マー爺さん 空を飛ぶ~鳥のように自由に空を飛びたい!~ 

人は誰も一度は空を自由に飛んでみたいと思ったのでは・・・、その夢をかなえた1人の男の勇気と活躍のファンタジー小説!

第4章 赤いモーパラ空をいく

2011-08-06 17:30:27 | 日記

 
 1 田舎暮らし

 平成24年、70歳を迎え、一代で築き上げたテナントビ
ルの仕事を子供に譲って隠居することにする。趣味のモーパ
ラを続けながら、ライフワークの“ものかき”にも取り組み
たかった。気持ちとしては都会を離れ「田舎暮らし」もいい
なーとは思っている。さりとて余り離れては孫の顔を見られ
なくなる。そこで色々調べ思案した挙句、同じ神奈川県の足
柄上郡山北町中川に決める。理由は「田舎暮らし」の募集で、
中古賃貸の空家があったこと。小説の第3作「悲しい異星人」
の舞台で、山北町を取り上げ、一度訪問していたこと。
 もちろん、全国道の駅ツアーで道の駅「山北」も訪れてい
た。中川温泉もあり、モーパラで空から丹沢山系の散策をし
たかったこと。しかも20㎞圏内には霊峰富士山や箱根、芦
ノ湖や山中湖などが存在する。“ものかき”に疲れたら気分
転換に、空の散歩は爽快かも。
 ところで小説「悲しい異星人」であるが、物語の後半で山
北町が登場する。その部分はこうである。

 ──天気は快晴で、夜八時、出発。いつもは渋滞する「2
46」も、仕事納めや帰省ラッシュが過ぎているせいか、ス
イスイと走れる。途中、道の駅「山北」でトイレ休憩する。
 全国の道の駅250余りを訪れていたが、ここが一番小さ
い駅のように思う。・・・
 九時半に到着。入口ゲートは閉まっており、案内板を見る
と、駐車場は4時まで。仕方なく、ゲートの前に車を留め、
公園につながるスロープを歩いて向かう。公園は思ったより
暗く、外灯も少ない。 
幸い月明かりがあり何とか輪郭はつかめる。北側は三保ダム
の堰堤が連なり、その一角にダムの暗いイリュミネーション
が見える。三方は黒い小高い山が迫っている。この広場はち
ょうど、すり鉢の底に当たっているようだ。しかも周辺には
小さな無人の発電所以外に建物はなく、完全に人目のない場
所となっている。・・・・黒い大きな物体が静かに中央の広場に
降り立った。これがUFOというものなのか。・・・・・
 船内の壁は半透明となり椅子に固定されているものの、行
きたい方へ身体を傾けるとその方向へ進んでいく。船はジェ
ットコースターのように上下左右に驀進し、しかも急発進、
急停止も自由自在である。重力制御装置のせいか、加速度を
感じず、従って乗り物酔いのような不快感もなく、彼は少年
のようにはしゃぎまくった。まるでピーターパンのように。
 船は丹沢湖の上空を舞って、山北町の夜景を下に見て一気
に上昇する。遠くに小田原市街だろうか、美しい光の帯が見
える。・・・・・──

 そんな山北町中川に引越しを果たす。マー爺さんは、第2
の人生をスタートさせ、奥さんは念願だった土いじりが出来
ると大喜び。建物は築45年の平屋(次の写真)で、建坪は
20坪足らずだが、100坪近くの庭がある。奥さんはそこ
で家庭菜園を作り、花や野菜などを育てることになる。
 農家のためか部屋は広く、間取りは8畳間2つ、6畳間1
つ、土間、台所、風呂場、トイレがあり、棟続きに蔵のよう
な広い納屋があった。それと庭の一角に、もう使われていな


 
い「ボットン便所」(臭くな~い)がポッンと建っており、
多分、畑の肥料にでも使っていたのだろう。以前、住んでい
たビルはRC造(鉄筋コンクリート)5階建てで、新耐震基
準の建物であるが、ここの建物は大きな地震には一たまりも
ないだろう。借家では勝手に耐震工事は出来ないし、やって
も無駄のようにも思えた。東北大震災のこともあり、奥さん
と相談して、いざという時は納屋に逃げ込むようにし、頑丈
な扉は普段から開放しておくようにした。災害緊急セット、
水や非常食なども納屋に棚を付けて備蓄し、そしてマー爺さ
んの大事なモーパラセットも収めた。それともう一つ、入り
口近くに水道洗い場があり、そこには井戸があったことであ
る。都会人にとっては妙に懐かしく、これも災害時には役立
つだろうと思った。
 引越しも一段落して、マー爺さんは多分「終の棲家」にな
るであろう中川の町を知っておこうと、さっそく散策にで
る。これにはモーパラの適当な発着場を探す目的もあった。
 家から歩いて数分の所に「中川温泉」があり、町営温泉
「ぶなの湯」(写真上)がある。看板に入浴料700円とあ
るが、町民は400円。これで温泉三昧ができる。
 

 

 
 他に温泉旅館「河鹿荘」「蒼の山荘」、武田信玄の隠し湯
で知られる「信玄館」などがあった。温泉街は中川川沿い
(前頁写真下)に広がり、川沿いに県道76号線が通る。
 富士急湘南交通のバス停「中川」がり、本数は少ない。近
くには「おざわ食品」というスーパーがあるが他に店は無さ
そう。川の上流に向かって更に歩いて行くと玄倉寺という寺
があり、そこから道は大きく右に曲がる。その途中に川を堰
き止めた小さな砂防ダムが2つあった。そこから500mほ
ど進むと、広い河川敷が見えた。周りに人家は無く、ここだ
と騒音で迷惑をかけることも無い。これで発着場の目星が着
いた。 
 家に帰り、奥さんに報告。「温泉安! ラッキー! 買い物
は不便だけど、足ッシー(マー爺の車)があるから問題ない
わ」との反応。今までの都会暮らしから山奥の暮らしを選ん
だ以上、不便は覚悟の上。むしろそれを楽しみたいマー爺さ
んであった。と言っても横浜までは東名高速を使うと、1時
間少々で行ってしまう。山北町はそれほど首都圏に近かっ
た。


 2 初フライト

 生活も落ち着き、奥さんは園芸に、マー爺さんは「ものか
き」、モーパラの手入れにいそしむ。ところでマー爺さん
の、モーパラのキャノピー(翼)の色は真っ赤で、赤い天馬
(ペガサス)のマークが入っている。ちなみに天馬は、中国
の風水によると、非常に縁起の良い、運と成功と繁栄をもた
らす動物で、すべての障害を迅速なスピードで着実に解決す
るお助けマン(?) とされている。後々、これがもとで、
“赤天のマー爺”と呼ばれるようになるのである。
 

 
 時節は10月の紅葉の季節を迎えていた。モーパラには絶
好の天気である。平日の朝8時、モーパラを車に積んで例の
河川敷に向かう。家を出る時、奥さんに無線の声を聞いてい
て欲しいと頼む。単独飛行のため、何かあったときの用心で
ある。いよいよ初フライトの時が来た。人や車の影はない。
 河原に吹流しを立て準備完了。勢いよくエンジンをかけ
る。「ブル~ブル~ブル~」とエンジン音が谷間に響き、
どういう訳か心臓がドキドキする。何かやけに大音響のよう
に感じ、辺りを見渡す。静かな朝のせいか、音が谷間に反響
して普段よりは強烈に聞こえるのだろう。飛び立ってすぐ左
にコースを取る。真っ直ぐ飛ぶと西丹沢大滝キャンプ場があ
る。初日なので余り目に触れないように、事前に調べておい
た屏風岩山方向へ向かう。足下に朝靄から目覚めた丹沢山系
の山々が広がり、木の香を含んだ風が頬に心地よい。山頂付
近まで来ると、右に旋回し権現山からユーシン渓谷方面へ。
 

 

 
 このユーシン渓谷は山北町の玄倉(くろくら)川にある渓
谷で、丹沢大山国定公園に属する。ユーシンという名称は、
明治初頭に小田原藩有信会の諸士が入植したことに由来する
そうである。渓谷沿いに緑と紅葉が入り乱れ、豪華な色絨毯
(前頁写真下)を見る様。そこから真っ直ぐ大杉山を通り、
発着地に戻る(巻末「山北町全図」コース1)。
 

 
 初フライトは何事も無く、無事終了する。その後、週一の
ペースで快適な空の散歩を楽しむ。山北の最大の魅力は何処
からでも富士山が見えることである。マー爺さんは大野山
(写真)からの景色が一番気に入っている。
 また、丹沢湖上空、高松山々頂からの眺めも四季折々の変
化があってまた味がある。眺めというと、丹沢山系は山だけ
でなく、滝も点在していて、空からの眺めはまた格別であ
る。一番近くの滝は西丹沢自然教室から、西沢沿いの上流に
ある落差50mの「大棚の滝」である。登山客がいない時
は、出来るだけ接近して滝のオゾンを胸いっぱい吸い込む。
 他に大滝沢沿いの2つの無名滝、世附川沿いの「夕滝」、
さらに足(翼)を伸ばすと、日本滝百選、かながわの景勝5
0選の「洒水(しゃすい)の滝」(次頁写真上)がある。
 

 
 またいつぞやは、川の上空を飛んでいて驚いたのか、数羽
のカワセミが飛び立ち、モーパラに近づいてきた。抗議して
いるのかしばらく一緒に飛ぶ。そういえば、デレビで*3
「鳥と一緒に飛ぶ」(下の写真)映像を見たことがあるが、
マー爺さんはミニ版ながら以前から願っていた、“鳥と一緒
に飛びたい”というまた一つの夢を実現した(鳥には悪かっ
たが)。


 
  
 3 住民の冷たい目

 そんなある日、山北警察(交番)から一本の電話が掛かっ
てくる。やり取りは次の様なものである。

「あなたはパラグライダーで中川川の上を飛んでましたか」
「ハイ、飛んでいます。何かクレームでも?」
「いいえ、そう言う事ではなく、不審がられたようです」

 そこで、文科省所管公益社団法人日本ハング・パラグライ
ディング連盟(JHF)に登録し、その技能証(パイロット
証)とフライヤー登録(第三者賠償責任保険)を持っている
こと。飛行ルールに従い、安全に迷惑を掛けないように飛ん
でいることなどを話す。

「そうでしたか。特にこちらから言うことは有りませんが、
 怪我の無いようにお願いします」
「分かりました。これからもフライトを続けますので、よろ
 しくご承知おき下さい」
 
 電話を切ってから、マー爺さんは、どうしてこちらが分か
ったんだろうと思った。河原に留めている車だろうか。車の
中を覗き込み、車番をメモする住民の姿を想像した。それと
も尾行されたのか。
 いずれにしても、このままではマズと感じた。どうするか
奥さんに相談してみる。「地元の人にも知ってもらったら」
とのこと。「知ってもらう・・・・」
 そうだ、町内会に入ろう。横浜の時は、子供会の役員の経
験があるのだから、ここでも何かやることがあるのでは。さ
っそく山北町役場に電話して、町内会の紹介をお願いする。
 すると、ここは山北町なので町内会ではなく、各地に自治
会があり、そちらは「中川自治会」とのこと。電話番号を聞
いて後日、自治会に電話して入会をお願いする。
 入会届けがてら、役員の人に話しておこうと、集会場にな
っている「箒沢地区公民館」を訪れる。ここは箒沢集落の地
域拠点で、公民館(下の写真)といっても民家造りである。
 

 
 数人の自治会役員さんが待っており、その中に会長さんも
いて、マー爺さんは恐縮して話しづらくなる。まず、山北町
の自然豊かな環境が素晴らしく、ここに住めてよかったこ
と。趣味の自動車旅行で山北町を訪れたこと。さらに、アマ
チュア作家として山北町を取り上げたこと、以前、町内会役
員をしていたこと(仕舞った!役員はよけいだった・・・、
しかし、時すでに遅し)などを話す。全員、無言で聞いてい
たが、役員をしていた話をした途端、皆の口元がほころぶ。
 いやな予感!おもむろに会長さんが口を開く。

「この度は入会いただいて有難うございます。歓迎します。
 出来れば自治会を手伝っていただけると有り難いです」

 入会手続きに来たのに、のっけから役員の話かいと思った
が、抑えてパラグライダーの話を切り出す。もうすでに話が
広がっているのか、途端に今度は真顔になる。マー爺さんは
一気に話す。
 
 ──パラグライダーは25年の長い歴史があり、国際的に
も普及した安全なスカイスポーツであること。飛行ルールに
則り、地域に迷惑のかからない様に活動していること。そし
て、自分も山北町の地勢を十分わきまえ、決して迷惑のかか
らないよう、配慮して飛ぶことを約束する。
 しばらく沈黙が続く・・・・・・、そこでもう一つ、

「役員の方は前向きに検討させていただきます」と言って、
とにかくその場を切り抜ける。雰囲気としては、とても理解
してもらえたとは思えなかった。これ以降のフライトは、よ
り気を付けて飛ぶようにする。そしてこまめに集会にも参加
した。そんなある日、マー爺さんに転機が訪れる。

第5章 確かな歩み

2011-08-05 17:37:52 | 日記

 
 1 活躍はじまる

 昨夜からの雷雨が嘘のように上がって、朝から快晴。マー
爺さんのフライト意欲がムクムク。あれ以来、飛行エリアは
山岳地帯を中心にしている。その日は、大杉山からユーシン
渓谷に出て、右旋回、玄倉川上流を横切り、丹沢湖上空を経
て、さらに右旋回して南の権現山を通って戻るというコース
(コース2)。ちょうど秦野峠付近を飛行していた時であ
る。平行して走る送電線の一塔(写真)から煙が出ているの
を発見。 多分、昨夜の雷雨の影響か。
 実は送電線トラブルのトップは雷で、全体の42・7%、
他に風雨・氷雪26・9%、鳥獣・樹木等接触12・6%な
どとなっている。
 

 
 この送電線は「新秦野線」と呼ばれるもので、新富士変電
所から新秦野変電所間約25㎞を繋いでいる。
 しかもその中を超々高圧500000ボルト(500K
v)の電流が流れている。すぐに無線で奥さんに連絡し、東
京電力に連絡するように伝える。必ず「秦野峠付近の鉄塔」
を付け加えることを忘れないようにと。

  
 ところで東北大震災以来、大停電を体験し、節電に関心が
集まる中、電力の安定供給のため、地味な送電線の保守・点
検の仕事が続けられている。大変な費用と労力を要する。こ
のため、定期的にヘリコプターでパトロールをしている。ま
た、災害発生時には臨時に実施するということである。
 後日、東電神奈川支社から来客がある。今回の件で、感謝
の言葉とお礼の品が送られた。発見が遅れたら停電のドブル
は避けられなかったという。マー爺さんはむしろ恐縮気味。
 悪い気分ではなかったが、この出来事が情報紙タウンニュ
ース「山北版」にも載る。これを機に、地元の人々の冷たい
目が、ガラッと変わる。河原でフライトの準備をしている
と、通りかかりの町びとから「お早うさん」の挨拶。飛んで
いると下で子供たちが手を振る。この住民からの暖かい対応
を、さらに決定づけるような事件が起きる。

 それから数週間後のことである。何日も長雨が続いた。前
を流れる中川川は増水し、川幅いっぱいの水で溢れそう。そ
の頃、上流では恐ろしい状況が刻々と進んでいた。中川川
は、丹沢山地北西部に位置する大室山(1588m)付近を
水源とする。県道76号線に沿って南流し、本棚の滝がある
西沢や大滝沢などと合流して、丹沢湖に注いでいる。 
 中川川は、マー爺さんが発着場として使っている河原を過
ぎると、大きくS字にカーブし、その先に西丹沢大滝キャン
プ場がある。さらに76号線に沿って上流へ進むと、左に箒
スギが見え、右に西丹沢コテージキャンプ場、途中に箒沢地
区公民館があり、これを過ぎて大石キャンプ場、奥箒沢山の
家、そしてその先に西丹沢自然教室がある。ここで川は三叉
に分かれ、本流は、遥か彼方の水源大室山へ。
 深刻な事態は右に曲がった東沢(支流)で起きていた。こ
の支流には4つの砂防ダムがあり、一番上流にある大きなダ
ムが土砂崩れで流出口が塞がれていたのである。
流れ込んだ土砂や倒木で出口を失った水は次第に溜まり、
小さな湖の様になっていた。いわゆる“堰止め湖”である。
 普通、堰き止められると流れが弱くなり、異変に気づくも
のであるが、この支流では2つの不運が重なった。
 一つは“堰止め湖”から西丹沢自然教室までに人家が無か
ったこと。二つに自然教室前の川は2つの川が合流し、流れ
の変化がさほど見られなかったことである。誰にも気づかれ
ず、“堰止め湖”は膨張を続けていた。マー爺さんは胸騒ぎ
を覚えていた。もちろん、上流での出来事は知る由もない
が、大体、こんな長雨の後は何かが起こることは知ってい
た。雨上がるのを待ってさっそく発着場へ急ぐ。
 しかし、河川敷は濁流にのまれていて、止む無く車を道の
端に留める。でもテイクオフをどうするか。モーパラの翼長
は約13mあり、とてもそんな場所は無い。仕方なく、一か
八かの方法を取ることにする。それは、いちばん広い河原の
ある土手まで移動し、翼を道路に沿って広げる。道幅は5m
くらいか、扇幅が2・5mなので半分隠れる。そして道端か
ら僅かに残る10mくらいの河原を利用して土手の斜面を駆
け下り、テイクオフしようというもの。
 一歩間違えればそのまま濁流の中に突っ込んで入水自殺す
ることになる。ジッと、キャノピーが立ち上がる風を待つ。
次の瞬間、天の恵みとも思える最適な風が谷間一帯を吹き抜
けた。マー爺さんは一気に土手を駆け下りる。アクセルを一
杯に引いてエンジン全開。機は濁流スレスレに舞い上がっ
た。しかし、足は濁流をかすめ、びしょ濡れに。それほど危
ういテイクオフだった。
 残っている人も多いのでは。川沿いに上流を目指す。まず
西丹沢大滝キャンプ場(写真)が見える。増水でさすがに河
原にはテントの影は無い。ただ、天気待ちなのかバンガロー
付近には人影がある。西丹沢コテージキャンプ場は山あいに
あるので問題ないか。



 次に大石キャンプ場。ここはバンガローまで河原にあって
かなり危ない。最後に西丹沢自然教室の上を飛ぶ。ここは施
設全体が河原の中にあってかなりヤバそう。しかし、上の流
れは意外に穏やか。テントの影さえ見える。だが何か変。
 特に右の支流の流れが極端に少ないのだ。上空から見てい
るからこそ、そのいが歴然と分かる。マー爺さんは右に舵を
とる。やがて目に飛び込んできたもの。それは今にも決壊し
そうな“堰止め湖”だった。思わず息をのみ、茫然と見つめ
る。その間、数秒か・・・、機は一瞬、バランスを失い横滑
りする。これが大きいと失失速する。必死に立て直し、キャ
ノピーの状態を見る。そこには空飛ぶ赤いペガサが。
 「すべての障害を迅速なスピードで着実に解決する」のが
ペガサスのはず。気を強く持ち、すぐに無線で奥さんに連
絡、急いで警察に知らせるよう頼む。マー爺さんは取って返
し、自然教室の上空へ。そして超低空で、必死に叫ぶ。

「ダム決壊で山津波が来る、逃げろ!・・・」。

 何度も上空を旋回して、叫び続ける。さすがに地上でも異
変に気づいたのか、避難し始めた。それを確かめたマー爺さ
んは下流に向かい、次々とキャンプ場の上空で叫ぶ。すでに
警察からの連絡が入ったのか、避難し始めていた。警察でも
マー爺さんは知られ、信用されていたようである。その頃、
箒沢集落や中川温泉卿などでは、防災無線スピーカーからけ
たたましく避難命令の放送がされていた。それを待っていた
かのように、上流の“堰止め湖”がついに決壊。おびただし
い土石流が一気に中川川を下る。河原のバンガローを押し流
し、橋を破壊し堤防も乗り越え
て、広範囲に浸水をもたらしたまさに東北地方の津波の惨状
のように。しかし、奇跡的に犠牲者は皆無で、数十人の怪我
人が出ただけだった。まさに奇跡である。
 これを契機に、マー爺さんの名は一躍有名になり、尊敬の
念を込めて“赤天のマー爺”と呼ばれるようになった。その
後も度々警察からの要請で、丹沢山系の「大杉山」に山菜取
りに入った遭難者の捜索にも加わる。
 警察庁から2010年6月8日に発表された「平成21年
中における山岳遭難の概況」によると、平成21年の全国の
山岳遭難は、発生件数、遭難者数、死者・行方不明者数とも
に、昭和36年以降、過去最高を示した。年々増加傾向にあ
り、特に40歳以上の遭難者数は最も多い。
 この時もモーパラの機能が遺憾なく発揮される。ヘリでは
接近しづらい谷あいや低空飛行など、まさに地面を這うよう
に探し回り、見事にマー爺が最初に発見する。


 2 嬉しいご褒美

 その後、警察や町議会、各行政機関から表彰の栄を受ける
が、地元、箒沢公民館で開かれた自治会の“慰労会”が一番
嬉しいものとなった。それと嬉しいことがもう一つ。マー爺
さんの家の裏は緩い斜面の崖で、そのまま裏山に続いてい
る。その崖の途中に一反(300坪)ほどの平坦な畑があ
る。今は使われずに空き地になっていたが、その地主さんが
モーパラの発着場に使って欲しいと申し出たのである。
 ここだと家から装備を付けてすぐ飛び立てる。危険な河原
からのテイクオフをしなくてすむ。地元の人々はモーパラの
騒音を承知の上で、マー爺さんの功績に応えようとしたの
だ。その後何度か、この新しい発着場から飛んだが、谷間に
響き渡るエンジン音にマー爺さん自身が耐えられなくなる。
 善意に甘えていられないという想いである。
 モーパラの出す騒音は道端で見かけるエンジン草刈機のよ
うな音で、90~110デシベル(電車の通るガード下)く
らいであるが、上空では60デシベル(乗用車の騒音)程度
になる。しかし、騒音は微妙で、人によっても聞こえ方は違
い、小さな音でも不快に感じたり、大きな音でも美音に感じ
たりする。
 

 
 その時の地元の人たちは、心強い天馬の嘶(いなな)きの
ように聞こえていたのかも知れない。悩んだ末、マー爺さん
は“電動モーパラ”(前頁写真)の存在を知り、購入するこ
とにする。今までのものを下取りに出し(20万円)、50
万円で購入する。騒音は1/3以下になり、高速回転の電動
ドリルのような音がする。重さはガソリンタンクやエンジン
始動用モーターが無い分、今度はバッテリー(3個)が重
く、余り変わらない。ただ、エンストが無く、飛行中のモー
ター停止、始動も自在である。滞空時間は30分程度。
 これでマー爺さんは気兼無しに飛ぶことが出来る様になっ
た。鳥のように飛び、鳥と共に飛ぶという夢を叶えたマー爺
さんにはもう一つ叶えたい夢があった。
それはピーターパンのように、夜の町の上空を飛びたいと
いうものだった。飛行ルール上、有視界飛行ができない夜
間、雪や雨の日も飛行は不適当とされる。もちろん、マー爺
さんはこれらのルールを厳格に守って飛行してきた。基本は
「安全に、他人に迷惑をかけない」が原則である。
 マー爺さんの持つP証は、離陸地点から5㎞以内を自己の
判断と責任で飛ぶことが出来る。5㎞範囲というと、最大丹
沢湖の上空までである。あの周辺には確か湖を囲む僅かだが
町並みがあったはず。後はすべて山々である。
電動モーパラは地上からは音があまり聞こえない低騒音で
ある。しかも5㎞圏内は飛び慣れている地域で、月明かりが
あれば十分安全も確保できる。少し物足りないが自己の判断
と責任で一回限りの夜間飛行を決行する。この時は、裏の発
着場ではなく、モーパラを車に積み、河原の発着場から飛び
立つ。離陸してすぐ、夜の空気の重いのに気づく。中々上昇
しないのである。これは昼間、地面が熱せられて上昇気流が
発生するのに対し、夜は逆になるためである。マー爺さんは
急いでアクセルを上げる。中川川沿いに丹沢湖を目指す。
 遠くに三保ダムのイリミネージョンが見え出す。「悲しい
異星人」では、地上から眺めたが、今日は上空からの眺めで
ある。UFOに乗って想像していた夜景が足の先で静かに流
れる。残念ながら、高度が低いのか山北町の夜景は見えなか
った。しかし、足下に広がる丹沢湖(写真)は淡い月の光に
照らされて、黒いビロードのように鈍く光り、その絶景に息
をのむ。ついにピーターパンの夢も果たす。クセになりそ
う!





 3 再び地域のために

 慰労会の席でもう一つ出た話がある。それは箒沢集落の苦
い被災の歴史や、現状が語られたのである。マー爺さんにと
って初めて聞く話だった。
 ──昭和47年(1972)7月の丹沢集中豪雨で、箒沢
地区で死者2人、行方不明2人、家屋流出14戸と一番の被
害を受けた。そして裏山の土砂崩れが起きた時、箒スギ(写
真)がこれをくい止め、箒沢集落を救ったと。──
 


 マー爺さんは思い出した。確か玄倉川の増水で中州にいた
人が流されたニュースをデレビで見たことを。
 
 ──玄倉川は、神奈川県足柄上郡山北町を流れる二級河川
で、酒匂川水系の支流である。1999年8月14日に、玄
倉川が大雨で増水、止む無くダムの放水を決定し、職員巡回
・サイレン等により避難を呼びかけた。これにより玄倉川で
キャンプをしていたほぼ全員が避難したが、事故現場にいた
21人中18人は再三の警告を無視。この後、全員避難終了
したものと思ったダムの担当者は放水を開始。結局最後まで
居座っていた18人のうち13人が死亡したという事故。
──
 このように、この一帯の河川は、これまでも増水で度々町
に洪水をもたらしていた。マー爺さんはこの時、中川川にや
たらと“砂防ダム”が多い理由を知る。また、相模トラフ西
側の「西相模湾断裂」と呼ばれる相模湾海底からの断層が、
ここ山北町付近まで伸びていること。そのため、今までM7
クラスの地震にも襲われていたのである。さらに現在の最大
の課題は、人口減少問題とのこと。山北町の人口は1199
0人、4222世帯(平成23年)で、65歳以上の高齢者
が3441人(28・7%)である。
 当然、外出が不便になることから、町では外出支援サービ
スとして、リフト付の移送用車両「おでかけ号」を運行して
いる。65歳以上の高齢者で、寝たきりの人や車椅子を必要
とする人、及び一般の交通機関を利用することが困難な人な
どを対象に、利用者の居宅と商店、銀行、障害者施設、医療
機関などとの間を送迎している。しかし、土日はなく、平日
夜6時まで、利用料金150円からと安いが、これは当然、
町の財政を圧迫している。
 また、利用申し込みが利用の1ヶ月前から7日前までで、
利用前に審査を受けるなど、すこぶる使い勝手が悪く、不便
さが伴う。山北町のうちで箒沢集落の人口は200人弱で、
65歳以上の高齢者は48%強で、*5限界集落ギリギリで
ある。ちなみに限界集落はこの率が50%以上をいう。


 
 箒沢集落(写真)を含む中川自治会も、その活動の維持に
四苦八苦していたのである。関わりを持たず、遠くから見て
いる分ではこの山北の自然は素晴らしく、住んでよかったと
思われるが、人の暮らしに関っていくと、色々なことが見え
てくるものである。それが人間の社会と言うものだろう。
 横浜での町内会のしこりで、少し距離を置こうとしていた
マー爺さんは、決意した。この地に骨を埋めるなら、この人
達と同苦しょう。それが本当の町民になるということだろ
う。そこで今度は自分も含め、高齢化問題に取り組んでみよ
うと、高齢者担当の役員を申し出る。
 産業は農業と林業関係が中心で、昔からの共同体としての
絆は健在であるものの、如何せん、“足の便”が深刻な問題
の一つだった。集落は山の斜面上に広がっている。段々畑
(次頁写真)をつなぐ細い道が通り、家の幾つかはそこから
更に細い道や階段が山頂に向かって伸びているのである。
 元気で野良仕事などをしていた頃は、さほど苦にならなか
った山道も、年齢と共にその過酷さが増していく。ましてや
身体に障害を持つお年寄りには地獄の道となった。
 

 
 当然、食料や日用品などは注文・配送となり、軽トラでも
運べない所は値段に割り増しされる始末。これでは益々お年
寄りの家計が圧迫されると、町では基準をつくり助成した
が、今度は町の財政を圧迫し完全にイタチゴッコ。そこでマ
ー爺さんは決意する。自分が辺ぴな所へ運ぼう。週一でよけ
れば、ボランティアで空の散歩がてら届けられる。
 さっそく提案すると、自治会から町役場へと伝わり、マー
爺さんに助成金を払いたいと言ってきた。固辞したが、結
局、助成の1/3の金額で引き受ける。対象のお年寄りは2
0数人で、どんなシステムが良いかさっそく検討に入る。
 モーパラは空を飛ぶので地上の道路事情など一切関係な
い。問題は離着陸地が有るか無いかである。少なくとも30
m四方の空き地が必要になる。しかし、それはどだい無理な
話。「耕して天に至る」の段々畑の地形である。如何するか
・・・、マー爺さんはアニメ“魔女の宅急便”を思い出す。

「そうだ! 飛びながら配送すればいいんだ」

 これがマー爺さんによる“マー爺の宅急便”が誕生した瞬
間である。この「マー爺の宅急便」システムはこうである。

①荷物は小包み専用で、速達便、割れ物、冷凍食品などは除
 く。
②荷物はお店からまず、マー爺さん宅に配送され、集積され
 る。
③荷物は配送宅別に仕分けされ、紐のついた番号札が付けら
 れる。
④雨など、天気の悪い日を除き、ほぼ週一のペースで配送さ
 れる。
⑤配送登録宅の庭などに、先端に登録番号の札がついた鯉の
 ぼり用の長いポールが立てられる。そして庭などに2メー
 トル四方のネット(ネット式)を張る。
⑥ポールは一軒一本であるが、数軒がまとまった地区では、
 数軒で共用の一本のポールとする。
⑦配送は、前もって配送バックに、紐のついた番号札だけを
 出して入れる。配送先の家の上空でポールの番号を確認
 し、番号札を引き出すと荷物も出て来る。それをネット目
 がけ て投下する。数が多い場合は、旋回して残りを投下
 する。
⑧荷物が弾まないようにネットは弛ませてあり、荷物は無
 事、受取人に届く。 
 
 実は、ネット式に決まるまで色々試行錯誤があった。玉入
れ籠式、フック引っ掛け式などが実験されたが、荷物がうま
く入らない、モーパラが引っかかる危険があるなど、けっき
ょく、ネット式に。
 このシステムが軌道に乗り始める。何といっても設備投資
など、お金がかからないし、モーパラが操縦できれば誰でも
出来るのである。そのうち荷物の量が増え始め、到底、週一
では処理仕切れなくなる。この頃、地元の商店二代目の若手
店主が、マー爺さんに賛同し、自身もモーパラの講習に参加
してパイロット技術証を獲得した。山間地に配送しても十
分、採算が取れ、むしろ売り上げを伸ばした。完全に商業配
送の実用化に成功したのである。
 これを機に、山北から始まった「マー爺の宅急便」は、神
奈川県から全国へと広がっていく。かくて、全国各地の過疎
化で悩む配送問題は、大幅に緩和されていくのである。

第6章 夢のパラグライダー

2011-08-04 17:44:13 | 日記

 
 1 鳥にも負けない

 平成26年、夢のモーパラが登場する。名付けてスーパー
パワー・パラ(SP─PG)である。これは最新鋭の電動モ
ーパラユニットに、ターボジェットの「キネティク・ジェッ
トパック」がついたものである。



その概容は次の様なものである。

○動力=電動モーターで、プロペラの改良を含め、超消音型
 になっている。従来のモーパラに比べ、十分の一デシベル
 以下の騒音に抑えられている。モーター音はピーンという
 高音で、プロペラの風切り音も耳障りではない。緊急時に
 は、2バルブ・ターボジェットの併用により、約10分間
 の高速飛行(80㎞/時)が可能。従来のモーパラは凄ま
 じい爆音で騒音を撒き散らし、住民から苦情が出たり、放
 牧地では牛が驚いたり、乳の出が悪くなるなどのトラブル
 があった。しかし、それらは操縦者のマナー違反であり、
 正規に飛んでいれば起きないことである。
  それがSP─PGの登場で完全に解消され、さらに画期
 的な機能が加わった。従来のモーパラでは不可能とされて
 きた“ホバリング”(空中静止や垂直離発着)が可能にな
 ったのである。あのヘリコプターの得意技である。これは
 電動モーターユニットとターボジェットユニットが組み合
 わされ、それぞれに角度可変装置が付けられたことであ
る。整風フード付き電動モーターユニットは、プロペラの
 回転で真後ろに風を送って前進するが、これを飛行中に真
 上に向ける。これにより吹き上がる風でキャノピーは崩れ
 ない。ただスピートが落ちて揚力を失い下降し始める。
  この時、ターボジェットユニット可変装置を下に向けて
 噴射する。これにより空中で静止できる。前進、後退はこ
 の装置の角度を変え、左右への操縦はブレークコードで調
 整する。

○バッテリー・充電システム=バッテリーは電気自動車の普
 及によってもたらされた、小型・軽量の改良型リチウムイ
 オン充電池で最大2時間の飛行が可能。充電システムは最
 先端の有機薄膜太陽電池からの発電で充電される。 
  近年、この発電素子を布にコーティグできる技術が開発
 され、キャノピー(翼)にコーティグされ、全体がフレキ
 シブルな繊維発電パネルとなった。この素子は低コスト、
 軽量、カラフルで、発電効率は170W/㎡、翼長13m 
 翼幅2・5m 翼面積32・5㎡で全翼面積当り約5・5
 キロワットとなる。この充電効果のため、連続4時間以上
 の飛行時間が実現した。

○安全装置=パラグライダー自体がすでにパラシュートで、
 予備のパラシュート(レスキュー)の装着で、墜落による
 事故率を更に低減させている。高度30m以下ではパラシ
 ュートが開くのに間に合わない。そこで、予めターボジェ
 ットユニットを下向きにしておき、いざという時、ジェッ
 ト噴射で軟着陸する。さらにSP─PGには自動車にも付
 けられている「エアバック」が装備され、3重の安全装置
 を備えている。また一方でモーパラの死亡事故は、着水に
 よる溺死が圧倒的であったが、着水時に「エアバック」を
 膨らますことで溺死も防げる。これらの改良・改善により、
 SP─PGはより安全性を増し、レジャースポーツだけで
 なく、汎用機として活用されるようになった。

 山北町から発信されたマー爺さんの活躍は、全国に知られ
る様になる。これまでも地道な研鑽を続け、クロスカントリ
ー(XC証)とタンデムの技能証をとり、無線機も小電力無
線機からスカイレジャー無線の免許を取得していた。そして
SP─PGも購入する。 
 そんな平成26年秋、関東・東海地方に大地震が襲う。ち
ょうど昼食をとっていた時で、奥さんの携帯電話の「緊急地
震速報」がけたたましく鳴る。2人は一瞬目を合わせ、慌て
て納屋に駆け込む。次の瞬間、激しい揺れが。いわゆる「東
南海地震」と連動したマグニチュード8・5、震度6強の
「東海地震」であった。いつ起きても不思議ではなかった巨
大地震がついに発生したのである。すぐ重い扉を閉め、納屋
の柱に摑まって揺れが収まるのを待つ。
 外から屋根瓦が落ち、割れる音が聞こえてくる。納屋の天
井からも土埃が幾筋も降ってくる。願うことは、この納屋だ
けでも持ち堪えて欲しいということ。2~3分後、やっと地
震が収まる。2人にとくに怪我などはなく、恐る恐る扉を開
けて家の中を見てみる。凄まじい惨状を覚悟していたが、食
べかけていた茶ぶ台が食器ごと飛び散らかり、タンスや棚の
上の物が落ちていたが、部屋は無事だった。後で分かったこ
とであるが、棟続きの頑丈な納屋が建物全体の倒壊を防いで
いたのである。やるジャン! 「納屋爺!」
 ともかく納屋のお陰で2人の命は救われた。思わずマー爺
さんは、感謝の思いを込めて“古老”のような納屋をそう呼
んだのである。しかし、屋根瓦は大半ずり落ちて庭に散乱し
ていた。でもこの程度で済んでよかった、安堵の気持ちがこ
み上げた瞬間、マー爺さんの脳裏に、3年前の東日本大震災
の記憶が甦る。津波だ、海に行かねば!


 2 災害現場に急げ

 奥さんに今から小田原の海岸に行くことを告げる。SP─
PGで上空から津波の警戒をするためである。デレビで津波
に流される人々に、ともに涙した奥さんは、コクッと頷く。
 自分の不安より、夫が活躍してくれることを信じる奥さん
だった。すぐに納屋からSP─PGを持ち出し、損傷がない
かチェック。準備が出来ると、奥さんに余震の注意と、納屋
から出ないこと。無線機のスイッチをONにしておくことを
頼む。別れ際、奥さんの手を両手で固く握り締めた。
 すぐに裏手にある発着場に急ぐ。神は地上に試練を与えた
が、快晴で風も無く、空にはまさに慈悲の光を与えた。目指
すは小田原漁港(次頁写真)。この漁港は、相模湾の西部、
早川河口右岸に位置し、周辺には飲食店や水産物のみやげ物
店、釣船の船宿などが軒を並べている。最も規模が大きく、
地区外からの漁船も多く入港する。


 
 山北町から直線距離にして約16㎞余り。緊急時でもあり
直行することにする。飛び立つとすぐターボジェットも全開
させ、80㎞/時のスピードで山越えのため高度を400m
(標高900m)まで上げる。そして機を南東方向に向け、
山岳地帯を直線的に飛んで酒匂川を目指す。まず、戸沢の頭
(標高880m)を越え、丹沢湖の東端を横切り、高松山を
左に見て向原方面へ。やがて東名高速道路と御殿場線をまた
ぎ、酒匂川の上空に出た。ここからは高度を200mに落と
し、そのまま相模湾に。ほどなく早川河口上空に達した。 
 その間、約20分。もの凄いスピード!この間、無線で経
過を奥さんに連絡。余震が続いているとのこと。そのうち、
プッと切れる。多分、停電したのだろうが、少し気がかり。
 小田原漁港は、神奈川県地域防災計画で、災害時の海上輸
送拠点として位置づけられており、大型船舶(1千トン級)
の接岸が可能である。すでに平成15年7月には、緊急物資
などを輸送する大型船舶が接岸可能な新しい耐震強化岸壁
(水深5m)が完成し、大型船舶の接岸訓練も行われてい
る。しかし、肝心の防潮堤は貧弱である。南米・ペルーの大
地震津波の時、「津波警報」が出された小田原漁港では、海
面の変化も無く、釣り人や海の様子を見に来る人も多かった
という。真上を通る「西湘バイパス」が津波警報で通行止め
なのに、港には緊張感はゼロだったそうである。

 やがて漁港上空に来ると、下に何台かの消防車やパトカー
が見える。さすがに岸壁の広い駐車場には避難したのか、車
が見当たらない。そこを目がけてランディング(着陸)。
 突然舞い降りたモーパラに署員の人達は驚いた様子だった
が、すぐ目的を話し、スカイレジャー無線の交信周波数46
5・1875MHzを伝える。話では、すでに津波の第1波
が到達したようで、見ると魚市場の前まで冠水している。
 これから第2波、3波・・・と続く。普通、第2波、3波
になるにつれて津波が大きくなる傾向がある。すぐにテイク
オフ。直ちに高度を200mに上げて50㎞先の大島方面に
向かう。ここでマー爺さんは勘違いをしていた。
 高度を上げて先を見通す積りだったが、津波らしい波は見
えない。波しぶきをたて、盛り上がった波の帯が押し寄せて
くる、そんな光景は無いのである。外洋では津波の波高は数
十センチメートルから2m~3m程度であり、海面の変化は
きわめて小さい。津波が陸地に接近して水深が浅くなると、
速度が落ちて波長が短くなり、波高は大きくなるのである。
 マー爺さんは一気に高度を下げ、海面スレスレに飛ぶ。
モーパラならではの離れ業、カッコいい!
 しかし、津波らしい波は確認できない。20分ほど飛んだ
頃(陸地から約20㎞)、カゴメの大群を発見。何でもある
種の動物は、地震を予知したり、津波に反応するという。



 まさかカゴメが・・・?実はカゴメではなく、真下の海中
で変化が起こっていた。地震の影響で海底が変動し、たくさ
んの魚が海面付近に浮上していたのである。しばらくこの付
近を旋回することにする。そのうち、海面が急に盛り上がっ
た。慌てて急上昇。危なかった!
 マー爺さんは、津波が生まれる瞬間を目撃した多分、人類
最初の人間になったのでは。急いでGPSを取り出し、無線
でこの場所の緯度、経度を知らせる。普通、津波の速さは水
深に関係し、浅くなるほど遅くなる。(水深2000mでは
約500㎞/時、200mでは約160㎞/時、10mでは
約36㎞/時)。陸地から相模湾の20㎞沖までの平均水深
は100mで、陸地までは8分足らずで到達する。
 マー爺さんからの通報を受けた防災当局は、直ちに小田原
の4つの漁協及び太平洋沿岸の防災拠点に“津波襲来報”
(津波警報ではなく)を出す。
 とりあえずこれで所期の目的を果たし、ホッとする。と同
時に、急に山北町の奥さんのことが心配になってきた。無線
が途中で切れたが、本当に大丈夫だろうか。マー爺さんは再
び来た道(空)を急いで引き返した。飛行中、あることを思
い出す。
 3年前の東日本大震災の時、5階建てビルの最上階に住ん
でいたため、マー爺さんの家は大きく揺れた。奥さんは怯
え、おまけに停電、ガスや水道がストップ、トイレも使えな
くなり、ストレスが増して不安に拍車をかける。翌日、電力
は復旧したが、連日、テレビに映し出される被災地は悲惨な
状況で、やり切れない気持ちで見ていると余震。この繰り返
しで奥さんは精神的に完全に参ってしまう。それから一ヵ月
後、ほとぼりが冷めた頃、マー爺さんは道の駅ツアーを再開
する。年間の予定であり、GW前にぜひ出発したかった。
 それともう一つ、自粛ムードで観光地などが打撃を受けて
いたのである。マー爺さん自身、募金や節電などで災害地に
協力すれば、後は早く日常生活を取り戻すべきである。過度
の自粛は、返って経済を悪化させると思っていた。自ら“観
光地激励隊”として、4月12日から大分県、福岡県、佐賀
県へ。順調に周り、最後に長崎県に入った。夜、家に電話す
ると留守で、携帯電話をする。何と姉の家に具合が悪く来て
いるという。これは大変!
 その夜3時半、3日早く旅行を切り上げ、長崎から130
0㎞を18時間かけて夜九時に帰浜した。何というタフな
奴!家に着くと、そこには普段の気丈な姿からは想像できな
い奥さんがいた。思わず、「今夜は傍で寝てあげようか」、
「よけい寝れないわ」。ガク~、ガク~。それほど地震には
弱い奥さん、今度は直撃を受けたのだから・・・。


 3 箒沢集落が危ない

 やがて中川温泉の上空にやってきた。家が見えだす。何か
変だ? 庭に大勢の人の姿が見え、みんな手を振っている。
もしや歓迎の人並みか?思わず「あれがパリの灯だ」の歓迎
シーンを思い出し、胸が高鳴る。それにしても伝わるのは早
いものだ。やがて着陸し、家に近づいていくと、それは早と
ちりと分かる。格好悪~・・・・。実は手を振っていたので
はなく、必死に手招きしていたのだ。一体、何があったの
か。まさか奥さんの身に・・・・。
 

 
 この大地震は山北町にも甚大な被害を与え、県道76号線
の「新箒沢トンネル」(前頁写真)が土砂崩れで不通になっ
ていた。その先にある箒沢集落は完全に孤立したという。
 それでマー爺さんに急いで降りてきて、助けて欲しいと合
図を送っていたのである。どうやら奥さんは思ったより元気
なようで、一服する間もなく、マー爺さんは飛び立つ。
 上空から見ると数台の救急車や消防車が見える。当然、ト
ンネルはふさがれており、立ち往生。交通路は一本しかな
く、万事窮す。マー爺さんは一気にトンネルのある山(高さ
50m)を越え、箒沢集落へ。着陸するなり役員さんが駆け
寄って来る。聞くとお婆さん2人が重傷を負ったとのこと。
 すでに公民館に運ばれていた。そのうち一人はマー爺さん
とも顔見知りで、大怪我だった。集落には病院が無いので急
いで町まで運ばなければならない。なんとかタンデムで運べ
そうだが、搬送用のハーネスが無い。急いで取りに帰り、よ
り重傷のお婆さんから、まずトンネルの向こうで待つ救急車
まで運ぶことにする。

「お婆ちゃん、大丈夫。これからあの山を越えて向こうの救
 急車まで運ぶから。今、どこ痛い」
「有難うござます、赤天さん。こんな痛み、ちょっこら我慢
 できやす」

 気丈なお婆さんである。普通は寝かせて、身体を動かさな
いようにするのであるが、タンデムでは身体を起こして運ば
なければならない。

「お婆ちゃん、今からタンデムで運ぶから身体を起こしてこ
 の椅子に座ってもらうよ、大丈夫?」
「へーぇ・・・何? 痰出ん。大丈夫」
「違ゃーうの、僕がお婆ちゃんをダッコして運ぶの」
「ふぇー、ダッコ、わしゃ恥ずかしいが」
「よーし、まだ、そんな色気あるなら大丈夫」

 モーパラは慎重に離陸し、無事、向こうの救急車に引き渡
す。すぐとって返し、比較的傷の浅いお婆さんをモーパラに
乗せ、直接、町の救急病院まで送り届ける。送り届けるな
り、遂にマー爺さん自身もダウンしてしまう。昼食も満足に
食べられず、昼から5時間ぶっ続けで働き続けてきた。
 しかも緊張の災害救援である。さすがの73歳タフ爺さん
も力尽きたのだ。倒れたところが病院だったのが不幸中の幸
いとなる。たくさんの見舞いを頂くが、たかが過労の入院、
2日で退院となる。一週間後、トンネルが復旧し、町は落ち
着きを取り戻した。
 この後、テレビなどマスコミが押し寄せてくる。砂防ダム
決壊の時もそうであったが、テレビの取材は断っていた。自
身がビジュアル向きではないし、具体的な映像も無く、新聞
取材だけ応じた。しかし、今回はある条件を出して取材を受
ける。マー爺さんがテレビを敬遠するのにはある理由があっ
た。普通、良いことでテレビに出ることは名誉なことであ
り、親戚や友達に出演するチャンネルを知らせたりもする。
 かつてのマー爺さんはそうだった。それが「地レジ」への
切り替えを機に、パーソナルなテレビは持たなくなった。
 とにかく番組が面白くなく、下らないものが多いから。
時々、居間のテレビでニュースや特番を見る程度である。特
にインタビュー番組の質問の仕方など、そのデリカシーの無
さには腹が立つことが多い。自分もインタビューされたら、
あんなことになるのでは。しかし、今回は・・・・。
 その条件とは、「モーパラの正しい認識(冷たい目で見な
い)と、その多様な用途を紹介する」というもので、そのた
めの取材をお願いし、最後に、ちょっぴりマー爺さんの紹介
で終わるというもの。テレビ局側はマー爺さんの依頼を誠実
に実行し、全国放送でそれに応えた。
 マー爺さんは家の縁側から、すっかり元に戻った庭を見な
がら、引っ掛かっていたことを思い出す。小田原へ行ってい
た間、何があったか奥さんに聞いていなかったのである。無
線が切れ、その後一人で大変だったのでは・・・。しかし、
奥さんから返ってきた話は意外なものだった。

 ──無線が切れたのは停電のせいで、留守の間何度も余震
があった。以前のビル住まいと違い、ここは平屋で納屋爺の
お陰で、母屋は余り揺れないし、駆け込めば安心できた。昼
だったから停電も気にならず、水道が止まっても井戸水があ
り、ボットンだがトイレがあることで落ち着けた。それに家
庭菜園の野菜などがあることも心強かった。自然の中の生活
は逆に災害に強いかも。それと最も嬉しかったのは、地域の
人達が別な用事もあったが、心配して駆けつけてくれた人情
だと。──
 
 確かに、東北の地震後、電気の有り難さや、私達の生活が
電気に支えられていることを痛感させられた。裏を返せば、
いわゆる電化製品に囲まれた都市生活が、いかに災害に弱い
かである。マー爺さんは、原発はじめ、将来のエネルギー問
題を考える上で、何らかの教訓を得たように感じた。そして
勿論、人の絆、助け合いが大事であることも。

第7章 高い空から見えたもの

2011-08-03 11:48:58 | 日記

 
 1 空の先人たち

 マー少年が紙飛行機づくりに夢中になっていた頃、もう一
つ、憧れていたことがある。それは「ライト兄弟」のプロジ
ェクトに参加する夢である。自転車屋(写真左)をしながら
兄弟で研究を続け、1903年に飛行機による有人動力飛行
(写真右)に世界で初めて成功したのであるが、この自転車
屋をしていたことが飛行機づくりに貢献したともいう。
 

 
 マー少年は「タイムスリップ」してでも、この研究に参加
したいと思ったのである。自転車屋の仕事場で油にまみれ、
時間のたつのも忘れ、研究に実験に没頭する。どんなに心躍
ったことだろう。
 このライト兄弟の偉業は余りにも有名であるが、実はそれ
よりも早く、我が国において同じような挑戦をしていた人物
がいた。その名を「二宮忠八」(次頁写真左)という。ライ
ト兄弟に先駆けること10数年前、ゴム動力による「模型飛
行器」を製作。軍用として「飛行器」(次頁写真右)の実用
化を軍に申請したが不調に終わり、その後、独自に人間が乗
れる実用機の開発を目指したが完成には至らなかった。



 ライト兄弟や二宮忠八など、空の先覚者はすべて飛ぶ鳥を
見て、自分も鳥になりたいという衝動に駆られ、挑戦を開始
した。二宮忠八から更に遡ること400年ほど前、すでに飛
行装置としての「ヘリコプター」の原理を研究していた人が
いた。あのレオナルド・ダ・ヴィンチである。
 

 
 これは単なる趣味や憧れといった領域を超え、もっと根の
深いところ、例えば遺伝のような、更にいえば人類のDNA
に刻み付けられた本能の様なものかも知れない。そういえ
は、生命36億年の進化は魚類、両生類、爬虫類、哺乳類
(鳥類)と進み、人間の胎児の成長過程でもその痕跡が現れ
るという。エラ、水カキ、シッポ(以上痕跡器官)などがあ
り、鳥の翼とヒトの腕は共に前足の変化したもの(相同器
官)という。であるなら、マー少年がカラスの夢で飛び起き
たのも不思議ではない。


 2 ピーターパンの心

 あのティンカーベルが振りかけた粉は、人類が進化の過程
で味わった生身で“空を飛ぶ”と言う記憶を呼び覚ます魔法
の粉だったのでは。その感覚は、地上で言えば自動車の走り
よりオートバイの走り、飛行機やロケットの飛びではなく、
まさに風を切って飛ぶパラグライダーの飛びではなかった
か。パラグライダーは人類がたしかに鳥のように飛んでいた
というDNAを呼び覚ます“ティンカーベルの粉”だったの
である。けっきょく、ピーターパンの心とは、人間の内に秘
めたパワーによって、自在にこの世を飛び回ることが出来る
ということを教えているのでは・・・・・。
 東京タワーや、東京スカイツリーの特別展望台から、高所
恐怖症の人も地上450mの眺望を楽しむ。高い山に登れば
“そこに山があるから”といって、上へ上へと頂上を目指
す。大変な苦労をいとわず、ただ山頂からの絶景を見んがた
めに。それまでして人は高い所に登りたがる。何故・・・!
 これも人が鳥のDNAを持つ故なのか。マー爺さんはこれ
まで何度か飛行機に乗った際、離陸や着陸の際の窓外の景色
にやたらと惹かれた。地上の景色が「箱庭」のように広が
り、子供のように窓際ではしゃぐ。通路側の席になると不機
嫌になった。高いところからの景色を俯瞰図といい、いわゆ
る“鳥の目”の目線である。宇宙飛行士とまではいかない
が、地球の、大地の素晴らしさを目の当たりにし、誰でも感
動する。ただ、旅慣れた人はこの感動が薄らぐのか、シカト
して無関心である。
 マー爺さんが講習を受けた湘南SSSには、「ボランティ
ア子供遊覧」(イメージ写真)というのがあり、そのHPに
は次のようにある。
 


──大空を飛びたい! その楽しさを知ってもらいたい!
最初は緊張する子供たちも、一人がフワっと浮いて上空を通
過し元気よく手を振ってしまえば、たちまちみんなの瞳は輝
き、「私も飛びたい!」「僕も僕も!」賑やかな子供たちの
声がこだまします。そんな感動を味わってもらいたい。空を
飛ぶ楽しさを知ってもらいたい。湘南スカイスポーツスクー
ルでは、子供たちに空の面白さを気軽に体験してもらえるよ
う、ボランティア子供遊覧を定期的に行っております。──

 そして子供会、小学校・幼稚園・児童福祉施設など、親の
いない子供たち、親元を離れて施設で生活している子供たち
にも広く参加を呼びかけている。(無料、ただし保険料など
千円必要)。更に、

 ──多感な子供にとって、3次元空間の体験はこれからの
人生に大きな宝となる──と。

 何と素晴らしい取り組みだろう。マー爺さんは自分の体験
から、これを「ピーターパン体験」と呼んでいる。子供とい
わず、ぜひ大人にも体験してもらい、幼かった頃の純粋な夢
をもう一度呼び覚ましてはどうだろう。日々の暮らしで汚れ
た垢を一瞬でも洗い流して欲しい。よく、若いうちに海外旅
行や留学などの体験をした方がいいと聴く。異国で味わう異
文化の感動。パラグライダーは、まさに天空で味わう“鳥の
目”体験になるのである。
 時は過ぎ、モーパラ愛好者が急激に増え、つきものの空の
「無法者」も増えてくる。それを無くすため、モーパー(モ
ーパラ愛好者)のための“ピーターパン憲章”が制定され
た。モーパラを愛し、ピーターパンのように、平和と正義を
愛し人々に尽くすことを目的とする。憲章に誓うモーパーの
キャノピーには、*6エンブレムとしてのピーターパンのマ
ーク(次頁写真)が許され、大きな登録番号とともに染め抜
かれている。この憲章に背く行為をすると、登録証が剥奪さ
れ、モーパーから永久追放される。
 

 
 
 3 モーパラ時代来る

 モーパラの普及とその有用性が認められ、広く社会で活用
されるようになった。その主なものに次の様なものがある。

① 災害救援飛行隊
 SP─PGが一機150万円の時代となり、乗用車感覚で
買えるようになる。モーパラ愛好者も増え、その中から、災
害時に救援に当たるボランティアの飛行隊が誕生した。今ま
でも緊急時のアマチュア無線通信ネットワークや交通渋滞に
強いバイク隊などがあり、この飛行隊は直接、救援にあた
る。これにより民間の救援体制はより強化された。そのほか
に、自家用モーパラがあれば、津波からの避難が遅れても、
屋根から自力脱出も可能である。

② ドクター・モーパラ
 民間のモーパラ飛行隊に刺激され、各地の行政機関でも動
き出す。従来の「ドクター・ヘリ」はその有用性は高いもの
の、年間約2億円の運行経費に加え、ヘリ一機が4~5億円
で、まだ全国でも20数機の配備に留まっている。それにヘ
リの離着陸場所の問題もある。学校の校庭など救急車との引
継ぎ点(ランデブーポイント)の確保が必要になる。 
 結局、お金との相談になるが、命が懸かった問題である以
上、待ったなしである。この“ドクター・モーパラ”は、機
能においてはドクター・ヘリに遅れを取るものの、その安価
な点と機動性においては圧倒している。まず、価格はモーパ
ラ一機が150万円で、ヘリ一機分で333機買える。ヘリ
操縦士の養成に何年もかかり、費用は5百万円くらいか。 
 モーパラは、1年ほどの講習(30~40万円)で誰でも
飛べるようになる。ただ、救難活動となると、上級のタンデ
ム、クロスカントリー級の技能が必要で、2~3年の講習・
実技、100万円くらいの費用がかかるが。それと他に何と
いっても機敏性である。指令を受けると発着場に急ぎ、ユニ
ットを担げば即、飛び立てる。ものの2~3分。着陸場所も
30m四方の空き地があれば現場近くに離着陸できる。
 次にドクターであるが、自ら操縦するか、タンデム飛行で
運んでもらうかである。しかし、人数を確保するため、準医
師(高度の医療技術をもつ救急救命士)が各町村単位に1人
以上配置された。ドクター・ヘリが2県で1機の割合から見
ると、大変な密度である。これに災害救援飛行隊が加われ
ば、広域災害にも十分対応できる。

③ その他の救助
 PS─PGは垂直離着陸、ホバリングができることで、そ
の有用性が高い。例えば、高層ビル火災の場合、状況にもよ
るが、どんな超高層ビルでも、屋上に避難した人を一人ずつ
救助できる。またこの機能を使えば、山火事や山岳遭難、船
舶救難など、ヘリコプターがカバーできない部分で、活躍の
場は格段に広がる。

④ 赤天
 宅急便でお馴染みの「赤帽」の飛行版である。主に、全国
にある「限界集落」や僻地、離島などへの集配送が専門で、
もちろん「空の駅」はお得意さんである。とにかく道が無く
ても平気だし、荷物は一人50㎏前後ではあるが、2人で飛
ぶと100㎏を越え、十分採算は取れる。ただ、悪天候には
弱い。一方、過疎地の商店も独自に飛行便を持つようにな
る。ちなみに“赤天”はマー爺さんのトレードマークであっ
たが、快くその使用を許した。
 そのほか、郵便配達も山間地では大変な苦労がある。中国
の*7『山の郵便配達』という映画があった。日本に2泊3
日かけて配達する地域はないだろうが、実は日本にも似た話
があったのである。それは高橋賢太郎さん(76歳)という
人。物語(要約)は次の様なものである。

 ──高橋さんは倉ヶ谷集落で生まれ育ち、昭和23年、2
0歳で郵便局の臨時職員となる。高橋さんは先輩の後に付い
て歩き、郵便配達の仕事を習い始めた。赤い自転車に乗って、
颯爽と配達に回ることになる。しかし山間部では大変だっ
た。行きの郵便物が、倍以上の重さにも感じられる。やがて
オートバイ時代の到来。高橋さんは大長谷という山間部を担
当したが、冬期の配達の大変さは想像を超えた。配達先では
お年寄りも多く、暖かい言葉を添えて郵便物を渡す。
 それ以来、郵便物がなくても、お年寄りの家には必ず毎日
立ち寄るようにする。春5月、いい風が吹き、山桜や椿が山
に彩りを添える頃が、一番好きだという。昭和55年、過疎
が進む中、仁歩郵便局が八尾郵便局に統合されることになっ
た。これを機に、高橋さんは30年表彰を受けて退職。
 しかし、非常勤で引き続き、仁歩・大長谷地区を回る。
高橋さんは平成17年、76歳で辞める日まで50年間、
郵便配達を続けたのである。
 「一日も休んだことありませんちゃ。病気知らずです」と
いう健康の秘訣は、晩酌だけではなさそうだ。「朝はお早う
ございます、夜はご苦労さん」と、若いもん(息子家族)に
声をかける気遣いを忘れない好々爺である。(富山写真語
『なんと万華鏡』)より)──
 
 中国の配達人や高橋さんは稀な人々であり、ともに配達に
命を掛けた献身によって支えられた。しかし、モーパラポス
トマンはこの高いハードルを難なくクリアできる。むしろ僻
地になればなるほど、その本領を発揮する。しかも災害で道
路が使えなくなってもである。ただし、雨や強風の時は、配
達はお休みである。

⑤ 空の道
 マー爺さんが全国を自動車で旅した時、立ち寄るっていた
「道の駅」はすでに900余りあるが、普及したモーパラの
ために山岳地帯、沿岸部などに“空の駅”が設けられた。例
えば山岳地帯では、景色のよい山頂付近に、環境に配慮され
た50メートル四方の2段式高架パレット台がある。上層は
天然芝が張られた発着場で、フリーな離発着が可能。
 ユニークなのは一角に風洞式テイクオフ場があることであ
る。これは両方に開口部のあるカマボコ形ドームで、ここに
スタンバイ状態でモーパラが入ると、可動風向口から風が吹
き出し、キャノピーをつくる。やがて風向口は上方へ向き、
キャノピーもそのまま立ち上がる。風の影響を受けることな
く、後は、やや下りになったスロープを走ると、一方の開口
部から安定した状態のまま飛び出すことが出来る。 
 下層には眺望レストランや休憩室、整備・充電機場があ
る。天候急変による緊急避難所も兼ねている。これが適度の
距離を置いて、全国の山の尾根伝いに整備され、タンデム飛
行のファミリー客にも人気がある。

⑥ 空の高速道路
 モーパラの有用性はさらに高まり、スポーツレジャーの分
野から、一般の交通移動手段としても活用が始まった。全国
に張り巡らされた高速道路の上を飛ぶのである。何の設備投
資もいらない。ただ、SAごとにモーパラ発着場をつくるだ
けである。高速道の幅を中央分離帯とし、上り30m、下り
40mの上空を飛び、空間的に絶対交錯しないようになって
いる。あくまでも航空ルールーにそった飛び方である。従っ
て高速道路の真上は飛ばない。トンネル部分は山を迂回し
て、最も最適なコースを通る。あくまでも高速道路はガイド
ラインであり、周辺に迷惑をかけず、モーパラが安全に飛ぶ
ための措置である。かくて渋滞も排気ガスもなく、高速道路
代ゼロ円(空中使用料タダ)でどこまでも飛んで行ける。
 主要都市に近いSAにはモノレールが乗り入れており、モ
ーパラ客は装具を預けて市街地へと向かう。

⑦ 離島空の駅
 日本は島国と言われ、全国に大小6852の島
々がある。そのうち無人島は6415で、何とほとんどが無
人島なのである。その中から条件のよい島を選び、観光リゾ
ートの島にする。観光開発といってもそんなにお金はかから
ない。原則30m四方の空き地があれば済み、船着場も空港
も要らない。とにかく環境に優しく、安上がりなのである。
 モーパラの一般的な航続距離は平均約200㎞であるが、
1時間のフライト(距離30~40㎞)ごとに、洋上にPA
(休機場)がある。これは長さ30mほどの滑空路を持つ
「浮きフロート」で、まさに超ミニ空母といったところか。
 離発着のよい風向きを得るため、30mの滑空路は十字状
にクロスしていて、下層にはトイレ、緊急無線電話も備えて
いる。お金がかからないといっても、島にはレストランなど
の設備はある。ここのスタッフは嫌でも全員マイカー(モー
パラ)出勤で、その何人かはベテランの救命飛行隊員であ
る。連絡を受けるとすぐ飛び出せるようになっている。

⑧ 世界遺産空の旅
 世界遺産には空から眺めた方が何倍も美しく、楽しいもの
がある。日本には自然遺産である「白神山地」「屋久島」な
どがあるが、「知床」が空からの散策には最適かも。目を世
界に転ずると、それこそ観たい所がウジャウジャある。
 

 
 中国の「黄龍溝(こうりゅうこう)」(写真)。
 世界有数のカルスト地形で、石灰岩層が氷河に侵食されて
巨大な峡谷となっている。そこに石灰分の豊富な水が流れ続
けた結果、石灰華の沈殿したエメラルドグリーンの美しい石
灰華段をはじめ、黄金色に輝く石灰華の層、そして石灰華の
滝や谷が形成された。開放されているのは3・7㎞の遊歩道
だけで、ほんの一部である。これこそ空からの散策に適して
いる。またブラジルの「イグアスの滝」。
 この滝は北米のナイアガラの滝、アフリカのヴィクトリア
の滝と並んで世界3大瀑布に数えられている。これらは上空
からでないと、本当の雄大さや美しさは堪能できない。
 上空からというと南米・ペルーの「マチュピチュ遺跡」は
外せない。文字通り、天空都市とも呼ばれ、地上からの観光
とは違ってまた格別な趣きがある。そして最もお勧めなのは
「ナスカの地上絵」である。南米・ペルーのフマナ平原に広
がる地面に描かれた線。これは地上から見ても、何も面白く
ない。その他、世界遺産以外でも数を上げれば切が無い。し
かし一方で、どの観光地にも開発と自然保護という、頭の痛
い問題がある。多くの人々に観光地を見てもらいたいという
気持ちと、そのための開発が環境を傷めるとうこと。
 しかし、SP─PGはこの問題を一気に片付ける。そう、
道が要らないのである。排気ガスも騒音も無く、好きなだけ
ゆっくり見て周れる、自然に優しい観光なのである。しかも
観光客にも優しい。自然遺産の中には険しい山道など、目的
地に辿り着くまで大変な所も多い。しかし、またしてもSP
─PGはこの問題を一気に片付ける。子供からお年寄りま
で、タンデム飛行で、疲れず景観を楽しめる。しかも携帯観
光ガイド装置(国別音声案内器)で案内までしてくれる。

⑨ 国際空の駅
 「離島空の駅」は必然的に海外へ向かう。宇宙飛行士の毛
利衛さんは宇宙船から地球を見て、「宇宙からは国境は見え
なかった」と言ったそうだが、鳥にとっては国境も領土も関
係ない。渡り鳥はシベリアから日本、日本からフィリピン
へ。キョクアジサシは、北極圏ツンドラ地帯から南極周辺海
域へ約32000㎞を渡り、ハシボソミズナギドリは、オー
ストラリアから北太平洋を右回りしオーストラリアへ戻る、
31000㎞余りを移動する。この渡り鳥のために、ラムサ
ール条約によって158カ国、1832カ所の湿地が登録さ
れている。この湿地はいわば渡り鳥にとって“空の駅”であ
る。
 平成28年、日本、韓国、中国、台湾4カ国との間で「国
際空の駅」条約が締結された。各国は国際交流の一環とし
て、まず観光からと特別観光特区「国際空の駅」を創設した
のである。これは各国の沿岸部の景勝地を選び、モーパラ発
着場を持つ観光エリアをつくる。ビザ無し、写真入り観光許
可証だけで入出国が可能。エリアには文化交流館、レストラ
ン、お土産、物産館もあり、もちろん、免税である。
 ただし、このエリアから外には出ることは出来ない。やが
てこの「国際空の駅」は爆発的に全世界へ広がり、普段着の
人々の交流が、“世界平和”への架け橋として花を咲かせる
のである。

 ──今日も丹沢の山々を散策し、夕日とともに山北へ返る
元気なマー爺さんの姿(次頁写真)があった。いつまでも年
を取らないピーターパンのように・・・・・。

 


 
 
高い空から見えたもの

 それは緑なす大地と 輝く命の営み

高い空から見えたもの

 それは荒れ果てた大地と 哀しみに沈む人々

ペガサスは空を駆け そっと寄りそう

 いつもそばにいるよ いつも一緒だよ 

小鳥たちは飛び立ち 

 やがて不屈の羽と意志をもつ

高い空から見えたもの

 大地に映る雄々しき影と 金色(こんじき)の翼

不死鳥は誓う 苦難を乗り越え

 懐かしき故里(ふるさと)を 笑顔で満たさんことを


                      (終わり)

用語解説・山北町全図

2011-08-02 17:48:51 | 日記


*1「爆鳴気」=水素を集め、それに火を付けるとポンと音
 がして燃える。このとき水素と空気の割合を適切に混合す
 ると、非常に激しい爆発が起こる。このときの混合気体を
 水素爆鳴気という。福島原発の水素爆発は、この爆鳴気の
 大規模な爆発によるものである。

*2映画「遠い空の向こうに」=1999年に公開されたア
 メリカ実話映画。1957年10月ソ連から打ち上げられ
 た人類初の人工衛星を見たアメリカ合衆国、ウエスト・ヴ
 ァージニアの小さな炭坑の町の高校生4人が、ロケット作
 りに挑戦する。ロケット作りを通して、時にはぶつかり、
 また励まされながら成長していく過程を描いた映画。

*3鳥と飛ぶ=フランス人のクリスチャン・ムレクは超軽量
 飛行機に乗り、訓練されたカオジロガンとツルの群れと一
 緒に空を飛ぶパフォーマンスを見せた。環境保護活動家で
 もある彼はガン、ハクチョウ、ツルなどを訓練して共に空
 を飛行し、人々の渡り鳥保護への意識向上に努めている。

*4自故率=「平成13年度警察白書統計」災害における事
 故(負傷)率より。道路交通事故では1000人当り約9
 人が負傷する。パラグライダーではその1万分の1の確率
 である。SP─PGはさらにその100分の1である。

*5限界集落=過疎化などで人口の50%以上が65歳以上
 の高齢者になり、冠婚葬祭など社会的共同生活の維持が困
 難になった集落のことを指す。

*6エンブレム=観念または特定の人や物を表すのに使われ
 る図案。名誉、誓いを表わすシンボル。

*7「山の郵便配達」=1980年代初頭の中国湖南省西部
 の山間地。徒歩で2泊3日かかる山間部のコースを回る郵
 便配達員の物語。