もちろん挑戦した。
それぞれのキャラクターの描き分けに苦労したが、書き上げたとき、なんか自分がモノスゴ頭良くなったように感じたものだ。
それじゃあ単なる自己満足じゃないか?
まぁそうだが、そういうなかから傑作が生まれることもあるから、勘弁してくれや。
(1)『ショート・カッツ』(94)
ロバート・アルトマン、晩年の傑作。
10組のカップルが交錯する物語。
「昨日はなかった、短い切り傷」―このキャッチコピーが、抜群にいい。
(2)『マグノリア』(99)
そんなアルトマンの後継者とされていたのが、ポール・トーマス・アンダーソン。
『ショート・カッツ』のクライマックスは地震だが、この映画では、なんとカエルの雨が降る。
この映画のキャッチコピーは、「20世紀の最後を生き抜く、愛と希望のものがたり」。
(3)『どん底』(57)
ゴーリキーの同名戯曲を日本の江戸時代に置き換えた黒澤の傑作。
傑作の割には黒澤を語る際に「外されがち」な作品であり、群像劇を論じる際も、やはり無視されがちなのだ。
なぜ!?
(4)『トラフィック』(2000)
麻薬の売買、その取引を追い、それがどう末端(高校生)の手にまで渡るのかを絶妙な編集スタイルで描く。
売るほうも買うほうも、そして取り締まるほうも必死―キャッチコピーは「戦わなければ、のみこまれる」で、まさにそのとおりだと思った。
(5)『クラッシュ』(2004)
自動車の衝突にからめて人間関係の衝突を描く、オスカー作品賞受賞作。
日本でも描けそうな題材だが、多民族国家ゆえの複雑さは出せないかもしれない。
(6)『パルプ・フィクション』(94)
QTタランティーノ初期の代表作。
パルプな連中の薄っぺらい犯罪を重層的に描き、「時代を撃つ」というキャッチコピーどおり、若い世代に衝撃を与えた。
(7)『桐島、部活やめるってよ』(2012)
ヒットした原作小説の構造をさらに複雑にさせ、それでいて分かり易い物語にした吉田大八の演出力はたいしたものだと思う。
個人的にいちばん共感したのは、前田(神木隆之介)の親友・武文(前野朋哉)。
そう思った映画小僧、多いんじゃないかな。
(8)『ラブ・アクチュアリー』(2003)
クリスマスに観たい映画のベストワンに輝いたらしい、群像劇風恋愛映画。
男女あわせて19人、いちばん共感出来たのは「ラブシーンのボディダブルを演じる男女」だった。
(9)『ナッシュビル』(75)
群像劇といえばアルトマン、アルトマンといえば群像劇―そんな認識は、この映画で生まれた。
複数をつなぐのは「音楽」。
しかしアルトマンの批評眼は冴えに冴え、その矛先は政治へと向かう。
(10)『バベル』(2006)
モロッコ、カリフォルニア、メキシコ、そして日本を舞台に様々な人間模様が描かれる。
はっきりいうと本編そのものよりキャッチコピーの「届け、心。」にグッときた。
極論をいえば、すべての映画が「それ」を描いているわけだから。
※あらためて追悼、フィリップ・シーモア・ホフマン―『マグノリア』より
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