prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「王様ゲーム」

2011年12月24日 | 映画
ある学校の一クラスの生徒全員に正体不明の「王様」から携帯に指令が来て、従わないと「抹殺」される。携帯を着信拒否するなどして途中で降りたら、やはり「抹殺」される。「抹殺」というのは、肉体的に殺すのではなく、クラスの生徒たち以外の人間にとって(家族にとっても)、最初から存在していなかったことになる、というものだ。

ものすごく不自然な話なのは明白だろう。
生徒たちには出席番号がふられているのだが、消滅したのに欠番になったのかどうか番号が変わったようすはない。
抹殺されるとクラスから机なども消えるので、おしまいの方ではがらんとした教室の中、ぽつりぽつりと席があるだけになる。それで教師はじめ誰もなんとも言わない。
だいたい、「王様」ってどこから指令を出し、従ったかどうかどうやって知り、そして抹殺するのか。神でもない限りそんなことは不可能だが、このあたりの設定はあいまいきわまる。なんで?と首をかしげっぱなし。
ゲームの規則の不自然さには作り手自身自覚的と思えるが、だからといって作者がこじつけたゲームが機能するわけではない。このゲームが昔から繰り返されていたという展開には、そんなわけねーだろ、と突っ込むほかない。

これがブニュエルの「皆殺しの天使」(ある屋敷に集まった人間たちが何の物理的障害もないのに、なぜか外に出られなくなる)みたいに、閉鎖系の出来事に描写を集中させて理由づけをすべて拒否するというのだったらともかく、外の世界と論理についての態度があいまいなままだから、展開に隙間風が吹く、どころか台風の中バラックで建物を作ろうとするようなもの。どの展開もひとつとして信じられない。
ゲームとか携帯が発達し情報が氾濫して現実に対する感覚が薄れてきた表れとかなんとか解釈できるのか知らないが、頭でいくら解釈したって面白くも怖くもならない。

「バトル・ロワイヤル」や「マトリックス」の頃からか、作り手が恣意的にこじつけた信じようのない穴だらけの規則を押し付けてくる物語に対する抵抗感が薄れてきているように思う。作者の責任だけに帰せられない、そういうリアリティやルールに対する無神経の方が「作品」の内容よりよほど怖い。
(☆☆)

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