泉野アーカイブズ・図書館問題研究所 in 石川県

石川県に未だ皆無の文書館の開設と図書館サービス改善を目指す、利用者市民・行政関係者すべての人々の交流の場です。

金沢・浅野川尾張町界隈の歴史(その3)

2006-02-14 19:34:18 | Weblog
 この源法院に出入りして、庭掃除など寺男の真似事をさせていただくようになった。源法院は 崖下にあり日当たりは悪い。建坪百坪に満たぬ小寺院である。境内は狭く、前の通りは主計町の裏通りにあたり通常は軽自動車も入らぬほど狭い。境内の枝垂桜と百日紅の木は日差しを求めて高くのびている。落葉はきの量は意外とあるが、面積はさほどではない。
 

金沢市民の歴史:浅野川・東山界隈(その2)

2006-02-10 04:00:46 | Weblog
 というのも、2004年4月から、浅野川大橋そばの 真言宗の小寺院「源法院」にかかわりができたのが 発端だ。詳しい経緯は 後述するとして この源法院の庫裏に、寺守をかねて移り住んだ女性友禅作家の伝手でいわばパート「寺男」よろしく出入りさせてもらうようになった。
 源法院は 寺の由緒によると元和3年(1618)年に僧張清により「再興」された寺であり、浄土真宗が多数派を占める金沢では数少ない真言宗に属する。
 この寺院は、江戸時代金沢と江戸をつないだ飛脚「江戸三度」(月3回往復)の飛脚たちが城下直下の飛脚問屋を出てまず祈願に立ち寄る寺であった。
 加賀前田藩の江戸三度は先年直木賞作家山本一力氏の「かんじき飛脚」として週刊新潮に連載された。
 江戸時代には、川向こうの東の郭との縁も浅からぬものが伺える。(詳細は後述)これは、室生犀星の養家として知られる犀川大橋河畔の、同じく真言宗の「雨宝院」の場合とよく似ており、本尊のほかに、不浄を焼き払う「烏枢沙摩明王」がまつられている点も平仄があっているように思われる。縁切りの願掛けが行われていたらしいのも、東西の郭や岡場所を背負った寺としての共通点であるようだ。
 このお寺を基点に、金沢の近世から近代への町人の息吹を確かめていくことができたら、面白かろうというわけである。すでに書かれて先人の業績におそわりつつ、界隈の地域の息吹の記録を掘り返し再構築しみることができたら、と願いはじめた。地域アーキヴィストたらんとする私の原点にできたらとの思いもある。(つづく)

金沢市民の歴史

2006-02-09 19:54:56 | Weblog
(アーカイブズそのものではないが 関連ネタ?として:まーぼう)  この3月で 東京から故郷金沢に戻って19年になる。金沢の歴史には常々注意を払ってきたが、気が付いてみるとそこそこの関連書籍文献の収集はしてきたようだ。しかし金沢の歴史一般では 焦点が絞れず、関心は深まらなかったというのが正直なところだ。しかし2,3年前から、生地の犀川界隈ではない、浅野川界隈、城下の旧中心地尾張町、橋場町、計(かずえ)町 川向こうの東山旧東新地(郭)の、幕末明治近代初期の地域の息遣いに興味が湧いた。(つづく)