小生が 文芸部員として参加する、地域演劇集団「浅野川倶楽部」の夏の朗読公演の演目として、三島由紀夫「近代能楽集」のうち「葵上」が含まれる。この演目の解説を書いたので、ここに紹介します。 なお、パンフレットに掲載されるときには、さらに刈り込まれる可能性があることを お断りしておきます。
「葵上」紹介と解説 石川雅明(浅野川倶楽部文芸部)
今回の演目「葵上」は、戯曲として1954(昭和29)年に発表、翌年文学座アトリエ公演として作者自身の演出で初演され、翌々年初版の「近代能楽集」に他の数編と共に収録されている。
「葵上」とその主人公六条の御息所といえば、源氏物語第九帖「葵」中、源氏の愛が遠のいていた六条の御息所が葵祭で正妻葵の上との「車争い」で牛車を破却され、生霊となって産後間もない葵の上を憑り殺す(フリガナ:とりころす)くだりが思い出されよう。室町期に謡曲「葵上」が創られ、幽玄物の代表作の一つとなり、能楽鑑賞をとりわけ愛した三島によっていわば二重の「本歌取」ともいえる戯曲化がなされた。三島は「(近代能楽集は、)能楽の自由な空間と時間の処理や、あらわな形而上学的主題などを、そのまま現代に生かすために、シテュエーションのほうを現代化した」ものといっている。(「近代能楽集」あとがき)彼が単純に謡曲の現代的翻訳を試みたものでは断じてないことが注目される。
三島の独自性をこの演目に即してたどってみよう。三島の戯曲「葵上」は、入院して毎夜悶える妻葵を夫光が旅先から見舞いに駆付ける場面から始まる。謡曲では生霊の口寄せをするだけの中立的な照日の巫女も、戯曲では明らかに生霊の側に内通する看護婦として登場している。源氏物語における車争いで破却された牛車は謡曲では破れ車(やれぐるま)となり敗北を象徴するが、戯曲では六条康子が生霊となって葵の入院する病院へ呪いに通う銀色の大型車となり、また光を連れ去る、昔の交情の復活にも見立てられる白い帆のヨットなって、勝利を象徴するかのようである。戯曲では、源氏物語や謡曲の場合と大きく異なって、まず、二人の関係の過去と現在に焦点があたる。そして謡曲では登場すらしない光は、戯曲では六条康子との会話を通じて、彼女に再び惹き寄せられてゆく。生霊が、光をドアの向こう側=アチラの世界へと誘い出して妖しくも気高い冷艶さを発揮してゆく存在であることに焦点は絞られて行く。やがては成仏させられ鎮められるところに焦点を当てた謡曲の場合とは際立って対照的である。戯曲のクライマックスでは二人はヨットで病室から飛翔して去る。後には、むなしく響く電話の向こうの現実の康子の声と葵の死が遺される。
この演目の紹介としては僭越の極みであることをも省みず、あえて私見を申し述べる。この戯曲では、現実への回帰すなわち生霊の鎮魂は否定され、反対に虚構である生霊の方が勝利して現実に転化する。これこそ、作者三島独自の詩的美意識が提示した「あらわな形而上学的主題」といえよう。
その現実と虚構の間に切り裂かれて見える深淵の狭間に横たわる虚無の正体を、三島にいざなわれつつ観客の皆様と共に覗き込んでみようとするのが、この演目に朗読という形式で迫る演者たちの企みではなかろうか。
「葵上」紹介と解説 石川雅明(浅野川倶楽部文芸部)
今回の演目「葵上」は、戯曲として1954(昭和29)年に発表、翌年文学座アトリエ公演として作者自身の演出で初演され、翌々年初版の「近代能楽集」に他の数編と共に収録されている。
「葵上」とその主人公六条の御息所といえば、源氏物語第九帖「葵」中、源氏の愛が遠のいていた六条の御息所が葵祭で正妻葵の上との「車争い」で牛車を破却され、生霊となって産後間もない葵の上を憑り殺す(フリガナ:とりころす)くだりが思い出されよう。室町期に謡曲「葵上」が創られ、幽玄物の代表作の一つとなり、能楽鑑賞をとりわけ愛した三島によっていわば二重の「本歌取」ともいえる戯曲化がなされた。三島は「(近代能楽集は、)能楽の自由な空間と時間の処理や、あらわな形而上学的主題などを、そのまま現代に生かすために、シテュエーションのほうを現代化した」ものといっている。(「近代能楽集」あとがき)彼が単純に謡曲の現代的翻訳を試みたものでは断じてないことが注目される。
三島の独自性をこの演目に即してたどってみよう。三島の戯曲「葵上」は、入院して毎夜悶える妻葵を夫光が旅先から見舞いに駆付ける場面から始まる。謡曲では生霊の口寄せをするだけの中立的な照日の巫女も、戯曲では明らかに生霊の側に内通する看護婦として登場している。源氏物語における車争いで破却された牛車は謡曲では破れ車(やれぐるま)となり敗北を象徴するが、戯曲では六条康子が生霊となって葵の入院する病院へ呪いに通う銀色の大型車となり、また光を連れ去る、昔の交情の復活にも見立てられる白い帆のヨットなって、勝利を象徴するかのようである。戯曲では、源氏物語や謡曲の場合と大きく異なって、まず、二人の関係の過去と現在に焦点があたる。そして謡曲では登場すらしない光は、戯曲では六条康子との会話を通じて、彼女に再び惹き寄せられてゆく。生霊が、光をドアの向こう側=アチラの世界へと誘い出して妖しくも気高い冷艶さを発揮してゆく存在であることに焦点は絞られて行く。やがては成仏させられ鎮められるところに焦点を当てた謡曲の場合とは際立って対照的である。戯曲のクライマックスでは二人はヨットで病室から飛翔して去る。後には、むなしく響く電話の向こうの現実の康子の声と葵の死が遺される。
この演目の紹介としては僭越の極みであることをも省みず、あえて私見を申し述べる。この戯曲では、現実への回帰すなわち生霊の鎮魂は否定され、反対に虚構である生霊の方が勝利して現実に転化する。これこそ、作者三島独自の詩的美意識が提示した「あらわな形而上学的主題」といえよう。
その現実と虚構の間に切り裂かれて見える深淵の狭間に横たわる虚無の正体を、三島にいざなわれつつ観客の皆様と共に覗き込んでみようとするのが、この演目に朗読という形式で迫る演者たちの企みではなかろうか。