今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1034 鯖江(福井県)駅員さんもメガネを掛けてお出迎え

2022-05-31 09:04:38 | 富山・石川・福井
JR北陸線は、金沢から米原方面が「下り」になるのだそうだが、その下り列車が鯖江に近づくと、左側の車窓に丘陵の緑を背景にした「SABAE」の大看板が現れる。そして文字と並んで、白地に赤のメガネのマークが浮かぶ。それだけでメガネの街に到着したことを知る。鯖江にはメガネマークが氾濫している。現代生活では必需品とも言えるメガネの95%が、この街と福井市にかけてのエリアで製造されているというのだから、当然のことだろう。



福井市最南部の、鯖江市に接するあたり、メガネ看板の丘陵が続く文殊山の麓には「福井県眼鏡元祖之園」という一角がある。明治38年(1905年)、この地から福井の眼鏡作りが始まったことを顕彰する園地だ。村会議員を務める農家だった増永五左衛門と弟の幸八が、雪深く貧しい地域の農家に農閑期でも収入に結びつく産業を興そうと、大阪から職人を招き、近在の若者たちと眼鏡作りに挑戦したのだ。五左衛門34歳、幸八24歳であった。



日露戦争が勃発したころで、戦況状況を求める人々で新聞や雑誌の発行部数が飛躍的に伸びた時代だった。必然的に老眼鏡の需要が高まり、そこに着目した五左衛門には鋭い経済感覚があったということだろう。特に五左衛門が導入した「帳場制度」は画期的で、厳しい徒弟制度で技術を磨かせるとともに、数人の親方を養成、完成品は全て大将の五左衛門が引き受け、親方たちは販売に力を削ぐことなく最新技術の研鑽に専念することができた。



以上は鯖江を訪れて、メガネミュージアムなどで仕入れた俄か知識だが、成功の裏には知恵と努力がある、という結論になる。鯖江が、イタリア・中国と並ぶ世界3大メガネ枠産地になったのは、1981年、フレームの素材として最適の「チタン」を、世界に先駆けて加工することに成功したからだ。鯖江には450を超す眼鏡関連事業者が集約し、「街全体が眼鏡の工場」といった様相にあるそうだ。五左衛門の「帳場制度」が生きているのだろうか。



確かにメガネ関連の店や会社が多いようではあるけれど、「街を歩けば眼鏡屋さんに当たる」というほどではない。「歴史の道」と名付けられたメインストリートを行くと、誠照寺という浄土真宗の寺が現れた。北陸の街を歩いていると、親鸞ゆかりの豪壮な寺院に出くわして、その大屋根の巨大さに驚かされるのだが、「真宗誠照寺派」の本山だというここもそうした寺だ。鯖江の街が門前町として発展していったという説明が、納得できる壮大さだ。



街で最も興味深かったのは、メガネではなく古墳だ。駅に近い市街地にポツンと蹲る「王山」に、弥生時代から古墳時代にかけての墳墓・古墳が49基確認されている。古代の墓制の標本丘と言った具合で、国の史跡に指定されている。さらに興味を惹かれたのは、その麓に広がる墓地だ。「この王山墓地は旧東鯖江村の共有地です」「無断で墓を建てることを禁じます」とある。勝手に墓を建てる人がいるのだろうか。2000年を隔て鯖江人が眠っている。



「洋食器の燕三条」「鞄の豊岡」など、枕言葉になる事業が集積する街は他にもある。ただ「メガネの鯖江」ほどその濃さが際立っている街は少ない。世界恐慌や、海外から安価の製品の襲来といった荒波を乗り越え、鯖江のメガネ産業は堅調のようで、市の人口は増えて7万人に近づきつつある。越後に配流される途上、親鸞は王山の麓で説法した。「車の道場」である。800年後にそこがメガネの街になっていると知ったら驚くだろう。(2022.5.18-19)























































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