今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

566 北茨城(茨城県)五浦には星が瞬くカンブリア

2014-04-10 14:36:44 | 茨城・千葉
この日は五浦で宿泊することにしていたので、日立の街を後にした私たちは、常磐自動車道で北茨城市を目指した。海岸からやや山寄りを北上しているのだろう、小さなトンネルをいくつも通過する。このあたりは阿武隈山系南端の多賀山地と呼ばれる低山地帯で、特段に眼を惹く風景ではない。しかし「日本列島はここから始まった」と知れば興味は一変する。5億年前のカンブリア紀。ここに生まれた岩盤を核に、列島は形成されたらしい。



地質学は全くの門外漢なので、カンブリア紀とかゴンドワナ超大陸などといわれてもさっぱり分からないのだけれど、専門家は地質や地層調査から、その岩盤がいつごろ生成され、現在までの地殻変動の中でどう位置づけられるか分類できるらしい。近年、茨城大学の研究室が多賀山地で露頭した古い地層を発見、「日本最古帯」の栄誉を数千万年遡らせ、岐阜県から日立市内に移動させた。意義はよく分からないけれど興味深い話ではないか。



東京を追われた岡倉天心が、隠遁の地を五浦に定めたのは、松の緑に覆われた断崖が太平洋に対峙し、複雑な入り江を造って蒼い波を受け止めている自然美に惹かれたのであって、日本列島の基盤となる地層が続く土地だと知ってのことではなかった。しかし茨城県北部から福島県磐城地方にかけて現れる大地の痕跡は、地質学に疎くても見飽きることはない。太平洋の対岸、カリフォルニアのモントレー半島の佇まいとよく似ている。



私は2008年の冬にこのあたりを歩き、天心の六角堂を見物した。その六角堂は2011年の東日本大震災で津波に流されたが、同じ位置に復元されている。土地の人が「岩がずいぶん消えた」と話していたので、帰って古い写真と比べてみると、確かに六角堂が立つ岩の前にあった岩礁(写真・上)は崩れて海中に没したようである。カンブリア紀以降、このあたりは幾度も隆起や陥没を繰り返し、今も変化を続けているのだろう。



6年前、対岸から見下ろした六角堂を写真に収めたくて、私は「小五浦」と呼ばれる入り江を回り込んで対岸の崖地を登った。今回その地を望むと、記憶にない塔が建っている。今年の震災の日に竣工した展望慰霊塔だという。北茨城市でも4人が死亡、1人が行方不明のままなのだ。塔はデザイン的にもう少し工夫はできなかったかと思える素っ気ない外観だが、最上階からは遠く小名浜・塩屋崎へと延びる台地が、晴れ晴れと望まれた。



その晴れ晴れと広がる海が、突然襲いかかって来た。6年前に歩いた大津漁港は、鄙びた家並と新しい漁業歴史資料館のコントラストが興味深い街だったが、それらは変わっていないように見えて、街はどこかちぐはぐな様子である。港に面した通りが、建物の土台だけ残して広場状態になっているのだ。津波にやられたのだろう。「どんなでしたか」と問うと、土地の人は「どんなもなにも、怖くて怖くて逃げたから見ていません」と答えた。



それはそうだ、あの揺れのあとで冷静に観察できるはずがない。六角堂の上の台地に建つ天心邸でさえ、崖を越えて来た津波が庭を埋めた。その地点で波の高さは10.7メートルに達したと推計されている。「亜細亜ハ一なり」の碑も海水に浸かった。夜、五浦の空には星が大きく瞬いた。天心も、大観・春草・観山・武山も眺めた星だろう。何かインスピレーションが湧いてもよさそうだったが、津波被害の現実の方が重かった。(2014.3.25-26)










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