Cape Fear、in JAPAN

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シネマしりとり「薀蓄篇」(25)

2012-12-15 00:15:00 | コラム
どなるど・さざーらん「ど」→「ど」ん・さばてぃーに(ドン・サバティーニ)

セルフパロディのおかしみ。

たとえば『その男ヴァン・ダム』(2008…文末動画)の、なんともいえぬ爽快感といったらない。

80年代に隆盛期を迎えた「肉体派」アクションスターは、90年代以降パッとしない。
肉体の衰えや新世代の出現によるもの・・・ならば納得も出来よう、しかしCG技術という「ひとではないもの」によって淘汰されていく―という残酷な映画史を前に、自分と折り合いがつけられない。

『その男ヴァン・ダム』は、そんな背景を生きる現在のヴァン・ダムをヴァン・ダム自身が演じることで奇妙なおかしみを生むことに成功している。

同じアクション俳優の元知事、シュワ氏も「その手」の映画は得意である。
未来のロボットキャラという設定はパロディになり易く、また、彼の場合は「I’ll be back」という決め台詞があるため、もうそれを発するだけでセルフパロディ足り得ている。


小物が自身を笑いの対象にしてみたところで効果は期待出来ないが、大物であればあるほど、意外性とインパクトの両方で効果は絶大。
もちろんそれでも、ハズレたときのリスクは計り知れないわけ、、、だが。


感心したのがディズニーの『魔法にかけられて』(2007)で、ディズニーのお決まりパターンを茶化すことで映画そのものがセルフパロディになっていたが、逆にそれがディズニー映画の強さを証明することにもなっていて、巧いなと思った。

ただセルフパロディが最も活かされるのは、ギャングのような悪人キャラクターのケースなのではないか。

たとえば北野武も、愛娘のデビュー曲PVでヤクザに扮し、セルフパロディをやってのけている。


さて。
ノイローゼになったギャング・・・という設定だけで面白い『アナライズ・ミー』(99)は、そのギャングをデ・ニーロが演じたことによって、良質なセルフパロディ映画になっている。

デ・ニーロの場合は数多くのギャングキャラクターを演じてきたので、どの映画のどのキャラクターをパロディにしている、、、というよりも、デ・ニーロのキャリア自体をネタにしているのが強み。

とくにメリルリンチのCMを観ただけで泣いてしまうデ・ニーロが、なんとも可愛かった。

その9年前に、あのマーロン・ブランドもセルフパロディに挑戦している。

都会で置き引きにあった田舎の青年(マシュー・ブロデリック)が、ギャングの大ボスに拾われてワニの世話係(!)として黒い世界の裏側を覗くことに―。

『ドン・サバティーニ』(90)のメインはあくまでも青年の成長物語だが、それを楽しんだひとは(ブロデリックの好演にも関わらず)ほとんど居なかった。

あのブランドが、ドン・コルレオーネをパロディにしている―それを楽しみたくて、映画ファンはこの映画に臨むのである。


セルフパロディは、セルフリメイクとはちがう。
でもじつは、大きな差異はないんじゃないか・・・とも思ったり。

セルフリメイクはオリジナル発表時、「なんらかの事情によって表現出来なかったこと」などがあり、その制約がなくなったいま、改めて同じ素材でモノを創ろうとする行為を指す。

そこに批評精神というものを加えれば、セルフパロディが出来上がる―などと考えたのだが、当てはまるものがあるいっぽうで、そうでないものもあったりして、

あれれ、どうにも考えがまとまらない。


とりあえず、それをやってのけた俳優には惜しみない拍手を。






あすのしりとりは・・・
どん・さばてぃー「に」→「に」じのかなたに。

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明日のコラムは・・・

『シネマしりとり「薀蓄篇」(26)』

コメント (1)
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