今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

702 佐渡③(新潟県)穴穿つ金の筋へと穴穿つ

2016-06-15 16:08:48 | 新潟・長野
佐渡は「日本の海岸地形が全てそろっている島」だというが、ただの島ではない。黄金の島であったことはご存知の通り。300万年前、日本海の海底隆起が始まり、一部は2000mも盛り上がって佐渡ヶ島を造った。そのとき隆起した岩盤に、3000万年前の火山活動が形成した金銀鉱床が含まれていたのは奇跡であろう。この生まれながらの「金の島」が、388年間の採掘で提供した金の量は、砂金などを別にしても78トンにのぼる。



11世紀の今昔物語に「佐渡ノ国二金ノ花」と書かれているそうだから、川などで砂金が見つかる島であることが古くから知られていたのだろう。しかし相川に金銀鉱脈が発見され、本格的な鉱山経営が開始されるのは1601年、徳川幕府によってである。佐渡金山は1989年、資源枯渇により
操業を終えたが、この間に産出された78トンは、もちろん日本最大・世界有数である。その坑道跡は一部が整備され、見物することができる。



江戸時代の坑道である「宗太夫坑」に入ってみる。坑道内は年間を通じて10度ほどだということで、地中から涼風が吹き上げて来る。見学通路は歩き易く、ライトアップされた現場がよく観察できる。等身大の坑夫人形が、穴を穿ったり水を組み上げたりの作業をリアルに再現している。岩盤の中に細々と延びる石英の鉱脈を人力で掘り取るというのだが、人形たちの動きは生々しく、しだいに感情が移入して、こちらの身体も痛くなる。



岩盤は見るからに硬く、打ち込む「たがね」などの道具は2日に1本は摩耗したというから過酷な肉体労働だ。そのうえ落盤事故と背中合わせの地中である。職掌によっては島内の相場を大きく上回る労賃が支払われたようだが、労働力は江戸から無宿人らを送り込むしかなかった。江戸時代の260年間に掘られた量が41トンであったのに、機械化が進んだ昭和は64年間で22トンを産出している。それだけ手掘りの辛苦が偲ばれる。



幕府の財政を支える佐渡金山を差配するため、置かれたのが佐渡奉行所である。老中配下の遠国奉行で、初代は佐渡代官と呼ばれた大久保長安。2代目から佐渡奉行を名乗り、町奉行と山奉行の2人制になる。その一人に鎮目惟明がいる。甲斐の武田浪人だった鎮目家は、惟明の代で徳川家に仕え、惟明は44歳で佐渡奉行に抜擢される。9年の在任中に金山経営と島の民政に尽力した。



だが巡視中に相川郊外で急死、墓は子孫によりその故地に建てられた。島民は長く「鎮目祭」を催し、人柄をしのんだ。日本海の季節風が吹き付けるであろう海辺に、「鎮目君之墓」と刻まれた自然石が建つ。地元では「あそこだけは波に洗われることはない」と言い伝えられているという。墓は現在、新潟県の史跡に指定されているが、標識にはなぜか「維明」と記されている。



歴代の佐渡奉行は、鎮目のように島民に慕われた人物だけではない。奉行所の腐敗が島を挙げての一揆を招いたことがある。天保9年(1838年)の佐渡騒動である。島民の多くが処罰されたが、幕府は奉行や島役人の更迭や処分も行わなければならなかったほど、役人たちの堕落はひどかったと伝えられる。その始末と所政建て直しのため任命されたのが川路聖謨(としあきら)である。



能吏であった彼は、筆まめでもあった。『島根のすさみ』と題する佐渡奉行日記を遺している。今回の旅を前に、それを読んで佐渡に向かった。(2016.5.28-31)











ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« 701 佐渡②(新潟県)この島... | トップ | 703 佐渡④(新潟県)特産を... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

新潟・長野」カテゴリの最新記事