気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

空(くう)の話 その6 宇宙は内にあり

2018-01-27 12:43:18 | 真我実現シリーズ
宇宙は英語でスペース等という、つまり空間のことだ。
空(くう)の間、つまり空間は距離で測れるとしているだろう。
mm、cm、m、km、あるいは光年などと言っているそれだ。

何か距離という実態があるようにしているが、
しかしながら、それは実体がない事に気づけるだろう。

空間、空間と言っているが・・
それは”空(くう)に違いなく”、距離も重さもありはしない。

えー、距離があるじゃん、A地点からB地点までとか、
さらに遠大な星との距離は何光年とか・・、距離があるじゃないか・・!



しかしながら、あなたの目の前の空間、あるいは星と星との間も・・・空(くう)である。
確かに、
物体と物体の間(あいだ)の距離は、その間に物差しを当てれば相対的な比較ができる。
しかし、よくよく観てみると

・・空間・・間の空(くう)自体は・・空(くう)なのだ!

空(くう)自体、距離も重さも何もない。

空(くう)に”エネルギー波動”が湧き出して、
それが濃密な集合になったものを「物質」というならば、
その物質と別の物質の関係性において、
様々なそれらの相対的な違いを”距離”として観察しているのだ。
そしてそれらの、あくまでも相対的な”変化”のことを「時間」と言っている。



つまり、物質やその姿形、あるいは相互の 『変化』 が時間なのである。

物質と物質の・・相対的関係性・・が”距離や大きさ”ということだ。
これは、観測されるあらゆる事象が相対的でしかないという、
相対性理論では自明な概念である。

肝心なところは何かといえば、
何度言っても言い過ぎではないが、

空(くう)自体には・・・距離も重さ(空間)も、変化(時間)もないのだ。
さて、それでは”無”なのか?といえば、そんなことはない(笑)

空(くう)は空(から)で何もない?
空無、虚無といって恐れるのは、肉体自我である。
もちろん肉体、事物、世界は・・あらわれては消える、
つまり壮大なる創造の中にあるから、
物体・肉体が・・自分だと「思っていれば」確かに超怖い(笑)。


しかしながら、・・・
空(くう)によってこそ、あらゆるものが存在を現すことができるのである。

わたしは・・存在している・・し、
家も、町も、世間も社会も、地球も、そして宇宙も存在している。

そうではないか?

というか、そう観察、観測、認識しているということだが・・、
明らかに・・存在している、在る・・のだ。

そして、その私たちの身体、事物、世界の物質形のすべてが、
空間密度・・10-15乗オーダーのほとんど”空っぽ”なのである。
つまり、我々含め、存在するすべては・・「空」(くう)そのものなのだ。

だから、我々が、私は男だ、女だ、大人だ子供だ、趣味がどうだとか、
好きだ嫌いだ、怖いの楽しいの、・・と言っているわけだし、
性格が、セックスが、お金が・・など騒いでいるし、
体感や既存の経験則は相当に重い実在と勘違いしているが、

そんな我々も含め、世界とは、
空間占有率・・きわめて微小・・あるのかないのか(笑)
そんな”エネルギー振動”波動”・・であるということである。

これを別表現すれば、世界・宇宙は幻想世界と言っているわけだ。
幻想といっても、うすぼんやり・・な意味ではなく、
超リアルな・・バーチャルリアリティな時空物語世界である。



しかしながら、それは無限の可能性をそれ自体に有する、
実にスカスカの時空であるということだ。

ずいぶん馴染んだ3次元的世界感とは、、
あまりにも卑近な物質偏重主体の、
超、超・・狭い事実認識・・観念だということだ。
宇宙スピリチュアルでいえば、3次元世界、
あるいは第3密度の波動の荒い世界。

そのわたしとは何かといえば・・空(くう)である・・というのが、
もっとも正しい自己認識であろう。

なので、我々の身体は、道をすいすい歩き、走り、動き回ることができるのだ。
瞬間ごとに・・、クオーク、エネルギー振動・波動が出現消滅しながら・・
動く身体をエネルギー体として、持続させている・・・。

なので、こう言うことが出来るのである。

我々である・・空(くう)自体には、
距離も重さもない・・つまり3次元どころの話ではなく、
無次元、多次元など超えている・・・と。

常識とされている観念、我々は肉体・物質である・・

そういう認識のほうが、実に”誇大妄想”なのだ。
だから今までの世界は、太閤秀吉のいう”夢のまた夢”といえよう。


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真我は既に、実現されているからこそ我々も宇宙も・・在る・・。
時間はかかるかもしれないが、
ただ迷妄観念、歪み切った想念を払うこと、
天の岩戸開きの時期、その重い想いのカーテンを開けることだ。



聖者・覚者たちは、昔からこの”単純な真実”を話していた。


悟りの中にいない人はいない(ラマナ・マハルシ)



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